名護市呉我~湧川



1回 名護市字我部の報告―
平成23年(2011)514日(土)
 

 「晴れでもなく、雨でもなく、ちょうどいい加減」なお天気の中、スタッフ入れて総勢27名が車を連ね、ムラ・シマ講座のスタートです。 

今回の行き先は屋我地島(現名護市)の我部ムラです。

 我部はもともと現在の天底~湧川にあったムラです。それが今の場所に移動していくのですが、かつてのムラの痕跡を見、移動した場所での状況を見、我部ムラの姿を感じてもらうのが目的です。

【館内のレクチャー】

 
▲今年の参加者のみなさん                 ▲仲原節!

 久しぶりに館内でのレクチャーです。現在の湧川地内にあった5つのムラ(後述)について語る仲原お館(やかた)さま。 

【ワルミ大橋】


▲ワルミ大橋の説明をする菜美路さん♪ 

 天底代表玉城菜美路がワルミ大橋の説明をしています。 

 ・ワルミの橋は「ワルミ小橋」と「ワルミ大橋」の2つがあり、ワルミ小橋の全長は89メートル。大橋の全長は315メートルで、アーチ部(虹型)の長さは210メートルとなり、全長100メートル以上の長く大きい橋でこの構造を採用している橋は全国的にも珍しいとされている。 

 ・工期は2006年12月23日~2010年3月25日の約3年半。 

・2010年12月18日に開通式を行ないました。(開通してから約5ヶ月)

  開通式での「渡り初め」は津波古さんという一家でしたが、渡り初めを行なう家族は三世代いることが条件で“親・子・孫のように橋も永続してほしい”と願いからこの渡り初めを行ないます。 

 ・では橋の名前である「ワルミ」って??

「ワルミ」というのは漢字で「和呂目」とかき、天底の小字のひとつ。「ワルミ」は「割れ目、裂け目」のことで、対岸の屋我地島との海峡に由来します。

 ・このワルミ大橋ができるにあたり・・・・さまざまな考慮がなされました。

①船舶航行の安全性

ワルミ海峡は、運天港の一部で、荒天時の避難泊地である羽地内海に出入りする船舶が通過します。大橋の下を2,000トン級の船舶を通すために、橋のアーチ型(虹型)が採用されました。

②景観、海峡内の環境保護

橋周辺は「沖縄海岸国定公園」の特別地域として指定されていることから、景観に配慮。また、マングローブをはじめとする貴重な植物や渡り鳥が渡来する自然豊かな地域で、「国指定鳥獣保護区」として指定されており海峡に柱を立てずに、アーチ型の支柱が道路下を走るという独特の構造をしています。

(今日もアカショウビンが鳴いていましたね~)

③ウタキの保全

橋のすぐわきには「ワルミのティラ」という拝所があります。当初の予定としてはこの拝所の上を橋が通る予定だったそうですが、大事な拝所なのでそれは避けてほしいという要望をうけ入れました。

④工事中も・・・・

完成した橋だけでなく、工事中にも自然豊かな海峡で魚の養殖も盛んなこの地域に、雨などによる赤土流出防止や周辺道路の舗装や粉じん対策なども行なわれました。

 これらのことを考慮してできたこのワルミ大橋は、コンクリートアーチ橋の国内ランキングとして5番目で、合成鋼菅アーチ巻立工法によるコンクリートアーチ橋の国内ランキングは1番になっています。 

 ・大橋ができて便利になった・・・・・「湧川と我部は戦前から船による往来がありました。我部の前区長さんの上地氏の話しによると、うちなー相撲を習いに仲宗根次郎氏をたずねたそうです。5時まで仕事をし、それから船を漕いで湧川区川竿(かーそー)にて相撲の稽古に日々励んでいたそうです。以前は船での行き来でしたが、こうして徒歩で屋我地島へ渡れるのは夢だ」と語っていたそうです(「湧川通信」より抜粋)。 

 以上菜美路さんの説明でした。 

 ワルミ大橋が開通して、古宇利島から通う今帰仁中学校の生徒たちはホントにラクになりましたよ! 部活の朝練に間に合わすために、今までは5時起きだったもんね! そして屋我地や古宇利の人達が、名護ではなく、今帰仁の仲宗根の買い物に来るようになりました。人の流れが変わってきていますね~。天底の交差点も、信号がないのに交通量が多くて、ちょっとヒヤっとします。 

我部の旧ウタキ】 

 
▲小橋の上から下をのぞくとね・・・         ▲我部のウタキのイベが見えるのよ 

参加者の皆さん、ワルミ小橋の屋我地に向かって左側から下を覗き込んでいます。

ワルミ小橋の南西側の杜全体が、もともとの我部のウタキです。覗き込んで見えるは、ワルミのティラという小さな鍾乳洞です。鍾乳洞の入り口の上に祠ができており、ここは旧我部ウタキのイビに当たる場所です。我部ムラの「ガブ」とは「クブ(窪み)」の意と言われ、このティラガマに由来する名称と思われます。

ここには塩作りの伝承が伝わっています。 

 製塩伝説を調べると為朝が伝えたという説と、為朝に付き添ってきた僧が教えたという説があります。『琉球国由来記』(1713)の記事によると、

「製塩は我部ムラに始まる。直に海水を汲んで、煮て、塩とするナリ。

大昔、日本人が本国に来て、製塩を教えた。それより、薪が手に入りやすいムラは、皆このようにして塩を作った」

とあるのみで、為朝に関わる記述はありません。 

 いずれにしても、旧我部ムラのウタキのイビであったところに、製塩伝承が加わり、それに由来する人物を顕彰する意味合いがかぶさった場所だと言えるでしょう。


▲ティラにたたずむお館さまと丑♪ 右に石碑が見えます 

 ティラには、戦争中ここに隠れて生き延びたと思われる日本兵の方の石碑が建てられています。今回はここには降りませんでしたが、下調べした時に碑文を写し取りました。

 

・ティラの碑文

(碑文正面)

建築記念日 一九五ニ年九月二十一日

    當時者 宮島 清義

     責任者 松田 政吉

     (碑文右側面)

        左官 佐久川 政良

     (碑文左側面)

          作 宮島

        戦世(も)しまち

        お寺ふち立てつ

        氏神(も)きゆや

        うりしやみせら

 

      ティラは我部のもともとのウタキのイビであり、集落は移動しても、ウタキ、イビはそのまま置いて大きな神行事のときに拝みます。ノロ管轄はそのまま変わらず我部ノロで、旧の5月5日、9月9日にティラウガンがなされるそうです。

 

【我部のもう一つのウタキ】

 


▲スガー(塩川)ウタキ

 我部ムラは移動前のウタキであるティラをそのまま残し、移動後も祭祀を行なっていますが、我部に関わる祭祀場として、今回は行きませんでしたが、もう一つ、「スガー御嶽」があります。

 スガーとは「塩川」の意で、字の通り塩作りに関わるウタキであり、ティラとセットで拝まれる場所です。

  スガーウタキはシチャガブにあり、現在の地番は湧川ですが、湧川ムラの祭祀とは関係がなく、我部ムラの人達が拝みに来ます(ただし、湧川の拝所である新里ヤーの中に、琉球で初めて塩作りをしたという開山長老の像があり、この人物とスガーウタキを繋いで、新里ヤーに関わる人たちが拝みに来ます)。 

 ウタキの祠の前に置かれている石が黒く焼けているので、ここ一帯は実際塩炊きの場所だったと思われます。近くに嵐山があるので、塩炊きに必要な薪には不自由しません。製塩伝説の説明の時に引用した『由来記』中の記事に、「薪が手に入りやすいムラは、皆このようにして塩を作った」とあったのを思い出して下さい。 

また鉄板を乗せたと思われる塩炊きの石が、祠の左横にあります。これは大宜味村塩屋の塩炊きのウタキに、塩炊きに使われた石がご神体として祭られていますが、それと同じ性格の石だと思われます。 

  また古宇利島の「お宮」には合祀された火ヌ神や石がありますが、このお宮は「クヮッサヤー」という屋号のある場所です。かつてこの場所で海のユイムンをとって煮炊きし、神にお供えし、クヮッチーしたので、その屋号となったようです。このお宮でも、鍋で煮炊きをするときに使う石がご神体となっています。

スガーウタキは東の方を向いています。

  このスガーウタキも、ティラと同じように、いわれのある場所を顕彰し、そこを拝所にしていく例のひとつと言えます。

  祠の中に彫られた「海(羽地内海?)と山(嵐山?)と月?それとも塩炊きの鍋?」のシンプルな線画が素敵ですよね~。

 いつもここに来る度に、いいデザインだなあと見惚れている丑です。

 【旧我部ムラのフルガー】

 
▲フルガー(古い井戸)

スガーウタキの周辺には、フルガー(古い井戸)といって、かつてこの周辺に住んでいた我部の人達が使っていた井戸も残されています。畑の横にありました。見た目「土管」の井戸を覗き込んでみたら、中は水量もあり、石組がしっかりと残っています。

 このフルガーは、湧川ムラが新設されたのち、湧川の人達が引き続き利用しました。

【我部・松田のムラ移動の流れ】

 ではここで、我部・松田のムラ移動についておさえていきます。

現在の天底~湧川~呉我山地内に我部・呉我・松田・振慶名・桃原の5つのムラがありました。

当時はこの地域は今帰仁間切ではなく、羽地間切の内です。

1674年まではこの5つのムラは今帰仁間切でした。 

しかし1674年に境界の変更(「方切」という)があり、それ以降は羽地間切の管轄となりました。

 ※方切前の資料として池城墓の碑文「ごがのおきて(呉我掟)」(1670年)。

家譜資料に「康煕11年、今帰仁間切松田の名を賜ふ」(1672年)の記事。

※方切後の資料として家譜資料に「康煕13年、羽地間切呉我の名を賜ふ」(1674年)の記事。 

この5つのムラの地域の人口が増え、山から切り出す薪が不足し、また農地も狭く、山林を焼いて畑地としていたこともあり、山が荒廃する恐れがありました。

 

更に、この5つのムラが移動していった場所は湿地帯で、そういった土地を開拓させ、貢租を増やす目的もありました。

ムラ移動の時期が、羽地大川改修後であることに注目です!

このような背景をふまえ、1736年、蔡温の林業政策として、ムラを移動させます。

 そして我部・松田があった場所に新しく湧川ムラを作り、今帰仁間切の領域となりました。

  よって現在の湧川・呉我山区域は1674年まで今帰仁間切→1674~1736年は羽地間切→1736年からは今帰仁間切、という変遷をたどります。

  ややこしいですね~(^^;) 


▲ワルミ大橋から見た、我部・松田の移動地 

 では、5つのムラはどこにお引越しさせられたのでしょうか~?

 ・我部と松田は対岸の屋我地島に移動。ムラの範囲はかなり広い面積に渡っています。

 ・呉我山区域にあった呉我ムラは、桃原ムラと共にニ回移動して、旧羽地大川北側の現在地に。

 ・振慶名は6月のムラ・シマ講座で調査に行きましたよね~。覚えてますか?

 (私はちょっと覚えているところが少なくなっている・・・・・かも・・・・・汗)

田井等・親川の西側、旧羽地大川沿いにムラ移動がなされています。

 

羽地内海を挟んで4つのムラがひとまとまりになり、また振慶名は羽地の中央部ではありますが、祭祀は移動前と同じように我部ノロがそのまま管轄を継承しています。 

【移動の頃の我部・松田ムラのようす】

「ムラとは今の字のことです」と言いますが、ではどんなムラをイメージしたらいいでしょうか?

 

シチャガブにいた頃の我部ムラの当時の集落は、ムラの中にまとまってあるのではなく、それぞれの血族で、マキ・マキヨ的にポツリポツリと暮らしていました。

 

宮城真治が昭和10年頃調査した資料によると「『乾隆図』の人家10戸、西方4、東方6。『竿入帳』の屋敷、我部11戸、松田欠(推定12)」とあり、「乾隆図」が1750年頃、「竿入帳」はその少し前の1742年頃の資料で、両方ともムラ移動後の資料ですが、移動する前も世帯数は両ムラ合わせて10~25戸前後だったと考えられます。

 そのくらいの規模で、血族を単位として小さなまとまりを作り、そう広くない範囲の中で暮らしていたものと思われます。 


  ▲公民館から羽地内海の方向を見る 

 我部ムラと松田ムラは隣接していましたが、松田ムラはムラ名としては存在していても、既に我部ムラとの一体化が進んでいたとみられます。

その根拠として『球陽』康煕30年(1691年)「羽地郡松田村は本郡我部村に属す」という記事があります。

また1713年に編纂された『琉球国由来記』には、(この時期は方切後で、羽地間切)、松田ムラのウタキの記載がなく、神アサギのみが記載されていることから、我部のウタキとの一本化が考えられること。我部ノロ火ヌ神を管轄するムラとして我部・松田が別々の項でなく、両ムラ併記されていること、などが挙げられます。 

 移動した先の我部・松田ムラの中心部は現在の公民館やヌンドゥルチ、神アサギ、ウチガミヤーから平松の碑周辺であるが、上記したマキ・マキヨ的な血族集団が、以上の範囲に小さなまとまりを作って暮らしていたとみられます。 

我部ムラと松田ムラが移動した時、屋我地には屋我ムラ、饒平名ムラ、済井出ムラがありました(1649年の『絵図郷村帳には屋我ムラのみ。1713年の『由来記』には三つのムラ名が登場するので、屋我ムラからの分かれと見られます)。 

【我部のヌンドゥルチ】

 
▲我部ヌンドゥルチ                 ▲いしがん・・・・っとぅ・・・・・ 

我部の公民館の隣に、ヌンドゥルチ(ノロの屋敷)があります。赤瓦で立派な建物です。

 我部ノロは移動前の5つのムラを管轄としていましたが、移動後も祭祀の管轄は変わりません。それは、ノロの給与に関係しているからです。管轄しているムラが減ると、首里王府からの給料が減ってしまうのです。ですから移動後も管轄ムラの祭祀をしっかりと行なっていきます。 

 写真右はヌンドゥルチの側の松の木の下にあった石敢當・・・・・なんだけど、「當」の下の部分が道路の工事などで埋まってしまったのですね・・・・・・。なので読み方は「いしがん・・・・・っとぅ・・・・」。

10年後に調査に来たとき「石敢」だけになってませんよーに。

【我部と松田の神アサギ&ハミヤー】

 
▲我部の神アサギ(右の祠)とハミヤー(神屋)           ▲松田の神アサギ 

 ヌンドゥルチから東へまっすぐ道を下りていくと、ひとつの空間の中に、西からハミヤー・我部のアサギ・松田のアサギが並んで建っています。

 我部と松田が移動前に既にムラがひとつになっていたことは説明しましたが、ムラが合併しても祭祀はひとつにしないため、両ムラの神アサギがそれぞれ作られているのですね。どちらのアサギも同じ大きさ、同じ形式で作られています。我部の神アサギに「西暦一九六三年八月十日吉日」と彫られています。 

 このようにムラがひとつになっても神アサギはひとつにならなかった例として、今帰仁村字今泊の神ハサギ(今帰仁ムラと親泊ムラ)、字諸志の神ハサギ(諸喜田ムラと志慶真ムラ)、玉城の神アサギ(玉城ムラ・岸本ムラ・寒水ムラ)があります。

 ふたつの神アサギには「我部」「松田」と表札があるわけではありませんが、ハミヤー隣のアサギを「ウイヌアサギ(上のアサギ)」、東側のアサギを「シチャヌアサギ(下のアサギ)」と呼ぶことから、ムラ合併の主である我部ムラのアサギが「上」、「下」が松田ムラだと分かります。

  これは、今泊の二つのハサギがそれぞれ「フプハサギ(大ハサギ)」「ハサギンクヮー(ハサギ小)」と呼ばれるのと同じで、今泊の場合は、先に現在地に移動していた親泊ムラのハサギが「大」、後から移動してきて親泊ムラに隣接した今帰仁ムラのハサギを「小」と呼んで区別しています。

  ハミヤー(神屋)は、ムラ内にあったいくつかの拝所を合祀したもので、神社形式の建物です。恐らく根神屋やノロの火ヌ神などを合祀したものだと思われます。門柱に「昭和四十二年旧六月廿六日竣工」と彫られています。 

 ちょうどユタさんがウガンをウサげている最中で、「ボクのウガンも一緒にしてもらおうかな~」と仲尾次先生がおっしゃっていました。でもね、他人のお供え物で御願すると効き目がない・・・とゆーのは、既に丑が去年のナングスクで実証ずみなのですよ。名護神社でユタさんがウガンしている後ろから、ちょうど試合の最中だった息子の野球チームの勝利を祈願したら、見事に敗退でしたの~(TT)。軒を借りて、ついでに母屋もなんて、やっぱり神様は許してくれないのよね~。 

【我部のウタキ】 

今回の講座では行きませんでしたが、我部の集落の北側の杜にウタキがあります。ムラ移動をしても、集落の近くの高いところにウタキを作っていく習性をもっているんですね~。

 
▲ウタキのイビヌメー                   ▲ヒジャイナー 

 我部のウタキはガブウガミとも呼ばれます。ウタキに入っていくと、低いコンクリートで囲われた空間があり、上に向かって香炉が置いてあります。「シチャ(下)ウガミ」と呼ばれていますが、ここはウタキのイビヌメー(イビの前)です。イビとはウタキの中の最も聖なる場所でしたね。ムラの人たちが入ることのできるのはここまで。この先からは、神人しか入れません。 

イビヌメーの両サイドから工事用のロープが張られていますが、これはピジャイナー(左縄)。右利きの人がなった縄でなく、左利きの人がなった縄で、魔物を追い払い、結界を作る力があるとされています。

 
▲ウタキのイビ                        ▲ヒッ・ヒッ・ヒッ

イビヌメーからさらに上がっていくと、イビがあります。面白いのは、イビは階段から直線上にはなく、まっすぐ上がった頂上の右手に祠が設置されているのです。階段からの直線をずらして置かれているため、何だか落ち着かない配置となっています。

これはわざとずらして置かれていて、直線からはずすことで風水(フンシー)に当てている・・・・という例です。

もうひとつ、この「ずれ」で面白いのは、イビは旧ムラの方向に向いていない、ということです。

ずらして置くなら、自分たちの元住んでいた場所に向きそうですが、全然違う方向を向いている。「オレは故郷を捨てた身。振り返ることはできねえ」といった意識が働いたのか、働かなかったのか分かりませんが、イビが故地を向いていないことは確かなのでした。 

我部のイビは小さなコンクリートの祠で覆われ、祠の右に「癸丑年」、祠の左に「昭和拾二年度竣工」の文字が彫られていました。今帰仁グスクの鳥居ができて7年後のことです。祠の正面奥の壁に、真っ赤なペンキで「ヒ」の字が三つ記されていました。これは「喜」の略字で幸いを意味する・・・・・とのことです(お館さま談)。 

昨年のムラ・シマ講座で親川グスクに行ったときに触れた『羽地按司様御初入日記』、みなさん、もう忘れたことと思います。私も忘れていました。この『日記』に羽地按司の一行が我部ムラのウタキや我部ノロ火ヌ神を訪れたことが記載されています。按司の一行はその後、饒平名ムラ、済井出ムラ、屋我ムラを訪問しています。 

【平松之趾碑】


▲「平松之趾」の前で熱唱する「セイジ&ノリ」 

 この一帯は小高い丘状となっており、周辺をぐるりと松並木で囲われた場所で、集落の保護林として植えられたものです。

 丘の周囲、低地の部分はかつての湿地帯で、もともとの集落はこの辺りの小高い場所に居住していたのですね。 

 この平松之趾碑には琉歌が掘られています。 

 「朝凪と夕どり やかち漕じ渡て 我部の平松に 想い残ち」 

 琉歌の大家である山内センセイが解釈して下さいました。

   「夕暮れになると、屋我地へと舟を漕いで渡ってきた。

     そして朝の凪の海を、また船を漕いで渡っていく。

      逢瀬を楽しんだ我部の平松に想いを残して」 

 ん~、なーんて艶っぽい唄なんでしょう~。でも下調べで訪れたとき、下の道で掃き掃除をしていたおじいさんが言うには「ここは昔毛遊びの場所だったので、松を切り倒した」・・・・(^^;)。無粋にも聞こえますが、自分ちの娘息子が夜な夜なケータイ片手に松林に出かけてると知ったら・・・・・ユンボ入れてすべてなぎ倒しますね、丑なら。

 この唄は「よーてー節」の節回しで歌われるもの・・・・だそうですが、丑は「よーてー節」ってどんな曲だか知りません。それで、ムラ・シマ講座が世界に誇る民謡歌手「セイジ&ノリ」のお二人にご披露して頂きました・・・・今回参加できなかった島隆課長がいれば「セイジ&ノリ&タカ」のユニットだったハズ・・・・・。

  歌って下さった節を聞いてビックリ! 「あら~、これは波之上の古ガンチョーの唄じゃな~い?」

 なーんだ、知ってる~♪ 心の中で平松に捧げるウタを歌っていた丑です。

  さてこの丘の饒平名側には豊年祭の舞台が設置されています。通常豊年祭の舞台は上アサギの前にしつらえ、ムラの神様に向けて演じられるのですが、この舞台は我部・松田両ムラの神アサギから離れた場所にあります。

 前述したおじいさんに伺ったところによると、かつてはアサギの前に作っていたが、場所が狭かったので、ここに設置したとのことです。しかし、確かに神アサギの方向には向いていないけれど、よく観察してみると、舞台はウタキの方向に向かっていることが分かります。

現在は神アサギ前で扇舞をし、その後ここでウドゥイを行ないます。

ちなみに屋我地島では五つの部落が交替で豊年祭を行なうため、豊年祭は5年マールーとなっています。  

オランダ墓】(フランス人の墓) 


▲オランダ墓への途中にあった、石碑のあるお墓 

 セイジ&ノリの歌声に拍手喝さいした後、ムラ・シマ一行は運天原にあるオランダ墓へと向かいます。

 10年ほど前に行なわれた沖縄サミットのおかげで、オランダ墓への道ができ、見学しやすくなりました。平成6年か7年かのムラ・シマ講座でオランダ墓を訪れた時は、潮の時間を見て、干潮のあいだに大急ぎで調査したんですよ~・・・・・でもそんな難儀も嬉しい難儀でした~。 

 写真はオランダ墓への途中にあったお墓です。道の上の方にあるので気づきにくいのですが、通り過ぎようとしたとき、フッと石碑があるのに気づき、「あれ?普通のお墓に石碑があるのは珍しいな」と思い、菜美路さんと二人、列から離れて登ってみました。 

 碑文には「故陸軍兵長上地完保之墓」「西暦一九六四年 三月十一日」とあるのみで、いわれなどは記されていませんでした。日本陸軍の兵長として、この地で戦死なさった方なのでしょうか? 機会があれば、調べてみたいと思います。 

 
▲龕屋(ガンヤー)                  ▲龕屋の内部

 オランダ墓への道が整備されたおかげで、運天原の龕屋(ガンヤー)見ることができました。龕とは、人が亡くなったときに、遺体を入れた棺を乗せて運ぶ道具です。ムラ共有のものなので、ムラで管理保管し、使わないときは龕屋に納めておきます。

 左の写真が運天原の龕屋です。前面の石が崩れて、中がのぞけるようになっていました。

右が龕屋の内部です。壊れてはいるけれど、まだしっかりした形をとどめています。朱塗りの一部が残っていますね。緑色は塗料なのかな~。中が真っ暗で、よく分かりませんでした。 

 
▲フランス人が眠るオランダ墓            ▲オランダ墓の墓碑 

 オランダ墓です。詳しいことは『なきじん研究3号』と『9号』をご覧ください・・・・・なーんてシリヌゲよっかなーと思ったけど、分かりやすくご案内いたしましょうね☆ 

 「オランダ墓」とはオランダ人を葬った墓ではなく、西洋人を葬ったお墓のことです。うちのばあちゃんなどは外国人のことを「ウランダー、ウランダー」していましたが、当時の日本は鎖国政策により、キリスト教の布教を目的としないオランダと交易をしていたため西洋人はみんな「オランダ人」なんですね。山原では屋我地島のオランダ墓と、国頭村宜名真のオランダ墓の二ケ所が確認されています。屋我地のオランダ墓にはフランス人が、宜名真のオランダ墓にはイギリス人が葬られています。

 さーて、これからお話は大きくなりますよーん!

 世界史と日本史と琉球史のからみ合いの始まり始まり~(^^)/~ 

 1797年にですね、初めて外国船(イギリス船)が琉球にやってきます。その後ほぼ50年の間にイギリス・アメリカ・フランスなど70隻以上もの外国船が琉球を訪れていますが、こんなちっちゃなシマに欧米列強国がやってきたそのワケはナニ!? 

琉球にやってきた最初の頃は 

1.キリスト教の布教

2.探険測量

・・・・・・などの目的だったのですが、1840年のアヘン戦争(あ~、世界史の教科書に出てきたわよね。えっと、確か中国が関係してたわよね・・・・イギリスと中国:当時の清:とのアヘン密貿易をめぐる戦争。イギリスの勝利によって東アジアにおける中国を中心とした体制が崩れたこと、欧米の東アジアへの市場進出がもたらされた)の後、来琉の一番大きな理由は 

3.琉球と貿易がした~~~いっ(ウチの商品を買って買って、買え~コラっ)。

となっていったのでありました。 

 産業革命のおかげで綿織物がどんどん作られて、国内でさばききれないから、外国に売りに行かないといけない。その相手が中国であり、インド、さらにアフリカです。アジア・アフリカ諸国のほとんどが西欧の植民地(武力・経済の強―い国のドレイのような状態になること)になっていったのは、こういう理由があったから、なんですね~。 

 清国がイギリスに敗戦したことを知った江戸幕府は、非常にショックを受け、それまで「異国船打払令」などを出して「エゲレスなんか怖かねーぞ」と言っていたのに、「薪とお水くらいはサービスしてあげてもよくってよ」(「薪水給与令」)と態度を軟化させ、開国の下地が作られていくのです。 

 で~、海外列強のみなさんは、清が東アジアのトップから転落したことを背景に、まずは琉球と通商条約(モチロン欧米側に有利な条件です)を結び、次いで一番の目的である「日本のマーケットを手中に!」を狙い、日本を開国させようと、琉球めざしてやってきたわけです。 


 さあ、やっと運天港にたどりついたぞ。 

 1846年、那覇港から運天港に回航し、6月から一ヵ月間滞在したフランス艦船サビーヌ号、クレオパトール号、ビクトリューズ号は三隻ともセシル提督率いる軍艦で、乗組員も総勢1、100人と多人数! ご飯作り、大変だったでしょうね~。 

セシル提督は琉球に通商条約を結ぶことを要求しますが、琉球側はそれをやんわりと断り、お土産をあげたり接待したり、交渉を長引かせて、うやむやの内に「早くおうちに帰ってくれないかなあ」と琉球スタイルの外交を展開します。 

一方、琉球のこの出来事を知った江戸幕府はどんな動きをしていたのでしょう? 

薩摩藩の首脳部と江戸幕府との間で、「琉球をどうしよーか」との秘密会議が開かれます。

当時の琉球は、薩摩藩(=島津氏)が支配しており、琉球に関する実権を持っていたのですね。

で、島津氏は、「日本の鎖国政策には影響しないように注意しますから、琉球だけでの貿易を認めてくださいよ。貿易の利益はもちろん幕府の懐にも入りますぜ、旦那♪」と、条件付き条約受け入れ案を出します。幕府はそれに乗って、暗黙の了解を与えます。 

なーんか、今の基地問題の根っこを見ているみた~~い。 

けれど、ヤマトの政治の中枢部で、こんな密約が交わされているなんて知らない琉球側は、セシル提督が船に役人を乗せたり、上運天の海岸に降りて威勢を示したり、まー、いわば脅したりすかしたりしながら何とか条約を結ぼうとしているのを完全にスルーして、

「だってー、ウチ、外国に出すほどの物はな~んにもないんですよー、てへへ」

と、ついにはセシルをあきらめさせてしまうのです。 

 その後、とぼとぼと長崎に向かうセシル軍団でありました。 

・・・・・とまあ、長い前置きではありますが、フランス艦船が運天に滞在した一ヶ月の間に二人の乗組員が死亡し、琉球式に葬ったのが、このオランダ墓です。 

二つの墓碑は全部漢字で記されていますが、読み下してみますと、

 

■向かって右側の墓碑

大フランス国戦船フレガット・クレオパトール  

老将ギタール洗礼名フランチスコカールの墓

西暦一八四六年需安月二十日病故

     (注:需安月は6月)

■向かって左側の墓碑

  大フランス国戦船コルヴェット・ビクトリアス

  老将サーリョ洗礼名ヤコブの墓

  西暦一八四六年需安月十一日病故
                 (読み下しは「金石文から読む歴史」村上仁賢氏による)

 

 二人とも墓碑に「老将」と記されていますが、これは故人に対する尊称で、実際はギタールさんは23歳、サーリョさんは35歳でした。

  面白いのは、オランダ墓の「墓スージ」の記録です。この事件の30年前に漂着したオランダ人を葬った時の前例にならって、

・小豚一足 ・庭鳥二羽 ・浜焼鯛二鉢 ・九年母二鉢 ・餅二鉢 ・仙香一結 

・ワラ唐紙(打ちカビのこと?)十枚 ・焼酎二瓶 ・蝋二丁

をお供えしています。

 これを見たセシル提督以下、フランスの皆さん、キョーミしんしんだったでしょうね~。

 葬られた当人お二人は無事フランスのグソーに辿りつけたでしょうか?

 丑は二回目にオランダ墓を調査に行ったときには、缶コーヒー(カフェオレよ、もちろん♪)をお供えいたしました(^^)。 

 さて、セシル提督率いるフランス艦船の物語はこれで終わりますが、歴史は動いていきます。 


▲オランダ墓の下、今帰仁の対岸で、お館さまが語る! 

 さて、1846年、フランスのセシル提督の一行は、琉球と通商条約を結ぶことなく長崎に向かって行きました・・・・幕府と島津氏の「鎖国に影響を及ぼさない限りにおいてこれを認む」という密約は間に合わなかったのですね。

 その翌年、1847年、在番奉行の役人が、薩摩藩の家老の密命を受けて、密かに運天港にやってきます。

その目的は「運天港の実地見分」。 運天港の水深等の調査の外、屋我地島・古宇利島などの地形調査を行なっています。 

なんで、薩摩役人がワザワザお忍びで測量に来たのでしょうか? 

それはですね! 

ジャーーーン!! 

「古宇利と屋我地を、出島化したかった」ためなのです!!!

フランス艦船が琉球を出た後長崎へと向かったのは、長崎の出島が唯一の外国との貿易地だったからです。薩摩藩は運天港に商館を建て、反物とフランスの貿易品を交換し、うまくいけば、長崎市場にも参入しようと考えていたようです。

ひゃー、スケールでかーーーい! 

一地方行政が、中国はもとよりヨーロッパと独自に貿易を行なおうと、営業計画を立てていたんですよ~。 

この発案は、当時の藩主だった島津斉彬(なりあきら)君の構想です。

島津斉彬と言えば、「富国強兵」「欧米に追い付け追い越せ」を強硬に推進した人物で、アメリカから帰国したジョン万次郎を保護し、部下に西洋式の造船法を学ばせるなどの他、ガラス製品(現在薩摩切子で有名!)・溶鉱炉の建設・地雷作成・ガス灯・・・・・などといった近代工業に力を注ぎました。

49歳の早すぎる死は、毒殺説もあるようですが、斉彬の死によって、古宇利・屋我地の出島計画はとん挫してしまいます。 

この出島計画が実現していたら、運天は、今帰仁は、琉球は、どんな歴史をたどっていったでしょうね~。オランダ墓の前で、お館さまが熱く語っておりました!

【大堂原の海岸】

 
▲古宇利大橋を渡らず海岸に降りる                 ▲石切り場の跡 

 ムラ・シマバスは一路古宇利大橋へ!!

ここを渡ると、橋詰め広場があって、美味しいアイスクリームを売っているお店があって・・・・・・なのですが、今回は渡りません(T_T)。橋の手前で海岸へと降りていきます。

この浜は貝塚時代の遺跡であり、沖縄本島で最古の人骨が出土した場所(橋の反対側))でもありますが、県内でも最大級の石切り場の跡があります。

石大工の人達が切り出した柱の跡が、直角に、段を成して残っている様子は見事です。 

 
▲板干瀬のようす                      ▲貝が化石化している 

 この大堂原の海岸は板干瀬(イタビシ:ビーチロック)になっていて、板干瀬が形成されていく時に化石化した貝をたくさん見ることができます。

 ビーチロックって、これのことを言うのか!と、今まで見過ごしてきたものに新たに「意味」を見出して感動した丑です。