2010年2月22日(月) メモ  宮古島砂川・狩俣・池間島          トップ(もくじ)へ




 
宮古島の砂川は『絵図郷土村帳』や『宮古八重山両島絵図帳』では、「おろか間切おろか村」と出てくる。砂川間切砂川村なので同村ということになる。近世紀には砂川間切の中心となった村と見られる。砂川の集落は乾隆36年(1771)の明和の大津波以前は、砂川元島遺跡は上比屋山遺跡の崖下の斜面にある。そこら一帯にあっために元島と呼ばれているようである。昭和49年から50年にかけて発掘調査が行われている。砂川元島の発掘調査で屋敷跡、石垣などが確認されている。また、その地に集落が形成されたのは、発掘された遺物から14世紀まで遡ることができるようである。(友利・砂川・新里・宮国は現在の集落は台地上にあるが、1771年の明和の大津波で海岸付近から移動したという:集落移動)

 「上比屋山遺跡」は14世紀~15世紀にかけての遺跡との報告である。集落移動の経過をどう見て行けばいいのか。上比屋山あたりに集落が発達し、崖の傾斜地の砂川元島へ移動し、明和の大津波で上比屋山に戻り、そこから現在地に移動したのか。あるいは明和の津波で一部が上比屋山に戻り、一部は現在地に移動。上比地屋山に移動した人々がさらに現在地に移動したと見ていいのか。近世に移動した人達のモトゥが上比地屋山内にあるマイウイピャームトゥやアミヌヤームトゥなどではないか。

 短時間での踏査なので、危ういが、砂川の村(ムラ)、ムトゥを中心とした集団、そしてムトゥや里(サトゥ)の移動、移動したムトゥや里の人々が故地に何を遺してきたか。ムトゥという集団と祭祀との関わり、さらに複数のムトゥやサトゥをまとめた村(ムラ)やムラレベルの祭祀との関わりを丁寧に見て行く必要がありそう。それと近世の「人頭税」との関わりも。(沖縄本島北部の村(ムラ)とマキヨ、一門や引などの集団、そして一門や引から出す神人、それとムラにあるウタキのイビ。共通するもの、異なるもの。そこから導き出していけるものが・・・。


   ▲ウイウスムトゥ(上比屋山内)                 ▲ウファデーラムトゥ(上比屋山内)


    ▲クスウイピャームトゥ(上比屋山内)      ▲その森の中にムトゥや屋敷跡や拝所などがある

 砂川では御嶽(オタキ)をムトゥと呼んでいる(「宮古島の祭祀組織」蒲田久子)。そこに①前ウイピヤ ②後ウチピャ ③ウイウス ④ウイダテ⑤パナタ ⑥タカギザマ ⑦テイラ ⑧前キサマ ⑨後キサマ ⑩マイヌヤー ⑪ミャード ⑫ピダモト ⑬イスキデの13のオタキが挙げられている。それらをムトゥと呼んでいるようである。

 森内にムトゥを要(かなめ)とした集団があり、その森全体がウタキ、ムトゥと呼ばれるのは、一族の旧家と見てよさそうである。それらのムトゥと呼ばれる複数の集団で村(ムラ)を構成していると言えそうである。ムトゥとは別に里(サトゥ)があり、それは複数のモトゥの集まりか。村の内部の小さな集団(マキ・マキヨ)に相当するものか。宮古の久松村は11里、平良の東仲宗根は17里からなっているという。このように宮古と沖縄本島(山原)の村の成り立ちを比較してみると、「近世の村」への変遷がみえてくる。

2010年2月20日(土)

 
宮古に着くと、早速狩俣と池間島へゆく。狩俣の集落には大きく四つのムトゥがあるという。四つのムトゥというのは、ウプグフムトゥ(大城元)とナーマムトゥ(仲間元)、ヂダディムトゥ(志立元)、ナーンミムトゥ(仲嶺元)である。狩俣は石垣で囲われ、三つの石門があったという。石垣内に集落を限定したという。人口が増えると他村に移したという。それは人頭税との関わりだろうか。与那国の久部良バーリが思い出される。

 狩俣から池間島へ。そこにもマジャムトゥ・マイヌヤームトゥ・アギマスムトゥ・マイザトムトゥなどのムトゥがあった。島尻の元島にも三軒のムトゥがあった。そこで詳細に記述することはでいないが、宮古の村(ムラ)を集落移動、ムラは複数の里(サトゥ)からなり、祭祀はサトゥを中心に行われるが、その中にはムラレベルにまとめられてのがありはしないか。例えば池間神社は散在するムトゥをまとめたのであろう。しかし、これまでの祭祀場も遺している。祭祀はサトゥと中心に行われる。

 集落が移動した時に故地に何を残しているのか。サトゥでありウブガーであったり、祭祀場や屋敷跡であったりする。宮古の村の一つひとつを村移動、集落移動、サトゥ、祭祀場など、そして祭祀を通してみると、沖縄本島北部では、ムラを中心とした祭祀となっている場面が多く見られるが、神人の継承や祭祀場と神人の関係をみると、沖縄本島北部では消えかかったのが、宮古の村々ではムトゥを中心とした祭祀が生きている。それは古琉球のムラの形を今に伝えているのではないか。それは沖縄本島の地割制度、先島の人頭税とも関わっているとみている。宮古の村のいくつか(狩俣・島尻・池間・飛鳥御嶽・野原・砂川・宮国元島・嘉手刈・保良・友寄など)を踏査しながらの印象である(もう少し整理してみたい)

 宮古島の五つの遠見跡をみた。『球陽』(尚賢王四年の条:1644年)に、以下のようにある。

  
「本国烽火アルコトナシ、或ハ貢船或ハ異国ノ船隻来ツテ外島ニ至ルヤ、只使ヲ遣ハシ、以テ為メニ其事ヲ禀報スルコトアルノミ。
   今番始メテ烽火ヲ中山ノ各処、併ニ諸島ニ張ツ。而シテ貢船二隻、久米、慶良間、渡名喜、粟国、伊江、葉壁等ノ島ニ回至スレバ、
   即チ烽火二炬ヲ焼ク。一隻ナレバ即チ烽火一炬ヲ焼ク。若シ異国ノ船隻アレバ、即チ烽火二炬ヲ焼ク。転次伝ヘ焼キ、以テ早ク中山
  ニ知ラスコトヲ為ス。」

 
         ▲狩俣の遠見跡               ▲狩俣の遠見跡にある方位石

 
         ▲池間島の遠見跡                      ▲遠見跡への石段

 
           ▲島尻の遠見跡                   ▲遠見跡にある方位石


      ▲砂川の遠見跡(唐迎い岩)               ▲来間島の遠見跡への石積みの階段