北山系統の一族(一門)とムラ トップヘ
北山が滅ぶ(1416年)と人々が各地に離散したみられる。北山の全てのムラや人々が離散していったわけではなかろう。北山系統の一族が離散していった痕跡が伝承にのこっている。離散していった経過や人物がどれほど史実を伝えているか不明である。一族の伝承が、一つのストーリーとして、史実かどうかとは別に根強く継承されている。一方で、そのストリーが史実かどうかを問うているところもある。
これまで、村全体が移動、あるいは離散したりと見ている節がある。ところが、ムラのある一門が移動してきたり、離散したりしている姿が見受けられる。そのことを明確にするため、山原の各地のムラの一門の動向を大ざっぱだるが見極める必要がある。各村の各一門にどのような伝承を持っているか。その作業を進めてみる。そこから、いくつか結論を導き出してみることに。どのような法則性が見い出せるか、興味深い結果がでてきそうだ。さて・・・
各地の一族(一門)は、伝承とする系統図がある。それぞれの系統図は複雑に絡み合っている。その複雑さと、一族(一門)のルーツを辿ろうとする心理が、今に継承されつづけているように見える。それらの系統図から山原に所在し、関わる一族(一門)を取り出してみる。
・天孫氏の系統
・湧川村(ムラ)(今帰仁村(ソン))の根屋(新里屋)
・北山大按司の系統
・湧川村(今帰仁村)の根屋(新里屋)
・親川村(羽地村・現名護市)?根所
・大宜味村(大宜味村)の根屋
・渡久地村(本部町)の根屋
・屋部村(現名護市)の根屋
・今帰仁按司の系統
・古北山の系統
・東江村(現名護市)の徳門
・一名代村(大宜味村)の根所
・北山王の系統
・湧川村(今帰仁村)の根所(新里屋)
・健堅大親の系統
・健堅村(本部町)の根屋
・具志堅村(本部町)の花城
・親泊村(今帰仁村)の根所
・天太子大神加那志・龍宮女大神加那志の子、北山大神加那子を祀る。
(工事中)
参考文献
●
【根謝銘城(上城)の系統】(『大宜味村史』所収)
大宜味村謝名城に根謝銘グスク(上城)がある。大昔、中山英祖王の後胤の大宜味按司の居城とされる。
●
【老女田港乙樽】(親孝行女の伝承)
乙樽の生家は屋号根謝銘屋と称し、仲北山城主の後胤にして根謝銘城より田港村に村立した
思徳金の子孫であるという。また同家には近代描いた乙樽の肖像画を祀ってある。乙樽というのはこの地方では一般に用いない名前である。それからすると家格の程を察知する事ができる。乙樽の墓は田港の南方にある。
●【久志川田屋号根謝銘屋(当主奥元氏)】(『沖縄県国頭郡志』)(現在:東村川田)
同家の始祖はヒギドキ(ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして、本部村満名上の殿内の次男なるが、ある事変に祭し一時名護城に移り(その妻は世富慶村カニクダ屋の女なりしという)、これより大宜味根謝銘に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び伊地村後方の窟に隠遁し、更に山中を横切りて川田の山中イェーラ窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に1500坪ばかりの畑ありて、当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の精強く住みよからずとて、道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地に移転せりという。
川田は八戸中十数戸を除く外、皆同家の胤孫にして①根謝銘屋及びその分家なる②西の屋内(イリヌヤ)、③西の根屋、④東の殿内(東の比嘉)、⑤新門(ミージョー)、⑥鍛細工屋、⑦大川端(元ニーブ屋)の七煙より分れたり・・・。
以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金カブの簪などの遺品があった。火災があって今あるのは類似の品。首里長浜氏の記録にあり。

▲北山系統の伝承をもつ根謝銘屋(川田) ▲根謝銘屋の側にある勝之宮

【川田にある仲北山御次男思金の墓】
東村川田の福地川右岸(下福地原)に「仲北山 御次男思金」と記された墓がある。墓の前にサキシマウオウの大木(東村指定:天然記念物)がある。上系図に「次男 思金」の人物は登場してこない。「思徳金」のことか。あるいは記述の誤りか確認の必要あり。いずれにしろ、川田の根謝銘屋の一門の持つ北山系統とする伝承は根強く継承されている。その墓のある場所はウンダチと呼ばれ、ピギドゥキ(ピキヌカン:引の神)を祀った墓のようである。川田の根謝銘屋一門が始祖の墓としてシーミーの時に拝んでいる。

▲「仲北山御次男思金」の墓 ▲東村指定のサキシマスオウの板根
・東村川田に北山盛衰にまつわる伝承あり。
・『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に「「旧家由緒」に口碑伝説、「長浜氏の記録」あり。
・始祖の墓として根謝銘屋一門が清明祭(シーミー)の時に拝む。
●【大宜味村田港】
・屋号根謝銘屋(首里長浜系氏の記録)仲今帰仁城主の子孫だという。
新屋松本は仲今帰仁城主の子孫なる思徳金は今帰仁城監守の滅亡に祭し、その四子を引き連れ大宜味根謝銘城の叔母の許に隠れ後塩屋湾奥にありて閑静なる田港に村立する。
その長男を兼松金という。次男真三郎金は東りの松本の祖、三男思亀寿金は仲門松本の祖にして、四男真蒲戸金は叔父思五良金の養子となり川田村根謝銘屋を継ぐ。
本家田港の根差目屋には絹衣数種黄金カブ簪一個を秘蔵せり。
【佐 手】
以下の四門中が佐手の古い門中
①前 (村の創設より)
②西 (村の創設より)
③玉井 (北谷王子の末裔なりという)(大正より三、四代前移住)
④仲原(島尻郡小禄より移住)
・川端門中 渡名喜島・首里・辺野喜→佐手
・久高屋門中 始祖は久高島
・新屋 (大正より三、四代前移住)
・与那ノロの墓がクシジマある。
【与 那】(本集落は辺土名から分れて移住。農地は伊地村の与那川原)
古き門中(上門と上謝敷は同一門)
①上門(上謝敷と兄弟で北山系統)
②上謝敷(上門と兄弟で北山系統)
③前門(ノロを出す一門あり)
※1397年頃、察度王の孫、玉城王子が戦乱を逃れた落ち着いたところと云われている。
玉城王子は10年程で王府に返り咲き、子供達を遺して小禄に登ったが、その子孫により栄えたという。
※今帰仁系統の一族もいる(今帰仁墓)
●【辺野喜】
(比較的古い一門は14.他は近年(大正から)の移住者)
①門前(山城)
②デゲンチャー(宮城)
③シバー(宮城)
④道原(宮城)
⑤上門(金城)
⑥兼久
⑦ハアタイ(島袋)
⑧前地(山城)
⑨大屋
⑩門
⑪道グリ
⑫川端
⑬東恩納(大正から四代前(50年余)那覇の東恩納と同門。
※北山系統をくむ大宜味村田港の根謝銘屋が先祖だという(島袋姓)。
【伊 地】
以下の三門中は古くからの伊地に居住。
①メンター屋門中(島袋、島姓)(門中のみでの祭祀あり)
②ミー屋門中(宮城姓)
③アタ屋門中(新里姓)
※近世になって首里・那覇からの寄留も多い。明治の中頃、首里・那覇あたりの寄留人がやってくる。
・『沖縄の古代マキヨの研究』
【比 地】
・小玉杜の中に奥間のイベあり。
①アサギ門中(山川姓)
②半田屋門中(大城姓)
③泉川屋門中(山城姓)(アーマンチュウ)(天人の図像、仲村渠天孫氏、大里天孫氏の神位)
④下道屋門中(神山姓)
・『沖縄の古代マキヨの研究』
●【宇 嘉】
・ウフヤーの大城家は北山王の系統だという。湧川の新里家の分家といい、一族は七年回りをする。
「わが里」1984年
▲屋敷内にある神アサギ(宇嘉) ▲北山系統の伝承をもつ大城一族
【辺 戸】
・義本王の墓はサクマ家が管理している位牌と花鉢)。義本は源為朝の子の瞬天王の孫。
【奥】
【宜名真】
・首里系の寄留人。
●【安 田】
北山からの流れてきたウリー里之子が字の開発に貢献する。子の墓は共同墓地と別にある。
【安 波】
東村川田から犬引くがきて字の娘と結ばれ、以後ムラが発展した。三山鼎立時代、南山からの逃れた武士三人がウンヘに泊り、その娘をヨメにして栄えたという。南山墓がある。
【辺野喜】
【謝 敷】
【佐 手】
・「義本王の身代わりのための偽墓と屋敷跡と古井がある」という」(国頭村史)。
【辺土名】
【桃 原】
【鏡 地】
奥間と比地から分離
【半 地】
【浜】