加計呂麻島(西方:旧実久村)―奄美大島瀬戸内町―    トップへ
 
 加計呂麻島(東方:旧鎮西村へ)

   2007年(平成19)12月調査        


 加計呂麻島は奄美大島の南方、瀬戸内町の島の一つである。島を訪れるのは今回が二度目である(2007年(平成19)12月。加計呂麻島を訪れるのは、ひとつには神アサギがあることである。二つ目は古琉球からのノロが関わる祭祀が根強く残っていること。そして古琉球の辞令書が確認されていることである。神アサギは沖縄本島北部から加計呂麻島に分布している祭祀場である。アサギの名称は、それより北側の奄美大島にも散見できる。この島の神アサギは大宜味村根謝銘(ウイ)グスクの神アサギと類似していること。

 奄美大島の南西に加計呂麻島がある。島へは瀬戸内町古仁屋からフェリーで渡る。フェリーは古仁屋港から瀬相、加計呂麻島と生間の間を航行している。今回、古仁屋港から生間へと渡った。加計呂麻島の集落について、全くと言っていいほど情報を持たないで島に渡る。フェリーを降りたのが生間である。フェリーが着くのであるが生間は予想以上に小さい集落である。どこが集落の中心部なのかもつかめないでいる。

 加計呂麻島の集落について書かれたものに目を通しても、また島の方々の話を伺っても理解することができない。これまで見てきた視点では、うまくつかめないかもしれない。それで現在の瀬戸内町の歴史をみていくことから。

 奄美大島は笠利間切・名瀬間切・古見間切・住用間切・屋喜内(焼内)間切・東間切・西間切からなる。加計呂麻島は東間切と西間切とに別れる。かつての間切の領域が、今にどう影響を及ぼしているのか。

 現在の瀬戸内町は奄美大島の南西部と大島海峡(瀬戸内)を隔てた加計呂麻島、さらに請島水道を挟んだ与路島・請島などからなる。瀬戸内町となったのは昭和31年である。その時、西方村と鎮西村、実久村と古仁屋町が合併する。

加計呂麻島の歴史や文化を見ていくとき、どうしても古琉球の時代の区分に戻してみる必要がありそうである。それは加計呂麻島は、東間切と西間切に分けられ、間切とも奄美大島側を含んでいるからである。加計呂麻島のみ対象にしては、理解しがたいものがある。そのことを示すのが古琉球の奄美大島の辞令書である。昨年12月の奄美大島行きで加計呂麻島には渡ったのであるが、全ての村(ムラ)を回る時間がなかったので、前回のと一緒に整理することにする。

 奄美大島の南西に加計呂麻島がある。島へは瀬戸内町古仁屋からフェリーで渡る。フェリーは古仁屋港から瀬相、加計呂麻島と生間の間を航行している。今回(平成19年12月24日)、古仁屋港から生間へと渡った。加計呂麻島の集落について、全くと言っていいほど情報を持たないで島に渡る。フェリーを降りたのが生間である。フェリーが生間に着いたのであるが予想以上に小規模の集落である。どこが集落の中心部なのか、まだしっかりとつかむことができていない。

 現在の瀬戸内町は奄美大島の南西部と大島海峡(瀬戸内)を隔てた加計呂麻島、さらに請島水道を挟んだ与路島・請島などからなる。瀬戸内町となったのは昭和31年である。その時、西方村と鎮西村、実久村と古仁屋町が合併する。鎮西村と実久村は源為朝(鎮西源為朝)に因んだ村名であるようだ。奄美大島は平家と源氏の両者の伝承が根強く残っている。

 古琉球の時代の間切(まきり)区分が、現在私たちが常識としているものの見方とは、大部違うようにある。統治する側の見方なのか、それとも地理的な条件、あるいは交通手段(海上交通)による往来の利便さなのか。それらの影響は大きいのではないかと想像される。果たしてどうだろうか。

 平成20年(2008)1月14日、再び加計呂麻島に渡る。古仁屋港(瀬戸内町)でフェリーを待っていると(8時10分発)はフェリーは生間とは違う方向(瀬相)からやってくる。フェリー名をみると前回乗った「フェリーかけろま」である。船上で「瀬相と生間を就航しているフェリーは同じですか?」と訪ねてみた。「???船員さんに聞いてみて」と。他の方に訪ねると「同じですよ。瀬相から古仁屋港に行って、そこから池間へ行きます」と。「フェリーかけろま」が瀬相―古仁屋―生間の三港を就航しているわけだ。島の方々にとっては当たり前のことなのである。

 平成20年(2008)年1月14日で加計呂麻島の阿多地を除いたすべての村(ムラ:集落)を訪ねることができた。各ムラを訪ねるのは予備調査と史料に登場するムラの様子を思い浮かべながら考えるためである。ムラの様子を整理するため、今回訪ねた順序で、まずは整理することにする。加計呂麻島のムラ回りは約6時間(約80km)のコースである。隣りのムラに行くには峠やきつい山越えをしなければならない。車のハンドルさばきはレーサー並になったかもしれない。隣りのムラにいくには、ほとんどが舟での往来であったことが実感させられた。3月16日に阿多地を訪れる。

 これらのムラを踏査しながら、目に見える形での琉球的なものは非常に少ない印象である。琉球の御嶽に相当する場所は神社になり、墓塔を立てた大和形式の墓である。加計呂麻島の西地域に神アシヤギがあり、アサギミャーに相当する広場がある。その広場には大和相撲の土俵が設けられている。また公民館(分館)がある。

 ムラのほとんどが山から見下ろす形で集落が望める。防災用のマイクのある建物は公民館である。集落は非常に小規模なので公民館広場やバス停留所近くに車を置いて散策である。

・明治41年 渡連方と実久方が合併して鎮西村となり、於斉に役場が置かれる。
・大正5年 実久村が分村し独立、鎮西村役場は押角に移動する。




【加計呂麻島のアシャゲとトネヤ】




【奄美のノロ辞令書】

 奄美の古琉球の辞令書に注目しているのは、1609年以降、さらに明治以降もノロに関わる祭祀や辞令書などが残り、継承されていることである。というのは、琉球(沖縄)でも廃藩置県、明治36年の土地整理、さらに明治43年の□□でもノロ(のろくもい)を完全に廃止することができず、昭和17年の□□もあるが、戦争に突入したのでうやむやとなる。そのことが戦後して、御嶽を中心としたノロが関わる祭祀が行われていることの疑問を解く鍵となるのではないか。そのために、1609年以後の奄美地方のノロと関わる辞令書や祭祀を見るのは、沖縄における祭祀が継承される所以を解くカギとなると考えている。高良倉吉氏の「奄美地域残存古琉球辞令書一覧」によると、瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの安堵辞令書(万暦2年:1574)と瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年:1574)は直接ノロと表記されていにいが、「すこむのくちのうなり」と「あかひとうかくわ」は女性なのでノロとみられる。その二点を合わせるとノロに関する辞令書は8点である。

 ①瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの安堵辞令書(万暦2年:1574年)
 ②瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年:1574)
 ③喜界の東間切の阿伝ノロ職(隆慶3年:1569年)
 ④屋喜内間切の名柄ノロ職(万暦11年:1583年)
 ⑤名瀬間切の大熊ノロ職(万暦15年:1587年)
 ⑥屋喜内間切の屋鈍ノロ職(万暦22年:1594年)
 ⑦徳の西銘間切の手々ノロ職(万暦28年:1600年)
 ⑧瀬戸内西間切の古志ノロ職(万暦30年:1602年)


③阿伝のろ職叙任辞令書(1569年)(喜界島阿伝)(伊波普猷全集第五
巻)
  しよりの御み事
   ききやのひかまきりの
   あてんのろは
   もとののろのおとゝ
   一人ゑくかたるに
   たまわり申候
  しよりよりゑくかたるか方へまいる
  隆慶三年正月五日
 


・瀬戸内西間切の西の大屋子職補任辞令書(嘉靖27年:)
   西の大屋子→東の首里大屋子
・屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年:1548)
   屋喜内間切名柄掟→(   間切)名音掟
・瀬戸内間切の安木名目差職補任辞令書(隆慶5年:1571)
   東間切安木名目差→屋喜内間切名柄掟
・屋喜内間切の崎原目差職補任辞令書(隆慶6年:1572)
   屋喜内間切崎原目差→瀬戸内間切東間切安木名目差
・瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(嘉靖)
   瀬戸内東間切の首里大屋子→笠利のひのせと
・笠利間切の笠利首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年:1568)
   笠利間切笠利の首里大屋子→笠利間切喜瀬の大屋子
・瀬戸内東間切の首里大屋子職補任辞令書(隆慶2年:1568)
   瀬戸内東間切の首里大屋子→喜瀬大屋子
・屋喜内間切の屋喜内大屋子職補任辞令書
   屋喜内間切の屋喜内の大屋子→大和浜目差


【於 斉】(おさい)

 於斉は加計呂麻島の瀬戸内側ではなく、その反対側に位置している。明治41年から大正5年まで鎮西村(実久方と鎮西方が合併)役場が置かれる。分離した時に、鎮西役場は押角へ移転する。集落はグスコ・ナハブラレ・アガンマ・メーダー?に区分されているようだ。加計呂麻島の集落を読み取っていくキーワードを「於斉のノロ祭祀とその周辺」松原武実『南日本文化』(2000年発行)から拾ってみた。

・アシャゲとトネヤがあった(昭和47年に倒壊)。
・シマダテガナシ
・カミニンジュウ
・ミャー
・オボツ
・イベ
・オーホリ
・カミヤマ
・厳島神社
・テラ(テラヤマ)
・カミミチ
・グスコ(墓地)
・役場跡
・於斉ノロ(印判ノロ)
・ノロゴー(ノロ河)
・ユカリッチュ
・ノロバテ(ノロ畑)
・グジ
・ウーブラハレ・シャーブラハレ(→沖縄本島北部のバーリ・バール?)
・サトゥンヤ(サト)


    ▲於斉の公民館の分館

・参考文献
 
「於斉のノロ祭祀とその周辺」松原武実『南日本文化』(2000年発行)

【伊子茂】(いこも)


▲伊子茂のバス停留所付近(後方は学校)       ▲西家(旧家)跡の石積み(正門から右手)


 ▲西家(旧家)跡の石積み(正門から左手)


【押 角】(おしかく)




【瀬 相】(せそう)

・瀬相のノロ




       ▲瀬相分館               ▲瀬相のアシャゲ


▲瀬相のアシャゲの側にあるオボツイシ      ▲ウフミヤー


【俵】(ひょう)


▲瀬相の公民館の上からみた集落          ▲アシャゲ(物置小屋)


 ▲もう一つのアシャゲ(甕が置いてある)   ▲元文五年(1740)の石塔


  ▲公民館の後ろにあるグジの墓     ▲川沿いの左側は神道


【三 浦】(みうら)



【武 名】(たけな)


      ▲武名分館               ▲武名のアシャギ


   ▲シマコスガナシ           ▲アシャギの柱にある杯

【木 慈】(きじ)


       ▲木慈集会所                ▲木慈のアシャギ


    ▲木慈のアシャギ        ▲木慈の力石


【瀬 武】(せだけ)
 
 瀬武に旧実久村役場があった字で役場跡の門柱と「実久村役場」の金属製の表札が残っている。


▲瀬武の中央公民館の瀬分館前の土俵      ▲旧実久村役場後の門柱と分館


    ▲瀬武のアシャゲ         ▲アシャゲの側に置かれている柱?

【薩 川】(さつかわ)


   ▲薩川のアシャゲトとトネヤ      ▲アシャゲ内にあるカマド


 ▲瀬相のトネヤの側にある力石       ▲薩川の公民館の分館

【芝】(しば)

 
 ▲サンゴ石の屋敷囲いが目につく       ▲芝の中央公民館の分館


▲芝ではトネヤと呼んでいる(アシャゲ?)    ▲寄贈名は女性名のみ


   ▲海岸近くの石積みの屋敷         
【実 久】(さねく)





   ▲実久のコドネ              ▲実久のフードネ(アシャゲ?)


                   ▲実久三次郎神社


 ▲実久三次郎の足跡と手跡の石      ▲実久三次郎の墓


【阿多地】(あだち)


   ▲阿多地のアシャゲ

     ▲阿多地のトネヤ               ▲阿多地の集落

阿多地の原(字)(17)
  ・反間原 ・伊場原 ・小川原 ・汐時原 ・金間原 ・畑キ尻原 ・鋏川原 ・返シ平原 ・小川作原
  ・茂畑キ原  ・川内原 ・山作原 ・前ノ平原 ・仲ノ作原 ・・上反間原 ・木平原 


【須子茂】(すこも)
 
 須子茂は古琉球の二枚の辞令書(1574年)に登場する村名である。二枚の辞令書で「瀬戸内間切西間切」の「すこむ」とあり、「正保国絵図」では「西間切之内 すこも村」とある。辞令書のタイトルでは「須古茂」と表記されているが、そのように表記された時代があったのか。③の辞令書も須子茂にあった辞令書のようである。三点の辞令書が同家に所蔵されていたのであれば、ノロ家の男方は間切役人を勤めていたことになる。それは今帰仁間切の中城ノロ家に戦前まで12枚の辞令書が残っていて、二枚がノロ辞令書で他の10点は男方(役人)の辞令書である。そのことは、ノロ家の男方は役人を務める人物が出た家筋であることがわかる。

①瀬戸内西間切の須古茂のねたちへの安堵辞令書(万暦2年:1574年)
②瀬戸内西間切の須古茂のたるへの知行安堵辞令書(万暦2年:1574)

③瀬戸内西間切の西掟職補任辞令書(万暦23年:1595)

③の辞令書
   志よ里の御ミ事
    せんとうちにしまきりの
    にしのおきてハ
    一人いんほし大さちに
   たまわり申候
  志よ里いんほし大さちの方へまいる
 万暦二十三年九月廿二日 

    ▲須子茂分館               ▲須子茂のアシャギ


 ▲アシャギの近くにあるイベガナシ         ▲トネヤ

 須子茂の原(30)
   ・里原 ・金久原 ・田袋 ・水通 ・寺畑 ・通山 ・皆口 ・前田 ・打原 ・小又 ・船蔵 ・脇ノ平
   ・小浜原  ・ヲセ原 ・上小浜 ・佐久 ・横武 ・武田 ・上ウツ原 ・かろほ ・曲リ大原 ・屋茂川
   ・長山 ・大山原  ・山田 ・小宮作 ・大平 ・平瀬原 ・大久保 須子茂離


【嘉 入】(かにゅう)


  ▲中央公民館の嘉入分館                ▲嘉入のアシャギ


    ▲嘉入のトネヤ

・嘉入の原(32)

 ・泉里原 ・多利田原 ・田袋原 ・里原 ・金久原 ・仲浜原 ・大松木原 ・木磁平原 ・カン間原 
 ・田ノ平原 ・永山原 ・田名平原 ・多木間原 ・俵辻原 ・大平原 ・山木能原 ・横作原 
・川内原
 ・
前田原 ・白畑ケ原 ・大塔原 ・仲作原 ・加世原 ・立神原 ・屋ン間原 ・赤畑ケ原 ・惣山原
  ・祢加ン作原 ・古手久原 ・油井道原 ・間加利原 ・古志瀬原


【西阿室】(にしあむろ)


  ▲厳島神社から西阿室の集落をのぞむ         ▲厳島神社の神殿

  ▲バス駐車場の土俵             ▲西阿室の海岸