現在は行われていません。
「過去のムラ・シマ講座」
第20期 第7回 「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ
(平成24年12月8日 土:開催)
今年度最後のフィールドの「山原のムラ・シマ講座」は本部町辺名地です。辺名地は1666年まで今帰仁間切の村の一つでした。辺名地の仲村家には古琉球jの時代(1609年以前)の辞令書(県指定の文化財)が三枚のこっています。それには「みやきせんまきり」とあり、今の本部町まで今帰仁間切の内(辺名地・具志川(後の浜元)・謝花)だったことがわかります。
辺名地の神アサギは公民館の近くにあります。アサギの側に「神社改修記念碑」と「拝殿改築記念碑」(昭和12年)があります。二つの碑は昭和12年の神社と拝所の改築です。辺名地は神アサギを拝殿にし、神殿をつくり合祀をする形。しかし、これまでの御嶽などの祭祀場はこれまで通り踏襲しています。
ウタキはタキサン(嶽山)とも呼ばれ、入口の鳥居の台に「昭和六年建設」と「奉納」とあるので、昭和6年に建設され、その後の昭和12年に神アサギを神社の形の神殿と拝殿として改築jしたものとみられます。それとウタキ(嶽山)の入口に鳥居を建立し、御嶽を神社化しています。そこイベの前に「奉寄進」された香炉が置かれています。
神殿の内部に三基の香炉があり、その一基に「奉納寄進 咸豊九年巳未九月旦日 本部按司内 松田仁屋」とあります。またウタキのイビにある香炉も同年とみられます。同様な香炉は並里にもあります。『中山世譜』(附巻)に本部按司が上国したことに連動します。
辺名地の集落は台地上にありますが、昭和22年海岸沿いの大浜は辺名地から分区しています。正月の豊漁祈願や祭祀は辺名地と一緒に行います。
『琉球国由来記』(1713年)では、辺名知(地)村の祭祀は瀬底ノロの管轄で、由来記に「根神火神」とあり、根神が祭祀の要になっていたようです。
9:00 今帰仁村歴史文化センター集合
①仲村家の辞令書など
②石垣のある旧家
③辺名地の公民館/根神屋
④神ハサギ/神社/拝所など
⑤ウタキ(昭和6年建立の鳥居)/ウタキのイベ(香炉)
⑥辺名地の集落(昭和19年の宿営配置)
⑦「奉寄進 本部按司内松田仁屋 咸豊九年」の香炉のある墓
⑧ウティラグンジン/崖中腹の墓
13:00 終了(解散)
咸豊9年(1859)は向氏本部按司朝章が順聖院様が薨逝されたので特使として薩州に派遣されています。その時の寄進とみられ、松田仁屋と渡久地仁屋は按司家に奉公していた辺名地村と並里村出身の屋嘉(ヤカー)とみられます。
神アサギの屋根裏に桶があり、祭祀の時にお神酒をつくる容器です。内にはタモト木があります。
辺名地の公民館あたりの集落は昭和19年「独立重砲兵第百大隊」(平山隊)の「宿営」となっています。いくらか確認できるでしょうか。
▲本部町辺名地の神アサギ ▲拝殿改築碑 ▲神社改築記念碑
▲ウタキの入口の鳥居の台 ▲ウタキのイベと神殿内の高炉
第20期 第6回 「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ
(平成24年11月10日 土:開催)
今回の山原のムラ・シマ講座は国頭村奥間である。国頭間切時代の番所があった村(ムラ)である。国頭間切は1673年以前は今の大宜味村の大半が国頭間切地内であった。その時の番所は根謝銘グスクのあった根謝銘村や城村にあった可能性がある。間切が分割すると国頭間切の番所は浜村に置かれる。その後、1709年に奥間村に移転する。間切番所が置かれた村は他の村とは異なった痕跡を遺している。そのような村を訪ねてみることにする。
9:00 今帰仁村歴史文化センター集合
①奥間村の概要紹介
②奥間小学校(番跡地)(間切番所火神の祠)
③土帝君
④アマングスク(奥間グスク)
④奥間ノロ殿内/奥間神アサギ/奥間ノロの遺品
⑤奥間カンジャーヤー
⑥経塚
⑦奥間公民館/奥間の十二支/奥間集落/奥間の大綱引き
⑧金剛山の二つ碑(金剛山碑・南無阿弥陀仏碑:拓本)
13:00 終了(解散)
奥間は国頭間切の番所(後の役場:200年余)があった村(ムラ)である。国頭間切(後の村)の行政の中心となっていた時期がある。番所跡は奥間小学校敷地である。その痕跡とする一つが地頭代(番所)火神の祠がある。
奥間集落の後方に奥間グスク、別名アマグスクある。そこにはニシヌウドゥン跡とフェーヌウドゥン跡の祠と石燈籠?が置かれている。祠はウタキ(グスク)のイベである。そういう場所(杜)をウタキやグスクと呼んでいる例である。頂上部をアマンチヂといい、そこにはイベがある。因みに、ニシヌウドゥンのイベはノロ・勢頭神、フェーヌウドゥンのイベは若ノロ・根神・勢頭神が担当して拝む(神人とイベとの関係、そして近世の行政村が成立する以前のムラの姿が見え隠れする)。
奥間には土帝君や金剛山(金剛嶺:経塚)や南無阿弥陀仏、カンジャヤーや十二支や豊年祭や綱引きなどがあり、外の文化をいくつも導入している。それは奥間に番所が置かれていたことと関係していると思われる。金剛山
は首里に住む国頭親方が国頭間切番所のある奥間村にやってきて建立(康煕45:1706年)、筆者の東峰は坊さんのようである。経塚(きょうづか)とは、経典が土中に埋納された塚。仏教的な作善行為の一種で、経塚を造営する供養のことを埋経という。阿弥陀仏に帰依する意。浄土宗で阿弥陀仏の救済を願って唱える語である。
「土帝君」が琉球(沖縄)への移入は康煕37年(1698)である。農業の神様を祭っており、中国からの導入である。国頭への導入はだれがやったのであろうか。国頭間切の役人が唐旅をし、持ち帰り奥間村に持ってきたものであろう。年一回奥間の村で祭祀(旧暦2月2日)を行っている。
奥間を構成している門中に、座安姓・金城姓・与那城姓・親川姓がある。奥間ノロは座安姓の一門から出している。他に、小橋川姓(後に小川)、竹園(元与那城姓)、東恩納、宮里、宮城、大城、山川、奥間、橋口(元金城)、又吉、玉城、嘉数、伊波などがあるが寄留民だという(『沖縄風土記全集:国頭村編』)。寄留してきた一族が多いことが村の歴史や文化に大きな影響を及ぼしている。祭祀の中心となっているのは古くからの一門である。座安一族から出る公儀ノロは首里王府からの任命なので中央部の祭祀の影響を受ける。また、座安家は尚円王(金丸)と関わる伝承を持ち、それを示すカンジャヤーがあり、そのことが奥間の村の伝統的は文化となっている。また鍛冶屋が扱う金属、あるいは金丸に因んで奥間はカニマンのマクの名の名称を持ち字(アザ)の称号にもなっている。
首里王府によってノロ制度(1500年代)がしかれるが、ノロが掌る村(ムラ)があてがわれる。奥間ノロは奥間村と比地村である。ノロ制度そのものは消滅するが、今でもノロが行う祭祀は引き継がれている。奥間ノロは比地で行われる海神祭に出ている。
地域(特に沖縄のアザ:区)の歴史と結びつく出来事や遺されている碑や伝承、今に行われている祭祀や綱引きや村踊りなどを見て行くと、そのムラ・シマの伝統や文化に気づかされる。
第20期 第5回 「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ
(平成24年10月13日 土:開催)
第5回目の「ムラ・シマ講座」は今帰仁村平敷です。平敷はウタキを中心に原初的な集落(ムラ)の形態をみることができます。御嶽(ウタキ)の内部にウタキのイベ・神アサギ・旧家の跡・カーなどがあります。そこを中心に集落が展開したことがわかります。
また、平敷には明治の「平敷村略図」と「平敷村全図」(村指定文化財)があり、「平敷村略図」から現在の小字の変遷を史料を踏まえて議論できます。今回の企画展(今帰仁間切の図」を開催します。その現場を踏査してみます。
最近、確認された「拝領墓」(仲里家)まで足を運びます。どのような墓か直に見てみましょう。平敷大主の墓と呼ばれる木墓もみます。お楽しみに。
(今回は今帰仁村謝名を予定(告知)していましたが、その日館長の頭が回らない状態のため変更します。悪しからず!)
9:00 今帰仁村歴史文化センター集合
①ティービガジマル
②ウタキ(神アサギ/イビの香炉/合祀された拝所など)
③ウタキ周辺の拝所
④「井 ふかさく原」の印部石(現場工事中のため行きません)
⑤ピシチガー
⑥ナビスクガマ
⑦拝領墓(仲里家の墓)
⑧平敷大主の墓(木墓)
12:00 終了(解散)
▲今帰仁村平敷の様子 ▲「平敷村略図」と明治36年以前の小字
▲「平敷村略図」に登場する「ふかさく原」 ▲拝領墓図 ▲現在のこっている拝領墓
第20期 第4回 「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ
(平成24年8月11日 土:開催)
第4回目の「ムラ・シマ講座」は本部町健堅です。健堅の山手(大小掘川)の上流部に健堅のムラの発祥地(古島)があるそうです。古島から健堅(キンキン:ウインバーリ)へ移り、そこにウガンヤマ(ウタキ)や旧家跡(タマウドゥン:お宮)、神アサギなどがあります。健堅の祭祀は本部(崎本部)ノロの管轄です。
健堅の小字に駆原(カキバル)があり、この小字名は健堅大親にまつわる名馬に因んだようです。名馬に因んだ伝承は今に伝わり、健堅大親の屋敷跡や墓があります。健堅大親の墓の前方から瀬底大橋が架かっています。
健堅村と崎本部村との間にあった石嘉波村は1736年に瀬底島の東側に移動。健堅に健堅石川原、崎本部に石嘉波原があり、それは石嘉波村の故地を示しているのでしょう。そこには他からの寄留人達がヤードゥイ集落を形成しています。
本部間切の地頭代は『琉球国由来記』(1713年)から明治まで変わることなく、健堅大屋子(親雲上)を名乗っています。本部町(間切)で古文書や位牌や銘書に「前健堅親雲上」とあれば、本部間切の地頭代をした方だとわかります。屋号のキンキンヤーは地頭代を出した家です。本部間切の地頭代に健堅大屋子(親雲上)がつくのは、今帰仁間切の地頭代が古宇利親雲上(屋号:フイヤーやメーフイヤー)と名付けらるのと同じか。瀬底島と健堅との間のシークタナカが重要な津(港)であったことと関係あるとみられます。
海岸沿いの浜崎は糸満の漁民が形成した集落のようです(まだ、下見していませんので変更ありです)。
8月11日(土) 午前9時 歴史文化センターに集合
・本部町健堅の概要について説明します。
・健堅の集落の形態(移動集落・丘陵地の集落・海岸沿いの集落)
・健堅大親の伝説・住居跡・お墓
・海岸沿いの浜崎と瀬底島(瀬底島との発着場)
・健堅の丘陵地の集落(グスク時代の集落?)
・健堅のウタキ・神アサギ
・健堅の旧家(タマウドゥン:お宮、ニーヌファーの拝所)
▲健堅のムラウチから眺めた瀬底大橋 ▲民家の屋敷から移された神アサギ
第20期 第3回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ
(平成24年7月14日 土:終了)
第3回ムラ・シマ講座が2012年7月14日(土)に行われました。
今回は「名護市字屋部のムラ・シマ」です。簡単に画像にてその様子をご紹介します。
(詳しくはまた改めて・・・)
①館内にて画像をみながらレクチャー
今回はゲストで名護博物館・学芸員で屋部出身の吉元さんが来てくれました!ありがとうございます!
②ぷぅみちゃーとナナシキムイ
③久護家(県指定有形文化財)
④凌雲院(屋部寺)
⑤屋部ノロドゥンチ、石垣やー、あじみちやー
⑥渡波屋
【おまけ】
①屋部のたばこ乾燥場
屋部にはたばこ乾燥場の跡がきれいに残っています。それを屋部の人達が今「屋部の宝として残していこう!」と立ちあがりました!すばらしい!
山原のムラ・シマ講座(平成24年度)
第3回目のムラ・シマ講座は名護市屋部です。前回の今帰仁村崎山と関わりのあるムラです。屋部の中でも大島と久護との間で、それぞれが今帰仁村崎山との関係を結びつける伝承と野史が混在しています。
屋部は大島・久護・兼久・浜・上原の集落からなっている。上原は明治以降の寄留士族を中心とした屋取集落である。行政村(ムラ)としての屋部と祭祀や古琉球のマキやマク規模の集落の伝承(一門の筋)が絡み合っているため、ムラの成り立ちについての説明が困難である。それは、複数の集団が行政村になるが、祭祀や祭祀場は一本化できない事情を汲みとっていく必要があるムラです。
見える集落形態とは別に、内側には、一門一門の伝承(出自の歴史)を根拠に動いている世界があることに気づかされます。名護湾岸のムラ・シマの一つとして案内いたしましょうかね。
『琉球国由来記』(1713年)に屋部村に「セジアラノ嶽」と「富盛之嶽」が登場するが、特定できていない。両嶽はナナチムイとプウミチャーの森を指している可能性も否定できない。両地は現在、宇茂佐地番である。屋部のフシヌウタキ(後のウタキ)は集落移動後のウタキであろう。
ならば故地(古島)とそう遠い距離ではないので、二つの森を『琉球国由来記』(1713年)に登場する二つの嶽に想定することも十分可能であろう。あるいは一つはナナシチムイ、もう一つは古島のユヤギムイとすることもできそう。(そうすると、中南部の御嶽は墓である、あるいはムラの先祖の骨を葬っている場所だということにつながってくる。中々面白い!)
7月14日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合。9時30分バスで出発します。
・名護市屋部についての概要説明をします(於:歴史文化センター。午前9時集合)
①屋部の古墓地(プゥミチャー、ナナシチムイ)
(屋部と宇茂佐の古島跡地(屋部川沿い)、バスから場所の確認:移動集落)
②久護集落のフクギと久護家
③大島集落の中心部となる神アサギ一・根ガミヤー火神祠
大島集落内にある屋部ノロドゥンチ・石垣ヤー・あじみちやー(ナグーヤ)
(集落内の神道とくさてぃ・グサンなど)
(屋部の大島と久護集落と今帰仁村崎山との関わりと歴史と伝承)
④凌雲院(1692年創設(七体の仏像が祭られています:願いはなんでもかなうかも?!)
⑤渡波屋(平和の塔・ビジュル・安和の権現への遥拝所)
⑥屋部川沿いと名護湾岸のムラ・シマ
(12時30分には歴史文化センター着予定、参加者は報告お願いします)
①屋部の古墓域(プゥミチャとナナシチムイ)
▲プゥミチャーの森 ▲プゥミチャーの墓地(向って左側) (右側)
▲ナナシチムイの碑 ▲ナナシチムイの頂上部 ▲墓地になっている頂上部(イベか)
②久護集落と久護家
▲久名護家(久護集落内) ▲屋敷内にある井戸
③屋部の大島集落の中心となるムラヤー周辺
▲現在の屋部公民館 ▲大島集落内にある神アサギ ▲屋部ノロドゥンチの石垣
④屋部寺(凌雲院)と屋部の村(七つの仏像)
⑤渡波屋と東西の屋部川
▲渡波屋の鳥居とビジュル ▲両屋部川の合流地と名護湾 ▲渡波屋からみた大島の一部
▲『屋部久護家文書』所収より(名護市史発刊)
・第3回 7月14日(土) 9:30~13:00 名護市屋部(終了)
・第4回 8月11日(土) 9:30~13:00 本部町内(〃)
(9月はお休みです)
・第5回 10月13日(土) 9:30~13:00 国頭村奥間(〃)
・第6回 11月10日(土) 9:30~13:00 今帰仁村謝名(〃)
・第7回 12月 8日(土) 9:30~13:00 屋我地(名護市:鐃辺名)
・第8回 (3月にまとめをします) (歴史文化センター館内で)
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(平成24年5月30日)
第20期 第2回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ
(平成24年6月16日 土)
第2回目は開催日の変更があります。6月9日から16日へ変更となります。9日はバスや職員の日程の調整がつかずご迷惑をかけします。
さて、2回目のフィールドは今帰仁村崎山です。崎山は方言でヒチャマ(下間)と呼ばれています。どうも上間・中城(中間)・下間(崎山)の三つのムラの関係からきた名称かもしれませんね。そのことを確認したいと思います。その確認は古琉球のムラの形をしることにつながってきます。ある意味では今の村(ムラ)や字(アザ)の形の概念を覆すことになります。
崎山は名護市屋部と密接に関わるアザです。屋部との関わりを見て行きます。そこにどのような伝承があるでしょうか。楽しみに。屋部のアジミチ一門が崎山にやってきますが、その目印となるのが崎山にあるか、確かめてみましょう。
6月16日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合。9時40分バスにて出発します。
・崎山についての概要説明をします(於:歴史文化センター。午前9時集合)
①崎山の神ハサギ(崎山から西側ではハサーギ、東側ではアサギです)
②崎山のお宮(拝所)
③屋部一門寄進の香炉(二基)
④中城ノロ殿内跡(何故崎山に中城ノロ殿内があるのでしょうか?)
⑤ヌルガー(そこまで行けるかな?)
⑥崎山の発祥地
⑦ナカグスクの御嶽(スガー御嶽:そこは仲尾次のウタキです。地番は平敷です????)
(そこから崎山・中城・上間の関係から古琉球のムラの形が見えてきそうです)
⑧崎山湧泉(ヒチャマガー)
⑨炬港(テーミナト)
⑩池城墓(イチグスク墓)
(12時30分には歴史文化センター着、参加者は報告お願いします)
多分、その全ては回ることはできないかと思います。その時は悪しからず!
【今帰仁村崎山の地形図】
海岸から山手に向って細長く延びた字(アザ)です。崎山は①当原 ②伊佐良原 ③第新地原 ④宇佐原 ⑤東原 ⑥港原 ⑦桃原 ⑧幸地迫原 ⑨上川原 ⑩前田原 ⑪上原 ⑫与保城原の12の小字からなります。崎山の集落は当原を中心に展開しています。集落を中心として前田原、上原、東原などの地名がつけられています。また地形から桃原(トーバル)や幸地迫原と名付けられています。神ハサギは当原、お宮(拝所)や中城ノロドゥンチ、ヌルガー、ヒチャンパニモーは前田原。山手の与保城原には戦時中に陣地が構築されています。明治の図面を見ると、上原と与保城原の山手に住居が散在しています。寄留の人達でしょう。
上川原に崎山の故地があり、ヒチャマガー、メンス(前の洲)があり、一帯をフプシマ(大島)と呼ばれ、ムラ発祥の碑が建立されています。その近くにナカグスク(スガー御嶽)があり、中城j(現在の仲尾次のウタキ)となっています。ただし、地番は平敷です。明治の図面をみても一帯の境界線は不鮮明です。ジニンサガーラとヒチョシナガーラがぶつかる場所で川筋がたびたび変わったのでしょう。
(拝所や村の発祥地や御嶽などから、上間・中城(仲間)・ヒチャマ(下間・崎山)の関係が見えてくるかも。
それと『琉球国由来記』(1713年)の村の並びが、兼次村・諸喜田村・与那嶺村・崎山村・中城村・平敷村となっており、崎山村の次に中城村が来るのは不自然です。他の資料からも、短冊型の村の形ではなく、海岸から山手に並行ではなかったか。
▲今帰仁間切平敷村全図(明治36年)
▲今帰仁村崎山の神ハサギ ▲神ハサギ内のタモト木と香炉
▲屋部の一門から寄進された香炉 ▲ヒチャンパニモーの石囲いの拝所(一門が拝む)
【炬港(テーミナト)】
大井川の河口は炬港(テーミナト)といいます。『琉球国由来記』(1713年)の「旧跡」には「中宗根港下、炬港と云う」とあります。由来は孟氏大里親方宗森が進貢の使いで中華(唐)に行き、帰国の時、台風に逢い、夜な夜な港の岸を彷徨っていると、その時神火の炬火が燃え、これを見て、無事この港に着いた。それ故炬湊と云うとあります。同様な記事が『球陽』にも附「今帰仁郡の炬港」とあります。
『沖縄県国頭郡志』(大正8年)には「今帰仁の炬港は大井川町の門戸に当り那覇間石油発動機船の往来あり」と、明治後半から大正期にかけての様子を記してあります。
(平成24年5月1日)
第20期 第1回「山原のムラ・シマ講座」開催のお知らせ
(平成24年5月12日 土)
【今帰仁グスクと周辺】
今回は今帰仁グスク周辺の祭祀と関わる場所(拝所)、それとガマなども踏査します。今帰仁グスクとその周辺は、親泊村・今帰仁村・志慶真村の移動、そして今帰仁グスクへの今帰仁按司(監守)一族の派遣、それと三十三君の派遣もあり、今帰仁ノロを中心とした今帰仁ノロ管轄の三つの村の祭祀、それに首里王府派遣の監守と今帰仁アオリヤエの祭祀が重なっているが、それを今帰仁ノロの祭祀として『琉球国由来記』(1713年)は記しています。
また、志慶真村が現在の諸志へ、今帰仁村(ムラ)の集落が麓へ、それより古く親泊村が麓へ移動。『琉球国由来記』(1713年)の海神祭(大折目)はグスク周辺の三つの村が移動する前の祭祀の流れを踏襲しています。村や集落が麓に移動すると、麓から今帰仁グスクへ、それから麓へと祭祀の流れが変化しています。
これまで見逃しているのがあります。それは志慶真村と親泊村、それと今帰仁村の境界線の変更です。特に今帰仁村と親泊村の境界線の変更は、今帰仁グスクの歴史を見る前提として重要な要素を含んでいます。
そのような今帰仁グスクの歴史を読み取っていくベースとなる場所の一端を踏査します。
☆ 5月12日(土) 午前9時に歴史文化センターに集合(午前9時集合)
・今帰仁グスクと周辺(レクチャー)
①シニグンニ(大正5年開通参拝道)
②ハタイバルウーニ(今帰仁ウーニ・本部ウーニ)(小さな窪み石)
③ティラ
④岩とガジマル(広場):不詳の広場
⑤ニークブ
(大正5年以前のグスクへの主要道路:ハンタ道)
⑥ミームングスク(見物グスク)/(ハンタ道と大正5年の詣拝道)
⑦トゥムヌハーニー火神の祠
⑧今帰仁ヌルドゥンチ火神(ウイヌルドゥンチ)
⑨今帰仁阿応理屋恵(オーレーウドン火神の祠)/タチハンジャムイへの遥拝所
⑩デコーラウーニ(今帰仁・本部)
⑪古宇利ドゥンチ火神の祠
(午後一時頃終了)
「琉球新報」2012.5.30記事
※石道や坂道を歩きます。すべりますので足元には十分ご注意を!
ハブと出会うかもしれませんので、棒は準備してあります。
保健料金まだの方は、当日お願いします(年間800円です)
①シニグンニの方形の石積み ▲シニグンニの側の遠景の遺構 ⑥ハンタ道(旧グスクへの本道)
⑦ミームングスクからの眺め ⑧トゥムヌハーニの火神の祠 ⑨今帰仁ノロドゥンチの火神の祠
⑪今帰仁阿応理恵御殿の火神の祠 ⑫後方にある遥拝所 ⑭デコーラウーニ(今帰仁・本部の御船)
※今帰仁村と親泊村が合併する以前の小字。
黄色部分は親泊村の小字
茶色部分と志慶真村部分は今帰仁村の小字
今帰仁グスクのあるハンタ原とハタイ原は親泊村域である。
今帰仁城や今帰仁ノロドゥンチ(火神)は今帰仁村とあり、その後に両村の
境界線が定まったか、変更があったと見られる。
【琉球国由来記】(1713年)の祭祀場(明治の小字図を参照のこと)
・(今帰仁)城内上之嶽(今帰仁村)(今帰仁ノロ崇所)(明治には親泊地番となっている)
・(今帰仁)城内下之嶽(今帰仁村)(今帰仁ノロ崇所)(明治には親泊地番となっている)
・コバウノ嶽(今帰仁村)(今帰仁ノロ崇所)
※三ヶ所は今帰仁ノロの崇所となっているが、本来今帰仁アオリヤエの祭祀場か。
1713年頃今帰仁アオリヤエ一族は首里へ引き揚げていたため今帰仁ノロが代
替わりしていた時期の記録。
・今帰仁巫火神(今帰仁村)(明治には親泊地番となっている)
・今帰仁里主所火神(今帰仁村)(明治には親泊地番となっている)
・今帰仁城内神アシアゲ(今帰仁村)(明治には親泊地番となっている)
・安次嶺神アシアゲ(今帰仁村)
・阿応理屋恵按司火神(親泊村)(親泊馬場の東隅の場所)
・親泊神アシアゲ(親泊村)
・志慶真村神アシアゲ(志慶真村)
※阿応理屋恵按司火神が親泊村にあり、グスクの傍から麓の親泊集落内(ウドゥンヤシキ)に移動。1665年首里に
引き揚げるが、引き揚げるまでの屋敷地か。今帰仁阿応理屋恵按司は18世紀後半に戻るが、戻り先は監守屋敷
であった今帰仁村側の按司家跡に移動。それが現在のオーレーウドゥン。監守六世のガーナー位牌あり。
【琉球国由来記】(1713年)頃の今帰仁ノロ管轄の海神祭(大折目)
毎年7月 大折目(海神祭) 作毛の為
巫(ノロ)・大根神・居神など合計20人余
①城内
②ヨウオスイ
③(タモトあり)(神アサギか)
④アワシ川(志慶真のアーシジャか)(水とり・浴びる)
⑤アザナ廻り(七度)
⑥庭(ミャー)(縄を引き張り、舟漕ぎの真似をする)
⑦城門外より馬に乗り、弓矢を持つ)
⑧流れ庭(塩撫で)
⑨親川(水撫で)
⑩城内のヨウスイ
※船漕ぎ儀礼は庭(ミャー)で行われている。それは間切分割以前の祭祀を示している。
すると、ハタイ原ウーニとデコーラウーニの設置とその祭祀は村が移動した後の設置と
見られる。『琉球国由来記』(1713年)の大折目(海神祭)はムラ移動前、それと間切分割
以前の祭祀の様子を示し、二ヶ所のウーニは集落が移動した後の祭祀の流れを示して
いるものと思われる。
【明治17年頃の今帰仁・親泊村の祭祀場】(「沖縄島諸祭神祝女類別表」田代安定箸)
・公方ノ嶽
・ヨクノカタ
・シニグン子
・テ ラ
・トモノ内ノロクモイ火ノ神
・祝部火ノ神
・神アシヤゲ
・本ノロクモイ火ノ神
・旧惣地頭火ノ神
・今帰仁旧城内神アシアゲ
・天 辻
・雨 辻
・旧按司地頭火ノ神
・カラ川
【今帰仁旧城図】(1742年)の拝所(具志川家譜)
・下ノイヘ
・上ノイヘ
・トノ敷
・火神
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
山原のムラ・シマ講座 (2012.4..10)
(受講者募集)
主催 今帰仁村教育委員会
(歴史文化センター)
「山原のムラ・シマ講座」(第20期)を5月12日からスタートします。沖縄本島北部(山原)の「ムラ・シマ」の形を歴史・文化・生業など様々な視点で見ていきます。ムラ・シマには原初的なムラ、移動ムラ、新設ムラ、合併ムラなど、幾つかのタイプがあります。どんなタイブのムラ・シマなのか確かめてみましょう。
ここでいうムラ・シマは字(アザ)のことです。明治41年までの間切が村(ソン)となり、それまでの村(ムラ)が字(アザ)となりました。村(ムラ)を中心とした人々の生活は、近世から明治まで続いてきました。その名残りが消えつつあります。今では消えかかった姿をカー(湧泉)や神アサギやウタキや集落景観から見ていきます。そして時代は変わりつつありますが、生活の中にどのように息づいているか見ていきます。
ムラ・シマの歴史や景観などを辿りながら、かつてのムラ・シマの形、その痕跡をフィールドワークを通して実感していきます。以下のムラ・シマを予定しています。どんな内容のムラの形なのかは楽しみに!
・募集期間(4月11日~5月30日)(ただし、定員25名になりしだい〆切ります)
・開催日(第二土曜日)(雨の時は館内で行います)(予定)
1回 5月12日(土) 9:30~13:00 開講式 今帰仁村城周辺(徒歩)
2回 6月16日(土) 9:30~13:00 今帰仁村崎山(マイクロバス)
(6月9日から16日へ変更)
3回 7月14日(土) 9:30~13:00 名護市屋部(〃)
4回 8月11日(土) 9:30~13:00 本部町内(〃)
(9月はお休み)
5回 10月13日(土) 9:30~13:00 国頭村奥間(〃)
6回 11月10日(土) 9:30~13:00 今帰仁村謝名(〃)
7回 12月 8日(土) 9:30~13:00 屋我地(名護市:鐃辺名)(〃)
8回 (3月にまとめをします) (歴史文化センター館内で)
・集合場所は毎回今帰仁村歴史文化センターです。
※台風で中止となることもあります。雨の場合は館内で行います。
遠距離になる場合がありますので、時間の変更もあります。
(基本的に弁当の持参はありません。暑いですので飲み物は必要)
※山原の市町村にまたがりますが、今回は上記の予定です。
中身についてはお楽しみ!
※全回 参加できる方を希望します。
バスや足元の不安定な場所があります。万が一のための保険料が必要です。
(年間一人800円)
・申込・問い合わせは、今帰仁村歴史文化センター (担当:仲原・石野・ナミジ)
電話番号 0980-56-5767
ファックス 0980-56-2789