名護市汀間踏査(2013.5.1)
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名護市汀間を訪れる。学校の統合(小中学校の一貫教育)があり、学校のグランドの側に按司墓があり、整備されたとのこと。その確認でもありました。神アサギ、ウタキ、集落の成り立ち、勾玉(ウイミ)調査、あるいは移動・合併村など、研究に事欠かないテーマを持った村(ムラ)の一つである。「歴史とロマンの汀間」の説明版があり、散策も行っているようである。それを手掛かりに歩いてみた。
▲久志間切汀間村全図(『琉球共産村落の研究』(田村浩著)より
名護市汀間(久志間切)2010(平成22)2月10日(水)(記録)
名護市汀間のウフウタキ。汀間は『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』に「名護間切てま村」と出てくる。それと嘉手刈村がみられ、「名護間切かてかる村」とあるが「当時無之」とある。「当時無之」は『絵図郷村帳』の頃には無く、それ以前にはあった村ということか。すると『絵図郷村帳』の頃には「かてかる村」は汀間村にすでに統合されていたことになる。名護間切あるいは久志間切に「かてかる村」は出てこないので、『絵図郷村帳』の頃には統合されていたと見てよさそうである。「かてかる村」があったことは今でも伝えら、また小字に「嘉手刈」があり、そこが「かてかる村」の故地であろう。
『琉球国由来記』(1713年)に久志間切汀間村に「スルギバル嶽」と小湊嶽」が出てくる。「小湊嶽」は「御嶽小」(現在のウタキグヮー)とみてよさそうである。『琉球国由来記』の「スルギバル嶽」は大正14年に汀間から分離した三原にある同名ウタキである。「大御嶽」は嘉手刈村のあった左岸の河口の大湊嶽(今でいうウフウタキ)である。汀間の集落は嘉手刈側から移動してきた一族が三分の二を占めているというから、『琉球国由来記』(1713年)の大湊嶽はフプウタキと想定してよさそうである。ウフウタキとウタキグヮー(小湊嶽)は規模の大きさでの呼称である。どちらも汀間集落内の一門のウタキである。下のクガニモリ御嶽はスルギバル嶽に相当するものか。
「沖縄島諸祭神祝女類別表」には、汀間村に以下の拝所(七ヶ所)が記されている。
・ノロクモイ火ノ神壱ヶ所 ・根神火ノ神一ヶ所 ・御嶽小一ヶ所 ・神アサギ壱ヶ所
・大御嶽一ヶ所 ・カニマン火神一ヶ所 ・クガニモリ御嶽
『琉球共産村落之研究』(1927年:田村浩)で「汀間村落発生ノ形式」141〜143頁)として、以下のように述べている。そこに集落移動とウタキ、近世のムラは複数の集団からなっているが、祭祀は行政村(ムラ)になる前の形を根強く継承している様子。複数の集団が一つの行政村にさせられた時、祭祀はどう対応しているのかなどの姿がみえてくる。
汀間の集落は嘉手刈から移動してきた集団の勢力が強かったようである。汀間集落の嘉手刈からの集団(ウフワ−ラ引)が三分の二を占めたようであるのでウフウタキはその集団(一族)のウタキである。また小字嘉手刈るに位置している。ウタキグヮーは仲田引一門のウタキと言えそうである。その一族も現在地に移動しているのでウタキグヮーは遥拝場所ではなく祠はウタキグヮーのイベである。ウフウタキに対して小さいウタキと呼んでいるもので、どちらもウタキである。
汀間は「ウフワーラ引ハ元南方嘉手刈ヨリ移住シ汀間ノ部落ヲ構成シタルモノニシテ、
仲田引ハ東北二、三町離シタル後方丘陵地帯ニアリシタリ故ニ部落ノ東北部ハ仲田引
ニシテ、南部ハウフワーラ引多シ、ウフワーラ引ハ嘉手刈ニテ西大屋。根神屋トシテ
根神ヲ世襲シ、門中・・・・
嘉手刈に住んでいたウフワーラ引一族は、嘉手刈に住む以前は? 河口のウタキの位置からすると、どこからか、河口あたりの嘉手刈原に移住してきて、近世初期にさらに汀間(現在地)に移動している。
▲汀間のウフウタキ(嘉手刈原) 内の拝殿
▲ウタキ内の神殿(イベ) ▲汀間川の下流域(左側がウタキ)
【名護市汀間のウイミ】(旧8月10日)】2010(平成22)年9月17日(金)調査
午後三時頃、汀間のサカンジョウ(三ヶ門)に神人などが集まる。サンカジョウ内でのウガンは世の神、ノロ神、根神の順に拝む。サンカジョウ内でのウガンが終わると、隣の祠へ。その祠はウタキグヮーのイベである。つまり、サンカジョウや神アサギなどがある森はウタキ(ウタキグヮー)である。サンカジョウの側のウタキグヮーの祠(イベ)を拝み、神人達は神アサギ内へ。旧8月10日の祭祀は名護市汀間ではウイミという。
@サンカジョウ(三ヶ門)(世神・根神・ノロ神はクシグミから移動)(統合されている)
Aウガングヮー(ウタキ内のイベ)(『由来記』の小湊嶽か)
B神アサギへ(ウンバーリから現在地に移動)
Cアサギ内でのウガン(ウプウガンへ遥拝)(『由来記』の大湊嶽か)
Dアサギ内で勾玉や水晶玉、神衣装などのお披露目(年一回の)。
神アサギ内にはテーブルと腰掛けが準備されていて、テーブルの上に勾玉と水晶玉とビーズ玉のついた首佩け(首に佩くことはなかった)。それらを入れる櫃が側に置かれる(胴部は茶の漆塗、蓋は黒、中心部から外に向けてヒビ割れあり)。衣装が置かれる。汀間ノロは汀間・瀬嵩・大浦の三ヶ村を管轄。
神人にお神酒がつがれ、神人は正面、そして右手(ウプウガン)に向ってお神酒を備える所作をする(二回)。それが終わると参加者にお神酒が配られる。神人の前に御馳走が配膳される。参加者に勾玉、水晶玉、ビーズ、衣装などがお披露目される(年に一度)。(途中大雨となる)
・現在行われている祭祀場と以前の祭祀場の比較
・ウプウタキとウガングヮーを規模の大きさで見ていく必要あり
(古い新しい、あるいは分離したではなく)。
・ウガングヮーにも鳥居があり。戦前にウタキを神社形式に仕立て
てあったのを公園整備で鳥居は取り払われている)
・嘉手刈村と汀間村との統合。祭祀にどう影響しているのか?
・神アサギの移動
・ウプウタキとウガングヮーの二つの村のウタキが山手ではなく川沿いに
位置する(他地域から移住してきた人々の集落?)
・『琉球国由来記』(1713年)に瀬嵩村に大湊嶽・スルギバル嶽・
小湊嶽の三つのウタキがある。
・スルギバル嶽は大正14年に分離した三原(汀間のウンバーリ)にある。
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▲汀間のサンカジョウ ▲サンカジョウ内で勾玉や水晶玉が開けられる
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▲世の神、ノロの神、根神の順でウガン ▲神人の一人はサンカジョウから神アサギへ
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▲サンカジョウの側の祠でのウガン ▲ウタキグヮーでのウガン
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▲神アサギ内で婦人方や村の有志と神人が合流 ▲神人はウプウガンに向ってウガン
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▲勾玉や衣装などをお披露目(年一回) ▲ウガンが終わると参加者は直会(談笑)
『琉球国由来記』(1713年)の久志間切汀間村とある。汀間ノロの管轄する村は汀間村・瀬嵩村・大浦村である。現在は汀間のみ。
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▲ウプウタキの近景 ▲神アサギ跡からウプウタキ(左)とウタキグヮ(右)を望む