2009年 沖縄県今帰仁村歴史文化センター
11月の動き 過去の動き
ドイツ・オーストリアをゆく HPトップへ なきじん研究(紹介) 山原の津(港)と山原船
今帰仁の戦後60年の軌跡(企画展終了) 第16期ムラ・シマ講座[終了) 第17期ムラ・シマ講座(開催中)
山原の神アサギ 奄美のノロ制度 喜界島(鹿児島県) 沖永良部島 与論島 奄美加計呂麻島
阿嘉島 座間味島 粟国島 石垣市の村と小浜島(竹富町) 奄美大島の村々 伊江島
ノロ制度の終焉 恩納間切のノロ 金武間切のノロ 久志間切のノロ 名護間切のノロ 本部間切のノロ
今帰仁間切のノロ 羽地間切のノロ 大宜味間切のノロ 国頭間切のノロ
【2005年の動き】 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
【2006年の動き】 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月 4月 3月 2月 1月
【2007年の動き】 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月
9月 10月 11月 12月
【2008年の動き】 1月 2月 3月
4月 5月 6月 7月 8月 9月
10月
11月
12月
【2009年の動き】
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月
北山(山原)の歴史と文化(企画展:終了) 根謝銘(ウイ)グスクと周辺の村々
企画展―村制100年の歩み―資料展―(終了) 国頭村比地(山原のムラ・シマ)へ 平成21年の桜情報
古宇利島の祭祀(平成21年) ・21年度学芸員(博物館)実習 天底のワラビミチ 八重山の御嶽と集落
2009年11月30日(月)
29日は恩納村の読谷山間切から分離した谷茶・冨着・前兼久・仲泊・山田までゆく。そこは山原の村を見る視点とは別の視点で見ていく必要がありそう。言葉や人々の気質など。どれが正しいのはではなく、各村(現在のアザ)がどんな特徴をもっているのか。それは何故かということを理論づけていこうと考えている。
⑤【恩納村谷茶】
谷茶村は『絵図郷村帳』(1646年頃)で「たんちや村」と登場。古琉球の時代からの村とみてよさそうである。しかし『琉球国高究帳』(17世紀)には出てこない。『琉球国由来記』(1713年)でどうでてくるかというと、神シアゲやウタキを持つ村としては登場しない。しかし恩納間切の前兼久村の前兼久根神火神の稲穂祭や富着村の神アシアゲでの祭祀の稲穂祭と稲穂大祭の時、「谷茶・仲泊・前兼久、四ヶ村」と出てくる。
沖縄本島北部では神アサギの存在は古琉球の時代からの村、つまり古琉球の村として位置づけられてきたが、中南部では必ずしそうではないことがわかる。谷茶村より南の富着村や読谷山村、真栄田では神アシアゲがある。前兼久村と冨着村、そして谷茶村・仲泊村の祭祀は前兼久根神の祭祀である。ところが、富着村の稲穂祭は山田ノロ、また四ヵ村の居神の祭祀となっている。祭祀によって山田ノロ、あるいは各村の居神の祭祀となっていて複雑である。それは四ヶ村の成り立ちと関係がありそうである。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃?)にも谷茶村は神アシアゲを持たず「東ノ御嶽」(一ヶ所)の村である。「殿」(トゥン)があっていいのだが。
『琉球国旧記』(1731年)の「江港」に「恩納郡の谷茶邑」に谷茶港が南と北に二つの港があることを記してある。それと「谷茶江」と河が一つ。ただ同書の「郡邑」で恩納郡(領邑八座)とあるが、谷茶邑は記されていない。なぜ? その頃の恩納間切の「郡邑長」は谷茶大屋子である。後に前兼久親雲上となる。
乾隆28年(1763)の額(裏)に地頭代は安冨祖村前兼久親雲上とある。その額は乾隆丙子(1756年)に冊封使全魁、福使周煌が来琉した時の従客の王文治の書である。表に「数峰天遠」(王文治)、その裏面に地頭代の名があり(1756年以前、1731年以後)に谷茶大屋子から前兼久親雲上に地頭代の名称(扱い村)の変更がなされている。
『御当国御高並諸上納里積記』(1750年頃)による、谷茶村の田畑の村位は、田畑とも下である。
明治6年の『琉球藩雑記』の恩納間切の村が12村、谷茶村もでてくる。
(恩納村・谷茶村・瀬良垣村・前兼久村・読谷山村・真栄田村・安冨祖・名嘉真村・富着村・仲泊村・久良波村・塩屋村)
▲東のウタキのイベ(祠内)か ▲祠内に四基の石香炉あり。年号は不明
▲恩納村谷茶の南側の浜 ▲恩納村谷茶の北側の浜
▲恩納村谷茶のウタキ(後方の杜) ▲谷茶の河口地(江)
2009年11月28日(土)
午後から「北山の歴史と文化」で講演(一般向)がある。歴史文化センターの宣伝でもしましょうかね。以下の内容で話す予定。うまくまとめきれるだろうか!
北山の歴史と文化
[講演のレジュメ]
・世界遺産の今帰仁グスク
・山原の5つのグスク(根謝銘(ウイ)グスク、羽地グスク、名護グスク、今帰仁グスク、金武グスク)
5つのグスクは、後の国頭・羽地・今帰仁・名護・金武の間切へ。
(本部・大宜味・久志・恩納は近世に分割してできた間切)
・山北三王の時代(怕尼芝・珉・攀安知)(1373~1416年)
・山北監守派遣の時代(監守時代1422~1665年)
(第一監守時代(1422~1469年)
(第二監守時代前期(1470~1609年)
(第二監守時代後期(1610~1666年)
・北山の歴史と関わる墓(百按司墓・大北墓・赤墓・津屋口墓・大和人墓)
・山原にある三津口(運天港・勘定納港・湖辺底港)、もう一つは那覇港
・古琉球の辞令書
・1500年代からの伝世品(ノロ関係資料)
・山原にある歴史的な碑
・消えない山原の神アサギ
・伊是名・伊平屋は首里王府の天領地?
・運天港が果たした歴史的な役割
北山の歴史を描く場所に立って、歴史を見ていくことにしましょう。なかなか目にすることのできない資料も紹介します。また運天港が、「沖縄の歴史」上大きな役割を果たしています。その様子も紹介しましょう。
今帰仁グスクは世界遺産として重要であるが、北山の歴史や運天港の歴史、それだけでなく山原(国頭地区)の歴史を紐解いていくことの重要さに気づいていただければ幸いです。
▲今帰仁グスクの志慶真門郭 ▲国頭村比地の神アサギ
2009年11月27日(金)
午前中今帰仁小4年生(2組:21名)の授業。21の道具を一人一道具。スケッチをし、聞いた話をまとめ、そして一人ひとり報告。異なった道具で、一気に21の道具を通した話にまとめていく。書いた絵をみんなに見せ、どの道具の話なのかをしっかりと確認していく。それと一人ひとりの報告が異なっていると同時に、そこに個性がよく出てくる。素直に聞いて、そのまま書いた報告の方がまたいい。クラスで他の人のメモで報告するとことで自分のものになるでしょう。
▲ムイジョーキーとトーミ、木の臼 ▲ハーミと秤とムーチウブサー
▲一人ひとり報告 ▲ぼくは木の弁当箱?の報告
▲みんなの報告聞いて「おじい、おばあ」の世界に浸っています。まだ、「おじい、おばあ」状態
2009年11月26日(木)
11月22日(旧暦10月6日)に古宇利島のタキヌウガンが行われる。その日は参加できず。調査の報告を受ける。タキヌウガンは旧4月と旧10月の2回行われる。二回のタキヌウガンは旧4月と10月に行うが、その月の日を選ぶのは古宇利春夫氏である。どのようにして日を選ぶのか。お聞きしていいものかどうか?
古宇利島にナナムイナナタキ(七森七嶽)があり、タキヌウタンは七つのウタキを決まったコースでまわる祭祀である。ウガンはお宮(クワッサヤー)から始まり、①マーハグチヌウタキ→②トゥンガヌウタキ→③ソーヌウタキ→④プトゥキヌメーヌウタキ→⑤ビジュルヌメーウタキ→⑥マチヂヌウタキ→⑦ナカムイヌウタキの順で廻っていく。詳細については「古宇利島のタキヌウガン」(玉城菜美路:歴史文化センター)で報告。今年の祭祀の調査は全て?終える。この一年間の調査記録は『なきじん研究―古宇利島の祭祀―』(300頁)としてまとめる。今年度の参与観察記録は、将来への贈り物とする。祭祀を流れで記録していく。それにコメントを書き入れていく。どのような冊子のなるか楽しみである。少しは「古宇利島の祭祀」で紹介してある。そのような記録を近世、あるいは明治からやってくれていたら、祭祀も歴史史料として議論ができたのにとつくづく思う。それと実態を踏まえた議論や研究ができただろうにと。自戒している。
①サブセンター(ムラヤー)
②お 宮
③マーハグチの御嶽(遥拝)
④トゥンガヌ御嶽
⑤ソーヌ御嶽(遥拝)
⑥プトゥキヌメーヌ御嶽
⑦東側に向い立ち御願 (⑥と⑧の中間辺りで)
⑧クヮッチモー
⑨ビジュルメー(マハンシヌ御嶽)
⑩(⑨よりほどなくいったところで立ち御願)
⑪イソーバイ(車で移動し、お墓付近で立ち御願)
⑫マチジヌ御嶽
⑬集落の西の交差点での立ち御願(ガソリンスタンド付近)
⑭ナカムイ御嶽(遥拝)
⑮フンシヤーの祠
▲最後はアサギミャーでナカムイヌウタキに向かって。 ▲フンシヤーの祠でのウガン
午前中、今帰仁小4年生1組(22名)の学習。明日は2組。22の道具を使って、一人一点(道具は1~22のくじ引きで決める)。スケッチをしながら、道具についての話を文章にまとめる。聞いてまとめた話をみんなに報告する。
聞くこと・書くこと・発表すること。そこから、その道具を使っていた時代をイメージさせていく。スケッチをしていく時間は、使われていた時代へタイムスリップさせていく。その時代に行ったり来たりする感性が育ってくれたら・・・。一人ひとりの報告が終わると顔を見たら22の道具が浮かんできますよ!なかなかいい報告でした。スケッチもいい。文章にしたのをアナウンサー気分で報告してくれました。(担任の先生が、生徒に負けます。それはいいこと。その授業は)
▲私はサーターグルマ(砂糖車)の報告するのだ! ▲千歯と脱穀機の説明!
▲友達は何を報告してくれるのかな? ▲ユートゥイ?! 海水や水を汲みとる器のことか!
2009年11月25日(水)
兵庫県室津までゆく。瀬戸内海沿いのいくつかの津(湊)の予定が天気やボケのため予定変更。姫路城・明石城・大槻城跡などへ。瀬戸内海沿いの湊への関心は、参勤交代や江戸参府や江戸上り(江戸立とか)のコースであること。琉球や薩摩から大阪へのコースが何故、九州の西海を通り、下関から瀬戸内海へ入るのか。そのことを体で知りたくて。
山陽網干(アボシ)駅からタクシーに乗り賀茂神社の下で降りる。賀茂神社前の待ち合い場所?で、女将さんが、す~とお茶を出してくれた。神社では七五三のお参りが行われている。扁額がいくつもあり、一つひとつ読み解きたいのだが。琉球からの使者の墓でもないかと。「湊口御番所跡」の標があり、隆福寺跡ともある。その近くに大阪城築城のとき運ばれる途中の石が水没していたのを引き揚げてある。本陣薩摩屋跡や本陣肥前屋跡などに室津の様子が彷彿。多いとき6軒の陣屋があり、室津を本陣とした藩が63もあったという(室津の町並み)。
「室津民俗館」と「室津海駅館」へ。館は「嶋屋」(三木家)と「魚屋」(豊野家)を資料館にしてある。「室津民俗館」では「宮本常一と瀬戸内海―あるく巨人の見たふるさとの海―」と特別展が行われていた。宮本常一氏が撮影された昭和20年代の室津の写真を何点か目にすることができた。「宮本常一の旅に学ぶ」の講演があったが、時間がなく聞くことはできなかった。そこで沖縄県恩納村の海岸線(湊・江)について書き記すことのヒントをいくつかもらう。参勤交代や江戸参府や朝鮮通使への饗応の品々が展示されていて興味深い。琉球からの使者も、そこを通過したのか。室津行きで瀬戸内海のイメージが変わってしまった。古くから瀬戸内海を船が往来していた理由がわかったような。
(工事中)
2009年11月20日(金)
21日~24日まで休みします。
③【恩納村瀬良垣】
(工事中)
瀬良垣は金武間切から恩納間切が創設された以前からの村である。『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』では「金武間切せらかち村」とある。瀬良垣村の集落は古島(山手)から移動してきた痕跡がある。古島には拝み川があり産井として拝まれているという。アガリガーは今もあるという。またターヌハタ(田端)やイリ、アガリ、根神屋、マーチの下、横目などの旧家の屋敷跡や畑地が残っているという(『恩納村誌』)。(未確認)
『琉球国由来記』(1713年)には漢字があてられ「瀬良垣村」と記される。同著で恩納間切の夫地頭(四員)の一人が「瀬良垣大屋子」である。根神火神と神アシアゲも登場する。根神火神は瀬良垣根神の祭祀で、神アシアゲでの稲大祭は恩納ノロの祭祀となっている。神アシアゲでの稲穂祭と稲大祭の時、脇地頭(瀬良垣親雲上?から五水二合(お酒)が出される。それと神アシアゲでの柴指は居神の祭祀である。祭祀には山留・稲穂祭・年浴・ミヤ種子・十月朔日の竈廻の祭祀がある。(ノロと根神と居神の祭祀の関わり方が興味深い)
瀬良垣村は恩納間切の夫地頭の一人「瀬良垣大屋子」を出す村である。
『琉球国旧記』(1731年)で恩納郡のところで神軒(瀬良垣邑)、また「寄揚森」に二人の神がいて、青山威部那主と島根富という。江と港のところで「瀬良垣港」、火神のところで「根神火神」がいる。
瀬良垣とペリー一行の動き。1853年11月17日「この伝馬は同日、北へ向かったが、八時時分(午後三時頃)瀬良垣浜(瀬良垣村前之浜)へ着いている。瀬良垣でも子豚や庭鳥・羊の押し取りが横行し、・・・・(『恩納字誌』48頁 「恩納間切発砲事件について」(小野まさ子)参照)。
【沖縄島諸祭神祝女類別表に見る瀬良垣の神人と祭祀場】(明治17年頃?)
①根神 ②大コロ神 ③辺土ノミ□神? ④供神
神アシアゲ 前ノ御嶽
[瀬良垣塾](『沖縄県史11巻沖縄県日誌』
・ 「明治十四年五月九日、国頭役所長六等属山内正上伸す恩納間切瀬良垣学校及今帰仁間切
岸本学校廃校」
・ 「書面願の趣無余儀相見候条此度限開置候事」
【恩納間切瀬良垣村全図】(明治36年)(恩納村立博物館蔵)
瀬良垣村は安富祖村と恩納村と接し、以下の10の小字からなる(確認が必要)。
①セバンダ原 ②村内原 ③瀬良垣原 ④瀬良垣山 ⑤都田原 ⑥黒崎原 ⑦満茶原
⑧ギナン原 ⑨前喜原 ⑩ギナン内原?
▲サーシヌクヮ(島)から見た瀬良垣の集落 ▲瀬良垣漁港(現在)
▲瀬良垣の神アサギ ▲神アサギの東側にある拝所(根神火神?)
▲瀬良垣の集落の西側にある洞窟(ウタキ?) ▲イベ?にある「當山仁屋」の香炉
【兼次小の学習】
午前中3年生の学習。諸志(しょし)の学習。今日は諸志グループの報告。
①諸志の植物群落(しょくぶつぐんらく)
②諸志のウプガー
③志慶真乙樽(しげまうとぅだる)殿内(とぅんち)
④二つの神ハサギ(諸喜田村と志慶真村)
⑤諸志の豊年祭
⑥焚字炉(ふんじろう)
⑦中城ヌルドゥンチの勾玉(まがたま)と水晶玉(すいしょうだま)
子供達を子供の世界から大人の世界との往復をさせている。この教室に入ると大人の世界へと目の色を変えて入ってくる。普段使ったことのないムラやカー、ウタキやノンドゥンチや焚字炉や地名など。諸志を中心とした報告であるが、前にやったグループも出番がある。今泊は三回目、兼次は二回目、そして諸志が1回目。次回は与那嶺と仲尾次とつづく。クラス23名が一人一つのテーマでの報告であるが、今日で16のテーマがクラスの宝物になった。23の宝物ができる。23の宝物は一人1テーマであるが、三回四回と発表していくとクラス全体のものになっていく。前回休んだ一人は友達から原稿をもらっての報告。友達のことも考えて。いいこと。
報告もアナウンサーになろう。自分が発表するテーマを画像でみせながら、アナウンサーになったつもりでの報告。もう少しすると原稿なしの発表となり自分のものになるでしょう。板についてきました。そろそろ手放しましょうかね。
▲諸志グループが報告 ▲諸志の豊年祭の報告
▲友達の報告を聞いています! ▲今泊グループも報告(3回目)
▲自分たちも出番があるんだ~ ▲兼次グループの報告(2回目)
2009年11月18日(水)
古宇利島のプーチウガン調査。旧暦10月撰日。午後1時頃には神人はボツボツムラヤー(農村構造改善センター)にあつまり、線香・紙銭・餅・お神酒(泡盛)・塩・お米などの準備(拝む場所の数)にとりかかる。準備が整うとお宮、ひがや、ヌルヤー、ウチガミヤー、ナカムイヌウタキまでは揃ってウガン(御願)をする。ナカムイヌウタキでのウガンが終わると、イリバーイ(西の方)とアガイバーイ(東の方)の二手にわかれる。それぞれの場所でのウガンが終わるとムラヤー(農村構造改善センター)で落ち合う。揃うとウガンが終わったことの報告をお酒で。参加した神人達はお餅・お肉などが配られお持ち帰り。
①農村構造改善センター(ムラヤー)
②お宮(クワッサヤー)
③ヒジャヤー(比嘉屋) ④ヌルヤー
⑤ナカムイヌウタキ(イベまで行けない神人は遥拝) 後方の杜がナカムイヌウタキ
(以下がプーチウガンの本筋部分。そこは古宇利島の年中祭祀で報告)
宮城真治が『古宇利島の研究』でいう「津口御願」のことである。「悪疫を払う願として豚を賭して御願をする。普通年二回であるが、疫病流行の際は数度行う」とある。
[東方]
①マーハグチヌウタキ(遥拝)
②トゥンガヌウタキ(遥拝)
③プトゥキヌメーヌヌウタキ(遥拝)
④ソーヌウタキ(遥拝)
⑤チグチ(東側の浜)(遥拝)
⑥アガリヌハー(東の井戸)
⑦イリヌハー(西の井戸)
[西方]
①イーバイ(西の入口)睹㈡占め
②ハンゼー(海岸)
③ウパルマイ(海岸)
④グザブ(港口)
⑤ターチバナシ(かつての海岸)
⑥トゥンジバマ(かつての海岸)
2009年11月17日(火)
(工事中)
②【恩納村安富祖】
安冨祖はオモロで、
おんな やき、しまよ(恩納やきしまよ)、
あふそ、やき、しまよ(安冨祖やきしまよ)
おんな、おてや、ちよも(恩納居てやちよも)
あふそ、おてや、ちよも(安冨祖居てやちよも)、
と謡われる。
安冨祖は金武間切から恩納間切創設された時に分割した村である。『絵図郷村帳』(1646年?)と『琉球国高究帳』に「金武間切あふそ村」とある。『琉球国由来記』(1713年)には「恩納間切安富祖村」とあり、森城嶽とアッタ嶽が出てくる。それとは別にトマリガシラ嶽とアフテヅカサがあり、それも村名は記されていないが神名(地名?)に「アフスシヅカサ」と「アフテヅカサ」とあり、アフスとアフテは村名の安冨祖につながる名称とみられる。
また「年中祭祀」のところには安富祖巫火神、根神火神、神アシアゲがある。巫(ノロ)は安富祖巫で、一村一巫である。
『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年?)の安冨祖村には「ノロクモイ一人、幸地?神一人、根神一人、」とあり、また「神アサギ一ヶ所、ノロ殿内火ノ神所一ヶ所、安祖冨御嶽」(三ヶ所)の神拝所が記されている。
「安冨祖には元文検地の印部石(原石)が三基ある。
「ゆ あたんまた原」 「は はし川原」(ハシラハル石のことか:大堂原) 「さ ・・・」
・白陶土は安冨祖と名嘉真でとれた。安富祖の白陶土は海岸に接した高い所に産出するので、直接海岸に落とし、舟に積み込むことができた(『安冨祖字誌』)。
明治13年9月6日(安富祖村塾)(『恩納村誌』)
恩納間切安富祖村学務員 真栄田伊太外一名より出願す
当村是迄学校なく民居住の家を借り受け今年三月以降開校仕居候開校仕居候得共狭隘に付き
八十番次屋敷二十二歩従前一村共有地を令仮学校敷地に寄附仕該地へ建坪五坪の学校新築
仕度旨を請ふ
【安冨祖の成り立ち】
安富祖は13の小字からなる。
①浜原 ②正底原 ③明地原 ④村内原 ⑤前袋原 ⑥クガチャ原 ⑦上原 ⑧高武名原
⑨大堂原 ⑩赤瀬原 ⑪熱田原 ⑫宜志富原 ⑬金良原 (喜瀬武原)
▲安富祖の森グスク嶽(現在) ▲水田が広がる安富祖川沿い
▲安富祖の神アシャギ(アサギ)(現在) ▲安富祖ノロドゥンチ(現在)
▲安富祖側の河口付近(河口から伝馬船が遡のぼっていった。左側あたりに薪津口があった!
2009年11月16日(月)
恩納村の名嘉真・安富祖・瀬良垣・恩納を踏査する。恩納村の歴史を机上で書き進めているのだが、なかなか体に染み込んでこない。そのため、まずは歩きながら歴史を描く手掛かりとなる痕跡を探しながら。今回は1673年に恩納間切を創設した時、金武間切から分割した四つの村(ムラ)から。まずは、各村の歴史を描いてから恩納村(間切)へと。モデルとして恩納村名嘉真から。
①【恩納村名嘉真】
恩納村の名嘉真の印武部が名護市喜瀬と接している。名嘉真は1673年以前は金武間切の村の一つであった。『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』で「中間村」とある。『琉球国由来記』(1713年)から「名嘉真村」と表記される。
明治36年頃の「国頭郡恩納間切名嘉真村全図」で①ヤーシ原 ②下袋原 ③伊武部原 ④竿底原 ⑤浜原 ⑥川田原 ⑦村内原 ⑧前袋原 ⑨新田原 ⑩金武上原 ⑪名嘉真山 ⑪アンタカ原の11の原からなる。
神アサギの近くに「地頭火神」(脇地頭)の祠がある。地頭地の田は印武部の国道沿いにあったという(『恩納村誌』)。
地頭屋敷は名嘉真ノロ殿内の近くにあり、代々倪氏(ゲイ)で嘉手納と喜納姓だという。 名嘉真の集落は大島にある。仲松は「大島部落以前の太古は、この大島と水田を隔てた喜瀬武原道路の山沿いのガーキマタとチヌマタの両方付近とマナチヂ御嶽背後の山地であった二つの小集落が、大島に移動合併してイーフマキヨを形成したのではないかと思われる」(『恩納村誌』)。大島から新島への移動は今から150年前。旧家も現在地へ移動する。大島に名嘉真ノロドゥンチや神アサギや地頭屋敷跡(地頭火神)などがある。
・1673年以前、仲間(後に名嘉真)村は国頭方金武間切の村の一つ。
・『琉球国高究帳』(1648年頃)の中間村とあり、高頭164石余、内の田が157石余、畑から7石余。
圧倒的に田の多い村である。
・金武間切番所と恩納間切をつなぐ喜瀬武原をつなぐ宿道(喜瀬武原に御待毛あり)。
・恩納間切が創設される以前、中間村は金武間切の内だったことを謡った中間節がある。
なかまからけとて/久志辺野古までも/金武のお前がなし/うかけえじま
(名嘉真から久志辺野古までも/金武のお前がなしの/統治する島である)
・『琉球国由来記』(1713年)から「恩納間切名嘉真村」となる。
・名嘉真掟/アナツジ嶽/名嘉真巫/名嘉真巫火神/神アシアゲ
(祭祀:山留/稲穂祭/年浴/ミヤタネ/竈廻/野原祭/稲穂大祭/柴指)
・『琉球国由来記』(1731年)に「国頭郡名嘉真邑」とある。
・名嘉真邑/名嘉真掟/江伊普嶽/真那津地嶽/神軒/名嘉真江/名嘉真邑港
・『間切村名尽』(11ヶ村)
・名嘉真邑
・1770年頃?の名嘉真村の村位(田は中、畠は下)
・1808年(嘉慶13)
・名嘉真村の二反帆六人乗の船が台州府臨海県に漂着(中山世譜)。
・1837年(道光17)
・六人が乗っていた恩納船(仲間村)の二反帆船が一隻が中国江南省に漂着。
・1853年(咸豊3) ペリー提督一行の分隊が東海岸の漢那村から名嘉真村に降りてくる。
・1854年(咸豊4)
・「諸上納物割付定」の恩納間切の合計300人、名嘉真村は22人(「地方経済史料」)
・1868年(同治7年)恩納間切惣耕作当日記」の役人(名嘉真村)
・名嘉真掟足 喜納にや
新植の棕梠や樫木に関しての達しが検者(幸地里之子親雲上)によって
名嘉真村で行われている。
・『琉球藩雑記』(明治6年:1873)の恩納間切の村(12ヶ村)
・名嘉真村
・明治13年(1880)の名嘉村の人口 戸数 86世帯 計:427人(男:229人、女:189人)
・明治19年の名嘉真村の役人
山當:島袋実助 耕作當:仲嶺康種 惣頭:宜野座兼輔 掟:當山寛蔵
・明治23年(1890) 名嘉真村の人口(戸数 88戸、人口462人)
・明治33年(1900) 陶土の運送
・産地は恩納、瀬良垣、安富祖、名嘉真の四ヵ村のみ。・・・瀬良垣・安富祖・名嘉真の林産物は、
仲泊・谷茶・名嘉真・前兼久の船持が之を買収して泊・那覇に出す。而して伝馬船は泊に出す、
反帆船は那覇に出す。
・名嘉真村の地割は人頭割、年齢により都合を設ける。男女平等(屋取人もはいる)(明治16年地割基準)。
明治32年3月2日生まれ、腹の中の子も一人として配分。
山林の配分は村組、新島組、浜組にして配分。耕地、土質の良し悪しによって岐、前、カニクに区分し、
平等に土地を配分。その後の交換は認められた。一人につき田は約75坪、畑は85坪。苗代田は別
に平等に配分。
・明治36年(名嘉真村の戸人口(戸数 117戸、人口536人)
・名嘉真村のムラヤー(村屋)は古島の地頭火神のあった付近。
・地頭屋敷(脇地頭)屋敷は現在のノロドゥンチ屋敷の一部か?
・名嘉真村の村学校(仲嶺塾)、那覇久米系で具志川仲嶺から名護の喜瀬、そこから名嘉真村に移住。
(名嘉真村から1000坪の畑が与えられたという)(『恩納村誌』)
・昭和8年頃までノロ・若ノロ・根神・クシレー神の神人がいた。名嘉真ノロは『琉球国由来記』(1713年)
に登場する巫(ノロ)である(『恩納村誌』)。
(まだ素案の段階。「家譜」や「評定書文書」は、まだ手をつけていません)
【参考文献】
・『恩納村誌』と『恩納字誌』で恩納村全体の資料を掌握してあり、名嘉真や他の字でも活用させて
いただくことに。
▲名嘉真川沿いのマナツヅ嶽 ▲マナツヅ嶽・泊頭嶽・カワイフ嶽を合祀
▲名嘉真ノロドゥンチ、古島にあり(現在) ▲名嘉真の神アシャギ(アサギ)(古島にあり。現在)
▲手前の森が古島集落跡、一帯はかつては水田 ▲地頭火神の祠(地頭屋敷はノロドゥンチの側)
2009年11月14日(土)
午前中の「ムラ・シマ講座」は今帰仁村崎山。そこは手ごわい村。崎山だけでは説明できないムラ。崎山はヒチャマと呼び下間の義か。ならば上間があるのではないか。『琉球国由来記』(1713年)以降に上間村が登場する。その場所はジニンサウタキのある付近(崎山村のウタキ。但し由来記でギネンサ御嶽を中尾次村に記してあるため誤解を招いている。『沖縄島諸祭神祝女類別表』】(田代安定撰録)(明治17年?)には「崎山村ジ子ンサ嶽」とあり、また今でも崎山のウタキとして遥拝している。
ヒチャマ(上間)あれば、ウイマ(上間)あって、それに対応した村名と見られる。これまで説明のつかなかった中城のウタキ(スガーウタキやナカグスク)の中はどこに対しての中なのか、いつもどこのグスクに対してのナカグスクなのか説明がつかずにいた。地理的に上間村―中城(仲尾次)村―下間(崎山)の関係に位置している。ナカグスクはウタキやグスクになっているが、付近に集落があった頃は中間村となってもよかったのではないか。ところがウタキを残して集落は現在地に移動している。そのためナカグスクやスガーウタキとして今に伝えて祭祀のときは仲尾次の神人や有志の方々が拝んでいる。
今の崎山を見るとき、上間村、下間(崎山)村、それと中城(仲尾次)村の位置関係、そして故地にあったムラでの拝所、集落移動、上間村と下間(崎山)村の統合、移動、村の境の変更などを合わせみる必要がある。それらを踏まえてジニンサ御嶽や中城(スガーウタキ)、さらに村の祭祀やお宮への拝所などの統合。下間から移動してきた一門、上間から移ってきた一門、それぞれの一門一門から神人を出している姿が見られる。現在の崎山以外から移り住んだ一門の方々はお宮での祭祀とは関わらない。などなど。崎山の村の歴史的な動きが姿をみせつつある。
(これまで見てきた法則性をいくつも駆使しないと説明がつかない。故地でのウタキや集落やカーの関係。集落が移動した場所での拝所と故地との関係、集落が移動し統合、村の境界線が引かれると仲尾次村のウタキ(グスク)が崎山を越えた場所に位置するようになり、さらにそこは平敷村の地番となっている。そこはまた別の地理的な要因が重なってくる。ほんとにアキサミヨー!である)
▲上間・中城・崎山の位置関係 ▲崎山の茅葺き屋根の神ハサギ
▲崎山の三門中の拝所を合祀(お宮) ▲三門中?の香炉(イベ?)
▲崎山(下間)の発祥地の碑 ▲崎山ガーから上間・中城・下間の位置を確認
2009年11月11日(水)
『琉球国旧記』(1731年)の「江港」が掲げられている。恩納郡(間切)に「江」が5ヶ所、「港」が11ヶ所ある。それらの江や港がどんな役割を果たしてきたのか。『琉球国旧記』(1731年)で、一言情報を記していてくれたらいかによかったか。ならば、以下の江と港を特定し、次世代に向けて現況を記録しておくことが必要かと。
[江](河)
①名嘉真江(名嘉真邑(村)の東にあり)
②山田江(山田邑(村)の南にあり)
③久波江(久波邑(村)の東にあり)
④谷茶江(谷茶邑(村)の南にあり)
[港]
①名嘉真港(名嘉真邑(村)の南にあり)
②安富祖港(安富祖邑(村)の北にあり)
③瀬良垣港(瀬良垣邑(村)の東にあり)
④仲泊港(仲泊邑(村)の南にあり)
⑤外川港(仲泊邑(村)の南にあり)
⑥真栄田港(真栄田邑(村)の南にあり)
⑦比留港(塩屋邑(村)の南にあり)
⑧恩納港(恩納邑(村)の東にあり)
⑨内覇喇港(恩納邑(村)の南にあり)
⑩谷茶港(谷茶邑(村)の南にあり)
⑪谷茶港(谷茶邑(村)の北にあり)
▲安富祖の海岸(南側) ▲安富祖の海岸(北側)
▲南恩納の河口(現在) ▲南恩納の河口より開削された部分
▲瀬良垣港(現在) ▲瀬良垣の海岸(現在)
【絵図郷村帳】(1673年に恩納間切創設への村)
【読谷山間切から】
①よくだ村 ②前田村 ③古読谷山村 ④くらは村 ⑤中泊村 ⑥下ふづき村 ⑦上ふづき村
⑧たんちや村 ⑨しほや村 (⑩きんはま村:当時無之)
【金武間切から】
①おんな村 ②せらかち村 ③あふそ村 ④中間村
【球球国高究帳】
【読谷山間切から】
①よくた村 ②前田村 ③古読谷山村 ④― ⑤― ⑥⑦ふつき村(上・下が一つに?)
⑧― ⑨―
【金武間切から】
①恩納村 ②せらかち村 ③あふそ村 ④中間村
(※「絵図郷村帳」に出てくる村で「琉球国高究帳」に記されない村が4村あり、それは読谷山間切
のみである。近世村として確固たる状態になかったのか?)
【琉球国由来記】(1713年)の恩納間切の村(11ヶ村)
①恩納村 ②真栄田村 ③読谷山(山田)村 ④富着村 ⑤瀬良垣村 ⑥安富祖村
⑦名嘉真村 ⑧前兼久村 (⑨谷茶村 ⑪仲泊村)
(※しほや村は真栄田村に含まれているのか?)
(恩納間切の役人)
①谷茶大屋子 ②富着大屋子 ③瀬良垣大屋子 ④前兼久大屋子 ⑤首里大屋子
⑥大掟 ⑦南風掟 ⑧南風掟 ⑨西掟 ⑩名嘉真掟 ⑪安富祖掟 ⑫恩納掟 ⑬仲泊掟
⑭山田掟 ⑮真栄田掟 ⑯久留原掟(恩納村の内)
【琉球国旧記】(1731年)の恩納間切の村(11ヶ村)
①恩納邑 ②真栄田邑 ③読谷山(山田)邑 ④富着邑 ⑤瀬良垣邑 ⑥安富祖邑 ⑦名嘉真邑
⑧前兼久邑 (⑨谷茶邑 ⑪仲泊邑 ⑫塩屋邑 ⑬久良波邑)
【間切村名尽】の恩納間切(11ヵ村)
①恩納村 ②真栄田村 ③安富祖村 ④瀬良垣村 ⑤名嘉真村 ⑥谷茶村
⑦仲泊村 ⑧富着村 ⑨前兼久村 ⑩蔵波村 ⑪山田村
【琉球藩雑記】(明治6年)の恩納間切の村(12ヶ村)
①恩納村 ②読谷山村 ③富着村 ④谷茶村 ⑤真栄田村 ⑥仲泊村 ⑦瀬良垣村
⑧安富祖村 ⑨久良波村 ⑩前兼久村 ⑪名嘉真村 ⑫塩屋村
(※人員総計 690人(男340人 女350人)
【琉球藩臣家録記】(明治6年)
・佐渡山親雲上(領地 恩納間切 作得47石余)
・名嘉真筑登之(恩納間切名嘉真村 作得2石余)
・真栄田親雲上(恩納間切真栄田村 作得3石余)
・山田(親雲上?筑之上?)(恩納間切山田村 作得9石余)
・安富祖親雲上(恩納間切安富祖村 作得6石余)
【沖縄島諸祭神祝女類別表】(田代安定撰録)(明治17年?)
①恩納村 ②富着村 ③山田村 ④真栄田村 ⑤瀬良垣村 ⑥安富祖村 ⑦名嘉真村
⑧谷茶村 ⑨前兼久村 ⑩仲泊村 (⑪塩屋村 ※真栄田村に神アシアゲ弐ヶ所、塩屋ノ御嶽とあり、
それは塩屋村が真栄田村に含まれていることを示している)
【沖縄旧慣地方制度】(明治26年)
①恩納村 ②谷茶村 ③富着村 ④前兼久村 ⑤仲泊村 ⑥山田村 ⑦真栄田村
⑧瀬良垣村 ⑨安富祖村 ⑩名嘉真村
(工事中)
2009年11月10日(火)
恩納村の歴史について触れなければならないのでいくつか確認。『球陽』(1673年)の条に「始めて恩納、大宜味、小禄、久志等の四郡を置く」とある。恩納郡の部分を示す。間切の創設の理由は「土地が広く、人口が多い」ことをあげている。その事については、以前触れたことがある。
本国の郡邑、田地甚だ広く、人民,亦多き者は、分けて二郡となす。その金武郡内の四邑、また読谷山八邑を将って、合して
恩納郡となし、始めて向弘毅(大里王子朝亮)、毛国瑞(佐渡山親方安治)に賜う。後また一邑を新設す。共に計れば十二邑。
それらの邑、(村)を具体的にあげると、以下の通りである。
金武間切から①恩納 ②瀬良垣 ③安富祖 ④名嘉真
読谷山間切から①谷茶 ②富着 ③仲泊 ④山田 ⑤久良波 ⑥真栄田 ⑦塩屋 ⑧与久田
恩納間切を創設した時、恩納村名が間切名となり、そこに番所が置かれたのか。読谷山間切からの古読谷山村(山田村)を同村とし古読谷山(山田)間切にする可能性もあったのではないか。そうはならなかったのは?もちろん地理的な条件もあったであろうが。金武間切は三分の一の石高の減になるのだが。金武按司の作得の減になっのではないか(そんなこと関係なかったか)。
『琉球国高究帳』を見ると、恩納村は高頭228石余で金武間切で金武村の228石につぐ石高の村である。古読谷山村は79石余である。石高が多いことは面積が広いことと人口が多いということであったと見られる。そのことが恩納村から二人の掟(恩納掟と久留原掟)、金武村から二人(金武掟と並里掟)を出していることにつながっているのでは。
【毛姓先祖由来記】 57~60(おわり)
門中御吟味の上差し免され毎年
参詣仕り来り候処彼豊見城
親雲上より系図にも相見えざる
由諸不文明候段御墓参詣
させ候儀無用之由ニ而召留られ候
一門中至永代以て睦まじく此あり
何れも□□候毎年八月
彼岸初一日一門中二才までも
相揃わず霊前豊見嶺宅へ相揃い
御霊前へ御焼香仕候儀雍正
三年より相始申し候その時一門の
御頭家より模書相調させ
子子孫孫相伝うべき由ニ而碑板相調
置かれ候也
以上
八月廿九日 豊見城親雲上
盛式
60 59 58 57
2009年11月9日(月)
午前中、兼次小3年生の総合学習。この頃たびたび登場してくる島袋源一郎(兼次出身)について、「島袋源一郎という人物」として話をしておく必要がありそうだ。与那嶺では仲宗根政善先生についても。
兼次グループは、いくつか調べていました。ウイヌハーやタンクなどは自分たちで調査して、図に書いてありました。見たこと、まとめたことをみんなに言葉で伝えていく。「見た、あった」は始まりで、それを書いて、言葉にして、それを伝えることがねらい。(一人休んでいたが、その分は手伝ってくれました。報告したのをあげることに)。だれが何を話すのか、顔をみるとわかるようになりそう)
①島袋源一郎
②ウイヌハー
③五つのタンク
④公民館
⑤兼次の神ハサギ
⑥兼次小学校
⑦りっぱな石垣のある家
▲兼次グループが報告。兼次グループもいい報告してくれました。
最初に前回の今泊グループの8名に報告してもらう。「館長さん、土曜日に今帰仁側の公民館が取り壊していたよ」と報告。しっかりとムラの動きを見ています。「どこかに書いておいてね」と。
▲今泊グループは二度目の報告。予告なしの報告。今泊の個性がでてきました。
2009年11月7日(土)
「ムラ・シマ講座」で今帰仁村崎山をゆく。最近、講座や講演の前の準備は丁寧にしている。それはメモを見ながら話すことができなくなっている。メモを見る余裕がなくなっている。活字がみづらくなっているせいのようだ。崎山について話そうとしたら、茅葺屋根の神ハサギは浮かんでくる。しかし村の歴史について、十分把握していないことに気づく。そこで、整理してみることに(なかなか難しいようだ)。
1600年代の『絵図郷村帳』や『琉球国高究帳』のころから「今帰仁間切崎山村」と登場する。1713年の『琉球国由来記』で今帰仁間切の村の並びは、西側から今帰仁村・親泊村・志慶真村・兼次村・諸喜田村・与那嶺村・崎山村・中城村・平識(敷)村・謝名村・中宗根村・玉城村・岸本村・寒水村・勢理客村・上運天村・運天村・群(古宇利)村と順序よく並んでいるが、崎山村と中城村だけが逆の並びになっている。それ以前の『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』でもそうである。
すると、『琉球国由来記』(1713年)より後に、中城(仲尾次)村と崎山村の境界線の変更、あるいは二つの村の集落移動があったのではないか。その痕跡が仲尾次村の御嶽の位置、そして崎山村の御嶽の位置が不自然である。『琉球国由来記』(1713年)で崎山村の御嶽であるべき「ギネンサ嶽」が仲尾次村の御嶽となっている。また仲尾次村の御嶽が崎山村を越えた平敷村域にあったりする。明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』では村の並びは西から仲尾次村、崎山村となり、仲尾次村の御嶽は「シヨガ嶽」、崎山村の御嶽嶽は「ジ子ンサ嶽」となっている。それらは集落移動と村の境界線の線引きの変更があったことを示している。集落移動と村の境の変更は『琉球国由来記』(1713年)以降ということになる。
二つの村の集落の展開や拝所(御嶽)は集落移動と村の境界線の変更があったことを踏まえて見ていく必要がある。現在の境界線や集落の位置で考えるべきではない(地名などを含めた詳細なことは別でまとめるkとにする)。
▲茅葺屋根の崎山の神ハサギ ▲ハサギ内にあるタモト木
▲崎山の発祥地とされる場所 ▲崎山地内にあるノロ殿内跡(中城ノロ)
【毛姓先祖由来記】 53~56
平良のろくもいと申し双びな無し美
女罷り居り候 是に嫁がせ豊見城間切
住居ニ而おわり申したる由に候
小禄豊見城江今繁栄仕る由候
且又女子は中城のろくもい
職に任じられ彼の間切へ居住仕候 与
比屋村生れの者ニ而時の人与比
屋のろくもいと申し候段其の子孫
代々ののろくもい其の名号引
申す由候 右のろくもい中城城内
御イベ御嶽并に村々の司に
成候段一門中此の程与比屋の
ろ崇敬仕来り候処神拝
儀御法度御仰せら候ニ□相止
申し候 然る処右の豊見城親方
□読谷山は護佐丸より何代
かしら文明相知らず先年
小録豊見城の者儀保子孫
の由ニ而中城之御墓参詣
の願之有り由諸書を以て申し出候一
56 55 54 53
2009年11月6日(金)
月曜日に次のグループの総合学習。兼次ではどんなことを報告してもらいましょうかね。下の画像を使って話をします。「ムラ・シマ講座」の入門編です。しかし中身(場面)は一般向けと変わりません。3年生もその時間は大人になってもらいましょう。普段見ている場所や物であるが、それを言葉にしてどう伝えていくか。長い人生の過程で一度は通過させてあげたいと。
兼次のメンバーは、前回の「今泊」の報告の様子を見ているので、きっと大人顔向けの報告をしてくれるでしょう。楽しみだ。どの場所も歴史文化センターにとって宝物である。それはそれらの場所を通して、いろんな話ができるからである。
①兼次のようす
②島袋源一郎という人物
兼次出身です。生家屋敷があります。
③ウイヌハー
ウイヌハーは上のカーはタンクの水源地。
④第2~第5タンク
いつできたのだろうか。水源地はどこだろうか。飲めないとあるが、なぜ飲んでいるのかな?
⑤兼次の公民館(農村構造改善センター)
公民館はムラヤーともいう。なぜ? なにをするところ。
⑥兼次の神ハサギは一つ
神ハサギは何をするところ?
⑦りっぱな石垣のある家
⑧兼次小学校
学校の住所は今帰仁村今泊。なぜ今泊小学校ではないのでしょうか?
①兼次のようす
②島袋源一郎という人物
③ウイヌハー
④第1~5タンク
⑤兼次の公民館(構造改善センター)
⑥兼次の神ハサギは一つ
⑦りっぱな石垣のある家
⑧兼次小学校
2009年11月5日(木)
あれこれ押し寄せてくるので、何を書き込めばいいのか。ハハハ
【毛姓先祖由来記】 49~52
紛れなく其の時之取□御骨ニ而茂
有り可や 当御墓に相納可と
いづれも御相談これ有り様御座
候処 時よた□より出届申ニ而
候へば不分明由申される方茂此有り
右骨之儀先づ小墓仕立相納
置かれる筈にて相究り申候
附 清明祭之時 何れも
墓之取□骨茂焼
仕る事候
中城与喜屋のろくもいと申すハ
一門之内読谷山と申す人大嶋
在番ニ而与喜屋村と申す処の女
側に召し置き男子女子出生仕り候其
の後豊見城親方大和より帰
帆の砌大嶋瀬通り成られ彼の二
人之子別れ渡りて豊見城間切
ニ而養育これあり男子は奉公
仕豊見城間切儀保之地頭職
頂載儀保親雲上と申し候
52 51 50 49
2009年11月4日(水)
急きょ、小学校3年生の総合学習。画像を見ながら、今泊の9名に一人一テーマで報告。それにホローしていく。ねらい通り進めることができるか。3年生向けに話をする準備でもしましょうか。大きなねらいは、普段なにげなく見ている?場面を「ことば」にして伝えることの訓練。次は兼次・諸志・与那嶺・仲尾次まで。できるかな?
①今泊の水田(稲作)
②志慶真川の下流(ニークンガーラ)の橋
③二つの神ハサギ
そこからわかるものは?
⑤今泊のフクギ
福木が果たしているやくわり?
⑥二つの公民館
二つの公民館からわかることは?
だれが働いているでしょうか。
どんなことをしているのか調べてみよう。
⑦オーレーウドゥンと位牌と勾玉
⑧親川(エーガー)
よくウガミ(祈り)にくる人たちがいるがなにをおがんでいるのでしょうか。
くぼみ石があるが何に使ったのでしょうか。
⑨クビリガーとウドゥンガー(井戸)
⑩鍛冶場跡・石灰焼場跡(カンジャーヤー・ペーヤチガマ)
何をした場所でしょうか?
そこにあるサンゴ石(海石)ななに?
中にあるハコはなんでしょうか。
⑪今泊の三つの浜(クビリ浜・シルバマ・シバンティーナ浜)
シバンティナの浜でなにがおこなわれるのでしょうか?
時々、カメがたまごを産みにやってきます。
2009年11月3日(火)
10月27日奄美大島の宇検村名柄の「古琉球の辞令書」を所蔵されている吉久家を訪れた。辞令書だけでなく、玉や櫃や扇なども拝見することができた。辞令書を入れる箱に「吉久家 古琉球御朱印状 五通」とあり、五通が以下の辞令書である。
これらの辞令書は首里王府から発給されたものであること、1609年以前の古琉球の辞令書、そして同家に掟や目差の役職の人物(男方)の辞令書、それと「なからののろ」(名柄ノロ職:女性)の辞令書があることに注目している。それだけではなく、ノロ関係の遺品と見られる玉(勾玉や水晶玉(ガラス)、それを入れる櫃や扇などが遺されていることに注目したい。それだけではなく、①たらつゐはん(人物)→名音、②名音→名柄、名柄→阿木名、→名柄、あくにや→崎原へと、賜る領地?の変更がなされている。奄美の辞令書を見ると大幅な賜る領地の移動がなされている。ノロ(名柄ノロ)はもとののろのめいのつるが賜っている。
以下の五通の辞令書は名柄の吉久家の所蔵である。嘉靖あるいは萬暦の時代からの伝世品だとすると、同家でノロと掟や目差などの役人を出していることになる(他にも同様な辞令書の所蔵がある。例えば、今帰仁間切の中城ノロ家は9通の辞令書が戦前確認されていて、2通がノロ職補任、7通は掟や目差など男方への発給である)。
『女官御双紙』(1709年)に、「恵良部さすかさのあんし 馬氏国頭親方原行女揚氏敷名親雲上昌喜室」と出てくる。
①屋喜内間切の名音掟職補任辞令書(嘉靖33年:1554)
しよりの御ミ事
やけうちまきりの
なおんのおきてハ
一人たらつゐはんに
たまわり申候
しよりよりたらつゐはんの方へまいる
嘉靖三十三年十二月廿七日
②屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年:1556)
しよりの御ミ事
やけうちまきりの
なからのおきては
一人なおんのおきてに
たまわり申候
しよりよりなおんのおきての方へまいる
嘉靖三十五年八月十一日
③瀬戸内間切の阿木名目差職j任辞令書(隆慶5年:1571)
しよりの御ミ事
せとうちひかまきりの
あきにやめさしハ
一人なからのおきてに
たまわり申候
しよりよりなからのおきての方へまいる
隆慶五年六月十一日
④屋喜内間切の崎原目差職補任辞令書(隆慶6年:1572)
しよりの御ミ事
やけうちまきりの
さきはるめさしハ
せんとうちひかの
一人あくにやめさしに
たまわり申候
しよりよりあくにやめさしの方へまいる
隆慶六年正月十八日
⑤屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(萬暦11年:1583)
しよりの御ミ事
やけうちまきりの
なからのろは
もとののろのめい
一人つるに
たまわり申候
しよりよりつるか方へまいる
萬暦十一年正月廿七日
▲宇検村名柄の吉久家の前の辞令書の説明板 ▲吉久家の庭にある高倉
① ②
③ ④
⑤
※『女官御双紙』(上巻)に金丸加那志より阿母嘉那志へ賜わったものは何点もあり。四代先の阿母嘉那志の時(120年前)に不慮の
火事の時に焼失する。残ったのが、以下のものである。
・金の御髪指 一つは31匁に銘あり。惣長7寸1分、かぶの廻り7寸3分、かぶの上に鳳凰二つ飛ぶ。
台には雲形、かぶの裏はから草、くきも同断。
・玉かわら長4寸7分、廻3寸1分、水晶玉数100星、廻3寸7分完
※伊平屋阿母嘉那志が亡くなり、その子からは按司部位の席となるが、それでも三十三君の内である。その引き継ぎの様子が
記されている。渡海して首里城内や首里御殿などで引き継ぎが行われている。その時、金丸王加那志より拝領した金の釵(カ
ンザシ)や玉カワラをはかせらる。首里天加那志(王)の前で朝衣を着て、金の釵と玉カワラをはき、王様の前に三参し、御印
判(辞令書)を戴く。
印判(辞令書)は新しく戴くが釵と玉カワラは前任者から引き継がれている様子がうかがえる。それからすると、各地に残って
いる釵や玉カワラは継承された伝世品とみれそうである。
また、「那覇の大あむ」について、「御朱印失脚して年月日は知らないが、二代の大あむより五代の大あむまでは御朱印を御
賜る也」とあり、二代の大あむの御朱印(辞令書)を掲げてある。そこに明確に記されていないが、釵と玉カワラは前任者から引
き継がれ、印判は新しく賜ったのであろう。
志よ里の御ミ事
なはの大あむハ
もとの大あむのめい
一人おとまそもいにたまハ里申(候)
しよりよりおとまそもいの方へまいる
萬暦十年八月二日
志よ里の御ミ事
まわしまき里の
うちま人ちもとハ
あまもいのち
一二かやたに 二まし 三やきとはる
一又五十ぬきはたけ一おほそ あめくはる一 このふんのおや
三かない 又のろさとぬしおきてかないとも 御ゆるしめされし
一人もとの大あむのめい おとますもい にあまわり申し(候)
志よ里よりおとますもいの方へまいる
萬暦十年八月二日
※八重山の大阿母もについて、以下のようなことが記されている。
最初の大阿母より十代に当て大新城親方安基子息宮良親雲上女子ひるま大あむ職を命せられ、
釵(カンザシ)一個(かぶハ金まいが七寸九分牡丹の花がた有り、くきは釵長六寸一分に二分角からくさのほり付きあり。
美玉数九十八(長七分米二寸九分 かたらは
長五寸二分 二寸九分まいり(廻り)
家宝にして子孫代々襌求るなり
2009年11月1日(日)
奄美大島(名瀬、瀬戸内町、宇検村)、喜界島、沖永良部島へと。玉(勾玉・水晶玉・ガラス玉)調査が主。それに関する調査は「報告書」で詳細になされるのでここでは触れない。それらの調査と同時にノロ関係の史料を見ることができた。「ノロ制度の終焉」をテーマに奄美の村々と山原(沖縄本島北部)のノロドゥンチ(ノロ家)を踏査してきた。奄美地域のノロ関係資料を所蔵している方々から話を伺っていると、それらの資料を所蔵しているが故の複雑な思いが「奄美の歴史の一面」であることに気づかされる。そこから1611年以前の琉球と奄美、その後の琉球と奄美の歴史を描きだすことができそうである(まずは、資料と頭の整理から)。
留守の間に問い合わせや新聞記事の確認などのメモやメールがどんと。恩納村誌の「歴史の目次構成」を話してとの事務局からの伝言のメモあり。一つひとつ片づけていきましょう。
「放送大学の受講生」(44名)が見えて急きょ講座を開く。フプウガンの願いがかなって大雨になったため今帰仁グスクに行けず館内で歴史講座を。
[今帰仁村今泊のフプウガン](旧暦9月15日)
旧暦の9月15日。今帰仁村今泊のフプウガン。午後からフイドゥンチ火の神、クボウヌウタキ(下の拝所と中腹のイベ)、そこはノロと区長と書記さんが行く。かつてはクボウヌウタキの下の拝所までムラ人達が行っていた。そこまで行けない方々はサカンケーに集まる。ノロがクボウヌウタキからサカンケーに来て、クボウヌウタキに向かってウガン(遥拝)をした後、ムラ人達がクボウヌウタキに向かって線香をたてウガンをする。
向こうに見える山がクボウヌウタキなり。
サカンケーでのウガンはそれぞれ持参してきたお酒・線香を供える。ウガンが終わると白米を一握ずつ袋に入れて持ち帰る。饅頭のウサンデーもあった。健康や子孫繁栄、無事息災などを祈る。20人余りのムラ人の参加あり。直後から雨となる。ウガンがかなった!
▲ウタキに行く前にフイドゥンチ火神でウガンをする ▲クボウヌウタキでのウガンを終えてサカンケーへ
▲クボウヌウタキに向かっての遥拝 ▲お酒・線香・泡盛を供える
【毛姓先祖由来記】 45~48
次第書碑板に相整致し候
八代豊見城親方盛定
御夫婦より敷名之御墓に
安置候也
中城間切渡真理村江住居仕候
比嘉親雲上先祖護佐丸親
族之由由緒を以って彼の子孫永ゝ御墓
番申し付けられ置き由候□之清明祭之時
彼一族は一分に志候而御焼香仕
事候然る処比嘉親雲上一族不
達之儀打ち続き候に付い而方々へ□□
仕候へば護佐丸古御墓御骨
取揃此れ有り其の□之由此れ有り候間右
御墓岩拾い候而厨子に納め置き候
彼一族より申し出で候 何連茂□□□
思召し致し候いて彼御骨新御墓に
引き移し候砌其の場相働き候豊見城
親方奉公人共江相尋させ候候処
岩前崩れ御骨おそへ置き候ニ付き岩
之下より拾い□□申し出候志れど
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