第22期(平成26年度)山原のムラ・シマ講座
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主催:今帰仁村教育委員会
今帰仁村歴史文化センター
第22期(平成26年度)山原のムラ・シマ講座
(第7回:12月13日(土)開催
平成26年度の「山原のムラ・シマ講座」の最後の地は饒平名である。饒平名は屋我地島にあり、戦後羽地村から分離した屋我地村にある。饒平名には屋我地村の役場や郵便局や小中学校、診療所、駐在所などがあり村の中心地となっていた。現在でも名護市屋我地支所や郵便局、そして屋我地小・中学校がある。
饒平名の集落は大きくウンバーリとシチャンバーリとの分かれる。屋我地島の饒平名・済井出は屋我から分離したとの伝承がある。そのためか、ノロが任命された時代(1500年代)は屋我島一つであったのであろう。そのことに起因するのかノロ名は屋我ノロであるが、ノロ殿内があるのは饒平名である。屋我地島が一つだったことを示しているようだ。屋我・済井出・饒平名は屋我ノロの管轄村で、饒平名と隣接する我部は今帰仁村湧川地内あったのを1736年に屋我地島に移動してきた。しかし屋我ノロ管轄になることはない。
饒平名のムラの形は、集落後方(北側)にウタキがあり、ウタキを背に羽地内海の方へと展開する。集落を区分をバーリとある。集落内には福木の屋敷林がいい。集落後方のウタキ林が抱護となっている。
午前9:00 歴史文化センター集合
【踏査コース】
①シマヌハー
②フルティラ(ウタキ)/メーダキ
③ウンバーリ集落/シチャンバーリ(福木屋敷林)
④集落内にある饒平名簡易水道第一貯水槽(昭和9年3月)
⑤旧公民館跡//神アサギ/屋我ノロドゥンチ
⑥屋敷跡/屋敷の木の根
⑦マーウイ跡/屋我地小・中中学校
⑧マングローブ林
13:00 終了予定
▲フルディラ(御嶽のイベ) ▲シマヌハー
▲饒平名簡易水道第一貯水槽(昭和9年3月) ▲饒平名の集落内の福木がいい!
▲饒平名の集落内の屋敷跡 ▲饒平名神アサギと屋我ノロドゥンチ
▲饒平名のマーウイ(馬場跡) ▲マーウイ跡(約120m)
(第6回:11月15日(土)終了
今帰仁村運天
11月になり涼しくなりました。今年は台風の潮風で桜の葉が一斉に散ったこともあり、木によって新芽がでています。芽生えにつられて開花しているのがあります。今年の一斉の開花は早いような気がしますが、例年旧暦の正月前の二週間ですのでピークは1月下旬にしておきましょう。
さて、第6回 ムラ・シマ講座は今帰仁村運天です。前回上運天でしたが、隣接した運天にしました。運天のムラの形としては、上運天(ウインシマ)と下運天(ヒチャンシマ)と呼ばれるように近世初期には二つのムラに分かれています。運天ムラには港があり、今帰仁間切番所が置かれたこともあって歴史を髣髴させるムラです。
運天のムラ名は12世紀に源為朝公が漂着し「運は天にあり」と発したとの伝承に由来しているとみられます。為朝が漂着し、一時すんだといわれるテラガマがあり、そこは両ムラのウタキのイビになっています。運天のムラは運天港付近のムラウチだけでなく、丘陵地の外側に運天の集落が展開しています。またクンジャーやジラマやハサマは寄留人で形成された集落です。
運天港のムラウチ集落を囲む丘陵の中腹から麓にかけて墓が群をなしています。明治には上杉県令をはじめ、笹森儀助、菊池幽芳、島袋源一郎などが訪れ調査記録を残しています。運天はおもろで謡われ、外国船がきたり、奄美大島に漂着した中国人を収容したり歴史的な出来事がありました。
今回は運天を通して「運天の歴史」を中心にレクチャーします。
9:00 歴史文化センターへ集合(談話室)
運天の歴史及びムラの形(踏査する場所)
(バスで運天へ)
①テラガマ(両運天のウタキのイベ)
②源為朝公上陸之趾碑(東郷平八郎謹書)
③トンネル(防空壕)
④大川(井戸)
⑤神アサギ(井戸)
⑥夫婦ガー
⑦大北墓と碑
⑧古墓群
⑨番所跡と番所の石は?
⑩百按司墓
⑪大和人墓
13:00歴史文化センター到着
運天のムラをとおして、また港を通して歴史を体験します。
【諸喜田武吉氏】(参加者の記録)
「大正初期に役場は運天から仲宗根に移され(大正5年)に移され、仲宗根の大井川町から運天まで自動車の通れるような道路が出来、その開通式と源為朝公上陸記念碑も建立されたので、その除幕式を兼ね盛大にするな祝賀式典が挙行されました。当日の祝賀会において源為朝公を偲ぶ歌を記して、
一、鎮西八郎為朝公、東南の勇士止み難く大海原を船出して 着くし所は運天港
二、運天森の松風と高く聳ゆる石踏は、為朝公上陸の跡をば、永久に語るらん
三、英雄逝て七百年、うるま島の浦波は君が功を讃えつつ 調べも高く歌うなり
斯して式典は恙なく済み、余興としてハーリー競技に始まり、夜は古典舞踊や為朝公上陸記念祝賀会にふさわしい余興がくりひろげられ、有意義な催しであった。
※『大宜味村史』(資料編:40頁)
「大正12年6月23日運天港為朝公上陸記念碑序幕式挙行」とある。
※大宜味村の忠魂碑除幕式(大正10年12月13日)を行う。今帰仁村の忠魂の建立は?
第22期(平成26年度)山原のムラ・シマ講座
(第5回:10月18日(土)終了
主催:今帰仁村教育委員会
今帰仁村歴史文化センター
第5回 ムラ・シマ講座は今帰仁村上運天です。ムラの形としては近世初期には運天村が上運天村と運天村に分かれています。1650年代には二つの村に分かれていますが、祭祀のタキヌウガンやウプユミは一緒に行っている部分があります。両村とも勢理客ノロ管轄のムラで、ウプユミ・ワラビミチの時、湧川の奥間アサギからスタートして勢理客→上運天→運天までながれ、勢理客に戻っています。
上運天にはウンシマウタキ(上運天之嶽)とウキタヌウタキ(ウケタ嶽)がある。上運天の集落はウンシマウタキの内部、それから外側に移動している。そのため、ウタキ内に神アサギ・お宮・イベ、ウッチ火神などがある。集落の源初的な集落形態をなしている。そのような集落の形を体感してみます。
上運天にはウキタ港があり、海軍基地の潜航艇の格納庫など戦争遺跡があります。それらの場所を確認していきます。現在は運天港となり伊是名島、伊平屋島へのフェリーの発着港となっています。
9:00 歴史文化センターへ集合
上運天の概況及びムラの形(踏査する場所)
①ウンシマのウタキ(イベ)
②お宮(あさぎみゃー)
③神アサギ(獅子頭)
④ウッチ火神
⑤カミヤー
⑥ウフェー(運天地番で豊年祭を行う)(そこは行きません)
⑦潜航艇の格納庫跡
⑧ウキタウタキ
⑨海軍の司令室跡?
[上運天の拝む場所](七ヶ所)(タキヌウガンで拝む順序と場所)
①テラガマ(ウタキ)運天の区長や神人や有志の方と一緒
②お宮(上運天拝殿)(上運天の区長・神人・有志で)
③根神ヤーの火神の祠
④内(掟?)神ヤーの火神の祠
⑤神アサギ内(テラガマ:ウタキに向かって)
⑥ウンシマのウタキ(女性のみ)
⑦ウキタヌウタキに遥拝 (神アサギ周辺の六ヶ所のウガンが終わると字民と一緒になって直会)
▲ウキタウタキへの遥拝 ▲上運天の神アサギ内でのウガン
▲獅子は神アサギに納められる ▲上運天の字民と運天からも有志が参加
第22期(平成26年度)山原のムラ・シマ講座
(第4回:9月20日(土)終了
主催:今帰仁村教育委員会
今帰仁村歴史文化センター
第4回は名護市(羽地間切)仲尾次です下見yannaki.jp-no-to2015参照。名護市仲尾次は旧羽地間切の村(ムラ)の一つである。ナコーシと呼ばれ過去には中城村であった。1668年中城を使うことを禁じられたた仲(仲)尾次となったようである。中城が使えなくなった所に、今帰仁間切と羽地間切の中城村は仲尾次村、久米島の久米中城間切は仲里間切と改称される。『琉球国由来記』(1713年)の頃には中尾次村と中城村がどちらかが使われている。今帰仁間切の中城ノロは今でも中城を使っている。(仲尾次のヨリサゲ:ナミジも参照)
羽地間切の番所があったのは隣接する田井等村、1730年代に田井等村から分離した親川村に置かれる。羽地グスクも田井等村地内にあったが、親川村が分離創設されると、親川村地内となり羽地グスクや番所は親川番所や親川グスクと呼ばれる。明治になると羽地役場や学校や郵便局などが仲尾次地番に置かれ羽地村の中心地となる。集落内の道は、放射状になっていて古いタイプの集落形態をなしている。
仲尾次には集落と離れた所(羽地中学校後方)にナカグスク(標高約48m)がある。その森にウイグスクとナカグスクがある。仲尾次集落の南側後方の山の頂上部にウプウガーミ(標高約55m)と呼ばれるウタキがありイベがある。そこは『琉球国由来記』(1713年)でいう「中尾次之嶽」(コガネモリノ御イベ)と見られる。そのイベまで距離があるため、集落の後方に「黄金杜の御嶽」?が造られている。御嶽を横切る道路ができたため。
村の形からするとウイグスク・ナカグスクあたりから、古琉球の時代に現在地に移動、『琉球国由来記』(1713年)頃には移動していた、集落後方に「中尾次之嶽」を設けている。そこを背にして集落が展開している。ウタキの麓に神アサギや根神屋、大屋などがある。仲尾次は真喜屋ノロ管轄の村である。故地のウイグスク・ナカグスクもウガンの対象地として今に伝えている。(
(下の画像ヨリサゲ調査のタマキ2009年撮影画像)
集落の西側は人工的に開削した羽地大川が羽地内海へと流れる。満潮時となると海水が開削した部分までくる。仲尾次も例にもれず各地の拝所を一カ所(ウガミグヮー)に合祀したことがあるが、元の場所にもどしたという。
①ナカグスク(ウイグスク)
②仲尾次公民館広場(ウガミグヮー・親川又ガーなど)
③仲尾次神アサギ(側に市指定のツバキ)
④大親屋
⑤根神屋
⑥喜納家の跡の石垣(市営団地)
⑦集落の放射状の道
⑧簡易水道記念碑
⑨黄金森乃御嶽(ウプウガン:大御嶽とイベ)
⑩羽地大川の仲尾次へ開削した部分
▲親川又ガー ▲仲尾次の神アサギと後方の山はフプウタキ
第22期(平成26年度)山原のムラ・シマ講座
(第3回:7月19日終了)
主催:今帰仁村教育委員会
今帰仁村歴史文化センター
今回の講座は今帰仁村湧川です。湧川のムラ・シマの形は分散型集落形態、1738年に創設されたムラである。現湧川地内にあった振慶名・我部・松田・桃原、現在の呉我山地内にあった呉我が羽地間切の屋我地島と間切内部に移動させられる。それらの村を移動させた跡地に「湧川村」を創設した。(羽地間切から羽地間切内での村移動、間切境界の変更(方切)である)
『球陽』(巻13)尚敬23年条に「法司蔡温に命じて、始めて官僚に山林の法を教えしむ」とあり、本文に「本国、能く山林の法を知る者無し。而して・・・・・山北府内、恩納・金武・名護・本部・今帰仁五県の山林は漸く衰え、美材将に絶えんとす。・・・」とあり、翌24年条に「蔡法司、諸々郡の山林巡視して、村を各処に移す」とある。同本文で「・・・・羽地山林内呉我・桃原・我部・松田・振慶名等の村、・・・・・今帰仁山林は甚だ狭し。乃ち呉我村等五邑を以て、山林外に移徙して、其の山林の地は今帰仁県(間切)に属せしむ。其の邑はそのまま羽地県に属せしむ」とあり、邑移動の理由は美林が衰えている、一ヶ所に邑が集中している、今帰仁間切は山林が少ないので、村を移動を移動させ、そこは今帰仁間切にする(方切)。
このように村を移動させ、二年後(1738年)新しく湧川村を創設する。邑(村)の創建理由を「民居繁衍し、山林甚だ狭く、材木用に足らず。羽地山林を分別して今帰仁郡(間切)に属せしめ、湧川邑を建てて山林を看守せしむ」とある。
羽地間切と今帰仁間切の方切や村移動の理由は、蔡温の山林政策によるものである。村が新設されたときに、ウタキを抱え、神アサギをつくり、年中祭祀を行う必要があったのか。また、移動先での屋我ノロの管轄の変動がなされない理由は。そのようなことを湧川村を通してみていくことを狙いとする。分散型の集落形態が単なる地形的な理由のみではなかろう。明治時代の寄留人の比率が50%近くあり、それが分散型の集落形態をなしていると見られる。
(下見はこれからですので変更あり)
【ムラウチ周辺に祭祀場がある】(本来の集落形態)
・創設村にウタキ ・神アサギ ・年中祭祀(ニ月ウマチー/メーダウガン/アブシバレー/タキヌウガン/
五月ウマチー/七月ワラビミチ/ウプユミ/八月十日トーカウガンなど)が行われている。
【分散型集落】(11の班と対応)
①ムラウチ ②ナガソー ③カーソー ④ガブイ ⑤ガジマンドー ⑥チグヌフニ ⑦ヘーバラ ⑧シュリバル
(スイヌピジ) ⑨シチャガブ ⑩カニク ⑪タクシ
7月19日(土) 午前9時歴史文化センター集合
9:00 出席の確認
9:20 湧川についてのレクチャー
9:50 湧川へ出発
①~⑪を踏査
12:30 歴史文化センター(報告会)
(終了)
【踏査ポイント】
①湧川の公民館
②湧川ノロドゥンチ
③湧川のウタキ (戦争j遺跡:防空壕・慰霊塔)
④ムラガー
⑤神アサギ
⑥奥間アサギ
⑦豊年祭の舞台
⑧新里やー
⑨アジミチ
⑩メンピャー(豊年祭の奉納踊り・棒・路次楽・七福神)
⑪獅子小屋
▲上空からみた今帰仁村湧川 ▲『今帰仁村史』から(昭和50年発行)
第22期(平成26年度)山原のムラ・シマ講座
(第2回:6月21日終了) 今歴文62号発
主催:今帰仁村教育委員会
今帰仁村歴史文化センター
2回目は本部町具志堅です。具志堅は今帰仁グスクに隣接する村(ムラ)です。具志堅のムラの形は、移動集落、古い時代の新設村、そして三つの合併です。どこにそのような痕跡が残っているでしょうか。
具志堅調査参照のこと
・移動ムラはプルグシチン(古具志堅)
真部原→真部ハサーギ付近
・三つのムラの痕跡 ①ウイヌハサーギ ②上間神アサギ ③真部神アサギ
・フプガーの9本の神木の交換
・昭和17年の三つの神アサギと神の合祀
・上間大親の尚真王の救助と上間村の創設
上間村の創設と関わる上間ヤーは諸志の赤墓と関わる。
2014年6月21日(土)(今帰仁村歴史文化センター 9時集合)
9:00 今帰仁村歴史文化センター(談話室)集合
9:10 講座開始(参加者の出席の確認)
具志堅のレクチャー
9:40 具志堅へ出発(マイクロバス)
9:30 ①具志堅のウガミ(グスク)
②茅葺屋根の神ハサーギ(三つの神ハサーギの統合)
③ウイヌハサーギ跡(シニグの道ジュネーのスタート)
④上間ハサーギ跡
⑤上間ヤーの拝所/赤墓は上間ヤーの墓(諸志にあり)
⑥真部の神ハサーギ跡
⑦フプガー(大川)
⑨ハーソーの展示室
12:00 ハーソーで報告会をします。
※ウガミからハーソーまで全行程徒歩になります。体調を整えて参加のこと。
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▲ウイハサーギ跡に旗頭がたつ ▲ウイヌハサーギ跡から道ジュネーをしてウガミへ
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▲具志堅神ハサーギ横から広場へ入る ▲ハサーギミャーで円陣をなして踊る
▲具志堅のレクチャー ▲出発前のレクチャー
【具志堅のトントトトン】(旧暦7月23日)の様子
具志堅のトントトトンは鼓を打つトントトトンからきた名称のようです。鼓のトントトトンに呼応するようにフイとヤグイが入ります。鼓はお宮(拝殿)からクラモーへの道筋、クラモーからフプガーの途中の交差点(アジマー)、フプガーに近づくと鼓が打たれます。かつては新築の家を回ったといいます。これは古宇利島のサーザーウェーの新築家の回りの所作と似ています。今泊でもトントトトンが行われていたことがあります。悪疫を追い払う色彩が強いです。
トントトトンの最後の場面は、ウプガーで悪疫を流す所作があります。かつては海岸の「流れ庭」(ナガレミャー)で行っていたといいます。今はフプガーの流れで流しています(海岸までいかず)。「悪いものはみんな流れていけ。いいのは残して・・・・・」と唱えられます。シニグ(凌ぐ)の本質をついた場面です。トントトトンは男性のみのウガンとの認識があります。
フプガーでのウガンが終わると水を抜き清掃にかかります。同時に柴山に三本の木と蔓を切取に男衆が出かけます。水を抜き、掃除が終わりに近づいた頃、湧口の9本の柴木のうち三本は新しいのと交換します。それは具志堅村と上間村と真部村とが統合した証との観念があります。今では具志堅は大島・新島・サガヤの三つの集落に分れていて、その観念に変わりつつあります。フプガーの清掃が終わり、一段落した頃、お宮へ。
①お宮(拝殿) ②お宮からクラモーまでの道筋(鼓を打つ。かつては子供達が参加) ③クラモーでのウガン ④クラモーから途中のアジマーへ(鼓を打つ)(かつては新築の家を回っていた) ⑤アジマーからフプガーへ(鼓を打つ) ⑥フプガーで悪疫を流す(流し庭)
第22期(平成26年度)山原のムラ・シマ講座
(第1回:5月24日開催)
主催:今帰仁村教育委員会
今帰仁村歴史文化センター
今年度の1回目は「古宇利島」がスタードです。古宇島に橋がかかり10年がたちます(平成17年開通)。島の集落景観が大きく変貌しつつあります。その過渡期にあって、シマの形がどういうものなのか記憶にとどめる記録をする必要があります。
これまで古宇利島調査で数多くのことを学ばせてもらいました。「ムラ・シマ講座」のシマは今帰仁村に島の字(アザ)は古宇利島だけなので、それにかけたのですかの質問もありました。それもありますが、字(アザ)のことを部落やシマやムラと呼ぶことが多かったです(平成の数年の頃)。
歴史文化センター(当時歴史資料館準備室)が最初に発行した「なきじん研究」のタイトルは「今帰仁のムラ・シマ」でした。そして平成3年からスタートとした「ムラ・シマ講座」でした。今年で22年目を迎えています。ムラ・シマという言葉を使うにあたって「今帰仁村には19の字がある。その字のことを部落、あるいはムラやシマと呼んでいる。若い世代になると字や区と呼ぶ場合が多い。今帰仁のムラ・シマがどのような意味を持つのか、また歴史的にどのように位置づけができるのか」を大きなテーマとしてきました。
ムラ・シマという単位が共同体として、行政単位として300年余続き、それが個性を持ったムラ・シマをつくってきました。昭和40年以降、急速に変貌してきました。急速の変わりつつある渦中のなかで、何をどうみて、記録して次の世代に届けることができるのか。今帰仁で行ってきた講座が、ここ数年ブーム的に行われています。それに火をつけたということかもしれません。そのようなことを振り返りながらの講座のスタートです。まずは、古宇利島からです。
2014年5月24日(土)
9:00 今帰仁村歴史文化センター(談話室)集合
9:10 講座開催のあいさつ(参加者の紹介)
古利島のレクジャー
9:40 古宇利島へ出発(マイクロバス)
9:30 島の中を踏査(踏査するポイントは検討中で~す)
11:30 Kouri Ocean Tower内で再度島のおさらいをします。
(眺めのいいところで一人ひとり報告お願いします)
13:00過ぎ 歴史文化センター(解散)
第22期(平成26年度)山原のムラ・シマ講座
参加者募集
主催:今帰仁村教育委員会
今帰仁村歴史文化センター
「山原のムラ・シマ講座」(第22期)を5月24日からスタートします。沖縄本島北部(山原)の「ムラ・シマ」の形を歴史・文化・生業など様々な視点で見ていきます。ムラ・シマには原初的なムラ、移動ムラ、新設ムラ、合併ムラなど、幾つかのタイプがあります。どんなタイブのムラ・シマなのか確かめていきます。
ここでいうムラ・シマは字(あざ)のことです。明治41年までの間切が村(そん)となり、それまでの村(むら)が字(あざ)となりました。村(むら)を中心とした人々の生活は、近世から明治まで続いてきました。その名残りは消えつつあります。消えかかったムラの姿をカー(湧泉)や神アサギやウタキや集落景観から見ていきます。ムラ・シマの形は時代とともに変わりつつありますが、生活の中にどのように息づいているか見ていきます。
・募集期間(4月10日~4月30日)(ただし、定員20名なりしだい締め切ります)
・開催日(2回~6回までは第三土曜日、1回目は第四、7回目は第二土ですので間違いのないように) (雨の時は館内で行います)
【開催予定日】
1回 5月24日(土)9:00~13:00 古宇利島(七つのウタキと集落)
2回 6月21日(土)9:00~13:00 神アサギを持つムラ・シマ(21の神アサギと19のムラ)
3回 7月19日(土)9:00~13:00 移動村(天底、我部・嘉津宇など)
(8月休み)
4回 9月20日(土) 9:00~13:00 合併村(玉城・諸志・今泊・津波など)
5回 10月18日(土) 9:00~13:00 新設された村(明治以前と大正以後)
6回 11月15日(土) 9:00~13:00 集落の発生とウタキ(上運天・平敷など)
7回 12月13日(土) 9:00~13:00 クニレベルのウタキとムラ
・集合場所は毎回今帰仁村歴史文化センターです。
※台風で中止となることもあります。雨の場合は館内で行います。
長距離になる場合がありますので、時間の変更もあります。
(基本的に弁当の持参はありませんが、暑いですので飲み物は準備ください)
※山原の市町村にまたがりますが、どの字(アザ)になるかはお楽しみに!
※全回 参加できる方を希望します。
バスや足元の不安定な場所があります。万が一のための保険料が必要です。
(年間一人800円)
・申込・問い合わせは、今帰仁村歴史文化センター
電話番号 0980-56-5767
ファックス 0980-56-2789