沖縄の地域調査研究

寡黙庵:(管理人:仲原)   今帰仁村歴史文化センター

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羽地地域の調査記録(2003年)
国頭村比地  ・大宜味根謝銘(ウイ)グスク
2021年2月 2021年3月 ・2021年5月 ・2021年6月 2021年7月 
シニグと山原文化圏  ・徳之島と琉球  ・ノロ制度の終焉 ・奄美のノロ制度

勝連半島のムラ・シマ

国頭間切の二枚の辞令書
山原のシニグと猪狩と「流れ」の所作




   容量不足(パンク状態)でしばらく休息します。


2021年9月21日(

  三年前、べトナム行きは、舟、船、赤土での焼き物、香辛料などの確認
でした。






2021年9月20日(

「今帰仁村内の小字の変遷―平敷村畧図」にみるのレジメ原稿。










5.土地整理字図・小字図
  ・土地整理(今帰仁間切の事例と平敷村小字図と土地整理関係等級申告控)(明治34年)
  ・今帰仁間切兼次村土地整理台帳


6.今帰仁間切村(ムラ)全図と今帰仁村(ソン)村字全図


7.戦後の土地測量(昭和22年)

 戦後の土地測量は、ある意味で戦前の地籍の復元であった。その作業が現在の地籍図と直接つながってくる。村図を作成するにあたり「村図作成要領」や地番の作成事務を円滑に進めるために「新地番作成要領」などが出されている。字で具体的にどのように測量し、所定の手続きをへて「土地所有権利証明書」が発行されていったのか、この写真は戦後の仲尾次の土地測量と関わった方々、そして当時の様子や土地所有権が認められるまでのことを語っていただいた(今帰仁村仲尾次:昭和22年)。

参考文献
  ・『なきじん研究 7号』所収
 今帰仁村内の小字の変遷―平敷村畧図」にみる(仲原)(平成9年)  
  1.「平敷村略図」
  2.平敷村の小字図
  3.「平敷村略図」と現在の小字の比較
  4.村内の原石(印部石)と小字(原名)
  5.平敷の現在の小字の現況
  6.今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者 
・『じゃな誌』(所収)(昭和62年)(仲原)今帰仁間切の地割と平敷村 
・「今帰仁村の印部石」(所収:仲原) 沖縄県地域史協議会発行


2021年9月19日(
 
 パソコンの調子が悪く、過去のページをコピーでつないでいます。

22期(平成26年度)山原のムラ・シマ講座
            
 (第7回:1213日(土) 

 平成26年度の「山原のムラ・シマ講座」の最後の地は饒平名である。饒平名は屋我地島にあり、戦後羽地村から分離した屋我地村にある。饒平名には屋我地村の役場や郵便局や小中学校、診療所、駐在所などがあり村の中心地となっていた。現在でも名護市屋我地支所や郵便局、そして屋我地小・中学校がある。

 饒平名の集落は大きくウンバーリとシチャンバーリと分かれる。屋我地島の饒平名・済井出は屋我から分離したとの伝承がある。そのためか、ノロが任命された時代(1500年代)は屋我島一つで村でる。近世になって①屋我 ②済井出 ③饒平名 となりが独立し、屋我ノロ殿内があった地は饒平名村であった事に起因している。そのことがに饒平名に屋我ノロであるが理由である。屋我地島が一つの村だったことを示している。屋我・済井出・饒平名は屋我ノロの管轄村で、饒平名と隣接する我部は今帰仁村湧川地内あったのを1736年に屋我地島に移動してきた。しかし屋我ノロ管轄になることなく我部ノロ管割である。

 饒平名のムラの形は、集落後方(北側)にウタキがあり、ウタキを背に羽地内海の方へと展開する。集落区分する名称はバーリである。集落内には福木の屋敷林がいい。集落後方のウタキ林がムラ抱護となっている。

【踏査コース】
  ①シマヌハー 
  ②フルティラ(ウタキ)/メーダキ
  ③ウンバーリ集落/シチャンバーリ(福木屋敷林)
  ④集落内にある饒平名簡易水道第一貯水槽(昭和9年3月)
  ⑤旧公民館跡//神アサギ/屋我ノロドゥンチ
  ⑥屋敷跡/屋敷の木の根
  ⑦マーウイ跡/屋我地小・中学校
  ⑧マングローブ林
 
 ▲フルディラ(御嶽のイベ)        ▲シマヌハー

 
 
▲饒平名簡易水道第一貯水槽(昭和93月)▲饒平名の集落内の福木がいい!

   
  ▲饒平名の集落内の屋敷跡   ▲饒平名神アサギと屋我ノロドゥンチ

   
▲饒平名のマーウイ(馬場跡)    ▲マーウイ跡(約120m)
 


屋 我 2010(平成22)年924日(金)メモ

 名護市(旧羽地間切)の屋我と鐃辺名、そして我部までゆく。屋我ノロドゥンチが何故鐃辺名にあるのか。ノロが鐃辺名から出てもノロの名称が変更されずにある(今帰仁村(間切)の中城ノロも諸喜田村に移っているが名称はそのまま中城ノロである)。そのこと史料を踏まえて考えてみる。(久しぶりに各地の拝所等回って見ると窓やカギなどが壊されている)

 まず、屋我ノロが、いつ屋我村から頃鐃辺名村に移ったのか。屋我ノロが公儀ノロとして任命された時、羽地間切屋我村に居住していた家の人物、あるいは任命して屋我村に住んだということであろう。1625年の屋我ノロの辞令書がある。その時、「やかのろ」が屋我村に居住していたか明確に記されているわけではないが、屋我村に住んでいたのであろう。その後の『琉球国由来記』(1713年)に屋我巫女(ノロ)の記述をみると、「屋我巫火神」は屋我村にあり、屋我ノロは屋我村と鐃辺名村と済井出村の祭祀を掌っている。

 現在、屋我ノロ家は鐃辺名に移っているが、『琉球国由来記』(1713年)の屋我巫火神は屋我村に残っているに違いない。屋我村の集落は1858(咸豊8)年に墨屋原に移動している。ならば屋我巫の火神の祠は集落移動前の故地に残されている可能性がある(その確認がしたくての屋我行きである)。

 屋我村の集落は屋我グスク周辺にあったと見られる。屋我グスクを中心とした一帯は阿太伊でアテーと呼ばれる。アテーはアタイのことで集落の中心に付けられる地名である。移動前の屋我の集落の故地は、屋我グスクの周辺にあったとみてよさそう。そこにはヤガガーがありグスクとヤガガーを拝む祭祀がある。グスクにあがる近くに火神を祭った祠がある。祭祀場はお宮に統合されているが、ノロ火神は元の場所に残された一つではないか。グスク近くにある火神の祠は屋我ノロ火神の可能性がある(確認必要)。

 屋我ノロが鐃辺名に移ったのはいつごろから。屋我ノロに関する明治の史料がある。明治26年段階で屋嘉ノロクモイは鐃辺名村に居住している。明治17年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」(田代安定)によると屋我村にノロクモイが一人いて、鐃辺名村に根神がいる。その頃、屋我ノロはまだ屋我村にいたということか。しかし、「午年羽地按司様御初地入日記」(1870年)を見ると、羽地按司が管轄する羽地間切を訪問した時、屋我地御立願の三番目にによひな(鐃辺名)村の「のろこもい御火神」を訪れている。その時、のろこもい火神は鐃辺名村にある。屋我村から鐃辺名村にノロが移り住んだ理由は、今のところ不明。


              証

          羽地間切鐃辺名村三拾九番地平民
                 屋我ノロクモイ  玉那覇マカ
        右ハ当社録仕払期ニ在テ生存シ当間切内ニ現住ノロクモイナルヲ証明ス
       明治廿六年八月九日 羽地間切地頭代 嶋袋登嘉
        国頭役所長 笹田征次郎殿

 宮城栄昌氏のノロ調査を見ると、ノロは鐃辺名にあるノロドゥンチ、ノロ殿内の根屋、アシャギ、島の川三ヶ所、大てら二ヶ所、小てら一ヶ所、群松。屋我のアシャギ、屋我グスク、屋我ガーも拝んでいる。
 明治32年の以下の資料(文書)と牛角の簪が一本保存されているようだ。

      国頭郡羽地間切鐃辺名村平民
              玉城喜三郎
              外三名
     明治三十二年二月廿八日付願
     屋我ノロクモイ死亡跡役採用ノ件聞届
          明治三十二年四月八日
       沖縄県知事男爵  奈良原 繁 (沖縄県知事印)
  

  屋我ノロの住居が鐃辺名村にあることへの疑問をとく答えが見つかる。


【伊是名グスクの玉陵墓】

 新型コロナで二年間おとづれていない伊是名島。今帰仁グスクから運天港からが伊是名島へ向かうフェリーを眺めている。過去の記録をとりだしてみるか。二回ほど計画したが流れてしまった。

 ずっと気になっているのは伊是名グスクの玉陵墓への階段である。三・五・七ではないか? 今帰仁グスクを整備に関わった新城徳祐氏は伊是名グスクの調査にも関わっている。今帰仁グスクの昭和34年の七・五・三は伊是名グスクに倣ったのでは。そのことは伺うことはできなかった。調査ノートにも記されていない。


 本島の北部に伊是名島と伊平屋島がある。地理的には沖縄本島の北部に位置し、昭和14年までは両島で伊平屋村(ソン)であった。同年伊平屋村と伊是名村に分かれ現在に至る。明治29年郡区制が敷かれたとき伊平屋村は島尻郡区に組み込まれた。山原(国頭郡)に位置しながら、島尻郡である。そのことが伊是名・伊平屋は山原ではないのかの声がある。

 1469年金丸(尚円王)が第二尚氏を擁立すると、生誕地である伊是名に尚円王は叔父の真三良(銘苅殿内)、叔母の真世仁金を伊平屋阿母加那志として派遣した。伊平屋(伊是名)阿母加那志(御殿家)の娘2人に「二カヤ田の阿母」(北・南風の二家)の神職を継がせた。首里王府は四殿内を介して首里化し、中央文化を注ぎ込んでいる。伊是名島に住む人々は「沖縄の歴史」の要(かなめ)となった尚王氏へ傾倒していく。伊平屋(伊是名含む)は王府の直轄地と言えそうだ。

 
 
1490年代、山原(北山)に第二尚氏王統の監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵按司(神職)を派遣し、今帰仁グスクに常駐させた。1665年今帰仁按司家の七世従憲の時、首里への引き揚げが許された。それは山原を首里化できなかったと考えている。伊是名の四殿内は、首里に引き揚げることなく継承され、近世に伊是名玉御殿(墓)をつくり、清明祭や亀甲墓が導入され、首里化が積極的に図られている。


 言語を見ると「伊是名島の方言は基層部では北部方言に通じるが、中南部方言の影響を強く受けている」(「図説琉球方言辞典」中本正智)といい、人々の言葉は首里方言へとなびいている。神アサギの建物の構造や伊是名グスクの拝所(ナー)でのウンジャミやシヌグ沖縄などに山原的な要素が根強く見え、それに首里王府の祭祀や習俗が被さっている。島の歴史をひもとくと伊是名・伊平屋は山原?の疑問は解けそうである。


2021年9月18日(
山原のシニグと猪狩と「流れ」の所作の講演レジメ
(参昭)

はじめに
 1、北山の領域(北山文化圏)の痕跡
 2、シニグの分布と名称
 3、祭祀(シニグ)の名称
 4、祭祀の「流し」―流し―が意味するもの
 5、祭祀に見られる凌ぐ(シニグ)流しと弓(ヌミ)を持った所作(猪狩)
 6、祭祀での猪狩は豊漁・豊作・豊猪と同様
おわりに 

はじめに

「北山文化圏」という大きな歴史的な大きなテーマを掲げている。その主張の手がかりとなったのはのは、沖縄の歴史の三山の時代「北山」が手掛かりとなりました。当初、山原とは?という命題に突き当りました。山原の領域の議論がありました。それが言語の北部と中部との境界線。勅物からみた山原となると読谷山がから北側となる。その境界線は、様々だということに気付かされました。様々な調査をしてきましたが、今日の山原の祭祀とイノシシに関わる部分について報告したいと思います。『琉球国由来記』(1713年)に編纂された記録があります。その中に「神アシアゲ」があります。すると、神あしあげのある地域は、どうも「やんばる」の領域にあり、それは三山の北山の領域と重なることがわかりました。北山の時代と言えば、与論・沖之良久部・徳之島、奄美大島は途中まで、喜界島もその範疇に入れてもいいのではないかと。神アシアゲは奄美大島の南側加慶呂麻島まで確実に入ります。

テーマと関わる祭祀のシニグ。海神祭の分布です。本部半島から今帰仁・大宜味・国頭、やんばるに神アサギとシニグの分布です。平安座島や宮城島、そして伊計島にシニグドウがあります。シニグドーはシニグ行事の一場面です。津堅島にもあるようです。しにぐは与論島、沖之永良部島にもあります。

今回、山原文化圏の要素にイノシシを組み入れたいと思います。各地の遺跡からイノシシの骨が出土しています。中南部からも。すると山原のみでなく、沖縄本島や周辺の島々にいたことになります。それが人々の住む環境の変化でイノシシは沖縄本島北部に追いやられたのでないか。イノシシの捕獲する場面は、豊漁・豊作の場面と見ることができます。

シニグや海神祭などの祭祀にイノシシが登場する。害獣と目されるが、海神祭やウプユミなどの祭祀にイノシシが登場するのは狩猟時代を辛うじて今に伝えていることを示しているのではないか。


2021年9月17日(

 徳之島を行く

2007年2月21日(水)調査記録

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

②徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日


 ▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より 





 




2021年9月16日(

 いつ頃からか、よくわからないがメモをとる癖がある。ラジカメが登場すると、デジカメがメモ代わり。シャッターを押すときには頭には文章がある。昨年の12月本部町具志堅の仲里家の家系を頂いた。それにピータテゥヤーの家を見つける。今帰仁間切今帰仁村と本部間切の境にあり、どちらの担当なのか首をかしげていた。それは解決。視覚で記憶する癖がついている。

2002.6.20
(木)メモ


 総合学習の後の余韻が歴文まで伝わってくる。また、伊江島からもお礼の手紙をいただいている。先日伊江島の子供達は、今帰仁グスクから城山を見つけて歓声をあげていたのを思い出した。いくつかヒントをもらったようで、早速島村屋にいって調べるとのこと。私自身、今伊江島にはまっている状態。先日のトーミヤーの件もそうである。古宇利大嶺原伊江島とつながることもあって、五月に伊江島に渡った時、早朝イータッチューの頂上まで登った。それは古宇利島大嶺原伊江島のルートを伊江島からどう見えるのか、その確認でもあった。

 伊江島から大嶺原の方向を見ると、備瀬崎の後方に清掃工場のエントツが見える。エントツの左側に大嶺原がある。エントツから煙が出ていると、烽火がそのように見えたのだと想像する。二つ、三つ煙を上げるには大分離さないと風で一つになってしまいそう。すると、40~50mは離さないとイカンなとか、いろいろ考える。

 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について、以下の記録を残してくれた。

   位置 宿の前原2833原野の南部
       火立て屋 チータッチュー屋三つあった。
       中に薪を一ぱい、薪は間切船、唐船や大和行の船(偕船?)
       を見た時、その一つを焼く。
       火立ては国頭、伊平屋、具志堅、伊江にもあった。
       その番人の家 遠見屋という。
       唐船の入る頃になると掟も来て勤める。
       古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の
       位まで授けられる。終身職で頭を免ぜられた。

火立て屋あたりを、調査する手掛かりをいくつも与えてくれる。そういう記録は、非常にありがたい。
 今帰仁村と本部町の境界の大嶺原は、右手に古宇利島、左手に伊江島が視野に入り、トーミヤー(ピータティファーイという)を設置するのに最適な場所である。

大嶺原(ピータティファーイ)から伊江島を望む

2002.6.21
(金)
 メモ
 
 今帰仁村今泊の大嶺原のピータティファーイまで登ってみた。というのは、19日古宇利島から大嶺原を眺めたので、大嶺原から古宇利島がどう見えるのかの確認である。大嶺原からつなぐ伊江島の方向も眺めてみた。大嶺原のピータティファーイから正面に伊是名・伊平屋島、右手に古宇利島、左手に伊江島が見える。今日は雲の多い天気だったのだが、下の写真のように伊江島と古宇利島が見える。

 『伊江村史』に遠見番について詳細な記述がなされている。古宇利島のトーミヤーの様子を見るための手掛かりとなる記述がある。

 ・唐船、薩州船や難破船の見張りをする。
 ・上佐辺のツリワイ毛に遠見番所があった。
 ・六人が常時詰めた。三交代で二人が立番をする。
 ・唐船の通航時期になると臨時の在番役人が来島した。
 ・民家から離れた場所にある。
 ・一隻の時は一炬、二隻の時は二炬、異国船の時は三炬
 ・火立所は離れて参ヶ所にある。
 ・中央が一番火立所、西が二番火立所、東が三番火立所
 ・五月になると島民の漁火が禁止された(唐船通過後に解禁)。
 ・屋号にトーミがあり、遠見番を勤めたことに由来。

   
   
大嶺原から伊江島を眺める            大嶺原から古宇利島を眺める


2021年9月15日(

 兼次の字誌の編集会議はコロナで中止。来週から印刷会社へ原稿の発注。

 兼次の稲作とパインナップル(パイン)について。(工事中)

【稲 作】

・地目の「田」はあるが、兼次では稲作をしている家は現在はなし。

 昭和1957年の兼次の田は79筆、15,119㎡あるが、昭和60年から稲作は〇である。昭和49年まで村内でわずかながら稲作が行なわれている。

【1957年1月11日】

 第一期作水稲苗代の件
 村の指示に準じて播種をなす。然し雨が降らなかったら場合は順延する様にする。
 野ソ(野ネズミ)駆除

 水稲播種前に野ソを徹底的に駆除する。薬品は区会計より出し日取りは当務に委任する。

【1957年1月21日】
 ・水稲の件  雨降れば決定

【8月2日】
 ・水稲二期作播種準備の日程
  川原苗代 8月3日  道東 4日 道西上5日
   道西上 5日 東後原 6日 
   苗代の準備作業も上から順に行ない節水する様にする。

【バッタ】

 バッタの発生面積及び防除発生面積、防除面積調査

【パイン】
 

【公民館資料】
  ・1956年1月5日
  パイン園区画払い下げについて
  パイン園栽培土地のない方々に優先する。 

【1972年】
 ・パインアップル採苗ほ設置申し込み 
 ・パインンアップル優良種苗譲渡申請書

  パイン古株更新実績補助金交付申請



2021年9月14日(

 2013年に行った講演のレジメの一部である。

生業と祭祀から見る戦後の生活の変容
                    2013127(於:名護市立中央公民館)レジュメ

                    仲原 弘哲(南島文化研究所特別研究員
                                 今帰仁村歴史文化センター館長)
はじめに

Ⅰ 生業の変容
  1.山原(やんばる)の歴史的背景
  2.風景や生業の変貌
  3.戦後の公民館資料(一事例)

Ⅱ 祭祀の変容
    祭祀の位置づけ
 1.祭祀は休息日(遊び)である
 2.祭祀を執り行う神人は公務員である
 3.神人の消滅はあるが、祭祀は行われている
 4.祭祀の廃止 

むすび

祭祀の変容(
祭祀の位置づけ)

1.祭祀は休息日(遊び)である

 祭祀を行う日、名称、祭祀の内容など、村内(ソンナイ)のムラ(字)まちまちである。そのことを認識してかかる必要がある。一言で祭祀の本質を言い当てようとする心理が強く働いている。ひとつにまとめるのであるが、数多くの事例を調査していく。その視点が必要である。

 祭祀(神行事)は「神遊」や「海神祭」といい、今の土、日や公休日に相当するものと考えている。村が移動したり、あるいは新設したとき、ウタキを置き祭祀を行うのは祭祀を行わないと休息日はなくなることを意味する。『琉球国由来記』(1713年)の編さんは、祭祀を首里王府は整理したものであろう。

 祭祀の中に「遊び」一日、二日などとあり、「遊び」の日は首里王府が認めた公休日であり、それは間切、村の末端まで統治する手段としたものとみていい。

 そのことは「旧慣ニ付間切吏員と問答書」(明治17年)によく表れている。大宜味間切の「遊戯」(遊び)の事例を紹介する。

 大宜味間切の「麦の穂祭」は2月中に行い日の規定はない。当日より翌日まで百姓は家業を休む。休む。4月はアブシ払い、5月稲、6月稲の大祭も当日から翌日まで休む。2月は「麦の穂祭」といい、そのときは日を撰んでノロクモイは祭りをし、人民は2日間業をやめて各家庭にて遊ぶ。

 3月のウマチーのとき遊びはない。4月は虫払いといい、日を選んで人民は耕作をやめ、牛馬を引いて浜辺に出る。そのとき、ノロクモイはウガンの勤めがあり、それが済む間、人民より牛馬まで職をしない。その勤めを済ませた後、各家に帰る。

 5月は大御願といって、ノロクモイならびに人民連れて火の神所に参詣する。「稲の穂祭」があり、そのとき、日を選んで2日間遊ぶ(休む)。6月は3月同様休みなし。

 7月16日、7月念仏という遊びがある。そのとき子供達が三味線を引いて人民の家々を回って遊ぶ。大折目というのもあり、その日は1819日頃より2425日に限る。そのとき、人民は仕事を休む村もある。ノロクモイは火神は参詣して祭祀を行う。

 8月15日はヨウカビという遊びがある。そのとき童子達は、巷または毛へ集まって遊ぶ。 

【伊平屋島の事例】(計31日あり)

・麦穂祭(二月)(遊び二日) ・田植ヲリメ(二月中)(遊び一日) ・麦大祭(三月)(遊び二日) ・山留(四月一日から五月中)(遊びなし) ・アブシバライ(四月)(遊び二日) ・稲穂祭(五月)(遊び三日) ・稲穂祭(五月)(遊び三日) ・稲大祭(六月)(遊び三日) ・年浴(六月)
(遊び二日) ・ミヤ口折目(六月)(遊び一日) ・屋那覇折目(七月)(遊び二日) ・シノゴオリメの事(七月)(遊び一日) ・柴差(八月)(遊び二日) ・麦初種子・ミヤ種子(九月)(一日遊び) ・粟豆初種子(11月)(遊びなし) ・アラゾウリ(11月)(遊び一日) ・具志川折目(11月)(遊び一日) ・海神祭(11月)(遊び一日) ・タケナイの折目(12月)(遊び一日) ・向ザウリ(12月)(遊び一日) ・鬼餅(12月)(遊び一日)

【伊江島】(明記された遊び日 17日)

・正月芋折目(一日遊び) ・二月麦穂祭(二日遊び) ・三月麦大祭(遊び?) ・四月日撰以粟黍豆正実付申願い(遊び?) ・五月はじめ唐船祭(遊び?) ・五月麦穂祭(遊び日?) ・五月粟穂祭(二日遊び) ・五月いんない折目(遊び?) ・六月粟大祭(遊び?) ・六月年浴(二日遊び) ・五月いんない折目(遊び日?) ・六月粟大祭(遊び日?) ・六月年浴(二日遊び) ・七月大折目(遊び計三日) ・七月神遊(シニグ)(一日遊び) ・七月施餓鬼(シガキ)(遊び日?) ・七月豆俵折目(遊び日?) ・八月柴差(二日遊) ・九月麦初種子(一日遊) ・十月粟初種子(二日遊) ・十二月作物、麦の立願、粟黍の結願(遊び日?) ・十二月鬼餅(遊び日?)

【久米島仲里間切】

・麦穂祭(当島は遊びなし) ・アブシ払いの事(二日遊び) ・稲穂祭の事(三日遊び)・稲大祭(三日遊) ・柴指の事(遊二日) ・麦初種子ミヤ種子の事(遊び二日) ・粟豆初種子事(二日遊び)

・アラザウリノ事(二日遊び) ・向ザウリノ事(一日遊び) 

 


2021年9月13日(

国頭間切の二枚の辞令書 2002.8.18(日)記録

 
国頭村安田にあった二枚の辞令書、以前から気になっている。2001年と2002年と安田のシニグとシニググヮーの調査をしたこともあり、祭祀と国(琉球国)について述べる。そのため、この二枚の辞令書を使って首里王府と国頭間切、そしてムラとについての支配関係をできるだけ明確にしておきたいと思う。国都首里から遠く離れた国頭間切の一つのムラをどのように支配していたのか。ムラを支配するため、末端まで支配権力を徹底させるためにどのような方法をとっていたのか。さらに祭祀を政治にうまく取り込んでいる姿が見え隠れしている。祭祀を祈りや神が何かという議論も大事であるが、支配する、支配される関係。言葉を変えれば税をとる側と採られる側という視点で、祭祀を捉えてみようと考えている。

 その後、「国頭村安田のシニグ」の国指文化財指定に関わる。

 三山が統一された後、また第二尚氏王統になってからの辞令書であるが、ここに掲げ国の地域支配について考えてみたいと思う。難解な文面なのですぐにとはいかないがゆっくり考えてみる。とりあえず、二つの辞令書を前文掲載しておこう。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に掲載されたものを『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)(昭和53年度)に形を整えて掲げられている(「沖縄諸島逸在辞令書」)ので、それをここで利用する。二枚とも古琉球の辞令書である。

〔国頭間切の安田里主所安堵辞令書〕
  しよりの御み事
    くにかみまきりの
    あたのさとぬし〔ところ〕
    この内に四十八つか〔た〕は
    みかないのくち
  御ゆるしめされ候
    一人あたの大や〔こ〕に
    たまわり申〔候〕
  しよりよりあたの大や〔こ〕か方へまいる
  万暦十五年二月十二日

〔国頭間切の安田よんたものさ掟知行安堵辞令書〕
   しよりの御み事
     くにかみまきりの
     あたのしろいまち
     この内に十四つか〔た〕は
     みかないのくち
    御ゆるしめされ候
      〔脱けた部分あり〕
    このふんのおやみかない〔ハ〕
      〔脱けた部分あり〕
    のろさとぬしおきてかないとも〔ニ〕
    御ゆるしめされ候
    此ちもどは三かりやたにて候へども
    万暦十四年に二かりやたなり申〔候〕
    □□□にいろいろのみかないの三分一は
    おゆるしめされ候
    一人よんたもさおきてに
    たまわり申〔候〕
   しよりよりよんたもさおきての方へまいる
   万暦十五年二月十二日
 安田のシニグ、シニググヮー(ウンガミ)で国と間切、そしてムラについて紐解くのでここに掲載のみ。


2021年9月13日(月)
台風対策で、畑の様子を見にいく。まだ、雨風が弱いのでバナナ木の支えのみする。刈り残した場所は「佇麻」が伸びている。下の記事を見ていたので繊糸でも取ってみるか。今帰仁芭蕉布は大正・明治の頃はよく知られているが、「苧麻」の糸とりはどうだったか。伺ってみることに。
  

兼次の苧麻(明治34年6月27日)琉球新報 県史16記事より

 今帰仁間切の特有産物は苧麻にして苧麻は親泊今帰仁の二村を第一とし兼次、之につき志慶真、之に次ぐその作付反別は七反余歩一ケ年収穫高二千斤に及ぶという、今調査の要領をあげれば左の如し。 

・苧麻の由来
 之が由来は未だ明ならざるも北谷間切は当地より伝え当地は本部間切満名村カーマタ桃原より伝来せりといえりと今を去る凡そ七7八十年前には盛に栽培せしものの如きも爾来価格の下落につれ漸次衰え近年に至りては漸く盛に趣くに至り従って栽培製造の上にも改良を加えつつあるものの如し

・種 類
 種類は白苧と赤苧との二ありて白苧□□□ろしくその質亦宜しと唱うれども二者の区別は容易に判明せず白苧と称するものも之を移して土質悪く栽培その当を得されば直に悪化すという依て当地に於ては明にこの二種の区別をなす能はずと。

・挿秧
 挿秧は四時其忌むにあらざるも最適は七月とすこれ七月に植えしものはその翌春旧茎を刈り捨て施肥をなすときはその年第一期とり殆ど普通圃と仝様の収穫あるも七月後に植えしものはその翌年迄の収穫宜しからず、又七月前に植えものと雖もその翌年を待たされば収穫する能はざるを以ってそのまえに植えるの必要なし。

 苗は旧圃又は普通圃より根茎ともに鍬にて切り取これを整地せる圃に畦巾株間共に七八寸より一尺二寸を隔てて五寸位の深さに茎三四本づつを植え後時々除草中耕をなすべし。茎は梢々密接するをよしとす薄ければ分蘗大なるも収穫少なければなり。而して之を密接せしめんとせば一度の収穫を捨て一回の施肥を見合すべし。

・収 穫
 収穫の時期は其の茎の三分の一褐色を帯びるに至るを最適期とす。之より過ぎるときは短時日の間にも繊維硬化し品質甚だ劣等となるべし。今一年中の収穫期をあげれば左の如し。

 第一期 三月  第二期 五月 第三期 七月  第四期 十月 第五期 一月

但し五期は刈捨とて収穫の中に算せさることあり。之収穫至て少なく品質極めて劣等なればならい。
 本作物の収穫は時期により各期間の日数は異なるも仝期間の日数は毎年殆ど仝じ。依て其の日数を各期に別ちあぐれば次の如し。

 第一期 日数六十日(日を延さす)
 第二期 仝 六十日(日を延さす)
 第三期 仝 六十日(少し日を延すも可なり)
 第四期 仝 九十日(成長を見計りてなす)
 第五期 第四期収穫後より春分迄)

 収穫高を普通作につき各期に分けて左の如し。

第一期 五坪より一斤(品質上等)
 第二期 五坪より一斤(品質□等)
 第三期 十坪より一斤(品質中等)
 第四期 廿坪より一斤(品質上等)
 第五期 収穫極めて少なく(品質劣悪なり)

 右は普通作にして上作に至れは第一第二期は四坪より一斤取れるもとあり。その高さは普通五六尺にして稀に七尺以上に達するものあり。

・製 造
 製造は茎を刈り葉を去りたる為に手数を要すものにしてその順序は初に皮を脱き(一旦水に浸すもよし)丈管を以ってすること芭蕉苧の製造に殆ど同一なり。然し製造は尤も熟練を要すことにして老練家は一人一日六斤を製するもあるも未熟練のものは一斤も尚困難するあり。製造したるもの派」必ず水にて洗う之汚物を去るの法にしてその水は清水をよしとす。

 製造あいたるものは日光に干すをよしとす。之乾燥を計るのみならず。光沢を出すに便なり。昔は陰干せしという。これ光沢なき色青味を帯びその当時の人の賞美せしを以ってなり。 

・病虫害
 本作物は性質甚だ強健にして未だ病害を受けしことなく、また虫が害にかかりしことなきも湿地に植えるときは殆ど病状を来し根の枯朽甚だしく又衰弱すること早し。


浜元(はまもと)(具志川村)

・浜元はハマムトゥと呼ばれ本部町の字である。
・字名は集落が海に面していることに由来する。
・浜元は本部高校近くの具志川ウタキ(グシチャーウガン)付近にあった。
1700年代に具志川村の一部が移動して浜元村をつくる(一部は渡久地村へ)。
・神行事を行う神人は具志川ノロである。
・旧暦5月と9月にウフウガンがあり、ウタキまで行ってウガンをする。
・浜元の集落はアガリンバーリとニシンバーリに分かれる。
具志川ノロの男方は間切役人をつとめ唐旅をして「土帝君」をもってきて祭っている。
・具志川ノロはニシンロウヤから出ていたことがある。今は辺名地の仲村家(カラマヤー)から出ている。
 ノロ辞令書が残っている。(浜元にあったノロ家跡と唐帝君)
・今帰仁間切と本部間切の番所(役場)をつなぐスクミチが通る。
・泊原に集落があり、そこはハルヤーと呼ばれ旧士族の人たちが住んでいる。
・旧625日の夜に毎年綱引きが南(ペー)と北(ニシ)に分かれて行われる。
・むかしはミージナ(メス綱)とヲゥージナ(オス綱)があったが、今では一本綱。
・海岸にリュウグウの神を祭ってある祠がある。


 
    浜元の旧公民館            神アサギと並んで殿(トゥン) 
 
  過渡期の墓の様相をみせる    神社化されたが元の配置を残している
 ▲ノロ家の側を通るスクミチ ▲ノロ家の屋敷跡▲具志川ノロの辞令書(仲村家蔵)


2021年9月12日(

 台風対策で「寡黙庵」へ。野ぶどうやバナナのハナにハチが群がっている。

(工事中)

役場移転問題
(沖毎大正二年八月一五日) 

 本村役場は旧藩当時運天港に建設せし以来巳に幾百星霜を閲し最西端今泊を距る二里余東端湧川より半里何等交通運輸の便なきのみか僅かに二三十戸に過ぎざる小部落にて背後に百按司墓を負ひ前方屋我地島と相対して其間に運天港を擁し極めて寂莫荒寥の一寒村に候

 予輩は何が故に数百年来敢へてかかる不便と苦痛を忍ぶの要あるかを怪しむ者に候今泊在の理員に至りては早朝家出しても役場着は十時頃なるべくそれより汗を拭き去り諒を納れて卓に向へば時辰は十一を指すべし一時間にして食事をなし更に二時より初めて二時間を経れば四時となり退散を報ずべし然れば毎日の執務時間は僅々四時間を超えざるべくと存候加之人民の納税、諸願届書類の進達学校並各字の小使派遣等日々一万五千の村民が如何程多大の迷惑と障害を受け居るかは門外漢の想像し得ざる所に有之候

 曩に役場移転問題議に上りしも郡長と議員との意見衝突の為め遂に沈黙の悲運に逢着したりと些々たる感情の為めに犠牲となる村民こそ不憫の至りに候

議員諸君如何に



2021年9月11日(土)

 資料さがしをしていたら、宮城真治資料ファイル(コピー)が出てきた。その中に1996年(平成8)にお願いされた「晴読雨読」が出てきた。宮城眞治資料は『じゃな誌』(昭和62年)の執筆に使った資料ある。当時のことを振り替えると、風貌はほんとに浦島太郞である。書いてある文章や調査などの理念はまだ通している印象。そこは成長していない。その頃は、手書きからワープロになったこと(周りはパソコン)。機種の便利さの話もいいが、調査記録を積上げていくべきだと主張していた。それが今の「沖縄の地域調査記録」(寡黙庵)につながっている。

                    
▲宮城真治ノートの一部(名護市史蔵)

2021年9月10日(金)

 アブシバレーは旧暦の四月に行なわれる祭祀(神遊び:今の公休日)の一つである。各地で行われていた「原山勝負」(今の産業まつり)の会場であった。その表彰会場を馬場が使われていた。その余興としてウマパラセー(競馬)や闘牛や沖縄すもうなどがおこなわれていた。明治の様子が記されている。馬場は消防団や青年団の団結式の場として、学校の運動会や集合写真の撮影の場でもあった。

今帰仁間切のアブシバレー(明治34年6月5日)

 今帰仁間切のアブシバレーは去三十、三一日(明治34年)の両日を以って行わ、従来アブシバレーの初日は中原馬場、翌日は親泊村天底村の両方の馬場に於いて競馬を為すの慣例にてアブシバレーと言えば当地で先ず第一の賑やかの方なるが、今回中原馬場のは雨天にて左程の見物もなかりしが、親泊天底両方は例年に劣らず賑やかなりし中にも天底の方は湧川村横折帳清算発企者惣代等が遠方の料理屋の店より酒肴を取り寄せ顔の醜い酌婦等を引張り来り得意顔に大勢の中にも僤らす馬場の真中に円坐を作り飲みっ喰いつ甚しきは酌婦に戯れ懐の中に手を差し入れつ乳房を攫みて嬉し顔するものもありし当日第一の見物なりしと今帰仁通信に見ゆ


親泊馬場消防団の団結式(昭和8、9年▲天底馬場跡、天底青年団一周年記念(昭和16年)


2021年9月9日(木)


 「中北山」の時代と関わる根強い伝承をもつ家の遺品の調査をしたことがある。これまで何件も紹介してきたがその一例である。

第5回 山原のムラ・シマ講座】
(平成291111日開催)
 
 「ムラ・シマ講座」は本部町嘉津宇です。嘉津宇は1719年に伊豆味の古嘉津宇から具志堅の地内に移動した村です。具志堅村の一部となり、昭和22年に分離し現在の嘉津宇となります。移動する前の故地は伊豆味に古嘉津宇として残っています。1719年の村移動の理由は、旱魃で税を納めることが出来ず、王府に願いでて移転が許されています。

具志堅の地に移転するが、税が免除されるのではなく移転地にウタキを置き、祭祀を行う必要があった。祭祀は農耕暦で行われ、祭祀は「神遊び」(休息日)で王府が決めた公休日ですので積極的に取り入れています。嘉津宇村は『琉球国由来記』(1713年)には故地でのことが記され、天底ノロの管轄でした。

 明治13年の嘉津宇村の戸数は51戸、人口は252(139、女113)の小さい村でした。世帯数は変わらないが人口は激減している。昭和60年は49戸、160名でした。小規模の移動村でありながら、御嶽や神アサギや祭祀をしっかりと継承している。御嶽や神アサギの設置や祭祀を行う理由、行わなければならない理由が何かです。御嶽に入いたり、牛馬を踏み入れると咎めを受ける(ヤマサレル)との取り決めがありました(間切内法)。
 
 嘉津宇のタキ(御嶽)のイベは故地の反対に向けて設けてあります。ただし、イベに向って祈った後は、振り返って故地に向って祈りをしています。移動した村は、必ずしも故地に向けて御嶽(イベと集落の軸線)は設けていない(天底や振慶名など他の移動村でも)。どうも集落の高いところに御嶽を設ける習性(本質的に持っている)があるようです。

 ウドゥン(祠)の中にある七つの石は神人の数だという。今では神人はいないようですが、旧家の関係者が神行事を行っているようです。昭和30年代には神人達が祭祀を行っています(写真)。
  
 ☆ 1111日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合
   ↓ 出席の確認
   ↓ 嘉津宇の概要の説明
   ↓ 嘉津宇の集落が見える場所(故地の古嘉津宇との地形の比較) 
   ↓ 嘉津宇の公民舘
   ↓ 嘉津宇ウタキ/神アサギ/トゥン
   ↓ 旧家の一つの屋敷
   ↓ 旧家の一つのユレーヤー
   ↓ 歴史文化センター(1230 解散)

.  
▲昭和30年頃の公民舘とドゥンでのウガンの様子     ▲ユレーヤーの刺繍された衣装

2017114日(土)過去調査

 「ムラ・シマ講座」は本部町嘉津宇です。嘉津宇村は1719年に移動してきた村である。それと「中北山」と関わる伝承があり、伝承と関わる遺物(刺繍の衣服)がある。嘉津宇のユレヤーだけでなく、歴史的な伝承をもつ旧家に現に遺物を持っていることに注目したい。歴史的伝承を持っていることと遺物(簪・勾玉・刀・衣類など)がある、あったことが今に現存していること無縁ではなかろう。その一例が嘉津宇(ユレーヤー)の刺繍の衣服である。それらの伝承や遺物が、どれだけ歴史を伝えているのか興味深いものがある。過去に紹介した事例があるので一部紹介しましょう。(文章はそのまま掲載)

2017114日(土)

 今回のムラ・シマ講座は本部町嘉津宇です。嘉津宇村は1719年に移動してきた村である。それと北山と関わる伝承があり、伝承と関わる遺物(刺繍の衣服)がある。嘉津宇のユレヤーだけでなく、歴史的な伝承をもつ旧家に現に遺物を持っていることに注目したい。歴史的伝承を持っていることと遺物(簪・勾玉・刀・衣類など)がある、あったことが今に現存していること無縁ではなかろう。その一例が嘉津宇(ユレーヤー)の刺繍の衣服である。それらの伝承や遺物が、どれだけ歴史を伝えているのか興味深いものがある。過去に紹介した事例があるので一部紹介しましょう。(文章はそのまま掲載)


2011年8月26日(金)メモ

 本部町嘉津宇に「刺繍」をほどこされた服がある。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で紹介されている。その後、『服飾の研究』などで紹介されている。『沖縄県国頭郡志』の以下の文面を手掛かりに検討してみることにする。

 その前に、これまで『沖縄県国頭郡志』(大正8年)で紹介されている遺物や旧家などがどうなっているか、その確認をしておく必要があることから、その調査を進めてきた。嘉津宇の服や布片などの確認もその一つである。その現物の着物を見学する機会があった。服や模様や刺繍などについて全くの素人なので触れることはできない。

 首里王府から献上された山原の旧家が持っている(いた)情報を掲げてみる(他の資料については別稿でまとめることにする)。基本的に衣類や布地は首里王府からの献上物である。ただ、伝承では北山の滅亡との関係で捉えられているのが目につく。他の地域に残る古い衣装類はどうだろうか。

・国頭村奥間座安家(アガリー)
  尚円王より拝領の伝承:黄冠・水色の絹衣黄色絹帯地及黄金カブの簪

・国頭村辺戸の佐久真家  
  70年前(大正8年から)まで王の衣冠宝物保存未調査

・本部村(町)並里(満名)上の殿内
  按司位牌三個、古櫃の中に古刀三振、衣類二枚(一つは絹地、一枚は更紗)
  繻子の古帯
一筋、羽二重の襦袢一枚を秘蔵(中昔北山城主滅亡の際王族が
  隠遁せるのか)

・花の真牛(本部町伊野波)
  真牛、乙樽同様その年代や素性は定かにあるず。王妃となる才媛なり。城内では花の
  真牛が絢爛なる七つ重ねの礼服をする。永楽の染付(青花)の碗

・久志村(現東村)川田(根謝銘屋)
  同家には絹地の衣類、古刀、黄金のかぶの簪

・大宜味城ノロドゥンチ
   漆器丸櫃(小:約高さ19cmか)黒漆に沈金、模様、内部漆の朱塗り
  ・蓋(黒漆塗り)(数点に壊れているので、図柄や模様については専門家に依頼予定)
 ②竹筒(2本)
 ③瓶子(対)(錫製)・・・の魚々子鏨が見られる。
 ④湯沸かしの蓋のみ(鉄製)
 ⑤茶択(四枚:黒漆塗)
 ⑥丸形の酒注
 その他(青磁の香炉と花瓶) 文書や勾玉などなし)

・大宜味村屋嘉比ノロ殿内の遺品(別に紹介スミ)



2021年9月8日(水)

 今帰仁村運天に水産高校の実習地があったと薄々聞いていた。私が幼ない頃、父(大正元年生)に連れられ水上警察署に何度か来ている。その時、水産高校があったことを聞かせされていた。しかし、「ほんとかな?」と半ばうたがっていた。運天の調査をしていた頃、下の写真の提供があったが、それでも疑っていた。最近、以下の記事を見つけ紹介することに。裏に「大正十三年修了」と手書きがあったような。水産高校の記念誌にあるかも。(図書館がオープンしたら調べてみることに)

・大正八年二月今帰仁村運天港に漁撈実習、製造実習。生徒寄宿舎を新設した。
 当時の学校状況(水産学校)校長一、教諭六、書記一、校医一、漁撈手一、製造手一、
 嘱託教員二、生徒本科六〇、別科二〇、在籍一〇八であった。
 

・大正十三年三月、実習船龍宮丸老朽のため廃船、同年運天港の実習場の閉止、漁撈及び
 製造実習は委託実習を行う。

 下の写真は運天にあった水産学校の実習場での修了記念撮影だという。故仲村守氏提供。水産学校の実修地の記録見つける。


2021年9月7日(火)

・伊野波は1666年に今帰仁間切が分割し、伊野波間切となる。翌年本部間切と改称する。

・伊野波間切の番所が置かれた村。(後に番所は渡久地へ移動)

・伊野波のことをウンシマ、並里をマンナと呼ぶ。

・公民館周辺はムラウチ、伊野波神社やお宮、ウドゥン、神アサギなどがある。

・600~700年前頃は、一帯は一面海であった。

・伊野波と並里の中間に荷干毛が(ニホシモー)があり、難破船の修理や積荷干し場か。

・間切時代、伊野波親方の部落巡視があった。

・石くびり道

・唄の天才の北谷モーシの生誕地(北谷から移住。四歳頃から移住、師匠について歌をならう。
   (永楽年とある皿がある)
 17歳頃にはどんな唄でもうたいこなせたという。その名は首里・那覇まで知られわたっていた。

・大湧がある。
・満名上殿内(仲北山の流れだという)按司位、刀などの遺品があった)

【本部町並里、上の殿内】
 
・按司位牌(三個)(確認)(他は未確認)
 ・古刀三振(大一本二尺七寸、小二本、一尺五寸宛)
 ・衣類二枚(一は絹地、一は更紗)
 ・襦子の古帯一筋、羽二重の襦袢一枚)

※中北山城主滅亡時、隠遁



2021年9月6日(月

 昨日は「寡黙庵」で汗を流す。庭先の芭蕉にバナナが四本実をつけている。ずっと眺めていたセイか首が痛い。大きい蜂がひっきりなしに蜜を吸っている。前の台風で支えを入れ倒れないように補強してある。また、台風が二、三発生しかかっている。


2011121日(木)調査記録

  「山原のムラ・シマ講座」は東村平良と川田である。川田の根謝銘屋のカブの簪の記事を紹介したことがある。忘れかけているので、再度紹介することに。(旧暦の元旦のみ一族にお披露目、拝見したことあり)
  2003年2月9日(日)沖縄タイムスで「北山城主」(仲北山:1330年頃か)末えいの証し 装飾具勾玉を公表した記事がでた。問い合わせが歴文にもあったので紹介。北山城主末裔についての伝承は久志村(現在東村)の川田だけでなく大宜味村田港、名護市の屋部などにもある。大正8年に発行された『沖縄県国頭郡志』に次のように紹介されている。

   口碑伝説に依れば同家(東村川田の根謝銘屋)の始祖はヒギドキ
   (ヒゲドケ)と綽名せられ仲今帰仁城主の子孫にして本部村(町)満
   名上の殿内の次男なるが、ある事変に際し、一時名護城に移り、こ
   より大宜味根謝銘城に避難し後、国頭間切浜村赤丸の崎の窟及び
   伊地村後方の窟に隠遁し更に山中を横切りて川田の山中イエーラ
   窟に遷居せり。今その近傍、内福地原に千五百坪ばかりの畑ありて
   当時の開墾に係ると伝う。然るに此処は昼なお薄暗き森林にて山の
   精強く住みよからずとて道を海岸に開き、而して現屋敷の後方台地
   に移転せりという。
   川田は八十戸数中十数戸を除きたる外皆同家の裔孫にして根謝銘
   屋及びその分家なる西の屋(イリヌヤ)、西の根神屋、東の殿(東の比
   嘉)、新門(ミージョー)、金細工や、大川端(元ニーブや)の七煙より
   分かれたり・・・・・・以前根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金
   かぶの簪等の遺物を保存せしが火災の為め消失して、今は類似の
   品を以て之に代へたり。・・・・」

とある。今帰仁城主の末裔の伝承は古くからあり、また旧暦の元旦に行われるタマガワラユエーも行われてきたものである。大正8年以前に絹地の衣類や古刀や黄金の簪などが火災で焼失して、類似の品に代えてある。現在残っている勾玉(水晶玉では?何個か勾玉もあるのか?新聞の写真でははっきりしない)は、『沖縄県国頭郡志』で述べられているように消失し、大正8年頃のものは類似の品だということ。その品物が戦争をくぐりぬけ現在に伝わっているのかもしれない。北山の時代からのものとするには、慎重を期する必要があろう。

 もちろん、今帰仁城主の末裔としての伝承を今に伝えていることや一族が大事にしてきた遺品や祭祀も貴重なものである。外にも、そのような伝承や遺品を遺している旧家があり確認してみたいと思う(Y新聞から、記事の勾玉は今帰仁城主(北山王)の末裔のもの?の問い合わせあり)。

 黄金の簪は公儀ノロのものであろう。すると根謝銘屋からノロを出していた時代があった可能性がある。ただ、『琉球国由来記』(1713年)の頃は川田村と平良村は大宜味間切の村で、川田ノロはなく川田村の祭祀は平良ノロの管轄である。黄金のカブの簪や絹の衣類などと北山の流れをくむ伝承と結びつけるのは早計かと思われる。それよりも平良ノロの継承者がなく、平良のノロが根謝銘屋に嫁にきてノロをし、遺品はそのままのこった可能性もある。

 二つの村から大宜味間切の三人の夫地頭の内二人の夫地頭(平良大屋子・川田大屋子)を出している。両村が大宜味間切の村であった頃、重要な役職を出している。

 


2021年9月5日(

 昭和60年頃の調査報告だとおもいます。笹森儀助の沖縄関係調査だったと記憶。名護市史の調査でした。その頃、名護市から県内の大学へ週4日通勤していた頃(10駒余科目4)(高速道路は名護市許田から石川まで)。今では考えられない仕事の仕方。これまで、数多くの調査をしてきました。その多くは公やけにしてきたつもりですが、まだ埋れたままのがあります。いつでもコロナに押しつぶされていいように準備しておかねば。




2021年9月4日(

 昭和60年頃、宮城真治の整理に関わったことがある。その後、今帰仁と関わる資料を手書をワープロで打ち込み、活用したことがある。平成の五年頃、「晴耕雨読」のコラム依頼があり、「宮城真治ノート」を紹介したことがある。「神の島、古宇利」(昭和2年宮城調査)の筆耕していたころ、島を度々訪ねていた。その頃の調査は、『古宇利字誌』や『なきじん研究』―古宇利島の調査・研究(2010年)に収録。祭祀の調査記録は歴史史料になると確信したのは宮城の昭和初期の調査記録であった。

 祭祀も歴史史料で扱えることに気づかされた。宮城が記した「今帰仁の歴史」に関わる部分を収録することに。『古代の沖縄』や『地名考』、『山原―その村と家と人と』、『琉球』―宮城真治氏追棹号―(1956年)、「今帰仁村中部地域のウプユミ」などに目を通している。学ぶことの多いことよ。「しのぐ祭は部落内の悪霊を追いはらうものであるらしい」と。宮城は大正12年から昭和5年の間「今帰仁尋常高等小学校」(訓導兼校長)を勤める。その頃の調査記録である。父(大正元年生)の通信簿の校長は宮城真治である。
    
 


2021年9月3日(金)

20084調査まとめより

「各地の石灯籠や石香炉」についても「山原の間切と御殿・殿内」へ集約していくものである。ここには掲げていないが、金武間切の金武村の香炉と金武按司の上国の記事を【中山世譜】(附巻)から記事を拾い追加していく。(今帰仁・本部・羽地・大宜味・国頭の間切については別稿)


▲金武町の「中森之嶽所」の香炉


【糸数グスクの石灯籠】
(南城市)

 糸数グスク内に数基の石灯籠がある。石灯籠が置かれている場所は『琉球国由来記』(1713年)でいう「糸数城内之殿」のことか。そこでの祭祀に糸数(脇)地頭やオエカ人、糸数ノロ、屋嘉部ノロ、前川掟などが関わる。石灯籠や石香炉の文字の判読が不十分なため、議論を一歩二歩進めるには再調査が必要である。

【中山世譜】(附巻)記事より
 ・崇禎8年(1635)蒙氏糸数里之子親雲上宗正、薩州へ派遣される。
 ・康煕18年(1679)向氏玉城親方朝恩が泰清院公七年忌で薩州へ派遣される。
 ・康煕26年(1687)向氏玉城親方朝御が年頭使として薩州へ派遣される。
 ・康煕51年(1712)向氏玉城親雲上朝薫が尚益王の薨事で薩州へ派遣される。
 ・康煕(1712)向氏玉城按司朝孟が尚敬王の即位で薩州へ派遣される。
 ・雍正元年(1723)向氏玉城親雲上朝薫が薩州へ派遣される。
 ・雍正5年(1727)向氏玉城按司朝雄が薩州へ派遣される。
 ・雍正7年(1729)向氏玉城親方朝薫が薩州へ派遣される。
 ・乾隆59年(1794)向玉城親雲上盛林が薩州へ派遣される。
 ・嘉慶16年(1811)翁氏玉城親方森林が薩州へ派遣される。
       (の石灯籠は嘉慶17年)
 ・嘉慶23年(1818)翁氏玉城親方盛林が薩州へ派遣される。
       (の石灯籠は嘉慶24年)
 ・嘉慶25年(1820)向氏玉城按司朝昆が薩州へ派遣される。
       (の石灯籠)
 ・同治9年(1870)翁氏玉城親方盛宜が薩州へ派遣される(病身)。


   「糸数城内之殿」?にある五基の石灯籠

糸数グスクの石灯籠

 嘉慶二拾五庚辰年七月吉日(右側面)
   奉寄進(正面)

 新城徳祐氏が「玉城按司御上国付御供糸数村太田仁屋 嘉慶二十五年七月」
と読んでいるのがある(『なきじん研究11―新城徳祐資料』)。

 

糸数グスクの石灯籠
 □□己卯年九月吉日(嘉慶24年か)(左側面)嘉慶24年に翁氏玉城親方盛林が薩州へ。
      知念仁屋
      大仁屋

 

糸数グスクの石灯籠
  嘉慶二十□□(左側面)
   奉寄進 (正面)

 

糸数グスクの石灯籠

 奉寄進 知念仁屋 (正面)
 嘉慶十九?年(十七か) (右側面)前年の嘉慶16年に玉城親方盛林が薩州へ。
  壬申 九月吉日(左側面)

  

無 銘

 

【勢理客の香炉】

 ワラザン(藁算)調査の来客があり、勢理客のヌルドゥンチ跡の神屋、そして近くに勢理客のウタキの香炉の確認まで。勢理客のウタキのイベの祠に二基の石香炉がある。それには銘があり「奉寄進 道光十九年? 八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年九月吉日 上間仁屋」である。勢理客のウタキの中のイビに二基の香炉が置かれている。一基はスムチナ御嶽の香炉の年号と一致する。その同治九年は今帰仁王子朝敷が薩州へ派遣された年である。
 道光年の石香炉は年号の確認がぜひ必要である。そこに登場する親川仁屋と上間仁屋は今帰仁御殿や殿内などでの勢理客村出身の奉公人ではなかったか。「大城仁屋元祖行成之次第」(口上覚)に以下のような記事がある。奉公人と御殿や殿内との関係を伺いしることがきる。(もう少し整理が必要なり)

 勢理客村大城仁屋(玉城掟)(口上覚)
  一、嘉慶二十年亥十二月御殿御共被仰付寅年迄四ヶ年御側詰相勤置申候事
  一、嘉慶二十四年卯正月嫡子今帰仁里之子親雲上屋嘉被仰付丑四月迄十一ヶ年相勤置申候
  一、道光九年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付十月よ里十二月迄昼夜相勤置申候
    勢理客村兼次親雲上(覚)
  一、道光二十五年乙巳御嫡子今帰仁里之子親雲上御上国ニ付而宮里殿内江御雇被仰付

九月より十二月迄昼夜相勤置申候事
  一、嘉慶二十一年卯十一月廿四日御嫡子今帰仁里之子親雲上御婚礼之時御雇被仰付

罷登首尾能相勤置申候事
  一、嘉慶二十年子三月故湧川按司様元服之時肝煎人被仰罷登首尾能相勤置申候事
  一、嘉慶二十三年卯三月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付罷登首尾能相勤置申候事 

 勢理客のヌルドゥンチ跡の神屋にあるワラザン(藁算)については、改めて報告することに。

 
     勢理客のウタキ内のイビの様子           銘のある二基の香炉

 
        勢理客のウタキのイビの祠にある銘のある二基の石香炉

 
        勢理客ヌルドゥンチ跡の神屋にあるワラザン(藁算:二本)


2021年9月2日(木)

 コロナで「兼次の字誌」の会議が二か月間休でいる。グラビアの写真のキャプションの検討会。64頁







2021年9月1日(水)

 「伊波グスク」まで足を運ぶ。伊波グスクも、「仲北山滅亡・離散」の歴史的伝承を根強く持っている。私は、同時代の史料のほとんどない時代、その伝承が史実かどうかの関心もあるが、各地の村々に同様な伝承がある。今帰仁グスクをはじめ、国頭(根謝銘:ウイ)グスク、羽地グスク、名護グスク・(金武グスク不明)・伊波グスク・与論・沖之永良部島に遺っている。そのことに関心を持っている。(以下の「伊波城」は新城德祐、『なきじん研究』10所収より)

 伊波城は沖縄本島の中部、石川市字伊波の東北の岡の上に築かれた古城趾である。この城は石川の西南方にあり、低地にある石川の市街と周辺の田野を扼するように続いている珊瑚石灰岩の切り立った丘陵上の凡そ中程に、更に一段と高くなったところに築かれた城かれた城で、単廓式の山城で、城壁の大部分が今に残り昔の面影を忍ぶことができる。土地台帳に字伊波後原551番地、地目は拝所、地籍は1377坪と載っている。

 城内には、今次の大戦前までは琉球松の大木が亭々と生い茂っていたが、戦後松喰い虫の異常発生のためにその犠牲となり、今はカヤ、ススキ等の雑草がのび放題になった中に、わずかに枯木の霧株が残っているだけで、城内は一面雑草に埋まっている。この城は1322年、北山城主(中北山)が後北山の怕尼芝(ハニジ)に亡ぼされたとき、中北山の子孫が逃れて来られ、この城主を伊波按司と言い、城はこの伊波按司が築いたものだと言われている。

 伊波按司は、当時ここを本城として子孫一族を各所に配属して勢力挽回に力を注ぎ、仇敵怕尼芝(後北山)を狙っていたが、怕尼芝は既に支那とも交易して財宝を蓄積し、北山王と名乗り、権力並ぶものなく、領土を与論、沖之良部等の島々まで広げる大勢力を持っていたほどで、中北山系の伊波按司一統一の小勢ではどうすることも出来なかった。北山は更に二代、三代と支那との貿易を盛にし、益々強大になったが、三代の攀安知王になってからは権力をほしいままにし、漸やく驕り高ぶり、人民が離反し、国政は日々に衰えるようになった。

 その頃、佐敷の一角より起った尚巴志が力と人望を得て中山王武寧を亡ぼし、父尚思紹を中山王位につけ、その勢いは日々に増すばかりであった。そこで中北山系の一族は尚巴志に近づき、尚巴志の中山郡と合体し父祖の仇敵、後北山の攀安知を亡ぼし父祖の仇敵、後北山の攀安知を亡ぼすことが出来た。

 時に日本では室町十代で、応仁二三年(1416年)、支那は明の永楽十四年であった。伊波按司は自力ではなかったが、長年の怨敵を亡ぼすことができ、それ以後は中山の尚巴志に従い、領内の安泰と一族の繁栄に意を注いだようである。今帰仁城を追われた中北山系が勢力挽回の為隠忍していた主なる城主は、伊豆味の陣城にマーミ按司(伊豆味按司)、大宜味の根謝銘城に大宜味按司、羽地の親川城に羽地按司、名護城に名護按司、国頭城(根謝銘・ウイ)城に国頭按司、山田城に読谷按司(山田按司とも言う)、伊波城に伊波按司、安慶名城、西原の棚原城に棚原按司等の各按司たちであったようである。

 伊波按司は、五代まで伊波城に住んでいたと伝えられているが、五代伊波按司のときには、中山は既に第二尚氏の時代で、第二尚氏三大目の尚真王が中央集権の政策を行ったため、この五代伊波按司は首里へ移された、と『伊波按司由来記』に見えている。

 この首里へ移された伊波按司は後に伊波親雲上仲賢といい、伊波城主であった頃は、特に馬術と弓術にすぐれた武勇の人で」あったと伝えられ、城の西側には伊波按司が弓矢で落したと言う伝説の石があり、城の南の岡の上に馬場があってそこで馬術のけいこをしたと言う伝説の石があり、城の南の岡の上に馬場があってそこで馬術のけいこをしたと言う伝説も残っている。この伊波親雲上仲賢が薫姓江州家の始祖であると言われている。