今帰仁村歴史文化センターの調査記録 
          (20121月)         
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歴史文化センターの動き過去の動きへ   
調査記録(2010年4月)                          (館長:仲原 弘哲)
調査記録(2010年5月)   ・天底のタキヌウガン調査
 やんばる研究会
調査記録(2010年6月)   ・山原のムラ・シマ講座へ
 平成22年度学芸員実習 北山系統の一族のムラと一門
調査記録(2010年7月)   ・企画展―山原のムラ・シマ― ゆらゆら日記1へ  ゆらゆら日記2(9月)
調査記録(2010年8月)   ・調査記録(2010年11月)  ・2011年の桜の開花状況 Tam1へ 
調査記録(2010年9月)   ・調査記録(2010年12月) ・23年度学芸員(博物館)実習
調査記録(2010年10月)  ・調査記録(2011年01月) ・調査記録(2011年2月)へ 中城ノロが関わる祭祀
調査記録(2011年03月
 調査記録(2011年04月)  ・調査記録(2011年05月)  琉球のノロ制度の終焉(企画展)
調査記録(2011年06月
 調査記録(2011年7月)  ・調査記録(2011年8月) 調査記録(2011年9月
調査記録(2011年10月)  ・調査記録(2011年11月) ・調査記録(2011年12月) ・調査記録(2012年1月)


20120131日(火)くもり

 後期最後の講義は「北山の歴史と文化」で閉め。来週は総まとめ(テスト)です。




【沖縄民俗学会】今帰仁村で開催(2012.1.29(やんばる学研究会:今帰仁村教育委員会共催)

 午前中の報告は今帰仁村中央公民館で。午後から今帰仁グスク内と周辺の拝所。小雨のため、前半(シニグンニ・ハンタ原ウーニ・流れ庭(テラ)・ミームングスク・トモノハーニー・今帰仁ノロ殿内・アオリヤエなど)は略しました。
 今帰仁グスク外郭内のデコーラウーニ・フイドゥンチ・グスク正門(近くの香炉)・カラウカー・火神の祠・テンチヂアマチヂ(上の御嶽のイベ)・ソイツギの御嶽(下の御嶽のイベ)・神ハサギ跡を回る。桜見をしながらの踏査はいかがでしたでしょうか。

 グスク周辺の踏査の後は歴史文化センターの企画展(沖縄のロ制度の終焉)の説明、その後質疑応答がありました。

 ・今泊のウプユミ・海神祭(玉城 菜美路:今帰仁村歴史文化センター)
 ・ノロ制度と山原(仲原 弘哲:今帰仁村歴史文化センター)

 

 


20120128日(土)晴

 「桜まつり」が始まり歴史文化センターへの入館者、昨日までの7日間で7800人、平均すると一日1,100人です。今帰仁グスクの集計は確認していませんが、7日間で20000人越えていると思います。今日は天気がいいです。桜の開花も見ごろと暖かさでお客さんは満足気。それと舘内の異文化の展示を見学して。

 明日は「沖縄民俗学会の民俗探訪今帰仁グスクとその周辺」を歩きます。参加者は坂道や石畳道などを歩きます。ぬかるんでいますので、足元には十分ご注意を。受け入れ側は明日のレジュメつくり。

 

 

 明日は今帰仁小の発表会。児童生徒からかわいい招待状が届いています。研究会があるため出席できず残念です。総合学習の発表頑張って!(仲原・石野・タマキ)


20120127日(金)

 今帰仁村今泊の集落内の拝所。明治36年に今帰仁村(ムラ)と親泊村(ムラ)が合併、明治39年に分離し、昭和48年に再び合併、字今泊となり現在に至ります。合併・分離・合併をします。それと今泊には今帰仁グスクを抱えています。今帰仁グスクと集落との関係を祭祀から見ていきます。すると、そこにムラとウタキ・グスクと祭祀の関係を見究めていく必要があります。

 行政村の合併・分離から村や集落の歴史的な変遷、それと集落移動と故地の拝所との関係から法則性を持っていることが分かります。それらの法則性を説明するために集落内の祭祀場を確認しておきます。

【今帰仁村今泊の年中祭祀】(拝む場所)
 ・立御願(1月1日)(公民館の縁側:トゥバシリ)
 ・二月ウマチー(立御願:旧2月14日)(ヌンドゥルーチ)
 ・プトゥチウグヮン(旧215日)(フィドゥンチ:古宇利殿内火神)
 ・三月ウマチー(旧314日)(ティラ・ウルを播く、現在遥拝)
          (旧315日)(フィドゥンチ)
 ・アブシバレー(旧414日)(ヌンドゥルーチ)
          (旧415日)(フィドゥンチ)
 ・プトゥチ御願(旧415日)(フィドゥンチ)
 ・プトゥチ御願(旧514日(ヌンドゥンチ)
 ・フプウガン(嶽ヌ御願)(旧515日)(フィドゥンチ・クバヌ御嶽・サカンケー)
 ・529日(プトゥキヌイピャ)
 ・六月ウマチー(615日)(ティラ・フィドゥンチ)
 ・ウーニフジ(旧盆明けの戌の日)(ハタイバルウーニ・レコーラウーニ)
  ウプユミ(大折目)(旧盆明けの亥の日)グスクウイミ(城内神ハサギ跡・カラウカー・イベ・シバンティナの浜・プイヌモー)
  シマウイミ(村内ウガミ)(フプハサギ・ハサギンクヮ・ウッチハタイ・獅子小屋前・大道・シヌグイ道)
 ・グスクウイミ(旧810日)(グスク内の神ハサギ跡)
 ・フプウガン・タイヌウガン(旧515日)(フィドゥンチ・クバヌウタキ・サカンケー)
 ・プトゥキイヒャ(旧暦915日) 
 ・プトゥチウガン(新暦1224日)(ヌゥンドゥルチ・両ハサーギ・ウッチハタイ・セークヤーのハー・公民館)
 

 
 今帰仁ノロ家近くにあるプイヌモー  グスクへ遥拝する(プイヌモー:ウンジャミの時)

 
   ハサギンクヮー(今帰仁村神ハサギ)          獅小屋(旧811日に登場)

 
オーレーウドゥン跡(按司御殿か:按司位牌あり)   フプハサーギ(親泊村神ハサギ)

  
    セークヤー前のハー シニグイ道(集落内:公民館) 公民館裏のハー(井戸)  

【湧川の老人会】
 午後から湧川の老人会が来館(26名)。その後、元気よく今帰仁グスクの桜見学へ。舘内で湧川のヤガンナ島、ワルミ橋の名称、湧川地内に我部・松田・振慶名などの村(ムラ)があった話。塩づくりの盛んだったとこと。湧川の路次楽・神アサギなどのレクチャー。神アサギや墓や幽霊などの質問あり。

 


20120126日(木)

 今帰仁グスク及び周辺の拝所を祭祀との関係で確認しておきたい。

    (工事中)

 
 クボウヌ御嶽への遥拝の香炉    ハタイ原ウーニ(後方具志堅ウーニ)

 
   ティラ(テラ)(小さなガマ)       ミームングスク

 
   トゥムヌハーニー火神の祠       トゥムヌハーニー火神(内部)

  
 今帰仁阿応理屋恵火神の祠   内部の様子        祠の後方にある香炉

 
  デコーラウーニ(右側具志堅ウーニ)     クボウヌ御嶽(ウガミ)

  
 テンチヂアマチヂ(上のウタキのイベ)  城内火神の祠      グスク内のカラウカー

  
     エーガー(親川)        エーガーの拝所(香炉)    シバンティナの浜(海神祭)

  
  今帰仁グスクの平郎門      古宇利殿内火神の祠       内部の火神と香炉

  
クボウヌウタキ八合目のイベ クボウヌウタキの頂上部からの眺めクボウヌウタキのイビヌメー


20120125日(水)

 29日(日)「沖縄のノロ制度と山原」をテーマで講演をします。現在開催中の「沖縄のノロ制度の終焉」と関わらした内容となります。これまで調査してきたノロ関係資料と昭和18年の「北山神社」創設に関わる資料も紹介します。画像の準備はできました。当日、報告する中身の整理はこれからです。「今帰仁村今泊のウンジャミ」(タマキ・ナミジ)は準備オッケー。

 


20120124日(火)

 「沖縄民俗学会民俗探訪企画・今帰仁グスクとその周辺」

 この度、今帰仁村にて沖縄民俗学会を開催いたします。以下のテーマで報告いたします。
 ご参加下さいますようよろしくお願いします。(一部変更がありましたので御注意)

・期 日:平成24129日(日)  10001530
・場 所:今帰仁村中央公民館 (沖縄県国頭郡今帰仁村字仲宗根232番地)
・主 催:沖縄民俗学会
・共 催:今帰仁村教育委員会・やんばる学研究会

(午前中の部)10001200)(今帰仁村中央公民館)
 ・沖縄民俗学会・やんばる学研究会 (会長あいさつ)
 ・「今帰仁村今泊のウンジャミ」(玉城菜美路:今帰仁村歴史文化センター)(30分)
 ・「沖縄のノロ制度とやんばる」(仲原弘哲:今帰仁村歴史文化センター館長)(60分)
        (質疑応答)
             

(午後の部)13301530)(今帰仁グスク及び歴史文化センター内)
 ・今帰仁グスク及び周辺拝所等の巡検(現地解説)(案内:仲原弘哲)
 ・今帰仁村歴史文化センター平成23年企画展「琉球のノロ制度の終焉」見学
 ・閉会のあいさつ

・親睦会中央公民舘から今帰仁村歴史文化センター講堂に変更)(16001800
      (希望者はライトアップのグスク見学)
        
 *参加費 無料
 *昼食は各持参
 *懇親会は有料(1,500円) 

 問い合わせ先
 〒9030213
 沖縄県中頭郡西原町千原1番地
 琉球大学法文学部  人間科学科 稲村務研究室内 沖縄民俗学会事務局
 Fax 0988958190  E-mail okminzoku@hotmail.co.jp

今帰仁村歴史文化センター
0980565767 (なかはら・たまき・いしの)

 上記研究会の文書は異なる内容になっています。桜まつりの最中で、急きょ変更の部分がありましたことをお詫び申し上げます。


20120121日(土)

 今帰仁グスク近くにあるクボウヌタキまで登る。『琉球国由来記』(1713年)で「コバウノ嶽」と記される。君真物の神の出現の時、ウランサンが立つ伝承のあるウタキである。そこでの祈願は「首里天加那志美御前、百果報のため、子のスデモノのため、島国の作物のため、唐・大和・宮古・八重山、島々浦々の御船々往遷、百果報があるようにお守りください」と。『琉球国由来記』(1713年)当時、今帰仁ノロの崇所となっている。

 クボウヌウタキでの祈りは「首里天加那志(首里の王様よ)」と始まり、それは国家レベルの祈りである。するとそこは今帰仁阿応理屋恵(三十三君の一人)の拝所だったのであろう。ところが、琉球国由来記が編集された頃は、今帰仁阿応理恵は首里に引き上げている(1665年監守と一緒)最中である。今帰仁阿応理恵の祭祀を今帰仁ノロが代理で行っていたと見られる。

 もう一つ、阿応理屋恵按司火神は親泊村にあり、そこは当然のことながら阿応理屋恵按司の祭祀場であるが、首里に引き上げているため今帰仁ノロが代行して祭祀を行っている。阿応理屋恵按司火神が親泊村にあることは注意を要する。というのは、1700年代後半に今帰仁阿応理恵は再び今帰仁に戻るが、親泊村にあった阿応理屋恵按司殿内ではなく今帰仁村にあった今帰仁按司殿内に戻っている。そこには今帰仁按司六世の位牌が今でもある。

 クボウヌ御嶽の中腹あたりにイビヌメーがあり、一般方々はそこまで行き待機する(現在はノロさんと区長と書記さんなど。一般の方が方々はサカンケーでウガンをする)。イビヌメーからさらに上の八合目あたりにイベがあり、香炉が数基置かれている。旧暦5月15日と旧9月15日にウプウガンが行われる。

 
 
   クボウヌ御嶽頂上からの眺望      クボウヌ御嶽から今帰仁グスクを眺める

 
クボウヌウタキの八合目あたりのイベ  プトゥキヌイッピャの洞窟内のウルと香炉

【地頭所手札宗門改・初地入】(久志間切辺野古村)
 ・唯順共まつ我如古を召し連れ四ツ時分(午前九時過ぎ)宿を出発
 ・久茂地(道より)上泊安謝勢理客仲西宮城城間牧港内泊謝名真喜志大山(北谷間切番所で休憩)(後道より)上地村前道美里間切同村松本知花池原池原東恩納石川村(前ん当ノ佐次田にや宅に一宿)(8月14日四ツ時分出立)屋嘉伊芸前浜(金武番所にて休憩)漢那宜野座古知屋(久志間切同村蔵の前で掟・耕作当二人が出迎える)(私ども綾色衣装大帯に着替え)(耕作一人先に行って酉頭時分地頭所前浜に到着)同所にて四、五人の老女六、七人が出迎え旅の宿の前比嘉親雲上宅にて二献焼酎肴休目迄馳走あり15日朝掟頭六、七人見舞に来る村所より塩豚一斤半、生魚一斤半程、野菜三斤位・・・
  
   (工事中)


20120119日(木)

 今帰仁グスクまであがる。二つの拝所と昭和13年寄進の香炉。今帰仁グスクや付近での神行事が行われる場所の確認ができていない。旧按司地頭火神は今帰仁グスクの本丸にある火神(『琉球国由来記』1713年でいう今帰仁里主所火神)のこと。『沖縄島諸祭神祝女類別表』(田代安定撰録:明治17年頃か)でいう「旧惣地頭火ノ神所」がどこか。これまで説明のつかなかったフイドゥンチ火神があるが、その火神が旧惣地頭火神の可能性がある。同書にヨクノカタの拝所がある。それがどこか。ある図にユフヌハタはサカンケーあたりに記されている。サカンケーか今帰仁グスクの平郎門前の香炉なのか。もう少し調査が必要。

 今帰仁グスク内のソイツギの御嶽(下の御嶽のイベ)に「昭和十三年八月吉日 奉納 欽氏門中」の香炉がある。それは「今帰仁上り」の寄進と見られるが、その頃移民や戦争や大和、あるいは旅をする時に今帰仁グスクで無事を祈っている。(近世は薩摩や江戸参府などの時に寄進する事例が見られる)

 「県外に旅立ちする人や出兵の前日に今帰仁城にお参りして、勤めが無事に済まして帰れるように祈願をして、土を頂いていく。また出兵して勤めが終り帰ってくると、親・妻・親族や主人を伴って、お守りの土を持ってプトゥチメウガグヮンをする。兵隊の見送りはヌンドゥルチモーに集り兵隊は東側で西向きに座り、西(イリ)向き座にて、皆から励ましの祈願の盃を受けて出発していた。二、三日後船が今泊の沖を通る時、ウーニウガミをキヌガガーファイやミーミーモーでやっていた」という。明治から戦前にかけての香炉の寄進は、旅立ちや出兵、あるいは移民や大和旅などの寄進(奉納)である。

 
 平郎門前の香炉        昭和十三年の香炉(下の御嶽のイベ)


20120117日(火)

 今日の大学の講義は「名護のマチと桜」がテーマ。名護間切、名護村(ムラ)の変遷を辿る。そして明治の廃藩置県後のマチとしての発展をみる。それと名護村(城・東江・大兼久)の故地の名護城周辺の様子。さらに沖縄のウタキと神社の関係。神社建設の時(昭和3年)に植樹した名護グスクの桜並木など。今帰仁・本部・名護の桜まつりの宣伝でもしましょう。


20120114日(土)

 今帰仁グスクの火神の祠と監守来歴碑記と石燈籠。向氏家譜(具志川家)に「今帰仁旧城図」(乾隆八年:1743)がある。図に本門脇門はんた原火神下ノイヘ上ノイヘトノ敷がある。

 それ以前の『琉球国由来記』(1713年)に今帰仁グスクと関わるのは城内上之嶽・城内下之嶽・今帰仁里主所火神・今帰仁城内神アシアゲがある。また毎年七月の大折目(海神祭)の所に、城内のヨウスイ(タモト)・アワシ川アザナ・庭・ナガレ庭(城外)・親川と出てくる。

 旧蹟のところで本門平郎門)・裏門(志慶真門)・カナイヤブ(城内の鎭所)・志慶真川原水ハリ(親泊村の東)がある。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(田代安定撰録:明治17年頃か)に今帰仁・親泊村に14の拝所が記されている。。
 公方ノ嶽 ヨクノカタ シノグン子 テラ トモノ内子ノロクモイ火ノ神 祝部火ノ神 

神アシアゲ  本ノロクモイ火神 旧惣地頭火ノ神所 今帰仁古城内神アシアゲ 

天辻 雨辻 旧按司地頭火神 
 カラ川


 それらの資料を駆使して場所を特定してみる必要がある。祭祀場は300年経っても、変わるものではないことがわかる(上の黒ゴシックは確認できる場所。赤は末特定。(詳細については別報告)


   火神(按司地頭火神)  山北監守来歴碑記(乾隆14年)と石燈籠(同年)


                                     城内神アシアゲ跡:ヨオスイ


  「今帰仁旧城図」(乾隆8年:1743)(『具志川家譜』所収より)(測量は前年)

【午前、午後と今帰仁小4年生の総合的学習】
(平敷・越地・謝名のマップづくり)

 二週に渡って報告をして校区の字(アザ)の宝物さがし。発表はしましたので、総まとめ。各字のマップで自分の家を図にいれ、それから各自まとめと発表した宝物を地図に張り込む作業。地図に張り込んで、一人ひとりが図や画像を見ながら報告。三ヶ字のまとめができました。何名かは現場の確認に。まだ、三ヶ字が残っているのかな。楽しい授業でした。ハイ


    越地の文化財マップの作成          平敷の文化財マップの作成

 
  謝名の文化財マップ作成


20120113日(金)

【比謝川沿いの古墓】
 嘉手納町と読谷村と間を比謝川が流れている。比謝川の両岸の崖に古墓が群をなしてある。その川の上流部に屋良城がある。比謝川の下流域は山原船などが往来していた時代の港としては立派である。その川沿いに伝承に登場する人物の墓が置かれていることに注目する必要がありそう。また、各地に比謝川沿いの場所や地形のところに古琉球の時代、その伝承をもつ人物が葬られている。それは古琉球の墓の形を示していると見られる。

 ただし、第二尚氏時代以前の伝承の墓は、近世になって移動、あるいは造りかえられている。戦前、戦後に造りかえられて墓の周辺からは近世末の厨子甕が放置されている。それらの墓から、古琉球から近世、さらに明治以降の墓地・墓の形態・集骨蔵(厨子甕・イケ)など墓の形態の変遷が見えてきそうである。

 
   今帰仁村仲宗根大井川下流域の古墓群(近世に使われた墓もあり)

 
 比謝川下流域(左岸)の崖中腹の古い墓     伝説の仲今帰仁按司祖先之墓

  
比謝川下流域右岸にある三山時代以前の伝承に登場する人達の墓(嘉手納側の対岸:渡具知港あたり)

【比謝橋の下流域】

    (『読谷村史』より比謝橋下流域を「まとめ」て入れる)


20120110日(火)

 今帰仁小4年の総合学習。今帰仁村謝名・玉城・仲宗根の三ヶ字(アザ)の学習。前回は今帰仁村崎山・平敷・越地でした。今回の謝名・玉城・仲宗根のまとめと担当者の報告。前回の報告も。今日はクラス全員の報告まで行いました。これで今帰仁小校区の各字の概要を把握することができました。

 引き続き、土曜日に歴文センターで平敷と越地グループの「まとめ」学習をします。どのようなまとめになるか楽しみに。

【謝 名】
  ・公民館/神アサギ/豊年祭/診療所/シドゥの観音像/国道505号線(スクミチ)/

製糖工場など

【玉 城】
  ・公民館/三つの神アサギ/二つのトンネル/スムチナウタキ/フルジマ/ワタンジャーなど

【仲宗根】
  ・お宮/マチの様子/豊年祭/道ジュネー/製糖工場/映画館のあったマチ/公民館(移動)など


 
    玉城の説明(歴文:菜美路)       仲宗根の説明(歴文:石野)

 
   説明を聞き逃すまいとメモをとる        発表に向けて「まとめ」中


20120109日(日)

 恩納地域の地理・歴史的感覚の確認のため恩納村へ。現在の恩納村の谷茶以南のムラは読谷山間切から分離される。恩納間切(現在の恩納村:ソン)に組み込まれた谷茶・富着・前兼久・仲泊・山田(読谷山から山田となる)・真栄田(塩屋)など南のムラは読谷山間切の北側に位置している。読谷山の中心となる座喜味(城)村や後に番所が置かれた喜名村あたりからどう見えるのか。その確認のためである(そのことは別原でまとめることに)

 伊良皆の軍用地寄りの戦前まであった集落跡地へ。そこに第一尚氏尚巴志・尚忠・尚思達王の墓と呼ばれている墓、またその一族とされる平田子と屋比久子の一族を合葬ったとされる墓がある。それと比謝川の両岸にある北山の時代と関わる伝承の「仲今帰仁按司祖先之墓」(比謝川左岸)や「仲昔今帰仁城主丘春之墓」(合葬)(右岸)がある。

 比謝川の下流域に渡具知(渡口)港がある。そこは1609年島津の琉球侵攻の時、運天港から「大湾渡口」へ着いた場所である。

【第一尚氏の墳墓】(口碑・野史)(『伝説補遺 沖縄の歴史』島袋源一郎著)
 口碑及び野史に依れば尚巴志王朝の墳塋は首里の天山の霊御殿(たまうどぅん)であったという。今町端の西北崖下にあって墓域に畳大の台石が放り出され、その縁辺には馬などの浮彫がしてある。その墓は両側中段に袖墓の様なものがついている。或いは殉死者を葬ったのではないかともいう。後世向姓与那覇氏これを拝領している。
 尚徳王滅亡の後、その一族平田子・屋比久等が夜中に御遺骨を末吉万寿寺の山林に隠し、更に此れより城間へ越して、尚金福王の御骨は同地シリン川原に葬り、尚巴志王の御遺骨は読谷山伊良皆村の東川佐久原(今佐敷森と称し、この一帯古墳にて北面岩下に巴志の石棺と称えるものあり。南面の所に平田墓屋比久墓と呼べるのがある)に葬り、尚巴志尚思達王父子は喜名の東、竹山、慶念堂の洞窟に葬ったが、後世に至り前記佐敷森に移したという。

  

 尚巴志王・尚忠王・尚思達王の墓平田子の墓(合葬) 屋比久子の墓(合葬)

 

   
   比謝川の下流域(左岸)にある「仲今帰仁按司祖先之墓」
  
    渡具知泊城     渡具知泊城の説明板  「仲昔今帰仁城主丘春之墓」(右岸)

 
      比謝川の下流域            対岸が渡具知港


20120107日(土)

 「恩納の歴史」の概要をまとめる。いくつかの史料を通して。現在の恩納村は北は名護、東は恩納岳を挟んで東側の金武町・宜野座村、南側では読谷村、一部うるま市と接している。恩納間切(現在の村)が創設されたのは一六七三年のことである。現在の恩納村が創設された時、読谷間切と金武間切を分割してできた間切である。恩納村は中頭の読谷山間切(中頭)と金武間切(国頭)の西海岸の村を分割し、統合してできた間切である。つまりは国頭(山原)と中頭の文化を持った村を統合したことになる。恩納村と関わる史料を読み取っていくことは、現在の恩納村に中頭と国頭の文化がどう統合され、あるいは頑固に今に伝えているかを、史料を通して確認していく作業を進めている。

【恩納間切の創設(1673年)】

 『球陽』に恩納間切の創設について次のように述べている。「恩納間切地域は田地がはなはだ広く、人民も多い。金武郡(間切)から四邑(村)、また読谷山から八邑、合わせて恩納郡(間切)とした。恩納郡は向弘毅(大里王子朝亮)と毛国瑞(佐渡山親方安治)に賜わった。両惣地頭は恩納間切恩納村の祭祀場での祭祀と関わる。
 もちろん、間切の創設は按司地頭と親方地頭に領地を配分することを目的としたのであろう。両惣地頭は恩納村の城内之殿(恩納城)、カネクノ殿、恩納神アシアゲの祭祀と関わっている。恩納巫が関わる祭祀場でもある。首里王府が恩納間切をどう位置付けたのかとも関わってくる。

【言語の境界線は古琉球の間切境】

 恩納村の恩納と谷茶で言葉の境界線があることはつとに主張されていることである。その境界線は丁度金武間切の村であった名嘉真、安富祖、瀬良垣、恩納。読谷間切の村であった谷茶・富着・前兼久・仲泊・山田(蔵波)・真栄田(塩屋)がある。谷茶は金武間切と読谷山間切との境界をなす村であったことが言葉の境界線となっていることに気づかされる。
 「おもろさうし」で恩納間切の二つの村が謡われている。おもろで「おんな やき しまよ」「あふそ やき しまよ」とあり、恩納間切創設(1673年)以前に謡われたものである。恩納と安富祖は金武間切の村であった時代である。恩納間切が創設された時、そのおんな(恩納村)を取って間切名とし、そこに間切番所を設置している。読谷山間切の古読谷山(山田)村ではなく恩納村を恩納間切の同村にしたのかは、恩納間切が創設される以前からオモロに謡われている。

【おもろ御さうしの「おんな」は恩納村のこと】

 おもろさうし「第十七巻」のタイトルは「恩納より上のおもろ御さうし」とあり、恩納間切創設以前のことである。オモロの「おんな」は恩納間切ではなく恩納村を指している。恩納村はオモロに謡われる程、歴史的に重要な村であったことが伺われる。1673年以前の読谷山間切の村は「うらおそい・きたたん・よむたむさのおもろの御さうし」の内として「ひる」(比留:塩屋の内)とされる。恩納が間切名、村名とされたのは地理的・人口・村の勢いなど、それらの条件のもとで決められたのであろう。

【二枚の古琉球の辞令書】

 恩納村が金武間切の村であったことを示す史料がある。それは二枚の恩納ノロの叙任辞令書である。
 
 金武間切恩納ノロの辞令書(万暦12年:1584と順治15年:1658

 恩納村(ムラ)は1673年以前は金武間切の村の一つであった。恩納ノロに関する古琉球の辞令書と近世初期の辞令書二枚が写真で残っている(『補遺伝説 沖縄の歴史』島袋源一郎)。一枚は万暦12年(1584)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書、もう一枚は順治15年(1658)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書である。まだ恩納間切が創設される以前である。そのため「きんまきりの」(金武間切の)となっている。また年号に干支が書かれない最後の辞令書である。翌順治16年の辞令書から干支が記されるようになる。

    しよりの御ミ事          首里の御見事
     きんまきりの           金武間切の
     おんなのろハ          おんなのろハ
       もとののろのくわ              元のノロノ子
   一人まかとうに          一人まうしに
     たまわり申候          たまわり申候
  万暦十二年五月十二日     順治十五年七月廿八日

 辞令書の年号に干支が入るのは1658年直後のことである(順治16年の辞令書では干支がはいている)。また、1671年(康煕10年)の辞令書は全文が漢字となっている。その間に大きな改革があったかもしれない。いずれにしろ、「おんな」に「恩納」の漢字を充てられる。
 その当時の「おんな」(恩納)は金武間切のうち。万暦(1584年)の辞令書は「きんまきり」や「おんなのろ」など間切やムラ名に、まだ漢字が充てられていない。もう一枚の順治(1658年)の辞令書では金武間切と漢字が充てられているが「おんなのろ」は、まだ平仮名表記である。もう少し時代が下ると漢字表記になるが、その過渡期の辞令書である。

【「おんな」は「大きな広場」のこと】

 恩納は方言でウンナと呼ぶ。ウンナは表記上「おんな」と記され、近世になると「恩納」の漢字があてられる。その恩納の語義は何だろうか。ウンナをウン+ナと分けてみる。ナは謝名・識名などのナとする。地理空間を表すナ。ウンはウンジャフ(大きな迫)のように大きなやりっぱなを示す。
 恩納間切の創設は1673年のことである。二枚の辞令書は、恩納間切が創設される以前のものである。

 ウンナと同様な地名が徳之島の伊仙町にある。伊仙町は近世期に「面縄(間切)」や「恩納(城)」はウンノーと呼ばれている。同町にある恩納城跡は「恩納」の漢字が充てられウンノーグスクという。ここではナ(名)であるが、徳之島ではノー(野)である。ナとノーは同義と見られる。「おんな」と「表記されるが、ウンナと発音されたと思われる。時々「おんな(女)ではないか」とくるが、おんな(女)は方言音でヰナグなので女性ではないことは明白である。

 するとウン+ナは大きな(りっぱな)空間、大き(りっぱな)な広場(野原)、大きな(りっぱな)庭と解することができる。現在の恩納村恩納に、そのような場所があるかというと、万座毛(マンザモウ)がある。万座毛は1700年代の尚敬王が北山巡視の際に立ち寄り「万人を座しめうる原」として名付けたものだという。ウンナは、そのような万人も座れるような大きな広場(庭)があり、大きな地や村に由来していると見てよさそうである。恩納村の大きさを示すのに琉球国由来記』(1713年)の頃から恩納村に恩納掟と久留原掟の二人の掟(ウッチ)が配置されていることからもわかる久留原は恩納村内の小字名にある)。久留原掟の辞令書(明治29年)が『恩納村誌』に掲載されている。そのような事例は金武間切の金武村にあり、金武掟と並里掟が配置されている。恩納間切恩納村に置かれて、久留原掟の辞令書がある。

      恩納間切大文子當山正禄  
   恩納間切久留原掟ヲ命ス
    明治廿九年一月十三日 
  沖縄県庁

【恩納間切と関わる主な出来事】
 ・古琉球の「おもろさうし」で「おんな やきしまよ」と謡われる。
 ・1584年の恩納ノロの辞令書で「きんまきりの おんなのろ」と謡われる。
 ・1658年の恩納ノロの辞令書で「金武間切の おんなのろ」と謡われる。
       (「おんな」の語義は、ウンナで大きな広場、大きな野、あるいは海の辺か)
 ・恩納間切の創設は1673年である。
 ・恩納間切創設の時、金武間切(国頭:山原と読谷山間切(中頭:中山)から村の合併である。
 ・恩納村(ムラ)に恩納間切の番所が置かれる。
 ・恩納村(ムラ)は恩納間切の同(主)村である。行政の中心となる。
 ・恩納村は移動集落である。
 ・恩納間切に二人の掟(恩納掟・久留原掟)が置かれる。
 ・恩納掟は恩納集落の後村渠へ、久留原掟は前渠村に置かれる。
 ・『琉球国由来記』(1713年)の恩納村(ムラ)の拝所の確認が必要か?
 ・1719年に冊封使の徐葆光がやってきて書を残す。
 ・1726年尚敬王や蔡温(具志頭文若)が北山巡行でクンシモー(後の万座毛)に立ち寄る。
 ・1756年に冊封使に同行してきた王文治や「数峯天遠」の詩を残す。
 ・1853年にぺりー一行がやってきて番所(公舘)のスケッチを残している。
 などなど。「恩納より上おもろ」があるが、それは恩納間切創設(1673)以前のことであり、そこに登場する「おんな」は恩納間切ではなく「金武間切恩納村」を指していることに注意。「あふそ」(安富祖)もそうである。


20120106日(金)

 今帰仁村湧川や屋我地島の海岸線で塩づくりが盛んに行われていた時代がある。羽地内海の塩づくりについての問い合わせが時々ある。それと今帰仁村天底と名護市屋我地島に橋が架かり、その橋の名称はワルミ大橋と名付けられている。言うまでもないが、字天底の和呂目原(ワルミバル)に因んだ名称である。湧川から天底にかけての一帯はワルミ(割目:和呂目)と呼ばれている。塩づくりとワルミ地名についての問い合わせは以下の記述を参考にして応えている。

【泊潟原にて製塩を始める】(『伝説補遺 沖縄の歴史』:所収 島袋源一郎著)

 尚貞王代元禄七(1694)年の春、泉崎村宮城某が薩人弓削次郎右衛門に就いて製塩の法

を学び、潟原に於いてこれを試みた。その後姓を塩浜と改め子孫代々若狭町村に居住してこれ

を営み、塩田の一部を領有し、年々二十石を上納し、他の製塩業者はその小作人であった。

これより那覇・久米・泊の里人漸く此業に従う者多く、その租額を以て爬龍船営造の費用に

充当していたという。
 「王代記」にいう。康煕年間(16621722)廖氏塩浜、明国に於いて真塩の製法を伝授し来た

り長虹浜(十貫瀬道路を長虹堤という)に於いてこれを始めるとあり。また伝説に云う。数百年

前日本本州の人今帰仁間切湧川の下我部(運天港の奥)に漂着して割目の寺に仮寓し笊(ざ

る)に泥を塗って鍋とんし、土民に初めて製塩の法を授けたという。現在(大正頃)もこの付近は

製塩が盛んである。
 また兼城間切阿波根下り口に北山王族が遁れてきて始めて製塩の法を伝え、この地を

潮平(スンジャ:現在糸満市)と称 し、後一部落をなすに至ったと伝えている。果して然らば

其の年代は五百十数年(大正から)前にして下我部より後代に属するであろう。これを以て

考えれば薩人に就いて学んだとあるは、以前より長虹浜に於いて行い来りし幼稚なる製塩

法を改良したのではあるまいか。

【塩】(『琉球国由来記』(1713年)

 当国塩は、羽地の県内、我部村に始まる。(今俗称して、我部の塩屋と云う。直に海水を

汲みて、煮て、塩とする也)
   (続く)


20120101日(日)
 
 今年もよろしくお願いいたします! 新年のお年賀ありがとうございます。年末・年始は今帰仁の庵で寝ころびながら充電します。4日からスタートです。


20120104日(水)

 今年のスタートは運天港から。「山原の歴史」、あるいは「今帰仁の歴史」をみていく上で欠かせない場所である。山原に関わる積み上げてきたものを一つひとつ確認していくことにする。運天について、これまで以下の報告してきた。それらは「やんばる学研究」の足掛かりとするものである(やんばる(山原)全域については「やんばる学研究会」の方で紹介することに)

  ・「運天の歴史」(『なきじん研究』3号・9号・14号)
      運天の表記の変遷
      源朝為の運天渡来伝説
      『海東諸国紀』(琉球国之図)の雲見(運天)
      謎を秘めた百按司墓
      薩摩軍の琉球侵攻と運天港
      「正保国絵図」(1645年)にみる運天港
      大北墓と今帰仁按司
      唐人の漂着と運天港(1742年)
      運天の大和人墓(二基)
      仏艦船とオランダ墓
      運天港にある無名の古墓群
      運天の番所・在番
      勤(職)書(口上覚)からみた運天(港・番所)
      明治の運天(港)
      運天を訪れて人々
      運天の主は出来ごと(明治以降)
      運天(港)が果たした役割
       運天の歴史年表

  ・琉球の歴史と関わった運天港
  ・山原各地の津口(港)
  ・山原の津(港)と山原船(『なきじん研究』9号・14号)
  ・運天の隧道(トンネル)
  ・運天港にある大和人墓
  ・琉球の歴史を秘めた運天港
  ・運天港と運天のムラウチ集落
  ・運天の間切役場と百按司墓図
  ・百按司墓(ムムジャナ墓)
  ・運天港付近の古い墓
  ・米軍が水陸両用戦車で運天港に上陸
  ・イシベー(石灰)焼き、運天に始まる
  ・今帰仁間切の番所と同()
  ・運天の小字(『今帰仁の地名』)
  ・運天のタキヌウガン
  ・運天の御嶽(ウタキ)と神アサギ
  ・ムラ・シマ講座運天

 
        運天港(2012.01.02               運天にある大北墓(按司墓)