2011年8月の調査記録
                    
沖縄の地域調査研究(もくじへ


2011年8月31日(水)

 午前中、「今帰仁城跡調査研究整備委員会」に出席する。午後から企画展琉球のノロ制の終焉(仮称)の準備にかかる。ボツボツ進めて行く。それから五つの本箱をつくり寄贈いただいた書籍を納める(ほぼ完了)。時々、本に目を通してみましょうか。なにか余裕がでてきたような・・・。
  
                    企画展の展示にかかる(開催は10月下旬?)

  
                                        


2011年8月30日(火)
 
 「史跡今帰仁城跡附シイナ城跡保存管理計画策定委員会」に出席。
 
 急きょ、風水に関わる古文書が・・・(時間がないので詳細は改めて)


2011年8月29日(月)

 午後から古宇利小学校の教職員の研修会。歴史文化センターの職員とともに古宇利島内を散策する。24日の海神祭(ウンジャミ)の痕跡が残っていた。以下の順序で廻る。最後は渡海の浜で参加者の意気込みを伺いカキ氷でまとめ。お疲れ様でした!(渡海の浜でタコのお土産をいただく。感謝)

 学校のすぐ下の自然岩を使った集水施設
 神アサギ
 アサギナー/豊年祭の舞台/コの字型の印/フンシヤーと祠
 ナカヌウタキ
 海神祭の神道(ウチガミヤ・ヒジャヤー・ヌルヤー)
 お宮(クワッサヤー)/ハーブイ(冠)
 シラサ(岬)
 人類発祥伝承のガマ/チブヌハマ/ジャンジャンイワ
 ウットミ・パットミの行われる場所
 ハンゼーのガマ
 ハマンシのウタキ(ビジュウルヌメーぬウタキ)
 渡海浜(トゥケーヌハマ)/ポットホール(円筒状空洞地形)

 
     海神祭が行われるアサギナー      神人が被るハーブイ(冠)

 
   ハマンシヌウタキへの入口付近     渡海の浜でのまとめ(かき氷はまだ!)


2011年8月26日(金)

(「ムラ・シマ講座」の下見。今帰仁村今泊)

 本部町嘉津宇に「刺繍」をほどこされた服がある。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で紹介されている。その後、『服飾の研究』などで紹介されている。『沖縄県国頭郡志』の以下の文面を手掛かりに検討してみることにする。
 その前に、これまで『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で紹介されている遺物や旧家などがどうなっているか、その確認をしておく必要があることから、その調査を進めてきた。嘉津宇の服や布片などの確認もその一つである。その現物の着物を見学する機会があった。服や模様や刺繍などについて全くの素人なので触れることはできない。

 首里王府から献上された山原の旧家が持っている(いた)情報を掲げてみる(他の資料については別稿でまとめることにする)。基本的に衣類や布地は首里王府からの献上物である。ただ、伝承では北山の滅亡との関係で捉えられているのが目につく。他の地域に残る古い衣装類はどうだろうか。

・国頭村奥間座安家(アガリー)
  尚円王より拝領の伝承:黄冠・水色の絹衣黄色絹帯地及黄金カブの簪

・国頭村辺戸の佐久真家  
  70年前(大正8年から)まで王の衣冠宝物保存

・本部村(町)並里(満名)上の殿内
  按司位牌三個、古櫃の中に古刀三振、衣類二枚(一つは絹地、一枚は更紗)繻子の古帯一筋、羽二重の襦袢一枚を
  秘蔵(中昔北山城主滅亡の際王族が隠遁せるのか)

・花の真牛(本部町伊野波)
 真牛、乙樽同様その年代や素性は定かにあるず。王妃となる才媛なり。城内では花の真牛が絢爛なる七つ重ねの礼服をする。

・久志村(現名護市)川田(根謝銘屋)
  同家には絹地の衣類、古刀、黄金のかぶの簪

・大宜味村田港(根謝銘屋)
  田港の根差目屋(本家)に絹衣数種、黄金カブの簪一個(秘蔵)。

・大宜味間切根差部親方
  ・・・其の衣類は根謝銘大城某の宅に保存せり。
  
・国頭村字安田(屋号:川口)
  仲今帰仁城主の一族の伝承あり。黄金の男差簪、古い短刀一振。古文書(辞令書)

・名護間切名護村長寿大城
  尚敬王34年次良大城101歳に黄冠を賜い、絲綿一把綿布二端を賞与される。

・金武村(現在町)金武宜野座及び安次富家
  両氏は歴史上の人物阿波連親方の後胤なりしの伝承。宝石絹服等を秘蔵。

・今帰仁阿応理屋恵按司家(阿応理恵御殿)(所蔵目録)
  ・冠玉たれ一通 ・同玉の緒一連 ・王の胸当一連 ・王の御草履一組 ・玉かわら ・同玉かわら一大形 ・二十二小型 
  水晶の玉百十六。


【本部町嘉津宇仲村渠家:ユレー家】


 同家にも前記並里家の如く上座に按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて左の遺物を納めたり。
 一、絹の琉服一着(水色の七子地に花模様の古代刺繍あり)
 一、八巻用サージ二筋(金襴にして梅花模様あり長各一尋)
 一、布片二種(水色絹地及黄色絹地に孔雀、鳳凰等の巧妙なる古代刺繍あり)
 同家の口碑に依れば阿応理恵按司の礼服なりしという。又北山滅亡の際貴族此家に隠遁して世を避けたりとも伝う。然るに右遺物の保存せらるる外何等の記録なく従って其の人物の当家との関係及び墳墓等全く不明にして五里霧中に葬らるるのみ。

 


2011年8月25日(木)

 「今帰仁村今泊の海神祭(ウンジャミ)」について平成になって何度か調査をしている。まとまった報告は1988年と1990年の調査をベースにおこなっている(「沖縄文化」(第27巻1号)(199111月発行)所収)。その時の様子と比較すると神人が少なくなったこともあるが、簡略化されているので、何年度の調査なのか、その明記が必要である。そうすることで、祭祀を歴史資料として扱うことができる。そのことは「古宇利島の祭祀」や「今帰仁村今泊の海神祭」で問いかけたことでもある。調査には石野、菜美路も同行したので、別の視点での報告がなされます(やんわりとした)。

 今回の今泊の海神祭の調査記録をしながら、「祭祀を歴史的な視点」での祭祀について、再度確認した想いがある。祭祀は生き物であるということも。

【今帰仁村今泊のシマウイミ】(三日目)


 
四時頃から今泊集落内のシマウイミが行われた。それは戌の日、亥の日、子の日と続く三日間の祭祀である。ウイミや海神祭ともいう。三日目の子の日は、フプハサギ(親泊神ハサギ)から始まりハサギンクヮー(今帰仁神ハサギ)まで。これまで見てきたのはハサギンクヮーからスタートし、フプハサギで終わっていた。今回は逆のコースとなっていた。フプハサギでは神人によるウタや舞いがあったが、今では行われない。参加者はノロさん、区長さん、書記さんでした。

 また、それが終ると男神人達がいた頃は、ムラヤー(今の公民館)の西側の道路(シニグイ道)でのトントトトンを行っていた。その時の所作にアイゴをすくう場面もあった。今回はフプハサギでのウガンとハサギンクヮーでのウガンのみであった。供えも物は線香・お米・お酒・豆腐でした。

  
  フプハサギでのウガン     ハサギンクヮーでのウガン   供え物の豆腐     

【今泊(今帰仁)のウフユミの様子(大正の頃】
(『沖縄県国頭郡志』)


  神職行列の順序はサキモリ(先守)、ノロ、供ノカネイノロ、クロモリ、ヨモリの五人相続き其の後に神女数人を従へ(其の中に
  志慶真乙樽及び花の真牛の身代わりあり)白衣の装束に白八巻をしめ大弓を持ち馬に乗りて(今は馬を牽くのみ)今帰仁城内
  に登り本丸の際場に於いて唐船の模型を擁し七廻りしたる後、天神地祇(テンチヂ)を祀る。而して城の西方海神道と称ふる間
  道より一同海岸に下り海水にて口を漱ぎ海神を拝し、更に神アシアゲに至りて漁りの真似をなす。此の祭りには男及び懐妊者
  を伴うべからずという」


【大折目・海神祭】(『琉球国由来記』(1713年)
  毎年七月大折目トテ、海神祭、且作毛之為ニ、巫・大根神・居神、都合二十人余、城内ヨウスイト云所ニ、タモトヲ居へ、
  花・五水(両惣地頭ヨリ出ル)祭祀シテ、アワシ川ノ水トリ、巫・大根神、浴テ、七度アザナ廻りイタシ、於庭酒祭ル也。(自按  司出ル)
  ソレヨリ縄ヲ引張舡漕真似ヲ仕リ、城門外ヨリ、惣様馬ニ乗、弓箭ヲ持、ナガレ庭ト云所ニ参リ、塩撫親川ニイタリテ水撫デ、又城内、ヨウスイニテ、祭祀也。


2011年8月24日(水)

 各地で祭祀が行われる。どこの調査をしようかと迷う。どうしても調査をしておかなければならに中城ノロのウプユミ。時間がずれて行われたので今帰仁グスクでのグスクウイミ(海神祭:2日目)の調査ができた(詳細は別に報告する)。学芸員実習が終ったのであるが、調査付けである。

【中城ノロのウプユミ】(旧暦8月24日最後の亥の日)

 旧暦7月最後の亥の日。中城ノロ管轄の祭祀があり、ウプユミ(大弓)という。中城ノロの重要な祭祀である。「その時馬に乗り、下司は馬の手綱を引張って五つの部落(崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次)の神アサギを廻る。御供は神人も氏神以下崎守神も同道します。昔の壮観でしたが、現在(1950年)は略式で馬上に乗りません」と。現在はもっと簡略化されている。今回の経過の流れは、以下の通りである。
 五字(崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田(諸志)・兼次)の書記が仲尾次の神ハサギに集まる。
     (出発前に神人が仲尾次神アサギでのウンガンをすませる)
 仲尾次神ハサギから国道505号線に車で、ジニンサガーラ沿いに下りナカグスク(スガー御嶽)へ。
 ナカグスク(スガー御嶽)の前に書記が揃うと草が刈り取られた道を通りイビ(イビの前か)へ。
 一人の神人が神衣装をはおり、香炉の前で立ったままウガンをする。
     (ナカグスク(スガー御嶽)でのウガンが終ると各字の書記は各字の神ハサギへ。
 諸志の神ハサギ
 与那嶺の神ハサギ
 仲尾次の神ハサギ
 崎山の神ハサギ
 兼次の神ハサギ

 中城ノロ管轄村でのウプユミでのノロの唱えに、この祭祀の様子がよく伺える。名称のウフユミ、他の地域で海神祭(ウンジャミ:ウンガミ)と呼ぶこともある。その中でヌミ(弓)やエイ(槍)が歌われ、他の地域で猪を射る場面に相当する。舟の往来、航海安全、地元だけでなくシマを出た人々の人々の健康やムラの繁栄なども唱えられている。
  (この祭祀は、現在行われているウガン場所とかみ合わせると、戦前の祭祀の姿は復元できそうである)

 
   ナカグスク(スガー御嶽)でのウガン     諸喜田神ハサギでのウガン

【中城ノロのウプユミの唱え】(中城ノロ:金城トミさん、平成4年頃)

  ナカグシクぬ うがみがなし (中城の神様よ)
  ウトゥチヂヤビシィヤ
  また、トゥイドゥシ しちぐゎちぬ (酉年の旧七月の)
  あと、イ (後の亥)
  ウフユミぬカミングヮ (大折目の神人:子)
  ウスゥルイサービティ (打ち揃って)
  ウトゥムチ アギヤビーシヤ (捧げ持ちが おあげ致しますのは)
  ムカシユーヤ ウーニヌ イッチャイ イジタイ (昔の世は 舟が入ったり 出たり)
  キーシキラシミソーチ (気をつけて下さいませ)
  六ヶヌ (六つの村の)(崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・志慶真・兼次)
  クヮマーガ カミガナシーチ マムティ トラシミソーリ(子や孫を神様が守って下さいませ)

  また ムカシユーヤ ユミ エイ アギティヌ チトゥーミ エービシタガ 
          (また、昔の世は、ユミ(弓)やエイ(槍)を持っての勤めですが)
  クヌユヤ ユミ エイ ムッチュウル カミングヮン ウイビラングトゥ 
          (今の世はヌミ(弓)やエイ(槍)を持つ神人がいませんので)
  ウカミガナシーチ ウッサシ シミソーチ フスクン タティラングトゥニ (神様よ お察し 下さり 不足が立たたないように)
  カミングヮター マムティ 六ヶヌアザヌ クヮマーガ (神人達を 守って 六ヶの字の子や孫を)
  ナカグシクヌ ウガミナガシーチ チヂラシバル (中城の神様で 継承(頑張らせる?)させることで)
  トゥイ ハネマーシミソーチ (取り囲んで:みんなで保護して?)
  タビヌ クヮーマガ チジウチヌ クヮマガン ムル (旅に出ている子や孫、地元にいる子や孫も皆)
  ケンコウ マムティクミソーリ (健康を見守って下ださいませ)


六ヶヌは崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田・兼次・志慶真の六ヶムラを指している。志慶真村は本来今帰仁ノロ管轄の村であるが、
  近世になって故地から移動。明治36年に諸喜田村と志慶真村が行政として一つになり諸志となる。ノロ管轄の異なる志慶真村の
  神ハサギまでウガンをしている。(ノロの意識としては行政は一つになったが、本来すべきではないことは認識されている。
  神ハサギを1950年に一つにしたが、再び諸喜田と志慶真の神ハサギに分けてある)


【今帰仁グスク・グスクウイミ】(海神祭)(二日目)

 今帰仁グスクの平郎門
 今帰仁グスクの神ハサギ跡
 カラウカー
 火神
 上の御嶽(イビ)
 下の御嶽(イビ)
 グスクからシバンティナの浜
 プイヌモー(今帰仁ノロ殿内の前:今帰仁グスクへ遥拝)

 
 今帰仁グスク内(ハサギ跡)でのウガン   シバンティナ浜でのウガン(潮撫で)


2011年8月22日(月)

 学芸員(博物館)実習報告!


2011年8月16日(火)

 
今帰仁村湧川で9月10日(土)に豊年祭が行われる。調査にあったての予備知識が必要なのでその下見に公民館に伺う。青年や婦人の方々が準備に取り掛かっている。8月31日に「国立劇場おきなわ」で沖縄・宮古・八重山の唄と踊りの講演記録の鑑賞会が開催される。今帰仁村湧川の路次楽も上映される。昭和447月に民俗芸能公演として国立劇場小劇場で収録されたものである。出演者はパスポートを必要とした頃である。

 その時(42年前)に出演された大城三郎氏と嶺井政明氏は健在である。当時ガクの奏者の与儀富三氏は他世されているが、この国立劇場派遣後は、現在のガク奏者与儀弘文氏が継承されている。小さい頃から父富三氏のガク奏を聴いていたので、奏することができ自然と継承できたという。

 与儀弘文氏が作製された二本のガクを見せてもらった。本体部分はリュウキュウハリギリ(ダラブ)、吹口はマキ、ラッパ状の部分はユシギ?(かつてはブリキ)。

  (豊年祭での路次楽・棒・獅子舞などの調査予定)

 
昭和42前の自分の顔写真に見入る(手前:大城三郎氏、現奏者与儀弘文氏、右:嶺井政明氏)

 
  現奏者与儀弘文氏策   九州地区民俗芸能大会派遣記念写真(平成12年)

 
湧川公民館に掲げている豊年祭の記念撮影       湧川で行われる「七福神」


2011年8月15日(月)

 
下の画像は源河ウェーキの建物と門入口の石垣である。また、源河ウェーキ近くに源河ノロ殿内跡がある。源河ウェーキについては別で報告するが、源河ノロ殿について。

 『琉球国由来記』(1713年)に登場する羽地間切の巫(ノロ)は真喜屋巫 中尾巫 我部巫 屋部巫 トモノカネノロ 伊指川巫 源河巫がいる。「明治16年以降 ノロクモイ書類綴 羽地番所」(琉球大学図書館蔵:源七文庫)に仲尾ノロ(仲尾村) 屋我ノロ(鐃辺名村) 我部ノロ(我部村) 真喜屋ノロ(真喜屋村)の四名のノロ(ノロクモイ)についての資料がある。何故か伊差川ノロと源河ノロの「社禄受取」や「受領」の資料がない。それはノロはいたであろうが、「社禄」を請求したり「受領」する資格を失っていたのかもしれない。

 『沖縄県国頭郡志』(大正8年)の国頭郡内のノロクモイ(ノロ)を見ても、真喜屋のろ(親川タマ)・仲尾ノロ(金城マツ)・我部ノロ(島袋ウシ)・我部ノロ(玉城タマ:鐃辺名村在)は登場するが源河ノロと伊差川ノロは記されていない。両村は明治の頃からノロが継承されていないのであろう。ただし、「沖縄島諸祭祝女類別表」(明治17年頃か)には源河と伊差川の両村に「ノロクモイ火神」があるので、ノロの存在は確認できないが、ノロがいたことは間違いない。

 源河ノロ火神は昭和3年に「火神合祀所」(クーグシクの側)に統合されている。社禄や国債の受領資格は失うがノロとしての役割を担う神人は存在している。


  
      源河ウェーキ(昭和30年代)         源河ウェーキの屋敷の石垣

 
                  源河ウェーキの近年の石垣の様子  


2011年8月12日(金)

 以前にも整理したような記憶だが、おぼろげなので再度確認のため。「各村旧藩中執行並に内法約束取調書」の恩納間切内法を地頭代山城武夫が沖縄県知事大迫貞清に提出された最後の部分にある連名である(明治191223日)。「進達」は明治191228日で国頭役所長朝武士干城である。各村に山當・耕作當・惣頭・掟などを配置し、村によっては夫地頭や下知人や仮掟を置いてある。掟が置かれていない村は夫地頭が掟を兼ねている。

 恩納間切の地頭代は『琉球国由来記』(1713年)の頃は「谷茶大屋子」を名乗っている。その後、1756年には前兼久親雲上を名乗っている(「数峰天遠」の扁額:恩納村博物館蔵)。由来記(1713年)の夫地頭は冨大屋子・瀬良垣大屋子・前兼久大屋子であるが、地頭代が谷茶大屋子から前兼久親雲上に変わった時に、夫地頭も冨着親雲上・谷茶親雲上・瀬良垣親雲上に変わった見られる。地頭代の谷茶大屋子が夫地頭となり、夫地頭であった前兼大屋子が地頭代前兼久親雲上となる。

 明治19年、恩納間切に恩納村 谷茶村 冨着村 前兼久村 仲泊村 山田村 真栄田村 瀬良垣村 安富祖村 名嘉真村の10ヶ村である。明治5年の恩納間切の村数も同じ10ヶ村である。 

【明治19年の恩納間切の役人】

 恩納間切 
地頭代 山城 武夫

【恩納村】
  ・山當 金城 盛保  ・耕作當 山城 繁慎 ・惣頭 伊波 得和 ・ 安富祖 豊順 ・下知人 大城 保福
【谷茶村】
  ・ 山當 當山 正取 ・耕作當 瀬良垣 得正 ・惣頭 瀬良垣 寛和 ・夫地頭 伊藝 安保
【冨着村】
  ・山當 富着 豊佐 ・耕作當 富着 佐吉 ・惣頭 仲村渠 助藏 ・夫地頭 金城 榮秀
【前兼久村】
  ・山當 松田 清信 ・耕作當  松田 清保 ・惣頭 松田 勝利 ・下知人  金城 祐藏 ・假掟 富着 金政
【仲泊村】
  ・ 山當 島袋 順清 ・耕作當 山内 明順 ・惣頭 喜納 忠清 ・ 山城 眞繁 ・下知人 新里 全仕
【山田村】
  ・ 山當 比嘉 新宜 ・耕作當 金城 森安 ・惣頭 比嘉 勝藏 ・ 喜納 保得
【眞榮田村】
  ・山當 長濱 長安 ・耕作當 安富祖 豊財 ・惣頭 安富祖 豊喜 ・ 池原 方榮
【瀬良垣村】
  ・ 山當 名嘉眞 慶助 ・耕作當 當山 勝藏 ・惣頭 當山 嘉吉 ・夫地頭  金城 勵登 ・下知人 當山 房太
【安富祖村】

  ・山當 當山 光吾 ・耕作當 當山 幸吉 ・惣頭  比嘉 篤三 ・ 山城 善盛 ・下知人  山城 繁道 ・  喜納 仁信
【名嘉眞村】
  ・山當 島袋 実助 ・耕作當 仲嶺 康種 ・惣頭 宜野座 兼輔 ・ 當山 寛藏

※●
の人物は「砂糖消費税法改正之儀ニ付請願」にも登場する人物(七人)。

 そこで恩納間切(現村)創設後(1673年)の村の変遷を丁寧にみていくことにする。まずは史料の整理から・・・。

『琉球国由来記』1713年)


 恩納村 真栄田村 読谷山(山田)村 富着村 瀬良垣村 安富祖村 名嘉真村
 谷茶村 仲泊村 前兼久村 

「間切村名尽」(附宮殿官衛名)17131719年)(天底村が本部間切内、湧川村が登場していない)
 恩納村 真栄田村 安富祖村 瀬良垣村 名嘉真村 谷茶村 仲泊村 
 富着村 前兼久村 蔵波村 山田村

『琉球国旧記』1731年)(8座)
 恩納邑 真栄田邑 読谷山邑 富着邑 瀬良垣邑 安富祖邑 名嘉真邑
 前兼久邑 仲泊邑 塩屋邑 谷茶邑 久良波邑

「間切村名尽」(恩納間切部分落丁)(1638年以降)(天底村が今帰仁間切内:1719年、湧川村が登場:1738年)
   
  「琉球一件帳」と同様の内容か。

「御当国御高並諸上納里積記」1738年以降) 恩納間切
  仲泊村 前兼久村 真栄田村 (塩屋村) 読谷山村 (蔵波村) 富着村
  谷茶村 恩納村 瀬良垣村 安富祖村 名嘉真村

「琉球一件数」1738年以降) 恩納間切(12ヶ村)
  仲泊村 前兼久村 塩屋村 真栄田村 蔵波村 古読谷山村 冨着村 
  谷茶村 恩納村 瀬良垣村 安富祖村 名嘉真村

・「数峰天遠」(1756年)(間切役人の出身村:地頭代は前兼久親雲上)(画像は『恩納村誌』より)
  ・安富祖村 ・恩納村 ・前兼久村 ・恩納村 ・仲泊村

 
 【表面】
   「数峯天遠」(王文治印)
 【裏面】 
    乾隆丙子冠船御渡来之時此表文字相求候
    呉姓久高筑登之親雲上幸孝検者役之
    時額作り候也 
            地頭代安富祖村 前兼久親雲上
            首里大役恩納村 當山筑登之
            大掟  前兼久村 當山仁屋
            南風掟  恩納村 長浜仁屋
            西 掟  仲泊村 古波蔵仁屋
    乾隆二十八年癸未九月吉日 
    晁姓吉本筑登之親雲上要親彫之


「琉球藩雑記」(明治5年) 恩納間切12ヶ村
  恩納村 瀬良垣村 読谷山村 安富祖村 富着村 久良波村 谷茶村
  前兼久村 真栄田村 名嘉真村 仲泊村 塩屋村
 
「沖縄県統計慨表」(明治13年)
 恩納村 瀬良垣村 安富祖村 名嘉真村 谷茶村 富着村 前兼久村
 仲泊村 山田村 真栄田村 

「沖縄島諸祭祝女類別表」(明治17年頃)(田代安定撰)(10ヶ村)
  恩納村 谷茶村 冨着村 前兼久村 仲泊村 山田村(蔵波含?) 
  真栄田村(塩屋含む) 瀬良垣村 安富祖村 名嘉真村

「内法約束取締調書」(明治19年) 恩納間切(10ヶ村
  恩納村 谷茶村 冨着村 前兼久村 仲泊村 山田村 真栄田村 
  瀬良垣村 安富祖村 名嘉真村 

・沖縄旧慣地方制度】(明治26年)
  恩納村 谷茶村 富着村 前兼久村 仲泊村 山田村 真栄田村 
  瀬良垣村 安富祖村 名嘉真村

・明治36年の恩納間切の村(整理中)
  名嘉真村 安富祖村 瀬良垣村 恩納村 谷茶村 富茶村 前兼久村
  仲泊村 山田村 真栄田村 塩屋村 喜瀬武原 南恩納 宇加地 太田) 

・平成23年(現在の恩納村)
  名嘉真 安富祖 喜瀬武原 瀬良垣 太田 恩納 南恩納 

谷茶 冨着 前兼久 仲泊 山田 真栄田 塩屋 宇加地


2011年8月11日(木)

 盆明けの818日から学芸員実習が始まる。職員で実習内容の大まかな打合せをする。宿泊はのどかな森の中。台風の後片づけ、旧盆がやってきたので清掃をする。今朝、画像をパチリ! 謝名は五年廻りの豊年祭の年にあたっている。祭りの準備が始まっているので、練習の様子が見れるかも(一部変更あり)。

  18日(木) 今帰仁入り
  19日(金) 実習内容の説明と企画展「沖縄のノロ制と各地のノロ」(仮称)の展示概要
  20日(土) 沖縄の歴史と文化、一部展示作業
  21日(日) 他の舘(ちゅら海水族舘)、シーカヤック(水上から見る視点)
  22日(月) 伊是名島(伊江島に変更)
  23日(火) 舘内で展示作業  
  24日(水) 今帰仁を離れる/中城ノロが関わる祭祀(職員はウプユミ調査あり)

 (下の建物は「寡黙庵」に利用しています)
  
 
  台風や浸水の心配はありません!     実習生達には馴染みのない位牌もあり!

 
  屋上から見渡すと少し紅葉しています        後ろの森はウタキなり


2011年8月10日(水)

 「国頭郡今帰仁間切 土地台帳 兼次村 五冊ノ内五」の土地台帳がある。所有主の番地と所有者名を整理すると、「砂糖消費税法改正之儀ニ付請願」(明治34年)と大方一致する。これらの資料から見えてくるのは、明治36年段階で一筆毎に地番がつけられているが、その段階で土地の所有者は、まだ屋敷番地で表されている。土地全体の通し番への変更は、「国頭郡今帰仁間切 土地台帳 兼次村」からすると一様ではない。

 例えば、最後の地頭代をした諸喜田福保の住所(家番号)は二つの資料で71番地であるが、大正2年に26番地となる。諸喜田徳吉は23番地から101番地とされるのは明治42年である。8番地の上間真助(嘉永元年3月5日生)は明治44年に109番地として登録される。番地の変更は所有権の保存、所有権の移転、家督相続などの時に、通し番の番地でなされている。そのあたり、詳細にみていく必要がありそう。

 それは明治36年に終了した「土地整理」以前の地割制(土地保有)の名残りがあるからである。諸志(諸喜田村と志慶真村の合併)の「土地等級申告控」(明治34年)と合わせ見ると今帰仁間切の諸志村と兼次村の地割の実態(土地保有)をみていくことが出来そうである。

   

 
 「砂糖消費税法改正之儀ニ付請願」(明治34年)の一部(兼次村部分)


2011年8月9日(火)

 前期の最後の講義と学生一人ひとりの評価の確認でした。7月31日に調査した今年のシニグをベースに「国頭村安田のシニグ」について話をしました(画像と動画の説明はタマキ)。

 祭祀を調査するときのポイント。祭祀の全体の流れ、そしてそれぞれの場所での所作や道具などに気配りをしながら見て行きます。それと村の歴史と重ねながら見て行きます。
 
 画像、あるいはレジュメに目を通して安田の集落のヤンバルクイナやノグチゲラなどの鳴き声を聞きながら散策するのもいいでしょう。16週受講(奄美から八重山まで)してくれた学生達、ごくろうさんでした。毎回、感動的なレポートや質問に目を通してきました。それはありがたいものです。ここで一区切り。これから後期の講義に向けてのテーマ探しでもしましょうかね。

  はじめに
  1.安田は三つのマク・マキヨ規模の集落からなるムラ
  2.安田の集落の展開と歴史
  3.安田のシヌグ(2001年の調査報告)
  4.安田のシヌグ(山降り)に見る祈り
  5.田草取りにみる稲作儀礼
  6.ヤーハリコーにみる船の水進儀礼
  7.ウシデーク(女性の舞い)
  まとめ
   
 




2011年8月8日(月)

 朝から職員は台風9号の後片づけに追われています! お疲れ様です。


2011年8月3日(水)

 台風9号が接近。これから台風対策へ(学芸員実習生の宿泊家)。備えあれば憂いなしか。沖縄本島は避けてくれるかな?

【初任者研修会】

 午後から村内の教職員の研修会。午前中は今帰仁グスクの発掘現場と今帰仁グスク、午後から今帰仁村の文化財と諸志のウマチー、それと国頭村安田のシニグの紹介(動画)をする。お疲れさんでした。

 

【金武間切・読谷山間切の方切】

 「方切」を金武間切に視点をあててみる。これまで久志間切や恩納間切の創設でみてきたが、「方切」という切り口でみるとどうなるか。
 まず、1673年に「方切」が行われた。つまり金武間切の間切境界線の変更である。その時の間切の変更をすることで久志間切と恩納間切が創設さる。単に金武間切のみの変更ではなく、久志間切の創設で名護間切や読谷山間切の境界線(方切)の変更がなされた。その時の様子を『球陽』で以下のように記してある。そこでの「方切」は「田地が広い、人民が多い」と、恩納郡(間切)を大里王子と佐渡山親方、久志間切は豊見城王子と久志親方に賜うことであった。
 そこで恩納間切と久志間切に組み入れられた邑(村)がどうだったのか整理してみる。

【一回目の方切】

 【始めて恩納・大宜味・小禄・久志等の四郡を置く】(1673年) 
   本郡の郡邑、田地甚だ広く、人民も亦多き者は、分ちて二郡と為す。其の金武郡内の四邑、亦読谷山の八邑を将て、
    合して恩納郡と為し、始めて向弘毅(大里王子朝亮)・毛国瑞(佐渡山親方安治)に賜う。後亦新に一邑を設け共計十二
    邑なり(二邑は合して一邑と為す。此の故に此くの如し)。……金武郡内二邑、名護郡十邑、合して久志郡を設け、始
   めて尚経(豊見城王子朝良)・顧思敬(久志親方助豊)に賜う。計十二邑なり。

 まず、1673年の「方切」以前の方切と関わる間切の邑(邑)の確認から。

【絵図郷村帳】(1648年)
  ・読谷山間切 前田村 古読谷山村 くらは村 中泊村 下ふづき村 上ふづき村 たんちや村 しほや村 (きんはま村)
   ・金武間切   おんな村 せらかち村 あふそ村 中間村  こちや村 くし村 へのき(こ)村  

【琉球国高究帳】
  ・読谷山間切  前田村 古読谷山村 ふつき村
  ・金武間切    恩納村 せらかち村 あふそ村 中間村  こちや村 くし村 へのき(こ)村

 「方切」以後の『琉球国由来記』(1713年)
  ・恩納間切  恩納村 真栄田村 読谷山(山田)村 富着村 瀬良垣村 安富祖村 名嘉真村 前兼久村 谷茶村 仲泊村
  ・久志間切  久志村 辺野古村 古知屋村 瀬嵩村 汀間村 嘉陽村 天仁屋村 有銘村 慶佐次村 大浦村 安部村 
            (川田村 平良村 1713年当時は大宜味間切)

【二回目の方切】

 二回目の「方切」は金武間切と久志間切(1673年)、久志間切と大宜味間切との間で行われている。久志間切番所を久志村から瀬嵩村に移転した時、古知屋村金武間切に戻された(1719年)。その理由は「久志間切に属するは不便」だとされる。古知屋村は久志間切の村に編入されるが、ノロは宜野座ノロ(金武間切)のままである。「方切」で村が他の間切になってもノロ管轄の変更はなされない。古知屋村が再び金武間切に戻ったのは「久志間切に属するは不便」とあるが、宜野座ノロの管轄村が二つの間切に分かれていることの不都合があったのではないか(ノロ地は管轄する村に分布する)

恩納間切のノロ


 『琉球国由来記』(1713年)の恩納間切のノロ
  恩納ノロ
  山田ノロ
  真栄田ノロ(現塩屋地内にあり。塩屋は元真栄田村地内)
  安富祖ノロ(ノロ殿内・勾玉あり。村ノロ?)
  名嘉真ノロ(辞令書・銀の簪・曲玉・白神衣装。鳳凰の団扇などがあったという)

 恩納間切は「方切」(1673年)後、村の新設があり、それがノロ管轄する村に微妙な影響を与えている。前兼久村が新設されると、前兼久根神(火神)が谷茶・仲泊・前兼久・富着の祭祀のいくつかを取り仕切っている様子が伺える。また、富着村の神アシアゲで行われる稲穂祭と稲穂大祭は山田ノロと谷茶・仲泊・富着・前兼久の四ヶ村の居神が掌っている。

  前兼久根神と瀬良垣根神の祭祀
     谷茶・仲泊・前兼久・富着の四ヶ村
     富着村での稲穂祭と稲穂大祭に谷茶・仲泊・富着・前兼久の四ヶ村の居神、それに

山田ノロが関わる。
     瀬良垣村のノロ管轄は恩納ノロで、神アシアゲでの祭祀と関わる。ただし、

「根神火神」は瀬良垣根神の祭祀となって
     いる。


2011年8月1日(月) 

 8年ぶりに「国頭村安田のシニグ」調査をする(旧暦7月最初に亥の日)。20018月と20038月にも調査をしている。2001年の調査報告は下に一部掲載してみる。10年前、あるいは8年前とどのように変わっているか。神人の減少は見られるが、祭祀の流れに大きな変化はないようだ。ここでは紹介していないが、ヤーハリコー、田植え、ウシデークと続く。調査に厚みをつけることができそう。

 山から海までの流れは、他の地域の「流し」「流れ」と呼ばれる場面がはっきりと所作に見られる。山から下りてくる神がムラや人々の悪物を払い除け、海に流している。それがシニグの本筋なのかもしれない。下の報告では『沖縄のろの研究』(宮城栄昌著)を引用したが、ここでは『沖縄県国頭郡志』(大正8年)を紹介することに。「川口家に黄金カブ・男用簪・一尺一寸五分位の古い短刀一振りを蔵せり」とある。その外に二枚の辞令書(1587年)が紹介されている(一部書き改めてあります。ご注意!)。

 一、しよりの御み事くにかみまきりの
     あたのさとぬし
   この内に四十八つかはみかないのくち 御ゆるしめされ候
   一人あたの大やこにたまわり申しより あたの大やこ方へまいる
    万暦十五年二月十二日

 一、しより御み事 くにかみまきりのあたのしろいまち
   この内に十四つかはみかないのくち 御ゆるしめされ候
    ………………………………
   このふんのおやみかない
    ………………………………
   のろさとぬしおきてかないとも 御めるしめされ候
   此ちもどは三かりやたにて候 此ちもどは三かりやたにて候へども
   万暦十四年に二かりやたなり申にいりくのみかないの三分一はおゆるしめされ候
   一人よんたもさおきての方へまいる
    万暦十五年二月十二日

【国頭郡字安田屋号川口】

  
  メーバから見た安田の集落    神アサギ周辺         ササの様子

  
       メーバの様子        ヤマナスの様子      ヤマナスの猪垣

  
    ヤマナスからの山降り     メーバからの山降り      ササからの山降り 

  
 三グループがトゥンチバルで合流    神アサギ前は    ヨリアゲ森の人々のお祓い

  
   浜で山に向っての祈り     浜で海に向っての祈り    ウイヌカーでの清め

【国頭村安田のシヌグと祈り】(20018月調査報告)(一部)