2015年9月9日(水)のメモ
【墳墓地】
旧藩の頃は土地所属地の村役目の承諾及び地頭代の奥書をへて山奉行の許可を得、置県後は同様の手続きにより郡長の認可を得て一般人民の墳墓用に供し、多くは山野の中を以てこれに充て、その願い出人の所持に属し売買・譲与・質入・抵当をなすを得べきものなり。旧藩来士族は一墳墓につき十二間角、平民は一墳墓につき六間角の制限ありしも、実際旧藩の頃、墳墓所在者に交付しある朱引(墳墓地域図面)によれば、その地坪右制限範囲を超越せるもの少なからず。朱引地域内墳墓以外の余地は耕耘の用に供し居るもの少からず。旧藩の頃は墳墓地には概ね朱引(差出)を交付せしも、置県後は之を交付せず墳墓設置願に対する認可書を以てその所有を証するものとせり。
下の二枚の絵図は乾隆26年の具志川家の墓である(乾隆26年:1761)。墓仕立ての時、朱引きをし交付したものである。
「右亡父代西原間切末吉村西百姓地山野之内絵図朱引之通譲取墓仕立置候間、永々為墓地被下度奉存候」
「右朱引之内願之通被下候間、永々可能被致所持候也」
「右朱之内願之通御達被下候間、永々可被致所持者也」
▲具志川家の末吉村の墓 ▲運天の大北墓(按司墓) ▲六世縄祖(鶴松金)の位牌(右)
2015年10月1日(木)
今帰仁村運天にある大北墓、別名按司墓。大北墓はウニシ墓と呼ばれウフヌシ(大主)墓と解した方がよさそうである。大北墓の全体が確認できるように草刈をしてみた。絵図に「竿本つ湊ヨリ亥巳弐間」「壱竿丑未六間」「二竿寅申上中六間三合」「三竿巳亥十間五合」「四竿申寅下申九間」「五竿酉卯上申三間」とあり、石垣より外側の距離は34間8合(約67m)。石垣の内側、あるいは外側の実測してみる必要がありそうだ。大北墓と嘉味田家の墓に葬られている人物は1500年代まで遡るが、その墓や葬法は士族であり、平民の墓とは区別してみる必要がある。
平成27年10月24日「琉球弧の葬墓制」(県立博物館・美術館)の企画で大北墓(按司墓)の巡検がある。それで大北墓の草刈をして、1671年の絵図の姿げ見えるように。見事な墓です。墓室は明治45年の調査記録があるので紹介。30名余と見られるが人物の特定には詳細な調査が必要。
それはともかく、『具志川家家譜』には西原間切末吉村と今帰仁間切運天村の墓は乾隆26年(1761)に今帰仁王子(十世宣謨)が提出し三司官に認められたものである。つまり、今帰仁グスクの麓(ウツリタマイ)にあった墓(玉御墓)の天井が崩落したため、1761年に運天に移葬したものである(『沖縄県国頭郡志』)。明治45年4月27日(旧3月11日)に墓を修理した際、島袋源一郎は内部の記録(平面図)を遺している(前書掲載)。また、葬られている人物名が記してある。北山監守(今帰仁王子)一世の尚韶威(具志川家)の弟に当る尚龍徳(嘉味田家)の墓調査をしたことがある。大北墓の内部の様子は嘉味田家の墓室の石棺などの配置が参考になる。嘉味田家の墓調査へ
一、イロノヘ按司、今帰仁按司御一人御名相不知
二、宗仁公嫡子、御一人若○○カリヒタル金、御一人アヲリヤイアンシタル金
三、御一人真南風按司、御一人アヲリヤインアシカナシ、オリヒカナコイ
四、宗仁公四世今帰仁按司ママカル金、御一人御名相不知申候
五、記名ナシ(宗仁公五世及び婦人などにあらざるか)
六、宗仁公次男南風按司子孫多人数永々相成面々相不知雍正十一年癸丑三月十六日 移
七、宗仁公六世曾孫今帰仁按司童名松鶴金、御同人御母思玉金、与那嶺按司御同人ヲナジャラ、
アヲリヤイ按司
八、宗仁公七世今帰仁按司、御同人ヲナジャラ
九、崎山按司、伊野波按司、親泊按司、崎山按司、本部按司、伊野波按司後付相不知
十、呉我アムカナシ、浦添大屋子、知念大屋子
十一、崎山按司嫡子、崎山里之親雲上、同人姉マウシ金
十二、今帰仁里主親雲上
□は石棺陶棺 ○は甕なり
▲『具志川家家』墓の申請絵図(1761年)より ▲明治45年墓内部調査メモ(島袋源一郎)