沖縄の地域調査研究

寡黙庵:(管理人:仲原)   今帰仁村歴史文化センター

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2021年5月30日(
 
 山原(やんばる)の村やウタキやグスクや神アサギなどを踏査してきた。机上の議論もするが、現場で感じとったことを画像と活字で記録してきた。コロナ禍の社会状況は、過去に歩んできた戦時下の様相である。国外や沖縄本島外に体力的に足を運ぶことはできないが、過去の画像と記録で鮮明に浮かんでくる。羽地間切(現名護市)には同村がないが、羽地間切へ繋がる「まはねじ」はおもろや1622年と1625年の王府発給の辞令書で登場する。羽地按司家は、惣地頭は池城御殿が継いでいる。間切と同村名はないが、羽地グスクは田井等村地内にあったが1750年頃、田井等村を分割し、親川村を設置される。羽地グスクは親川村地内にあり、そのことから親川グスクと呼ばれる。



 親川グスクは羽地グスクとも呼ばれ、現在の名護市親川にある。18世紀中頃、親川村(ムラ)は田井等村と谷田村の一部をとって成立したという。親川グスクは丘陵の頂上部にあり石積や土塁がみられる。最頂上部に人工的な石積みが見られ、イベの石がある。

 親川(羽地)グスクのある場所は親川であるが、『琉球国由来記』(1713年)の頃は田井等村のうちである。『琉球国由来記』に田井等村にオシキン嶽の御嶽はあるが、親川(羽地)グスクを直接記されていないが、池城里主所神と池城神アシアゲとあり、間接的にグスクの存在を示している。

 親川(羽地)グスクをめぐる祭祀をみると、羽地間切の祭祀は仲尾村(仲尾ノロ)が中心となっていて、海神祭のとき、羽地間切の中(仲)尾・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ巫(谷田村)・源河・伊指(差)川のノロが仲尾村の神アシアゲと池城(羽地グスクとみられる)神アシアゲで行っている。そこに羽地間切領地とする惣地頭も参加している。18世紀中頃、親川村の創設がなされたため行政村との対応が複雑になっている。

 逆に祭祀親川村の創設(田井等村と谷田村の一部)と谷田村の川上村への統合がなされるが、行政村の創設や統合がなされるが、祭祀は村の統合や分立以前の姿を踏襲しているのではないか。羽地グスク一帯を行政村と祭祀の関わりで見ていく必要がありそう。そこでも、祭祀は村の創設や分離があっても一体化しないという法則がそこでもみることができる。

 羽地間切の羽地の名称、それと羽地間切に同村名の村がないことなど、解き明かさなければならない課題がいくつもある。

   ▲羽地(親川)グスク          ▲親川城址碑


   ▲池城神アシアゲか       ▲池城里主所神か(羽地グスクにある)


      ▲親川(羽地)グスク内にある石積やイベか


▲羽地(親川)グスクからみた番所跡地(中央の杜)▲グスクの手前のカー


2021年5月29日(土)

 「寡黙庵」のホウラいカガミの花にオオゴマダラがやってきた。ミニトマト、何年ぶりかレイシが実る。ちょっと色づいた数個、革を向いて食べてみた。うまい、うまい。

   
 ▲やってきたオウゴマダラ         ▲何年ぶりか実ったレイシ 


200987日(金)記録

【移動村が故地に遺していったもの】(1736年に移動した呉我村)

 今帰仁村に呉我山がある。呉我山の地は現在名護市呉我の故地である。1736年に蔡温の山林政策で現在の今帰仁村呉我山から羽地間切の地に移動した(方切)。その地は複雑な動きをしている。1600年代の前半まで今帰仁間切、1690年頃その地と村は羽地間切へ。1736年に一帯にあった振慶名村、我部村、松田村、桃原村、呉我村を同じく羽地間切の内部と屋我地島へ移動。移動させた後地を今帰仁間切の地とした。そこに1738年湧川村を創設した。(村移動はまだしていない。村移動は1736年である)。
 ・『絵図郷村帳』(1644年)  今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
 ・『琉球国高究帳』(1648年) 今帰仁間切ごが村・ふれけな村・まつざ村・がぶ村
    1690年頃 間切の方切があり、ごが村域は羽地間切に組み込まれる)
 ・『琉球国由来記』(1713年) 羽地間切呉我村・振慶名村・我部村・(松田村と桃原村は出てこない)
     (この時期、村移動はまだしていない)
 ・1736年に羽地間切内にあった呉我村をはじめ、他の村を羽地間切地内へ移動させる。
  移動させた地を再び今帰仁間切とした。
 ・1738年に新設された今帰仁間切湧川村、羽地間切我呉村のあった地は今帰仁間切天底村となる。
 ・大正9年に字呉我山(天底・玉城・湧川の小字の一部からなる)が創設される。

 現在の今帰仁村呉我山は大正9年に新設される。その時、字天底から三謝原(シイナ)・古呉我原・古拝原、玉城から西アザナ原、湧川から中山原をして呉我山とした。呉我山の小字の古呉我原や古拝原名に移動する前の村の痕跡をとどめている。三謝原にあるシイナグスクを考えるには、1738年新設の湧川村ではなく、移動する前の近隣にあった呉我村(現在の呉我山)や振慶名村(現在の湧川の鎌城原、振慶名村の故地)との関係でみる必要がありそうだ。(我呉村が移動した後地に住んでいる呉我山の人々のほとんどが寄留人である)。昭和17年の
 故地に遺されたのに地名がある。呉我の故地に「呉我山」「古拝原」「古呉我」などの地名が遺されている。呉我山から移動してきた呉我の人々は旧暦五月に故地の屋敷跡や拝所、アシヤギ、堤泉、神泉の跡地などを参拝している(『呉我誌』)。1736年に呉我村が移動した後の史料で「古呉我山」や「古呉我」など、故地を意識した地名となっている。(土地分筆地形図30枚あり。昭和17年:村長島袋松次郎)村有地の払い下げ))

 『琉球国由来記』(1713年)に出てくる呉河(我)村・振慶名村・我部村・松田村は、移動する前の故地における拝所である。それらの村は我部ノロの管轄で、村移動後も変わることなく継承されている。 大正9年に行政村となるが、神アサギの設置や祭祀を行う必要なくなった時代である。


2021年5月28日(金)

 本部町の伊野波と渡久地に目を向けるのは、1666年以前、今帰仁間切の内だったこと。間切が分割される以前の今帰仁間切の番所(バンジョ)はどこにあったのか。そして分割直後は伊野波間切、すぐに本部間切と改称された。伊野波間切の同村は伊野波村であり、そこに番所が置かれた見られる。年代は不明だが、番所は渡久地村へ移動されている。『琉球国由記』(1713年)のカナヒヤ森の麦穂祭、麦稲祭、稲穂祭に惣地頭が関わっている。番所が移転しても按司や惣地頭は領地とする同(伊野波村)の祭祀と関わる。惣地頭が伊野波間切からの租税(米や麦)を賜っていることへのお礼だと見ている。間切の新設と主(同)村と祭祀
の関係を見ていく事例の箇所である。

 『琉球国由記』(1713年)で「具志川・渡久地二カ所村」とあるので、渡久地村が具志川村から分立しているので、その前に番所が伊野波村から渡久地村へ移転しであろう。(大宜味のj例参照)

2005.09.24(土)過去記録

 
並里から満名川をくだり、渡久地のマチ、さらに渡久地港(谷茶)までゆく。渡久地の港には朝早くから漁師?達が自分の船の確認や漁具の手入れ。「今日は海(漁)にでれるか?」と漁師同志で出漁できるかの予報。9時過ぎ、漁師たちは自転車で自宅へ。漁にでることが出来ると判断した表情であった。

 船の発着場やセリ市周辺の雑然さ、そして漁港独特の匂いがあいまって港マチの風情がある。山原で港が発展させたマチは本部町渡久地のみでないか。

 
『元禄国絵図』の本部半島を見ると渡久地港から伊野波村にかけて奥深く入り込んでいる。そのことは沖縄の古琉球(16世紀初頭)から近世にかけての集落や村(ムラ)移動と関わっているに違いない。グスクが高い場所にあり、そして集落が高い所から低地に移動している。集落の移動が何回かある。集落移動の手掛かりとなる所だと考えている。


 『元禄国絵図』に記された情報は、以下の通りである。元禄は16731704年であるが、この絵図の間切区分などの情報は1666年以前である。
    ・入り組んだ絵図
    ・今帰仁間切之内によは村
    ・今帰仁間切之内あめそこ村
    ・今帰仁間切之内瀬底島
    ・満汐時ニ舟渡リ
    ・遠干潟


『元禄国絵図』の一部
 
 それらを頭に入れて本部町の渡久地港、そして満名川沿い(かつての干潟)を辿ってみた。入江になった沿岸には具志川村(近世に渡久地村と浜元村へ)・伊野波村・満名村・並里村があった。並里(満名)にジューフニモーがあり、造船所だという。満名川を遡流し、舟の修理や造船などと関わる痕跡を地名に残している。

【本部町並里(満名)をゆく】

 今帰仁グスクから伊野波村(ムラ)へ抜ける道筋は北山の歴史的な道であった。今帰仁間切が現在の本部町を含む範囲を占めていた時代、今帰仁按司や人々が海路で首里王府へ向うのにとるコースの一つだった。今帰仁グスク→伊野波村→渡久地港→(海路)→泊・那覇港→首里王府。陸路にしても伊野波村から伊豆味村の山越えで名護間切へ。さらに金武間切(後に恩納間切)の村々、読谷山、さらに北谷間切・宜野湾間切、浦添間切、首里へと。番所と番所をつなぐスクミチ(宿道)であったことがある。

 1666年に今帰仁間切は分割され今帰仁間切と伊野波(本部)間切と二分される。今帰仁間切は運天に、本部間切は当初伊野波村(伊野波の神社付近)に、後に渡久地村に番所を置いた。

 「伊野波は寛文六年伊野波間切新設当時の主邑にして諸船の碇泊地なき。その前方に
  古歌に名高き伊野波小坂あり今は間道となれり。…の北方字並里にジューフネとい
  へる地名あり。是れ造船(ゾウフネ)の転訛にして古への造船場の跡なりといふ。之を
  以て満名田圃は即ち昔時の港湾なりしを知るべし(『沖縄県国頭郡志』411頁)。


       ▲並里のジューフニモーから満名田圃跡地をみる


▲「じゅーふに」(造船)公園 ▲並里の神アサギ、後方はウタキ


  ▲ウタキのイベに香炉が置かれている ▲満名田圃跡に田芋が栽培されている

 ▲満名川沿いは、かつては水田地帯   ▲満名川の下流域(渡久地のマチ) 


2021年5月27日(

2005.09.24(土)過去メモ

  間切と主(同)村と祭祀、按司地頭・惣地頭、脇地頭がどの祭祀と関わりっているのか。首里王府と間切、祭祀との関わりの柱は、地方間切の統治が、米や麦などの祖税の収納の手続きの形態と見なされる。その原稿の編集にかかる。約90ページ。

田港(大宜味)間切の新設と主(同)村と祭祀

 大宜味が間切として設置されたのは1673年(尚貞王5年)であった。以前は羽地間切と国頭間切に属していた。羽地間切から平南村と津波村の二ヶ村と国頭から十一ヶ村(屋嘉比・城・根謝銘・喜如嘉・饒波・大宜味・根路銘・塩屋・屋古・前田・田港)をさいて間切を創設した。田港間切と称した。同じ頃に、久志、恩納、小禄、本部、美里、宜野湾、与那城等の間切が新設された。

 これらの間切新設は、向象賢(羽地王子)の開墾政策によって仕明地という土地の私的占有制が認められ、甘藷、砂糖キビなどの栽培普及とあいまって、耕地面積の飛躍的な拡大を促し、生産力の高揚と人口増加に一定の効果をもたらしつゝあった社会的背景の下でなされたものであった。そのねらいは本質的には王府の財政的破綻と給地不測の打開策を農村の新開地に求めるためであり、末端の行政組織の細分化によって収奪体制を確立するためのものであった。
 
 『琉球国由来記』(1713年)の年中祭祀で、稲穂祭、稲穂大祭、束取折目、海神祭の時、按司が田湊巫火神(屋古前田村)に詣でている(あるいは供え物の提供)。それと城巫火神の稲穂祭、稲穂大祭、海神祭の時、按司・惣地頭が詣でている。喜如嘉村の神アサギでの稲穂祭、稲穂大祭、海神折目の時、按司・惣地頭の詣でがある。屋古前田村の按司と城村・喜如嘉村の按司は同一かどうか。それと城村・喜如嘉村に参加している惣地頭が屋古前田村では見られない。他の間切では見られない複数村への按司・惣地頭の詣でである。城村・喜如嘉村の祭祀に参加していた按司・惣地頭は国頭間切を領地にしいた国頭按司・国頭親雲上ではなかったか。国頭間切の分割以前の様子ではないか。国頭間切の按司クラスの寄進された石灯籠が大宜味間切内の城(根謝銘)ではなく、国頭村の比地・辺戸・奥の村に寄進されている。(行政、番所は他村に移転しても祭祀は変らないことを示しているか)

 田港ノロ殿内の祠に10基ほどの石香炉があり、その祠の立て替えがなされるようなので調査でも。(海神祭の後のようだ)。下の田港ウタキの祠の石灯籠と同年ではないか。そこで考えているのは田港間切の番所があったことを示すものと考えている) さて、どんな結論がでるか。按司や惣地頭や脇地頭が領地とした間切や村をもう出るのは、そこからの家禄(作得)へのお礼だと見たほうが理にかなっている。

【田港ウタキの祠内の香炉】

 


2021年5月26日(

 琉球藩の「物産」を掲げてみることに(『沖縄県史』14 雑纂 1の「物産表」より。数量を記載した品物もあるが、それは癸丙年五月に調査をまとめた一年間の生産高のようである。どんな品目があったかの確認のため。

【琉球国】
  米 三万千四百石余  麦 五千百石余   
  雑穀類 九千四百六拾六石余(粟・下大豆・本大豆・城大豆・小豆・青豆・唐豆・インロウ豆
                      篇豆・菜種・胡麻・真黍・黍)
  菜蔬類 唐芋 一億三千七百十万斤余
        大根・黄大根・牛房・カヤ芋・山芋・田芋・くわい・蕪(かぶら)・蓮根・ハジカミ・薤(にら)
       志めじ・松露・ほうれん草・唐采・紫蘇・春菊・あかさ・寒山采・仙本・ウン采・ウイキョウ・
       にら・はんたま・ひいな・ふき・味噌采・唐もじ・クハン采・川芹・田もし・木瓜・西瓜・西瓜
       ・春瓜・糸瓜・にが瓜・ナン瓜・キン瓜・つふる・タチワキ・フウロウ・茄子・木ノ子・落地生
       防風・ミミソリ
  家畜野獣
       猪・牛・馬・豚・羊・鶏
  貝 介
       白魚・めばる・まく・たまん・くつなき・かたかす・しつう・くまひき・ゑの魚・飛魚・それか・つくら
       ・ふか・永良部蘇・海馬・海鼠・いか・たく・こぼしみ・小えび・屋久貝・あさかい・あばす・かまんた
       ・亀・さゐ・けとん・紅かひ・白かひ・あしがみ・てらさ・高尻・蛤
  果実類
      九年母・荔枝・龍眼・柿・里桃・山桃・芭蕉実・蕃拓榴
  桑   二万本余
      楮(こうそ)・櫨実(はぜ)・麻・芭蕉荢・藍・紅花・木綿・烟草
  材木類
     杉・樫・いく・松・いちやう・椎・きす・桔・ともん・ざふん・とそん・秋木・山里木・黒ほう
     わふん・志わまけ・楠・せんだん
  薬 品(72種類)
      (略)
  海藻類
      海人草・ミル・青苔・すのり・ふのり・ツノマタ・白采
  織 物 (13品)
  芭蕉布(7品)
  泡 盛
  塩
  油
       菜種油・胡麻油・桐油・カタシ油・柴油・永良部油・ホカ油
  砂 糖
  鬱 金
  皮革品
  闈 蓙
  蒲 蓙
  陶器類
  漆器並木具類
  紙 類  百田紙・芭蕉紙
  蠟 燭
  炭 薪 


2021年5月25日(
 
 気づいたらすっかり情報処理をスムーズにできない頭になっている。それをアナログ人間というのだろうか。このパソコンの不具合でデータ処理やHPの更新ができず、画像の取り込みができずじまい。若い頃は徹夜してでも回復させていたのに、その気力と体力がありません。それとコロナで動けず。過去メモであしからず。


国頭村辺戸の安須森(アスムイ)】(2004725日)過去メモ

 安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。

 『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
   ・シチャラ嶽  神名:スデル御イベ
   ・アフリ嶽    神名:カンナカナノ御イベ
   ・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ

 アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
 
 それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。

 アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れる王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。

 宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
    「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
    又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
    ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」

の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。

 首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたのは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。

    ▲辺戸岬から見た安須森          ▲辺戸の集落から見た安須森


【辺戸のシチャラ嶽】

 『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。

  ▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽)遠望         ▲御嶽のイビヌメーだとみられる


  ▲御嶽の頂上部にあるイベ            ▲辺戸の集落の後方に御嶽がある 


【国頭村辺戸】(2005624日)過去メモ

 沖縄本島の最北端の国頭村の辺戸と奥の集落までゆく。「山原を見るキーワード」を探し求めて。もう一つは与論島に渡る予定が日程があわずゆくことができなかったため、辺戸の安須杜(アスムイ)から与論島と沖永良部島を見ることに。昨日は青空があり、何度か方降り(カタブイ)。こっちは大雨、あっちは青空状態。与論島と山原をテーマにしていたが与論島に行けず。それで与論島が見える安須杜から。

 空の様子をうかがいながら、まずは辺戸岬から安須杜を眺め、目的より頂上まで登れるかどうか、体力が心配。息ハーハー、膝がガクガクしながらではあるが、どうにか登ることができた。後、何回登るだろうか。

 安須杜はクニレベルの御嶽と位置づけている。辺戸には安須杜とは別に辺戸集落の発生と関わるシチャラ御嶽がある。安須杜は呼び方がいくもあり、ウガミ・アシムイ・ウネーガラシ・クガニムイ・アフリ嶽などである。ここで特徴的なことは、辺戸村(ムラ)の祭祀はないということ。だからクニレベルの御嶽だということではない。

 『琉球神道記』(1603年)や『琉球国由来記』(1713年)に、

   新神出給フ、キミテズリト申ス。出ベキ前ニ、国上ノ深山ニ、アヲリト伝物現ゼリ。其山ヲ即、
    アヲリ岳ト伝。五色鮮潔ニシテ、種種荘厳ナリ。三ノ岳ニ三本也。大ニシテ一山ヲ覆ヒ尽ス。
    八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ王殿ニ奏ス。其十月ハ必出給フナリ。時ニ、
    託女ノ装束モ、王臣モ同也。鼓ヲ拍、謳ヲウタフ。皆以、竜宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ会所トス。傘
    三十余ヲ立ツ。大ハ高コト七八丈、輪ハ径十尋余。小ハ一丈計。

とある。国上(国頭)の安須杜はアヲリ岳ともいい、三つの岳が画像に見える三つの突き出た所なのであろう。その三つの嶺(山)に一山を覆い尽くすようなウランサン(リャン傘)である。飛脚を出して王殿(首里城)に伝え、王庭(首里城のウナーか)を会場として、神女も王や家臣も装束で、鼓を打ち、ウタを謡う。そこに傘(高さ7、8丈、輪の径は10尋)を30余り立てる。

     

    ▲宇嘉からみた安須杜(アスムイ)     ▲辺戸岬からみた安須杜(アスムイ)


    ▲安須杜からみた辺戸の集落と与論島   ▲辺戸岬からみた与論島


   ▲国頭村奥の集落、海上に与論島が         ▲国頭村奥の港(干潮時)
   ▲国頭村奥の集落、海上に与論島が         ▲国頭村奥の港(干潮時)


2021年5月24日(

今帰仁の街道筋(宿道:スクミチ)

 今帰仁間切番所が運天に置かれたのは1666年である。その前の今帰仁間切は現本部町を含む範囲である。その時の番所は今帰仁グスクと城下のウドゥン屋敷が番所の役割を果たしていたとみられる。「琉球国之内高都合並島色分目録」の絵図がある。目録の後尾に「元禄十五年 壬午八月 松平薩摩守」(1702年)とある。その内容は「鬼界島」「大島」「徳之島」『永良部島』「与論島」は「琉球国之内」とあり、1611年以前の内容である。例えば、伊野波(本部)間切や田港(大宜味)間切が、それに登場せず、それと恩納間切や久志間切なども登場せず、瀬底島やによは村(伊野波)、あめそこ村(天底)は「今帰仁間切之内」とある。「おんな村(恩納)や「こちや村」は金武間切之内とある。「川田村」「てぎな村」「おほら村」は「名護間切之内」とあり、その絵図の内容は1666年以前である。

 その絵図に道筋(大道とある)と一里が記されている。一里塚をつないでいる朱線は大道(宿道)(スクミチ)とみてよさそうである。今帰仁間切へのルートを追ってみると、名護間切から一里塚を追ってみる。そのころ街道筋に松並木があったかどうか。街道筋の松並木は蔡恩以降か(17世紀中)。

  名護村→為又か→三土手→並里?→渡久地→(新里)→與那嶺→山岳→湧川(クンジャドウ)→仲尾(羽地)→真喜屋→津波?→塩屋→大兼久→喜如嘉→(  )→佐手→宜名真→奥→安田→安波→川田→てきな

  ・名護村→伊差川→真喜屋

  今帰仁の一なぎ 並案津の美らさ
  赤染め芭蕉と乙女しふらさ
  今帰仁グスクの端末

 今帰仁御殿が□□した為城内の古木を売ったりして風致を害し城内を□されたので当時の村長城間半蔵氏が□へ尚順男に相談して具志川マカトと今泊青年会と半々出して買った。

  凡そ七〇〇円   大正四、五年

   名義人 城間亀助
          仲本吉次郎 当時区長
         玉城精五郎    〃
         具志川朝宜
         崎山 朝清
        大城保元

   字今泊ハンタ原 一、四八〇ノ一 山林 一〇、七九三坪
                  (徳裕ノート)  

 今帰仁村平敷に「てぃびガジュマル」がある。島袋源一郎著の『琉球百話』に「炬々よー」がある。「之は亦今ではなくなったが、余所では見られない便利な扶助方法であった。明治三十年頃迄今帰仁村に残っていたが、旅行者が行暮れて暗くなった時、村落の入口に立って「炬々よー」と声高に呼ぶと字内に応ずる声があり、直ちに松明に火を点じてき来て渡すのであった。そして半里もゆくと又例の通りに呼んで、松明をつぎたして貰うので、店も提灯もない時代のこととて非常に有難いものであった。しかもそれはすべて無償であって村で其の担当の家へ若干の費用を支出していたのである。  

【終点の運天番所】


▲運天番所跡地 (大正5年移転)   ▲運天番所(明治39年)

 
▲運天番所跡地          ▲運天トンネル(運天隧道)(大正13年)

運天番所から羽地番所へ

 運天番所から上運天のギナマ道、→勢理客の松並木(団地内)→公民館裏(天底馬場跡)→アミスガー(シマチスジノリ)→クンジャドウの一里塚→湧川のスクミチ→湧川のマチ→マリー道(羽地内海)塩田跡地→


2021年5月23日(

 コロナで調査を自粛中。過去の記録を引き出して記憶を呼び戻している。再度訪れたいのだが、・・・
二ヶ月ほど、デイスクの破損やパソコン(HP)の不具合で二ヶ月間、焦ってしまう。それとコロナ禍で「寡黙」中? コロナが治まる気配なし。業務を片付けることに。蝶はゆったりを密をすい、伸びた草畑の草刈りで焦りを沈めるか。  


【2014年6月9日】過去メモ

 2014年6月9日(月)本部町嘉津宇を踏査する(雨)。目的は嘉津宇ムラは1719年に伊豆味の古嘉津宇から現在地に移動。その故地の確認。故地に手がかりとなる拝所やカーなどの確認はできなかったが、盆地になっている古嘉津宇の撮影はオッケー。

 現在の嘉津宇の公民館へ。その前に神アサギとトゥン、その後方にウタキのイベあり。具志堅の地内に移り、明治36年に具志堅村と合併するが、戦後もとの嘉津宇となる。

 嘉津宇の公民館、神アサギ、ウルン、ウガン(イベ)、ウプヤー(上原門中)、ユレーヤー、クランモーなどの確認。ユレヤーの仲村翁とであり、話を伺う。近いうちに、衣装の件で伺うことを約束する。門の前に車を降りると「仲原さんね」と、仲村さんの方から声をかけてくれた。雨が降り出したので家で話を伺う。詳しいことは、改めてということで短い時間。

 ユレーヤーの前の祠を見せてもらった。『沖縄県国頭郡志』に「按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて」とある按司位牌は、この二つと見られる。「古櫃一個」は前の祠から家の中に移し、衣装を入れてあるとのことことであった。それは改めて拝見させていただくことに。


   
 ▲嘉津宇区公民館       ▲神アサギ        ▲ウタキのイベ
  
     ▲ユレーヤーの祠内        ▲二つの按司位
 
   ▲嘉津宇の故地の古嘉津宇        ▲同じ年(1719年)移転した天底村の故地
【本部町嘉津宇仲村渠家:ユレー家】
 同家にも前記並里家の如く上座に按司位牌二個を祀り霊前床上に古櫃一個ありて左の遺物を納めたり。
 一、絹の琉服一着(水色の七子地に花模様の古代刺繍あり)
 一、八巻用サージ二筋(金襴にして梅花模様あり長各一尋)
 一、布片二種(水色絹地及黄色絹地に孔雀、鳳凰等の巧妙なる古代刺繍あり)

 同家の口碑に依れば阿応理恵按司の礼服なりしという。又北山滅亡の際貴族此家に隠遁して世を避けたりとも伝う。
然るに右遺物の保存せらるる外何等の記録なく従って其の人物の当家との関係及び墳墓等全く不明にして五里霧中に
葬らるるのみ。 


2021年5月22日(土)

 琉球の地頭や惣地頭は間切を領地(采地)として賜る。それと脇地頭(地頭)がいる。按司地頭と惣地頭は間切を賜るのにたいして、脇地頭は村を領地として賜る。間切の主村と両惣地頭と祭祀の関わりを見ると首里王府と地方(間切・村)との関係で興味深いことが見えてくる。祭祀の祈りが稲や麦の豊作を祈り、祭祀は旧暦(農耕暦)で行われ、そして祭祀日(神遊び)は今の公休日、神人は公務員だと位置づけているのは、そこから来ている。主村は間切番所が置かれ、そこでの祭祀は按司や惣地頭が関わり、村の祭祀には脇地頭が関わっている。その姿は、まさに首里王府が祭祀をもって末端まで統治してきた姿である。(詳細は工事中)

【間切の主村と両惣地頭脇地頭と村の祭祀の関わり】

【国頭間切
 国頭間切の主村は、何回か変遷をたどっている。まずは、1673年に国頭間切を分割して田港間切を創設した以前、そして以後の主村はどこだったのかの問題である。そのヒントを与えてくれるのは1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」が参考になる。それによると国頭地方に「国頭城」とある。国頭間切(後の大宜味間切も含む)のの中心は根謝名(城)であったとみられる。

根謝名(城)→浜→奥間→辺土名
       →田港→大宜味→塩屋→大宜味(大兼久)

【琉球国由来記】(1713年)の按司(両地頭)
  ・奥間村の神アサギ 稲穂祭の時、両惣地頭・首里大屋子・奥間掟(奥間巫)           
    稲穂大祭の時の時、両惣地頭・首里大屋子・奥間掟(奥間巫)
      比地での海神祭の時、両惣地頭の参加はなし(奥間巫)

   辺土名村・宇良村・与那村・謝敷村・佐手村・辺野喜村・辺戸村・奥村・安波村
     も海神祭があるが、両惣地頭の参加はなし。

  ※屋嘉比村の海神祭に両惣地頭の参加なし

    按司地頭・国頭按司正全(馬氏国頭御殿。元祖・馬思良、国頭親方正胤)
総地頭・国頭親雲上盛乗(毛氏国頭殿内。系祖・毛起竜、識名親方盛命。


※大宜味間切の按司や惣地頭が祭祀のとき、城巫と田港巫の両方で出てくるのは、城での   祭祀は大宜味間切が分割する前の形を踏襲しているのではないか。国頭間切(大宜味間  切分割以前)の国頭間切の主村は城(根謝名)村ではなかったか。根謝名はインジャミと   呼ばれ、それが国頭(クンジャン)となり、国頭間切の主村は城・根謝名であった可能性が  ある。そのあと、番所は浜村、奥間村へと移動する。城・根謝名が主村で、国頭間切の按  司や惣地頭が参拝していたのであろう。

【大宜味間切】

【琉球国由来記】(1713年)の大宜味間切の按司・惣地頭の

  ・城巫火神での稲穂祭の時、按司・惣地頭の参加あり。稲補大祭の時、海神祭の時、
   按司・惣地頭の参加あり。

 ・城巫管轄村の喜如嘉村の神アサギにも稲補祭の時、按司より五水六合、惣地頭から神酒の提供     あり。稲穂大祭の時、海神祭の時、按司・惣地頭から供え物の提供がる。  

・田港巫火神(屋古前田村)でも稲穂祭の時、稲穂大祭の時、束取折目の時、
    海神折目の時、按司からの供物あり。

 大宜味間切の喜如嘉(城)と田港に按司・惣地頭が祭祀に関わっているのは理由があろう。城喜如嘉村での祭祀に按司と惣地頭が関わっているのは、国頭間切の按司・惣実が関わっていたなごりか。田港巫での按司と惣地頭は大宜味按司と系統の按司・惣地頭か。

【大宜味間切】
  按司地頭・大宜見按司朝春(向氏大宜見御殿元祖・尚紀、美里王子朝禎。尚貞王四男)
     総地頭・大宜見親方朝救(向氏大宜見殿内。系祖・向鶴齡、国頭親方朝致 。
  

【名護間切】

【琉球国由来記】(1713年)名護間切の惣地頭
  ・名護巫火神  名護村
     稲穂祭三日嵩の時、惣地頭が備える。
  ・名護城神アサギ(名護巫)
     稲穂祭の時、稲穂大祭、年浴、柴指の時、惣地頭からの供え物がある。

   ※按司の記録はなし。

【名護間切】
  按司地頭・名護按司朝忠(向氏 名護御殿。元祖・尚弘仁、義村王子朝元。尚質王三男)
  総地頭・名護若秀才(程氏名護殿内。系祖・程泰祚。程氏外間筑登之實房次男)脇地頭

【久志間切】
  ・久志村の神アサギでの稲穂祭のとき、惣地頭が出仕(久志巫)。番所が久志村から瀬嵩に
    移るが惣地頭が行くのは久志村の神アサギで行う。

 ※久志間切番所は1687年久志村から瀬嵩村へ移転(汀間巫)。久志間切の主村の変更があるが、間切名の変更はなく、それと年中祭祀の稲二祭のとき、番所移転しても惣地頭は久志神アサギでの祭祀に五水四合づつ提供する。

久志間切
   按司地頭・久志按司(向氏久志御殿。
     元祖・尚盛、越來王子朝得。尚純三男)
   総地頭・仲田里主朝株(向氏仲田殿内。系祖・向世俊、仲田親方朝重。羽地御殿五世、
   大工廻親方朝株 (森山殿内系祖)三男)

【羽地間切
  ・仲尾村神アサギでの稲穂祭、年浴・芝指、ヲンナイ折目のとき、惣地頭が出仕する。
  ・田井等村の池城神アサギの稲補二祭、年浴・柴指の時、ヲナイ折目のとき出仕する。

  ・池城神アサギ 田井等村(グスク内)
    稲二祭、年浴、柴指、ヲンナイ折目の時、惣地頭が供え物の提供。
     (三ヶ所とも中尾巫管轄)
    按司地頭・羽地按司朝詮(向氏羽地御殿。系祖・尚弘徳、羽地王子朝元。小禄御殿世三男)
    総地頭・池城親方安規毛氏池城殿内。元祖・毛龍唫、新城親方安基)


【今帰仁間切】

【琉球国由来記】(1713年)の今帰仁間切の按司・惣地頭

 ・今帰仁里主所火神  今帰仁村
    麦稲穂祭の時、按司・惣地頭が供え物の出仕。
 ・今帰仁城内神アサギ   (今帰仁村)
    麦稲大祭の時、按司 
    大折目の時、按司・惣地頭
    柴指之時、按司・惣惣地頭
    芋ナイ折目の時、按司・惣地頭
   ※古宇利村の神アサギにある七月の折目は、今帰仁城での祭祀である。

  七月折目・海神祭の時、按司・惣地頭の参加あり。運天村での祭祀に関わらず。

  ※1666年に今帰仁間切は今帰仁間切と伊野波(本部)間切が分割する。
    今帰仁間切番所は運天村へ、伊野波(本部)間切は伊野波村→渡久地へ。
    今帰仁間切番所は運天村に移るが、按司・惣地頭はそのまま今帰仁城で祭祀と関わっている。

今帰仁間切
   王子地頭・今帰仁王子朝敷(向氏。今帰仁御殿。元祖・尚弼、今帰仁王子朝敷。尚育王三男)
      総地頭・譜久山里主朝宜(向氏譜久山殿内。系祖・向廷錫、翁長親方朝奧。羽地御殿11世三男)

【琉球国由来記】(1713年)
 1666年に分割した当時、伊野波間切である。伊野波間切の主村である。翌年本部間切と改称され本部間切となる。番所は当初伊野波村で後に渡久地村へ移動する。しかし、祭祀は伊野波村でおこなわれている。

 ・カナヒヤ森   伊野波村
   麦穂祭の時、麦稲大祭の時、惣地頭が出仕。(按司は登場しない)

  翌1667年に伊野波から本部間切となる。番所も渡久地村に移動するが、按司や惣地頭が関わる伊野波村での祭祀の変更はなし。
  カナヒヤ森はカミアサギと隣接している。

【恩納間切】
【琉球国由来記】(1713年)

  恩納間切は金武間切と読谷山間切からの一部を割いて1673年に分割した間切である。恩納間切の主村は「恩納村」である。恩納間切恩納村の城内之殿とカネクノ殿、恩納村神アサギでの祭祀に両惣地頭が関わる。

    ・城内の殿  恩納村(恩納巫)
      稲穂祭の時、両惣地頭
・ネクの殿 恩納村
      稲穂祭の時、両惣地頭
・神アサギ(恩納村)
     稲大祭の時、両惣地頭

※読谷山村での祭祀に恩納間切両惣慈雨、読谷山間切の按司・惣地頭の関わりはない。

  総地頭
・佐渡山親雲上(毛氏佐渡山殿内。系祖・毛国瑞法司官、佐渡山親方安治。池城殿内五世次男)

【金武間切
【琉球国由来記】(1713年)
  金武間切は1673年一部を恩納間切と久志間切へ分割する。金武間切の主村は金武村である。

  ・金武巫火神  金武村
     稲穂祭三日嵩の時、両惣地頭が関わっている。
  ・金武神アサギ
     稲穂祭之時、両惣地頭
     稲穂大祭の時、両惣地頭

 按司地頭・金武按司(向氏金武御殿。元祖・尚久、金武王子朝公。尚元王三男)
 総地頭・金武里主(馬氏上間殿内。系祖・馬獻功、与座親方良格。小禄殿内支流六世次男)


2021年5月21日(金)

 今帰仁村天底と本部町伊豆味についての質問あり。

・天底の語義(1719年の村移動前の場所で考える必要あり・・・)

・1719年に移動した二つのムラ(天底村・嘉津宇村)

・移動した村があった場所は山あいの盆地である。

・移動地でウタキをつくり神アサギをつくり祭祀を行う

・伊豆味・嘉津宇・天底は天底ノロ管轄の祭祀の村

・伊豆味は二つの村が移動すると古島から内原付近へ移動

・伊豆味の祭祀は根神が取り仕切っていた。ノロは玉城のろ、大正の頃まで伊豆味まできて行っていた。
・伊豆味の拝む所
 ①伊豆味神社 ②サータマタの宮 ③陣城 ④上ヌウタキ ⑤村墓 ⑥デイゴのカー
 ⑦下のハー(古嘉津宇の拝所)  ⑧黒グムイ(古嘉津宇の水源地)

・伊豆味の水田は盆地
・戦前まで伊豆味の経済を潤していたのは山藍と建設用材、薪炭材
・我屋地・湧川の製塩の葉薪(ハーダムン)
・荷馬車(湧川の津口や名護のマチヤーは伊豆味の車屋で繁盛)
・大正の頃、湧川にマチが発達したことがある。

【天 底】

 
    ▲天底の根神ヤー             ▲天底のウタキに向かって



【本部町伊豆味】


 
 ▲伊豆味の拝所(中が神社、右が神アサギ)

 ▲伊豆味のウタキへのイベへ        伊豆味のウタキのイベ(祠)


2021年5月20日(木)

 兼次の字誌の編集会議。字の人口、農業の様子、小地名、人物原稿の追加。次回はこれまで提出された写真を見ながら人名やキャプションを入れることに。地名もブロウ、タキンチヂ、ハニシバンタ、イリバンタ、サガヤーなど。

ボツボツ詰めの編集会議      ▲昭和18年の兼次国民学校卒業


2021年5月19日(水)


▲兼次の字誌(編集会議)(2年前)     ▲具志堅の土管(大正の頃)

2002.1.5(土)過去メモ

 長崎県は二度目である。4年前だと記憶しているが定かではない。その時は長崎市内から平戸市(平戸市切支丹資料館・オランダ商館跡など)まで足を延ばした。

 ハウステンボスや長崎の出島を散策していると、司馬遼太郎の「街道をゆく」(オランダ紀行や肥前の諸々街道)の視点がかぶさってくる。「日本が鎖国していた間、清国(中国)とオランダの商船が長崎での通商が許されていた。日本国じゅうが暗箱の中に入って、針で突いたような穴が、長崎だけあいていた。そこから入るかすかな外光が、世界だった。」(「オランダ紀行」) その後に展開するオランダをみていく歴史の視点には、何度も身震いしたことが昨今のように思い出される。

 暗箱に射し込んだ光が、まさにオランダだったわけである。200年近い歳月射し込んだ光が明治の文明化へ展開し、また琉球で西洋人をオランダーと呼んでいることにつながっている。

 もう一つ「国土」についてである。「オランダ人のやり方は、単に自然を破壊し征服することによって国土を築いたわけではなかった。干拓地や堤防を見ても、日本のそれらのようにコンクリートで固め尽くすという情景は見られない。大地の上にはふんだんに緑があふれ、牛や馬が群居して草を食んでいる。この光景を目にするだけで、オランダという国が自然と敵対せずに、むしろ自然とうまく折り合い、自然を大切にしながら発達してきたということがわかる」(NHKスペッシャル「オランダ紀行」)。干拓という国土づくりのオランダをみると、歴史は未来を展望する指針となる学問だと実感させられる。現在、沖縄県でも各地で埋め立てをしている(あるいは計画がある)が、百年あるいは二百年後の国土がどうなっているのか、どのような国土をつくっていくのか。その認識が欠落しているのではないか。国土が投機の対象になっているかどうかの違いがあったにしろである。自然との折り合いについてもしかりである。

 出島計画。それは1846年6月フランス艦船サビーヌ号、クレオパトール号、ビクトリューズ号が運天港に入港したことに始まる。三隻の艦船は約一ヶ月運天港に滞在し首里王府と交易の交渉をするが、目的を達することなく長崎に向かって去っていった。翌1847年薩摩の在番奉行が今帰仁間切にきて屋我地島と古宇利島の地形や水深などの実施検分を行っている。その目的は運天港を貿易港にして古宇利島と屋我地島を出島する準備であったという。滞在している間に二人のフランス人の乗組員がなくなっている。その二人を葬った墓がオランダ墓と呼んでいる。

 ここで長崎の「出島」について述べないが、運天港・オランダ墓、そして古宇利島と屋我地島の出島計画。それらのキーワードを通して歴史を紐解くと同時に将来に向けてどう取り組んでいく必要があるのか。長崎・オランダ、そして琉球という枠で考えさせられる旅であった。


2001.11.21(水)過去メモ

 「今帰仁が生み出した先人達」をテーマに講演。村内にある北山高校で。島袋源一郎・平良新助・島袋源七・霜多正次・仲宗根政善・新城徳祐・目取真俊などを中心に話した。高校の図書館に入るまでは別の話を考えていたのであったが、自分自身がどの人物とも関わりを持っていることに気付いた。それで自分と先人達との関わりについて話すことにした。

 仮設の図書館は武道館の大半を利用している。新館が出来るまでの仮住まいである。入って右側に先人達の展示がなされている。館内全体が一体となった展示にみえる。先人達のコーナーが落ち着いた雰囲気を作り出している。偉い方々が仰々しく偉ぶることなく、今帰仁の風土で私たちは育ち、そこをベースに研究や作品ができています。感謝といいたげ。そんな雰囲気である。私はその空間が好きだ。図書館が人物を作り出すと同時に、地域(風土)が人物を作り出していることを実感させられる。

 島袋源一郎が歴史を中心の書物。今帰仁グスクをバックに抱えた風土で育った人物。東側の島袋源七は勢理客、勢理客ノロの在地。おもろでせりかくのろの、あけしののろのと謡われる。それが島袋源七を言語や民俗の世界へ導いている。その職歴が琉大図書館の島袋源七文庫の資料群と重なってくる。西に歴史を背負った島袋源一郎と新城徳祐、東に民俗・言語を背負った島袋源七、そして中央部に言語とひめゆりの仲宗根政善と文学の霜多正次・目取真俊が生まれる。また中央部に移民や民権運動を背負った平良新助がいる。それらの人々の働きや作品や研究は、まさに今帰仁の風土が生み出した感がする。「風土と人物」を視点に、先人達の研究や考えなどを思いはせ、描きながら、展示をバックにしての講演であった。.......図書館を必要とする人は図書館がないからではなく、必要とする人は名護でも那覇の県の図書館にでもいく。それはシマチャビ(離島苦)を抱えるフイジマからの生の声。その通り........納得。


2021年5月18日(火)

    

 今年は小鳥が低いところにで巣作りをしている。左は親鳥の姿は見ていないがヒヨドリか。それともイソヒヨドリか。右側は目白である。10日ばかりで巣立つ。ウグイスの巣もあったが、画像にしようと二、三日構えてい間に壊されていた。「寡黙庵」の周りでは小鳥のさえずりで競い合っている。

 兼次の字誌の追い込みに入らないと。コロナにかかると、すべて手放すことになる。焦ってきている。


2021年5月17日(月)

村内の印部石

 今帰仁村内の原石(ハルイシ)を報告用に改めて整理する。法量や拓本、そして写真撮影。これまで村内で確認してしたのは二〇基だが、三基ほど所在不明となっている。今回のまとめで一区切りしたいと考えている。もちろん新しい発見があれば追加した形で報告する。

 原石の原名と現在の小字との関わりについて『なきじん研究』―今帰仁の地名―(第7号)でまとめてある。元文検地の原石に出てくる原名と現在の原域との比較研究をしてもらいたい。たまたま、今帰仁村には「今帰仁間切平敷村略図」があり、現在の小字以前の原域がわかる地図である。それからすると、「現在の小字は複数の原を一つにまとめ、その中の代表的な原名が現在の小字名となっている」ことがわかる。他の地域でも、原石の原名と現在の小字名が比較できる史料があるのではないか。出てきて欲しいものだ。(2005.02.24

 
    
▲兼次の印部石   ▲印部石の拓本


「フランスにおける琉球関係資料の発掘とその基礎的研究」科学研究補助金基盤研究報告書

             (平成12年3月)より
2005.10.03)メモ

【フランス艦船が見た運天港】1846年)

 30年後の1846年に運天港に三隻のフランス艦船がやってくる。その時の運天港や付近の様子を描いた絵が残されている。それから運天の集落、海上に山原船、さらに木を刳り貫いた舟を三隻平行に連結したテーサン舟?に琉球国側の役人が乗った様子が描かれている。よく見るとコバテイシの大木や番所、茅葺きの家、抜け出る道なども描かれ、当時の運天津(港)の様子がわかる。山原船が往来していた長閑な風景である。フランス艦船の三ヶ月の碇泊で首里王府は右往左往したのであろうが。その間、二人のフランス人船員が亡くなっている。二人を葬った墓がある。フランス人墓ではなくオランダ墓と呼ばれる。

         ▲1846年の運天港の様子

Ounting(Port Melvillet 1846, Lieoutcheou
   (運天(マルヴィル港),1846 年7月、琉球


テーサン舟?に乗った役人と後方に山原船が碇泊中

  ②Bateayx-Lieou-tcheou  琉球の船

 ③udja, minisuture du roi  ieod―tcgeu

  古謝、琉球国王の大臣[古謝は偽名で、実名は国頭按司(唐名は馬克仁>

   総理官、あるいは総理大臣と称した]



2021年5月16日(

 近々、本部間切番所(渡久地)から今帰仁番所のあった運天港まで踏査する予定。今回は両間切の境あたりの北里(旧具志堅村内)からスタート。
  ・本部町北里(上本部小学校入り口)
  ・新里入り口から具志堅馬場跡
  ・具志堅集落(大島)とミージマ(新島)の境を通るスク道
  ・本部間切と今帰仁間切との葉書(文書)などの引き渡し場所(ウマチモー)
  ・具志堅村と今帰仁村との間の松並木道
  ・今泊のプイヌモー(旧道跡)
  ・今帰仁城への道筋
   (大正以前親川(エーガー)からのハンタ道、大正五年の参拝道、海洋博覧会時の道)
  ・ノロ殿内からニークンガー
     (ミジパイは千代金丸の流れ地・ニークンガー(志慶真乙樽の墓)
     (集落内の馬場跡、津屋口墓、神アサギ等)
  ・今泊のミチバタガンサから兼次の並木道
    兼次校前のウイヌミチ(宿道)

  ・街道松並木(宿道:スクミチ)
    様々な遺産がある。(工事中)

【今帰仁街道松並木】(1956年調査)
   ・今泊西          46本
   ・今泊ノロ殿内毛     4本
   ・シュク原         19本
   ・兼次校前         36本
   ・兼次            6本
   ・諸志            4本
   ・与那嶺          61本
   ・仲尾次(両側)      19本
   ・ジニンサ         5本
   ・平敷の集落内      9本
   ・平敷の東側       43本
   ・仲原馬場        54本
   ・今帰仁校下       25本 
   ・謝名部落の中通西  41本
   ・謝名部落の中通東  22本
         
         今帰仁村西側の松 計394本




 

   以下工事中


2021年5月15日(土)

 
二ヶ月ばかりパソコン(HP)の断捨離(初期化)してしまい更新できず。その間、いろいろな手前にある書物や資料を開く時間となる。コロナと高齢と自分の寿命などが頭をよぎる。二、三年ですべて片付けないとと焦りがある。

鹿児島ゆき 2014107日(火)メモ

 20143日~6日まで鹿児島市内を踏査。これまで琉球側から鹿児島(薩摩)を眺めてきたが、今回は鹿児島から琉球をみるとどう見えるのか。これまで田代安定や東郷平八郎、名越左源太、西郷隆盛、島田浩などについて話しすることがある。鹿児島市内(特に加治木町)に生誕地があることは以外であった。そこに行けたのはラッキーであった。ただ田代安定の生誕地の近くまで(市民病院)まで行くが確認できず。
 徒歩で城山に登る。そこから鹿児島港や桜島が望める。城山の軍事用の堡塁、その跡(空堀)を散見。港には薩英戦争の時、琉球船も爆破された薩英戦争関係図にある(集成館の海岸)。また、琉球楷船が描かれた図は、現在の鹿児島駅の海岸である。「琉球館」は現在の長田中にあったようである。下の「鹿児島城下絵図」は博物館や資料館など必ず紹介されている。幕末から明治の初期にかけての鹿児島の様子が描かれている。琉球とかかわりが港を通してみえてくる。港には舟底の平はハシケ、沖縄ではテンマーに似た舟が海岸に数多くあり、大きな船の接岸に活躍したのであろうと想像する。

 今帰仁村の与那嶺に仲宗根政善先生、霜田正次氏(作家)、近くの兼次の諸喜田福保(最後の地頭代)、島袋源一郎(県視学、戦前の首里城内に北殿郷土博物館長など)、島袋松次郎(戦前の村長(霜田正次氏の父)などを生み出した地でであることに気づかされる。

鹿児島県博物館で確認したかったのは加治木石と山川石であった。琉球(沖縄)の各地に寄進されている香炉と石灯籠が、どうも島津からの帰りの船底に敷いたバラストではなかったのではないか。(香炉に「奉寄進 上国之時」とある)

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2016年6月26日(日)

 富山市→糸魚川(新潟県)→富山城(富山市郷土博物館)→高岡古城跡(高岡市立博物館)→石川県立博物館→兼六園→金沢城公園を踏査する。目的地までは「北陸新幹線」や「あいの風とやま線」(在来線?)を使う。それでも歩く時間が一日、5~6時間あり疲れの残った踏査であった。

【6月24日】(富山市内→糸井川→富山城

 糸井川行きは、28年前から目で確かめたいと頭の片隅にあった場所である。平成三年の暮れに「極める―神秘の勾玉」のテレビ番組(東京テレビ)で今帰仁村の中城ノロ家の勾玉やノロさんの出演や今帰仁部分のナレーションの校正に関わったことがあり、その時、糸井川(姫川)が勾玉(ヒスイ)の産地であることをしり、いつかは訪れたいと。奈良岡朋子さんの「ヒスイの勾玉はどのように造られて各地に運ばれたのでしょうか。そして勾玉の形は何を意味するのでしょうか」と、最後に問いかけられた言葉が思い浮かぶ。「長者ケ原遺跡」(考古館)に同様な文章が展示パネルにあり、「30年間勾玉の研究の進歩がないですね」と談笑。

 翌日石川県立歴史博物館へ。そこで絵図から馬場の形、そして「馬旗」について伺う。それは、沖永良部島と与論島で行われていたシニグ(両島のシヌグ旗)とダブる所があったからである。沖縄本島北部のシニグと両島のシニグを比べてみると、両島でもシニグの原義は残しているものの、シニグ旗に描かれいる武将や松竹梅などは、大和化(薩摩化?)しているのを確認しているからである。

 同歴史博物館で「韓国文化への誘い」の図録(平成18年)に目を通してみた。そこにはノロ殿内の遺品としてみてきた頸飾や勾玉の模造品(いろいろな石材)などが紹介されている。何年前になるだろうか、韓国の釜山の博物館や古墳から出土した勾玉などを拝見したことが思い出される。

 奄美から琉球、そして宮古・八重山に分布する勾玉(特にヒスイの勾玉)が琉球に移入してきたのか、ノロ家に残る遺品の一つに勾玉がある。移入の時期は各地のグスクから出土し、ノロ家の遺品として残る勾玉について関心を持ち続けている。そのことがあっての糸魚川の「長者ケ原遺跡」(考古館)とホッサマグナミュージアム)踏査である。

 糸井川へは「あいの風とやま線」に富山駅から乗車。東富山→水橋→滑川→東滑川→魚津→黒部→久善→泊(乗継)→越中宮城→市振→親不知→青海→糸井川まで左手に日本海を眺めがら(梅雨の雨でもやっていた。冬の日本海は通過したことがある)。

 「糸井川世界ジオパークの石」のパンフをいただきパンフでヒスイの確認。これまで見てきた勾玉は必ずしもヒスイのみではなさそう。沖縄ではヒスイの方が数少ない印象である。勾玉は黒曜石が目につく。「ノロ制度の終焉」(一部紹介)や「やんばる(山原)のノロ祭具と継承儀礼」、沖永良部島の「沖永良部島のノロ家の遺品」などで報告。

 
      ▲長者原遺跡                ▲加工技術の説明版

 
       ▲今帰仁アオリヤエのいろいろな石の勾玉と水晶玉(歴史文化センター蔵)


2021年5月14日(金)
 
 しばらく、休憩していました。まだ慣れるまでボツボツ。

  
                   ▲今帰仁村今泊の河口にある人口的な船着き場か(ヒチャラ・石原)

 蔡温の「独物語」で河岸の岩場を「ひちゃら」(石原)とあり、今帰仁城下の津屋口にある、人工的に岩を切りならした場所(天馬舟)の着く場所を指しているような。