2009.3.doitu
バジル・ホールがみた運天港付近
1816年に運天港(村)訪れたバジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』(岩波文庫)が、運天港をどうみたのか。これまで何度か引用(197~198頁)してきたが、少し19世紀初期の運天港周辺の外国人がみた様子をたどってみた。1816年頃の運天の風景が、今の運天にどれだけ見つけ出すことができるか。そのいくつかを画像に収めてみた。
この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。
垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂して、建物を日の光から完全にさえぎっていた。
浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていたが、われわれが入っていくと、茶と菓子でもてなしてくれた上、これ以後、自由に村へ出入りすることさえ認めてくれたのである。
この人々は、ライラ号が港に入るつもりがあるのかどうか、もし入港するなら、何日くらい滞在するのかを知りたがった。われわれはそれに対して、入港するつもりはない、と答えたのだが、だからといって喜びもしなければ残念がるわけでもなかった。
村の正面に平行して30フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。・・・全長約4分の1マイル(400m)ほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。
半円形をなす丘陵は、村を抱きかかえるとともに、その境界を示しているようであった。丘陵の大部分がけわしいが、とくに丘が港に落ち込む北端の岬では、80フィート(24m)のオーバーハングとなっている。崖の上部は、基部にくらべてきわだって広い。地面から急斜面を8~10フィート(2、3m)上がった位置に、堅い岩をうがって水平に回廊が切り開かれ、壁にむかっていくつもの小さい四角い穴が深く掘り込んであった。ここに死者の骨を入れた壷を収めるのである。
この断崖のふちからは木や蔓草が垂れ下り、下から生えている木々の梢とからみあって日除けを形づくり、回廊に深い陰影をなげかけている。・・・だがわれわれは突然、予想もしなかった死者たちの場所の神聖かつ陰惨な光景に行きあたってしまったのである。一行の陽気な気分は一瞬のうちにふきとんでしまった。この村は運天Oontingという名前である。・・・
われわれが発見したこのすばらしい港は、海軍大臣メルヴィル子爵を記念して、メルヴィル港と名付けられることになった。
▲集落東側の崖中腹の墓
▲運天集落東側の崖下の墓
▲崖の麓にある大北墓 ▲崖中腹にある百按司墓
2021年2月24日(水)
supein itaria
2001.1.8
2021年2月23日(火)
2016.3
2021年2月21日(日)
2021年2月20日(土)
国頭村辺野喜と奥まで。辺野喜ダムから周辺の森林と奥の集落後方のかつての段々畑跡を目視。辺野喜のチャンチャンクイジマク、奥のヌアグニウプシル前マクなどを念頭に。辺野喜ダムから周辺の山林を見、奥では奥川上流部の山、琉球大学の演習林一帯の茶畑の様子を望む。近世の杣山について見ているが、大正期からの山手の開墾を見ていく必要がありそう。今回、辺野喜の山地と奥の開墾についてと踏査。①ブエヌヤーカイクン(奥のアラマタ川上)②ジーブグヮ―カイクン(伊江川上流)③ウニンガーカイクン(辺野喜川上流・西銘岳南) ④アダンナカイクン(西銘岳の南西)⑤ヨコッパーカイクン(楚洲山:官有林)について、奥の島田氏を訪ねる。
▲辺野喜ダムから望んだ山々
▲奥の開墾(大正~戦後)
【国頭村のマク】『国頭村史』(宮城栄昌著)に整理されている。
そこには集落の発祥と関わるまくやカーやもりも。
・ユアゲマク(浜) ゆあげまく 古島加名良原の立初めの穴川
・マツガネマク(比地) まつがねまく アサギの背後のヨナンミ川
・カネマンマク(奥間) かねまんまく 東り(ノロ家)の前の金万御川
・イチフクノマク(辺土名) いちぷくのまく ノロ殿内の横のカー(井)
・スウトクマク(宇良) すうとくまく 宇良川川底内の湧水のところ
・ (伊地) あしみなまく 旧神アサギ付近の大川
・チャンチャンノユアゲモリノマク(与那) ちゃんちゃんのゆあげもりのまく 村落後方の後川(シーリガー)
・チイルサカルマク(謝敷) ちいるさかるまく 根神屋背後の神川、上の川
・コウボウマク(謝敷) こうぼうまく 佐手の上の湧水
・チャンチャンノクイジマク(辺野喜) ちゃんちゃんのくいじまく 根神屋背後のシーリガー
・ニシムイニダケノマク(宇嘉) にしむいにしだけのまく 北嶽南の天川
・アシモト(アシモリ)ノマク(辺戸) あしもと(あしもり)のまく アフリ嶽下方の大川
・ヌアグニウウブシルウジョウノ前マク(奥) みやげもいいびしる御門の前のまく 前の坂の湧水
・オウジマク(楚洲) おうじまく
・アダカモリマク(安田) あだかもりまく アサギ後の穴川
・オウジマク(安波)
2003.7.27(日)
【崎山の神ハサギ葺き】
崎山区民は朝早くから神ハサギの桁打ちに取り掛かっています。神ハサギは自分達の誇りとするものとの意識が伝わってきます。通勤途中寄ってきたが、これからまた撮影・記録に出ます。午前中で作業終るかな?茅のせは明日です!!
下の画像は今日の午前中の作業である(午前中で作業終了)。明日は、これに茅をのせます。現場で専門用語を使っているが、なかなか理解できず。スミリン・エイリン・メケィリンやフラカムイ・ヤナハイ・イリチャ・プームスビなどの名称は、改めて教えを請うことにする。
【2003.7.27の作業】
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午前8時には作業に入る。昨日の続きでキチ(桁)を打ち付ける作業中。縦の棒(桁)はディヌと呼んでいるようだ。本ギタ(八本の石柱の上に置かれる四本の桁)に穴をあけ棟木にいく8本はヤリデゥヌという。 |
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クンジャンダキ(国頭竹)を二本づつ棕櫚縄で編んでいく。さらにアンムンをキチにプームスビで結わえていく。アンムンは茅がもれないようにするためである。編目も見た目がいいように、バランスをとる。丁寧さや出来栄えに影響するようだ。プームスビの指導もなされる。頭を使うとダメのようだ。横棒はヤナハナ? |
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アンムンlを編む作業。このアンムン(編物?)は屋根の頂上部の半円部の茅を包み込むのに使う。棕櫚縄を三本並行にして国頭竹を二本づつ編んでいく。全体の長さ195cm、中央部と、その左右70cmのところを棕櫚縄で編む。 |
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今日午前中の作業はここまでである。茅のせできるまでの作業は完了。明日屋根に茅をのせる作業がある。大工をはじめ作業に加わった方々は、プロ並みだと自画自賛。 |
2003.7.29(火)
28日(月)午前9時半頃にクンジャダキ(国頭竹)が到着し、崎山の神ハサギの屋根に茅のせが始まった。各地の神アサギはトップページから「山原の神アサギ」を参照下さい。山原の神アサギについては、報告書をだす予定。休止中の「山原の神アサギ」も起こさないといけませんね。山原地域はほぼ調査は終っているはずだ。恩納村や本部町は公にしてあると思ってみたら休眠中なり。
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2021年2月13日(土)
先日(2021年2月10日)、現名護市呉我の過去メモで触れた。呉我村の歴史をたどることで「方切」「村移動」、移動後の祭祀、神アサギ、御嶽(ウタキ)の設置などを再興する、しなければならない社会事情が見えてくる。
今帰仁村呉我山に呉我の故地で「古呉我原」と「古拝原」が今に伝えている。1636年頃まで、現在の呉我山には名護市の呉我の人々が呉我村として住んでいたことになる。その跡地に寄留してきた人移り住んだことになる。現在の呉我山の地は今帰仁間切→羽地間切→今帰仁間切へと「方切」(1690年頃と元文検地1736年)や村移動の歴史を持ち、両地にその名残を遺している。
現在の名護市呉我は道路の変更や公園が作られ大きく変わる。(詳細は今帰仁村呉我山で触れる)
▲呉我のビーガー(現在)▲ビーダー(神田)跡
▲我の神アサギ(現在) ▲ウタキのイブヌメー ▲イビへの階段
▲移転碑200年昭和12年 ▲呉我山から移転250年記念碑
2021年2月12日(金)
19年前南大東島を訪れている。もう訪れることはないだろう。北大東島は飛行機で中継で一時間足らず。興味深いことに気づいたがまとめることが出来なかったので、記憶をよみがえらすことに。
2002.10.23(水)メモ
明日の南大東島行き大丈夫だろうか。数名の回数券チケット何故か私の方に送られてきているじゃないか。信用あってのことだろうと思うのだが。来月、マットウバかどうか人間ドッグで頭の検査をすること知らないのだね。また、一番遠いのだ、空港まで。地域史の皆さん。朝5時に自宅を出ないと行けないな。言いたいこと書きましたので忘れないでしょう。早く片付け、徹夜なしにしましょうかね。
南大東島。はじめての島。あれ見つけ、それ見っけの島になるだろうか。八丈島と沖縄のチャンプルー文化だろうか。どん顔をした人たちが住んでいるのだろうか。大東島を見ることで足元の歴史文化を見ていくキーワードを見つけることができるだろうか。楽しみだ。先日行った先島の黒島が沖縄のアイルランドと言葉を発したが、大東島はどうだろうか。
明治25年は那覇港を出港した大有丸は天候が悪く運天港に停泊して大東島に発した記事があった。玉置時代と言われる八丈島出身の人物の登場がある。島の歴史はなかなか興味深いものがありそうだ。どんな歴史を歩んできたのかは、明日からの研修で学ぶこと多いであろう。島の人たちの表情はどのようものか。いい旅したいものだ。
2002.10.27(日)メモ
ウフアガリジマ(大東島)と呼ばれるように沖縄本島の東に浮かぶ大きな島という意味のようだ。今はダイトウジマと呼んでいる。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島から東の太平洋上に大きな島があるという認識が読み取れる。通りすがりや漂着した人たちが立ち寄った形跡はあるようだが、沖縄貝塚時代(縄文・弥生期)やグスク時代、そして近世に至って人々が長期に渡って居住した痕跡は確認されていないようだ。
南大東島の北港から北方に北大東島を見ることができる。案内してくれた教育委員会の宮城さんは「あの島に姉が嫁いでいるのですよ・・・・・・。目の前にみえますがね。ボートで渡れるのですが、先が見えず波が天井から落ちてくる感じですよ」と。島には自然の入江がなく、南の亀池港や西港などの港は人工的に陸側に入江を切り込んでつくってある。漁から入江の港に帰ってきたボートは、すぐクレーンで陸に吊り上げている様子を見た。島の周辺の海岸や港を一周していると、荒波や切り立った海岸が人を寄せ付けてこなかった大海に浮かぶ島の過酷な歴史の一面が伺える。
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▲海岸はいつも荒波だそうだ!▲直接外洋と接した港。接岸できません
切り立った断崖と押し寄せる荒波が人を寄せつけないが、島の内陸部は盆地状で幕(ハグ)と呼ばれる二重・三重にめぐらされた防潮風林が続き、そしていくつかの池があり大陸的な穏やかな島に一転する。驚いたのは交通情報やコマーシャルなどは東京からであった。沖縄情報は東京経由などで非常に少ないようだ。お嫁さんはフィリピン等外国人が多いという。(現在はどうだろうか?)学校は製糖工場立で戦後大東村立になったと聞かされ、島長は八丈島出身者で、戦後大東村となり戦後選挙になると沖縄出身者がなったという。沖縄からの移住者が多いため。
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▲内陸部にある池の一つ大池
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▲ほとんどが大規模なサトウキビ畑 ▲落ち着きをみせる石積みの建物
2021年2月10日(水)
移動した村と御嶽(ウタキ)-呉我】(2004年7月18日)
「移動村の御嶽(ウタキ)」については、④天底(1719年移動)を事例として紹介した。今朝立ち寄った羽地間切呉我村(現在名護市)も移動村の一例である。その呉我村が移動した地で御嶽をどう設置したのか。呉我は村移転200年や250年の記念祭を行い碑を建立している。
呉我は『琉球国高究帳』(1640年代)では今帰仁間切ごが村と出てくる。1713年の『琉球国由来記』では羽地間切呉我村として登場することから、羽地間切の村となったのは1690年頃だと考えている。現在地への村の移動は1736年であるから呉我山における御嶽と神名である。呉河之嶽 神名:イタオエクチワカ御イベとある。現在の御嶽のイベに同様に刻銘されている。
1736年に現在の今帰仁村呉我山地内にあった呉我村(この時は、羽地間切の内)が移転した。呉我・振慶名・我部・松田・桃原の五つの村が蔡温の山林政策で移動させられた。それは山林政策だけでなく、呉我は羽地大川下流域の開拓が狙いだったにちがいない。奈佐田川とフアマタガー(旧羽地大川)とが合流する一帯は呉我・古我知・我祖河の田が入り組んであった。呉我の村移動は、そのような未開拓地があったから移動が許されたのである(風水がどうかの前に)。
ここでのテーマは移動した村が御嶽をどうつくったかである。それと御嶽をつくる場合故地に向っているのかどうか。近世の移動村は御嶽をつくり、祭祀を継承している。御嶽の向きは必ずしも故地に向けていない。杜を御嶽とし高いところにイベを設けてある。呉我は麓に神アサギがある。アサギとセットで他の拝所の火神を祭ってある。稲穂が祭ってあった。イビの前に香炉が置かれ、その後方から急な坂の小道が御嶽のイベまでつながっている。村が移動すると新地で御嶽や神アサギをつくり、祭祀をしっかり継承している。因みに呉我は『琉球国由来記』以後、村移動があったが我部ノロの管轄の移動はなかった。
呉我村は我祖河村や古我知村地内に移転しており、呉我村に前の二か村の墓がある。呉我港と呼ぶところは、古我知港と呼ばれていた。呉我の耕作地(田畑)は集落の後方のウフェーを越えた旧羽地大川流域に広がる。
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▲呉我村250年と200年移転の記念碑 ▲呉我の御嶽からみた現在の集落
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▲後方の杜が御嶽、中央部が神アサギ ▲御嶽の頂上部にあるイベ
【我呉のヤーサグイ】(2005年7月31)
古宇利島から帰り際、旧羽地村呉我で行なわれているヤーサグイの祭祀を見る機会に恵まれた。ヤーサグイとサーザーウェーと共通する場面がいくつも見られる。この祭祀もウンジャミ(海神祭)がそうであったように、いくつかの祭祀や要素が組み込まれているのではないか。そんな印象を持つ。つまり、ここではウンジャミ、あそこではシニグやウプユミなどと。
古宇利島で旧暦の6月26日に行われるサーザーウェーは呉我ではヤーサグイと呼ばれているのではないか。古宇利島の旧家や新築家回り部分はヤーサグイと言ってもよさそうである(他にいくつか共通部分がある。まとめて報告する)。
呉我ではかつて七件の家々を太鼓を打ちながらまわっていた。
古宇利ではウンナヤー→ウチ神ヤー→新築の家→フンシヤー(1日目)
ムラヤー→ヌルヤー→新築の家→しちやぐやー→お宮(2日目)
(省略されている部分がある。かつては鼓を打っていた)
同じ日に行なわれる他の地域の祭祀と比較検討すると、祭祀の名称は異なるが共通性が見えてくる。名称は祭祀の一面を示しているに過ぎないことがわかる。
▲ピロシーの前の祈り ▲ヒートゥを捕獲する場面
【旧羽地村呉我のヤーサグイ】(現在名護市)
古宇利島からの帰る途中、呉我のアサギミャーで祭祀が行われているのと出会う。車をUターンさせ、「通りすがりですが見ていいですか?」「どうぞ、どうぞ」ということで参加。
雨が降り出したので神アサギへ移動する。アサギミャーに御座を敷き、白い神衣装を着た女の神人は一人。数員の呉我の方々。区長さんと書記さんが加わっているようだ。
「今日の行事はなんでしょうか?」と訪ねると「ヤーサグイですよ」と。漢字を充てると「屋探い」だろうか。籠(バーキ?)を二人担いて回る所作がある。小太鼓あり、一升瓶の泡盛二本。「旧暦6月26日に男神人、女神人総員で字内の七戸の家々を順次まわり、その家に神徳を授け、それに応えて、その家は神人を接待する行事である」(『呉我誌』)と。
古宇利島のサーザーウェーと重ね見ると、旧暦6月26日の祭祀の姿が見えてきそうである。ウンジャミ(海神祭)でもそうであったが、祭祀の名称が必ずしも本質をついていないのではないか(そのことは別にまとめることに)。祭祀の名称の語義から紐解くことはあまり意味をなさないのではないか。かつて神アサギがあった場所やヤーサグイのこと、そして女の神人は現在一人になっているなど、興味深い話をきくことができた。
▲呉我のアサギミャーで。バーキに神酒をいれて奉納する所作か(呉我)
▲雨が降り出したので神アサギ内で直会をする(呉我)
2021年2月8日(月)
昭和52年(1977)私東京から沖縄に帰郷した年である。大学で講義が始まるまで今帰仁の実家で仮住まい。二年間、今帰仁から首里にあった沖縄キリスト教短期大学で講義をしていた(四コマ)。キリ短での講義が終えると、隣接していた琉球大大学での言語研究センターの立ち上げに関わり、各地の言語調査をすることに。故仲宗根政善先生が北部調査のとき、何度か運転手したことがある。夏や春の休みは、名護市史(中村誠司氏)の専門員や時には名護市民になって手伝いをしていたことがあった。我あったが、その一つが「屋我グスク」の発掘である。40年前のことである。その後何度か訪れているが、現場がどうなっているのか確かめたくて足を運ぶ。
名護市(旧羽地)の屋我
2010(平成22)年9月24日(金)メモ
名護市(旧羽地間切)の屋我と鐃辺名、そして我部までゆく。屋我ノロドゥンチが何故鐃辺名にあるのか。ノロが鐃辺名から出てもノロの名称が変更されずにある(今帰仁村(間切)の中城ノロも諸喜田村に移っているが名称はそのまま中城ノロである)。そのこと史料を踏まえて考えてみる。
まず、屋我ノロが、いつ屋我村から頃鐃辺名村に移ったのか。屋我ノロが公儀ノロとして任命された時、羽地間切屋我村に居住していた家の人物、あるいは任命して屋我村に住んだということであろう。1625年(天啓五)の屋我ノロの辞令書がある。その時、「やかのろ」が屋我村に居住していたか明確に記されているわけではないが、屋我村に住んでいたのであろう。その後の『琉球国由来記』(1713年)に屋我巫女(ノロ)の記述をみると、「屋我巫火神」は屋我村にあり、屋我ノロは屋我村と鐃辺名村と済井出村の祭祀を掌っている。(1665年段階では屋我地島には屋賀島で一つ。屋我村・済井出・饒辺村の三か村、我部村は1736年屋我地島に移転)となるのは1713年であり、そこから屋我島に我屋村・る。村の集落は屋我グスク周辺にあったと見られる。屋我グスクを中心とした一帯は阿太伊でアテーと呼ばれる。アテーはアタイのことで集落の中心に付けられる地名である。移動前の屋我の集落の故地は、屋我グスクの周辺にあったとみてよさそう。そこにはヤガガーがありグスクとヤガガーを拝む祭祀がある。グスクにあがる近くに火神を祭った祠がある。祭祀場はお宮に統合されているが、ノロ火神は元の場所に残された一つではないか。グスク近くにある火神の祠は屋我ノロ火神の可能性がある。
屋我ノロが鐃辺名に移ったのはいつごろから。屋我ノロに関する明治の史料がある。明治26年段階で屋嘉ノロクモイは鐃辺名村に居住している。明治17年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」(田代安定)によると屋我村にノロクモイが一人いて、鐃辺名村に根神がいる。その頃、屋我ノロはまだ屋我村にいたということか。しかし、その前の「午年羽地按司様御初地入日記」(1870年)を見ると、羽地按司が管轄する羽地間切を訪問した時、屋我地御立願の三番目に「よひな」(鐃辺名)村の+-「のろこもい御火神」を訪れている。そのころ、のろこもい火神は鐃辺名村にあり、屋我村から鐃辺名村にノロが移り住んだ理由は、今のところ不明である。
証
羽地間切鐃辺名村三拾九番地平民
屋我ノロクモイ 玉那覇マカ
右ハ当社録仕払期ニ在テ生存シ当間切内ニ現住ノロクモイナルヲ証明ス
明治廿六年八月九日 羽地間切地頭代 嶋袋登嘉
国頭役所長 笹田征次郎殿
宮城栄昌氏のノロ調査を見ると、ノロは鐃辺名にあるノロドゥンチ、ノロ殿内の根屋、アシャギ、島の川三ヶ所、大てら二ヶ所、小てら一ヶ所、群松。屋我のアシャギ、屋我グスク、屋我ガーも拝んでいる。
明治32年の以下の資料(文書)と牛角の簪が一本保存されているようだ。
国頭郡羽地間切鐃辺名村平民
玉城喜三郎
外三名
明治三十二年二月廿八日付願
屋我ノロクモイ死亡跡役採用ノ件聞届
明治三十二年四月八日
沖縄県知事男爵 奈良原 繁 (沖縄県知事印)
【現在の屋我域】
▲羽地間切の屋嘉ノロ補任辞令書(1662年) ▲アテー(原)にある屋我グスク
▲屋我グスク入口付近にある火神の祠 ▲アテー原にあるヤガガー
【現在の鐃辺名域】
▲鐃辺名にあるノロドゥンチにある火神の祠 ▲ノロドゥンチの側にある神アサギ
屋我グスク(2008年9月2日(火)メモ)
「屋我地島の屋我グスク」(名護市)にゆく。周辺にヤマグラ、シジャン、ムディグサ、アマグシクムイなど、ウタキに適しそうな森がいくつもある。なぜ、屋我グスクのある杜をウタキ、あるいはグスクにしたのか。それは、集落の形成とウタキやグスクと密接な関係にあることがわかる。屋我は「集落移動とウタキ(グスク)」の事例である。
・ウタキがグスクと呼ばれる。
・屋我グスクあたりを古島という。
・屋我の集落は1858年(咸豊8)に古島から墨屋原に移動している。
・空堀とみられる場所がある。
・頂上部にイベがある。
・クバが目立ってある。
・周辺に屋我グスクに似たような森がいくつもある。
・麓にヤガガーがある。
・屋我ノロ管轄の村(ムラ)である(屋我ノロは饒平名村に住む)。
・屋我グスクは安太伊(アタイ)(原)に位置する(現在アタイに一軒もなし。集落移動の痕跡)。
・旧5月14日に屋我グスクに左縄をめぐらす。
・神アサギや神殿や舞台のある杜はウガミあるいはお宮ともいう。
・屋我の御嶽は『琉球国由来記』(1713年)で「屋我之嶽、神名:マレカ神根森城之御イベ」とあり、
その頃には御嶽とも城(グスク)とも呼ばれている。
・『沖縄島諸祭神祝女類別表』には「港屋嶽(イナトゥヤムイ)、村嶽(屋我グスクか)、ケシギキ嶽」がある。
▲中央の杜が屋我グスク ▲屋我グスクへの入り口(左縄)
▲頂上部に近い岩の下に香炉が置かれている ▲頂上部のイベ
▲ヤガガー ▲移動先に近い所にある神アサギ(ウガミ杜)
2021年2月7日(日)
手と足の目が衰え、ひっかけたり、蹴っ飛ばしたり。飽和状態の頭脳に隙間をつくらないと。
「寡黙庵」の庭の手入れ、畑地(地目)の草刈り。花見に訪れる方々の。「何を植えているのですか?」「遊びで草花を植えています」と。(草花の名称がわからず)
2021年2月6日(土)
桜の咲く今帰仁グスク内と周辺の屋敷跡や拝所を踏査。手にしているのコピー(文章)は昭和14年にまとめられた「御案内」(平敷兼仙先生)が教材用としてまとめた冊子である。それには「北山の歴史」や古琉球の辞令書やグスク案内、子守歌などが収められている。今では貴重な資料となっている。今では消え去ったもの、変わったもの、当時の様子を思いはせてみることに。「北山(今帰仁)の歴史」も。(以下の説明は平敷先生。一部省略、改め)
① 位 置
②親川の泉
城址に参詣せんと思う方は旧道を選んだ方がよい。興亡幾百年の歴史をいだく自然の姿を映しつゝ滾々と流れてつきない美しい泉。かっては城内の女郎や女官達の滑らかなのどかうるほしたであろう。今も尚、氏子等の最上の飲料水であり灌漑用水である。五月五日のウマチーになると村の乙女老女若衆老衆が万艦飾で参拝する。胸元に美しい曲線を描く北山乙女の願は如何に。
道は此所から始まるのだ。平滑な大理石が無雑作に敷きつられた急坂は九十九折に数町続く、あおげば枝振り美しい松並木が自然の日覆となって盛夏の過客を喜こばしめる。
③新旧の参道
山北今帰仁城址は今泊の東南学校より二一一六米。海拔二百余尺の丘上にあって、自然の要がいに、往時の覇者が腦すいをしぼつて、築き上げた山岳城である。
④供ノカネイ、ノロ殿内
道と旧道と合流したほとりに古色蒼然たる小祠がある。これは火の神を祭神とする。
⑤阿応理惠御殿
道を二曲り南伸すると、右方に樹齢百有余年ばかりの老松を垣にして一間方の阿応理惠御殿がある。祭神は火の神で(神体霊石)祭祀は城下阿応理惠按司家が司る。
⑥今帰仁ノロ殿内
阿応理惠御殿に詣うでる者は足を東南の小径に運ぶことを忘れない。境内三〇坪ばかり雑木鬱蒼たる中に霊気自ら迫る小祠がある。これがノロ殿内で祭神は火の神、神職は今帰仁ノロである。
⑦アタイ原
此の附近は往時今帰仁村(字今帰仁)部落のあったところで屋敷の跡も歴然としている。
?大鳥居
今は僅かに往時のおもかげをとどめて居るに過ぎない。三の丸の砦に故人の苦心をしのびながら足を運ぶこと二三分でも大鳥居だ。高十余米巾六米。一寸官幤社波の上宮のと
⑨平郎門
三株の老松の間から視線に入る荒城の追手門。幾百の歳月を重ねる中に原形は次第に失せて、もう破壞せられ破損した。
⑪二の丸の跡
平郎門を起点にして二の丸の石垣が彈力ある弓形を描いてミヌチバンタとハナクブの上方に伸びている。ない。あぜの千草も、ちぢに踏み枯らして なきわめいたので芋の莖を切るにせわしい手をしばし休めた親は、「近くのあぜまで来い」と庖丁を子供の方に向けて横に振った?とたん、これはしたり、如何なる魔術がかゝったのか、愛子の身体は真二つに切れてあけに染った。
⑪小守衛兵屯所の跡
二の丸内平郎門の東北は古来大隅と呼ばれている。ここは往時の守衛兵の、たまり場所(屯所)だったと云う。
⑫乙樽茶屋
自動車でドラヴエルする深窓の佳人も今を時めく歴々の煌
星も、はた亦、万年コンパスの雲水も北山を訪ふものは老松の陰の茶屋のべンチに一度は腰を下す様である。
⑬本丸の跡
平郎門より城内に足を運ぶと両側に丈余の石垣が続いて次第に奧に開けてゆとりのある平地となる比較的整つた石垣を背にして二、三株の松木の大樹がぬつと立っている。
⑭大庭の跡
本丸は参段になった平地で少くなくとも二〇アール位はあるだろう。竹の子のつぬぐむ三アール位の大庭を前に正面は二米程土台が上って更に平地が続いて居る。
⑮正殿の跡
十段の石階を大名の如く上る「こゝだらう。謝名の臣下、運天之子が矢種を盡して最後まで運徳王を守つたと云ふところは」。入口に、あをごけを着た石燈籠が、守られる樣にして方一間半の今帰仁城火の祠がある。
⑯山北今帰仁城監守来歴碑記 (長参尺九寸一分巾一尺四寸)
⑰物見櫓の跡
監守来歴碑の側から雑木の間を南にぬけると、物見台に出る。流石は物見櫓があったという所丈けに眼界が、ぱっと開けて、近く乙羽山系の翆黛に對し霊峯溘の嶽を右手に仰ぐばかりでなく城内の駈引は勿論、蟻の子一匹でも城壁に近寄らう ものなら直に発見されるに違いない城中月扱きの場听だ。
⑱志慶真門
眠下に自然の断崖を、たくみに利用して築かれた志慶真門を見る。此れはこの城の搦手なのだ。
⑲水上げの跡
敷地の東端から、はるか下の川辺まで斜に伸びた石階がある。これは城中に水を上げる仕掛のあつたところだそうな「参十年前此の水上げが崩壞した時、響音は遠く運天の番所まで達して昼食中の吏員を立たしめたらしいよ」と茶屋の主人は感慨深かそうに語るのであった。
⑳継の嶽
殿の跡を北にぬけると、こんもりと雑木の繁つた小さい御嶽がある。この御嶽は大古アマミクの作り給ひしものでテンツギノカナヒャプノ御いベ (天継金比屋威部)が鎮りいりますところである。
?内原(ウチハラ)の跡
天継の嶽を北に辿ると内原の跡に出る。点々ど顯れた、礎石より殿内の想像も難くはない。ここは女官部屋だそうな。
?史蹟保存碑
北殿の跡に史蹟保存碑がある。昭和四年十月沖繩史蹟保存会並城下今泊字民共力で設立されたもので碑表の文字は元帥東鄕平八郎閣下の御真筆を仰いだものである。
?副継の嶽
蹟保存碑のすぐ西隣に副継の御嶽がある。ここは天神ソいッギノいシス御いべの鎭りいますところである。あまつぎ、とは、天つぎの◇語で同様の意義だと言う。
?受 剣 石
副継の嶽の奥に落城の血涙をあびた、北山鎮護の体受剣石がある。一刀両断された方半米の手平たい石が其れだ。
2021年2月5日(金)
諸志ノロドンチ)には首里府よりの辞令が末だ沢山残っている(昭和十一年)。他にノロ家伝来の、おしどりの花活等古代研究のよい資料が残っている。
諸志ノロ(中グスクノロのこと)家の古辞令 諸喜田ノロ殿内にあり。以下同様
一、よなみねの大屋子の辞令
(前の文は破損している。宮城真治治先生の御話によると十三行程あっただろう)とのこと、
くひきなからミしやもちなつぼこりみかない
又四かためおけのせぢミかない
又一かためおけのはかミかない
ヌ一かためおけのおれずむミかない、
又一かため中らおけの正月ミかない
又一くひきミしやもちともに
又一かためおけのけぶりみかない
又五かためおけのきみかみのおやのミかない
又一くひきミしやもちともに
このふんのミかないは
上申あるべく
ふみそい申しちはふうち
もとはふたふたの大やくちの内より
一ミやくすくたに一まし
しよきたばる一
又一五ぬきちはたけ一おぼそ
ばる一
このふんのおやミかない又のろ
とぬしおきてかないともに
御ゆるしめされ候
一人よなみねの大屋こに
たまはり申し候
しよりよりよなみねの大屋く方へまいる
嘉靖四十二年七月十七日
▲嘉靖四十二年は西暦一五六三年
▲昭和十一年より三七四年前
二、うらさきめさしの辞令
(前の文は破そんしてよめない)
このふんのミかない
申あるべし
ふみそい申しちもとは
よねみねのうち、ま人ち
中くすくのおきてのちの内より
ひやらすくたに二まし
やせたばる、又かなはらばるともに、
又もとはくしけんのとのはらちのうちより
一、十五ぬきちはたけ三おぼそ
えつかたばる、又しけやまばる、又大たはる、とも
このふんのおやミかない
のろさとぬしおきてかないとも
おゆるしめされ候
一うらさきめさしに
たまはり申す
しょりよりうらさきめさしの 方へ まいる
万暦十四年五月九日
▲万暦十四年は西暦一五八六年
▲昭和十一年より三五一年前
三、たまくすくの大屋子の辞令
しよりの御ミ事
ミやきせん まぎりの
よなみねのさとぬしところ
一、六かりやたに四十九まし
よきたばる又をくろちかたばるともに
一、百四十ぬきちはたけ七おぼそ
やとうばる、又ひらのねばる又はなばる
又さきばる、又ながさこばる、又おえばるともに
よなみねの四十五ぬき
かないの大おきてとも
一人たまくすくの大屋こに
まはり申す
しよりよりたまくすくの大やこの方へ まいる
万暦二十年十月三日
▲万暦二十年は西暦一五九二年
▲昭和十一年より三六五年前
四、仲ぐすくのろの辞令
首里のおみこと
みやきせんまきりの
仲ぐすくのろは
一人もとののろのくわ
たまうしに
たまはり申す
ゆりよりまうしの方へ まいる
万暦三十三年九月十八日
▲万暦三十三年は西暦一六〇五年
▲昭和十一年より三三二年前
五、よなみねの大屋子の辞令
首里よりの御みこと
ミやきせんまぎりの
よなみねの大屋子は
くわしまてくぐに
下され候
暦四十年十二月八日
▲西暦一六一二年
▲昭和十一年より三二五年前
六、よなみねの大屋子の辞令
首里の御ミこと
今帰仁間切の
よなみねの大屋こは
一人今帰仁おどんの
もゝなみの大屋こに
たまはり申す
崇禎十六年十月三日
▲崇禎十六年は西暦一六四三年
▲昭和十一年より二九四年前
七、本部めざしの辞令
首里の御みこと
今帰仁間切の
本部めざしは
一人はるまいに
たまはり申す
順治十三年正月廿日
▲西暦一六五六年である
▲昭和十一年より三八〇年前
八、にしめさしの辞令
首里乃御ミ事
今帰仁間切
にしめさしは
一人與那嶺子に
たまはり申す
康熈三年甲辰四月四日
▲康熙三年は西暦一六六四年
▲昭和十一年より二七三年前
九、上間の大屋子の辞令
首里の御詔
今帰仁間切の
上間の大屋子は
與那嶺大屋子給之
寬文七年丁未四月九日
▲寬文は日本年号である。宮城真治先生の御話によるとそのころ摂政羽地王子向象賢は日本崇拝の方であるのでこれにも日本年号を使用せしめたのであろうと
▲寬文七年は西暦一六六七年
▲昭和十一年より二七〇年前である
2021年2月4日(木)
2021年2月3日(水)
2003.2.23(日)memo(平成10年10月5日から8日)加計呂麻島を訪ねている。
加計呂麻島に渡ったのは7日である。諸鈍・呑之浦・須子茂・木慈などのムラをまわった。一つ一つのムラについては、ノートを発見してから整理するとして、神アサギはなかなか興味深くみることができた。沖縄でいうウタキがオボツ山や神山となり、ノロ屋敷などもあり山原の集落形態に近い印象を持つことができた。
神アサギの建物は山原の建物と赴きが異なる部分がある。屋根が高く現在は床が敷かれている(大宜味村の根謝銘グスクの神アサギに近い)。古い茅葺屋根の神アシャゲは沖縄の古い神アサギとよく似ている。傍にはアサギナーに相当する広場があり加計呂麻では土俵が設けられたところがあった。加計呂麻島には神アシャゲとは別にトネヤと呼ばれている建物がある。気になる施設である。
薩摩の琉球侵攻後、与論島以北は薩摩の領地に組み込まれ、砂糖の生産から米作に切り替えさせられている。祭りそのものが大和的だなという印象が強く残っている。「油井の豊年祭」をみながら、しきりに琉球と薩摩の歴史や文化の「くさび論」を頭で展開していたように思う。一度では集落の地理的空間がほとんどつかんでいない。再度訪ねたい島である。
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▲武名の神アシャゲ(『かけろまの民俗』)
▲これは加計呂麻島の神アサギ。大宜味村の謝名城の神アサギの作りに似て。
当時にはすでに神アサギや古琉球の辞令書や祭祀用具(勾玉・衣装など)について下調べをすすめていた。『かけろまの民俗』や「奄美大島の村落構造と祭祀組織―加計呂麻島須子茂のノロ制度―」(ヨーゼフ・クライナー)などで。
それらの報告で加計呂麻島にも神アサギ(アシャゲ)があることは知っていたし、須古茂の古琉球の辞令書や衣装や勾玉なども是非見たいと思っていた。沖縄本島北部の神アサギと、どんな関わりがあるのか、また集落における沖縄での「ウタキ―神アサギ―集落」の軸線は、加計呂麻の集落ではどうなっているのか。目で確かめたかった。
シニグなどの祭祀を含めて「北山文化圏」が奄美の南側の加計呂麻島あたりにまで及んでいるのではないかと仮説の線引きをしたことがある。ノロ制度については1429年に三山(北山・中山・南山)が統一された後の統一国としての影響の被さりであるが、それがまた薩摩の琉球侵攻後どのような変遷をたどっていったのか。薩摩に組み込まれながら、400年という歳月が間もなくjやってくるのであるが古琉球的なものが今にどれほど伝えているのか。
2021年2月2日(火)
運天の集落への坂道。ウケメービラ(お粥坂)の言い伝えの坂道である。その道は、宿道(すくみち)は首里王府からの終点でもある。逆に運天番所(今帰仁間切番所)からのスタートの場所である。ウケメービラは運天集落(番所)への入り口である。大正13年に運天隧道(現運天トンネル)の開通でウケメービラは「源為朝公上陸址」記念碑への道筋となっている。下の1846年の絵図から運天集落への道筋が描かれている。
2003.5.24(土)メモ
運天の絵図のカラーコピーの提供があった(二枚)。一枚は運天の様子、フランス艦船に対応した琉球側の首里王府の役人や家来、番所役人?などの服装などを知る貴重な資料である。この資料の提供は「運天の歴史」議論を深めるものである。
「フランスにおける琉球関係資料の発掘とその基礎的研究」(研究者代表 赤嶺政信 琉球大学)に掲載されている写真資料のカラーコピーである。
カラーコピー資料は1846年6月の運天及び運天港のようすである。これより以前の1816年バジル・ホールが運天の様子を丁寧に文字で描写している。がこのように現在と比較してもわかるように、写実的に絵で描かれると当時の様子が一目瞭然である。後方の稜線や二本の道筋は現在でも確認できる。数件の茅葺屋根の家、海岸のコバテイシ、番所の門らしきもの、右手のサバニ、左手に見えるのは船着場か。『幕末日仏交流記』(フォルカード神父の琉球日記:中央文庫)やバイジル・ホールの『朝鮮・琉球航海記』(春名徹訳:岩波文庫)、それと『琉球と為朝』(菊池幽芳)などの運天の記録と合わせてみると、もっと読み込みが可能である。
▲1846年当時の運天及び運天港の様子
2021年2月1日(月)
【座間味島阿護の浦】
【座間味島番所山】
座間味島に番所山(地元の方はバンドゥクルと呼ぶ)があり、標高143.5mの山である。頂上部に烽火を上げた場所がある。「南北一列に三炬の烽火台が設置され」とあるが、二カ所は確認することができたが一カ所は未確認。
1644年始めて烽火を各処に設く(『球陽』)。
本国、烽火有ること無し。或いは貢船、或いは異国の船隻、外島に来到すれば、只、使を遣はして、以て
其の事を□報する為すること有り。今番、始めて烽火を中山の各処並びに諸外島に建つ。而して貢船二
隻、久米・慶良間・渡名喜・粟国・伊江・葉壁等の島に回至すれば、即ち烽火二炬を焼き、一隻なれば即ち
烽火一炬を焼く。若し異国船有ば、即ち三炬を焼き、転次へ焼きて、以て早く中山に知らしむるを為す。
番所山へ座間味の人々はマカー(座間味小中学校の後方の拝所)を側を通り、番所山まで歩いて登っている。「番所山へ行くには大変だったよ。でもそこに行くと美味しいのがあたるから」と座間味の年配の方の話。「鉄塔が見えるだろう。そこだよ」と教えてもらう。今では拝所となっている。
『閔山游草』(1873年)を見ると「阿佐村烽火台に登る」とあり、阿佐村からも番所山に登っている。
▲番所山にある烽火あげ場跡 ▲番所山にある烽火あげ場跡
▲阿佐集落の後方の山が番所山(右より鉄塔) ▲座間味集落からみた番所山(左側の鉄塔)