2007年11月の動き


                                   沖縄の地域調査研究(もくじ)


20071130日(金)

 11月最終日。午前中、湧川小の生徒達がやってきた。この時期にやってくるのは、「むかしの道具と生活」がテーマである。いろいろな道具を使うのであるが、道具から先人達の知恵を学ぶことを中心としている。それと水くみと通して、担ぐのに肩が痛かったり、つまづいたり。濡れたりしながら、相手の痛みや立場、そして気持ちを読み取ることの大事さを体験させる。明日の報告で、今日の画像を使おうと。

 午後から石川高校生徒達がやってきた。今帰仁グスクを通した歴史学習である。ピクニック気分でやってきた生徒達は、次第に真剣な表情に。学校では学ばない、あるいは学んできた歴史とのギャップに気づいてもらう。足が地についた歴史を学んでいないので、歴史の面白さと自分達が今向いている方向がどこなのか。

 今は知識の歴史を学ぶので精いっぱいでしょう。何名か、ガガンと頭を岩にぶっつけたようなショックを受けた生徒がいたような。運天の百按司墓のところでも。下の展示室にいくと、解放され沖縄の時間の流れに。「その時間の流れ、いいよな」との声も。

 
 ▲妹と兄の水汲み。やさしい兄でした!      ▲また、水汲みに来てください!

 
     ▲歴史から解放されると「沖縄はなかなか面白いな~」との声


20071128日(水)

 121日(土)新県立博物館・美術館で開催される南島文化市民講座(シンポジウム)に向けて頭の切り替えをしないと。200名余の参加者だと聞かされています。200名入る会場に100名の参加ではないでしょうね。であれば助かるのですが。今頃、後悔してもはじまりません。特に薄くなった見苦しい頭をライトで照らされるのが。来館者に申し訳ないです。鏡をみないと、自分では見えませんのでね。シンポジウムは7月頃引き受けたような(断れない性格)。

 私の報告は「地域博物館が果たす役割」。地域の博物館は冬の時代、さらに厳しい時代がやってきます。厳しいですが、夢をもって厳しさを乗り越えていく方策でも提示しましょうか。シンポジウムに向けて、準備にでもかかりますか。できるだけ、みなさんの目をそらすために画像(パワーポイント)を使います。ノロ制度の終焉や座間味島などの島々の書き足しは、しばらくストップ。


20071127日(火)

 座間味島へ。日帰りの予定が二日。高速艇の欠航はよくあるとのこと。折角泊港まで来て、手ぶらで帰るわけにはいきません。泊埠頭近くの外人墓地をみつけ、ペリーの上陸碑が目につく。一行は名護湾や瀬底島、運天港や塩屋湾あたりまで来ているのだ。明治7年の国頭村宜名真沖で座礁したイギリス商船の乗組員も運天港経由で泊に連れてこられたのか?など、泊港や泊村のことが次々と浮かんでくる。そのように引き込まれてくると、座間味島に渡らないわけにはいかない。帰れるかどうか。月の予定がないことを確認して、フェリーに乗り込む。島に一泊することに。

 座間味島に座間味・阿真・阿佐の三つの集落がある。座間味の集落内を歩きながら、島の情報や様子をつかむことから。雨さえ降らなければ・・・。座間味役場の前を流れる内川の山手側が旧集落のようである。そこに御殿(ウルン)やヌル宮がある。旧家の屋敷内に鳥居のある「・・・宮」の祠が目立つ。座間味集落だけでなく粟国島や阿嘉島でも目についた。山原とは異なった特徴なのかもしれない。

 役場前に阿佐儀(民宿名になっている)がある。屋号になっているが、山原のアサギ(ハサギ・アシアゲ)と同じかどうか。阿佐儀の屋号の家から松田和三郎翁を出した家のようである。翁の名は役場前の碑や座間味小中学校の正門脇に銅像がたっている。元の姓は宮平で明治23年の戸籍の改正のとき、同姓名が多いので松田和三郎と改めたという。

 座間味の集落で車を借りると、いつものように集落の一望できる場所へ。座間味集落は高月山、阿真集落は稲崎展望台から女瀬の崎展望台への道筋の途中からみることができる。阿佐集落は番所山からわずか見ることができる。阿真と阿佐の二つの集落は小さい規模の集落である。

 詳細は座間味島メモへ。

 
       ▲泊の外人墓地          ▲ペルリー提督上陸之地の碑

 
 ▲久米島・粟国・座間味・渡嘉敷などへ       ▲安里川が流れ込む泊高橋付近

 
     ▲高月山からみた座間味集落          ▲規模の小さな阿真集落


20071124日(土)

 先週、座間味村阿嘉島に行ってみた。つられて『座間味村史』から座間味島について調べていると、興味深いことが次々と見えてくる。そのため、座間味島に渡りたくなる。これまで二度渡っているが、ほとんど記憶に残っていない(一度は沖縄県地域史協議会・二度目は山原船の件で)

 座間味島は、仲尾次政隆が流刑され、島に滞在した日記がある。1855611日に座間味島に流刑され、18561123日に久米島を経由して石垣島へ流刑されている。座間味島での滞在日記は、流刑者の一般的なことではないと解説者の断りがあるが、それでも流刑者への島の役人の対応、あるいは流人が見た島の様子が克明に記してあり、当時流刑者の対応や島の祭祀などを知ることができる貴重な資料である。

 また、『座間味村史』(下)に収録されている「座間味村戦後行政資料」(目録)は、本館で目録づくりを進めているが参考となる。

 座間味島には座間味・阿真・阿佐の三つの集落(字)がある。それらの集落の成立ちや、御嶽や進貢船や冊封船の寄港地となった「阿護の浦」、それだけでなく、阿波連船・永良部船・宮古船・久米島船・名護間切船の出入りも見られる(仲尾次政隆の半年の間)。半年でそれらの船の姿が見えたということは、那覇港と泊港を出入りする船のほとんどが、座間味島の阿佐村の前方を通過して行ったのであろう。阿護浦に停泊した冊封船の停泊した記録もある。そのような歴史的な場所、直に眺めてみたいものである。

 阿真の集落は座間味と阿佐の集落が海岸に面しているのに対して、内陸部に位置している。ノロや地頭代などの出身地が阿真村であったことから、島の中心は阿真村ではなかったという。そのことも確認したいところ。

 座間味の番所山。島の中央部に位置するようで標高143.5m。王府時代の烽火台が設置されているようで、頂上部に南北一列に烽火台が三カ所に設置されているようだ。現在もある?貢船の帰還が一隻のとき一炬、二隻のとき二炬、異国船のとき三炬の烽火があげられた。烽火は久米島→渡名喜島→座間味島→渡嘉敷島→前島→小禄間切→首里王府へ。遺構は唐のイビ・大和のイビとして拝所になっているようだ。

 高速艇に乗る前に「泊の外人墓地」も散策してみないと。

    (天気がよければ、そのような予備知識をもって座間味島に渡る予定。果たして明日の天気は!)


20071122日(木)

 午前中、今帰仁小学校4年生(38名)がやってきて「むかしの生活と今」を数点の道具を使っての授業。先生方3名、歴史文化センターのスタッフも動員。野外でものを担ぐ、脱穀水を担ぐことなど。今帰仁村全域に24時間電気がつくようになったのは昭和44年。それまではランプ生活。電気のなかったおじいさん、おばあさんの時代を体験していきます。「もし電気ガスがストップしたら!」「一か月後の那覇の様子、想像してみてください」。そんな時代がこないようにしなければなりません。

 おじい、おばあの時代をしることは、いかに物の豊かな時代に生きているか。一方ですさんだ時代になっているか。道具を通して感じとってくれたらありがたいのだが。二時間半、たっぷりがんばってくれました。サポートしてくださった先生方、職員のみなさんもごくろうさんでした。

 
▲ここはヤカンのスカート。何のため?    ▲今も昔のアイロンも同じ船の形。何故?


  ▲昔、お米は主に税金でした!         ▲クダ(割りばし)で脱穀。

 
   ▲水汲み、慣れてきたかな?        ▲なかなかいいよ。家の手伝いもしっかり!


20071120日(火)

 明治12年の廃藩置県から昭和19年までののろくもい(ノロ)の処遇は、日本政府の沖縄御嶽信仰に対する宗教政策である。昭和18年の「知事事務引継」の内政部教学課の「神社ニ関スル事項」の「一村一社建設ニ関スル件」として以下のように記されている(『沖縄県史料 近代Ⅰ』(昭和十八年知事事務引継書類)。

  ・・・十三社ニシテ尚外ニ本県固有ノ神祇ヲ祀ル御嶽拝所アルモ前期ノ如ク正規ノ神社少キ為
  時局下敬神崇祖ノ実ヲ挙ゲ国民精神ノ高揚ヲ図ル要切ナルモ之ガ普及徹底ニ障碍トナル点少カ
  ラズ就テハ神社ナキ五十ケ町村ニ対シ五年計画ヲ以テ一村少クトモ一社ヲ建立セシメ県民斉シ
  ク祭祀ヲ厳修シ敬神ノ本義ヲ完フシ時・・・・

 これまで各地の神社やお宮やヌルドゥンチなどに「敬神」の扁額をいくつか目にしている。まだ調査確認を十分していないが、昭和15年建立の今帰仁村上運天の「お宮」(神殿)や昭和8年(昭和29年再建)の本部町伊野波神社などに掲げられている「敬神」は、明治43年の「県社・村社建設にある「敬神思想を発揮」から文言とみられる。昭和の初期に建立されたお宮(神殿・拝殿)も各地にあるので、神社建設についての動きは明治43年以降何度もあったとみられる。(現在ある「敬神」はつくり変えられている)

 沖縄の御嶽に関する信仰、ノロをはじめとする神人が関わってきた祭祀は、そう簡単に消し去ることができなかった。昭和18年の上の記事は、実行された地域もあるようだが、戦争に突入したため、建設半ばで終わったところがある。明治から昭和(戦前)にかけての神社建設に関わる動きは、「ノロ制度の終焉」と密接に結びついている。戦後行われている祭祀は、廃藩置県後大和化されていく過程で多くが消えていく中、ノロを中心とした神人が行っている御嶽に関わる祭祀は、神社建立の政策をくぐり抜け、なお継承されていると言ってよさそうである。

 座間味村の阿嘉島行きは、上のテーマを持っての島渡りであった。集落周辺の畑は網を張り巡らしてある。「猪でもでるのですか?}と尋ねると「鹿がでるのですよ。知恵比べするが、それ足跡があるでしょ。負けます」と。東側の展望台(アマグスク?)で鹿とあいました。そ~と出てきて、何食わぬ顔で立ち去りました。

  
     ▲今帰仁村上運天の「お宮」にある「敬神」(神殿は昭和15年に改修)

 
  ▲本部町伊野波にある「伊野波神社」(昭和8年建立)にある「敬神」

 
          ▲座間味村阿嘉島でケラマジカと遭遇する


20071116日(金)

 文化財の大発見か。12時頃文化財の玉城と今帰仁城跡調査研究整備委員の渡辺さんが飛び込んできた。というのは、明治36年の地図にある無税地の遺跡が見つかったとのこと。その無税地はミームングスクだと考えていた。ミームングスクよりエーガーに近い場所である。「何か祭祀場でもあったのですか?」の質問。「近くにティラはあるはずだが・・・」そことは違う場所だという。早速、現場の確認をしてみた。

 その時、頭に浮かんだのは『琉球国由来記』(1713年)の海神祭の記事である。そのことについては、6月に「ガイド講座」で紹介したところである。

 以下の記事は、今帰仁城内神アシアゲの中にあるべき内容であるが、「郡(古宇利)神アシアゲ」の後ろにあるので古宇利島のことだと誤解を招いている。それは今帰仁城内神アシアゲに入るべき内容である。

  毎年七月、大折目トテ、海神祭、且作毛之為ニ、巫・大根神・居神・都合弐拾人余、城内
   ヨウスイト云所ニ、タモト居ヘ、花・五水(両惣地頭ヨリ出ル)祭祀シテ、アワシ川ノ水トリ、
   巫・大根神、浴テ、七度アザナ廻リイタシ、於庭酒祭ル也。(自按司出ル)
   ソレヨリ縄ヲ引張、船漕真似ヲ仕リ、城門外ヨリ、惣様馬ニ乗、弓矢ヲ持、ナカレ庭ト云所ニ
   参リ、塩撫親川ニイタリテ水撫デ、又城内ヨウスイニテ、祭祀也。

 毎年七月に行われる大折目(ウプユミ)は海神祭(ウンジャミ)のことで、稲穂のみのりのために、ノロ・大根神・居神など総計20人余りが、城内(今帰仁内)のヨウスイという所にタモトをそへ、按司地頭と惣地頭から出された花米と五水(酒)で祭祀をし、アワシ川の水をとり、ノロ・大根神は浴びて、七度アザナを廻ったあと、庭で酒を振舞う。その酒は按司から出される。その後、縄を引っ張って、船漕ぎの真似をする。
 それから城門の外から惣様(惣地頭のことか)は馬に乗り、弓矢を持って、ナガレ庭という所に参り、それからシバンティナの浜まで行き塩撫でをする。さらに戻り親川に行って水撫でをして、再び城内に戻り、ヨウスイで祭祀を行う。

 大折目(海神祭)のコースは、ヨウスイ(タモト)→アワシ川→(浴びる)→アザナ回り(七度)→庭(ウミャー:大庭)(船漕ぎの所作)→城門→(惣様馬に乗り)→ナガレ庭→(塩撫:シバンティナの浜?)→親川(エーガー:水撫)→城内のヨウスイへ。

 今回文化財の発見は今帰仁グスクで行わいた海神祭のコースのナガレ庭ではないかということである。ナガレ庭で塩撫をするのでシバンティナの浜だと想定していた。これまで馬に乗りシバンティナの浜まで行き、帰りに親川で水撫でをしてグスクに戻るのではないかと考えていた。『琉球国由来記』に記された海神祭のコースの流れを追って記述しているとすれば、発見場所はナガレ庭(ナガレミャー)としてよさそうである(古宇利島のシラサ、謝名城での神送りの場所と風景)。ただ、塩撫とはあるが場所が記されていない。しかし現在でも塩撫では浜まで行って行っているので塩撫での場所はシバンティナの浜とみてよさそうである。

 ナガレ庭(今回発見場所)ら志慶真川下流域の海(ナガナートゥ)がよく見える場所である。他の地域でのナガレ庭は神送りの場所となっているので、そこは最適な場所である。ナガレ庭の次に塩撫とある。現在、塩撫と神送りはシバンティナの浜で行っているので、塩撫での場所はシバンティナの浜とみてよさそうである。つまり、ナガレ庭で塩なでするのではなく、シバンティナの浜まで行き、そこで塩撫でをする。塩撫とあるのみで、場所名を記していないのかもしれない。また、安田のシニグのとき、海で潮撫でをした後にカーで水撫でをしている。それからすると、シバンティナの浜まで行き、そこから戻る形で親川で水撫でをして城へ戻るのが、流れとして自然である。

 ナガレ庭で神人がヌミを持って神送りをする場所としては、海が見通せる最適な場所である。ナガレ庭と特定するには、少しばかり不安がある。しかし、『琉球国由来記』(1713年)の記事は、歴史を議論するに耐えうる史料であることに気づかされる。文化財のみんさんの大発見。おめでとう。

 
    ▲新しく確認された石積み遺構(海神祭コースのナガレ庭?)

 
  ▲今日の今帰仁グスクへのハンタ道(上の遺構はハンタ道の途中にあり)


20071115日(木)

 今帰仁城跡整備委員会へ。今帰仁グスクの発掘現場の説明をあり。


20071113日(火)

 今朝、急に体調を崩してしまったので休憩。

 粟国島と今帰仁(北山)、それと一門ごとにある南嶽・中嶽・大嶽内の数多くの遥拝所(お通し)は興味深い。それとは別に集落のフサティ(後方)のウガン山、そしてウガン山にある墓。2000年に訪ねたときの記憶はおぼろげ。その後に再度行っているはずだが。島が変貌してしまったのか。しかし、残るものはちゃんと残っていた。「粟国島」へは、いくつかのテーマを持っての島渡りだったので、体調を整えてから報告することに。

 
    ▲大正池公園あたりから集落を           ▲赤瓦屋根の家と石垣

 
     ▲粟国島のヌルヤー                   ▲港近くにある番所ガー


20071110日(土)

 午前中、今年度6回目の「ムラ・シマ講座」は本部町伊豆味へ。1713年の『琉球国由来記』から伊豆味村についてみると、祭祀は天底巫(ノロ)の管轄となっている。『琉球国由来記』の記録は1719年に現在の伊豆味地内にあった天底村と嘉津宇村が、天底村は今帰仁村の現在地へ、嘉津宇村は本部町の具志堅地内へ移動する。両村が移動する前の状況が『由来記』に反映している。つまり、伊豆味村と天底村、そして嘉津宇村が現在の伊豆味地内に近接してあった。その状況は『琉球国由来記』の「中森」は「伊豆味・天底二箇村」とあり、嘉津宇村の三つの御嶽も天底巫(ノロ)の管轄である。

 今帰仁村に移り住んだ天底ノロは、大正のころまで伊豆味での祭祀を執り行っていたという。

 現在の伊豆味の大当原の集落は伊豆味地内の古島原から移動してきたという。そして伊豆味小中学校の後ろのウタキは明治35年に内原上のアジマーの上の方の御願山から移したという。

 アサギナーに「伊豆味神社」がある。現在のは昭和五年竣工のようである。村建てに貢献した六名の神を合祀してある。伊豆味神社の外に9カ所の拝所がある。

 
       ▲伊豆味の神アサギ              ▲現在のウタキのイビへの道


2007118日(木)

 
これから「地域博物館が果たす役割」をテーマに報告。一夜づけ原稿を(10頁)。明日中には送付予定なり。

 村内のヌンドゥンチをまわる。何度も訪ねているが、新しいテーマ(「ノロ制度の終焉」)をもっていくと不思議と、おぼろげだったノロ制度の終焉が、現在のノロが関わる祭祀とノロ家の現在の様子、そして時代の流れとの重なり、不思議と鮮明にうつり、複雑な思いがよぎる。

 明治43年の「沖縄県諸禄処分法」が発令されるまでの過程、その後国がノロをどう補償していったのか。これまで目にしてきた明治のノロ関係資料。国がとった制度とどうかみ合わせながら見ていくか。それは、ノロ家(ヌンドゥンチ)のほとんどがたどりついた姿、ヌンドゥンチのノロの住んでいない神屋の祠が象徴しているのではないか。

①湧川ヌルドゥンチ跡
②天底ヌルドゥンチ跡
③勢理客ヌルドゥンチ跡
④玉城ヌルドゥンチ跡
⑤岸本ヌンドゥンチ
⑥中城ノロ家(画像撮り忘れ!)
⑦今帰仁ヌンドゥンチ
⑧古宇利ヌルヤー跡

 
        ①湧川ヌルドゥンチ跡               ②天底ヌルドゥンチ跡

  
    ③勢理客ヌルドゥンチ跡         ヌルドゥンチの中(ワラザン)

 
       ④玉城ヌルドゥンチ跡            ⑤岸本ヌンドゥンチ跡?

 
     ⑦今帰仁ヌンドゥンチ                ⑧古宇利ヌルヤー跡
  


2007116日(火)

 日、月の休日を利用して離島にゆく予定が大雨のため取り止め。島の情報を頭いっぱい詰め込んだままである。掃き出さないとストレスを抱えたままである。近々その島にゆくことに。

 月は午後から天気が回復。「それ飛び出せ!」である。島に渡れなかったので、沖縄本島北部をゆく。先日は石碑や香炉を手掛かりに西海岸を踏査している。最近は「ノロ制度の終焉」のテーマが頭の片隅にあった。これまでノロについて断片的に紹介してきたが、まとめてみたいと考えている。そのため、山原のノロ家(ヌンドゥンチ)がどうなっているのか、まずは、そこからスタートである。

 まずは旧羽地村(羽地間切:現名護市)からである。大宜味村、国頭村、そして東村までゆく。机上でまとめることもできるが、現場で考えることが習慣となっている。それがまた好きである。今回訪ねてみたのは以下の16ヶ所である。ヌンドゥンチドゥンチの外観のみ画像で紹介する。(詳細については山原のヌルドゥンチを訪ねながらまとめることに)

1.仲尾ヌルドゥンチ跡(羽地間切仲尾村:管轄村:仲尾・田井等・川上・谷田)
2.真喜屋ヌル殿内(羽地間切真喜屋村:管轄村:真喜屋・仲尾次)
3.屋我ヌルドゥンチ(羽地間切饒平名村:管轄村:饒平名・屋我・済井出)
4.我部ヌルドゥンチ(羽地間切我部村:管轄村:我部・呉我・振慶名・松田)
5.源河ヌルドゥンチ(羽地間切源河村:管轄村:源河・瀬洲)
6.津波ヌルドゥンチ跡(大宜味間切津波村:管轄村:津波・平南)
7.田港ヌルドゥンチ跡(大宜味間切田港村:田港・屋古・前田・塩屋・根路銘・渡野喜屋)
8.城ヌルドゥンチ跡(大宜味間切城村:謝名城:管轄村:城・一名代・根謝銘・喜如嘉・饒波・大宜味)
9.屋嘉比ヌンドゥルチ(大宜味間切:現在田嘉里:管轄村:屋嘉比・親田・見里
10
.奥間ヌンドゥルチ(国頭間切奥間村:管轄村:奥間・比地)
11
.辺土名ヌンドゥルチ(国頭間切辺土名村:管轄村:辺土名・宇良・伊地)
12
.与那ヌンルンチ跡(国頭間切与那村:与那・謝敷・佐手・辺野喜・宇嘉)
13.辺戸ノヌンドゥルチ跡(国頭間切辺戸村:管轄村:辺戸)
14
.安波ヌルドゥンチ(国頭間切安波村:管轄村:安田・安田)
15
.平良ヌルドゥンチ跡(久志間切平良村:管轄村:平良・川田、由来記の頃大宜味間切)
16
.有銘ヌルドゥンチ跡(久志間切有銘村:管轄村:有銘・慶佐次)

  
 ▲仲尾ヌルドゥンチ跡(名護市仲尾)      ▲真喜屋ヌルドゥンチ跡(名護市真喜屋)

  
   ▲屋我ヌルドゥンチ((名護市饒平名)      ▲我部ヌルドゥンチ(名護市我部)

 
  ▲津波ヌルドゥンチ跡(大宜味村津波)    ▲田港ヌルドゥンチ跡?(大宜味村他港)

 
▲城ヌルドゥンチ跡(大宜味村根謝銘・城) ▲屋嘉比ヌルドゥンチ(大宜味村田嘉里)

 
 ▲辺土名ヌルドゥンチ跡(国頭村辺土名・上島)  ▲与那ヌルドゥンチ跡(国頭村与那)

 
 ▲辺土ヌrドゥンチ跡(国頭村安波)         ▲安波ヌrドゥンチ跡(国頭村安波)

 
 ▲平良ヌルドゥンチ跡(東村平良)         ▲有銘ヌルドゥンチ跡(東村有銘)


2007113日(土)

 ミーニシが吹く季節となりました。秋らしさはなく冬。それでも半そでのいでたち。昨日から『渡喜仁誌』の原稿校正。ほぼ目を通して終わり校正原稿渡し。これで役目終わり。午前中、村指定文化財に向けての文化財保存調査委員会の開催。今回は図(地図)と文書関係資料6件(合計225点)について審議していただく。審議委員の方々、係りのみなさん御苦労さんでした。

  ①仲村源正辞令書及び関連資料(102点)
  ②新城徳助・徳幸辞令書及び関連資料(33点)
  ③諸喜田福保辞令書及び関連資料(2点)
  ④今帰仁間切各村全図(20点)
  ⑤今帰仁村各字全図(50点)
  ⑥(今帰仁間切)平敷村略図及び平敷村字図(8点)

 下の画像は文化財指定に向けて審議いただいた辞令書や図(地図)など(現在、企画展で展示中)。
 

 


2007111日(木)
 
 午前中、村内の天底小学校の4年生がやってきて「むかしの生活」の学習。電気がキーワード。電気がなかった時代(おじいさん・おばあさんの時代)、そして電気のある時代(みんな)の生活を道具を使っての学習。5つの道具を使い説明。その後はスケッチしたり質問の時間。質問が多く、それにハッとするような答えを出していくやりとり。楽しい二時間でした。「イモほりに開墾クワを持っていくことはしないでよ」。むかしのアイロンにガソリンやお湯を入れることも。
 
 
    ▲頭いっぱい学習しました!        ▲自分の興味ある場所でまた学習!

 読谷村の議員の方々(歴史文化センターの運営や活動に関する件)、「やんばる地域の国立公園」に関することでの来館者あり。