・上間家(上間殿内)の拝所
・具志堅ノロ殿内の跡?
・神道
・具志堅のお宮(拝殿・神殿:グスク)
・神ハサーギ
・真部の旧家跡
・真部の神アサギ跡
・ふぷがー(大川)
▲上間屋(上間殿内ウイマドゥンチ) ▲上間屋の拝所の内部
▲グスク(ウタキ)のイベ ▲具志堅の神ハサーギ
▲神ハサーギの内部 ▲旧家の石垣(真部)
▲具志堅の大川(フプガー) ▲ウガーミ(真部のウタキ)
具志堅の概況(本部町)
具志堅は1666以前今帰仁間切具志堅村であった。1666年以降は伊野波(本部)間切具志堅村となり、明治41年以降は本部村具志堅、昭和15年に本部村は本部町となる。
・昭和22年に上本部村具志堅となる。昭和46年に再び本部町具志堅となる。
・明治初期真部村と上間村が具志堅村に統合される。明治36年に嘉津宇村が具志堅村に統合される。
・明治14年上杉県令が上間家(上間殿内:ウイエマヤー)で休憩する。
・具志堅の上間家に1563年の辞令書があった。「みやきせんまきり ぐしけんの・・・」とある。
・明治20年具志堅に本部小学校分校ができる。
・明治21年に謝花尋常小学校が創設される。
・大正10年具志堅の区事務所に仮教室をつくり、昭和2年に昇格し分教場となる。
・昭和16年具志堅から新里と北里が分離する。
・昭和17年ウイハサーギ(旧具志堅)・真部ハサーギ・上間ハサーギが一つにまとめられる。その時拝殿と神殿がつくられる。
・昭和18年嘉津宇が具志堅から独立する。
・昭和20年新里小学校が設立される。
・昭和34年に今帰仁村に大型製糖工場が建設されたため具志堅の稲作からサトウキビづくりへと切り替わり、水田が減少する。
・昭和50年国際海洋博が本部町で開催され、具志堅でも農地を手放したり、関連工事へ動いていく。その後遺症が今でもみられる。
・昭和52年仲里家の明治の辞令書(9点)と「御教条」が本部町の指定文化財となる。
・昭和53年「具志堅誌」が発刊される。
・平成15年「今帰仁グスクが抱えた村―本部町具志堅―企画展が歴史文化センターで開催される。
・平成20年具志堅の大川(ふぷがー)が改修される。
▲真喜屋の集落 ▲真喜屋の神アサギ
▲のろ殿内 ▲ウイヌウタキのイベ
真喜屋の概況
・真喜屋やマジャーと呼ばれる。
・現在は名護市だが、羽地間切、羽地村(の字(区)である。
・隣の稲嶺は真喜屋から分離した字である。神行事や豊年祭一緒におこなっている。
・屋我地島にわたる奥(お)武島(うじま)(墓の島)は真喜屋に属している。
・コーチセイリビー(耕地整理樋)という水路があり、一帯は水田が広がっていた。
・羽地間切に源河ノロ・真喜屋ノロ・仲尾ノロ・伊差川ノロ・我部ノロ・屋我ノロがいる。
真喜屋ノロはその一人。
・真喜屋小学校がある。学校はクルサチ付近にあったが、チリ津波の被害にあい現在地に
移動して作られる。
・真喜屋川上流に真喜屋ダムが建設されている。
・アハチャビという小高い森があり、そこの広場で豊年祭の練習などが行われる。
・近世、久志間切の瀬嵩番所へ通じる宿道(スクミチ)があった。羽地間切から大宜味間切
の番所をつなぐ宿道(スクミチ:現在の国道の一部)も通っている。
・真喜屋の山手は戦争の時、避難場所であった。
・真喜屋の山手には藍壺や炭焼き釜跡が見られる。
・山手には寄留人(ヨカツ:チュカッチュ)たちが多く住んでいた。
▲アハチャビ(アパチャビ) ▲アハチャビからアサギ方面をみる
・浜元の土帝君(トゥーティンク)
・アサギガー
・お宮(ウルン)
・浜元の神アサギ
・故地への遥拝(ヨウハイ)所(移動創設村)
・アガリガー
・ウガン(ウイヌウタキ・ナカヌウタキ)
・アサギミャーの大木
▲浜元の神アサギ ▲浜元のウガーミ
▲お宮(ウルン) ▲故地への遥拝所(ヨウハイ)
浜元(はまもと)の概況(がいきょう)
・浜元はハマムトゥと呼ばれ本部町の字である。
・字名は集落が海に面していることに由来する。
・浜元は本部高校近くの具志川ウタキ(グシチャーウガン)付近にあった。
・1700年代に具志川村の一部が移動して浜元村をつくる(一部は渡久地村へ)。
・神行事を行う神人は具志川ノロである。
・旧暦5月と9月にウフウガンがあり、ウタキまで行ってウガンをする。
・浜元の集落はアガリンバーリとニシンバーリに分かれる。
・具志川ノロの男方は間切役人をつとめ唐旅をして「土帝君」をもってきて祭っている。
・具志川ノロはニシンロウヤから出ていたことがある。今は辺名地の仲村家(カラマヤー)から出ている。
ノロ辞令書が残っている。
・今帰仁間切と本部間切の番所(役場)をつなぐスクミチが通る。
・泊原に集落があり、そこはハルヤーと呼ばれ旧士族の人たちが住んでいる。
・旧6月25日の夜に毎年綱引きが南(ペー)と北(ニシ)に分かれて行われる。
・むかしはミージナ(メス綱)とヲゥージナ(オス綱)があったが、今では一本綱。
・海岸にリュウグウの神を祭ってある祠がある。
▲土帝君?像 ビンシー(瓶子) ▲土帝君が祭ってある祠
▲まずは、企画展から ▲浜元とは?1700年代の創設(移動)村
▲土帝君の祠の前で説明 ▲お宮(ウルン)の前
▲今回は浜元の公民館前(アサギミャー)で全員の報告をきく!
瀬底島の概況
・瀬底島は本部町にある。
・1471年の『海東諸国紀』に「世々九」と見える。方言でシークという。
・1469年第一尚氏が滅びると第一監守も崩壊する。その一人が瀬底島に逃れ、ムラの
草分けとなる(伝承:ウフジュク)。
・遠見ヤーがある。伊江島→瀬底島→座喜味→首里
・1666年に今帰仁間切を二つに分割する。今帰仁間切と本部間切が創設される。瀬底島
は本部間切の内となる。
・瀬底島には瀬底と石嘉波の二つのムラからなる。
・石嘉波は1736年に崎本部と健堅の間から瀬底島に移動させられる。
・健堅側と瀬底島には瀬底大橋がかかっている。
・瀬底のウフジュクは第一監守が崩壊したとき逃げ延びた人物で島にきて草分けとなる。
・瀬底の神アサギは大底(ウフジュク:大城家)の屋敷内にある。
・ウフジュクはグスク近くから移動してくる。
・ウフジュクの側の広場で豊年祭がおこなわれる。
・瀬底島にはノロがいた。その屋敷跡がヌルルンチである。
・旧屋敷跡に祠をつくり火神や位牌がまつってある。
・首里に向かっての遥拝所がいくつも置かれる(門中ごと)。
・ウチグスクがあるが、別名東の御嶽(アガリヌウタキ)とも呼ぶ。
・ウチグスクは岩(イビ)の前に香炉のみであったが、コンクリートの祠と鳥居がつくられる(1991年)。
・瀬底には七ウタキがある。
①ニーヒヌカン(ウフジュク屋敷内)
②ヌルルンチ
③ウチグスク(東のウタキ)
④土帝君(瀬底ウェーキ)が中国から持ってくる。一門から村で拝むようになる。ウタキの
一つに数えられている。
⑤アンチウタキ(瀬底島の入り口) 航海安全祈願
⑥イリヌウタキ
⑦メンナウタキ(水納御嶽?前の御嶽?)
・ケーガー(ため池)がある。チンガーもある(ムラガー:ウブガー)。
ムラ・シマ講座―今帰仁グスク周辺―