2011年7月15日(金)
企画展(平成23年度)―ノロ制度の終焉―
展示概要(案)
・ノロ制度の概要
・琉球王国の版図とノロ制度(16世紀)(全体図)(奄美~八重山)
・『琉球国由来記』(1713年)のノロと管轄村(ムラ)(全体図)
・今帰仁阿応理屋恵の(祠・扁額・勾玉・草履・水晶玉・写真・戦前の記録など)
・ノロ関係辞令書と遺品
・沖縄本島北部のノロ家(ノロドゥンチ跡)
・ノロ制の廃止へ(明治以降の変遷)
・ノロ継承に関わる史料(中城ノロ、玉城ノロ、塩屋ノロ、その他)
・ノロ家の位牌と墓
・ノロが関わる祭祀
・ノロ家の遺品(勾玉・カンザシ・衣装など)
・ノロが関わる祭祀(与那・中城・汀間・具志堅など)

(略)
【社寺禄処分の経緯】
・明治12年4月琉球藩が廃止され沖縄県となる。
・社寺の外に琉球には御嶽の拝所が各村にある。
・ノロクモイと女官(300名近い)がいる。
・ノロクモイは王府から役俸が給与されている。
・琉球独自の宗教形態をなしている。
・御嶽信仰は人々の精神的拠り所となっている。
・御嶽の拝所は直接地元の人々の対象となっている。
・ノロをはじめ神人は祭祀の指導者となっている。
・ノロは王府から役地としてノロクモイ地を給与されている。
・ノロクモイ地からの収益が神人の役俸となっている。
・廃藩置県により旧制度の禄制(知行・家録)の廃止へ
・明治12年10月6日有禄者処分方に関し、士族へこれまでの家禄高□米を更に賜給され
たい旨の伺いをする(内務卿伊藤博文、大蔵卿大隈重信へ鍋島県令から)。
・明治13年になっても指令がないため、明治13年5月、先の士族禄高に加えて社寺録も
加えて開申。
・明治13年8月3日内・蔵両卿から指令
(国と県とのやりとりがあるが略)
・明治13年8月25日の上伸に対して、ノロ以下の役俸は旧藩の現収高により給与すべき旨
の指令(内・蔵卿から:明治14年9月12日)
・・・純然たる社寺禄なるものに非す因ては聞得大君始社寺及ノロクモイ以下の・・・明治13年分
より更に石代渡に換へ同年分より・・・向ふ五カ年間据置六ケ年目以降五ヶ年間はその元額に
半減にして逓減給与に・・・・
一、各ノロクモイ以下の役俸は即今之現収高に依拠して石代給与するものとす
一、恩納ノロクモイ始十三人之分現収高既に減殺せし今日に在れては更に廃給のものとして
制外に附すべきこと
・社寺禄は明治18年から逓減し、爾後五ヶ年で減す制を採用する。
・明治16年岩村通俊処分官の赴任により、すべてを旧慣に戻す方針に変わる。
・士族の禄高に対して五ヶ年金禄据え置き、その後国債証書の交付により一時処分の法は中止となり、
金禄のまま据え置くことになる。
・社寺禄の逓減処分法に対しても、旧慣に戻し、社寺禄となる。
・奈良原繁知事になると、その方針を変更し政府の原案であった国債証券による一時処分が
建議される。
・「旧慣地方制度」(明治26年)
ノロクモイ交代の節は願書番毎方へ回送の事
ノロクモイ地(沖縄旧慣地割) 県史21 155
有税・旧藩租税法の通り・売買の禁止・耕作地(自作叶掛・自作j浮掛、百姓地に同じ)・耕作
の種類(米の外20種、米麦、粟など)地割の慣例なし・金融の抵当禁止など)
是は郷村の吏員及神官等の役地にして置県以後該吏員神官等は別に定める処の役俸
を以て支給せらると同時に
該役の関係を離れ其の耕作人の作地となりしこと旧地頭の如し
・明治39年7月3日奈良原知事から大蔵大臣坂谷芳郎、内務大臣原敬に提出される「沖縄
県金禄処分法案」
・明治36年「沖縄土地整理法」
第二条 村の百姓地、地頭地、オエカ地、ノロクモイ地、上納田、キナワ畑にして其の村に
於いて地割せる土地は地割により其の配当を受くべき者の所有とす。但し其の配当を受く
べき者多数の協議に依り、此の法律施行の日より一ヶ年以内に地割替えを為すことを得
第九条 ノロクモチ地にして村持ちとならざるものはノロクモイとして、占有を得たる者は又
は其の権利を承継したる者の所有とすその中に「沖縄県社寺禄処分法案」)。
・明治43年に「沖縄県諸禄処分法」が発令される。
【ノロクモイ地の処分方法】(明治31年)の方針
(1)村に於いて有するノロクモイ地
(イ)旧藩来有するもの
(A)地割せるもの
(B)浮掛せるもの
(C)売買交換質入せるもの
右百姓地の例に依り処分す
(ロ)藩置県後村に於いて有するもの
(A)君南風(のろの首位に居るもの)ノロクモイは置県の後、上納物高きより
村に返し村に於いて地割せるもの(久米島)右百姓地同様処分す
(B)置県後ノロに於いてノロクモイ地耕作し、能はざるより村へ返し、村はノロ
の食料に相当の地所を永久に与え其の貢租公費を村に於いて負担せるもの
右ノロに与えたる地はノロ所有となし地は百姓地同様の例に係る
(2)旧藩来ノロの有するもの
(イ)ノロの世襲のもの
右ノロの所有とす
(ロ)ノロの後任者はノロ家一族の中よりユタの占に依り定めたるもの
右ノロ一族の共有とす
(ハ)ノロが出嫁するときはノロ地の収益の一部は自己に収入し、他は本家に収入
し、ノロ職は依然之を襲ひ死亡のときは本家へ復帰せるもの(佐敷間切)
(ニ)ノロ地を売買質入叶掛せるもの
右は百姓地同様の例に依り処分す
(3)阿応理恵按司の有する阿応理恵地はノロ地同様処分す(今帰仁間切)
※土地処分法が徹底していず、また周知されていなかったためノロ地の継承に
様々な問題を起こしている。
【県社・村社建設理由書】(明治43年)、
(工事中)
【神社建立とノロクモイ】(『琉球宗教史の研究』より)
・明治末に神社と寺院の改革はなされる。御嶽拝所、関連する女神官の禄制の改革はなされる。
・御嶽拝所は直接地元と信仰として直接結びついたものであった。
・御嶽拝所が低級なものとして廃止することはきなかった。神社にするには御嶽拝所の本質的な
究明が必要。
・御嶽拝所が神社と同一の性質のものであるかどうか、当時疑問とされている。
・御嶽拝所を村落の神社とするには数量が余りにも多い。
・御嶽拝所の形態があまりにも原始的で神社として整備するには困難であった。
・女神官の処分も不可能で禄制改革までは行われた。
・往々正式の神社にまで引きなおし、彼女達(のろくもい)も正規の資格を持つ神職に更迭して
いく方針。
・諸禄処分によるノロ・大阿母等の国債証券は、拝所の維持管理資金とし、神社引き直す際
の備えとした。
・国債証券と端数の現金の預入通帳は区町村長が保管、利子のみノロに祭祀及び維持保存
費として手渡す。
・明治末に御嶽拝所並びに女神官の処分の方向を明示する。
・ノロの相続はこれまで通り、旧慣により知事の認可を得て継承。(以下に例)
ノロクモイ承継願
島尻郡兼城村字照屋壱番地
照屋ノロクモイ前役金城カメ三女
承継人 金城ヨシ 明治拾参年八月五日
右ハ母金城カメ死亡ニ依リ照屋ノロクモイニ承継為致度候条何卒御認可相成度此段奉願候也
大正二年二月十三日
右戸主
願出人 金城 亀 印
島尻郡兼城村字照屋百四番地
親戚 金城 次郎 印
仝郡兼城村字照屋五拾五番地
親戚 金城 徳慶 印
仝郡兼城村長
大城 虎造 印
仝郡兼城村字照屋区長
金城 牛 印
沖縄県知事日比重明 殿
(工事中)

(工事中)
恩納間切は1673年に金武間切と読谷山間切の一部をとって創設された間切である。現在の恩納村である。ノロと関わる管轄村や祭祀を見ていく場合、間切時代まで戻した形で考える必要がるため、ここでは恩納間切のとしている。『琉球国由来記』(1713年)に登場するノロは、恩納巫(ノロ)・真栄田巫・山田巫・安富祖巫・名嘉真巫である。ノロは巫や祝女やのろこもいなど、表記はいくつも出てくる。ここではノロあるいはヌルと表記する。のろくもいと記すこともある。ノロは複数の村(ムラ)の祭祀を管轄している。
・恩納ノロ・・・・・・・恩納村
・真栄田ノロ・・・・・真栄田村・(塩屋村)
・山田ノロ・・・・・・・山田(古読谷山)村・富着村
・安富祖ノロ・・・・・安富祖村
・名嘉真ノロ・・・・・名嘉真村
事例―恩納のろくもい
恩納村(ムラ)は1673年以前は金武間切の村の一つであった。恩納ノロに関する古琉球の辞令書と近世初期の辞令書二枚が写真で残っている(『補遺伝説 沖縄の歴史』島袋源一郎)。一枚は万暦12年(1584)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書(1584年)、もう一枚は順治15年(1658)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書である。まだ恩納間切が創設される以前である。そのため「きんまきりの」(金武間切の)となっている。また年号に干支が書かれない最後の辞令書である。翌順治16年の辞令書から干支が記されるようになる。
しよりの御ミ事 首里の御見事
きんまきりの 金武間切の
おんなのろハ おんなのおろハ
もとののろのくわ □□□□□
一人まかとうに 一人□□□□に
たまわり申候 たまわり申候
万暦十二年五月十二日 順治十五年七月廿八日
明治36年頃の恩納ノロのノロ地(田畑など)は以下の通りである(『恩納村誌』)。
・畑(赤間原)1200坪 ・田(屋嘉下り口)700坪 ・畑(先原)1200坪 ・田(ウチノウラ)400坪
・田(伊場)750坪 ・田(当袋)600坪 その他
[明治43年の作得]
作得表高 米1石2斗5升4合 雑穀 9斗7升
雑穀9斗7升
現収高 (ナシ)


▲恩納ノロの辞令書(1584年) ▲恩納ノロの辞令書(1658年)
【中城ノロクムイの引継の難渋】

神職禄高役俸調(明治14年)(各間切各島のろくもい役俸)(『沖縄県史』12 沖縄県関係各省公文書1)所収と「諸録処分によるノロクモイの社禄の給与額を掲げる(諸録処分による社禄調表『琉球宗教史研究』所収)。
事例―中城ノロドゥンチの遺品】
中城ノロ家の辞令書は10点確認(但し、現物は戦争で焼失)(二枚が写真で残る)
「城間系統日記」(宮城仙三郎:1950年5月6日))には11点とある。
①与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42年:1562)
②浦崎目差宛て辞令書(万暦14年:1586)
③玉城の大屋子宛辞令書(万暦20年:1592)
④中城ノロ職叙任辞令書(万暦33年:1605)
⑤与那嶺の大屋子叙任辞令書(万暦40年:1612)
⑥与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇禎16年:1643)
⑦中城ノロ叙任辞令書(隆武8年:1652)
⑧本部目差叙任辞令書(順治13年:1654)
⑨西目差叙任辞令書(康煕3年:1664)
⑩上間大屋子叙任辞令書(寛文7年:1667)



