今帰仁村字謝名での墓調査
平成14年4月27日(土)小雨。今帰仁村字謝名の大久保原にある湧川家(那覇在)の墓調査を行った。当初から湧川家の墓とわかっていたのではなかった。15基の厨子甕があり、その一つ一つのデーターを紹介する。
墓は琉球石灰岩で形成された森で、上謝名の集落から離れ周辺に同様な森がいくつかあり、いずれも古い墓地となっている。琉球石灰岩を横からくり貫いてあるが、段や棚やイケなどがなく壁など荒っぽいつくりである。墓の頂上部は僅かではあるが亀甲を模してある。但し、亀の甲羅の三分の一程度。墓室入口は自然の琉球石灰岩(第四期層)を野面積みに積みげてある。入口上部が崩壊したと見られ墓室内は斜面状になっている。木の破片(板状)も残っているが、木棺というより柩の一部ではないと考えられるが不明。誌板とは異なる。
今回調査した墓にあった甕は、ボージャー甕(無頚甕)と有頚甕の二種類が確認できた(壊れた甕も無頚甕か有頚甕に分類できそう)。
■調査・記録者
仲原弘哲(今帰仁村歴史文化センター)
田港朝津(文化財係長)
仲里なぎさ(文化振興 文化財)
比嘉 寿(文化振興 文化財)
小浜美千子(県文化財保護調査員)
運天美喜(歴文センター・写真取り込み)
一覧表作成(仲原・仲里)
甕の様子(写真)
備考(法量および情報 単位:㎝) ①の甕 ②の甕 ③の甕(銘書なし) ④の甕(銘書なし) ⑤の甕 ⑥の甕 ⑦の甕 ⑧の甕(銘書なし) ⑨の甕(銘書なし) ⑩の甕(銘書なし) ⑪の甕 ⑫の甕(銘書ナシ) ⑬の甕 ⑭の甕(銘書あり) ⑮の甕(銘書なし)
同治二三年甲戌六月十九日死去
なべ湧川
蓋 33×16(直径×器高)
胴部 34×63×130
(口径×胴囲×器高)
【有頚甕】
同治3年は1864年にあたる。蓋の裏と胴部に銘書があり、胴部は消えかかっている。
道光弐拾弐年庚寅十二月廿九日死亡
かまた湧川
蓋 27×16(直径×器高)
胴部 27×50×110
(口径×胴囲×器高)
【有頚甕】
道光20年か。1840年にあたる。蓋の裏に銘書がある。向って左から2番目の位置。弐拾弐の弐が消されている。
蓋 径不明×13(直径×器高)
胴部 不明欠×100
(口径×胴囲×器高)
【無頚:ボージャー甕?】
胴部の上部分が欠損している。蓋も半分ほど欠けている。
蓋は甕の低部を利用してある。
胴部 24×45×100
(口径×胴囲×器高)
【有頚甕】
蓋なし。
胴部 24×50×110
(口径×胴囲×器高)
胴部に銘書あり。
謝名村?
志慶真大屋子?
牛年?
□□□□?
【無頚:ボージャー】
胴部の銘書。
乾隆四十九年□辰(甲辰か)
十月十五日謝名村
辰ノ年 湧川仁弥
蓋 31×10(直径×器高)
胴部 29×55×124
(口径×胴囲×器高)
【無頚:ボージャー】
蓋の裏に銘書があり、乾隆49年は1784年にあたる。年齢は分からないが辰生まれか。
蓋の裏側に
□□間切謝名村丑八月廿弐
四拾…?
文字はあるが判読困難。
この甕の蓋は⑥の胴部と対とみられる。
乾隆四十九年□十月十五日
謝名村□□死亡
蓋 30×14(直径×器高)
胴部 27×54×122
(口径×胴囲×器高)
【無頚:ボージャー】
蓋 30×17(直径×器高)
胴部 31×63×130
(口径×胴囲×器高)
【有頚甕】
蓋 32×14(直径×器高)
胴部 28×49×108
(口径×胴囲×器高)
【無頚:ボージャー】
壊れている(サイズ実測できず)
【甕型不明】
加慶三年(丁午)四月二十一日
謝名村やま大城
妻
蓋 32×15(直径×高)
胴部 34×65×144
(口×高×胴周)
【有頚甕】
胴部にも同様な銘書がある。加は嘉。嘉慶三年は1798年にあたる。やま大城妻は湧川家からやま大城の妻になったのであるが、事情があって実家の墓に葬られたのであろう。
蓋 31×17(直径×器高)
胴部 24×42×108
(口径×胴囲×器高)
【無頚:ボージャー】
ボージャー甕
銘書ナシ
蓋 33×8(直径×器高)
胴部 29×50×107
(口径×胴囲×器高)
【無頚:ボージャー】
蓋や胴部に銘書なし。
明治十七年申甲二月十二日
武太湧川
蓋 31×14(直径×器高)
胴部 28×56×108
(口径×胴囲×器高)
【無頚:ボージャー】
蓋の裏胴部に銘書あり。明治17年は1884年にあたる。墓口の入口中央部に置かれ、この墓に葬られた最後の人物と見られる。口縁部に蓋の銘書と同様な「武太湧川」の文字がある。副葬品見れず。
壊れている。