寡黙庵 2018年10月の記録(今月)
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やんばる学研究会(開催案内)
ムラ・シマ講座へ(26期7回11月10日)は今帰仁村平敷です))
2018年10月31日(水)
10月最後の日にして画像やデータなど亡失。このページは毎朝、家を出る前に更新するのであるが、忘れ物があって、今日は更新できず。忘れ物を拾いに立ち寄ってから。
2018年10月29日(月)
仲原馬場と原山勝負について触れたことがある。以下の賞状から戦後も行われている。出品や堆肥やサトウキビなどの勝負がある。詳細については1949年度(昭和24)の文書で触れるが、賞状には甘藷総合とある。もう一枚の「表彰状」は「造林計画実施」の好成績による表彰である。当時の村長は戦後二代目の大城善英氏である。
大正まで「原山勝負」の会場として馬場が使われていたようで、学校の運動会も行われていたという。戦後は学校の教室などが利用されていた。



仲原馬場(ナカバルババ)と松並木(越地)(平成2年11月号)(昭和60年頃公にしたことがある)
ナカバルババ(仲原馬場)は別名マーウイとも呼ばれ、今帰仁小学校の西側に位置する。よく写真に写される場所であり、戦前、戦後の写真が何枚か残っている。仲原馬場は昭和34年に県の文化財(史跡)指定をうけている。馬場は距離にして約 250メートル、幅約30メートルあり、中央部に石垣が残り(上の写真の中央部の左側)アブシバレーや間切(現在の村)行事の時の来賓席だったという。 上の写真にみるように競走路の両側には松の大木が並木をなし、その風景は見る人の胸をうつ。それらの松は、別名蔡温松とも呼ばれ松の樹齢を感じさせる。大木の松が数少なくなったが、老松の間に30年余りの若松が勢いよく成長し、松の世代交代をみせつけている。馬場の左側にキビ畑がみえ、まだ運動場が移転する前(昭和30年代後半)の風景である。
今帰仁村には、仲原馬場のほかに、今泊や天底にも馬場があった。馬場は人工的な施設であり、いつ頃つくられ始めたのかはっきりしないが、『球陽』の1695年の記事に首里に戯馬場がなく、各地に行き騎馬の方法を習って、馬場を西原郡(間切)平良邑に開いたとある。それ以前の『琉球諸島航海日誌』(1614~15年)にも競馬が行なわれていたことを記してある。今帰仁の仲原馬場の起源については、今のところ定かでない。
『沖縄県統計概表』(明治13年)は、「馬場ナルモノハ毎歳収穫ノ時ニ至リ一間切ノ人民此相会シ各穀物ノ熟否ヲ較ヘ随テ平生労力ノ勤怠ヲ鑑別スル所ナリ」とあり、馬場は間切に人民が揃い原山勝負を行なわう施設であった。その余興として競馬が開催された。
今帰仁村の仲原馬場は字の示す通り、仲原にある競馬場ということになるが、現在字越地の小字与比地原(ユピチバル)に位置する。越地は昭和12年に謝名と仲宗根の一部をあわせてできた字(アザ)である。馬場のある地が仲原という地名であったとみられる。それを証拠づけるように、明治13年の『沖縄県統計概表』に「仲原(今帰仁)」、明治31年の『琉球新報』に「今帰仁尋常高等小学校の新築工事請負入札広告」があり、「但、敷地は今帰仁間切謝名村字中原にして・・・」、同様に明治32年「今帰仁尋常小学校に高等科を併置し、今帰仁小学校と改称、敷地を謝名仲原二五三番地(現敷地)に新築移転」と記し、明治31、32年頃は現在の今帰仁小学校あたりは字仲原であったことがわかる。
仲原馬場と呼ぶのは、現在の馬場一帯が仲原という小字で、それにちなんで名付けられたと思われる。小字の組替がなされても、かつての呼び方を踏襲し、仲原という地名と人工的施設である馬場が連称され、「仲原馬場」と呼ばれている。その仲原馬場は、本来今帰仁間切の公共的な施設で、アブシバレーや原山勝負などを行なう施設で、競馬や闘牛・相撲などはその余興として行なわれた。
下の写真は、昭和35年頃の県道沿いの松並木(一部仲原馬場)である。昭和33年の記録をみると、謝名から今泊に至る街道の両側にある琉球松の大木は約 410本あったと記している。写真の手前右側に運動場があり、バスが通っている場所は二又に別れていた記憶が今に残る。
※アブシバレーは間切(村)あげての行事で、その日はクージビ(公の休息日)で、最初の日は仲原馬場で馬二頭づつ
競馬が行われた。翌日は天底馬場、翌々日は親泊(今泊)馬場で、同様なことが行われていた。
※番所(役場)が運天にあったころ、番所前の馬場で行事が行われていた。
2018年10月27日(土)
先日の講話で字の公民館の名称の確認のため19のアザを踏査。公民館・集落センター、構造改善センター・女性若者生活促進施設、地域活動拠点生活施設など様々である。これまで使われてきたのは、ムラヤー、事務所、公民舘である。ムラヤーは今の字(アザ)が村(ムラ)であったことの名残、事務所は戦後、物資の配給などが事務所、昭和30年の公民館、そして近年新築される建物の名称、それもいくつかある。時代を反映している。一律にムラヤー、公民館ではなく、補助金の出所のメニューからきたものと推測している。
平敷のウタキや周辺に足を運んでみた。平敷から数多くのテーマを掘り起こすことができた。まず、平敷のウタキである。平敷のウタキ、ウタキ(杜)内に神アサギ、ウタキのイベ、合祀された拝所があることである。ウタキ(杜)の周辺にカー(湧泉)、古墓、遺物の散布地などがあり、ムラの歴史的な変遷が読み取れる。鳥居があり、平敷もウタキを神社化されている。ウタキ内の拝所は、その時に合祀されたものと見られる。イベの香炉、ヰ ふかさく原の印部石、明治図面、タキヌガン、原(小字)の変遷など数多くのこと学ばせてもらった。
そのようなこと振り返るため11月の「ムラ・シマ講座」は平敷です。

▲平敷公民館 ▲国頭郡今帰仁間切村全図 ▲平敷村略図
2018年10月26日(木)
「今帰仁村制110年の歩み」で講話。30枚余の画像で。村制100年の時、企画展を開催したことがある。その時、村制100年の出来事を村勢要覧に掲載(一部追加)、それと数多くのパネルを作成。特に強調したのは今帰仁村に遺る資料群の保存と活用についてでした。沖永良部島(和泊町・知名町)からも来村されていたので、沖永良部島と北山についてさわりの部分のみ紹介。
2018年10月23日(火)
旧暦の9月15日のウフウガンである。「ウンシマへアガリンソーレ」とマイクで呼びかけている。他で字(シマ)でも行われている。兼次のウフガンの祭祀に同行してみた。
午前中、崎山のヌルドゥンチでのウガンを区長と書記が済ませていた。午後三時にシマの方々が公民館に、直接「金丸殿内」に集まる。カニマントゥンチでのウガン(お酒・米・平香)を供えてのウガン。そこで二回手を合わせる。そでのウガンを済ませるとウタキへ。婦人方(お年寄りが大半)が先頭になり、男性群があとに続く。
ウタキのイビの手前にあるウカマへ。女性群はイビの前まで進む。男性群はウカマで待機。
イビでのウガン(手を合わせる)の合図がウカマに伝える。イビでのウガンに合わせてウカマでもウガンをする(二回)。ウカマに二ヶ所のウガン場所がある(石のみ)。一ヶ所は今帰仁グスク、もう一ヶ所は首里城とかタマグスク(稲の発祥地)とかの意見あり。
ウカマでのウガンが終わるとウカマから右手の道をゆく。(かつては、イベの前を降りて沢沿いにイリバンタへ出ていた)。神アサギへ。
神アサギの中で女性達がウタキに向かって祈りをし終わりをつげる。その後、直会が始まる。
【兼次のウガン】(旧暦9月15日)(崎山のヌルドゥンチ部分は略)

▲金満殿内に三々五々集まり揃ってウガンをする。 ▲公民館に集まったメンバー

▲女性のみイベへ ▲ウカマに待機し、イベと一緒にウガンをする

▲イベから戻った女性達と一緒にウカマ(二ヶ所)祈りをする▲戻りは別の道をとおる

▲神アサギでウガンが無事終えたことをウタキに向かって遥拝する。アサギマーで直会
※兼次は山手にあった集落がムラウチ(村屋敷)に移動した村(字)である。このウガンは中城ノロ
管轄の祭祀であることを今に伝えている。崎山のノロドゥンチに中城ノロ管轄の崎山・仲尾次・与
那嶺・諸喜田(現諸志)の神人(今は区長・書記)が集まって祈願をし、その後神人は自分のムラ
に戻りウガンをする。
大正の頃まで、中城ノロは崎山から仲尾次の神アサギ→与那嶺→諸喜田→兼次へと馬に乗って
各五ヶムラを廻ったという。(経路図略)
2018年10月22日(月)
大宜味村の言語調査に参加する。
2018年10月21日(日)
兼次の字誌を本格的に調査執筆にはいるため、兼次の踏査をすすめる。
兼次の字誌メモへ

▲兼次集落アガリバンタより ▲古島原?にあるミジグラ(水倉)


▲兼次にあった印部石(二基) ▲兼次ウタキのイベ(祠) ▲兼次ウタキの遠景
【口 碑】
兼次古島の水倉は、兼次なる前地頭代諸喜田福保の祖父に当る人即ち兼次大屋子が開鑿
したと伝ふ事である。
右兼次大屋子は親泊村てや門の次男であったが、兄(ボープスと言われた人)が番所の吏員
を勤め那覇で砂糖詰の勧業中辻で浪費して尠からぬ欠損欠損をしたので其の穴埋めのため
村売されることになり、弟は兼次大屋へ金八円で下男奉公する身になった。
彼は放浪者の兄に似ず甚だ勤勉倹素の人であったので主人人の認むる所となり遂に其の娘
を娶はせ一家を創設させた。是れ即ち兼次なる諸喜田家の始祖である。
彼は幼名をカマダと云ひ、位牌には兼次大屋子とあり、惣耕作当を勤めていたが、五十五歳
で逝去した。
(『先祖由来書並ニ系図』(てや門一門)より)
2018年10月20日(土)
今帰仁村兼次のウタキまでゆく。区長さんから豊年祭があり、来週ウタキまでウガンがあるので現場をみてほしいとのこと。(「兼次誌」の発行にむけての調査) 「山原のウタキや神アサギ」については、何回か書き綴ってきた。ムラ・シマを見ていく上で欠かせないキーワードである。
兼次のウタキをまわり、兼次の豊年祭を観覧。神奈川県川崎市から「沖縄の御嶽」の論文が送られてきた。興味深く拝読。ウタキや神アサギ調査を長年やりながら学ぶことが多くあり、100年近い研究がなされながら、その答えが見いだせないのは、それを究めていく方法(論)が間違っているのではないか。そんな疑問をもちながらウタキを見直してみたいと。それでウタキとイベは区別して考える必要がある。その時から祭祀は首里王府がいう「神遊び」(今で言う公休日)、農耕暦、そこでの祈りは税に関わる祈りだと位置づけてみている。そういうことは別して、兼次の古島にあるウタキと夕方からの豊年祭を拝見させてもらう。
ttp--yannaki.jp-asagi1.html 参照。
http--yannaki.jp-hiji1.html 参照

2018年10月18日(木)
今帰仁村で「村制110年の歩み」をテーマに講話を行う。以下の10近いテーマで「村政110年の歩み」を出来事(年表)と画像で報告します。特に「今帰仁村歴文化センター」が所蔵している戦前・戦後の文書(特に公民館資料)や写真をどう活用していくかの報告です。(まだ、骨子がまとまっていません)
▲昭和35年の新年のつどい(瓦葺き最後の役所)
2018年10月16日(火)
久しぶりに宜野座村と金武町の空気を吸いにいく。宜野座村はノロにまつわる伝承があること(喜界島のノロかと思ったが久高ノロでした)。ノロの話を宜野座村の方に発表依頼ができました。それと「やんばる学研究会」を宜野座村の博物舘で開催予定なのであいさつへ。
金武町は厨子甕の銘書の目視で判読困難。エックス線画像を利用する。職員達とアーではないか、コーは読めないかと。数カ所判読してみるが、まだ全体像が見えてこない。宿題。チーズ・田芋パイをいただき、東京から送られてきたお茶を飲みながら判読に困難をきたしている銘書に乾杯。
ムラ・シマ講座でシニグコースの一部をまわるが、今帰仁村のフプユミ・ワラビミチ、祭祀の名称は異なるが、類似した所作が見られる。それで2008年の湧川での祭祀の様子を流れでみる。
-今帰仁村のフプユミ・ワラビミチの調査記録(2008年学芸員実習)
2018年10月14日(日)
奄美について問われることが多々あり、また近々沖永良部島と与論島について触れる機会がある。記憶を整理しておくことに。奄美と琉球をつなぐキーワードに首里王府発給の辞令書とノロ・役人辞令書とノロ関係遺品がある。
2009年10月27日メモ
2009年10月27日奄美大島の宇検村名柄の「古琉球の辞令書」を所蔵されている吉久家を訪れた。辞令書だけでなく、玉や櫃や扇なども拝見することができた。辞令書を入れる箱に「吉久家 古琉球御朱印状 五通」とあり、五通が以下の辞令書である。
これらの辞令書は首里王府から発給されたものであること、1609年以前の古琉球の辞令書、そして同家に掟や目差の役職の人物(男方)の辞令書、それと「なからののろ」(名柄ノロ職:女性)の辞令書があることに注目している。それだけではなく、ノロ関係の遺品と見られる玉(勾玉や水晶玉(ガラス)、それを入れる櫃や扇などが遺されていることに注目したい。それだけではなく、①たらつゐはん(人物)→名音、②名音→名柄、名柄→阿木名、→名柄、あくにや→崎原へと、賜る領地?の変更がなされている。奄美の辞令書を見ると大幅な賜る領地の移動がなされている。ノロ(名柄ノロ)はもとののろのめいのつるが賜っている。
以下の五通の辞令書は名柄の吉久家の所蔵である。嘉靖あるいは萬暦の時代からの伝世品だとすると、同家でノロと掟や目差などの役人を出していることになる(他にも同様な辞令書の所蔵がある。例えば、今帰仁間切の中城ノロ家は9通の辞令書が戦前確認されていて、二通がノロ職補任、7通は掟や目差など男方への発給である)。
『女官御双紙』(1709年)に、「恵良部さすかさのあんし 馬氏国頭親方原行女揚氏敷名親雲上昌喜室」と出てくる。
「奄美・徳之島の辞令書」参照
①屋喜内間切の名音掟職補任辞令書(嘉靖33年:1554)
しよりの御ミ事
やけうちまきりの
なおんのおきてハ
一人たらつゐはんに
たまわり申候
しよりよりたらつゐはんの方へまいる
嘉靖三十三年十二月廿七日
②屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年:1556)
しよりの御ミ事
やけうちまきりの
なからのおきては
一人なおんのおきてに
たまわり申候
しよりより
なおんのおきての方へまいる
嘉靖三十五年八月十一日
③瀬戸内間切の阿木名目差職j任辞令書(隆慶5年:1571)
しよりの御ミ事
せとうちひかまきりの
あきにやめさしハ
一人
なからのおきてに
たまわり申候
しよりより
なからのおきての方へまいる
隆慶五年六月十一日
④屋喜内間切の崎原目差職補任辞令書(隆慶6年:1572)
しよりの御ミ事
やけうちまきりの
さきはるめさしハ
せんとうちひかの
一人
あくにやめさしに
たまわり申候
しよりよりあくにやめさしの方へまいる
隆慶六年正月十八日
⑤屋喜内間切の
名柄のろ職補任辞令書(萬暦11年:1583)
しよりの御ミ事
やけうちまきりの
なからのろは
もとののろのめい
一人つるに
たまわり申候
しよりよりつるか方へまいる
萬暦十一年正月廿七日
▲宇検村名柄の吉久家の前の辞令書の説明板 ▲吉久家の庭にある高倉
① ②
③ ④
⑤
※『女官御双紙』(上巻)に金丸加那志より阿母嘉那志へ賜わったものは何点もあり。四代先の阿母嘉那志の時(120年前)に不慮の
火事の時に焼失する。残ったのが、以下のものである。
・金の御髪指 一つは31匁に銘あり。惣長7寸1分、かぶの廻り7寸3分、かぶの上に鳳凰二つ飛ぶ。
台には雲形、かぶの裏はから草、くきも同断。
・玉かわら長4寸7分、廻3寸1分、水晶玉数100星、廻3寸7分完
※伊平屋阿母嘉那志が亡くなり、その子からは按司部位の席となるが、それでも三十三君の内である。その引き継ぎの様子が記されている。渡海して首里城内や首里御殿などで引き継ぎが行われている。その時、金丸王加那志より拝領した金の釵(カンザシ)や玉カワラをはかせらる。首里天加那志(王)の前で朝衣を着て、金の釵と玉カワラをはき、王様の前に三参し、御印判(辞令書)を戴く。
印判(辞令書)は新しく戴くが釵と玉カワラは前任者から引き継がれている様子がうかがえる。それからすると、各地に残っている釵や玉カワラは継承された伝世品とみれそうである。
また、「那覇の大あむ」について、「御朱印失脚して年月日は知らないが、二代の大あむより五代の大あむまでは御朱印を御賜る也」とあり、二代の大あむの御朱印(辞令書)を掲げてある。そこに明確に記されていないが、釵と玉カワラは前任者から引き継がれ、印判は新しく賜ったのであろう。
志よ里の御ミ事
なはの大あむハ
もとの大あむのめい


▲徳之島町資料館展示(手々ノロ辞令書) ▲ノロ遺品(丸櫃) ▲手々ノロの簪(2本) (資料館提供)
2018年10月13日(土)
「ムラ・シマ講座」のレジメの作成を急いで。原稿校正(400頁余)に追われ、今日の講座のレジメの準備を急いで。
前日の辺戸の遠見所に国頭村伊地の遠見所の画像が見つかったので追加)
2018年10月12日(木)
2010年に「烽火制と近世の琉球」として講義(沖縄の歴史)をしたことがあります。先島(宮古・八重山)の遠見台(遠見所)を踏査していたので、それらの遠見所をつないでの話でした。その時、まだ確認できなかった遠見所がありました。その一ヶ所が国頭村辺戸の遠見所でした。その頃、以下の情報を得ていました。「辺戸村の火番所」は未確認でした。ずっとひっかっていた辺戸の火番所。
環境庁の施設を管理されている武田氏の案内で現場まで。ありました。拝所となっていたが、「方位石」があり、「子と午」→が確認できました。立てられてられているが、方位をあわせ寝かせるともとに戻せるでしょう。一ポイントですが、それらを繋ぐと「沖縄の歴史」を面や実態としての描けそうです。(武田氏には現場までご案内いただきありがとうございました)
【下の画像は伊地の遠見所】(2009年撮影)
▲中央部にあるサークル ▲人口的な丸玉は方位に置いたもの ▲一番奥のサークル(ガジマル根部分)
①伊平屋島からのテイ火(たいまつ)は国頭間切辺戸村の火番所で受け、今帰仁間切の古宇利島でもうける。
②辺戸村の火立は国頭間切伊地村火番所でうける。
③伊地村火立は今帰仁間切古宇利村で受けて、本部と今帰仁間切の境の大嶺(具志堅との境)で受ける。
④古宇利村立所は本部・今帰仁境の大嶺原の火立番所で受け継ぐ。
⑤大嶺火立は伊江島火番所で受け継ぐ。
⑥伊江島火立は本部間切瀬底島火番所で受け継ぐ。又、読谷山間切でも受け継ぐ。
⑥瀬底村火立は読谷山間切番所へ受け継ぐ。
⑦読谷山間切火立は弁ガ嶽火番所で受け継ぐ。
⑧弁ガ嶽火番所から首里王府へ伝達される。
2010年
12月
29日(水)メモ
より
一年間の動き(調査記録)を振り返ってみることにしましょうか。
「正保国絵図」(
1646年)に「異国船遠見番所」と与論島と古宇利島の二ヶ所に記されている。烽火台が置かれたのは、それより二年前の
1644年のことである。烽火台が設けられたのは久米島、慶良間島、渡名喜島、粟国島、伊江島、伊平屋島、それと古宇利島と与論島にも「異国船遠見番所」がある。これまで訪れた遠見番所、火立所、火番所、火番台、火立森(ピータティファイ)と呼ばれる場所を手掛りに、各地の出来事を拾いあげてみる。まずは、目の前にあるアルバム(宮古多良間島)から。「烽火制と近世の琉球」として講義(「沖縄の歴史」)をしましょう
(かき集めてみます)。
【沖縄本島】
・御冠船や帰唐船の場合は一隻の時は一炬、二隻の時は二炬を焚く。
・その他の異国船の場合は三炬を焚く。
【両先島】
・地船と唐船は立火二つ
・大和船が三つ
・異国船は四つ
(昼間は立煙のみで合図)
『球陽』(
1644年)に「始めて烽火を各処に設く」
本国、烽火有ること無し。或いは貢船、或いは異国の船隻、外島に来到すれば、只、使を遣はして、以て其の事を稟報
するを為すこと有り。今番、始めて烽火を中山の各処並びに諸外島に建つ。而して貢船二隻、久米・慶良間・渡名喜・粟
国・伊江・葉壁等の島に回至すれば、即ち烽火二炬を焼き、一隻なれば即ち烽火一炬を焼く。若し異国船隻有れば、即
ち烽火三炬を焼き、転次伝へ焼きて、以て早く中山に知らしむるを為す。
【沖縄本島北部西海岸の遠見台】(2009.7.7/7.13)
【
粟国島の遠見台跡と番屋】
(2007.11.11)
【宮古の遠見台】
(報告済み)
【伊是名の遠見台】
(報告済み)
【波照間島の遠見台】
【黒島の遠見台】
(報告済み)
【竹富島の遠見台】
(報告済み)
【渡名喜島の遠見台】
(報告済み)
【
座間味島の番所山】
(2007.
11.
25)
.
【古宇利島の遠見台】
(報告済み)
【伊江島の遠見台】
(報告済み)
【与論島の異国船遠見所】
(報告済み)
【宮古多良間島の遠見台】(報告済み)
多良間村は宮古島と八重山島の中間当りに位置する島である。島に渡ったのは
21年前のことである。島には八重山遠見台と宮古遠見台がある。多良間島近海への遭難を掲げる(一部)が、遠見番も関わったであろう。
・福建省泉州府の人達21人が多良間島に漂着。翌年2月宮古島へ送られる(乾隆32年:1740)
・乾隆21年(1756)異国の小舟(3人)が漂着し、7月5日に宮古へ送り届ける。
・乾隆32年(1767)沖縄本島から宮古、八重山での御仕置のためやってきた役人が
暴風にあい行方不明。
・乾隆51年(1786)1月7日水納島へ唐船が漂着破船する。乗組員25人で同月4日宮古島へ。
・嘉慶17年(1812)八重山島定番船が下島の際多良間島で破船し、乗組員は宮古島を
経て八重山へ。
・嘉慶18年(1813)八重山御米槽船が多良間島で破船し、御物穀(穀税)は潜って引き揚げて
宮古島から沖縄島へ送り届けられた。
・嘉慶19年(1814)八重山の飛船、久高丸が多良間島で破損、御物穀は潜って引き揚げ宮古島を
へて王府へ届けられる。
・嘉慶19年(1814)朝鮮人5人が多良間島に漂着。
・多良間に異国船一隻、漂着す(1840年)
・多良間に異国船一隻漂着す(1844年)
・多良間にオランダ船来航す(1857年)(高田浜の顕彰碑)
・日本奥州の人、多良間に漂着する(1859年)
・多良間よりの上納運搬船漂流する(1873年)
【多良間往復文書控】(『多良間村史』第2巻 資料編
Ⅰ「王国時代の記録」所収)がある。その中に「遠見番の報告」(明治
16年正月
18日~7月
13日、明治
20年3月~
19年)がある。同書の解説されているように遠見番がどのような報告をしていたのか非常に興味深い。遠見番の報告(明治
16年正月
27日~
2月
6日)の例。
明治
16年正月
27日 己酉曇天風寅之丑之方時々小雨降
同
28日 庚戌曇天風子丑之間
同
29日 辛亥曇天風子丑之間
二月朔日 壬子曇天風寅卯之間
同 2日 癸丑晴天風辰己之間
一 火輪船壱艘四ツ自分申酉之間より走出前之沖より宮古島之様走通候事
同
3日 甲寅曇天風子丑之方時々小雨ふり
同
4日 乙卯曇天風丑之方時々小雨降
同
5日 丙辰曇天風寅之方
同
6日 丁巳曇天風丑寅之間七ツ時分より雨ふり
2018年10月11日(水)
2014年に国頭村比地の遠見所を訪れている。一度目は「伊地誌」をスタートさせるので、遠見所を見てもらいたいとのことで(郷友会)。遠見所は伐開してあるのでと。
三度目だと思うが、遠見所の三ヶ所の石囲いのあることを確認。その時、真ん中の石囲いに大蛇(アカマター?)が。それ以来行っていない。大まかな実測もしたような。ノートと画像を探してみるか。
台風で草木がなぎ倒され、遠見所まで行くことができ、果たしていた風景が見れるのではないか。比地の遠見所は来週あたりに。今日は、国頭村辺戸の遠見所へ。確認できるか?
【伊地の古墳と遠見所】
伊地の古墳がどれなのか特定することはできなかった。現在の墓地にある、あるはあったのであろうが。『沖縄県国頭郡志』にはないが、『国頭村史』(303頁)に伊地の銅山について「伊地の屋取には明治初年のころ安谷屋・渡名喜などの居住人が住みついて藍を造り、その中から後に尚家の鉱山経営の事務をとるものが現れたが、鉱山経営の不振で大部分が那覇に帰っていった」とあり、他に資料がないか、あるいは当時の様子を確認してみたいものだ。
笹森儀助は明治26年6月18日に伊地の「鉱山事務所」を訪れている。『南島探験』に「当銅山は、去る24年5月借区許可を得、坪4万4117坪となす。創業より本年5月迄、総入費金8116円71銭8厘と云う。
工夫 一人一日の給金32銭以下12銭に至る
昨25年6月より12月に至る諸調以下に、
諸入費 1931円
鉱業工夫数 2559円
此出鉱高 1552貫目
製銅高 3557斤
此対価 533円55銭
役員 4名 小使 Ⅰ名
売先地は大阪とす
上概計は、該事務所より請い得たるものとす
坑内状況一班「レール」を以て、礦石を運搬せる
▲伊地の遠見台に大蛇 ▲尚家の銅山の跡?
2018年10月8日(月)
どれから進めようか。数件のデジメや参考文献の整理に追われている。「村政110年の歩み」の講演ももあるな。台風の後片付けでパソコンの前に座れず、また節々が痛く、目がかすれ、目の前のことから・・・・。逃亡中! 国頭村の遠見所の確認調査もあるな。
2018年10月4日(木)
大正11年4月「土地利用及開墾事業参考資料 開墾地移住経営委事例」(農商務省食糧局)として「今帰仁村呉我山開墾地」が揚げられている。字呉我山の成立(大正9年)の直後の史料なので掲げる。
[呉我山開墾地](大正11年)
開墾地所在 沖縄県国頭郡今帰仁村字玉城西アザナ原、字天底古拝古呉我
経営者 伊波興延 外二名
甲、開墾地概況
(一)開墾の沿革並其ノ成績
開墾地ニ於ケル同所ハ雑木雑草ノミニシテ林木仕立替培養スルモ優良ナル材木ヲ得ルハ数十年後ニアラザ
ルハ不可能ノ状況ニアリタリ然レトモ該林地ハ土質地勢良ク農作物ノ栽培ニ適シ之ヲ開拓シテ甘蔗、甘藷、山
藍ノ栽培ヲナスニ於テハ少カラサル収益アルヲ認メ以テ開墾ニ着手スルニ至シリ而シテ村内ニ於ケル三小学校
ハ設備不完全ニシテ生徒ハ毎年増加シ為ニ増築其ノ他ノ経費少カラサル開墾ノ許可ヲ得テ小作人ヲ移住セシメ
其レヨリ生スル小作料ヲ以テ小学校経費ニ充当シ以テ村費ノ負担ノ減少ヲ計ラントシタリ
甘蔗、甘藷、藍ノ栽培盛ニシテ成績良好且其ノ目的ヲ達シツツアリ
(二)土地利用ノ概況
(イ)開墾前ニ於ケル土地目別面積及利用方法
地目 山林
面積 二一〇町歩
(ロ)開墾前ニ於ケル土地ノ地目別面積及地価、価格、作物ノ種類、収穫量、肥料ノ種類及用量
開墾前ハ主ニ樫木ノ仕立テヲナシ御殿ノ御用木ニ充テ叉ハ村ノ甘蔗圧搾車用材ニ充用シ来リタルモ其ノ数
微々タルモノナリ
土地ノ地目別面積及地価、価格
田
畑
山林
宅地
雑種値
作物ノ種類及収穫量
甘蔗 甘藷 山藍
肥料ノ種類及用量
大豆粕 厩肥 大豆
(三)副業ノ状況
副業主トシテ養豚業盛ニシテ周囲ハ凡テ山林原野ニシテ雑草繁茂スルヲ以テ牛ノ飼育叉盛ナリ
乙、
(一)移住ノ沿革並其ノ成績
地質地勢良ク甘蔗、甘藷其ノ他ノ作物ノ栽培ニ適スルカ故ニ之レカ開拓ヲナシ農産物ノ増収ヲ期セシカタメ開墾ノ許
可ヲ得テ移住ヲナサシメタル」モノナリ諸作物ノ収穫高他ニ比較シ頗ル良好ナルヲ以テ漸次移住者現住者現在ノ如キ
多数ヲ見ルニ至レリ
(二)移住者戸数及人口
戸数 六七戸 人口 三三七人
前住地別村内 戸数 五〇戸 人口 三三七人
・本部村 一五戸 六八人
・首里 二戸 一二人
(三)移住者招致ノ方法
招致ニ付特ニ方法ヲ設ケサルモ一坪ニ付壱銭以内ノ小作料ヲ徴収シ移住セシメタリ
(四)移住者の待遇
(イ)土地の割当方法並其ノ成績
開墾地ヲ各字ニ割当村ハ各字ヲ持テ割当ニ対スル小作料ヲ納付セシメ其ノ字ニ於テ小作人ノ所要ニ応ジ
開墾ヲセシメタリ其ノ成績ハ土地ノ割当方法ノ取扱煩雑ナラサルカ故比較的良好ナリ
(ロ)土地ノ貸与叉ハ譲渡ニ関スル既定並其ノ成績
小作人他ニ転居スル場合ハ相互ニ其ノ作物ノ価格ヲ買償シ権利譲渡ヲ為シ之カ管理ハ各字ニ於テ為シ居レリ随テ
小作料ノ欠損等ヲナス事ナク滞納ノ居キ支障ヲ生セス


▲今帰仁村呉我山の地形図
※現在の呉我山は天底村の古拝原と古呉我原、玉城村から西アザナ原を分割
2018年10月3日(水)
台風の片付けに追われている。片付けが終わないまま、台風25号が追いかけてくる。「寡黙庵」のヒンプンや芭蕉が倒れる。屋敷の木々が強風で吹き飛ばされ、それと葉が塩害で落下。二、三日追われます。
2002.6.4(火)メモ
今泊の五年回りの豊年祭のとき、今帰仁ノロ家(ヌンドゥルチ)の庭と集落のオーレーウドゥン(阿応理屋恵御殿)の祠の前で奉術と踊りの奉納演舞が行われる。オーレーウドゥンの火神(ヒヌカン)の祠の中に古い位牌が二基ある。形式としてはガーナーイーヘー(「冠部の飾りが前傾していて側面から見ると首の細長い鳥を連想させる」『沖縄の祖先祭祀』平敷令治著)である。一基の表に「帰一瑞峯□祥大禅定門霊位」、裏面に「順治十五年戊戌六月二拾九日去」と彫られている。順治十五年は西暦1658年で「禅定門」とあることから男性である。
年代としては、北山監守一族が今帰仁グスクから城下に移り住んでいる頃である。七世の従憲のときに首里に引き揚げる(1665年)ことから六世の頃の人物かと思われる。『具志川家家譜』に六世縄祖「今帰仁按司童名鶴松金名乗朝徑号瑞峯行一万暦二十九年辛丑生順治十五年戊戌六月二十九日卒享年五十八」とあることから、この位牌は六世縄祖のものとみて間違いなさそうだ。
また、運天にある大北墓(ウーニシバカ:按司墓)に葬られている石棺陶棺の一つに「宗仁公六世曽孫今帰仁按司童名松鶴金…」の銘書がある。それは六世の縄祖である。するとオーレーウドゥンの位牌・具志川家の家譜・大北墓(石棺陶棺)とつながってくる。そして縄祖は今帰仁按司で今帰仁グスクから城下に降りていった人物である。位牌に書かれた文字の判読から、今帰仁按司を勤めた人物の一人六世縄祖、人物の墓と位牌へとつなぐ事ができた。今でもオーレーウドゥンの火神の祠であるが、アオリヤエだけでなく、今帰仁按司との関わりも見えてくる。もう一基の位牌は文字の判読ができていないが、今帰仁按司クラスの人物と見てよさそうである。
位牌の紐解きから一人の人物へとつながった。さらに今帰仁グスクのハタイ原にある今帰仁阿応理屋恵火神の祠へと連動させることができる。今帰仁の歴史の展開に重要な役割を果たす位牌になりそうである。
今帰仁阿応理屋恵と北山監守で紹介。
2018年10月2日(火)
台風の混乱の中、帰郷する。夜中に帰ってきたので外の様子がわからず。停電が続いていたようで、やっとお湯が使えるようになったと苦言。「寡黙庵」もどうなっているか。後片付けから。いくつかの宿題を持ち帰る。ホテルから会場まで地図で近い距離だと思っていたが、二度も尋ねる。交番で「近いがきつい坂ですよ」と。足を引きづっている初老の姿をみかねたのでしょう。近々に「脳」の検査をしてこないと。
10月がスタート。