沖縄の地域調査研究

寡黙庵:(管理人:仲原)   今帰仁村歴史文化センター

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・山原の神行事(シニグ・海神祭

今帰仁按司と阿応理屋恵



2022年1月29日(

 2008年頃、「永良部阿応理屋恵按司佩用勾玉一連」の新聞記事を手にしている(コピー)。その永良部応理屋恵は沖永良部島に置かれたのではないか。それを確認したく沖永良部島を何度も訪れている。昨日の「奄美の大島に遺る古琉球の辞令書」を手がかりに奄美の首里王府の統治を描こうとするものである。辞令書には首里王府の役人の辞令がいくつもある。それと「なからのろ」あてんのろ」「たいくまのろ」「こしのろ」の辞令書」がある(須古茂の辞令は「のろ家」のものであるがのろ辞令ではない可能性があるため省いた)。1502年に八重山の大阿母神職と沖永良部比金職が設置されているので、沖永良部比金職は三十三君の一人で、上にあげた「のろ」はムラ(村)クラスの「のろ」と見られる。(詳細は別に)

 それの辞令書と永良部阿応理と村クラスののろ遺品を手がかりに奄美の琉球王府支配時代がえがけそうである。沖永良部島に数件に「のろ関係遺品」があり、また「沖ノロ」が辞令を賜ったことが家文書にあるようで、その「沖ノロ」が「沖永良部比金職」ではないか確認したいと思っている。

 永良部阿応理屋恵については「向姓家譜「(小禄家)に「室穆氏具志川親雲上昌女恵郎部部恵按司童名思戸金」天啓3年(1623年卒)とあり、平良墓に葬られている。叙任は1609年以前であろう。1537年や大島討伐の理由や島の状況をみていく必要がある。(時間がないので)

【古琉球の遺宝】
200872日(水)メモ

古琉球の遺宝
     県外流失を免がれ 郷土参考館へ所蔵
 県教育会郷土参考館では日本夏帽沖縄支部松原熊五郎氏秘蔵の
永良部阿応理屋恵の曲を今回三百円で譲り受け、永く郷土参考資料とすることになった。本品は元小禄御殿の伝宝にかかり同家大宗尚維衡(尚真大王長男)より四世に当る大具志頭王子朝盛の室永良部阿応理屋恵職の佩用したものとみられている。これに関し教育会主事島袋源一郎氏は語る。

 此曲玉は永良部阿応理屋恵職の佩用したものらしいもので同人は穆氏具志川親雲上昌娟の女で
童名思戸金と称し天啓三年に亡くなった人で永良部阿応理屋恵なる神職は小録御殿の家譜及び女官御双紙にも同人以外には見当たらないから慶長十四年島津氏琉球入の結果大島諸島は薩摩へさかれたので其後廃官になったものと思われる。

 しかし同家では尚維衡が王城を出られた時に持って出られたのだと伝えている中で、この曲玉は前年大に送うて調査の結果何れも曲玉の石の原産は南支地方であろうとのことで、曲玉は三個で水晶玉(白水晶と紫水晶)百一個が一聯になってをり、又と得がたき宝物であるが松原氏は数個所より高価をもって所望せらるるにもかかはらず、その県外流出を遺憾とし県教育会へ原価で提供されたもので、その心事は頗る立派なものだ(写真は得難き曲玉)。
 
  濱田博士絶讃
    本県最高の宝玉
     
 明日より郷土博物館に陳列
首里城内沖縄郷土博物館では来る二十日挙行される本県唯一の秋祭り沖縄神社祭を好機に明十五日より十一月十四日まで一ヶ月の予定で今帰仁村今泊向姓糸洲氏阿応理屋恵按司(涼傘をさす神職)所蔵の勾玉一聯(大形一、小形二十一、水晶玉一聯百十六個)の他左記数点を特別陳列することになっている。
 一、玉の草履一組、冠玉、玉の旨当等一式
 二、今帰仁村今泊。今帰仁のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金の簪一個。
 三、名護屋部のろくもい所蔵、勾玉一連、黄金のかみさし一個
 四、永良部阿応理屋恵按司佩用勾玉一連(勾玉大形二個、水晶白個)
 五、地方のろくもい勾玉一連、今帰仁村今泊阿応理屋恵按司所蔵、

 勾玉は今から
四百五十年以前尚真王時代のもので京都帝大濱田常博士が同種勾玉として全国に類例なく本県最高の宝玉であると絶讃した逸品である。



2022年1月28日(金)

 過去に奄美大島の加計呂麻島を訪れている。その時は、神アサギとシ二グがテーマとしていた。1609年以前の琉球的なものがどう遺っているかの確認であった。奄美の島々を歴史の視点で見ていくことができるのではないか。同時代史料の少ない時代を見ていく手がかりをさがしてきた。辞令書をとおして奄美の琉球国統治の時代を見ていく。

古琉球の時代に発給された辞令書と奄美

 首里王府が発給された辞令書は三山統一後、さらに第一王統から第二王統になった時代、尚真王時代に中央集権国家、さらには祭祀組織の編成がなされ、奄美もその統治下に組み込まれた時代がある(尚真王、中央集権と階級制度の確立:1478年)その時代と首里王府(琉球国)の歴史としてみていくことができる。沖永良部島と与論島に辞令が確認されていないが、のろの配置があったことが認められる。

  (工事中)

1350年 宮古・八重山中山へ入貢

・尚巴志三山(北山・中山・南山)の統一
・1500年 オヤケ赤蜂の乱
・1501年 仲宗根豊見親宮古頭職に就任
・1502年 八重山の大阿母神職と沖永良部比金職を設置

①1529年(嘉靖8年)「かさりまきりの うすくの大やこハ」
    笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令

●1531年 「おもろさうし」第一巻の編集

②1534年(嘉靖13)「せとうちひかまきりの 首里の大屋子ハ」
    瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令(年欠)

●1537年(尚清王元年)

    奄美大島を討伐する

●1539年 自奥渡上扱理に毛見彩任命

③1548年(嘉靖27年)「せとうちにしまきりの にしの大やこハ」
    瀬戸内西間切の西の大屋子職補任辞令
④1554年(嘉靖33年)「きゝやのしとおけまきりの 大くすくの大やこハ」
    喜界の志戸桶間切の大城大屋子職補任辞令
⑤1554年(嘉靖33年)「やけうちまきりの なおんのおきてハ」
    屋喜内間切の名音掟職補任辞令

⑥1554年(嘉靖33年)「やけうちまきりの なからのろハ」
    屋喜内間切の名柄掟職補任辞令
⑦1556年(嘉靖35年)「やきうちまきりの なからのおきてハ」
    屋喜内間切の名柄掟職補任辞令
⑧1568年(隆慶2年)「(かさりまきりの)かさ里のしより大やこハ」
    笠利の首里大屋子職補任辞令
⑨1568年(隆慶2年)「せとうちひかまぎりの しよりの大やこハ」
    瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令
➉1589年(隆慶3年)「ききやのひかまきりの あてんのろハ」
    鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令

1571年 尚元大島遠征、馬順徳国頭親方正格従軍

⑪1571年(隆慶5年)「せとうちひかまきりの あきにやめさしハ」
    瀬戸内間切の阿木名目差職補任辞令
⑫1572年(隆慶2年)「やけうちまきりの へれんの大やこハ」
    屋喜内間切の先原目差職補任辞令

⑬1572年(隆慶2年)やけうちまきりの やけうちの大やこハ)
    屋喜内間切の屋喜内大屋子職補任辞令
⑭1574年(萬暦2年)「せとうちにしまきりの すこものねたちへ」
    瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令
⑮1574年(萬暦2年)「せとうちにしまきりの すこものたるかち」
    瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令
⑯1574年(萬暦2年)「せとうちにしまきりのこしのさかい」
    瀬戸内西間切の須古茂のさかいへの知行安堵辞令
⑰154年(萬暦2年)「せとうちんしまきりの(未)」
    受給者不明 知行安堵辞令
⑱1579年(萬暦7年)「やけうちまきりの へれんの大やこハ」
    屋喜内間切の部連大屋子職補任辞令
⑲1579年(萬暦7年)「なせまきりも しよりの大やこハ」
    名瀬間切の首里大屋子職補任辞令
⑳1583年(萬暦11年)「やけうちまきりのなからのろハ」
   屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令
㉑1587年(萬暦15年)「なせまきりたいくまのろハ」
    名瀬間切の大熊のろ職補任辞令
㉒1588年(萬暦16年)「せとうちひかまきりの大やこハ」
    瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令

㉓1595年(萬暦23年)「せとうちにしまきりの にしのおきてハ」

    瀬戸内西間切の西掟職補任辞令書

㉔1600年(萬暦28年) 「とくのにしめまきり」
    徳之島間切の手々のろ職補任辞令
㉕1602年(萬暦30年)「せとうちにしまきりの こしのろハ」
    瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令
㉖1607年(萬暦34年)「きゝやのあらきまきりのてくつくの大やこハ」
       工事中
㉗1607年「(萬暦35年)「なせまきりのにしのさとぬしハ」
    名瀬間切の朝戸掟職補任辞令
㉘1609年(萬暦37年)「せとうちにしまきりのにし大やこハ」
     名瀬間切の西の大屋子職補任辞令
㉙1609年(萬暦37年)「なせまきりの にしのさとぬしハ」
    名瀬間切の西の里主補任辞令書

・1609年 島津氏の琉球征伐

・1611年 与論島・沖永良部島・徳之島・奄美渡島・喜界島を薩摩に分割
     薩摩、琉球の検地完了
・1614年 国頭按司正弥(国頭左頭)として薩摩へ赴く。

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

 古琉球(16世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたという石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。1611年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。


沖之永部島のノロの遺品(知名町)


2003.2.23()過去調査記録

 少し気分転換に奄美大島の加計呂麻島を机上で散歩してみましょうかね。加計呂麻島は奄美大島の南側に位置し、瀬戸内町に属している。机上とは言ったのであるが、沖縄県博物館協議会が瀬戸内町で開催されたとき(平成10105日から8日)加計呂麻島を訪ねている。

 平成10105日、みんなより一日早めに奄美に入り、瀬戸内町の油井の八月祭を見た記憶がある。大雨の中、瀬戸内町郷土館の学芸員をしている町氏が空港まで迎えにきてくれたことが思い出される。数名のメンバーがその祭りをみるために1日早めにくるだろうと思っていたら私一人だった。大雨の中、曇った窓ガラスをふきながら(クーラーの壊れた車だった?)工事中の道を二時間余りかかった。ほんとに今でも感謝していますよ。町さん。その時のノートがあるはずだが・・・。時の写真アルバムはありました。

 ノートは見つかりませんがアルバムから記憶jをたどってみましょうかね。平成10105日「油井の豊年祭」を見学している。他の博物館のメンバーは翌日に瀬戸内に入るとのこと。一人参加となった。来賓席に招かれて恐縮してしまった。やはり仕事柄座って見学とはいかず撮影と記録とりに動いています。

 八月踊りにはひょうきんな仕草があり、面をかぶっての踊りであった。到着前に綱引きや大和相撲は終わっていた。綱引き・土俵入り・前相撲・稲刈り・稲すり・米つき・力めし・観音翁の土俵見回り・ガットドン(赤ふんどし)・玉露加那(タマツユカナ)が行われた。その日は大雨で演目のいくつかは体育館の中で行われた。あいさつを求められコメントを述べたが覚えていません。

 加計呂麻島に渡ったのは7日である。諸鈍・呑之浦・須子茂・木慈などのムラをまわった。一つ一つのムラについては、ノートを発見してから整理するとして、神アサギはなかなか興味深くみることができた。沖縄でいうウタキがオボツ山や神山となり、ノロ屋敷などもあり山原の集落形態に近い印象を持つことができた。

 神アサギの建物は山原の建物と赴きが異なる部分がある。屋根が高く現在のは床が敷かれている(大宜味村の根謝銘グスクの神アサギに近い)。古い茅葺屋根の神アシャゲは沖縄の古い神アサギとよく似ている。傍にはアサギナーに相当する広場があり加計呂麻では土俵が設けられたところがあった。加計呂麻島には神アシャゲとは別にトネヤと呼ばれている建物がある。気になる施設である。

 薩摩の琉球侵攻後、与論島以北は薩摩の領地に組み込まれ、砂糖の生産から米作に切り替えさせられている。祭りそのものが大和的だなという印象が強く残っている。「油井の豊年祭」をみながら、しきりに琉球と薩摩の歴史や文化の「くさび論」を頭で展開していたように思う。一度では集落の地理的空間がほとんどつかんでいない。再度訪ねたい島である。 

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  武名の神アシャゲ(『かけろまの民俗』)    瀬戸内町で(平成1010月)

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  これは加計呂麻島の神アサギ。大宜味村の謝名城の神アサギの
    作りに似ている。


 当時にはすでに神アサギや古琉球の辞令書や祭祀用具(勾玉・衣装など)について下調べをすすめていた。『かけろまの民俗』や「奄美大島の村落構造と祭祀組織加計呂麻島須子茂のノロ制度」(ヨーゼフ・クライナー)などで。

 それらの報告で加計呂麻島にも神アサギ(アシャゲ)があることは知っていたし、須古茂の古琉球の辞令書や衣装や勾玉なども是非見たいと思っていた。沖縄本島北部の神アサギと、どんな関わりがあるのか、また集落における沖縄での「ウタキ神アサギ集落」の軸線は、加計呂麻の集落ではどうなっているのか。目で確かめたかった。

 シニグなどの祭祀を含めて「北山文化圏」が奄美の南側の加計呂麻島あたりにまで及んでいるのではないかと仮説の線引きをしたことがある。ノロ制度については1429年に三山(北山・中山・南山)が統一された後の統一国としての影響の被さりであるが、それがまた薩摩の琉球侵攻後どのような変遷をたどっていったのか。薩摩に組み込まれながら、400年という歳月が間もなくjやってくるのであるが古琉球的なものが今にどれほど伝えているのか。

 


2022年1月27日(木)

 以前「琉球・沖縄の図」としてシンポジウムで報告したことがある。大宜味村の村指定文化財に向けての理由書を。その同様の図を持つ今帰仁村の村全図と字全図の報告を振り返りながら。

      琉球・沖縄の図

       ―土地整理前後の図・土地台帳など―

もくじ

1.「今帰仁間切平敷村略図」から

 ・作図の年代・方法

 ・平敷村畧図と印部石

 ・平敷村図の原と小字
2.国頭郡今帰仁間切平敷村小字図(7枚)

3.土地整理と合併村

4.土地整理と今帰仁間切の平敷村小字前田原図一帯

5.土地整理字図・小字図

   ・土地整理(今帰仁間切の事例と平敷村小字図と土地整理関係等級申告控) (明治34年)

 ・今帰仁間切兼次村土地整理台帳

6.戦後の測量:2022年1月25日(火)で紹介 

7.今帰仁間切村全図と今帰仁村村字全図(画像で紹介)

  ※図は全て今帰仁村歴史文化センター所蔵)

※上の平敷村全図は修復前





2022年1月26日(水

 15年も経つとどう変貌しているのか気になる。気になると、足ぶみ状態が続くので行ってみるか。歴史文化センターの展示室に親子の見学者の声が聞こえてくる。懐かしい来客あり。「かつての豊年祭出演者の化粧は何使っていたの?」と尋ねると、「おしろいさ、それと紅(ベニ)をサスさ」??!!

 今帰仁村の西側の親子ラヂオについて聴く。「大阪大学から、12月ごろ問い合わせがありました」。体験者から、いろいろ話を伺うことができました。

2005.04.08(金)(過去記録)

 本部町渡久地港までゆく。渡久地のマチ、もう少し正確にいうなら谷茶の港付近のマチのことであるが、かつて勢いのあった頃のマチの風情が残っている。旅館やさしみ屋、食堂、雑貨店、かまぼこ工場、鰹節工場など。そして繋留されている船(かつてはサバニ)。港付近のマチに漁港独特の匂いがあり、それが好きだ。

 明治の新聞記事(『本部町史』(資料編1)から船に関わる記事(タイトルのみ)を拾ってみた明治34年~大正5年)。それらの記事から港や船について拾っていくが、船にまつわる興味深い出来事がある。

 ・公私往来(明治34年11月)
 ・難破船(明治36年8月)
 ・朝日丸の無事帰着(明治36年11月)
 ・難破船二艘(明治38年5月)
 ・国頭郡の鰹節製業(明治38年8月)
 ・暴風雨と遭難船(明治39年11月)
 ・暴風雨と溺死人(明治39年11月)
 ・美人海中に溺死す(明治40年6月)
 ・名護硯滴(明治40年10月)
 ・貨物の停滞(明治40年11月)
 ・瀬底島の一日(明治41年1月)
 ・漁業者間の紛議(明治41年11月)
 ・名護の商業と運輸交通(明治42年4月)
 ・鰹漁業並に鰹節製造法(明治42年6月)
 ・本県と鰹節(明治43年9月)
 ・金沢丸擱礁詳報(明治44年4月)
 ・渡久地丸の試運転(明治44年4月)
 ・渡久地丸(明治44年5月)
 ・渡久地丸と福山運送店(明治44年7月)
 ・本部村の難破船(大正元年12月)
 ・山原船の遭難(大正2年3月)
 ・難破船一隻(大正2年4月)
 ・本部だより(大正3年11月)
 ・山水行脚(大正4年8月)
 ・鰹漁及帆船及発動船(大正5年7月)
 ・遠漁と帆船(大正5年10月)

※以下の画像は2005年4月当時撮影。15年が経っているので、大分変っているでしょう。

 

 

 


2022年1月25日(

【戦後すぐの土地測量に関する「備忘禄」】(2008.02.26)

 戦後すぐの土地測量に関する「備忘録」(仲里:1947年)がある。仲里朝睦氏が今帰仁村崎山に住んでいた時にコピーさせてもらった資料である(後に糸満市に移り住み、『風水卜易関係資料』としてマイクロ化されている)。

 戦後すぐの土地測量についてのメモである。仲里氏(土地所有委員を務めたのは仲里源五郎氏か),
土地をどのように測量したのか。昭和22年当時の測量状況が把握できるメモである。その成果品が下の図面である(200点余あり)。

 「備忘禄」(1947年:仲里)
  土地所有委員出席 1月28日 1月29日
  食糧調製会 1月25日役場、26日字、27日事務
  1月28日
    図面作製準備品  間縄 60k、30k、15k
    ポール 2k 1.5k 1k
    図紙台 2尺×4尺
    縮尺 1200分の1 5厘1間
    巻尺
    鉢ニ三本
    簡易測量
     1.前進法
     2.光線法
     3.オブセット法
    平坦部 内則法 外則法
    製図(図省略)
      凡例 郡界 町村界 字界 小字界 図根点 道路 河川 溝渠
    求積 三角形 梯形 普通面積計算 
  調査員
   一、各大字ハ小字及各地図ノ調査ヲナシ置イテ、各小字ノ境界ヲ明ニ入スル
   一、地主ヲシテ立札ヲセシメル事
   一、境界争ヒノ分ヲ明瞭ナラシメル事

     写
  所有者住所氏名
 一、指名ハ近親者ヨリトシ所有明記シ代理人続柄氏名 印
 一、未青年ハ名記セヌコト
     父母ニ記入スル事無キ場合ハ後見人ト名記スル事
 一、共有地(字有地トシテ)名記村長ニスル事

 摘要ノ件
 一、現況ヲ書ク事
   ◎軍要地、公用地、道路
     名称ト坪数ヲ書ク事
   ◎保証人
 一、交換ニハ保証人出来ズ
 一、或ル土地ニ対シ立証不可能ノ場合ハ字ノ委員会カラ二人ニスル事
   ◎図 面
 一、千二百分ノ一 五厘一間ノ事
 一、各地目毎ニ等級別
   ◎地積筆数
 一、字委員 委員長ヲ定メル事
 一、地目ガ同人ノ土地多数連続シタル時申請ハ一綴ニシテ申請スル事
     但シ図面ハ一括ニシヨロシイ 
  ◎田畑原野
 一、同一等級ナラバ一筆シテヨロシイ
 一、字境界小字境界ハ変更セヌ事
 一、地番ハ字ヲ単位ニシ地目毎ニ附ス事(通番号)
 一、部落カラスル事
 一、地番ガ漏レタ場合ハ官有地取上ケナルカラ注意スル事
   ◎有祖地、無祖地
 一、有祖地
    田畑、宅地、塩田、池沼、共同井戸、山林、原野、雑種地
  ◎無祖地(公用地、墓地、公共用地、道路)
 一、戦□地通ズル新道路ハ何坪、地目、何坪トシ道坪ハ摘要ニ入レル事
 一、保安林ハ別ニ申請スル事
 一、拝所ハ(字有ハ字名ニ入)右管理者村長某
 一、戦前の地目デ変更手続未済ノモノ其地目ハ差□ナシ
 一、地目ハ前通リ申請スル事
   ◎地 積
 一、坪ハ六尺四方ノ事
 一、坪未満ハ記入セヌ事 但シ、端ノ事
 一、坪デ単位スルコト
  ◎等 級
 一、等級ハ各人申請セズ委員会決定申請ノ事
 一、等級ハ地価ニシ一筆毎附スル事
  ◎程 度
 一、田畑五等迄デトス 其他二等迄デトス
 一、等級ハ字単位ニスル事
 
http://rekibun.jp/gazou0802/080227ti1.jpg
 http://rekibun.jp/gazou0802/080227ti2.jpg
          ▲昭和22年に作製された地堰図の一部


2022年1月24日(

 過去に今帰仁村の文化財(村指定)として展示公開をしたことがある。展示の様子を画像で振り返ると、一点一点の資料が思い出される。どの資料も手に入れたきっかけがあった。それらは視覚で記憶しているようである。今でもデジカメでシャッターを切るのは、ノートでメモをとる時間がないこともあるが、無意識に視覚で記憶しているのかもしれない。

【今帰仁村指定の文化財】(2008.02.15)(過去メモ)

 このほど今帰仁村指定の文化財として五件(計168点)が指定されました。指定にあたり歴史文化センターで展示公開し、223日(土:14001600)にはギャラリートークを開催致する。資料にまつわる話や図(地図)の移り変わりや読み取れる話を南島文化研究所の崎浜靖専任研究員と歴史文化センターの館長の仲原が行う。100点余の資料を一堂に展示公開をする。
   ・仲村源正宛辞令書及び関連資料(101点)
   ・新城徳助・徳幸宛辞令書及び関連資料(33点)
   ・諸喜田福保宛辞令書及び関連資料(2点)
   ・国頭郡今帰仁間切各村全図及び字図(展示は24点)
   ・平敷村略図及び今帰仁間切平敷村字図(8点)

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2022年1月23日(

 
畑の草取りと一部植え付け作業。畑の側の桜は見ごろ。今日は一日中雨。骨休みでもするか。 

  

 


本部町崎本部
(平成25921日(土)調査)

 本部町にあるムラの一つ。本部半島の西端に位置しています。本部町の本部、それと崎本部の名称について定かではありません。集落内に神アサギとアサギンクヮーがあります。『琉球国高究帳』に崎浜村があり、崎浜村と本部村が統合して崎本部となった可能性があります。集落内に神アサギとアサギンクヮーがあり、二つの村の合併あった痕跡がみられます。

 『牛氏崎浜家譜』に本部間切崎浜地頭職に数名が任命されています。地頭職を勤めた崎浜一族が、本部村の一部に住み崎浜村を形成した可能性が大きいです。現在でも崎浜姓の一族が住んでいます。崎浜一族が村をつくり、本部村に統合された痕跡があり、現在の字崎本部に神アサギとアサギンクヮーがあり、二つの村が合併した痕跡が遺っています。神アサギは集落の中央部に、アサギンクヮーは旧家の屋敷内にあり、中南部の殿(トゥン)の配置をなしています。

 『球陽』の1736年条に「本部県(間切)崎浜・石嘉波・健堅・辺名地等の村は、一処に集在して、農地最も狭く・・・・・」、また「本部郡瀬底島は人少く地広し。況んや石嘉波・伊野波・辺名地・健堅・崎浜等の田地、其の島に混在するをや」「石嘉波邑を瀬底島に移建し、亦其の田畝及び瀬底の地を以て、石嘉波村に均分す。而して石嘉波、素、受くる所の田地は、健堅・崎浜二邑に分与す」とあり、崎浜邑が何度も登場します。

 『琉球国由来記』(1713年)では崎本部村と登場し、一方本部巫が登場します。その段階では崎浜村と本部村が合併していた可能性があります。村は合併してもノロの名称はそのままの原則を踏襲しています。

 『琉球国由来記』(1713年)に神アサギは「中之嶽」一つですが、明治期には「ワマ御嶽」と「シナラ御嶽」と「大御嶽」(大山の御嶽:崎本部小敷地)があります。御嶽の特定できると村の成り立ちが見えてきます。エージモー(合図毛)に香炉が10基余もあり、寄留人の多い村であることがわかります(明治36年で寄留人は23%)。

 崎本部の集落区分は上組・北組・南組・中組・水口・塩川・石川からなる。水口・塩川・石川はハルヤーと呼ばれています。


 アサギンクヮー(エーガーヤー:福地家)         ⑦根神ヤー(根神宮)

  
 ▲大山御嶽のイベ(御嶽は学校敷地)   ▲ウガーミへ祠への階段         ウガーミの古い香炉二基


   
首里・那覇・泊方面への遥拝(エージモー)  北山への遥拝(エージモー)


2022年1月22日(

 伊江島の10年前の伊江島にわたってみることに。

伊江島(2008年2月)記録

伊江島は間切ではなく島である。本島の間切同様地頭代など間切役人がいる。

『琉球国由来記』(1713年)の「諸間切諸島夫地頭□理ヲエカ人之事」の伊江島に、

     西江大屋子(地頭代)東江大屋子・大城大屋子(三員夫地頭)
    首里大屋子・大掟・東江掟・西江掟・東江目指・西江目指・大掟(七員赤冠也)
    謝花掟・上地掟・今帰仁掟・川平掟(四員青冠也)

とある。伊江島に謝花今帰仁のつく役職の掟がいる。明治十三年の伊江島には東江村・西江村・川平村の三つの村が登場。明治八年に分村したようだ。東江上村・東江前村・西江上村・西江前村・川平村の五つの村となる。いずれにしろ、謝花と今帰仁は伊江島では村名として登場しない。本部間切の謝花と今帰仁間切の今帰仁の名の掟が置かれたのか。どなたか、そのことについてすでに説明されているかもしれない。少し調べてみたい。『琉球国由来記』(一七一三年)で今帰仁間切の謝名村のことを平田村と出てくる事例はいくつかある。謝名の場合の平田村=謝名村の平田は脇地頭の姓である。村との関わり、あるいは脇地頭でありながら村に貢献したことで脇地頭の姓が掟名となったとも考えられる。明治二八年の伊江島今帰仁掟の辞令書がある(『伊江村史』(下巻所収)。

  伊江島の場合はどうだろうか。首里に住む謝花と今帰仁を名乗る脇地頭が島に貢献して伊江島にない村名の役職が置かれたのだろうか。それとは別の理由があって本部間切と今帰仁間切の村名の掟を置いたのか。まだ結論は見出していない。平凡社の『沖縄県の地名』で伊江島の歴史的なことを分担したことがある。その時も、答えは出せなかった。

  伊江島の夫地頭の一人に大城大屋子がいる。伊江島に大城村がないが大城地根所火神があり、そこは大城大屋子を出した家なのであろう。村名のない今帰仁掟と謝花掟も同様な理由なのかもしれない。それにしても『琉球国由来記』(1713年)に登場する伊江島の十七の火神は、集落(マキヨ・マキ規模クラス)の展開と関わっているのではないか。そして「根所」は奄美大島のトネヤと同様なものではないか。

 ①エ地ノ根所火神  ②本十三里地根所火神  ③徳十三里地火神 ④セド神但大ノロ火神
   (公儀御祈願所)   ⑤東ノロ火神(公儀御祈願所)  ⑥佐辺ノロ火神(公儀御祈願所) 
 ⑦佐辺地根所火神(公儀御祈願所) ⑧玉城知根所火神  ⑨中ノロ火神(公儀御祈願所)
 ⑩前スカ地根所火神  ⑪島中地根所火神  ⑫仲村渠地根所火神  
 ⑬大水ノロ火神(公儀御祈願所) ⑭伊是名大水地根所火神 ⑮セマタ地根所火神
 ⑯大城地根所火神 ⑰石那覇ノ火神 

  伊江島の原石の採拓とノロについての調査。伊江島に渡る前に少し予備知識でも。伊江島にある謝花掟と今帰仁掟は気になる。再び挑戦してみるか。

 伊江島今帰仁掟の辞令書(明治28年)『伊江村史所収』あり。


  ▲グスク山(昭和30年代)徳祐資料            ▲敷地にある番所井戸

 
 ▲グスク山の頂上から番所敷地跡をみる    ▲番所跡からグスク山をみる

伊江島番所
(2006年12月26日メモ)

 伊江島の番所に関わる記事を拾ってみる。伊江島番所は『伊江村史』に図面で納められている。番所の痕跡として、敷地内の「番所井戸(バンジョガ)」と後方の御殿山の拝所に見ることができる。僅かに残っている福木もそうか。明治初期に番所前に掘られたウシャバド池は埋められ駐車場となっている。

 ・1701年東江村と西江村と川平村の三ヶ村となる。
 ・1729年伊江親方が伊江島惣地頭職を賜る。伊江按司と共に両惣地頭として廃藩置県まで続く。
    (明治初年川平殿内と呼ばれるようになる)
 ・1744年元文検地が行われ伊江島図が作成される。
 ・1875(明治8)年東江村は東江上と東江前、西江村は西江上と西江前になる。
   (川平村を加えた五ヶ村となる。)
 ・1897(明治30)年に番所は役場と改称される。地頭代は島長となる。
 ・1903(明治36)年土地整理事業終わる。
 ・1904(明治37)地租条例及国税徴収法が施行される。物納から金納に、村から個人へ
    (伊江島は一年早い明治36年摘要される)。
 ・1908(明治41)年間切と島は村(ソン)と改称される。伊江島長は伊江村長となる。
 ・1920(大正9)年木造発動機船伊江丸が、伊江本部間を運航する。
 ・戦前以前の役場(番所)のあった敷地は東江上(御殿山の前)である。
 ・戦前の伊江港は阿良港であったが戦後具志港へと移る。
 ・現役場(東江前)は昭和25年に敷地を選定し木造瓦葺庁舎を建築、10年後の1960年に
  現庁舎となる。

【参考文献】
   『伊江村史』(上巻・下巻)
   「向氏家譜(伊江家)」(家譜資料 首里系)『那覇市史』所収


2022年1月21日(

 体調回復。連絡メモが三、四枚。このページのメールされたようですが。九月頃、パソコンのトラブルでデータの復元ができず、メールも。メールでの回答はしばらくお待ちください。休み中、三本の原稿の目途がたつと頭のストレスが解消。「仕事することで病は直すのですね」と。体調壊すと鬼になる影の声。

 さて、スタートしてみるか。


2022年1月19日(

 ワクチン接種で体調悪し。兼次の字誌もキャンセル。それと沖永良部島も。伊江島、大宜味村の二本、村史原稿は今週中はストップ。下の画像は『兼次誌』のグラビア編集用。しばらくストップ。




2022年1月18日(

 大宜味間切村全図と大宜味村字図のコメントを書くため目を通す。『大宜味村史』民俗編(平成30年発刊)のグラビア(カラー:18枚)で間切全図と村字図が村史職員によって詳細に紹介されているので参照してください。「やんばる学研究会:会誌4号?」で新城喜代美さんが貴重な報告がなされている。

 今日はこれからワクチン接種(3回)、頭がボーとする前に整理しておくことに。


『土地整理ニ関スル書類綴』(真喜屋村・稲嶺村事務所) (2003.7.1)メモ


 琉球大学図書館の「島袋源七文庫」に『土地整理ニ関スル書類綴』(真喜屋村・稲嶺村事務所)(明治32年)がある。最後の土地替え(地割)の協議事項認可申請書である。今帰仁間切(村)では、このような地割に関する文書資料がまだ確認されていないが、明治36年の土地整理期の図や「今帰仁間切各村全図」とその後の「今帰仁村各字図」がある(村指定:180枚?)。

 羽地間切真喜屋村と稲嶺村の土地替えの「旧持地数」と「新持地数」、その「変更の事由」を見ていくとだけでも、当時の土地配分(土地替えの変更)の様子が見えてくる。配当を受ける年齢の家族が増えたり、配当を受けていた人が死亡などで減になったり、雇人の分は雇主が配当を受けていたが今回は雇人本人に配当されているなど、なかなか興味深い。

 下の表には見えないが、
     宿道ハ幅八尺以上トシ左右ニ各六尺ノ余地ヲ置キ(水田貫通スル
     時ハ余地ヲ設ケズ)
     脇道ハ幅五尺以上、原路ハ幅三尺以上、防堤ハ幅七尺トスル事

などと、当時の道筋の幅なども規格があり管理されていたことがわかる。また、二十歳を過ぎて新しく屋敷の配当を受ける場合、屋敷は四十坪を超えることは許されなかった。因みに明治三二年「分家ノ為ニ屋敷地トシテ配当スベキ人」は三二名いた。
     満二十歳以上ノ者ニシテ新ニ屋敷ノ配当ヲ受ケントスル者ハ明治
     三十二年六月三日迄ニ申シ出ル事但一戸ノ配当坪数ハ四十坪ヲ
     越ルヲ許サザル事  

新持地数 旧持地数 変更の事由  番地身分屋号 氏 名
壱地五分 弐地五分 配当ヲ受クベキ人員ノ減少セシニ依ル 一番地平民蔵原屋 親川平三郎
三地五分 四 地 配当ヲ受クベキ人員ノ減少セシニ依ル 三番地平民舛取屋 島袋善三郎
弐 地 参 地 仝  上 四番地平民□門 島袋善太郎
弐地七分 壱地五分 配当ヲ受クベキ人員ノ増加セシニ依ル 五番地平民上里屋 上里角次郎
弐地五分 弐 地 仝  上 六番地平民ヨガフ屋 与那嶺豊三郎
壱地五分 雇人ノ配当地ハ其雇主ニ配当セシモ今回ハ本人ニ配当セシニ依ル 七番地平民宮里屋小 宮里吉蔵
弐地四分 壱 地 配当ヲ受クベキ人員ノ増加セシニ依ル 九番地平民宮平屋 宮平林三

   (続くが以下省略)


2022年1月17日(

 10年前、与論島と沖永良部島に行っている。今週沖永良部島行きがコロナで諦める。改めてコロナが収まってから。それで過去の記録から。さて、きょうからスターブを職場に持参して。

201193日(土)過去記録

 与論島へ。4日与論島から沖永良部島へ。大字城と朝戸の集落と与論グスク。

与論島 

  
 

 

 2011年9月5日(月)過去調査

 沖永良部島。 

  

  

 


2022年1月16日(

2011
年9月7日(水)
過去メモ 

【今泊のグスクウイミ(ウンジャミともいう)】

 旧暦8月10日(9月7日)に行われる。行われる場所は今帰仁グスク内の神ハサギ跡である。参加者のノロ(代理)と区長、書記がでる。ノロは神衣装を持参していたが、雨が降り出したので羽織ることはしなかった。勾玉と簪の入った黒い木箱を持参し(ノロドゥンチの仲尾次清治氏)、神ハサギ跡の香炉の向こう側に置いたウガンをした。拝む場所は城内の神ハサギ跡のみである。

 香炉の前にゴザを敷いて、そこでウガンをする。供えるものは線香と神酒(泡盛)であった。お菓子も準備してあった。そこでの祈りはムラや子孫の繁栄とユガフウ(世果報)である。 

  
▲今帰仁グスク内の神アサギ跡   ▲今帰仁ノロの玉ガーラと簪

201198日(木) 

【シマウイミ】

 旧暦8月11日(9月8日)に行われる。拝む場所はハサギンクヮー(今帰仁神ハサギ)とフプハサギ(親泊神ハサギ)、獅子小屋のあるウッチハタイでウガンをし、獅子はプミチ(大道:マーウィ)に出て、獅子舞と棒の舞がある。この日はヨーハビで、災難払いの日である。今年は豊年祭のシクミの日とシマウイミが重なっている。奉納踊と棒術が今帰仁ノロ家とオーレーウドゥン前で行われた。

 シマウイミのハサギンクヮーとフプハサギでのウガンは終っていたので画像はなし。 

  


2022年1月15日(

本部町伊野波

・伊野波は1666年に今帰仁間切が分割し、伊野波間切となる。翌年本部間切と改称する。

伊野波間切の番所が置かれた村。(後に番所は渡久地へ移動)

・伊野波のことをウンシマ、並里をマンナと呼ぶ。

・公民館周辺はムラウチ、伊野波神社やお宮、ウドゥン、神アサギなどがある。

600700年前頃は、一帯は一面海であった。

・伊野波と並里の中間に荷干毛が(ニホシモー)があり、難破船の修理や積荷干し場か。

・間切時代、伊野波親方の部落巡視があった。

・石くびり道

・唄の天才の北谷モーシの生誕地(北谷から移住。四歳頃から移住、師匠について歌をならう。17歳頃にはどんな唄でもうたいこなせたという。その名は首里・那覇まで知られわたっていた。

・大湧がある。



下の印部石は「□ しきま原」。現在、その原名はなし。しきまは志慶真のことか。志慶真村は三、四回の村移動があり。場所の特定はまだ。


2022年1月14日(金)

 「寡黙庵」の周りはヒカン桜が開花中。沖縄は桜の開花の頃(旧正)が真冬。冷えるので頭が回転せず、午後から。「寡黙庵」でストーブの前でリモート。
 
 

【勢理客の香炉】(2008.04.03)
調査メモ

 ワラザン(藁算)調査の来客があり、勢理客のヌルドゥンチ跡の神屋、そして近くに勢理客のウタキの香炉の確認まで。勢理客のウタキのイベの祠に二基の石香炉がある。それには銘があり「奉寄進 道光十九年? 八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年九月吉日 上間仁屋」である。勢理客のウタキの中のイビに二基の香炉が置かれている。一基はスムチナ御嶽の香炉の年号と一致する。その同治九年は今帰仁王子朝敷が薩州へ派遣された年である。

 道光年の石香炉は年号の確認がぜひ必要である。そこに登場する親川仁屋と上間仁屋は今帰仁御殿や殿内などでの勢理客村出身の奉公人ではなかったか。「大城仁屋元祖行成之次第」(口上覚)に以下のような記事がある。奉公人と御殿や殿内との関係を伺いしることがきる。(もう少し整理が必要なり)

今帰仁間切勢理客村大城仁屋(玉城掟)(口上覚)
  一、嘉慶二十年亥十二月御殿御共被仰付寅年迄四ヶ年御側詰相勤置申候事
  一、嘉慶二十四年卯正月嫡子今帰仁里之子親雲上屋嘉被仰付丑四月迄十一ヶ年相勤置申候
  一、道光九年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付十月よ里十二月迄昼夜相勤置申候
    勢理客村兼次親雲上(覚)
  一、道光二十五年乙巳御嫡子今帰仁里之子親雲上御上国ニ付而宮里殿内江御雇被仰付
      九月より十二月迄昼夜相勤置申候事
  一、嘉慶二十一年卯十一月廿四日御嫡子今帰仁里之子親雲上御婚礼之時御雇被仰付
      罷登首尾能相勤置申候事
  一、嘉慶二十年子三月故湧川按司様元服之時肝煎人被仰罷登首尾能相勤置申候事
  一、嘉慶二十三年卯三月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付罷登首尾能相勤置申候事

 勢理客のヌルドゥンチ跡の神屋にあるワラザン(藁算)については、改めて報告することに。

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   ▲勢理客のウタキ内のイビの様子           ▲銘のある二基の香炉

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 ▲勢理客のウタキのイビの祠にある銘のある二基の石香炉

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▲勢理客ヌルドゥンチ跡の神屋にあるワラザン(藁算:二本)


2022年1月13日(木)

 浜元は具志川村であった。近世に具志川村から渡久地村が分立、具志川村は浜元になる。具志川(村)から具志川のろを出す辞令書(1607年)が本部町辺名地に遺っている。ウナジャナ墓に三人の具志川のろが葬られている。その墓には50名ほどの人々が葬られている。土砂崩れのため工事がなされた時声がかかり立ち会ったことがある。

―本部町浜元―

・浜元はハマムトゥと呼ばれ本部町の字である。
・字名は集落が海に面していることに由来する。
・浜元は本部高校近くの具志川ウタキ(グシチャーウガン)付近にあった。
・1700年代に具志川村の一部が移動して浜元村をつくる(一部は渡久地村へ)。
・神行事を行う神人は具志川ノロである。旧暦5月と9月にウフウガンがあり、ウタキまで行ってウガンをする。
・浜元の集落はアガリンバーリとニシンバーリに分かれる。
具志川ノロの男方は間切役人をつとめ、唐旅をして「土帝君」をもってきて祭った。
・具志川ノロはニシンロウヤから出ていたことがある。今は辺名地の仲村家(カラマヤー)から出ている。
・ノロ辞令書が残っている。(浜元にあったノロ家跡と唐帝君)
・今帰仁間切と本部間切の番所(役場)をつなぐスクミチが通る。
・泊原に集落があり、そこはハルヤーと呼ばれ旧士族の人たちが住んでいる。
・旧6月25日の夜に毎年綱引きが南(ペー)と北(ニシ)に分かれて行われる。・むかしはミージナ(メス綱)とヲゥージナ(オス綱)があったが、今では一本綱。
・海岸にリュウグウの神を祭ってある祠がある。
・鰹漁が行われていたことがある。

具志川ノロ辞令書(万暦30年:仲村家蔵)





   ▲ウナジャナ墓と按司墓

2022年1月12日(水)

 大宜味村で「塩屋湾岸のウンガミ」で会議がある。田港のろ管轄の村は田港・屋古・塩屋・渡野喜屋(現白浜)である。以下のことを考えてみた。

 山原(やんばる)の旧7月に行われているウンガミ(海神祭)とシニグ祭がある。旧盆後の亥の日に行われている。『琉球国由来記』(1713年)の年中祭祀で「海神折目」とあり、辺戸村、奥村安田村・安波村では「海神祭折目とシノゴ折目」は「年越」に行うとあり、二つの祭祀を交互に行っている。国頭村の他の村でも「海神折目」は見えるが「シノゴ」は出て来ない。大宜味村の屋古前田村や喜如嘉村・城村でも「海神祭」は出てくるが「シヌグ」は登場しない。羽地間切の屋我村、我部村、松田村、伊差川村、中尾次村などで「海神折目」の祭祀はあるがシヌグは登場しない。

 「琉球国由来記」の今帰仁間切の今帰仁村(今帰仁のろ管轄村)に「毎年大折目トテ、海神祭」とある(その記事は「郡村」にあるが、今帰仁グスクでの祭祀である)。別のところで「大折目、(海神祭也)とあり、そこでは大折目に海神祭やシニグが組み込まれているのではないか。祭祀の合体は湧川村でワラビミチと大折目、同日に二つの祭祀を行っている。ほぼ同様ではなかったか。今ではその区別ができない。ワラビミチとフプユミにシニグの「流し」という所作があり、湧川から勢理客・上運天・運天まで鼓をたたきながら行く所作が残っている。今帰仁グスクでの大折目(海神祭)のとき、城内→ヨウスイ(城内の神アサギか)→アワシ川(アーシジャ)→ナガレ庭→惣様(両惣地頭)は馬に乗り→シバンティナの浜(潮撫で)→親川(水撫)→城内(ヨウスイ)まで。(その流れはグスク周辺にあった村が麓に移動する前の祭祀のながれ)。グスクから馬に乗ってシバンティナの浜でのウガンの所作が「流れ」(清め・凌ぐ)がシニグと見られる。途中弓矢を持ち、浜に弓矢を立て、ウガンをする。浜まで潮撫でをし、親川で水撫でをしてググスク内の神アサギで二日目を終える。

 シニグの一番伝承されている本部間切は『琉球国由来記』(1713年)に「麦稲穂摩祭」は出ているが、シニグは全く出てこない。海神祭折目は瀬底村のみにある(但し毎年11月に行われる)。 

 今帰仁村の古宇利島の海神祭(ウンジャミ)が見ると毎年旧盆明けの最初の亥の日におこなわれる。古宇利島のウンジャミは三日あり、一日目がウンジャミグヮ(本番の準備)、二日目の亥の日がウンジャミ、三日目は豊年祭(村ウドゥイ)が行われる。二日目の流れはナカムイのウタキから始り、神アサギ内でのウガン、アサギミャー→フイヤー→神道→ヒチャバアサギ→シラサ(岬)→浜へ(潮撫)。その流れはシニグである。古宇利島のウンジャミにシニグが組み込まれている。

 古宇利島でも塩屋のウンガミ同様、ハーリー競争が行われている。「古宇利島では地頭代(代理可)及びノロを舟にのせ縄を寄せては舟を沖へ押しやり、押しやりては又縄を引き寄せかくすることを七回に及ぶ。而して後舟を転覆せしめノロ地頭代の一行を苦しむ。これ却って漁獲の多きを祝せん。翌日に村ウドィがあり、そこで神迎えがあり、最後に神送りのウガンをする。 



2022年1月11日(火)

 田港のろ管轄の塩屋湾岸のウミガミ(海神祭)の特徴と祭祀を行う神人について整理中。古琉球の辞令が発給された奄美まで、視野に入れてた上で国頭間切(現大宜味村)田港ノロ管轄のウンガミの特徴が見れるか?以下の「沖縄のノロ制度の終焉」は大学の講座や講演で使った一場面(肩書は当時のまま)





2022年1月9日(

 問い合わせがあったので、何年ぶりにか名護市安和から本部町辺名地から渡久地へ往くジョウガビラ(門川坂:嫦蛾坂)へ行く。道が険しいの安和から安和嶽の側を通り本部町の辺名地に抜けれるかどうか。以前道に迷ったことがあり、苦労したことがある。今回も迷う。頂上近くで二手に分かれる道で、軽トラックの年配の方がいたので、道を尋ねた。「この道ではなく、もう一つの道、車に傷がつくね」と。養豚場?に突き当り少し戻り脇道へ。突き当り。再び養豚場へ。確か養豚場を横切った記憶がある。養豚場を突っ切る。以前、養豚場へゆく大型トラックと会い、バックで何百mも。翌日は首が痛くて。そんなことを思い出した。
 今回どうしても通っておきたかったのは、名護市内から渡久地への近道だということ。それと大正・昭和の尋常小学校の生徒が本を買いに、この道を通り名護町に行ったとの話を聞いたいた。ほんとに近道なのかどうかの確認。

 『沖縄県国頭郡志』(大正8年発行)に、

 門川坂(:嫦蛾坂)は名護本部間の険路なり字安和より四五町にて門川に入る。之より道即ち川道にして左右高山の間なる渓谷に大理石の如き石灰岩の散在せる中を辿ること四五町にして所謂門川坂となり更に曲折蛇行三四町にして峠に達す。此の間昔時は樹木鬱蒼として昼尚は暗く魑魅魍魎の出現を畏怖せし程なりしが今は森林全く荒廃して昔日の感なし。本部堺なる峠に達すれば東西の両海を見下して眺望よし。

とある。大正以前のガジャンビラの様子が、まだ髣髴してくる。名護市街から本部町渡久地までの距離は伊豆味とほぼ同じか。すすめはしません。現恩納村山田、倉波から山原船で行くか徒歩でいくか)。



 
▲ジョウガビラは安和から黄色の道            ▲いざ、出発!

2022年1月8日(

 1998年に「新城徳裕氏寄贈資料展」を開催したことがある。平成13年には『なきじん研究 10号―新城徳祐資料―調査ノート』として発行、297頁。資料整理の過程で「仲城」と「中城」の碗と「球陽」と朱肉で押された印、大宜味村の田港御嶽の古鏡(1960年)について気になっていた。それらにつては新城氏の写真に遺されている。中城の碗の現物は新城宅で仲原が撮影。「球陽」の印は「知念城から印判を拾ったとのこと。仲座久雄氏」とあり、新聞記事にもなっているようである。中城の碗については、中城番所の銘入茶碗 発見 二の丸入口左側城壁下 発見者稲嶺ハルさん(登又)」とある。(画像は後に)

「球陽」の印

  新城徳裕氏資料(ノート)に「球陽」の印が確認されている。「知念城から印判を拾った」とのこととある。「球陽」がどのように使われたのか、「新城徳裕資料―調査記録ノート」(『なきじん研究10号所収』2001年)の編集当時から気になっていた。その印の所在について問い合わせてみたが、まだ反応はない。「球陽」は琉球の雅名で、『球陽』は琉球の正史があり、初回の編集は乾隆8年(1743)から10年まで、以後明治9年まで継がれている。「琉球国」ではなく「球陽」が使われている事例が扁額や聯や書幅があるので紹介。但し、「球陽」の印については未確認。


①品質形状 ②法量 ③保存状態 ④筆者名 ⑤時代 本文 ⑥備考

 (扁 額)

・寛政二年◇戌仲夏穀旦(1790年)

  徳 光 普 照

 球陽尚格大宜見王子朝規謹立 

・天明三年癸卯仲夏穀旦(1783年)

  印 徳 偏 海 天

 球陽尚周義村王子朝宜謹立 尚周之員 印 

・寛政治七年歳次乙卯仲夏穀旦(1795年)  

  鎮■ 霊

 球陽尚周義村王子朝宜謹立  尚周之印 

・天明三年癸卯仲夏穀旦(1783年)

  ㊞妙 霊 普 済

・球陽尚図浦添王子朝英

     印 印 

・安永二年癸巳仲夏穀旦(1773年)

   生而神霊

 球陽摂政和読谷山王子朝恒謹立 印 印 

・安永二年癸巳菊月穀旦(1773年)

 澤 敷 海 國

 中山王世子尚哲謹立 

・安永二年癸巳◆◆

◆  仰

・球陽摂政尚和読谷山王子朝恒謹立

    印 印

・天明七年丁未菊月吉旦(1787年)

 無 ◆

   盛島親雲上

      朝朗

  琉球國使者 伊集親雲上

          朝義

       富里親雲上

         朝永


【神戸の街】

 神戸が街として発達するのは神戸港が開港してからで、外国人の居留地として街として展開する。外国人の居留地として存続したのは明治32年までのようだ。今回の関西行きの最初の日に、神戸という街を掴むことができないまま姫路へと足を運んだ。帰る日の午前中、再び神戸へと向かった。大坂梅田駅から神戸駅の手前の元町駅で下車する。買い込んだ書物でカバンは重く肩に食い込む。旧居留地とメリケン波止場を目指してゆく。途中南京町や煉瓦造りの建物に居留地の匂いがしてくる。大丸の百貨店あたりが中心地だったのだろうか。

 メリケン波止場は向かう途中、神戸市立博物館への案内板があり、博物館をのぞくことに。混雑していると思ったらルーヴル美術館展が開催されていた。130点余の展示がなされていたが、展示品より人の頭しか見えないので素通り。常設展の神戸開港の頃の道具(印刷・マッチなど)に関心が向く。それと展示されている図の鎖国中の異色を放つ四つのルートである。

 琉球と薩摩藩、アイヌと松前藩、朝鮮と対馬藩、そして清国・オランダと長崎のルートである。江戸上りの時、琉球は薩摩藩に同行していく。大坂では大坂薩州公館(薩摩藩蔵屋敷)へ江戸でも薩摩御屋敷に赴いている。それでも琉球は形式的?ではあるが明治維新の時、琉球国は琉球藩とし(明治5年)、同12年に琉球藩は沖縄県となる(国王→藩王→県知事)。

 江戸上り(江戸立)が行われていた頃、神戸は小さな村で兵庫津の方が港として機能していた。神戸の発達は慶応3年(1868)の神戸開港後である。博物館には開港当時の絵図が展示されている。江戸上りで薩摩や琉球の使節が兵庫津に寄った例はあるようである。そのほとんどが大坂津(港)である。江戸上りする時に関わった重要な港ではないが、琉球・朝鮮・アイヌ・オランダ・清国などの国々と江戸幕府の関係を知る手がかりを与えてくれる。兵庫津は西方の藩が参勤交代でよく立ち寄る町でもある。

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  旧居留地にある神戸市立博物館        居留地の面影を残している建物

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   阪神・淡路大震災で崩壊した堤防       神戸の港の様子

【江戸上り(江戸立)】(彦根城)

 今回の関西行きは「江戸上り」を目的としたものではなかった。結果的に「江戸上り」で行く使節の行程の場所の何カ所かに立つことができた。大坂から淀川を遡り伏見で船を降り、伏見・大津・草津の道筋をたどっているが、私は今回彦根の方へ向かった。大和芸能の能と狂言について知りたくてであった。

 琉球側の使節は薩摩や大坂や江戸で琉球芸能を披露しているが、御能・花火・竹田操・蹴毬・曲馬・手妻(手品)・伊勢神楽・人形芝居・御馬・太神楽・曲馬・囃子・狂言・操戯(曲芸)・御盤人形・竹田近江の絡・踊り狂言・雑戯などを鑑賞している。琉球の芸能を披露すると同時に、大和芸能にヒントを得て琉球にもたらしたものがありはしないか。玉城朝薫の「組踊」はよく知られているが、また使者の中に和歌をたしなんだ人物もいる。それだけでなく大和芸能にヒントを得て琉球化した芸能もあるのではないか。「江戸上り」の芸能を追いかけているのは沖縄本島北部の名護市川上・今帰仁村謝名・本部町伊豆味の「操り獅子」が、江戸上りや薩摩入りの時の楽童子や楽子などに随行して行った末端のメンバー(仁屋クラス)の中にいたのでは。そんな期待をしながら資料を見ている。

 能や狂言について知識をもっていないこともあって、彦根城博物館内で舞台や能や狂言について知識を少し。芸能について全く知識をもっていないことを自覚。博物館内に狂言や能のビデオコーナーがある。時々実演も行われているようで常設の舞台もある。いくつかビデオを流れている。笑いが起こり拍手が起こる。全く能や狂言を知らない私は観客の反応を観察するはめになった。

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     彦根城博物館入口         館内にある舞台

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  彦根城の天守閣                 天守閣に向かう門(空堀に橋)

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  彦根城の天守閣から琵琶湖が望める   幅広い階段がつづく

【江戸上り(江戸立)】

 「江戸上り」(参府)の使節の中に儀衛正(ぎえいせい)がいる。儀衛正(路次楽の総監督:路次楽奉行)について、宮城栄昌氏は『江戸上り』で5つの史料から以下の記事を拾っている。路次楽は1477年の尚真王の母オギヤカモイが路次楽を奏でながら首里の大路を行進している様子を描写しているという。路次楽が中国音楽だったため久米村出身者が選ばれたという。
 ここで路次楽を掲げているのは、今帰仁村の湧川で路次楽が豊年祭で行われているからである。首里王府や江戸上りの時に演奏された路次楽が、どのような経路で今帰仁村湧川に伝えられたのか。もちろん、寄留士族によって村踊(豊年祭)に組み入れられているのであるが、継承している與儀家が久米系なのか、そして江戸上りでの使節の一員であった可能性が大である。一族の家譜から探せるか。中央の芸能が地方へ伝播され、そこで継承されているのがいくつかある。「組踊」もそうであるが、薩摩藩屋敷で行われた「しゅんどう」(男女の面かぶり:舞楽図)(沖縄県史ビジュアル版所収の図)は古宇利島の豊年祭の最終演目で行われている。
  ・中官ノ内ニテ路楽ノ頭ニテ御座候、此上ニテハ物頭恰合ノ官ニテ御座候
  ・中官之内路次楽の頭之者頭恰好の者也
  ・右行列方并路次楽司申候、於琉球国ハ諸衍(ママ)奉行格式ニ而御座候
  ・路次楽人相携候、尤久米村より被仰付唐字方相勤候
  ・中官之内路次の頭也、者頭恰好の者也


【神戸・兵庫・大阪】

 神戸や兵庫、大阪などが登場してくると「江戸上り」(江戸立)が被さってくる。「江戸上り」について研究書もあるが、沖縄県史が発刊された「江戸上り―琉球使節の江戸参府」(ビジュアル版)があり非常にわかりやすい。
 これまで、按司や王子や親方などの薩州行きや参府(江戸)に赴いた正使や福使をはじめ儀衛正・楽童子・楽師・与力などが琉球からの物や出し物(歌や踊りや音楽の演奏など)を持っていくが、向こうで能や武田操(からくり)や手妻(手品のこと)や人形芝居などを見る機会があった。それに随行していった地方の奉公人なども、そのような芸能を鑑賞する機会があったのであろう。

 江戸上りで大坂まで来ると、江戸堀と土佐堀の間の島に薩摩藩蔵屋敷(大坂公館)があり、そこに招かれ、宴を賜り竹田操(からくり)や手妻と人形芝居や狂言などを鑑賞している。薩摩藩蔵屋敷と薩摩藩中屋敷は中の島の隣りの島である。中の島と薩摩藩蔵屋敷のあった島には、数多くの蔵屋敷が並んでいたようだ。
 大阪の「中の島」までいく。大坂の港が知りたくて「築港」や「天保山」など案内していただいた。使節を乗せた川舟は淀川をさかのぼり伏見で荷揚げし陸上で江戸へ向かったという。

 これまで確認してきた沖縄本島の石灯籠や銘のある香炉、それと関わった王子や親方、そして地方の奉公人。薩摩や江戸上りへお供していったメンバーは地方への芸能など文化を伝えていく伝道者としての役割も果たしていた姿が見えてくる。1月1日の「大宜見子や玉川王子一行もこのルートを通ったのだろうか。
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  大阪城の内堀         大阪城の天守閣      ▲大阪城の内堀

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 中の島と堂島に架けられた難波橋           何回も架け替えられた太平橋

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【近世の琉球の動き】

 ・1598年 豊臣秀吉63歳で生涯を閉じる。
 ・1599年 島津氏は庄内(都城)の領主伊集院忠真の叛にあう。翌年終結する。
 ・1600年 島津氏は関ヶ原の戦いで西軍に味方し敗れて不安定なものになる。
 ・1602年 家康より罪を許され義久に薩摩・大隅の両国と日向の一部が安堵される。
 ・1604年 義久は尚氏宛て書状を送る。その書状内容が・・・
 ・1604年 上の書状に対して9月尚氏は中村親雲上を島津氏に送るが徳川氏へは
          謝恩の使者を送っていない。
 ・1605年7月 島津氏より琉球出兵の願いが出される。(出兵理由)
 ・1606年6月 琉球出兵を認める(島津家の当主家久)。
  ・1609年3月4日 山川港出発する。
 ・1610年5月 家久は尚寧王を伴って薩摩の京泊をたつ、6月伏見、8月駿府、20日江戸。
 ・1610年8月28日 将軍秀忠に喝見。尚寧は家久にともなわれて、将軍世子竹千代に拝喝。
   謝恩の使者琉球国王の引見。
 ・1611年 尚寧王帰国を許される。

 
【楽童子としての江戸参府】

 向氏具志川家の十二世鴻勲(朝郁)(1783~1804年)は嘉慶元年(1796)に楽童子として江府(江戸)に赴いている。楽童子は江戸上の時、琉球音楽や躍りを演じる若者で鴻勲は13歳の時である。江戸上の詳細は『具志川家家譜』の十二世鴻勲のところに記されている。鴻勲が今帰仁間切の村の村踊(ムラウドゥイ)に影響及した可能性は少ない。どちらかと言えば、これまで見てきた間切からの御殿や殿内などへ奉公人や奉公した後の間切役人などが中央の芸能を村踊の演目に取り入れていくことに影響を及ぼしているとみている。また按司や脇地頭などの「初地入」は、按司や脇地頭などを歓迎する演目としたのではないか。

 今帰仁グスク内の石灯籠もそうであったが、今帰仁阿応理屋恵火神の祠(今帰仁グスク近く)の後側にある四基の「奉寄進」(年号部分は判読できにない)は、今帰仁王子や按司などの薩州や江戸上と無関係ではなかろう。香炉の向きは、伊是名島や辺戸などへの遥拝と言われるが、香炉は伊是名島と辺戸岬との中間に向いて置かれていて、それは薩摩や帰国への航海安全の祈願とみていい。今帰仁阿応理屋恵火神の祠の手前右側にも数基の銘の刻まれた石の香炉があったが不明。(近くに放置されているかもしれないので探してみるか。その中には年号はっきりしているのもあるかもしれない)。

『中山世譜』(附巻)より薩州や江戸上の親方・按司・王子など

 ・天啓6年(1626) 孟氏今帰仁親方宗能、薩州へ(月日不明)
 ・康煕2年(1663) 高氏今帰仁親雲上宗将
 ・康煕15年(1676) 向氏今帰仁親方朝位、年頭使として6月27日薩州へ、翌年
  11月4日帰国する。
 ・康煕25年(1686) 向氏今帰仁親方朝位、年頭使として5月26日薩州へ、翌年
  11月7日帰国する(翌年病で没)。
 ・康煕35年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲、鷹府城の回録で8月24日薩州へ、
  11月6日帰国する。
 ・康煕45年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲、7月10日薩州へ、11月9日帰国す
  る。
 ・康煕48年(1709) 向氏今帰仁按司朝季、尚益王の即位で9月12日薩州へ派遣、
  11月6日に帰国する。
 ・康煕51年(1712) 向氏今帰仁親方朝哲、8月4日薩州へ、翌年11月14日帰国
  する。
 ・康煕60年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲、年頭頭として6月21日薩州へ、翌年
  10月22日帰国する。
 ・乾隆5年(1740) 向氏今帰仁按司朝忠、吉貴公妃(霊龍院)の弔で閏5月27
  日薩州へ派遣、10月25日帰国する。
 ・乾隆12年(1747) 向氏今帰仁王子朝忠、慶賀で6月11日薩州へ、翌年3月帰
  国する。
 ・乾隆17年(1752) 向氏今帰仁王子朝忠、正史として6月13日薩州へ、12月2
  日江戸へ、翌年3月1日薩州へ、4月9日帰国する。
 ・乾隆52年(1787) 向氏今帰仁按司朝賞、太守様元服で8月2日薩州へ、翌年3
  月11日帰国する。
 ・嘉慶25年(1820) 向氏今帰仁按司朝英、前年薩州へ赴く(慶賀)前に船は風に
  遇い、八重山・与那国島に漂着する。
 ・同治9年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷、6月22日薩州へ、10月11日帰国する
  (明治3年)。
 ・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷、9月24日薩州へ、10月24日東京へ、
  翌年1月29日帰る。


2022年1月7日(金)

【オーレーウドゥン(阿応理屋恵殿内)跡地】(詳細は今帰仁按司と阿応理屋恵
 
集落を歩く面白さは、あれこれとノートや論文や報告などで書いたことを現場で確認していくこと。なるほどと足が地につき確固たるものになっていくこと度々あり。自分の目で確かめること。これまで考えていたことが、修正をよぎなくされたり、別の視点で見えてくる面白や楽しさがある。

 久しぶりに今帰仁グスクを下り、国道505号線を横切って今泊集落の今帰仁ムラ寄りに向かった。まずはオーレーウドゥン(阿応理屋恵殿内)の屋敷跡地の確認のためである。近世の初期に今帰仁グスクの近くから海岸近くの集落内に移動している。集落内のオーレーウドゥン跡地にコンクリートでできた祠があり、その内部にガーナー位牌が二基ある。一基は無銘だが、もう一基は今帰仁監守(今帰仁按司)六世(順治十年:1658年没)の縄祖(1601~1658年)のものとみられる。六世は運天の大北墓に葬られている。今泊集落内にあるオーレーウドゥン跡地の祠に位牌があるので、そのころのオーレー(阿応理屋恵)の屋敷もそこだったでもあろうか(今帰仁グスク付近から移動後)。

 このオーレー(阿応理屋恵)は17世紀中頃に廃止され18世紀後半に復活するが、復活したときの継承者が以前とは異なることもあり複雑となっている。そのこともあって旧オーレーウゥン、集落内のオーレーウドゥン跡、その中の位牌、そして大北墓との関係がどうなっているのか確認する必要がありそうだ。また整理しておく必要がありそうだ。そういうこともあって、とりあえず屋敷跡地の確認から。『沖縄県国頭郡志』に登場する資料についは別に整理しているので、結構なボリュームになるので別に報告。

 屋敷跡地の境界は、よくわからないが屋敷の北側に掘り込みの井戸がありウルンガー(御殿井戸)と呼んでいる。

 ついでに今泊の西海岸の岩場まで足をのばしてみた。岩場を潜り抜けるといくつもの小さなビーチがある。冬場であるが、岩場が風を防いでくれている。海草の緑が目につく。集落内や海岸を歩くのは、何度歩いてもいいもんだ。

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  ▲オーレーウドゥンの跡地にある祠     ▲祠内にあるガーナー位牌
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     ▲ウドゥンガー(井戸)             ▲ウドゥンガーの中
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                ▲今泊集落の福木並木もいい
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  ▲岩場を抜けると小さなビーチが         ▲二重に重なった岩

2022年1月6日(木)

 「島袋源七文庫」の資料は私が沖縄研究に手をつけた当時から活用させてもらっている。氏が書き写された勢理客のろ殿内の文書の「口上覚」である。当初から目にしたのは「大城仁屋元祖行成之次第」である。それを手がかりに勢理客のろ家の遺品(カブの簪二本)の調査、ワラビ道(フプユミ)調査、「地方役人の世界」などをまとめている。(歴史文化センターの建設・地域史・歴史・民俗・言語調査にいそしんでいた頃が思い出されます)

 琉大が首里城内にあった頃、私は隣接した「キリスト教短期大学」で講座を受け持っていた。琉大の図書館から資料の閲覧やコピーして活用していた。琉大内(首里城)の「沖縄県言語センター」の設立に顔をだしていた。

 特別講演をしたのは、琉大は宜野湾市の現在地に移転してからの事である。琉大図書館で貴重資料展である。そのレジメが出てきたので一部紹介。受講者のコメントはいているのに気づかず、目を通している。受講者の多くから感謝の言葉あり。嬉しいものです。
 

 
 

1.島袋源七が歩んだ道
2.島袋源七を生み出した今帰仁村勢理客
3.勢理客ノロと「おもろ」
4.『山原の土俗』―民俗誌の傑作の一つ―
5.「島袋源七文庫」資料の紹介
6.山原の民俗学者―島袋源七―
   (敬称略)

2022年1月5日(水)

 島袋源七氏は今帰仁村勢理客出身で、島袋源一郎氏(兼次出身)と同郷であるが兄弟や親戚ではない。時々「兄弟ですか?」と聞かれるが、兄弟ではないです。源七氏収集の資料は「島袋源七文庫」として琉球大学に所蔵されています。勢理客のろ家の家文書(特に口上覚など)があります。「島袋源七資料?」として琉球大学図書館で講演をしたことがある(2001年平成13年1月27日)。特別講演資料(ファイル)は手元にないので歴史文化センターをさがしてみるか!)(ありました! 上で一部紹介))

 島袋源七氏は「今帰仁の語義をナキズミ」から「魚が多く寄りつく場」などと説かれた。那覇の語義説き一例である。島袋源七氏の語義説きについていけず、東恩納寛惇氏の「南島風土記」の地名の語義説きに傾いていった記憶がある。

今帰仁を中心とした地名の一考察 島袋 源七氏

◎那覇=ナハ、ナーファ

那覇は真玉橋に続く長い入江と安里川とにはさまれ、識名、真和志から細長く突出した半島で、更に半島の尖端は久茂地川を堺に切斷され泉崎と現那覇市とは離れて小島をなしていた様である。久茂地川は一見安里川の支流の如く見えるけれ共これは元の海峽になっていた所である。

しより、おわるてだこが
  浮島は、けらへて
  唐南蛮、よりやう、ナハとまり、

このオモロは前述の地形を物語るもので、首里の外港として築港し、更にミーグスク(新城の意)を営むやら埋立等をして現在に及んだものである。沖縄唯一の都会丈けに、文献も多く、又地名の由来も多々ある。

「那覇由来記」に「住昔之世呉氏我那覇宅有一怪石、形如野菰、而人家自此而始遂以為邑、因称此地日奇波、尚、琉球神道記に「那覇は阿那婆達龍王の所居なるべし、今は略語也」とあり、キノコ説にしてもこの説でも共に附会も甚だしい物といわねばならぬ。

ナ=、矢張り魚(ナ)と解した方が良い。

ハ=はニハと同意義で、ニハから転じて来た様に考える、ニハ、は初め海面の意味に用いられて居たものである。即ち万葉集卷三

いざ兒等、敢えてこぎ出でん、ニハも靜けし(三八八)の歌に依り明である。この海面から、更に二様の意味に変じて来ている事に気がつく、即ち、其の一つは、海面の広い事から大広場という意味のナーとなり、更に庭(ナー)の意味にも転じている。他の一つは、海面が稼の場所であると意味から一定の場所を指定する、バ、に転訛している。即ち、漁(アサリ)の庭(ニハ)が漁場(アサリバ)となった様に、仕事バ、遊びバ等は其の例である。

以上の如く考えて来た場合那覇の意味も明になった事と思う。即ち、魚庭(ナニハ)であり魚場(ナバ)である。つまり魚多き海面という事から自然、漁りする場所という事になったものである。波之上宮所在地の「ナンミー」も波之上ではなく「魚の海」の約に相違ない。昔から那覇が釣場であった伝説は多い。波之上宮由来記にも南風原の崎山子がこゝに釣をなし、尚円王が内間御鎖時代に泊あたりで釣をしている。これは単に海であったという許りでなく漁の多かった事を意味するものである。

この地許りでなく、同じ名称の地は諸所にある。
土佐国安藝郡に奈半(ナハ)鄕があり、播磨国赤穗にも那波(ナハ)があって塩の名所として知られている。 

◎縄(ナハ)の浦ゆ背向に見ゆる奧つ島

榜き回む舟は釣為すらしも 

◎縄の浦に塩燒くけぶり夕されば
  行き過ぎかねて山にたなびく、

という万葉の歌中の、縄(ナハ)も亦同じ地名である。釣する景色塩焼く煙り那覇と思い合せて一興ある事である。

大阪の古名、浪速(ナニハ)は、浪華でも難波でもなく魚庭即ち魚多き海面という事である。

那覇全体が魚場(ナバ)であったでしょうがしかし、この海岸を廻って色々の魚場(ナバ)があって各々名称があった事を想像する、例えばウチナバ、外ナバ、とか或は小ナバ、大ナバ等という名称があったに違いない。現在小那覇、我那覇、與那覇等という名はこの辺を物語っている様な気がする。


2022年1月4日(火)

 2019年12月21日に山原の神行事(シニグ・海神祭)の報告をしたことがある。大宜味村のウンガミについて、その特徴と祭祀組織についてまとめる必要があり、過去に報告したレジメを引き出してみた。使えそうだ。今年のスタートの原稿は「海神祭・シニグ」から。

はじめに
 1、北山の領域(北山文化圏)の痕跡
 2、シニグの分布と名称
 3、祭祀(シニグ)の名称
 4、祭祀の「流し」―流し―が意味するもの
 5、祭祀に見られる凌ぐ(シニグ)流しと弓(ヌミ)を持った所作(猪狩)
 6、祭祀での猪狩は豊漁・豊作・豊猪と同様
おわりに

2、シニグの分布と名称

シニグは本部半島から北部から東海岸に見られ、東海岸は与那城(現うるま市)あたりまで分布している。北の方は世論島や沖永良部島、神アサギは奄美大島の南側の加計呂麻島あたりまで見られる。神アサギの分布とシニグがかぶさった地域に見られる。さらに古くは北山の領域と重なる。

 与論のシニグはサークラごとに行っており、沖縄本島の間切は成り立っているが、まだ村(ムラ)が緩やかなころ(マク・マキヨ)の形が与論島や沖永良部島には残っているのではないか。沖縄側のシニグは村落ごとに行われ、1609年の薩摩侵攻以降、近世の村の形で行っていると見られる。与論のシニグは古琉球のシニグの形をそのまま継承しているとみてよさそうである。シニグの名称はいくつもあり、ここでは「流し」の所作を中心に紹介する。今帰仁あたりでは複数の祭祀が一つにまとめられたように見られる。国頭ではシニグとウンガミが交互に行われているのはその例か。ウプユミとワラビミチが同日に行われた事例(湧川)。 

シニグは本部半島から北部から東海岸に見られ、東海岸は与那城(現うるま市)あたりまで分布している。北の方は世論島や沖永良部島、神アサギは奄美大島の南側の加計呂麻島あたりまで見られる。神アサギの分布とシニグがかぶさった地域に見られる。さらに古くは北山の領域と重なる。

 与論のシニグはサークラごとに行っており、沖縄本島の間切は成り立っているが、まだ村(ムラ)が緩やかなころ(マク・マキヨ)の形が与論島や沖永良部島には残っているのではないか。沖縄側のシニグは村落ごとに行われ、1609年の薩摩侵攻以降、近世の村の形で行っていると見られる。与論のシニグは古琉球のシニグの形をそのまま継承しているとみてよさそうである。シニグの名称はいくつもあり、ここでは「流し」の所作を中心に紹介する。今帰仁あたりでは複数の祭祀が一つにまとめられたように見られる。国頭ではシニグとウンガミが交互に行われているのはその例か。ウプユミとワラビミチが同一に行われた事例(湧川)。

▲北山の領域      ▲山原の主なグスク    ▲「おもろ」に謡われた地名


             ▲国頭村与那の海神祭(流れ場面)

2022年1月3日(

 正月の中日、恩納村瀬良垣、恩納までゆく。

【恩納村瀬良垣

 瀬良垣は、神アサギ・神社?・神屋・古川・御嶽・港へ。古島(フルジマ)と古島ガーの確認したかったが山手に国道が通り、これまでムラ・シマを見てきた集落移動の指標が崩れてしまった。サーシパナリの龍宮神の祠をみ、フナウキグムイの軽石、満潮時に打ち上げられた軽石の層、それも令和三年の歴史に刻まれるのであろう。

 

 

【恩納村恩納

 恩納はまず『琉球国由来記』(1713年)で「城内之殿」と「カネクノ殿」、そして「神アシアゲ(神アサギ)」は両総地頭と関わっている。祭祀は恩納ノロの管轄である。恩納間切が創設された1673年以前の辞令書である(1584年と1658年)(『補遺伝説 沖縄歴史』昭和7年グラビア)。辞令書と『琉球国由来記』(1713年)の記事は恩納の歴史をつづっていく貴重な史料である。

 ノロ殿地は番所跡地に移設される。番所跡地の後方の路地をあるいていると、地頭代を務めた屋敷(拝所)と出会いムラ・シマ踏査は興味が尽きない。万座毛入口の「恩納奈辺」の碑は移設か。海岸沿いの遊歩道を横切っていると一人の老人がいい場所教えてくれるとのこと。踊ガマであったがそこまで行くことができなかった。


 
 


2022年1月2日(

 寡黙庵の庭の木々の剪定。庭が広く見えます。新型コロナで今年も訪問者はなし。ホウライカガミやパパイヤなどが大分成長。桜花がチラホラ、つぼみが膨らんできています。今年の元旦は「寡黙庵」で一日中ボーと過ごす。

 
▲ハイビスカスが成長              ▲ハイビスカスの刈り取り跡

 
▲門から御嶽への神道           ▲「寡黙庵」の正門(年末に芝刈り

 
▲神アサギと拝所をパチリ      ▲オオゴマダラの食草のホウライカガミが大分成長

2022年1月1日(

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。マイペースで一つ一つ片づけていきます。


・1796年(嘉慶1) 大宜見王子朝規 謝恩使(尚温襲封)で江戸り時の宿泊した宿か。毛氏一族が静岡県のお寺で
 撮影したと聞かされいる。玉川王子泊?

 そのつながりで瀬戸内海の室津を訪れたことがある。それと四国から運ばれたという大阪城の大石。たどりつかず、室津の港に遺された石があったのを思い出す。

20091125(水)過去メモ

 兵庫県室津までゆく。瀬戸内海沿いのいくつかの津(湊)の予定が天気やボケのため予定変更。姫路城・明石城・大槻城跡などへ。瀬戸内海沿いの湊への関心は、参勤交代や江戸参府や江戸上り(江戸立)のコースであること。琉球や薩摩から大阪へのコースが何故、九州の西海を通り、下関から瀬戸内海へ入るのか。そのことを体感したくて。

 山陽網干(アボシ)駅からタクシーに乗り賀茂神社の下で降りる。賀茂神社前の待ち合い場所?で、女将さんが、す~とお茶を出してくれた。神社では七五三のお参りが行われている。扁額がいくつもあり、一つひとつ読み解きたいのだが。琉球からの使者の墓でもないかと。「湊口御番所跡」の標があり、隆福寺跡ともある。その近くに大阪城築城のとき運ばれる途中の石が水没していたのを引き揚げてある。本陣薩摩屋跡や本陣肥前屋跡などに室津の様子が彷彿。多いとき6軒の陣屋があり、室津を本陣とした藩が63もあったという(室津の町並み)。

 「室津民俗館」と「室津海駅館」へ。館は「嶋屋」(三木家)と「魚屋」(豊野家)を資料館にしてある。「室津民俗館」では「宮本常一と瀬戸内海あるく巨人の見たふるさとの海」と特別展が行われていた。宮本常一氏が撮影された昭和20年代の室津の写真を何点か目にすることができた。「宮本常一の旅に学ぶ」の講演があったが、時間がなく聞くことはできなかった。そこで沖縄県恩納村の海岸線(湊・江)について書き記すことのヒントをいくつかもらう。参勤交代や江戸参府や朝鮮通使への饗応の品々が展示されていて興味深い。琉球からの使者も、そこを通過したのか。室津行きで瀬戸内海のイメージが変わってしまった。古くから瀬戸内海を船が往来していた理由がわかったような。