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海外に居る者から見た鄕土(三度目の帰郷時:昭和8年)の講演
北米沖繩県人會長平良 新助
今度の帰郷につきましては何も別に面白いと□□□□やうなお話も持って參りませんでした。実は余り突□□□□□□□した自分の冒険性を自分でも不思議に思って居ります。
渡米致しまして三十年其間三回帰郷致しました。 此の先に帰郷致しましてから十余年、其の間に三人も不幸がありまして、其の墓參のために帰って參りました。そのようなことであります。にぎやかな郷土、土産話もございませんことを甚だ残念に思って居る次第でございます。
実はアメリカも一九三〇年以来の不景気と言いましようか、私だちが渡米して以来こんな不況は全然予想だにしない位で、日本などでアメリカが不景気だと言うても日本よりはよかろうと申しますか、日本とはお話にならない位に不況でございました。金があっての不況と申しますのは誠に不思議でございますが、私たち現にその不況の中を泳いで生活してきた来たのでございます。
日本の一般の方々はシネマを通じてのアメリカを見て居られますからアメリカで勞働して居る私達も北米に居る連中はあんな生活をして居る筈だ、うらやましいと思いなさる筈ですがれこそ大きな見当違いでございます。
北米に居ります私だちは皆様の想像以上に苦勞をして居るのでございます。
皆様はシネマでの高級自動車を皆の者が乗り廻してドライブにうかれて居ると思ひなさるかも知りませんがそれは全く想像もつきません。矢張りアメリカもフォードをシボレー車が大半古めて居ります。
アメリカ禁酒撤廃
アメリカ位資本主義機構の発達せる国は世界に其例を見ませんそれに勞働者の賃銀は高いし去年あたりは全てに於いて製産過剰になりまして製品は蕒れないからとの理由で賃銀を引き下げると言ふことも勞働組合などの關係でできませんため、會□としては止むを得ず事業を縮小して行かなければいけない。其のため失業者が出る社會問題が起ると言ふ具合で自地共に生活の不安を感じた譯でありました。北米はほんとの文明社會発展の頂上を越したのではないかとも思はれます。
ルーズベルト大統領になりまして撤廢されました禁酒法にしましても共和黨の人々でも全然反對でなかつたやうにも感じられました。何故かと申しますとアメリカに於ける農業の発達と言ふことは人智の及ぶ限りをつくしては居ますものゝ今後どれだけ発展するか想傾がっきません。家畜飼育につきましても沖縄で一年□位もかゝる日數が四五ヶ月位で同様に成長するやうに科学的の飼育法が行はれて居ます。農業に於いては人智の及ぶ限り今後も益々科学的の經營法が講ぜられると言ふことは新聞、雜誌、書籍を通じて御存じのことゝ思ひます。
ビールの原料たる麥類の収穫の如きは豫想もつ」かない位の增收があつたりします。必要以外の麥類の始末に困る譯でどう處理してよいか方法がつかないと言ふ有様であります。政府で買ひ上げても余つてはしようがありませんからビール製造でも許可しなければいけないど言ふ□態に立ち至つた譯であります。禁酒のためよいことおありませうがシカゴあたりでは其のためばかりでもないでせうがカポネと言ふギャングの團長などが出たりした例もありました。カポネと言ふ人は禁酒国で酒の密造をする位だったと言ひます。
禁酒国でも飲まうと思へばアメリカの富豪の連中は飛行機でメキシコに行つたり領海外で飲んだりして居りましたから實際に禁酒を實行したのはアメリカの中産階級以下のアメリカの大衆ではなかつたと思ひます。
帝 国 平 原
インピリヤルバーレーと申しますと日本人の頭には日本帝国平原と言ふやうに頭にすぐ来ますが其の名は日本人がつけたのではないそうです。ずっとずつと前からそう呼ばれて居ました。何でも名咐け親は獨逸人ではないかと思います。獨逸人が開拓しようと致しましたがおもはしく行かなかったと言うて居ますから其の後を日本人が開拓致しましたので何だが日本人が名づけ親のようになって居ます。が名付は親は別人で育ての親が日本人と言うわけであります。
移殖民計画
今度の帰郷で三十年振りに私は沖繩名物の暴風にあったと言いますとお前も沖繩人ではないかとお叱りをうけましようが「喉元過ぎれば暑さを忘る」とか申しまして、四十米以上の暴風と言うことは想像だにしたことはありませんでしたが幸か不幸か今度の帰郷で八月一日以後何回となく四十米以上の暴風にあいました。
世界第二位の記録とか日本新記録とかと新聞は報じますのでスポーツ記録かと思えば無情な大自然の脅威記録なのには唯々涙がにじみ出るのみでありました。「心して吹けよ風」と言いたいのみであります利得歩合の少ない農民生活に支障を来たさぬようにと造化の神にお祈りをするのみであります。
それに土地狹小にして生活に不自由勝な此の日本を去つて南米にでも出ない限り我が鄕土の人はいつまでも程度のひくい生活に甘んじなければいけません。
日本を去る。沖繩を去る。何だか愛国心愛鄕心のない奴だと又お叱りをおうけすることになりますが、鄕土を去ることが愛国心のないことではありません。
日本人の存在を世界に知らすことにもなりますし、又世界の何處かにもう一つの日本国を建設する意気込みで海外に雄飛する譯であります。日本の經済濟を圓滑し、日本人の生活すべき新しき天地を開拓すると言う大きな使命を持って居るのでございます。愛国心のない話ではありません。日本国を思へばこそ世界雄飛をすべく飛び出すのであります。
十年前に參りました折りに知人の県会議員の方や県の先輩や村の先輩有志に県として村としての移殖民計画を建てゝ下さらんか、此の人口でこれだけの土地では必す將来に於て県民生活の上に大きな支障が生じ、政治家としても收抬できないやうになりはしないか知らん。
今日の生活はどうにかなるにしても政治家として自他共に許して居る人なら明後日の生活を考慮されたいから第一に移殖民計画を要望した所、私の無智をお笑いになつてか、今日を知って明日を知らない政治家であってか。「君、今の沖縄は働き手がなくて困って居るのだ、農村を見たまへ、男女靑年諸君が殆んど他県にでてしまつて土地はあって人が居ないではないか今の沖縄の農村では人が必要だ。」
其の当時はあの世界景気の余被といいましょうか、しぶきと言いましょうか、それがありましたために日本のみではなく各国とも都会集中の流行が教しました。都会の工塲はどうかと申しますと景気は下り坂だと言うことを資本主は知って居ましたから、安い賃金の労働者を使用致しました。其の点沖縄から行かれた労働者の方には資本主の要求する条件にあてはまってしまったのです。即ち安い賃金で長時間働くと言うことを工場主にみくびられたような具合でどしどし出稼ぎに出たのでございましょう。其の當時出稼ぎに行かれた方の何分の一の人々が他県に居られて相当の收入生活をなさって居るでしょうが知らん。それとも儲けて歸鄕したお方が幾パーセントおありでしょうか。
私の想像ではありますが、その大半は南米に行かれたのではないかと思います。
十年一昔とは一世紀前の言葉で現今では五年一昔とでも言いたいのであります。其の当時の我が鄕士の政治家の人々が移殖民計画をお特ちになって居た方々が幾人あったでしょうか知らん。
移殖民計画は政府の仕事だ。我々は県政にたずさわる政治家であると言われては一家の仕事を、あれは親爺の仕事だ私の仕事はこれだけだと言ったのと同じことではないでしょうか。
移殖民計画は政府の仕事だとあっさり片づけられては我が県民こそ迷惑至極であります。私は政治家ではありませんから政治上の事はわかりませんが政治冢たるものは「今日を考えて明後日位までわかって欲しい」のであります。
今度帰郷致しましても他の方々から何とかして北米に行きたいがと御質問を受けますが、皆様も御承知の通り現行法では北米には容易に行けません。三十年前私が行きましてから何回となく村の先輩及県の先輩各位に御手紙を差上げたりなどしましたが御返事の一つない位でありました。無関心だと思えば余りに無関心のような感じが致します。
経済学上「悪貨は良賃を駆逐する」と言うのと同じように明日を知らない政治家は県民大衆を幸福にしません。今後は其の局に立つ人々が大いに移殖民計画を建てゝ欲しいのであります。海外行きの熱のある今の中にどしどし我が鄕土の人々を海外に出して第二の日本を建設させるように努力させて下さらんことをお願いしたいのであります。
悲しいことに私は学者でもありませんので移殖民に関する学理的の研究は致して居りません。唯々海外進展と言うことを実行して居るのみであります。六十万県民の中には移殖民に関する学理的の研究をなさって居る方々多数あることと存じます。そう言う方々の力に依り今後益々海外進展の計画を計られんことを希望教します。
若い人に再度申し上げたいことは日本のため鄕土のため、自分の幸輻のため海外に雄飛されんことをお願いしたいのであります。
アメリカの小学校と鄕里の小学校と較べることは色々の條件が異って居ますから具合わるいことではありませんが敎育と言うことについては同様でありますからあながち無意味なことでもありますまい。アメリカでは小学校の入学から卒業するまで敎科書学用品は全部当局負担になって居りますため親の手からは一仙も出ません。其上に学校に学校自動車がありまして自動車で通学をさせて居りますから兒童も嬉々として通学を致して居ります。鉛筆、ノート、やれ紙が不足だなどと言う兒童は居ない訳でございます。當地では時に色々のものが不足を教しまし敎檀の先生の顏に現はれます。学用品の不足は敎師の心を痛めるものと思ひます。敎育の門外に立つて居る私ではありますが敎育と言ふことは知らなくとも敎師の心を痛めることは兒童にとつて決して幸福ではないと思ふこと位はわかるのでごさいます。
僅少な費用で多大な敎育効果を擧げる可く努力され居る点には涙の出る程に感謝を致して居ります。 鄕里を出て三十年之れと言ふてお見せする位の仕事も致して居りません、其の上今度の歸省の際にもこちらから御うかがひしなければいけないのに反對に先輩各位の御見舞をお受けしたことは誠に申し譯ないことでございます。之れはと言ふ位の面白いお土産話も無くつまらんことを断片的にお話申し上げたばかりでほんとに心苦るしゝ次第でございます。何卒大きなお心でもつてお許しあらんことをお願ひ申し上げます平良新助氏は現在北米帝国平原に於ける沖繩県人會長であります。昭和八年十余年振りに歸省されましたが滯在期間が短いのにかゝはらず色々有益なお話をしていたゞきました。
同氏はあの移民會館設立の発案者で海外にあつて常に鄕里沖繩のため十二分の努力をなされて居ることは我今歸仁村の誇とすべく人物であります。村に對しても時鐘設置費の寄附今歸仁校五十週年記念に對して靑年團等に多大の御寄附をして下さいました。