沖縄の地域調査研究

寡黙庵:(管理人:仲原)   今帰仁村歴史文化センター

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羽地地域の調査記録(2003年)
国頭村比地  ・大宜味根謝銘(ウイ)グスク
2021年2月 2021年3月 ・2021年5月 ・2021年6月 2021年7月 
シニグと山原文化圏  ・徳之島と琉球  ・ノロ制度の終焉 ・奄美のノロ制度

勝連半島のムラ・シマ

国頭間切の二枚の辞令書
山原のシニグと猪狩と「流れ」の所作




   容量不足(パンク状態)でしばらく休息します。


2021年9月21日(

  三年前、べトナム行きは、舟、船、赤土での焼き物、香辛料などの確認
でした。






2021年9月20日(

「今帰仁村内の小字の変遷―平敷村畧図」にみるのレジメ原稿。










5.土地整理字図・小字図
  ・土地整理(今帰仁間切の事例と平敷村小字図と土地整理関係等級申告控)(明治34年)
  ・今帰仁間切兼次村土地整理台帳


6.今帰仁間切村(ムラ)全図と今帰仁村(ソン)村字全図


7.戦後の土地測量(昭和22年)

 戦後の土地測量は、ある意味で戦前の地籍の復元であった。その作業が現在の地籍図と直接つながってくる。村図を作成するにあたり「村図作成要領」や地番の作成事務を円滑に進めるために「新地番作成要領」などが出されている。字で具体的にどのように測量し、所定の手続きをへて「土地所有権利証明書」が発行されていったのか、この写真は戦後の仲尾次の土地測量と関わった方々、そして当時の様子や土地所有権が認められるまでのことを語っていただいた(今帰仁村仲尾次:昭和22年)。

参考文献
  ・『なきじん研究 7号』所収
 今帰仁村内の小字の変遷―平敷村畧図」にみる(仲原)(平成9年)  
  1.「平敷村略図」
  2.平敷村の小字図
  3.「平敷村略図」と現在の小字の比較
  4.村内の原石(印部石)と小字(原名)
  5.平敷の現在の小字の現況
  6.今帰仁間切平敷村字前田原」の土地保有者 
・『じゃな誌』(所収)(昭和62年)(仲原)今帰仁間切の地割と平敷村 
・「今帰仁村の印部石」(所収:仲原) 沖縄県地域史協議会発行


2021年9月19日(
 
 パソコンの調子が悪く、過去のページをコピーでつないでいます。

22期(平成26年度)山原のムラ・シマ講座
            
 (第7回:1213日(土) 

 平成26年度の「山原のムラ・シマ講座」の最後の地は饒平名である。饒平名は屋我地島にあり、戦後羽地村から分離した屋我地村にある。饒平名には屋我地村の役場や郵便局や小中学校、診療所、駐在所などがあり村の中心地となっていた。現在でも名護市屋我地支所や郵便局、そして屋我地小・中学校がある。

 饒平名の集落は大きくウンバーリとシチャンバーリと分かれる。屋我地島の饒平名・済井出は屋我から分離したとの伝承がある。そのためか、ノロが任命された時代(1500年代)は屋我島一つで村でる。近世になって①屋我 ②済井出 ③饒平名 となりが独立し、屋我ノロ殿内があった地は饒平名村であった事に起因している。そのことがに饒平名に屋我ノロであるが理由である。屋我地島が一つの村だったことを示している。屋我・済井出・饒平名は屋我ノロの管轄村で、饒平名と隣接する我部は今帰仁村湧川地内あったのを1736年に屋我地島に移動してきた。しかし屋我ノロ管轄になることなく我部ノロ管割である。

 饒平名のムラの形は、集落後方(北側)にウタキがあり、ウタキを背に羽地内海の方へと展開する。集落区分する名称はバーリである。集落内には福木の屋敷林がいい。集落後方のウタキ林がムラ抱護となっている。

【踏査コース】
  ①シマヌハー 
  ②フルティラ(ウタキ)/メーダキ
  ③ウンバーリ集落/シチャンバーリ(福木屋敷林)
  ④集落内にある饒平名簡易水道第一貯水槽(昭和9年3月)
  ⑤旧公民館跡//神アサギ/屋我ノロドゥンチ
  ⑥屋敷跡/屋敷の木の根
  ⑦マーウイ跡/屋我地小・中学校
  ⑧マングローブ林
 
 ▲フルディラ(御嶽のイベ)        ▲シマヌハー

 
 
▲饒平名簡易水道第一貯水槽(昭和93月)▲饒平名の集落内の福木がいい!

   
  ▲饒平名の集落内の屋敷跡   ▲饒平名神アサギと屋我ノロドゥンチ

   
▲饒平名のマーウイ(馬場跡)    ▲マーウイ跡(約120m)
 


屋 我 2010(平成22)年924日(金)メモ

 名護市(旧羽地間切)の屋我と鐃辺名、そして我部までゆく。屋我ノロドゥンチが何故鐃辺名にあるのか。ノロが鐃辺名から出てもノロの名称が変更されずにある(今帰仁村(間切)の中城ノロも諸喜田村に移っているが名称はそのまま中城ノロである)。そのこと史料を踏まえて考えてみる。(久しぶりに各地の拝所等回って見ると窓やカギなどが壊されている)

 まず、屋我ノロが、いつ屋我村から頃鐃辺名村に移ったのか。屋我ノロが公儀ノロとして任命された時、羽地間切屋我村に居住していた家の人物、あるいは任命して屋我村に住んだということであろう。1625年の屋我ノロの辞令書がある。その時、「やかのろ」が屋我村に居住していたか明確に記されているわけではないが、屋我村に住んでいたのであろう。その後の『琉球国由来記』(1713年)に屋我巫女(ノロ)の記述をみると、「屋我巫火神」は屋我村にあり、屋我ノロは屋我村と鐃辺名村と済井出村の祭祀を掌っている。

 現在、屋我ノロ家は鐃辺名に移っているが、『琉球国由来記』(1713年)の屋我巫火神は屋我村に残っているに違いない。屋我村の集落は1858(咸豊8)年に墨屋原に移動している。ならば屋我巫の火神の祠は集落移動前の故地に残されている可能性がある(その確認がしたくての屋我行きである)。

 屋我村の集落は屋我グスク周辺にあったと見られる。屋我グスクを中心とした一帯は阿太伊でアテーと呼ばれる。アテーはアタイのことで集落の中心に付けられる地名である。移動前の屋我の集落の故地は、屋我グスクの周辺にあったとみてよさそう。そこにはヤガガーがありグスクとヤガガーを拝む祭祀がある。グスクにあがる近くに火神を祭った祠がある。祭祀場はお宮に統合されているが、ノロ火神は元の場所に残された一つではないか。グスク近くにある火神の祠は屋我ノロ火神の可能性がある(確認必要)。

 屋我ノロが鐃辺名に移ったのはいつごろから。屋我ノロに関する明治の史料がある。明治26年段階で屋嘉ノロクモイは鐃辺名村に居住している。明治17年頃の「沖縄島諸祭神祝女類別表」(田代安定)によると屋我村にノロクモイが一人いて、鐃辺名村に根神がいる。その頃、屋我ノロはまだ屋我村にいたということか。しかし、「午年羽地按司様御初地入日記」(1870年)を見ると、羽地按司が管轄する羽地間切を訪問した時、屋我地御立願の三番目にによひな(鐃辺名)村の「のろこもい御火神」を訪れている。その時、のろこもい火神は鐃辺名村にある。屋我村から鐃辺名村にノロが移り住んだ理由は、今のところ不明。


              証

          羽地間切鐃辺名村三拾九番地平民
                 屋我ノロクモイ  玉那覇マカ
        右ハ当社録仕払期ニ在テ生存シ当間切内ニ現住ノロクモイナルヲ証明ス
       明治廿六年八月九日 羽地間切地頭代 嶋袋登嘉
        国頭役所長 笹田征次郎殿

 宮城栄昌氏のノロ調査を見ると、ノロは鐃辺名にあるノロドゥンチ、ノロ殿内の根屋、アシャギ、島の川三ヶ所、大てら二ヶ所、小てら一ヶ所、群松。屋我のアシャギ、屋我グスク、屋我ガーも拝んでいる。
 明治32年の以下の資料(文書)と牛角の簪が一本保存されているようだ。

      国頭郡羽地間切鐃辺名村平民
              玉城喜三郎
              外三名
     明治三十二年二月廿八日付願
     屋我ノロクモイ死亡跡役採用ノ件聞届
          明治三十二年四月八日
       沖縄県知事男爵  奈良原 繁 (沖縄県知事印)
  

  屋我ノロの住居が鐃辺名村にあることへの疑問をとく答えが見つかる。


【伊是名グスクの玉陵墓】

 新型コロナで二年間おとづれていない伊是名島。今帰仁グスクから運天港からが伊是名島へ向かうフェリーを眺めている。過去の記録をとりだしてみるか。二回ほど計画したが流れてしまった。

 ずっと気になっているのは伊是名グスクの玉陵墓への階段である。三・五・七ではないか? 今帰仁グスクを整備に関わった新城徳祐氏は伊是名グスクの調査にも関わっている。今帰仁グスクの昭和34年の七・五・三は伊是名グスクに倣ったのでは。そのことは伺うことはできなかった。調査ノートにも記されていない。


 本島の北部に伊是名島と伊平屋島がある。地理的には沖縄本島の北部に位置し、昭和14年までは両島で伊平屋村(ソン)であった。同年伊平屋村と伊是名村に分かれ現在に至る。明治29年郡区制が敷かれたとき伊平屋村は島尻郡区に組み込まれた。山原(国頭郡)に位置しながら、島尻郡である。そのことが伊是名・伊平屋は山原ではないのかの声がある。

 1469年金丸(尚円王)が第二尚氏を擁立すると、生誕地である伊是名に尚円王は叔父の真三良(銘苅殿内)、叔母の真世仁金を伊平屋阿母加那志として派遣した。伊平屋(伊是名)阿母加那志(御殿家)の娘2人に「二カヤ田の阿母」(北・南風の二家)の神職を継がせた。首里王府は四殿内を介して首里化し、中央文化を注ぎ込んでいる。伊是名島に住む人々は「沖縄の歴史」の要(かなめ)となった尚王氏へ傾倒していく。伊平屋(伊是名含む)は王府の直轄地と言えそうだ。

 
 
1490年代、山原(北山)に第二尚氏王統の監守(今帰仁按司)と今帰仁阿応理屋恵按司(神職)を派遣し、今帰仁グスクに常駐させた。1665年今帰仁按司家の七世従憲の時、首里への引き揚げが許された。それは山原を首里化できなかったと考えている。伊是名の四殿内は、首里に引き揚げることなく継承され、近世に伊是名玉御殿(墓)をつくり、清明祭や亀甲墓が導入され、首里化が積極的に図られている。


 言語を見ると「伊是名島の方言は基層部では北部方言に通じるが、中南部方言の影響を強く受けている」(「図説琉球方言辞典」中本正智)といい、人々の言葉は首里方言へとなびいている。神アサギの建物の構造や伊是名グスクの拝所(ナー)でのウンジャミやシヌグ沖縄などに山原的な要素が根強く見え、それに首里王府の祭祀や習俗が被さっている。島の歴史をひもとくと伊是名・伊平屋は山原?の疑問は解けそうである。


2021年9月18日(
山原のシニグと猪狩と「流れ」の所作の講演レジメ
(参昭)

はじめに
 1、北山の領域(北山文化圏)の痕跡
 2、シニグの分布と名称
 3、祭祀(シニグ)の名称
 4、祭祀の「流し」―流し―が意味するもの
 5、祭祀に見られる凌ぐ(シニグ)流しと弓(ヌミ)を持った所作(猪狩)
 6、祭祀での猪狩は豊漁・豊作・豊猪と同様
おわりに 

はじめに

「北山文化圏」という大きな歴史的な大きなテーマを掲げている。その主張の手がかりとなったのはのは、沖縄の歴史の三山の時代「北山」が手掛かりとなりました。当初、山原とは?という命題に突き当りました。山原の領域の議論がありました。それが言語の北部と中部との境界線。勅物からみた山原となると読谷山がから北側となる。その境界線は、様々だということに気付かされました。様々な調査をしてきましたが、今日の山原の祭祀とイノシシに関わる部分について報告したいと思います。『琉球国由来記』(1713年)に編纂された記録があります。その中に「神アシアゲ」があります。すると、神あしあげのある地域は、どうも「やんばる」の領域にあり、それは三山の北山の領域と重なることがわかりました。北山の時代と言えば、与論・沖之良久部・徳之島、奄美大島は途中まで、喜界島もその範疇に入れてもいいのではないかと。神アシアゲは奄美大島の南側加慶呂麻島まで確実に入ります。

テーマと関わる祭祀のシニグ。海神祭の分布です。本部半島から今帰仁・大宜味・国頭、やんばるに神アサギとシニグの分布です。平安座島や宮城島、そして伊計島にシニグドウがあります。シニグドーはシニグ行事の一場面です。津堅島にもあるようです。しにぐは与論島、沖之永良部島にもあります。

今回、山原文化圏の要素にイノシシを組み入れたいと思います。各地の遺跡からイノシシの骨が出土しています。中南部からも。すると山原のみでなく、沖縄本島や周辺の島々にいたことになります。それが人々の住む環境の変化でイノシシは沖縄本島北部に追いやられたのでないか。イノシシの捕獲する場面は、豊漁・豊作の場面と見ることができます。

シニグや海神祭などの祭祀にイノシシが登場する。害獣と目されるが、海神祭やウプユミなどの祭祀にイノシシが登場するのは狩猟時代を辛うじて今に伝えていることを示しているのではないか。


2021年9月17日(

 徳之島を行く

2007年2月21日(水)調査記録

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

②徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)
  しよりの御ミ(事)
    とくのにしめまきりの
    てヽのろハ
       もとののろのくわ 
    一人まなへのたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  萬暦二十八年正月廿四日


 ▲徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書
(『辞令書等古文書調査報告書』沖縄県教育委員会)所収より 





 




2021年9月16日(

 いつ頃からか、よくわからないがメモをとる癖がある。ラジカメが登場すると、デジカメがメモ代わり。シャッターを押すときには頭には文章がある。昨年の12月本部町具志堅の仲里家の家系を頂いた。それにピータテゥヤーの家を見つける。今帰仁間切今帰仁村と本部間切の境にあり、どちらの担当なのか首をかしげていた。それは解決。視覚で記憶する癖がついている。

2002.6.20
(木)メモ


 総合学習の後の余韻が歴文まで伝わってくる。また、伊江島からもお礼の手紙をいただいている。先日伊江島の子供達は、今帰仁グスクから城山を見つけて歓声をあげていたのを思い出した。いくつかヒントをもらったようで、早速島村屋にいって調べるとのこと。私自身、今伊江島にはまっている状態。先日のトーミヤーの件もそうである。古宇利大嶺原伊江島とつながることもあって、五月に伊江島に渡った時、早朝イータッチューの頂上まで登った。それは古宇利島大嶺原伊江島のルートを伊江島からどう見えるのか、その確認でもあった。

 伊江島から大嶺原の方向を見ると、備瀬崎の後方に清掃工場のエントツが見える。エントツの左側に大嶺原がある。エントツから煙が出ていると、烽火がそのように見えたのだと想像する。二つ、三つ煙を上げるには大分離さないと風で一つになってしまいそう。すると、40~50mは離さないとイカンなとか、いろいろ考える。

 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について、以下の記録を残してくれた。

   位置 宿の前原2833原野の南部
       火立て屋 チータッチュー屋三つあった。
       中に薪を一ぱい、薪は間切船、唐船や大和行の船(偕船?)
       を見た時、その一つを焼く。
       火立ては国頭、伊平屋、具志堅、伊江にもあった。
       その番人の家 遠見屋という。
       唐船の入る頃になると掟も来て勤める。
       古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の
       位まで授けられる。終身職で頭を免ぜられた。

火立て屋あたりを、調査する手掛かりをいくつも与えてくれる。そういう記録は、非常にありがたい。
 今帰仁村と本部町の境界の大嶺原は、右手に古宇利島、左手に伊江島が視野に入り、トーミヤー(ピータティファーイという)を設置するのに最適な場所である。

大嶺原(ピータティファーイ)から伊江島を望む

2002.6.21
(金)
 メモ
 
 今帰仁村今泊の大嶺原のピータティファーイまで登ってみた。というのは、19日古宇利島から大嶺原を眺めたので、大嶺原から古宇利島がどう見えるのかの確認である。大嶺原からつなぐ伊江島の方向も眺めてみた。大嶺原のピータティファーイから正面に伊是名・伊平屋島、右手に古宇利島、左手に伊江島が見える。今日は雲の多い天気だったのだが、下の写真のように伊江島と古宇利島が見える。

 『伊江村史』に遠見番について詳細な記述がなされている。古宇利島のトーミヤーの様子を見るための手掛かりとなる記述がある。

 ・唐船、薩州船や難破船の見張りをする。
 ・上佐辺のツリワイ毛に遠見番所があった。
 ・六人が常時詰めた。三交代で二人が立番をする。
 ・唐船の通航時期になると臨時の在番役人が来島した。
 ・民家から離れた場所にある。
 ・一隻の時は一炬、二隻の時は二炬、異国船の時は三炬
 ・火立所は離れて参ヶ所にある。
 ・中央が一番火立所、西が二番火立所、東が三番火立所
 ・五月になると島民の漁火が禁止された(唐船通過後に解禁)。
 ・屋号にトーミがあり、遠見番を勤めたことに由来。

   
   
大嶺原から伊江島を眺める            大嶺原から古宇利島を眺める


2021年9月15日(

 兼次の字誌の編集会議はコロナで中止。来週から印刷会社へ原稿の発注。

 兼次の稲作とパインナップル(パイン)について。(工事中)

【稲 作】

・地目の「田」はあるが、兼次では稲作をしている家は現在はなし。

 昭和1957年の兼次の田は79筆、15,119㎡あるが、昭和60年から稲作は〇である。昭和49年まで村内でわずかながら稲作が行なわれている。

【1957年1月11日】

 第一期作水稲苗代の件
 村の指示に準じて播種をなす。然し雨が降らなかったら場合は順延する様にする。
 野ソ(野ネズミ)駆除

 水稲播種前に野ソを徹底的に駆除する。薬品は区会計より出し日取りは当務に委任する。

【1957年1月21日】
 ・水稲の件  雨降れば決定

【8月2日】
 ・水稲二期作播種準備の日程
  川原苗代 8月3日  道東 4日 道西上5日
   道西上 5日 東後原 6日 
   苗代の準備作業も上から順に行ない節水する様にする。

【バッタ】

 バッタの発生面積及び防除発生面積、防除面積調査

【パイン】
 

【公民館資料】
  ・1956年1月5日
  パイン園区画払い下げについて
  パイン園栽培土地のない方々に優先する。 

【1972年】
 ・パインアップル採苗ほ設置申し込み 
 ・パインンアップル優良種苗譲渡申請書

  パイン古株更新実績補助金交付申請