テキスト ボックス:  ▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年) テキスト ボックス: 註テキスト ボックス: 註 宮城栄昌『沖縄のノロの研究』奄美諸島の神女組織」四一~一四三頁。 テキスト ボックス:

沖縄の地域調査研究

寡黙庵:(管理人:仲原)   今帰仁村歴史文化センター

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・羽地地域の調査記録(2003年)
国頭村比地  ・大宜味根謝銘(ウイ)グスク
2021年2月 2021年3月 ・2021年5月 ・2021年6月 2021年7月 
シニグと山原文化圏  ・徳之島と琉球  ・ノロ制度の終焉 ・奄美のノロ制度

勝連半島のムラ・シマ

国頭間切の二枚の辞令書
山原のシニグと猪狩と「流れ」の所作




 容量不足(パンク状態)で一月休息しました。



十五、三十三君

①きこゑ大君(聞得大君)③恵良部あふりやえ ④今帰仁あふりやゑ  ⑧恵良部さすかさ 36伊平屋阿母かなし ㊲久米のき見はゑ  

 三三君の一部をあげてみたが、その中に恵良部阿ふりやえと恵良部さすかさ、伊良部世高うわもりがおり、一六〇九年後までおり、それは古琉球の時代の祭祀が継承されていたことにほかならない。その遺品が今に伝えている。

 

※政治的な神女組織の中で階層化されたのは第一尚氏王統の時代

※公儀ノロとしての地位の確立は第二尚氏になってから。

※三十三君の神女制は一六六七年に廃止される。ただし、シニグの祭祀も薩摩侵攻以前からのものので、両島では薩摩化している。

 

十六、古琉球の辞令書とノロ家の遺品

 沖永良部島に遺るノロ関係遺品は、三山統一後の神女組織成立後とみる遺品である。

 

・十六世紀に制度化された神女(ノロ)制度が、地域にどのような文 化的な影響を与え、現在どのように残っているのか。

・ノロ制度は首里王府は間切や村など末端まで統治する役目を果たしている。

・神行事は、今でいう休息日に相当する。税を取られる立場からすると、神行事をやることで休息日を確保することになる。

・ノロ制度が敷かれた頃、尚真王は各地のグスクに居住していた按司を首里に集めるという中央集権国家を形成した。

・ノロ制度を敷いたことで、首里王府を中心として文化が形成され、同時に地域の文化が首里化していく。しかし、ノロ制度が敷かれる以前からムラ・シマが持っていた伝統的な祭祀は遺していく。

 

①嘉靖八年十二月廿九日(一五二九年)

   笠利間切の宇宿大屋子職補任辞令書

 ・かさりまきり ・うすく 大やこ 

 

②嘉靖□□年(年欠)

   瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書

    ・せとうち ひかまきり ・しよりの大やこ

    ・かさり ひかせと

 

③嘉靖二十七年十月廿八日(一五四八年)

  瀬戸内西間切の西の大屋子職補任辞令

   ・せとうち ・にしままきり ・にし ・大やこ

   ・ひか ・しよりの大やこ

 

④嘉靖三十三年八月廿九日(一五五四年)

  喜界の志戸桶の大城大屋子職補任辞令書

   ・きゝや  ・しとおけまきり ・大くすく 

・大やこ

 

⑤嘉靖三十三年十二月廿七日(一五五四年)

屋喜内間切の名音掟職補任辞令書

   ・やけうちまきり ・なおん ・おきて

 

⑥嘉靖三十五年八月十一日(一五五六年)

屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書

   ・やけいうちまきり ・なから ・おきて ・なおん

 

  萬暦十五年十月四日

 

㉒萬暦二十八年正月廿四日(一六〇〇年)

  徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書

 辞令書と一緒に簪を遺している。

  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日
  

 

㉓萬暦三十年九月十日(一六〇二年)

  瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書
し(志)より(里)の御ミ事

せとうちにしまきりの

こしのろハ

もとののろのうなり

一人まかるいもいに

たまわり申<>

萬暦三十年九月十日 (山田尚二氏論文)(註)







⑦隆慶二年八月廿四日(一五六八年)

  笠利間切の笠利首里大屋子職補任辞令書

   ・(かさりまきり) ・かさり ・しより大やこ 

・きせ ・大やこ

 

⑧隆慶二年八月廿四日(一五六八年)

  瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書

   ・せんとうち ・ひかまきり ・しよりの大やこ

   ・きせの大やこ

 

⑨隆慶三年正月五日(一五六九年)

  鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書

   ・ききやのひかまきり ・あてん ・のろ

 

➉隆慶五年(一五七一年)

  瀬戸内間切の阿木名目差職補任辞令書

   ・せとうち ・ひかまきり ・あきにや ・めさし

   ・なから ・おきて

 

⑪隆慶六年正月十八日(一五七二年)

  屋喜内間切の屋嘉内大屋子職補任辞令書

   ・やけうちまきり ・やけうちの大やこ

   ・やまとはま ・めさし 

 

⑫隆慶五年六月十一日(一五七一年)

  瀬戸内間切の阿木名目差職任辞令書

   ・せとうちひかまかいり ・あきにや ・めさし 

・なかから ・おきて

 

⑬隆慶六年正月十八日(一五七二年)

  屋喜内間切の先原目差職補任辞令

   ・やけうちまきり ・さきはる ・めさし 

・せん(うち)まきり? ・ひか ・あくにや 

・めさし

 

⑭萬暦二年五月二十八日(一五七四年)

  瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの知行安堵辞令書

   ・せんとうち ・にしまきり ・すこむ 

・みとりはる ・かうちはる ・まへたはる 

・やもまはる ・大ミなとはる ・ミのうらはる

・せさおうはる ・あもろ ・あもろはる

 

⑮萬暦二五月二十八日(一五七四年)

  瀬戸内西間切の古志のさかいへの知行安堵辞令書

  ・せんとうち ・にしまきり ・こし

  ・こいちはる ・ふみしはる ・くたとん?

  ・おはしまはる

 

⑯萬暦二年五月二十八日(一五七四年)

  (不明□□)知行安堵辞令書(欠あり)

  ・せんとうち ・にしまきり ・こし ・こいちはる

  ・またはる ・さきはる 

 

⑰萬暦七年五月五日(一五七七年)

  屋喜内間切の部錬大屋子職補任辞令書

   ・やけうちまきり ・へれん ・やけうち大やこ

 

⑱萬暦七年十月一日(一五七九年)

  名瀬間切の首里大屋子職補任辞令書

   ・なせまきり ・しより大やこ ・はゑのこほり

   ・ひかのしよりの大やこ

 

⑲萬暦十一年正月廿七日(一五九九年)

屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書

 ・やけうちまきり ・なから ・のろ

 

⑳萬暦十五年十月四日(一五八七年)

  名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書

   ・なせまきり ・たいくま ・のろ

㉑萬暦十六年五月十六(二十七)日(一五八八年)

  瀬戸内東間切の首里大屋子職補任¥辞令書

   ・せんとうち ・ひかまきり ・しよりの大やこ

   ・うすく ・大やこ

 

㉒萬暦二十三年九月廿二日(一五九五年)

  ・せんとうち ・にしまきり ・にしのおきて

  ・いんほし? ・大さち  

 

㉓萬暦二十八年正月廿四日(一六〇〇年)

  徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書

   ・とくの ・にしめまきり ・てヽ ・のろ

 

㉔萬暦三十年九月十日(一六〇二年)

  瀬戸内西間切の古志のろ職補任辞令書

   ・せんとうちにしまきり ・こし ・のろ

 

㉕萬暦三十一年十月十七日(一六〇三年)

  喜界島荒木間切某目差辞令書

   ・きゝや ・あらきまきり ・めさし

   ・てくつく ・おきて

 

㉖萬暦三十四年十一月廿八日(一六〇六年) 

  喜界島荒木間切手久津大屋子辞令書

   ・きゝや  ・あらきまきり ・てくつく ・大やこ

   ・あらきのめさし

 

㉗萬暦三十五年閏六月六日(一六〇七年)

  名瀬間切の朝戸掟職補任辞令書

   ・なせまきり ・あさと ・おきて ・てこく

 

㉘萬暦三十七年二月十一日(一六〇九年)

  名瀬間切の西の里主職補任辞令書く

   ・なせまきり ・にし ・さとぬし ・あさと 

・おきて

 

 

 


十七、琉球国からのノロ辞令と祭祀(シニグ)

 

宮城栄昌は奄美の神女組織を「一六〇九年(慶長一四)まで琉球の支配下にあった与論島・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島にも大あむにあたるものがいた。大あむしられ・大あんしゅり・大あむなどと称していた」沖永良部島の大あんしゅりも、代々世の主夫人が任命された。最初の世之主は、山北王の二男といわれ、山北王が中山に滅ぼされてから、中山王系がそれに任ぜられた。この島の世之主は「おもろ」にも現われてくる。やがて世之主の子孫は大親役(大屋役)として同島を支配するが、薩摩が同島を領有した直後の一六一三年(慶長一八)頃の大親役であった(のうし)(ぐすく)大屋の妻思み金は、大あんしられであった。後世もシノグ祭に百が大あんしやりのもとに御使と称して植え言を述べており、シノグ祭の与人の同島めぐりにも、大あんしゃりが参加していた天からみて、同島の大あんしゃりが永く続いていたことが知られる。この大あんしゃりのもとに、『おもろ』一三の一九七に『永良部在る三十祝女、三十祝女は崇べて、我守て此渡しよわれ』とあるように、多数のノロが存在していた。(註)

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある(1)。萬暦二八年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など二八点が確認されている。いずれも一六〇九年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(一五二九~一六〇九年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦三十七年二月十一日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の十六世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

 古琉球(十六世紀)の奄美と琉球との関係を「辞令書」を通して見ることができる。手々集落内に琉球と関わった(グスクの築城)という掟大八が力ためしに用いたという石が屋敷に置かれている。今回いくことができなかったが掟大八と家来の六つの墓があるという。それらを按司墓と呼んでいる。一六一一年与論島以北は薩摩の統治下になり、薩摩の制度が被さっていくが、それでもノロや間切や首里王府時代の伝承など近世まで根強く引きずっている。

 

 ここで、沖之永部良島には「辞令書」は確認されていないので他地域の辞令書を掲げておくことに。⑭⑮はのろ家文書(須子茂文書)であるが、のろ家の男方の辞令なので別にした。このようにのろ辞令は首里王府ののろ制度のもとに発給された辞令で琉球王国の統治下に置かれていた。のろの辞令とともに簪や玉カーラなどの発給があり、沖之永良部島にのろ遺品があり、「おもろ」でものろについて謡われており、歴史を紐解く手がかりとなる。

 

⑨隆慶三年正月五日(一五六九年)(伊波普猷氏)

  鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書

   しよりの御ミ事

     ききやのひかまきりの

     あてんのろは(ハ)

      もとののろのおとゝ

     一人ゑくかたるに

     たまわり申候

   しよりよりゑくかたるか

         方へまいる

     隆慶三年正月五日

 

⑱萬暦十一年正月廿七日(一五九九年)

屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書

しよりの御ミ事

  やけうちまきりの

  なからのろハ

    もとののろのめい

  一人つるに

  たまわり申候

しよりよりつるか方へまいる

 萬暦十一年正月廿七年

 

⑲萬暦十五年十月四日(一五八七年)

  名瀬間切の大熊のろ職補任辞令書

  しよりの御ミ事

    なせまきりの

    たいくまのろハ

       もとののろのめい

    一人まくもに

    たまわり申候

  しよりよりまくもか方へまいる


2021年10月28日(木

 さて、何からスタートしましょうか。

沖之永部島を往く20011021日~24日)仲原(工事中) 

 今回の沖永良部島往きは『和泊町誌』の私の分担部分の確認である。まず「中北山」が怕尼芝(パ二ジ)滅ぼされた離散した一族の伝承(国頭(根謝銘・ういぐすく)、名護グスク、石川の伊波グスクの伝承、中北山の各地に離散した一族の伝承、そして怕尼芝の弟(二男)と三男の歴史伝承を見ていく必要があるのではないか。その時代と与論島・沖永良部島。その時の山北三王(ハニジ・ミン・ハンアンヂ)の明国との交易記録がある。その時代の山北は隆盛を極めた時代で、明国・朝鮮、東南アジア(ベトナム・タイなど)と貿易を行っている(明国への貢物の品々)。その時代は次男・三男を派遣していて北山の影響は大である。

 1416年ハンアンジが滅ぶと、その後は中山との関わりとなる。その時のことを「和睦」なのか討伐なのか。『世乃主由緒』(平安統記録)の「折柄中山より和睦の使船数艘渡海有之候由」とあり、その後は北山ではなく中山の統治である。その区切りとなり、中山の中央集権国家の統治下(1500年代)に置かれることになる。それから1609年までの薩摩軍の琉球侵攻までの時代である。

 その時代と関わる史料に、首里王府が奄美の役人やノロへの辞令の発給、ノロ辞令とカブ型の簪と勾玉(玉ガーラ)は辞令の発給とセットとみている。神衣装や御玉貫や鳩目銭など引き出物や祝儀として賜っているので、時代は後まで続き、琉球だけでなく奄美でも近世まで続く。それは琉球の儀礼が薩摩以降まで続くということになる。

奄美に辞令の発給がなくてもノロ制度が生き延びたことになる。それが喜界島、奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島に遺っていることになる。今回扱う沖永良部島に辞令書はまだ確認できていないが、ノロ遺品の勾玉と簪(かぶ型)が遺っており、古琉球の時代を見ることができる。その時代は辞令書とノロ遺品と並行しながら、「おもろ」や「家文書」の地名や役職名、シ二グの行事の流れなど見ていくことができそう(実証的に)。そのことがあって知名町の上城と下城へ。島への女人の入り方はシ二グの本質をついているかもしれない。 

天気が悪く、それと夏場の調査が多いので夕方七時頃まで踏査するが、今回は雨と夕暮れが早く時間切れ。会議が始まるまでの午前中、与和の浜、コンクリートの小屋後あり。砂糖の小屋とのこと。そこから古里へ。前日も皆川から通っているが気づかず。皆川の川が気になっていた。皆川でシニグドーとニャークバカとフークツクバカを見る。碗が十基近くあり、第一の印象は古琉球と薩摩以降(1609年)とさらに明治4年以降の重なりが見える。 

勢理客のジッキョヌホーや住吉のクラガーと高倉へ。皆川にも水量の多い川がある。皆川の名のとおり水に恵まれた地である。以前に住吉ノロの遺品の調査をしたことがある(沖縄県の玉ガーラ調査)。福永家まで訪れる時間なし。そのころの娘さんはどうなったことか。そこからどう廻ったか不明。徳時、大津勘、屋子母へ。公民館に立ち寄ると区長さんの姿が見えたので、「浜番」について聞く。「自転車道路沿いにあるよ」とのこと。見つけました。琉球との関わりが説明してある。 

 一日伸ばして、知名町を中心に回る。和泊町と知名町の道路は放射状に交差している印象。ちょっとずれると再び同じ道を通っている。世の神社で説明があるというので参加、そこに藤井氏と桂氏が来られ説明してくれた。伊地知君が世の主の歴史的な話をしてくれ、頭の整理ができた。世の主神社(内城)は二回目、そこから下り、谷間の人家のある場所まで。沢があり畑地は砂地である。田には向かない地質のようだ。大型の竹や芭蕉がある。そこからウファ―チヂの標識を目にしながら与之主の墓へ。何枚も画像に納める。内城へていた

 そこらあたりから頭に描いていたストーリーが崩れてしまう。(別のことが入る) 

 立て直して、知名町よりの山手の集落へ。和泊町側に玉城・内城・大城がある。それと後蘭、後蘭孫八の居城跡と墓がある。おもろに謡われた人物である。そこにもヌルバンドーがある。天気が悪く、墓のある入口まで。どう廻ったか記憶が交差しているが、伊延の西郷隆盛が到着した碑のたっている場所。 

【沖永良部島のろ】(『ノロ調査資料』中山盛茂・富村真演・宮城栄昌共著 356~374頁参照

 ・沖永良部島の世之主(北山王の二男)(幼名真千代)の子孫が後に大屋役を世襲        宗武重所蔵)「嘉永三年世乃主かなし由緒記」 ・中山王と上城ノロとの間に
   生まれた王子とのこと。

 ・北山王系の世之主は、二代目のとき中山王からの討伐で自殺。 

各村に世襲のノロいた。えけり・おなり、百とともに旧家の女性が継承。 

【ノロの支配組織】
   大あんしられ・ノロ・ウカシア・ミチサジ   男子の百

【ノロの財産】
   ヒャー田 ヒャー畠

【ノロが関わる祭祀】
  ・八月十五日 旧 シニグドーで八月踊りをした。
  ・八、九~十月 乙酉 シニグ祭り

【廃絶の理由】

 安政二年(1885年)以来極端な弾圧、明治二年(1869 )の廃仏飢釈、シニグも廃止 

【沖永良部島のシニグ】

 本島のノロの姪と琉球王との間にできた王子(怕尼芝の弟、真松千代)で本島の与の主となり、三年に一度巡視、その歓迎の為の儀式世の主以前からあった祭り

(収穫を感謝し、豊作凶作を占い、豊作祈願として祭で、世之主以前からあったもの)後世に百が主宰となるか。

 百が御使いをつかわして上言をのび、シニグ後の与人の島周りに大アンシャリが参加。

ノロ中心の祭祀

 薩摩の支配後、士族中心の武的行事となる。 

①隔年行われる。
 祭のある年はシニグ年、ない年を神なし年

②祭は九月、十月の乙酉(きのととり)の日
  ①祭前  余多・屋子母・西見の百は各自の百を引率して、与人・大あんしゃり
       ・
目差などの家をめぐる。(お使いという)

  ②三日前には尻縄(しじゃたみ)があり、馬具を改め、乗馬の乗りためしをする。

  ③祭りの前夜、与人たちは内城に夜籠りをする

   翌朝』与人旗」を押し当てて、騎馬隊を引率し世之主側を擬するもの(赤装束)、反対側のもの白装束とに分かれてシニグヅに集まり、さらに集庭に赴いて模擬戦い。世之主側が勝つことになっている。

  ④シニグ終了後
  与人三人・目差三人・百一人・本掟三人・城サバクイ一人・大アンシャリ一人
   白装束で、

     一日目 余多(アマタ)―屋者(日帰り)
     二日目 久志検―屋子母(泊)
     三日目 屋子母―西見(泊)
     四日目 西見―内城
       (全島を一周)

     内城の与之主墓を拝み、そこに供えてある酒で豊作・凶作を占い、住民の相撲
   をみて解散する
 

    ※「初シニグ祭」、前シニグ後に生まれた衆多の男子のために行う祭儀がある。

・シニグ祭一周間後、には役員の慰労のため当たりシニグが百の家でおこなわれる。

・西見にはウツタハチブルがあり、男二人は舟を漕ぐまねうする。女装の男二人は太鼓を打って踊りをする。上城から出発し稲葉のウッタ墓の中からハチブル(面)をかぶって西見で種々の戯れをなす行事。 

  ・シニグ祭には騎馬戦や供酒、豊凶占い、農業関係の祀りあり。
 ウツタハチブルで太鼓を打って踊る中で舟漕ぎの所作あり。村村の巡視は悪魔払い 

 沖永良部島行きの目的にシニグ祭を「流れ」で追いかけてみたいとの計画であった。一つは島の内側の集落はグスク時代から住み続けている集落ではないか。それと与之主伝承とシニグやノロ家とその遺品を手掛かりしようとすると、どうしても間切(まきり)時代まで遡る必要がありそう。島一周道路沿いの集落《字》と山手への集落、それに与之主伝承やシニグの流れ、グスク時代からの集落を被せみていくと、現在の行政区画では理解しがたく、何度もめぐっている。その変遷の確認調査。 

・鹿児島直轄領時代元禄4年(1692)和泊村に仮屋(代官所)

18世紀以降の間切制 

和泊域のシマ(シマ)

    ①大城間切  ②喜美留間切  ③久志検間切

 1857年(安政4)に方制(和泊方)(14カ村)(明治5年に方制は廃止)嶋役人 戸長

 ①和泊(伊延)祝女「こしゑい」 和泊湊「正保琉球国絵図」

     1749年知名村に漂着した唐船の乗組員17人和泊の本御蔵に囲い琉球へ。           1734年伊延湊 朝鮮船 琉球ではなく肥前長崎へ。

 ②手々知名  

③喜美留
 「正保琉球国絵図」に村名はないが、「きびる間切」と「きびる浜」がある。
  元禄以降久志検間切の内、1857年から和泊方

④国頭
  世之主の家来クンゼーヤタロウという豪族。
  はじめ久志検間切の内、明治4年和泊方

⑤西原
   久志検間切の内、和泊方へ。ジョバルに神石あり、集落内にシングドーあり。

⑥出花(デギ)(デーは竹のこと)
  喜美留間切から和方へ。シニグドーあり。イキント溜池周辺でシニグ祭が
   おこなわれていた。 

⑦畦布 
   きびる間切の内あぜふ村  和方へ。ヌルバンドー石あり。森家にのろ遺品あり。
   シニグ旗はり。漆器あり。 

⑧根折 

 ⑨内城
  集落のあるウイバル、花崗岩が風化した地質。おもろで大ぐすく
  ゴラルマゴハチに築城
   シニグ祭のとき間切役人の与人が城跡周辺に依籠り
   ・出城・直城・上城(旧家跡の確認)
   ・ソーヤシキ ・イゾウヤシキ ・ノーシヤシキ ・アガリゾウヤシキ 
    ・ヘースクヤシキ ・ウワーナスクヤシキ

⑩大城 
  大城間切あり。川内の百 

⑪皆川 
   村名のイニャーグは稲と川に由来。石橋川があり、世之主が巡回のときの休息場
   シングドーがある。近くの森に墓あり。

 シニグ祭のとき、大城・久志検・喜美留の三間切の与人が白装束で与人旗・衆多旗・百姓旗を持って騎馬隊を率いて集まる。太鼓をならして模擬の戦い。

⑫古里  

⑬玉城
   フバドー

⑭和
  ・シマアタイ・メーマアタイ ・ミームアタイ

・明治41年(1908)に和泊村が成立 これまでの村は大字となる。

知名のムラ】

  
     ▲由和の浜             ▲中壽神社

 

 
  ▲畔布のヌルバンドーの石      ▲世の主神社の祠 

 

 

  

                                 ▲アーニマガヤトウ―ルバカ

 
    ▲下城の世之主神社             ▲仁志

 
       ▲皆川               ▲下城の世の主神社の鳥居