操り獅子の移入                沖縄の地域調査研究(もくじ)

 操り獅子調査報告書(沖縄県文化財調査報告書 第48集)


【薩州・江戸上りと楽童子と奉公人】 

 琉球国から薩州や江戸上りをした王子や親方などに随行していった楽童子が、帰国してから首里王府の芸能もそうであるが、地方の芸能に影響を及ぼしているのではないか。その学童子の中に各地の間切から殿内や御殿へ奉公した人物が散見できる。それらの奉公人が地方への伝統芸能の伝播の橋渡しをしているのではないか。

 薩州や江戸へ随行していった楽童子達が、どのようなことをしているのか。そして、大和の芸能を見て琉球へ導入したのがあるのではないか。『琉球使者の江戸上り』(宮城栄昌著)で、「江戸における公式行事」や「薩摩邸における行事」や「使者たちの私的文化活動」で楽童子達(楽人)の役割が述べられている。享保3年(1718)の楽人は延44人である。中に獅子舞も演じられている。

 琉球の文化や琉球人に対する評価は別にして、楽師や楽童子など楽人に推挙され、王子や親方等に随行して薩州や江戸上りできることは、名誉なことであった。そのことと各地に寄進されている石灯籠や石香炉など大和めきものと結びついている。それだけでなく、薩州や江戸へ持っていった芸能を各地の村踊(ムラウドゥイ)の番組に取り組まれていったとみられる。その体表的なものが各地の組踊りであり、今帰仁村湧川の路次楽や松竹梅や古典音楽などである。

 今、調査を進めている「操り獅子」(アヤーチ)(今帰仁村謝名・名護市川上・本部町伊豆味)の導入も、王子や親方などの薩州・江戸上りの随行者、そして間切からの殿内や御殿への奉公人(中には楽童子や躍人として随行)、奉公人が間切役人となる。そのような芸能の伝播の様子が見えてくる。

 ただし、大和の芸能を琉球に移入していく場合、そのままの形で導入していくものと、琉球化していくものがある。「操り獅子」について、まだ直接の史料に出会っているわけではないが、江戸や大阪で「操」は見ている。その「操」(あやつり)は操人形かと思われる。その操の技法を学び、操りの人形部分を獅子にした可能性がある(もう少し資料を追いかけてみるが、果たしてどうだろうか)。

 『琉球使者の江戸上り』の研究をされた故宮城栄昌氏は以下のように述べている。
 「使者たちが受けた日本文化の影響も測り知ることのできないものがあった。それが琉球文化の中に日本文化の要素を混融させることとなり、琉球文化の領域と内容を豊かならしめることとなった。琉球文化は固有性に富んでいるといわれながら、異質性にも満ちている。その異質性は琉球に置かれている位置からくる外交活動の側面であった。」
 「また、宝暦二年(1752)の謝恩正使今帰仁王子朝義は、薩摩や江戸で島津重年に対し奏楽・漢戯・琉戯を演じ、明和元年(1764)の慶賀正使読谷山王子朝恒も同様であり、さらに寛政二年(1790)の慶賀正使読谷山朝祥も、薩摩・伏見・江戸で奏楽・作舞をしているから、舞踊が半ば公的に演ぜられることは、早くから行われていたようである。そして島津家に慶事があれば、格別盛大な祝賀芸能があった。」

 『向姓家譜大宗尚韶威』などの家譜から、丁寧に拾い掲げている。有り難いものです。
 
【今帰仁】

 ・天啓6年(1626) 孟氏今帰仁親方宗能 薩州へ派遣される。
 ・康煕2年(1663) 高氏今帰仁親雲上宗将 宮古→薩州→長崎
 ・康煕15年(1626) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
 ・康煕25年(1686) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
 ・康煕35年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ
 ・康煕45年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ。
 ・康煕48年(1707) 向氏今帰仁按司朝季 尚益王即位で薩州へ派遣
 ・康煕51年(1712) 向氏今帰仁親方朝季 年頭使で薩州へ。
 ・康煕60年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲 年頭使として薩州へ。
 ・乾隆5年(1740) 向氏今帰仁按司朝忠 霊龍院(吉貴公妃)の薨で薩州へ派遣される。
 ・乾隆11年(1746) 尚氏朝忠 王子のとき薩州へ。
 ・乾隆12年(1747) 尚氏今帰王子朝忠 慶賀使として薩州へ。
   (今帰仁グスク内に乾隆14年の今帰仁王子朝忠の石灯籠あり)
 ・乾隆17年(1752) 尚氏今帰王子朝忠 正史として薩州、江戸へ派遣される(謝恩使)。
 ・嘉慶25年(1820)(前年か) 向氏今帰仁按司朝英 前年台風で八重山→与那国島
   (慶賀改めて)
 ・同治9年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷 薩州へ。
 ・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷  薩州→東京へ 

 天気悪かったのであるが、勢理客の御嶽とスムチナ御嶽の三基の石香炉の採拓をする。そこに彫られた年号と「・・・仁屋」の人名をしかと確認したくて。それが揺れていると他の史料とのかみ合わせができなくなる。香炉は雨風にさらされ、また線香をたくので摩耗が激しく、判読がなかなか困難である。もう一度20年前に撮影した写真画像を探し出してみなくては。

  
  勢理客のウタキ香炉の拓本(二基)    スムチナ御嶽の香炉の拓本

 『中山世譜』(附巻)や香炉や石灯籠には確認できないが、道光二十六年(1846)丙午十月写文書「元祖日記」の記事に、
  一、嘉慶二十四年(1819)己卯四月御殿大按司様御上国ニ付金城にや御旅御供被仰付
     同七月十五日那覇川出帆与那国嶋漂着翌辰年六月帰帆仕申候

また、「先祖伝書並萬日記」(平田喜信)に、
  一、兼次親雲上(道光20年死去)御事第四代ノ長男、幼少ノ頃ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤
     勉之為メ、掟・・・・
  一、二男武太(光緒5年死去)ハ両惣地頭ノ御奉公向全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ
    志慶真村夫地頭役被仰付、志慶真大屋子ト云フ・・・

新城徳助の「口上覚」にも、
  一、咸豊九年(1859)譜久山殿内御供被仰付同拾壱年酉八月譜久山里之子様屋嘉被
     仰付光緒元年亥八月弐八迄難有御奉公相勤置申候

などの記事を拾うことができる。石灯籠や石香炉に必ずしもないが(あったのもあろうが摩耗したり廃棄されたりしたのも多数あろう)、家文書などから、奉公人(後に間切役人となる)と御殿や殿内(按司や惣地頭)との密接な関わりが見いだせる。奉公人は間切への文物(首里文化)を運びこむ重要な役割を果たしている。石灯籠や石香炉は山川(鹿児島県)石や凝灰岩だときく。薩摩からの帰りの船のバラストとして持ち帰った石を使って石灯籠や香炉を作った可能性が大きい。

 

道光年の石香炉は年号の確認がぜひ必要である。そこに登場する親川仁屋と上間仁屋は今帰仁御殿や殿内などでの勢理客村出身の奉公人ではなかったか。「大城仁屋元祖行成之次第」(口上覚)に以下のような記事がある。奉公人と御殿や殿内との関係を伺いしることがきる。(もう少し整理が必要なり)

 勢理客村大城仁屋(玉城掟)(口上覚)
  一、嘉慶二十年亥十二月御殿御共被仰付寅年迄四ヶ年御側詰相勤置申候事
  一、嘉慶二十四年卯正月嫡子今帰仁里之子親雲上屋嘉被仰付丑四月迄十一ヶ年相
     勤置申候
  一、道光九年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付十月よ里十二月迄昼夜相勤置申候

 勢理客村兼次親雲上(覚)
  一、道光二十五年乙巳御嫡子今帰仁里之子親雲上御上国ニ付而宮里殿内江御雇被仰
    付九月より十二月迄昼夜相勤置申候事

  一、嘉慶二十一年卯十一月廿四日御嫡子今帰仁里之子親雲上御婚礼之時御雇被仰
    付罷登首尾能相勤置申候事
  一、嘉慶二十年子三月故湧川按司様元服之時肝煎人被仰罷登首尾能相勤置申候事
  一、嘉慶二十三年卯三月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付罷登首尾能相勤置
    申候事 

操り獅子(アヤーチ)がどのようにして、今帰仁村謝名の豊年祭(村踊り:ムラウドゥイ)に導入されたのか、そのことについて、不明である。首里・那覇からの寄留人の影響もあるが、地元間切役人の奉公先が首里の殿内である。そのことも念頭に入れておく必要がありそうである。そのため、間切役人の勤書や文書から、首里奉公の記事をいくつか拾っていく。なんならかの手掛かりにならないか。
 「江戸上り」(参府)の使節の中に儀衛正(ぎえいせい)がいる。儀衛正(路次楽の総監督:路次楽奉行)について、宮城栄昌氏は『江戸上り』で5つの史料から以下の記事を拾っている。路次楽は1477年の尚真王の母オギヤカモイが路次楽を奏でながら首里の大路を行進している様子を描写しているという。路次楽が中国音楽だったため久米村出身者が選ばれたという。

 ここで路次楽を掲げているのは、今帰仁村の湧川で路次楽が豊年祭で行われているからである。首里王府や江戸上りの時に演奏された路次楽が、どのような経路で今帰仁村湧川に伝えられたのか。もちろん、寄留士族によって村踊(豊年祭)に組み入れられているのであるが、継承している與儀家が久米系なのか、そして江戸上りでの使節の一員であった可能性が大である。一族の家譜から探せるか。中央の芸能が地方へ伝播され、そこで継承されているのがいくつかある。「組踊」もそうであるが、薩摩藩屋敷で行われた「しゅんどう」(男女の面かぶり:舞楽図)(沖縄県史ビジュアル版所収の図)は古宇利島の豊年祭の最終演目で行われている。

    ・中官ノ内ニテ路楽ノ頭ニテ御座候、此上ニテハ物頭恰合ノ官ニテ御座候
    ・中官之内路次楽の頭之者頭恰好の者也
    ・右行列方并路次楽司申候、於琉球国ハ諸衍(ママ)奉行格式ニ而御座候
    ・路次楽人相携候、尤久米村より被仰付唐字方相勤候
    ・中官之内路次の頭也、者頭恰好の者也


   ▲今帰仁村湧川の路次楽(現在)         ▲今帰仁村古宇利の「しゅんどう」

 謝名の近世文書から首里と関わる記事を拾ってみる。首里奉公をした人たちと操り獅子(アヤーチ)を導入した直接史料は、まだ確認できないがその手掛かりとなるかもしれないので、その作業を進めてみる。首里奉公した間切役人の奉公先との関係をしることができる。首里奉公した間切役人は、後々まで奉公先と密接な関係があることがしれる。そのような関係で、操り獅子(アヤーチ)の謝名村へ導入された可能性がある。ここで掲げていないが、謝名村=平田村平田村や平田掟が、『琉球国由来記』(1713年)より後の文書に度々登場してくる。そのことも気になる一つである。

[平田家文書(フイチヤー:古宇利掟屋)]
 ・兼次親雲上御事第四代世ノ長男、幼少ヨリ両惣地頭ノ御奉公勤勉之為、幼少ノ頃ヨリ
  両惣地頭ノ御奉公勤勉之為メ、掟・捌庫理・兼次夫頭役仰付次ニ惣山当ト・・・
   (道光20年死去)
 ・二男武太ハ両惣地頭ノ御奉公全ク勤勉致候ニ付、平田掟役勤ミ志慶真村夫地頭役被仰付、
  志慶真大屋子ト云フ。(光緒5年死去)
 ・長男屋真事、幼少ヨリ今帰仁御殿御奉公全ク勤勉ノ為、二十四五歳ニ古宇利掟役被付、
  ・・・(咸豊11年死去)

[玉本家(ナビタマヤー)文書]
 ・嘉慶24年4月御殿大按司様上国ニ付金城にや御旅御供被仰付同7月15日那覇川出帆
  与那国嶋漂着翌辰年6月帰帆仕申候事(上国できなかったが当時の奉公の様子がし
  れる)

[勢理客村大城仁屋の諸事日記]


 ・嘉慶20年亥2月御殿御供被仰付寅年迄4ヵ年御仰詰相勤置申候事
 ・嘉慶23年寅正月故岸本按司加那志様生年御祝儀之時、躍人数被仰付首尾能相勤置申候
 ・嘉慶24年卯五月御嫡子今帰仁里之子親雲上屋加被仰付丑四月まで11ヶ年相勤置申候事
 ・道光11年卯11月24日御嫡子今帰仁里主親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷登首尾能相勤
  置申候事
 ・道光19年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付10月よ里12月迄昼夜相勤置申候事
 ・咸豊20年子3月故湧川按司様御元服之時肝煎人被仰付罷候首尾能相勤置申候事
 ・咸豊23年卯3月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付□□首尾能相勤置申候事

[大和芸能の移入]

 伊江島では「組踊忠臣蔵」や「シティナ節」など沖縄と大和と融合した芸能がみられる。それは首里の伊江御殿や川平殿内で働く伊江島出身の奉公人が、薩摩や江戸上りにお供した際、大和の芸能を学び島の村踊りに取り入れたものとみられる。
 大和や首里の芸能が地方のムラやシマへの移入の流れを示す事例とみられる。今帰仁村湧川の路次楽も江戸上りに随行していった一族が湧川に寄留し村踊りの演目に加えている。組踊や棒術もそうであろう。そのようなことからすると、名護市川上、今帰仁村謝名、本部町伊豆味への操り獅子(アヤーチ)の移入を考える手掛かりとなりそうである。そのこともあって、操り獅子が大和からのものであれば、今帰仁間切と関わる奉公人(後に今帰仁間切の役人となる)の御殿や按司などの薩摩行きや江戸上りなどの随行者がその役割を果たしたのではないかと考えられる。

 操り獅子の移入について大和を中心に見ているが、中国や台湾からの移入はどうだろうか。

 22日、23日、25日と名護市川上、本部町伊豆味、今帰仁村謝名の操り獅子(アヤーチ)とその前後の祭祀調査をする。操り獅子(アヤーチ)は豊年祭のプログラムの最後に行われている。9月22日と23日の両日名護市川上の操り獅子を調査する機会があった。私たちは、今帰仁村謝名の調査報告を予定しているが、三者の共通性や違い、そして字(ムラ)の村踊り(豊年祭)への移入時期や経路など、また三者の関係など、これまで以上に踏み込んだ議論や調査が進められている最中である。詳細な報告は「報告書」でなされるので、そこに譲るとして川上の操り獅子(アヤーチ)の面の表情を紹介することに。

 本日は今帰仁村謝名のミャーダシと本部町伊豆味の本番が本日あり。

 
         名護市川上の子獅子(観客席から右、左)

行きの機内で前日のアヤチ調査の整理。とは言っても何も持っていないので頭に残っていることを書き出すのみ。今帰仁村謝名における実施調査の整理メモ。ミャーイジャシについては先日一部報告したので、9月29日のミチジュネーから。アヤチについて、大方以下のように整理することにする(詳細は「報告書」で)。

  ①ミチジュネーのアヤチの様子
   ②豊年祭全体のプログラム(今年度の)
     (アヤチは豊年祭全体のプログラムの最終に行われるのは何故?)
  ③舞台の設置(舞台図、操り糸の配置・スケッチ)
  ④雄獅子と雌獅子と玉
  ⑤操り手(獅子一頭に一人、玉に一人:獅子を操る人はと途中交代する)
  ⑥アヤチの所作
     ・前後の動き ・飛び跳ねる ・玉をとる ・じゃれる ・うずくまる ・かまえる
     ・ぶつかりあう ・立ち上がる ・疲れた所作 ・押さえ ・ドラの合図で始まる
  ⑦曲にあわせて舞う(曲目:白保節と嘉手久)
  
 アヤチは操り手が曲に合わせて踊らすとのこと(地謡を担当された喜瀬繁夫氏の談)。アヤチ調査の撮影や聞き取りには仲里なぎささんが加わっている。

 
▲舞台にあがったアヤチ(操り獅子)(準備中) ▲獅子舞いが終わり操り糸をはずしている所

 『馬姓家譜』(小禄家)の九世馬亮功(仲里里主)の乾隆29年(1764)の12月6日に「同初六日蒙賜盛宴及看操」とある。馬亮功は乾隆26年(1761)12月9日に徳川十代将軍大樹家治公が前年父将軍家重公の跡を継いで将軍になったときお祝いの儀礼のために慶賀使として尚氏読谷山王子朝恒を派遣が決まると楽正を命じられる。同29年(1764)4月19日に江戸上りの無事を祈って三平等で祈りをする。6月9日に那覇を出港し6月13日に山川に到着、20日に鹿児島に到着する。鹿児島でいろいろあるが、7月23日に鹿児島を出発し、10月11日に大阪につく。13日に大阪で踊り狂言を観覧する。

 8月15日に大阪を出発して16日に伏見につく。19日伏見を出発して11月9日に江戸につく。その日に太守公(島津26代重豪公)に拝謁する。・・・乾隆29年12月6日「盛大な宴会があり、操りを拝見」している。操がどのようなものか。操り人形や人形芝居かと思われる。昨年から調査している山原の名護市川上、今帰仁村謝名、本部町伊豆味の操り獅子(アヤーチ)の導入に結びつくのではないか。

 音正を命じられた馬亮功は「操」だけでなく、半能や伊勢神楽、能楽、狂言なども拝見している。琉球側からは琉球音楽の演奏、琉球舞踊、唐踊りなどを披露している。

 12月11日に江戸を出発して乾隆30年(1765)正月1日に伏見に到着。3日大阪、同13日大阪を出発して2月28日に薩摩の京泊、2月4日に鹿児島に到着。2月28日に乗船し3月3日鹿児島を出港して16日に帰国している。後に工能と能楽を演ずる踊奉行に任じられている。

 琉球側から江戸までいき、大和の芸能と接し、それらを琉球にももたらしたとみられる。そのことと操り獅子の導入と直接結びつけることはできないが、大和の芸能の琉球への導入の道筋が見えてきそうである。「操」についての記事は、まだこれだけしか目にしていないが、他の資料にも目配りしてみることに。

  
    ▲名護市川上       ▲今帰仁村謝名           ▲本部町伊豆味

 琉球側の使節は薩摩や大坂や江戸で琉球芸能を披露しているが、御能・花火・竹田操・蹴毬・曲馬・手妻(手品)・伊勢神楽・人形芝居・御馬・太神楽・曲馬・囃子・狂言・操戯(曲芸)・御盤人形・竹田近江の絡・踊り狂言・雑戯などを鑑賞している。琉球の芸能を披露すると同時に、大和芸能にヒントを得て琉球にもたらしたものがありはしないか。玉城朝薫の「組踊」はよく知られているが、また使者の中に和歌をたしなんだ人物もいる。それだけでなく大和芸能にヒントを得て琉球化した芸能もあるのではないか。「江戸上り」の芸能を追いかけているのは沖縄本島北部の名護市川上・今帰仁村謝名・本部町伊豆味の「操り獅子」が、江戸上りや薩摩入りの時の楽童子や楽子などに随行して行った末端のメンバー(仁屋クラス)の中にいたのでは。そんな期待をしながら資料を見ている。

 能や狂言について知識をもっていないこともあって、彦根城博物館内で舞台や能や狂言について知識を少し。芸能について全く知識をもっていないことを自覚。博物館内に狂言や能のビデオコーナーがある。時々実演も行われているようで常設の舞台もある。いくつかビデオを流れている。笑いが起こり手が叩かれる。全く能や狂言を知らない私は観客の反応を観察するはめに。 

 「今帰仁村謝名のアヤーチ(操り獅子)」の中間報告のまとめをしてみた(提出)。興味深いことに気づく。調査報告書に書いた一部を紹介。

今帰仁村字謝名は今帰仁村の中部地区にありジャナと呼ばれる。『絵図郷村帳』(1649年)や『琉球国高究帳』(17世紀前半)で「謝名村」と出てくる。謝名の大島原に御嶽があり、そこは遺跡となっている(ウンジョウヘイ遺跡)。御嶽の後方はグスクンシリー(グスクの後方)と呼ばれ、御嶽がグスクの呼び方がなされる。御嶽の南斜面はグスク系の土器や中国製の陶磁器類が出土している。集落も御嶽の内部から次第に南斜面に発達した痕跡がみられる。現在の集落部分は大島原(ウブシマ)と呼ばれ、御嶽を背にした古島タイプの典型的な集落を形成している。

 『琉球国由来記』(1713年)にも「謝名村」とあるが、同由来記の「諸間切諸島夫地頭?ヲエカ人之事」で平田掟とでてくる。後に平田掟は謝名掟となるが、平田(親雲上)は首里に住む脇地頭である。謝名村に貢献していたのか、謝名村を平田掟とされる。『琉球藩雑記』(琉球藩臣下禄記)をみると「今帰仁間切謝名村作得七石余 平田親雲上」とある。謝名村と首里に住む脇地頭との関係が密接であることがわかる。

 謝名での調査をしていると、度々アヤーチの導入は「300年位かな」と聴いてきた。『琉球国由来記』(1713年)の平田掟の平田や『琉球藩雑記』の脇地頭平田親雲上が、謝名村との関わりをみると、謝名にアヤーチ(操り獅子)を導入した脇地頭の可能性がある。因みに、今帰仁村湧川の村踊(ムラウドゥイ)の中に首里系の士族(与義家)が寄留してきて導入している。アヤーチの今帰仁村謝名への導入を示す資料はないが、首里に住む脇地頭や首里の御殿奉公をする奉公人との関係も念頭に入れておく必要がある。

 名護市史が発刊された「羽地地方役人関連資料」(名護市史資料編5 文献資料3)に目を通してみた。今帰仁にも間切役人(地方役人)と関わる史料が何点かあり、読み取ったり、あるいは解説していくのに参考となり、その労には感謝します。特に関心を引いているのは、間切役人のことではないが、首里から羽地間切へやってきた羽地按司と関わる「午年羽地按司様御初地入日記」である。それは首里に住む按司と間切、さらに按司や惣地頭あるいは脇地頭と同村(主)の祭祀との関係を示す具体的な事例である。それと間切役人(奉公人も含む)と按司家との関係、領地や家禄、作得、物成など、密接な関わりがあることに気付かされる。それと今帰仁の史料から、奉公人が果たした役割の一端が見えてくる。

 「午年羽地按司様御初地入日記」も翻刻・現代語訳・脚注があり、議論を一歩、二歩進めることができる。そこまで出してくださる方々の労力には頭がさがります。同日記から流れを記し、祭祀について触れることに(詳細については「羽地 地方役人関連資料」を参照)。

  ・同治9年(1870)9月3日 
    羽地按司が初めて羽地間切にやってくるのお迎えに首里に向かう。
  ・同9月6日
    羽地按司の出発の日であるが、5日から6日まで台風のため、出発をひかえる。
  ・同9月8日
    羽地按司はじめお連れ衆(総勢16人)が出発し、読谷山間切宇座村で一泊する。
  ・同9月9日
    恩納間切番所に一泊する。
  ・同9月10
    名護番所に一泊する。
  ・同9月11日
    羽地間切に到着。羽地番所で御三献して真喜屋村の宿舎へ。
     羽地按司は川さう仲尾親雲上宅
     御内原(按司様の奥方)は前地頭代川上親雲上宅
     役人はおかいら親川親雲上宅
     親泊筑親雲上はたんはら屋
     間切の役々は仲尾筑登之宅
  ・同9月12日
    (翌日の準備、それと休息日としたのか、動きはとして何も記されていない)
  ・同9月13日
    御立願をする。
     ①御殿火神(親川村)→②城(親川)→③勢頭神御川(親川村)→④御殿御川→
     ⑤のろ御火神(仲尾村)→⑥のろ御火神(真喜屋村)→⑦御嶽(真喜屋村)
  ・同9月14日
    屋我地御立願
     ①のろこもい御火神(我部村)→御嶽(我部村)→③のろこもい御火神(によひ名村)→
     ④いりの寺(饒平名村)→⑤東の寺(饒平名村)→済井出村→屋我村を巡検される。
   ・同9月15日
     間切から招待
   ・同9月16日
     按司様から真喜屋村の宿舎にさばくり(5人)、惣耕作当・御殿に仕えたもの・間切役人・
     神人(14人)・80歳以上の老人を招待される。
       (拝領物あり)  (進上物あり)
     (9月17日~25日の間についての記録がないが、その間、拝領物や進上物や間切役人などの
       訪問があったであろう)
   ・同9月26日
      羽地大川のたから(タガラ)から東宿で帰られる。(首里までの到着の記録はない。)

 按司と間切役人とのやり取りはもちろんであるが、御立願で村々を回っているが、主村だけでなく、他の村々の御嶽(寺)まで御願(ウガン)をしているのは何故だろうか。羽地間切の中央部の村と屋我地島の全村を訪問している。仲尾村・真喜屋村・我部村・饒平名村(屋我ノロ)には、それぞれノロ家がある。他に伊差川ノロと源河ノロもあるが、そこも訪れたかどうか。その可能性は以下の文面からみることができる。

 17日から24日までの日の記録がないので、その間に他の村々で御立願をした可能性はある。というのは、日記に「人々御扣の銘々」(ご招待した面々か)とあり、そこに下の松田にや(仲尾次村)、上の仲尾親雲上(仲尾次)、古我知大屋子(伊差川村)、当真喜屋掟(川上村)、当呉我掟(源河村)、こしの宮城にや(我祖河村)とあり、伊差川村と源河村でも宿泊しているので、羽地間切のノロの居住していた全村を訪れたことになる(のろ家を訪れたかどうかは記されていない)。

 羽地按司が領地とした羽地間切の祭祀と関わるノロ在の全村を訪れている。ノロの居住していない村も訪れているので、間切を領地とした按司と村との密接な関わりがしれる。屋我地島まで渡っていることについては、領地の全村を回るとのことであれば納得できる。「御立願」をする理由が、必ずしも血筋ではなく、領地から得ている家禄や物成や作得へのお礼の意を持った村々への御願(ウガン)であることが。

 
真喜屋のウイヌウタキのイベ     真喜屋ノロドゥンチ跡(火神)

 
  仲尾ノロドゥンチ火神   親川(羽地)グスク跡
 
     我部の御嶽       我部の御嶽のイベの祠