沖縄の地域調査研究

寡黙庵:(管理人:仲原)   今帰仁村歴史文化センター

                         もくじ:トップページ
 問い合せ(メール)         
                   
2021年7先月6月          


2017年4月  ・2017年5月 2017年6月 2017年7月 2017年8月 2017年9月
2017年10月 2017年11月 2017年12月

2018年1月 2018年2月 2018年3月 2018年4月 2018年5月 2018年6月
2018年7月 2018年8月 2018年9月 2018年10月 2018年11月 2018年12月

2019年1月 2019年2月 2019年3月 2019年4月 2019年5月 2019年6月
2019年7月2019年8月 2019年9月 2019年10月 2019 年11月 2019年12月

2020年1月 2020年2月 2020年3月 2020年4月

2021年2月 2021年3月 ・2021年5月 ・2021年6月

シニグと山原文化圏  ・徳之島と琉球  ・ノロ制度の終焉 ・

勝連半島のムラ・シマ



2021年7月28日(

 大宜味村は1673年に国頭間切から分離、一部・・・・羽地間切から加わる。国頭間切は1673年以前は国頭按司が領有する領域であり、今の大宜味村を含む。大宜味間切が分割する以前の国頭間切番所は?

根謝銘(ウイ)グスクと関わる出来事

 ・大宜味村謝名城にある。
 ・根謝銘グスクはウイグスクと呼ばれる。
 ・標高
100の所に位置する。
 ・城(グスク)村は高地性集落?
 ・
1415世紀頃の筑城で大型のグスク
 ・丘陵頂上部に本部石灰岩で石塁をめぐらしてある。
 ・ウイグスク内に大グスク
(イベか)と中グスク(イベ?)がある。
 ・出土遺物(土器・カムィ焼・青磁・鉄釘・獣骨などが出土
 ・貝塚も確認されている。
 ・
1471年の海東諸国紀の「琉球国之図」に根謝銘(ウイ)グスクに「国頭城」とある。
     (国頭按司の居城か。
国頭城」は北山滅亡後の「監守」制度を示しているものか)
     (国頭間切の拠点は根謝銘
(ウイ)グスクとみられる。国頭按司はまだウイグスクに居城か)
 ・
1522年(弘治11) 真珠湊碑文に「まかねたるくにかミの大ほやくもい」(国頭の大やくもい)とあり首里居住か。
 ・
1624年(天啓4) 「本覚山碑文」に「国かみまさふろ」とあり、首里居住か。
 ・
1597年(万暦25) 浦添城前の碑に「くにかミの大やくもいま五良」とあり、その当時の国頭大くもいは首里に居住か。
 ・根謝銘
(ウイ)グスクは1500年代まで(各地の按司を首里へ集居)は国頭按司の居城地か。
     (
1673年まで国頭間切は大宜味間切を含む地域である。大宜味按司はまだなし
 ・国頭間切の安田里主所安堵辞令書(
1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
     
(その頃国頭按司は首里に住む)
 ・
国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
     
(その頃国頭按司は首里に住む)
 ・神アサギ/ウドゥンニーズ・トゥンチニーズ/地頭火神/カー/堀切/アザナあり
 ・旧暦7月に海神祭が行われる。
 ・按司墓あり
 ・屋嘉比川の河口に屋嘉比港あり(オモロ)
 ・
絵図郷村帳1648年頃)に「国頭間切 ねざめ村・城村・はま村・屋かひ村」とある。
 ・
琉球国高究帳に「国頭間切 城村・屋嘉比村」とある。
 ・屋嘉比川の下流右岸に
国頭番所(浜村)が置かれた。後に奥間村へ。
 
1673年に国頭間切を分割して国頭間切と田港(大宜味)間切が創設される。
    田港間切の番所は田港村へ、後に大宜味村(旧記の頃)、さらに塩屋村、さらに大宜味へ施設。

 ・
1673年に屋嘉比村から見里村が分離したという。
 ・
1673年後に屋嘉比村から親田村が分離したという。
 ・根路銘
(ウイ)グスク内の地頭火神は国頭按司と国頭惣地頭火神と大宜味按司と大宜見親方の火神が重なっても
     問題なし。
   (国頭按司地頭クラスの石燈籠は国頭村比地・辺戸・奥にあるので、間切分割後の
国頭按司は国頭間切内へ)
 
1695年 屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
 ・
1713琉球国由来記に、「大宜味間切 城村・根謝銘村」、「国頭間切 濱村・親田村・屋嘉比村・見里村」がある。
 
1719年国頭間切の村であった見里村・親田村・田嘉里村が大宜味間切へ。
    (
173695年の絵図には番所は塩屋村にあった:大宜味役場蔵?)
 ・
1732(雍正10) 国頭番所は浜村から奥間村へ移設。
 ・明治
36年に根謝銘村と城村と一名代村が合併し謝名城村となる。
 ・明治
36年に親田村と屋嘉比村と見里村が合併して田嘉里村となる。
 ・明治
41年に国頭間切は国頭村(ソン)、大宜味間切は大宜味村となる。これまでの村(ムラ)は字(アザ)となる。
 ・
1911年塩屋にあった役場を大宜味へ移転。




2021年7月27日(

 10年前沖縄本島中部(中頭)のムラ・シマを大学の講義で扱ったことがある。それまで扱ってきた今帰仁グスクとの比較とシニグの分布が東海岸の伊計・宮城・平安座・浜嘉に分布している。沖縄本島北部に見られるシニグが東海岸の一部に分布していることへの関心である。シニグ文化圏として、与論・沖永良部島まで押さえることができないか。そんなことを考えながら「勝連グスク」を支えていたムラ・シマがどのような歴史を持っているのか。そのような事を考えながら踏査した地域である。(もう、そんな体力がないですね)

勝連半島のムラ・シマ



2021年7月26日(

 台風6号が去る。台風の避難所として使われた屋我地支所までゆく。慰霊之碑と「フランスの風」の鐘(絆の鐘)が建立(2017.8.31)されている。「オランダ墓」については、沖縄サミットの時の展示のことが思い出される。フランス艦船が訪れたのは1846年6月で「琉球国」の時代で後に条約を締結している。フランス人が葬られているから「イギリス人墓」にしたらとの意見や新聞投書があった。その事はまだ尾を引いているようだ。

 それとは別に、羽地内海にどれだけの船が台風で避難しているか確認したくて。30隻余であった。北山王ハンアンヂが滅ぼされた時、中山軍と国頭・羽地・名護(今帰仁を除く)などの軍勢が集結した港が勘定納港だったという。

 塩分補給にポテトチップスを口にしながら。カバンを開けたら蟻の巣状態。山原(やんばる)の集落部分を区分するバーリ、バールがある。中南部は・・・ダカリ。そのダカリは「たかる」から来ているのではないかと考えている。蟻がたかるのは砂糖だけかと思っていたら塩(油)も大好きのようだ。そのように蟻がたかった状態を二分、三分に区分(ナカンダカリ・オクンダカリ・クシンダカリなど)する呼称ではないか。

 



2005.04.23(土)メモより

 大宜味村の舟や港に関わる記事を拾ってみた。やはり多いのは塩屋湾(港)である。大宜味番所があったこともあるが、塩屋番所へは渡野喜屋(現白浜)から小舟で塩屋湾を渡らなければならず、渡野喜屋は渡し場として交通の要所にあった。

 断片的な資料であるがクリ船やハギ船に税がかけられている(道光6年6月原取納座国頭方定手形)。
  ・クリ船一艘に付き、一年に納銭一貫文
  ・ハキ船一艘に付き、一年に納銭五十貫文
  ・クリ船三拾三艘  納銭三十三貫文
  ・ハキ船三艘  納銭百五拾貫文  

【上杉県令巡回日誌】(明治14年11月22日)の塩屋湾の様子

  「・・・宮城島あり。島中小村落あり。渡舟相往来す。湾頭弦月形の処を過ぎ、小村落あり。
  サオ師舟を艤して待つ。舁夫輿を舁き、舟に移す。・・・・・・舟容与として行く。風波平穏なり。
  舟路半程にして、雨俄に至る。・・・・渡舟岸に達す。即ち大宜味番所なり。・・・・海を隔て、
  宮城島に対す。山原船五艘碇泊す。」

 明治から大正にかけて大宜味間切(村)の物資の運搬は海上が主である。運搬に使われたのが山原船(マーラン船)である。大宜味間切から出荷されたのは、主に割薪・砂糖樽板・砂糖樽底蓋板・米・松薪・木炭・製藍・建築材など。輸入品は焼酎・石油・大豆・白米・素麺・茶・昆布などである。山原船の向う津(港)は泊港や那覇港である。

 ・樽板と蓋底板(明治34年3月9日)
 ・船舶取締規則違犯者(明治35年3月13日)
 ・塩屋湾の風光(明治35年4月19日)
 ・国頭郡の鰹製造業(明治38年8月11日)
 ・大宜味間切の造船所(明治39年2月7日)
 ・国頭旅行(明治39年10月17日)
 ・大宜味より(明治40年8月13日)
 ・大宜味の海神祭(明治44年9月19日)
 ・大宜味村より(大正2年10月12日)
 ・大宜味よりの帰途(大正2年10月14日)
 ・今日の話題(昭和19年4月9日)


2021年7月25日(

徳之島と琉球
を連休の四日間台風6号で閉じ込められる。「徳之島と琉球」をアップ。奄美の与論島、沖永良部島、徳之島、喜界島と琉球をテーマに島々を踏査。台風は沖縄本島から離れたようだ。しばらく恩納村から離れているので、そこから得たいくつかのことを思い出してみる。

  ・山原(やんばる)の境界線
  ・恩納村は中頭方と国頭方を分割した間切である。
  ・言語の境界線が谷茶と屋嘉との間にある。
  ・神アサギと殿が交差する地域である。
  ・護佐丸と北山
  ・恩納(ウンナ)の語義は「大きな広場」ではないか。(徳之島で面縄(恩納)と同義?)
  ・中頭と国頭の両方の習慣?が混在している?
  ・恩納村恩納の集落はグスク時代の集落形態が遺っている。
  ・恩納間切恩納村に二人の掟が置かれたのは?
     金武間切の金武村、名護間切の名護村に二人の掟が置かれている。
  ・寄留人が18世紀初期から移住している。
  ・金武間切から分かれた村と仲間(名嘉真)節の歌詞にある。
  ・恩納村恩納の神アサギから、アサギは祭祀空間と穀物の集積場でもあることに気づかされる。
  ・瀬良垣の海岸で琉球の港(津)の発想の転換があった。「ひちゃら」(蔡温:独物語)が石原。
   (ヒチャラはウタキ名や神名で登場:石がゴロゴロしている場か)


2021年7月24日(土

 明治の行政の変遷(勅令で)を押さえておくことに。

【縣治の沿革】『補遺伝説 沖縄の歴史』(島袋源一郎著)付録参照
 
・庁舎の移転
  明治12年3月廃藩置県と同時に県庁を首里に置くことを布達せられ敷地も内定されていたが、種々の事情により那覇西村一番地にある内務省出張所に仮県庁を設置。庁舎改築のため明治13年12月より東村の旧天使館に移転して事務を開始。明治14年6月に新庁舎落成をもって移転、依頼40年間同所にあった。大正9年現在(確認のこと)の庁舎竣成し移る。

・行政区割
  明治13年6月縣内の行政区割を分けて、那覇・首里・島尻・中頭・国頭・伊平屋・久米・宮古・八重山の九となし、各地域に役所を設置し、役所長及縣属を配置して事務を処理させた。
   ※那覇役所
     明治13年6月島尻地方役所を東風平間切に設置、後に那覇に移す。
        同     中頭地方役所を美里間切に置く、後に首里に移す。
        同     国頭地方役所を羽地間切に置く。同15年に名護間切に移転する。
     宮古・八重山の両島は蔵元に役所を設置
     久米(仲里まぎりに)・伊平屋の二島の番所内にそれぞれ役所を設置。
     慶良間島番所内に在勤官を置いてあったが後に廃止して那覇役所管轄に移す。

・番所と役場の職制

・郡役所の設置
    明治29年4月勅令13号 郡区編成の件交付。同勅令19号で那覇・首里の区制
     (以下略)

・間切島吏員の改善
    明治30年 勅令第56号で「各間切島吏員規定」を発布。
      間切及島の番所または蔵元は間切役場と改称、その長は地頭代、頭以下の旧吏員を廃止。
      間切に間切長、島に島長、その下に収入役・書記、村に村頭を置いた。
      宮古・八重山は特例を設け、一島一間切とし、間切長及び書記を置かず、
      その職務は島司及島庁書記が職務を行い、収入役は知事が任命。

・間切島会の組織
    明治31年12月勅令第352号をもって・・・・

・特別町村制の施行
    明治41年3月勅令第46号「沖縄縣及島嶼町村制を発布、翌年4月実施。
      間切島を村に(従来の村を字に)改め、町村長、収入役各一名・書記若干名。

・区制の改正
    明治41年3月勅令第43号を以て区制の改正

・縣制施行
    明治41年法律第二号を以て府縣制中沖縄圏に関しては勅令を以て特例を設ける。
      (略)

・特例の撤廃
     (一部略)
  明治31年に徴兵令の実施、明治32年に沖縄縣土地整理法を実施して同36年10月これを
        完了し、同37年1月1日より地租条例及国税徴収法を施行。
        ただし、宮古・八重山は同36年1月1日より施行。

 ・大正15年6月30日全国一律に郡役所及島庁廃止される。
  
・廃藩置県以来の歴代長官及び任期
   明治の県令・知事は前日に掲載(大正、戦前の昭和は略)
             


2021年7月23日(金

 台風で庭木の様子を確認。竹垣や草木は雨が降ったので生き生きしている。バナナは強風で揺らいで葉は折れているが、実は大丈夫。二、三日強風があるようだが倒れないで残れるか?明治の出来事を調べていると県令・知事が登場するので頭に入れて置くことに。今日も台風。

【明治の県令・知事】(大正・昭和迄続)

①県令心得 木梨清一郎  (山口県人)(明治12年3月~仝年5月迄)(二ヶ月間)
②県令    鍋島直彬    (佐賀県人)(明治12年5月~仝14年5月迄)(二年間)
③県令    上杉茂憲    (山形県人)(明治14年5月~仝16年4月迄)(一年十一月間)
④県令    岩村通俊    (高知県人)(明治16年4月~仝年12月迄) (八月間)
⑤県令    西村捨三    (滋賀県人)(明治16年12月~仝19年4月迄)(二年四月間)
⑥知事    大迫貞清    (鹿児島県人)(明治19年4月~仝20年4月迄)(一ヶ年間)
⑦知事    福原 實    (山口県人)(明治20年4月~仝21年9月迄)(一年五ヶ月)
⑧知事    丸岡莞爾    (高知県人)(明治21年9月~仝25年7月迄)(三年十月間)
⑨知事    奈良原 繁   (広島県人)(明治25年7月~仝41年4月迄(十五年十ヶ月間) 

沖縄県の郡区制の勅令】(明治29年) 

  首里は中頭、那覇は島尻に属するが首里区、那覇区とし区長を置く。

  中頭郡(19間切)
      ①浦添間切 ②西原間切 ③宜野湾間切 ④中城間切 
      ⑤北谷間切 ⑥読谷山間切 ⑦越来間切 ⑧美里間切 
      ⑨具志川間切 ⑩勝連間切 ⑪与那城名間切 ⑫泡瀬島

  島尻郡(11間切・島)
      ①小禄間切 ②豊見城間切 ③兼城間切 ④東風平間切 
      ⑤高嶺間切 ⑥真壁間切 ⑦喜屋武間切 ⑧摩文仁間切 
      ⑨具志頭間切 ⑩玉城間切 ⑪知念間切 ⑫佐敷間切 
      ⑬大里間切 ⑭南風原間切 ⑮真和志間切 ⑯仲里間切
      (久米島) ⑰具志川間切(久米島) ⑱渡嘉敷間切(慶良
      間島) ⑲座間味間切(慶良間島) ⑳粟国島 ㉑渡嘉敷
      間切(慶良間島) ㉒渡名喜島 ㉓伊平屋島 ㉔鳥島

  国頭郡(9間切)
      ①名護間切 ②恩納間切 ③金武間切 ④久志間切 ⑤国頭間切
      ⑥大宜味間切 ⑦羽地間切 ⑧今帰仁間切 ⑨本部間切 
      ⑩伊江島
  伊平屋群島
      ①伊平屋島 ②伊是名島 ③渡名喜島 ④鳥島 
 (先島)
  宮古郡(①平良間切 ②下地間切 ③砂川間切 ④多良間島)
  八重山郡(①大浜間切 ②石垣間切 ③宮良間切 ④与那国島)

【国頭郡今帰仁間切の村】
   ①今帰仁村 ②親泊村 ③兼次村 ④志慶真村 ⑤諸喜田村 ⑥與那嶺村
   ⑦仲尾次村 ⑧崎山村 ⑨平敷村 ⑩謝名村 ⑪仲宗根村 ⑫岸本村 ⑬玉城村
   ⑭寒水村 ⑮湧川村 ⑯天底村 ⑰勢理客村 ⑱上運天村 ⑲運天村 ⑳古宇利村           
  
▲強風にあおられたバナナ


2021年7月22日(木)

 山原(やんばる)の150余の字(ムラ・シマ)の踏査を、ムラヤー(公民館)・神アサギ・ウタキ・集落の形態・湧泉・拝所・按司クラスの灯籠・香炉・海神祭(ウンガミ)・ムラ・シマ講座などをキーワードで踏査してきた。30年余、山原のムラ・シマを踏査していると、ムラ・シマは歴史は生き物だと実感させられる。雨降りや台風の時もあった。夏場の天気のいいときが多かったのであるが、台風や悪天気のときに「歴史は変る」のだと実感させられてきた。調査でムラ人と出会い、一言二言の言葉を交わすことができた時はラッキーである。それと、各ムラは異なるのだとの認識でいる。その視点が各地に足を運ぶ原動力になっている。

 国頭村安波は2011.12.20の大学での講義と安波での祭具調査をさせてもらったので、安波公民館で報告したものである。シニグ調査は平成10年頃。神アサギが作り替え前。

【国頭村安波のシニグ】
・シヌグ(旧暦7月最初の亥の日)(1日目)
・場所:ヌンドゥンチ(夕方6:30~)
・参加者:神人 当局  午後8:00~(一般:女性のみ)
・供え物:米・酒・スーギ(白玉粉に砂糖少々)・線香
       神酒づくり(婦人会) 囲い木の切り出し(ウンジャミ用)
・ウガンの順序

  ①ヌンドウンチの中でのウガン ②ヌーガミ(ウタキ) ③ニデー

  ④タモト ⑤ナハヤ ⑥川 ⑦山

  ・シニグ(当日)(午後4:00~(神人・当局)

          (午後6:00~(一般)

  ・場所 ①ヌンドゥチ ②ウフェー ③大ヤ ④ミーヤー ⑤御神(ウガミ)

       ⑥ナハヤ ⑦アサギ

  ・供え物:焼き魚(2匹:背開き・翌日まで保管)

      ミキ2本(1本は翌日のウガンに使う)・太鼓・テープシヌ用

      インコウ棒・パーランクー・虫二、三匹

      線香 12束

 ※虫払いは巳生れの人が行う。

  ①アサギにてシヌグ用の曲で区長が踊る

  ②神酒を全員の男子陣に配り、ヌーガミ、海の神、アサギ

  ③イノシシ狩り、魚取り、航海安全の祈願

  ④アサギ内でウシデークを踊る(神人や当局)

  ⑤全員でアサギ前の広場でウシデークをヒラバンタ広場で婦人全員で踊る。

 ・シニグ三日目(後夜祭)(午後6:00~、神人+当局)

  ①ヌンドゥチ ②スガリバンタ

    ミキ・焼き魚・線香

   ウガンが終るとスガリバンタでウサンデーして御開き)

※以下の供え物の画像は安波区公民館提供
 











2021年7月21日(水)

 「沖永良部島と琉球国」のことが頭をよぎっている。過去の調査記録を取り出して思い出している。首里王府と遠くにある喜界島により琉球との関わった時代の痕跡が濃密に遺っている印象である。


喜界島をゆく(2005年4月30日~5月2日)

 2005年4月30日の午後4時半頃、喜界島に入る。天気は曇、時々小雨である。那覇空港から奄美空港経由での喜界島入りである。奄美空港から喜界島へは、乗り継ぎのため三時間ばかり待ち時間がある。奄美の(笠利町:現大島市)を回ろうかと、一瞬よぎったのだが、今回は喜界島に集中することに決める。少し時間があるので、空港近くの奄美パークと田中一村美術館で奄美の感覚をつかむことにした。

 喜界島空港に降りると、早速車を借りる。空港近くは市街地を形成しているので、またそこに宿泊するので5月2日の朝の調査が可能である。それで反時計周りに喜界島を回ることにした。湾のマチを抜け、中里へ。中里・荒木・手久津久・上嘉鉄・先山・蒲原・花良治・蒲生・阿伝とゆく。阿伝で日が暮れる。嘉鈍から先は5月1日(二日目)に回ることにした。戻ることのできない性格なので、二日目にゆく嘉鈍より先の村々は、素通りしながら宿のとってある湾まで。宿に着いたのは午後7時過ぎである。島の一周道路沿いに集落がある。喜界島の集落の成り立ちの特徴なのかもしれない。それと一周線沿いの集落のいくつかは、台地あるいは台地の麓からの移動集落ではないかと予想している。が、まずは集落にある公民館と港(今では漁港)を確認することから。公民館は防災連絡用のマイクを見つければいい。

 琉球と喜界島との関わりは、どのようなことから見ていけばいいのか。確固たるキーワードを持っての喜界島行きではない。島の村々の集落に足を置いてみることで見えてくるのはなんだろうか。そんな単純な渡島であった。島の数ヵ村の集落を見ていくうちに、喜界島と琉球との関わりを見るには漂着船の記事ではないか。というのは、今では整備された漁港であるが、それでも岩瀬が多いところである。そのような岩瀬の多い所への舟の出入りはなかなか困難である。よほどの事情がないと入れないのである。よほどの事情というのが、琉球から薩摩へ向かう船。あるいは逆の薩摩から琉球へ向かう途中、嵐にあい、喜界島に漂着したことが予測できる(特に近世)。

 それから西郷隆盛や名越左源太などのような道之島への流人である。島に与えた流人(特に薩摩からの流人)の影響も大きかったであろう。近世であるが琉球からの喜界島への流人の例もみられる。もちろん大きな影響を与えたのは薩摩からの役人達である。そんなことを思いふけながら、二時間ばかりの数ヶ所の集落めぐりである(一日目)。

【喜界島の野呂(ノロ)】

 『大島 喜界 両島史料雑纂』に「喜界島史料―藩庁よりの布令論達掟規定約等」(明治41年中旬調査:読み下し文と訳文)がある。その中に「野呂久目」について何条かある。その条文は安永7年(1778)のようである。1611年に与論以北は薩摩の支配下に組み込まれ、薩摩化させられていったが、この野呂は古琉球から近世に渡って根強く残ってきたものである。この段階でも、いろいろ禁止されるが、その後までひきづり、ノロ関係の遺品が遺されている。

  一 野呂久目春秋の祭一度づつ花束一升づつ、その外の神事はさしとめ候
     ただし村々みき造り候義さしとめ候
   一 野呂久目、湾間切入付而は所物入用これある由候間、以来さしとめ候
   一 右湾方の野呂以下代合の節、ふくろ物と名付け、米相拂い来り由候得ども、向候得ども、
     向後差とめ候
   一 野呂久目神がかりの節、前晩より右湾えさしこし来る由候得ども、向後さしとめ候

ノロの弾圧
  喜界島のノロも大島群島同様、安政7年の禁止令があり、弾圧された。ノロもフドンガナシも
  隠れて、明治に至る。
  赤連の「新山家系図は明治になって不明。

【喜界島の主な出来事】

 ・1441年 大島は琉球に従う。
 ・1429年 琉球国は三山が統一される。
 ・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
 ・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。 
       その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
       之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
 ・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
 ・『球陽』に「鬼界」とある。
 ・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
 ・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した伝承がある。
 ・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承がある。
 ・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半に琉球の
      尚徳王が築いたともいう。
 ・1266年に琉球王国に朝貢したという?
 ・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ
 ・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?
 ・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。
 ・琉球国王尚泰久のとき(1454~61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神記』)。
 ・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
 ・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山世譜』)。
 ・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される
 ・1554年「きヽきのしとおけまきりの大くすく」(辞令書)
      (間切・大城大屋子の役職)
 ・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
    (ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)
 ・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
 ・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする。
 ・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・荒木間切の
    五間切)
 ・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切の六間切)
    (間切のもとに村々がある)

 ・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めている
     (豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)

http://yannaki.jp/kakogazou/501s01.jpg
       【喜界島の集落】

 喜界島には源為朝は伊豆大島に流され、1165年に琉球に渡ろうとしたが喜界島の沖合いに流され、船上から島に向かって放った矢がささった所から水が湧きでた場所が「雁股の泉」だという源氏に関わる伝承。そして平家の武将が射場跡だという矢通場がある。また長嶺村には平家森、志戸桶の沖名泊に平家の上陸地などがあり、平家・源氏に関わる伝承を根強く伝えている。それと琉球と関わる伝承も。

 喜界島には「嶺」のつく村名に川嶺・坂嶺・長嶺がある。今帰仁村で大嶺原の小字がある。呼び方としてはプンニである。プンニは大きな骨(嶺)のことである。喜界島の嶺のつく村名は字の通り「嶺」からきた村名であろう。、

 喜界島の歴史を見ていく場合、間切(まきり)である。喜界島には五つの間切があり、間切の村がどうなっているのか。

 ①湾間切・・・・・・・湾・赤連・中里・羽里・山田・城久・川嶺
 ②荒木間切・・・・・荒木・手久津久・上嘉鉄・蒲原・花良治
 ③西目間切・・・・・西目・大朝戸・坂嶺・中熊・先内・中間・伊砂・島中・滝川
 ④東間切・・・・・・・早町・白水・嘉鈍・阿伝・塩道・長嶺
 ⑤志戸桶間切・・・志戸桶・佐手久・小野津・伊実久


2021年7月20日(火)

沖永良部島のシニグ

 台風対策で物が飛ばないように、雨よけの屋根の固定。バナナは収穫を諦めながらも支えを二重に。先日植えた草花は雨で根付くでしょう。連休で台風後の片付けと、植え残した草花の植え付け。

 沖永良部島を琉球王国のノロ制度と沖永良部島を描く。遺る古琉球の時代のノロ辞令書とノロ遺品と沖永良部島。1500年から17世紀前半。家文書に遺るこの時代の役職名。

・グスク時代の集落の形を沖永良部島にみる城(グスク)集落(高地性集落?)
  ①内城 ②玉城 ③小城 ④上城 ⑤下城 ⑥大城 (新城)
・「おもろ」に見る沖永良部島
・山北三王時代と沖永良部島
・北山(今帰仁)の「中北山」の滅亡とハニジ王(長男)、沖永良部島へ派遣された三男
・山北ハニジ王滅亡と沖永良部島。
・シニグの沖永良部島への移入とシニグ祭
・ノロ制度と沖永良部島、その遺品(1500~17世紀)
・1611年以後の琉球側から見た沖永良部島
・中国の冠船が琉球に来る時は、
  一、大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島は琉球の属島と答えること。
などなど。



①与那嶺の大屋子宛辞令書(嘉靖42年:1563)(中城ノロ家)
②東の掟宛辞令書(嘉靖42年:1563)(具志堅上間家)
③浦崎の目差宛辞令書(萬暦14年:1586年)(中城ノロ家)
④玉城の大屋子辞令書(萬暦20年:1592)(中城ノロ家)
⑤辺名地の目差職叙任辞令書(萬暦32年:1604)(仲村家)
⑥中城ノロ職叙任辞令書(萬暦33年:1605)(中城ノロ家)
⑦具志川ノロ叙任辞令書(萬暦35年:1607)(仲村家)
⑧与那嶺の大屋子叙任辞令書(萬暦40年:1612)(中城ノロ家)
⑨謝花の掟叙任辞令書(萬暦40年:1612)(仲村家)
⑩与那嶺の大屋子叙任辞令書(崇禎16年:1643)(中城ノロ家)
⑪中城ノロ叙任辞令書(隆武8年:1652)(中城ノロ家?)
⑫本部目差叙任辞令書(順治13年:1654)(中城ノロ家)
⑬西目差叙任辞令書(康煕3年:1664)(中城ノロ家)
⑭上間大屋子叙任辞令書(寛文7年:1667)(中城ノロ家)


・金武間切の恩納のろ職補辞令書(万暦12年:1584)
・国頭間切の安田里主所安堵辞令書(万暦15年:1587)
・国頭間切のやすだよんたもさ掟知行安堵辞令書(万暦15年:1587)
・伊平屋の仲田首里大屋子お知行安堵辞令書(万暦15年:1587)
・羽地間切大のろ職補任辞令書(仲尾のろ)(天啓2年:1623)
・羽地間切の屋嘉のろ職補任辞令書(天啓5年:1625)



2021年7月19日(月)

 「今帰仁村兼次誌」のグラビアの画像の整理。画像(1000点余)のキャプションを明日の編集会議で行う予定でしたが、台風の接近で延期。





2021年7月18日(

 猛暑の中での畑作業。作物の収穫は考えてなく放地に草花を植える。土が硬く鍬を打つと腕に響く。昨日の作業で、今日は左腕で物が持てず。どうにかもらってきた苗木を植える。午後からは熱帯低気圧の発生との天気予報があり、「寡黙庵」の七、八段の房がぶら下がっている。支えきれず傾いてきているので脚立で支えることに。

 二枚の写真。一枚は羽地間切の「仲尾のろ」(1662年)所収の辞令書。もう一枚は運天の写真。辞令書は『かんてな誌』を編集された故新城氏からその所在を伺っていた(昭和58年頃・宜野湾氏の某家?)。その後、名護市仲尾のノロ家の文書調査に関わった(名護市史)が辞令書はなかった。

 もう一枚は運天港である。英文で説明されているが、はっきりしない。外人さんの撮影であるが「運天にきたときに、なに何かよくわからないが・・・」とある。三島由紀夫の「潮騒」の映画のときかな?と思いつつ。でも台風の様子を撮影したのではないか? 映画を見ていないので確信がもてず。もしかしたら、護岸工の完成を祝ったのではと。護岸工事はいつだったのか、その年をさがしてみることに。

 「沖永良部島」のことを頭の中で考えめぐらしてみたが、リモートできる時間、場所(自宅)にいないので口頭で連絡することに。



  
 


2021年7月17日(土)

 これから「寡黙庵」で先週もらった草花を植えることに。暑いので全部植えることができるか。先週は数棟しか植えることがでず。沖永良部島(和泊町)から計画書が届いている。アナロクのの取り残されたのでリーモートでの参加ができないので文書で、それでいいのかの確認をすることに。草花の植え付けをしながら文案を考えることに。


2018524日(木)のメモ

 玉城の古島原にあった玉城集落が現在地に移動したのは『球陽』の記事によると1863年のことである。すると『琉球国由来記』(1713年)の記事は移動前のことが記されていることになる。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)は移動後ということになる。玉城古島原とは別にスムチナウタキのある地は、アザナ原である。アザナは首里城内にもあり、見通しをする場所のようである。それからすると、玉城のアザナ原もウランサン伝承をがあり、祈りからみると唐旅・大和旅、先島なども含めた浦々の航海安全であるので王府のクニレベルの祭祀である。

 『琉球国由来記』(1713年)の玉城村のコモキナ嶽神名コシアテモリノ御イベとある。玉城巫火神(玉城村移動前の場所)、麦稲四祭、年浴、大折目、柴指、芋ナイ折目、三日崇がある。外に山留があり、玉城巫の祭祀場である。その中に大折目があり、玉城村掟、玉城村百姓、謝名村掟、百姓、中宗根、謝名、平識(敷)、中曽根の四ヶ村が関わっている。四ヶ村の百姓が集まって行われるコモケナ(スムチナ)御嶽は当時から同じ場所である。四ヶ村の祭祀は玉城巫の管轄である。スムチナ御嶽でのウガンが終わると、それぞれの村でのウガンがある。玉城村はスムチナ御嶽のウガン(旧四月十五日:タキヌウタン)が終わると故地での神アサギでのウガンが行われていたと見られる。現在、玉城はスムチナウタキから故地(古島原)は行かず、移動した外間原にある神アサギで行っている。(他の字はスムチナウタキからそれぞれの字へいく。自分の字に戻る途中拝む場所があるが略されている。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)
 この記録は玉城集落が現在地移動後の場所で、神アサギをはじめ数カ所の拝所が集められている。他の村(字)でも拝所が合祀された時期でもある(神社化)。現在の玉城は明治36年に玉城村・岸本村・寒水村の合併村であるが、祭祀は一本化されない。今でも神アサギは三ヶ村跡にある。

 玉城の神人の員数
   玉城ノロクムイ一人
 玉城村の拝所(五ヶ所)
   ・ノロ火神所一ヶ所 ・内神火ノ所一ヶ所 ・島ノ大屋子火神一所 ・神アシャゲ一ヶ所
   ・百々喜名嶽(スムチナ嶽のこと)


2018523日(水)調査記録

 来月のムラ・シマ講座の下見で今帰仁村の玉城の集落の故地へ。尚泰王13年(1863年)の「本年、今帰仁郡(間切)の寒水・岸本・玉城等の三村の、改めて村籍を還す准す」の確認でもある。バスで案内するので通路の確認。グスク学ぶ会の長嶺さんをさそう。(詳細は講座で)

  
   ▲玉城村の故地(古島原)           ▲御嶽(ウタキ)内にある遙拝所(二ヶ所)

 
                     
▲御嶽(ウタキ)のイベ

  
▲移動を記念碑した碑(昭和12年建立)    ▲故地から移動してきた殿    ▲玉城村の神アサギ


2018530日(水)調査記録

 以前スムチナウタキは「複数村(ムラ)のウタキとしたことがある。「奉納寄進」や年号の刻まれた石の香炉を集めてみると「立神」(旅立や無事帰郷)との関わりのあるウタキであることがよくわかる。クボウのウタキの「首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也。」のウタキであることが主である。祈りの百果報、五穀豊穣、航海安全などを祈るウタキである。

・複数村(ムラ)のウタキ(御嶽)―今帰仁村玉城のスムチナ御嶽―

 スムチナ御嶽(ウタキ)は今帰仁村(間切)中央部の玉城村(現在の字玉城)に位置する御嶽である。『琉球国由来記』(1713年)には「コモキナ嶽:神名コシアテモリノ御イベ 玉城巫崇所」とあり、玉城巫は玉城・謝名・平敷・仲宗根の四か村の祭祀を管轄する。このウタキの特徴は玉城・謝名・平敷・仲宗根にそれぞれウタキを持っているが、各村の御嶽とは別に四カ村のウタキとしてスムチナ御嶽が設けられている。集落の発生と関わる御嶽がある中で、スムチナ御嶽は集落の起源と直接関わるものではなくノロ管轄の制度化に伴って設立された御嶽と捉えることができそうである。

    ・玉  城・・・・ウタキ有り(タマグシク)
    ・謝  名・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)
    ・平  敷・・・・ウタキ有り(ウガン)
    ・仲宗根・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)

 スムチナ御嶽は標高143mの杜で玉城ノロ管轄の四つの村を見下ろせる場所にある。逆を言えば四つの村から見える位置に御嶽を設けている。旧暦4月15日のタキヌウガンの時は、四カ字の人たちがスムチナ御嶽の中腹のウカマ(広場)に集まり待機する。四カ字の神人達は、さらに頂上部のイベまで行って祈りを捧げる。

 イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(今帰仁間切惣地頭職)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。間切役人の「口上覚」に立神(タチウガン)が今帰仁グスクで行われている記事が散見される。このスムチナウタキでも行われたと見られる。それが、スムチナウタキをはじめ、謝名ウタキ、平敷のウタキ、勢理客のウタキなどにあるイベの香炉。

 .
   ▲ウカマに集まった村の人たち      ▲ウカマでイビに向って祈りをする神人

.
     
▲スムチナ御嶽のイビ         ▲イビの前にある三基の香炉
.
  ▲イビへの道に左縄が張られる    ▲後方の山の少し盛り上がった部分がウタキのイベ

  
 ▲勢理客のイビの前の香炉      ▲謝名のウタキのイビの香炉    ▲平敷のウタキのイビの香炉 


2018529日(火)調査記録

 今帰仁村玉城のスムチナ御嶽で行われるタキヌウガンの調査。四ヶ村(字)が参加しての祭祀。玉城ノロ管轄の祭祀である。スムチナ御嶽には四ヶ字の人々が集まり、そこでのウタンが終わるとそれぞれの字でのウガンがある。今回は仲宗根に参加予定。玉城になるかも。

【今帰仁村玉城のスムチナウタキでのタキヌウガン】

 旧暦415日に行われるタキヌウガン。玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ヶ字(アザ)合同の祭祀である。(玉城は寒水村と岸本村が合併した村(ムラ)でタキヌウガンに参加するのは玉城のみ)

 コモケナ(スムチナ)嶽そこでの祭祀や唱えについては、なんら記されていない。しかし、四ヶ村合同の祭祀となると重要な祭祀であったと見られる。今帰仁グスク近くにある「コバウノ嶽」がある。そこでの祭祀は国(クニ)レベルの祭祀だと言い続けている。北山監守と今帰仁アオリヤエ一族が首里に引揚げる(1666年)までは今帰仁アオリヤエの崇所であったとみている。『琉球国由来記』(1713年)の頃はクボウノ嶽は今帰仁ノロが肩代わりしておこなっていた。

 
謝名村に、アフリノハナト、云う所アリ。昔、君真物出現之時、此所ニ、黄冷傘立つ時ハ、コバウノ嶽ニ、赤冷傘立、
 又コボウノ嶽ニ、黄冷傘立時ハ、此所ニ、赤冷傘立と、申伝也。
 
 
また、コボウノ嶽での唱えは、以下の通りである。
  
首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、
   島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也。

 スムチナ御嶽もクボウヌ御嶽と同様タキヌウガンの名称でウランサン伝説があり、国(クニ)レベルの祭祀ではなかったか。

  
 
  ▲スムチナ御嶽のイベ       ▲スムチナ御嶽のウカマでイベに向かって拝む(四ヶ字の方々)

 スムチナ御嶽でのウガンがすむと、玉城は神アサギへ、仲宗根はヒージャーガー、集落内のアガリギッチョへ、謝名はサンケモーへ、平敷は神アサギへ。そこでタキノウガンが無事終わりましたのでウガンで祭祀は閉じる。その後、村人達がオミキを酌み交わし、玉城は神アサギ内でご馳走を前に直会。

 
  ▲ヒージャーガーでのウガン     ▲アガリギッチョでのウガン

 仲宗根のウガンがの最終地でのウガンが終わると玉城の神アサギへ。(以下は玉城)

 
    ▲玉城の神アサギで             ▲玉城の神アサギ内で直会

 
    ▲謝名はサンケーモーでスミチナウタキに向かって返礼


2021年7月16日(金)

 「沖永良部島」(和泊町・知名町)の歴史を頭の片隅に置いておく必要あり。まずは、島に渡りムラム ラ踏査しながら考えを巡らすのであるが、コロナで渡れないので、まずは沖永良部島を過去の踏査記録(30年前)から記憶を呼び戻してみることから。

 「琉球のノロ制度」が及んでいる時代は1500年代以後である。それは奄美に遺るノロ辞令書や「おきて」(掟)「めさし」(目指)などの首里王府の印のある辞令書からもわかる。それは首里王府が中央集権をなした後の痕跡だと読み取れそうである。それ以前の時代は「オモロ」や「三山の時代」、残存しているシニグの分布と島への移入、加慶呂間島に遺る神アサギ、高地性集落とみられるグスクなどを手がかりにしてみるか。

 平成5年に「北山文化圏」とか、奄美を見る視点としと「薩摩と琉球文化」のクサビ形として論じたことがある(『なきじん研究3号―今帰仁の歴史』)。沖永良部島から何を求められているか、まだわからないが・・・

 

沖永良部島のノロ家                                     

 沖永良部島のlノロについて把握しておきたい。それは古琉球と奄美の関係を見ていくことにつながると考えているからである。奄美地方全域についてみていく必要があるが、まずは11年前にまとめた「奄美のノロ制度」(2007年11月)を把握してから。当時、沖永良部島に辞令書が確認されていなかったことから触れなかったような。沖永良部島の四家に勾玉や簪などノロ関係遺品があり、ノロへの辞令書の発給と勾玉や簪などの発給はほぼ同時ではないかと考えている。「奄美のノロ制度」をまとめたとき、辞令書は視野に入れたが、ノロ家の遺品については視野になかった。というよりは、それらの遺品を歴史の流れに組み込むことができなかった。これまで、ノロ家の遺品を見てくると、ノロが関わる祭祀が、琉球国を統治する手段であることに気づかされる。祭祀そのものが、琉球j国が統治していく公休日(神遊)であり、祭祀の祈りが国の安泰、航海安全、五穀豊穣(税)などである。祭祀は歴史の変化しにくい部分を踏襲している。

 調査の目的は、ノロ家の遺品がいつ作られたのかを目的としているわけではなく、1500年代中央集権国家形成のときの一翼をになったノロ制度がどう継承され、また奄美地方にノロ遺品を通して古琉球の姿をみていこうとするものである。(沖之永良部島には以下の四件のほかにもノロ家があるが、目にしていないので触れないが、確認してみたい)

 その視点で沖永良部島のノロ家の遺品を再度目にしておきたい。(画像は今回2018年4月13日撮影)

【沖永良部島のノロ関係遺品】

・和泊町国頭ノロ(沖吉家)
  ①玉飾り(一連:玉数77個数)
  ②玉飾り(二連つなぎ)
  ③玉ガーラ(一連:水晶19個)

   (今回未調査)

・和泊町畦布ノロ(森家)
  ①玉ガーラ(一連:勾玉1個、水晶玉23個)
  ②玉ガーラ(一連:勾玉なし、水晶玉20個)
  ③玉ガーラ(三連を一か所で結ばれている)(勾玉なし、水晶玉77個)
  ④簪
  ⑤シニグ旗
  ⑥衣装
  ⑦丸櫃(大・小あり)(漆塗、それぞれに掛子あり)
  ※森家の近くに

    

・知名町瀬利覚ノロ(林家)
  ①玉ガーラ(一連:勾玉2個、水晶玉56個)
  ②丸櫃(漆器・大部剥離している)

     

・知名町住吉ノロ(福永家)
 ①簪(かぶ)と髪差
 ②馬の轡
 ③玉ガーラ(勾玉は木製?)

 


 

※ノロ家の遺品調査は2009年10月26日~31日の奄美調査に参加。沖永良部島は10月29日、30日。「沖縄のガラス・玉等製品関係資料調査報告書」(沖縄県教育委員会:2011年3月)で「ノロ祭具の中の玉製品」として報告。そのとき、ノロ家の簪や辞令書やシニグ旗や丸櫃などの撮影をする。上の画像は2018年4月13日撮影。


2021年7月15日(木)

 今帰仁間切の岸本村は現在字玉城(玉城・岸本・寒水)(明治36年)に統合されている。今帰仁の村(字)の変遷の再確認をしている。

 「村の変遷」を整理しながら、いつも疑問に思っていることがある。「・・・まきり」(後の間切)と「・・・はる」(後に原」)は古琉球の辞令書や金石文に出てくる。ところが「・・・むら」(村)が出てくるのは近世になってからである。村名は出てくるが、「・・・村」と出てくるのは真和志間切の儀間大やくもい知行辞令書(天啓七年:1627)に、「きま村」と村がついている。

   首里乃御美事
      真和志間切きま村より
      知行高三拾石ハ
      南風のこおりの
      一人きまの大やくもいに
      給申候
    天啓七年六月廿二日

 「あめく」「あめく」「きま」大ミね」「かなくすく」「へなち」「くしかわ」「ちやはな」「やか」などとあるが、それに・・・村と村がついていない。近世以前の「むら」と以後の村の概念は違うのではないか。(すでに解き明かされていると思うが私の未確認か)

2010年3月1日(月)メモ

 今帰仁間切に岸本ノロがいた。現在、岸本村は玉城に統合されている。統合は明治36年である。岸本ノ加ネイ(岸本ノロか)に関する以下の資料がある。4日に『玉城誌』の編集会議あるので話を引き出すための資料を整理。玉城(岸本ノロ管轄の岸本村と寒水村の祭祀)を紹介する。玉城・岸本・寒水の三ヶ村は、村移動やノロ管轄、村の合併などがあり、また祭祀との関わりなど複雑である。そのため、村別とノロ管轄に分けて整理が必要。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃)の岸本村の祭祀場として三ヶ所があげられている。ノロは岸本ノロクモイである。岸本ノロは岸本村と寒水村の祭祀を管轄する。行政は三村を統合するが祭祀は一体化しない法則が見られる。神アサギは今でも玉城神アサギ・岸本神アサギ・寒水神アサギがある。

   ・ノロクモイ火神 ・神アシアゲ ・嶌ノ大屋子火ノ神(岸本村)
   ・根神火神 ・神アシアゲ ・ウホンニヤ嶽(ウフンジャ嶽のことか)

  沖縄縣指令第一四五號
     国頭郡今帰仁村字玉城三百四十三番地
           大城清次郎
            外七名

   大正二年十月十七日附願岸本
   の加ネイ大城カマト死亡跡職
   大城カマド採用ノ件認可ス
     大正三年三月十八日
   沖縄縣知事高橋啄也 沖縄県知事印
    
https://archive.fo/uwuQW/caea50ac9d05a0e8cddd6833536a48e839a1b3da.jpg  https://archive.fo/uwuQW/b6c63e52a817ea90dd5bf15bbbe204310f126c3b.jpg

 『琉球国由来記』(1713年)に、どう記録されているか。

 岸本村にオホヰガワ嶽(神名:ヨロアゲマチュウノ御イベ)とある。岸本村は二度ほど移動しており、『琉球国由来記』(1713年)頃は、ウタキの位置からすると、寒水村(寒水原)のあった場所にあったと見られるので、注意が必要。同書の「年中祭祀」の所に岸本巫火神と神アシアゲがある。岸本巫の管轄である。岸本巫が管轄する村は岸本村と寒水村である。

 『琉球国由来記』(1713年)の神名とでてくるが、それはマク・マキヨ(小集落)ではないかと見ている。岸本村のヨロアゲマチュウは岸本村のマク名とみられる。

 岸本巫火神で行われる祭祀(『琉球国由来記』(1713 年)は、以下の六つである。岸本・寒水の二カ村の百姓と岸本巫が関わる。
    ・麦稲祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナイ折目
    ・山留
    ・大折目次三日

 岸本の神アシアゲでの祭祀は、百姓・居神・岸本巫が関わる。
    ・麦稲穂祭
    ・麦稲穂大祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナイ折目

 寒水村は『琉球国由来記』(1713年)にウタキの記載はない。神アサギでの祭祀は、
    ・麦稲穂祭
    ・麦稲大祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナリ折目
    ・大折目次三日 


2021年7月14日(水)

 本部町具志堅と北里(新里)を通る宿道(スクミチ:郡道、国道505)へ。新里のワイトゥイは大正6年の郡道整備で開削。新里側の一部スクミチ(宿道)と重なる。新里入り口のワイトゥイ(切り通し)が開削される前は、新里の馬場から突き当たりの坂道を上るルートが宿道であった。ワイトゥイが開削された時、板門墓は移転したのではないかと聴く。現新里入り口のワイトゥイから具志堅への郡道()大正6年)は田んぼの中を通したという。田の湿地にワラビ(コシダ)や木の枝を埋めたという。田を郡道にとられたことで地主から不満がでたという。車が通るたびに道路は揺れたという。そのような道路は今泊にもある。
 
 具志堅の集落を抜けブジョウモー(奉行毛)とブジョウビラ(奉行坂)へ。奉行毛は本部の番所からと今帰仁運天番所からの文書類の受け渡しの場所。そこに施設があったかは未確認。

 天気がよかったが、大嶺原の遠見所までは行けず、しかし具志堅の山手から伊是名・伊平屋島が間近に見える。


▲具志堅から北里へのワイトゥイ▲具志堅への道筋(大正6年)

▲本部町具志堅の奉行毛 ▲奉行坂(ブジョウビラ)


2021年7月13日(火)

 昨日の粟国島もそうであるが、徳之島でもいくつもの発見があった。粟国島では今帰仁御拝所や字浜の海岸線に先祖の沖縄本島への一門ごとの遙拝所があり、また梵字碑(1692年)(浜の観音堂内)
   粟国村浜にある観音堂内にある梵字碑
   大清康煕三十一壬申 立春 花城光門


 徳之島の手々でのノロ辞令書、面縄の恩納、沖縄の恩納村の恩納の語義が紐解けたような。徳之島の伊仙町の阿権集落、そこでもグスク時代の高地性集落の様子がうかがえる。過去に訪れた各地を振り返ることの面白さ。
 
2009
年5月10日(日)

 亀津からスタートし、伊仙町の村々を訪れながら、神社と集落の関わりの視点でみることはどうかと。村々の地理感覚が不十分なため、なかなか体に落ちてこない。その中で阿権の集落は、他の村と異なった習俗や文化をもった一族の集団ではないか。村名もそうだし、阿権神社の近くにある墓地をみると、墓塔に「平」姓が数多くみられた。それと高地性集落である。石積みの屋敷が目立ち、それが阿権村の人々の気風が表れているのではないか。最初にそんな印象ではいた村である(平一族は琉球王府時代、島津藩の領地時代、さらに明治に至って豪農、大地主であったようである(「村落階層構造の史的展開」『徳之島調査報告書』4 沖国大南島文化研究所。参照)

 『琉球国郷村帳』(1668年)や『正保国絵図帳』に「あこん村」と登場する。近くの「木之香生活館」でボール遊びをしている子どもたちに声をかけてみた。犬田布の小学生。 阿権の子供達ではなかった。阿権神社を中心として、その裾野に集落が展開しているようにみえる。グスク時代の集落形態に近いのではないか。平家文書は手にしていなが、古琉球までは遡れるかもしれないが、さらにグスク時代まではどうか
(集落の詳細調査をしてみたいもんだ。すでになされているであろう)


      伊仙町阿権神社       古めかしい石垣がある阿権集落


  伊仙町木之香生活館の広場で。犬田布から遊びにきたという。

 
    伊仙町上面縄の高千穂神社        高千穂神社からみた麓の集落

 
   伊仙町面縄の坂元権現            坂元権現からみた麓の集落

【徳之島】(伊仙町)
(3)

伊仙町

グスク

世之主

ノロ

拝山・ティラ山

地名など

①喜 念

アジマシ(按司の田)・按司屋敷

②佐 弁

グスクダ

佐弁神社

③目手久

八幡神社


④阿


浅間按司城跡

阿三は浅間・カムイ焼窯跡


⑤面 縄
 (上面縄)


ウガングスク(恩納城)・シラハマグスク


ノロ


坂元権現・高千穂神社

ウンノーアジヤシキ・クランシキ・空堀・見張所・曲輪

⑥検 福

トラグスク

ノロ

検福穴八幡神社

 中 山

 山岳城跡・中山城(ネーマグスク)

 女王伝説

 

 

 

トゥール墓 



⑧伊 仙

安住寺跡地に八幡宮と高千穂神社を合祀した義名山神社

安住寺は明治6年に廃止、石象はアガレン山へ。像は鄭迥(謝名親方?)


⑨阿 権

ウードゥ(城跡)・ターミグスク

平家に首里之主由緒記


阿権神社(鎮守の森)


八月踊り

高地性集落、石積みの屋敷、姓は平

 馬 根

 稲積城跡

 

 

 

 

 桂家・関家は士族

⑪木之香

アマングスク(天城)


⑫犬田布


ミョウガングスク


ミョウガンの按司


明眼神社

913日の稲作儀礼のアキムチ(ムチタボレ)

源為朝の腰掛け石・線刻文字・犬田布騒動

⑬崎

麦万神社

開拓村・掟

 糸木名

 

 

 いときなのノロ

 

 

 

 小 島

 

 

 

 

 

 シマの創世神話(大洞穴)

 八重竿

 
宿森(グスク)

筑登之が阿権まで水路をひく 

 

 宿森神社(源為朝を神体)

 

 


2021年7月12日(月

 10年余訪れていない粟国島。積み残しのある島。訪れることはないが、過去の記録から変貌しているでしょう。

 粟国島は沖縄本島の西側の海上に浮かぶ島の一つである。粟国島は地質上火山島である。久米島、鳥島同様阿蘇山、霧島山、桜島・・・ へ連なる火山・・・とか。

 粟国は小さな島で、周辺わずかに三里。地形は港のある側に傾斜し、筆先崎地を除くと段傾斜の勾配をなしている。粟国島は水源に乏しく田は全くなく、粟、豆、麦を栽培。

 民家に丸い石槽(いしおけ)が今でも目につく。ハブが生息しない島と言われていたが、近年複数のハブが捕獲せれている。字東、字西、字浜の三つの集落に分かれている。かつては字東・字西であったが、そこに役場・学校がある。浜は新設のようであるが、八重村も新設されたようである。

 過去の調査記録(粟国島)は以下の書き出して始まっている。

 平成19年11月11日12日の両日粟国島調査にはいる。平成12年10月4日~6日に沖縄県地域史協議会の研修会に参加している。その後、もう一度訪れているはずである。まずは、粟国島と関わる関係記事を拾うことから

 粟国島への渡りはキツイものがあった。原稿締切で未明まで。フェリーの出発時間ギリギリ。空きっ腹で乗船、揺れも大きく船酔い。昼食をしようにも食道は休み。近くの店で菓子類で腹ごしらえ。船酔い気分も取れずに島回り。車を借りることができたのは幸い。

 島に渡ると集落の展開をみていくのがいつものパターンである。集落が望める高台へ。粟国島は大正池の展望台がいい。

 集落の後方に草戸原の小字がある。それはクサティ(腰当森)のことで集落の発祥地とみられる。粟国島の現在につながる集落は、草戸原から展開していき、港近くの浜は後世になっての集落であろう。現在の西と東はもともと一つ、浜は新設との認識が島人たちはもっている。それは行政村としての認識で、それより古くは御嶽(海岸沿いの大嶽・中嶽・南嶽は除く)を中心とした小規模の集落があったことがうかがえる。五つの殿(八重ノ殿・ババノ殿・カキノ殿・トゥマンナ殿・アダナノ殿)は、そのことが反映しているのかもしれない。
 
【球陽】始めて、慶良間・粟国に在番を直授することを定む。

 往古から慶良間と粟国の地頭は兼任していたが、尚敬13年に在番を別々において、それぞれの島を監守させ、それと外国船の漂来や地方の船隻の行き来を監視させた。

【康煕49年3月20日の僉議】(『沖縄の人事法制史』所収176頁)
   この僉議は具体的事件を扱ったもので、子供の出世と飢饉の二つの事情を酌
  んで特に粟国島から本島に移転するのを許可したものである。

   僉議

  運天親雲上粟国島罪之節花城
   のろ取合出生仕候女子
                かめい

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu01.jpg
大正池の展望台からみた粟国島の西・東の集落。その向こう側が浜集落 

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu02.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071121agu03.jpg
  烽火台跡(番屋原)   ウガンヤマ(エーガー)

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu16.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071121agu06.jpg
ウガンヤマ(エーガー)洞窟の内部 ヌルガー(現在)(大正池公園)

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu04.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071121agu05.jpg
マーチンニー(シマイ御嶽)の遠景シマイ御嶽のイベ(冠のイタジの葉をとる場所)

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu07.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071121agu17.jpg
観音堂の梵字碑   洞寺への道

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu08.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071121agu09.jpg

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu10.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071121agu11.jpg
              エーウフナカ(八重大中)の拝所

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu12.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071121agu13.jpg
エーフナカにある今帰仁祠  ヤガンウイミのカーブイ(冠)       

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu14.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071121agu15.jpg 
ウガンヤマ(ガダヌク御嶽・ミルクガマ)▲ヌル拝所

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu18.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071121agu19.jpg
 粟国島の大型の墓     墓口は番号が付され現在でも開け閉め

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu20.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071121agu21.jpg
筆ん崎(番屋原)の番屋跡烽火あげ場を模したものか?

http://rekibun.jp/gazou07/071121agu22.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071121agu23.jpg
                    粟国島の集落
http://rekibun.jp/gazou07/071116agu1.jpghttp://rekibun.jp/gazou07/071116agu2.jpg


粟国島に関わる資料など

・1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に「粟島」とある。

・『絵図郷村帳』   粟島
・『琉球国高究帳』 粟島
・『琉球国郷帳』   粟島
・1644年粟国島の南西部に烽火台が設置される。烽火台近くに番屋敷があった。

梵字碑(1692年)(浜の観音堂内)
   粟国村浜にある観音堂内にある梵字碑
   大清康煕三十一壬申 立春 花城光門

・梵字碑(1692年)(カダヌク御嶽内)
   粟国村字西土倉原にある梵字碑
    大清康煕三十一壬申二月九日 花城光門
  上記の花城光門なる人物は『琉球藩家臣記』に登場する粟国島の脇地頭で
   はないか。花城光門が同年二か所に寄進したものかもしれない。同島の花城
   ノロとの関係はどうだろうか。明治43年に花城ノロクモイと粟国ノロクモイの二人
   のノロが存在する。

・『琉球国由来記』(1713年) 粟国島
  8つのウタキと1イベ
 『琉球国由来記』(1713年)から粟国島の様子を伺い知ることができる。そこに登場する役人や神人が以下のように見える(新里大屋子(地頭代)・首里大屋子・大掟・東掟・泊掟・目差)。
  ・在番の地頭
  ・サバクリ
  ・ノロ/根神
  ・百姓
  ・首里大屋子
  ・地頭代
  ・大掟
  ・大文子
  ・掟
  ・根人
  ・地人
  ・居神人
  ・里主
・1725年(雍正3)粟国と慶良間の地頭の在番の兼任を廃止、別に在番を置く。
・1731年『琉球j国旧記』に粟国島に八重村と浜村が出てくる。
・1734年(雍正11)に夫地頭が置かれる。
・『当時用候表』 浜村・八重村ニカ村の記録あり。
・『琉球藩雑記』(明治5年) 粟国島(八重村・浜村)
・『琉球藩臣家禄記』(明治5年) 
   花城親雲上 領地粟国島花城作得七石余
   粟国□□□ 領地粟国島粟国作得七石余

・1824年から4年間島は飢饉、疱瘡が流行り苦しめられる。与那城筑登之など
 に救済される。

・与那城菊太郎の経歴(辞令)
  ・粟国島大掟心得(明治15年6月14日付)久米島役処出張所
  ・粟国島大掟(明治15年6月20日付)沖縄県
  ・粟国島首里大屋子((明治17年3月26日付)沖縄県
  ・粟国島夫地頭(明治19年3月13日付)沖縄県
  ・粟国島仮主取(明治21年6月15日付)沖縄県
  ・粟国島総山当(明治24年4月8日付)沖縄県
  ・粟国島総耕作当(明治27年5月9日付)沖縄県
  ・粟国島地頭代(明治30年4月1日付)沖縄県
  ・粟国島長月俸(明治30年4月1日付)沖縄県
  ・粟国島郵便受取所取扱人(明治37年12月11日付)沖縄県
  ・粟国郵便局長(明治38年4月1日付)沖縄県
  ・粟国村長月俸十一円(明治41年4月1日)沖縄県
  ・大正四年四月二十一日付本職を免ず(当時月俸十四円)沖縄県

 この資料は『南方文化の探究』(昭和14年:河村只雄)に収録されているものである。経歴を通していくと明治の役人の役職や昇給過程を追うことができる。与那城氏は最後の地頭代で、最初の間切長とみられる。さらに最初の村長でもあるとみられる。

・明治12年に八重村を廃止し東村と西村とする(?)。
・明治36年の土地整理まで八重村・浜村・西村の三ケ村があった(?)。
・明治41年粟国村となる。
・明治43年「諸禄処分による社禄調表」(『琉球宗教史の研究』所収)による
 ノロクモイの給与額(証券・現金)
  ・粟国ノロクモイ 証券50円 現金20円86銭 計70円86銭
  ・花城ノロクモイ 証券50円 現金20円86銭 計70円86銭
  明治43年段階で粟国ノロと花城ノロ二人の存在が確認できる。

【粟国島の烽火台と番屋敷】

【祭祀の中心となるウフナカ】

【マーチンニーとカーブイ】

【今帰仁祠とカーブイ】

大嶽・中嶽・南嶽にある一門毎の遥拝所
 島の東側のウーグ浜沿いに大嶽・中嶽・南嶽の三つのウタキがある。それらのウタキはウガンヤマのウタキとは性格が異なっているようだ。ウタキの中に数多くの遥拝所が置かれている。聞くと一門毎のウトゥーシだという。先祖が首里、あるいは那覇、中には北山もいた。つまり、島にやって来る前の先祖に向かってのウトゥーシ(遥拝)である。その人たち(一門)の祈りをする方向(観念)を示している。集落内で行われる神人を中心としたムラ(シマ)の祭祀の祈りの向きとは別である。それは一族、一門の祭祀である。一部ムラの祭祀と重なる部分はある。

【クサティムイと集落】
 ウガンヤマの裾野に広がる集落の展開が読み取れる。

【粟国島の葬式と墓】(戦前)

 ・葬列が野辺に延々とつづく。
 ・ダビの先頭にたいまつもったのが二人。
 ・女のいたましい泣き声。
 ・魔物を追い払いながら冥土への道を照らして死人を送る。
 ・お経の文句を書いた旗が続く。
 ・位牌をもった相続人、一族近親の男子、一般会葬の男子が龕を先導する。
 ・龕の直後に女が着物をかむり、顔を覆って泣き崩れながら・・・。
 ・近親の女のも同様かんむり物をして大声で泣きながら続いていく。

 ・粟国の墓は門中ごとに作られている。
 ・堅い粘土岩の岩山のところどころに岩をくり抜いて作られている。
 ・大きなものは六、七十坪も広くくりぬいたのもある。
 ・内部は本島と大差なく奥が雛壇になっていて骨壺が並べられている(トーシー)。
 ・その前に棺を置くシルヒラシがある。
 ・シルヒラシのところに洗骨前の棺がすでに六つも置かれていた。
 ・最近のもありおびただしい蠅がウヨウヨしていた。
 ・近親の男たちが臭気の強い墓の中に新しい棺を運びいれた。
 ・近親の女性達は泣きながら棺によりすがり最後の別れを告げる。
 ・会葬者は無言で行列をなし集落に帰っていく。
 ・途中海浜に降りて潮水で身を清めて各々家に帰る。
 ・近しい女などは葬式の後も一週間位墓の入口の石をはずして亡き人に会にいく。
 ・臭気が甚だしく堪えられなくなって初めてやめる。

 『南方文化の探究』から拾った上記のことを思い描きながら粟国島の墓をみ、そして話を伺ってみた。島に火葬場がなく、まだ風葬である。風葬と言っても野ざらしではなく、棺に入れたまま墓にいれ、時期がくると洗骨をしてりっぱな厨子甕にいれるという。火葬場の建設については、以前から持ち上がるようだが、「自分の時代には怖くて作れませんよ」との巷の声が聞こえてきた。洗骨のときに入れる大きめの厨子甕は手に入りにくくなったているとのこと。

 島の西側(上寺原・下寺原)あたりに、集団墓地が数多くみられる。それと白洲原・土倉原・巣飼原にかけての断崖の墓地も気になる。その日も本島からお参りに来たという人たちに何組もあった。尋ねると粟国島出身で本島に住んでいるので先祖の墓にお参りにきたという。集落の後方は、集落のクサティムイになっていて、また御嶽にもなっている。

 西集落のクサトゥムイとなっている森はウガンヤマと呼ばれ、ガタノコ御嶽(西ウガン)とヌルが拝む祠(ヌルウタキ?)、クバムイ、エーガー(ガマ)などがある。その東側の崖沿いにも一門で使う規模の墓がいくつかある。それらを見ると、ウガンヤマ一帯は古くは風葬地として使われていたにちがいない。

 http://rekibun.jp/gazou07/071115agu1.jpg http://rekibun.jp/gazou07/071115agu2.jpg


http://rekibun.jp/gazou07/071115agu3.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071115agu4.jpg

http://rekibun.jp/gazou07/071115agu5.jpg
 http://rekibun.jp/gazou07/071115agu6.jpg


2021年7月11日(

 父の世代(大正元年生)は畑に花木を植える発想はなかった。作物を植え草を生やすことは怠け者だとの時代である。畑地を相続した私にも、それがある。「何を植えているの?」と聞かれると「草を植えているのです」と返事。「花木を植えています」と。農作物ではなく、「花木を植えています」と返事するには、恥ずかしい思いが、農業をしたことのない私にも伝わっている。

 「かわいい花咲いているね」と声がかかる。雑草に負けず花が一斉に咲き出し花木(まだ、名前わからず)が目立つようになる。側の畑地にも植えることに。でも、暑さで二、三列を植えるだけでお手上げ。来週にでも。隣の畑地の周りに桜の木が数本。周りの雑木を払い桜の木に花を咲かすことに。「寡黙庵」のバナナは数房までなる。

  


2021年7月10日(土)

 梅雨があけ、三、四年紫外線を避けなければならず、「寡黙庵」の庭の木々の剪定ができず、のばしたまま。数年前の竹垣も補修する必要あり。
 暑いので一時間剪定作業、一時間汗が引くまで休憩の繰り返し。木の枝にメジロ、ヒヨドリ、ウグイスの巣立った巣が三つあり。来年には木々の枝が伸び営巣できるでしょう。時々、メジロとヒヨドリがやってきて鳴いている。ナナフシやハチや玉虫、ペンサなどの虫もしばらく追い出すことに。作業は途中まで。明日も熱射病にならない程度自然と戯れてみるか。ハチは野ブドウの小さな花に夢中(必死?)になって蜜をすっている。

 

 

 


2021年7月9日(金)

 本部町北里・新里・具志堅までゆく。過去記録を参照。「寡黙庵」に立ち寄る。三ヶ所を回ったのは、具志堅の域だったようで、「具志堅の上間家」にあった古琉球の辞令書について、辞令書に登場する「はる」が遺っているか。踏査したことがある。過去の具志堅の調査記録を振り返ってみる。(2003年。2006年)

庭先のサルスベリがピンクの花を咲かせている。バナナも大きな花を咲かせ支えきれるか。台風が来なければ存分食べられそう。前回は、数日昼食代わりに二本職場に持参。

 


2021年7月8日(木)

 
本部半島の宿道(スクミチ)を踏査してみる。その道筋の確認もあるが、本部の渡久地にあった番所から具志川村(浜元)、浦崎村、謝花村、具志堅村、具志堅村、そこから今帰仁間切へ。

 1666年までの今帰仁間切は、現在の本部町を含む領域である。その当時の今帰仁間切の番所はどこにあったのか。宿道は番所と番所をつなぐ道筋である。1666年に分立した伊野波(翌年本部)間切となるが、伊野波村が間切の主村となり、伊野波村に番所が置かれたとみられる。年代は不明だが、渡久地村に移される。今帰仁間切は運天村に番所が置かれる。(工事中)

今帰仁の街道筋(宿道:スクミチ)

 今帰仁間切番所が運天に置かれたのは1666年である。その前の今帰仁間切は現本部町を含む範囲である。その時の番所は今帰仁グスクと城下のウドゥン屋敷が番所の役割を果たしていたとみられる。「琉球国之内高都合並島色分目録」の絵図がある。目録の後尾に「元禄十五年 壬午八月 松平薩摩守」(1702年)とある。その内容は「鬼界島」「大島」「徳之島」『永良部島』「与論島」は「琉球国之内」とあり、1611年以前の内容である。例えば、伊野波(本部)間切や田港(大宜味)間切が、それに登場せず、それと恩納間切や久志間切なども登場せず、瀬底島やによは村(伊野波)、あめそこ村(天底)は「今帰仁間切之内」とある。「おんな村(恩納)や「こちや村」は金武間切之内とある。「川田村」「てぎな村」「おほら村」は「名護間切之内」とあり、その絵図の内容は1666年以前である。

 その絵図に道筋(大道とある)と一里が記されている。一里塚をつないでいる朱線は大道(宿道)(スクミチ)とみてよさそうである。今帰仁間切へのルートを追ってみると、名護間切から一里塚を追ってみる。そのころ街道筋に松並木があったかどうか。街道筋の松並木は蔡恩以降か(17世紀中)。

  名護村→為又か→三土手→並里?→渡久地→(新里)→與那嶺→山岳→湧川(クンジャドウ)→仲尾(羽地)→真喜屋→津波?→塩屋→大兼久→喜如嘉→(  )→佐手→宜名真→奥→安田→安波→川田→てきな

  ・名護村→伊差川→真喜屋

  今帰仁の一なぎ 並松の美らさ
  赤染め芭蕉と乙女しふらさ

今帰仁グスクの顛末

 今帰仁御殿が□□した為城内の古木を売ったりして風致を害し城内を□されたので当時の村長城間半蔵氏が□へ尚順男に相談して具志川マカトと今泊青年会と半々出して買った。

  凡そ七〇〇円   大正四、五年
   名義人  城間亀助
        仲本吉次郎 当時区長
        玉城精五郎    〃
        具志川朝宜
        崎山 朝清
        大城保元
   字今泊ハンタ原 一、四八〇ノ一 山林 一〇、七九三坪
                    (徳裕ノート)

【本部町~今帰仁】

【本部側】


▲具志堅の集落と道筋


▲田空事業でつくった地図

 
▲具志堅の大川(ウフガー)        ▲具志堅と今泊の境の道筋

 
 ▲ジャニーの松並木         ▲ジャニー道を薪を積んだ馬車がいく(1960年頃)

・旧具志堅の村屋(現在の喜屋武商店敷地)

謝花への道筋

  パシグチ(端口)→松部毛(マチゾーモー)を右手に→パマウリグチ→プルマーウイ(古馬場)→ナートゥの橋→マーウイ(馬場)→突き当りから左へ→ウミンビラ→板門墓横→謝花へ

  (両側は松並木、そこはスクミチと呼んでいた)

・具志堅村屋から東(今帰仁)への道
   東方の今帰仁・親泊への道筋
   村屋→アナンジョウー(穴間)→アナンジョウガー(橋なし)→旧家ウンサー→
   奉行毛(ブジョウモー)→ジャニーガー(橋のない川)今帰仁村との境界(松並木:スクミチと呼ぶ

   具志堅の集落はミージマとサガヤーへ発達)

  ブジョモーからアマンジョウを通り謝花へ行くのに不便で近道(クンチリ道)を作る。(スクミチの変更)(今帰仁側も集落沿いからプイヌモーへ)

 ・明治38年、日露戦争の直後、本部・今帰仁間切間を通る道路の拡幅が為される。
    (集落内はそのままで、サガヤに西側から東に向けて拡張)

  ・ウミンビラ(新里入口)を通らず、ワイトゥイを通り、スクミチにつながった。
     (上間家のキーバカがあった。その時に、諸志に赤墓を移葬か(昭和5年)(確認のこと)

  ・謝花のフプビラ、浦崎へ通ずるカスガービラも迂回。
  ・渡久地と謝花の一里塚跡の確認

【戦後】
  旧道(宿道など)は桃原飛行場内にとられたため、フナスクからキジキナの近くへ迂回。
 
▲グスク内の火神の祠          ▲今帰仁阿応理恵の旧火神の祠

 
▲今帰仁グスクへあがるハンタ道、それた所にウイミ(海神祭)のウーニがある。

 
▲今帰仁グスクへの参詣道(大正13年開通)  ▲グスクへの入り口(碑が建つ)

 
▲親泊馬場跡                ▲左が物資の配給所(後売店)と右がムラヤー

 

 

 

 今帰仁村平敷に「てぃびガジュマル」がある。島袋源一郎著の『琉球百話』に「炬々よー」がある。「之は亦今ではなくなったが、余所では見られない便利な扶助方法であった。明治三十年頃迄今帰仁村に残っていたが、旅行者が行暮れて暗くなった時、村落の入口に立って「炬々よー」と声高に呼ぶと字内に応ずる声があり、直ちに松明に火を点じてき来て渡すのであった。そして半里もゆくと又例の通りに呼んで、松明をつぎたして貰うので、店も提灯もない時代のこととて非常に有難いものであった。しかもそれはすべて無償であって村で其の担当の家へ若干の費用を支出していたのである。

 

【終点の運天番所】

 ▲運天番所跡地 (大正5年移転)   ▲運天番所(明治39年)

 
▲運天番所跡地            ▲運天トンネル(運天隧道)(大正13年)

運天番所から羽地番所へ

 運天番所から上運天のギナマ道、→勢理客の松並木(団地内)→公民館裏(天底馬場跡)→アミスガー(シマチスジノリ)→クンジャドウの一里塚→湧川のスクミチ→湧川のマチ→マリー道(羽地内海)塩田跡地→

▲勢理客の松並木             ▲ギナマの琉歌碑

 
▲マリーの塩田             ▲羽地大川の下流域(呉我集落)(1738年移動)

【勘定納港】

【羽地番所】


2021年7月7日(水)

 昨年の12月に寄贈いただいた辞令・証明書の一部(31枚)である。故新城徳祐氏と保子さん(徳祐氏の奥さん)の学校関係の辞令・講習証明書である。辞令書と講習証書には新城苗茂となっているが戦後か名字を徳祐と改める。新城徳祐氏は数多くの史・資料を寄贈いただいた方でである。その一部は『なきじん研究10』―新城徳祐調査記録ノートとして発行(今帰仁村教育委員会:298頁 2001年)。

 下の二枚は兵庫県と神奈川県からの帰還証明書と南方からの引揚証明書である。詳細は別で触れるが、コロナ禍の今の社会の動きと重なって仕方がない。









2021年7月6日(火

 
コロナや梅雨で延び延びになっていた本部町から仲原馬場まで。途中、今泊(プイヌモー)からハンタ道を通り、今帰仁グスクまで。下りは大正13年に開通した北山城址詣道で。それぞれの場でどんな説明ができるか。

  
▲上本部小学校入口(宿道)▲水田の中を通る宿道 ▲兼次のウイヌミチ(宿道)


(大正13年に参詣道ができる) 今帰仁グスクへ上る様子を記した先人達

【今帰仁街道松喰虫の処理状況】
1956年)

 仲原馬場より平敷に向って5本目から4本伐倒、皮を剥いでかき集め焼却してあり、根元も各々焼かれている。
 松喰虫はサソリの様に節のついた太く長い鋏を持った蚤□の虫で皮と幹の間に棲んで居り、表皮を喰う。「其の予防の方法が現在なく、被害松は伐倒して焼却する方法以外にはない」lと経済局で語っている。
 今泊の停留所の側の俗にプイの毛と言う所に被害松が3本あって、これも平敷の松と同じ様に処理されていた。尚大きな老木は中が白蟻に食いつぶされて空洞となり、2、3日前に亀裂を生じ通行人等に対して危険であるため、警察の申し出もあって伐倒した。
 今帰仁街道松並木410本の中、今回伐倒したのが8本で差し引き402本しか残っていない。斯様にして折角祖先が育て上げ風致上、又旅する人々に憩いの場を与え、懐しがられているが松喰虫の為に伐倒せざるを得ないことは返すも残念である。

【今帰仁街道松並木】(1956年12月5日)

 ・謝名部落中通り東  22本   ・謝名部落中通り西 41本  ・今帰仁校下 26本 ・仲原馬場 54本
 ・平敷の東 43本 ・ヂニンサ 5本 ・仲尾次(両側) 19本 ・与那嶺 61本 ・諸志 4本 
 ・兼次校前 36本
 ・シュク原 19本 ・今泊ノロ殿内毛 4本 ・今泊西 46本

【松喰虫被害松】(1957年10月4日)
 ・北部営林所にて、今帰仁街道指定松
 ・馬場から西方 2本  ・今泊シュク原 3本  ・風倒木 計18本
 ・謝名(馬場) 5本  ・越地 4本  ・仲尾次 1本  ・与那嶺 3本  ・兼次 3本  
 ・今泊 2本

  ※大正中頃、馬場の周囲だけに96本あった。(1969年村内の松の大木調査 900本余)


 
宿道街道沿い(兼次校前)(1956年)       ▲1959年仲原馬場調査メモ

▲北里誌より(昭和26年)

  
  ▲宿道沿いの並松の松         ▲仲原馬場の松 


2021年7月5日(

 「今帰仁間切」の奉公人の「口上覚」から立願や按司の上国、奉公人の奉公先の殿内など「北山の歴史」と関わる場所などをしることができる。もちろん、奉公人の昇級過程も。もう少し踏み込んで読み取ってみるか。


2019年2月26日(火)記録

 「勤職書」(口上覚:履歴)から興味深い出来事が読み取れる。その記事から歴史的な出来事を拾うことができる。奉公人のころ、王子の上国殿内の婚礼や祝い事に雇われ、随行したり、間切役人の頃阿応理屋恵御殿并今帰仁城御火ノ神所の普請、札改や王様(今帰仁按司)が初入のとき、古宇利村の火立所仲原馬場今帰仁城親泊馬場四ヶ所のご案内をしたり、中央と地方と密接な関わりが伺える。「立願」が散見できる。それは上国など旅の航海安全を祈願とみられる。それと今帰仁阿応理恵家(アットメー様)へ百果報のウガンがなされ、間切役人がその面倒をみている。そのことが勤職(履歴)として記すことができることと、御内奉公人として推薦することができる。そこに間切役人の世界(動きや働き)が見えてくる。

①今帰仁間切上運天村当歳五拾八前兼次親雲上勤書
    1832(道光12)辰年)~1878(光緒4)年寅8月)
②今帰仁間切志慶真村当歳五拾前湧川親雲上
    1843(道光23)年卯8月~1878(光緒4)年寅8月)
③今帰仁間切上運天村当歳五拾前諸喜田親雲上勤書
    1842(道光22)寅年~1878(光緒4)年寅8月)
④今帰仁間切兼次村当歳四拾四前兼次親雲上勤書
    1840(道光20)年庚子~(1878(光緒4)年寅8月)
⑤今帰仁間切与那嶺村当歳四拾五当志慶真親雲上勤書
    1846(道光26(年丙午~(1878(光緒4)年寅8月)
⑥今帰仁間切諸喜田村当歳四拾九前諸喜田親雲上勤書
    1838(道光18)年戌12月~(1878(光緒4)年寅8月)
⑦今帰仁間切今帰仁村当歳五拾四前湧川親雲上勤書
    1840(道光20)年子9月~1878(光緒4)年寅8月)
⑧今帰仁間切謝名村当歳五拾弐前志慶真親雲上勤書
    1845(道光25)年巳3月~1878(光緒4)年寅8月)
⑨今帰仁間切親泊村当歳参拾九当諸喜田親雲上勤書
    1843(道光23)年癸卯閏7月~1878(光諸4)年寅8月)
⑩今帰仁間切親泊村当歳四拾五前志慶真親雲上勤書
    1841(道光21)年丑年~1878(光緒4)年寅8月) 
⑪今帰仁間切親泊村当歳四拾五前諸喜田親雲上勤書
    1848(道光28)年申8月~1878(光緒4)年寅8月)
⑫勢理客村前兼次親雲上「口上覚」(1815~1857年)
⑬勢理客村湧川親雲上勤書(1851~1868年)
⑭新城徳助「口上覚」(1859~1883年)
⑮諸喜田福保「勤書」(1862~1859年)

以下の①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪は上の「勤書」からの記事である。(琉球大学図書館蔵:筆耕原稿記事金城善氏提供)。⑫~⑮からの記事は追加(工事中)


①道光弐拾五巳年義村王子様江御附添、嫡子今帰仁里之子親雲上御上国之時旅御供被仰付、二月廿日ゟ五月廿六日迄御仕舞方ニ付那覇詰仕同月廿七日出帆、九月卅日帰帆首尾能相勤置申候

①豊七年十一月廿一日ゟ同十二月二日迄夫地頭之時上様御婚礼御祝儀并譜久山親方掾紫地五色浮織冠御頂戴御祝儀付首里江罷登首尾能相勤置申

①同治五寅年御冠船ニ付六月三日ゟ同十日迄古宇利遠目番人被仰付首尾能相勤置申候

同治元年壬戌九月十八日ゟ同十九日迄今帰仁城上使御立願ニ付さはくり公事繁多ニ付足被仰付相勤置申候

②同治三年子八月廿五日阿応理屋恵御殿并今帰仁城御火ノ神所御普請ニ付本職掛而構被仰付同九月十三日迄首尾能相勤置申候

②同治七年辰八月七日ゟ同八日迄炬湊潟場針図引出試を以首尾申上候様殿内旦那様ゟ被仰付候付構仰付相勤置申候

②同治十年未三月十五日ゟ同廿五日迄御殿王子様御初地入御下光之時呉我村美御迎所美古宇利
   村火立所仲原馬場今帰仁城親泊馬場四ヶ所目覆構被仰付首尾能相勤置申候

③ 同治三年子十月大和船盛福丸古宇利沖干瀬江走揚致打荷右潜上ニ付同十七日ゟ廿五日迄本職懸而昼夜相勤置申候

③同年同月与論島之者御仮屋江御状宰領ニ而持渡之砌古宇利東表外干瀬ニ而致破舟乗合人数救方并荷物相改潜用ニ小船漕出、同八日ゟ十日迄本職懸而昼夜相勤

③同八年未正月十五日五月十日迄南風掟役之時砂糖上納払方構被仰付首尾能相勤置申候

③同年八月今帰仁城并伊平屋島江御立願ニ付上使大宜味按司様金武按司様被遊御下光候付役々交代御拝ニ首里江罷登候付さはくり足被仰付同廿五日ゟ九月八日迄首尾能相勤置申候事

④咸豊八年戊午正月十五日、森山親方楽御奉行ニ而御上国之時、旅御供被仰付、同十一月廿二日  迄首尾能帰帆仕申候

④同治七年戊辰四月廿五日ゟ五月八日迄帰唐船両艘湖平底津口江御汐懸之時、那覇川迄挽船宰領被仰付相勤置申候

④同年八月七日ゟ同月八日迄炬湊潟場針図引出試を以首尾申上候様殿内旦那様ゟ被仰付候付、構被仰付相勤置申候

④同治十一年八月廿日ゟ同九月二日迄殿内阿つとう前様御百ヶ日之御焼香ニ付罷登相勤置申候

④光諸三年丁丑四月四日ゟ同五日迄東京博覧会御用諸木之品々苗種子荷入枝差一件并右諸木何十年ニ而何□之御用相立候段御首尾一件九ヶ揃ニ付惣山当足被仰付相勤置申候

⑤ 同年八月廿五日ゟ廿六日迄観音寺開御修甫御用御材木九ヶ割府ニ付構被仰付首尾能相勤
   置申候事

⑤同九年庚午九月廿二日御殿王子様御上国ニ付海上御安全の御立願として伊平屋島江さはくり足被仰付同日早速古宇利村江差越くり舟三艘手組させ同廿七日其処ゟ出帆仕申候処、不順風ニ付大宜味間切根路銘村江汐懸、翌日早朝彼之津ゟ出帆、同日八ツ時分伊平屋島下着御立願相済十月十日帰帆仕首尾能相勤置申候事

⑤同年八月廿五日ゟ廿六日迄観音寺開御修甫御用御材木九ヶ割府ニ付構被仰付首尾能相勤置申候事

⑤同治三年二月廿八日去十三年成丑年以来帰唐船異国船御汐掛之節々諸雑費九ヶ統並構被仰付三月三日迄首尾能相勤置申候事

⑥同治元年戌九月廿日玉城岸本寒水三ヶ村□々疲ニ付玉城掟役江繰替被仰付同六年卯九月廿二日迄首尾能相勤置申候

⑥同三年子九月十一日ゟ同十三日迄今帰仁城上使御立願之時さはくり公事繁多ニ付足被仰付相勤置申候事

⑥同年八月玉城掟役之時左之通御褒美被成下候事其方事去ル酉十月平敷掟被仰付置候処、岸本寒水玉城三ヶ村之儀、年来疲入間切
 向頭引并現銭無利借渡等ニ而段々補助仕候得共殊ニ人居茂不致繁栄兎角風水故ニ而も可有之哉与御差図之上去ル酉十一月与儀通
 事親雲上申請風水入御見分ニ候処、段々風水悪敷闕異相補候手筋無之岸本玉城ハ勢理客天底謝名三ヶ村帳内ほかま原与申所江村越
 仕寒水村ハ同所前之宿道明置岸本玉城弐ヶ村百姓地之内江敷替仕候ハハ人居繁栄疲労も可立直段委曲被申聞、・・・

⑥同治九年午五月今帰仁王子様被遊御上国候御時海上御安全之為御立願伊平屋島江罷渡五月廿七日ゟ六月十日迄御火神所并御
  嶽々迄御使相勤置申候事

⑨同治三年八月廿五日阿応理屋恵御殿并今帰仁御火之神所御普請ニ付本職掛而構被仰付同九月十三日迄首尾能相勤置申候
⑨光緒三年時譜久山殿内亡親方様御始阿つとう前様御両人御洗骨御弔ニ付御品々并御仮屋入具御手形入被仰付候処御日柄急ニ相
 成間切ゟ取調差登候間切ニ合不申候付買入上納ニ而御用相弁御焼香抔相勤置申候


2021年7月4日(

 場所確認で今帰仁村仲宗根の旧マチ跡、大井川下流域のドルマタ、周辺の墓地などを行く。しばらく行ってなかったので、その変わり様に、これまで書き記してきたものや記憶を改めなければならない。仲宗根に住むMさんとN氏から付近の様子を伺う。かつての市場の広場は駐車場、そこはまだ村有地だという。50年前の記憶を蘇らせるマチヤグヮー、食堂、自転車屋の看板、サカナヤーと呼んでいた料亭、旅館などの建物は遺っている。立ち退いた店跡が空き地のままあったり。ダンバチヤー、パイン工場、ユーフルヤー、菓子店、ソバ屋など、いろいろ伺うことができた。

 
▲ドルマタの溜まり(海水がはいる)     ▲大井川下流沿いの古墓

 午後から梅雨の間で成長した草畑の草刈り、「寡黙庵」の芭蕉に大きな花をつける。チンブバチがしきりに蜜を吸いに。受粉をしてくるれる。昨年から今年にかけれ3本の収穫があった。バナナの種類はわからないが、シマバナナとタイワンバナナの愛の子?とか。

  
▲花をつけたバナナ         ▲草花畑の草刈り            ▲今年も花を咲かす


2021年7月2日(金)

 取材や来客や資料の提供依頼などで多忙。今日から原稿印刷に入れるか。


2021年7月1日(木)

 7月となりました。外は大雨とカミナリがゴロゴロ連発。テレビやマスコミはコロナコロナ。

【参考文献】
 
『東村史』(第1巻通史編:昭和62年発刊)
 『東村史』(第3巻資料編2:昭和59年発刊)


【大宜味村の舟と港】 
 大宜味村の舟や港に関わる記事を拾ってみた。やはり多いのは塩屋湾(港)である。大宜味番所があったこともあるが、塩屋湾を渡らなければならず、渡し場として交通の要所にあった。
 断片的な資料であるがクリ船やハギ船に税がかけられている(道光6年6月原取納座国頭方定手形)。
  ・クリ船一艘に付き、一年に納銭一貫文
  ・ハキ船一艘に付き、一年に納銭五十貫文
  ・クリ船三拾三艘  納銭三十三貫文
  ・ハキ船三艘  納銭百五拾貫文
  
【上杉県令巡回日誌】(明治14年11月22日)の塩屋湾の様子
 
 「・・・宮城島あり。島中小村落あり。渡舟相往来す。湾頭弦月形の処を過ぎ、小村落あり。
  サオ師舟を艤して待つ。舁夫輿を舁き、舟に移す。・・・・・・舟容与として行く。風波平穏なり。
  舟路半程にして、雨俄に至る。・・・・渡舟岸に達す。即ち大宜味番所なり。・・・・海を隔て、
  宮城島に対す。山原船五艘碇泊す。」


 
明治から大正にかけて大宜味間切(村)の物資の運搬は海上が主である。運搬に使われたのが山原船(マーラン船)である。大宜味間切から出荷されたのは、主に割薪・砂糖樽板・砂糖樽底蓋板・米・松薪・木炭・製藍・建築材など。輸入品は焼酎・石油・大豆・白米・素麺・茶・昆布などである。山原船の向う津(港)は泊港や那覇港である。

・樽板と蓋底板(明治34年3月9日)
・船舶取締規則違犯者(明治35年3月13日)
・塩屋湾の風光(明治35年4月19日)
・国頭郡の鰹製造業(明治38年8月11日)
・大宜味間切の造船所(明治39年2月7日)
・国頭旅行(明治39年10月17日)
・大宜味より(明治40年8月13日)
・大宜味の海神祭(明治44年9月19日)
・大宜味村より(大正2年10月12日)
・大宜味よりの帰途(大正2年10月14日)
・今日の話題(昭和19年4月9日)


【琉球資料 70】(那覇市史 琉球資料(下)所収

「船之名」がある。
 ・唐 船
 ・楷 船
 ・大和船
 ・馬艦船
 ・飛脚船
 ・伝 間
 ・繰 船
 ・刳 船
 ・波竜船
 ・異国船
 ・漂着船(護送船也)
 ・作 船

以下は「船の部分」名
 ・楷木
 ・檣(ホバシラ)