
平良新助
たいら しんすけ (1876-1970年)
今帰仁間切謝名生まれ(現越地)明治-昭和時代の自由民権運動,移民。明治9年9月4日生まれ。沖縄中学を中退して謝花昇らと沖縄の自由民権運動に参加。明治34年アメリカにわたり,カリフォルニアで農業,レストランやホテル経営などに成功し,日本人会の会長をつとめた。昭和28年帰国。昭和45年11月8日死去。94歳。
・ひやみかち節の作詞
・戦災にあった人々への医薬や金品の送付
・米寿祝いの返上
・90才で東南アジアの旅
・村有林(乙羽山)の30年借用契約
・首里にあった琉球大学への大きなソテツの寄贈
・恩納高山に電車道あきて 世界呼び寄して踊てみしら
(数多くの琉歌を詠む)

平良新助翁の経歴
1876(明治9)年9月4日沖縄県今帰仁村字謝名に生まれる。1897年(明治30)奈良原知事の開墾政策強行に、今帰仁村民の先頭に立って真っこうから反対した。奈良原知事銅像建設にも反対し謝花登の自由民権運動並に参政権獲得運動における最年少の同志として活躍した。
1901年(明治34)当山久三の使者として、第一回ハワイ沖縄移民の状況調査のためハワイに渡航、現地報告の使命を果たした上、そのままハワイに留まり、1904年(明治37)大陸に転航、ニューメキシコ州ラトンに至り宅地を購入して落ち着いた。
1913年(大正2)5月帰郷して金城つると結婚、先妻との長男一三(タム)を連れて翌年帰米する。
1919年(大正8)ニューメキシコ州を引き上げて加州ブローリ市に移り住む。洋食店を経営、一方では県人団体のために活動奉仕した。
1923年(大正12)太田鎌戸、奥武朝道が沖縄を訪問した。彼らは県社会、県民の窮状と海外にいる同胞の生活を比較し、両者の間に大きな開きがあることを認めた。
沖縄は海外発展の必要があり、その為には移民政策の確立、移民地の研究、移民統一機関、海外協会の設置を県官民有志に図ったが実現せずに帰米した。
1924年平良新助が郷土訪問のためロサンゼルスに来た。それを聞いた太田は早速彼に合い協会設立運動を頼んだ。
熱血児の平良は直に直に承諾し熱い握手を交わして別れた。帰郷後平良は協会設立のため奔走、熱誠は官民の肺腑を突き、自らも千金を費やして必死に協会設立に奮闘したので成功し、1924年(大正13)11月17日県議事堂に於いて沖縄海外協会は発会式を挙げた。
戦後、1953年(昭和28)11月アメリカを引き上げて帰郷、同年12月10日沖縄着、想像以上の戦禍で灰燼に帰した郷土に直面した瞬間、胸をついて出た琉歌こそ、後に山内盛彬作曲の「ひやみかち節」で一般に愛唱されている。
1965年11月3日沖縄海外移民の実質的な推進者としての功績によって、琉球新報賞が贈られた。彼は村や部落の再建向上のために、学校やいろいろな行事に協力貢献し村民の信望の的となった。
彼は80歳を越してから、村有林周辺50万坪を森林資源開発の目的で村に30ヶ年契約の借地を申し込んだが、死亡後まで契約期限が残るとの理由で村会の反対で中止となった。
最後まで大望を抱き意気盛んな平良新助翁は1970年11月9日自宅で波瀾の生涯を閉じた。享年94歳。(大里康永著『平良新助伝』より抜粋)





沖縄海外協会の設立と平良新助
1922年(大正11)ロサンゼルスにおいて県人の中心人物であった太田鎌戸、奥武朝道の両人が母国を訪問しています。彼らは帰ってきて県下を視察し県社会、県民生活の窮状を目の当たり見て、海外にいる同胞の生活と比べて、この惨憺たる生活を黙過することが出来ず、大いに海外発展の必要を認め、そのためには、県移民政策の確立、移民地の組織研究、および海外移民統一機関の設置の急務を痛感しています。海外協会設立を広く県内の官民有志に計ったが、まだ具体的運動までに至らないまま帰米しています。
太田は再度渡米後も、なおその志を忘れず熱心に海外協会設立を期し、カリフォルニア州県人を遊説して在留県人の署名を求め連署して県当局に請願した。
遇々その翌年1924年ブローレーにありし、平良新助が母国訪問のため帰朝する機会がありました。羅府(ロサンゼルス)を出る時、太田は早速平良新助に会って協会設立の使命を託しています。
平良新助は、かつて県下で謝花昇、上間、当山らと共に奈良原知事の施政の下に呻吟していた県民を救済しようとして同志糾合して血判、命を賭けて奮闘したため、官憲に睨まれ遂に海外に亡命した熱血児でした。いかにして遅疑する事が出来よう、直にこれを承諾し熱い握手をして別れています。
かくて新助は帰朝後協会設立の使命を帯びて東奔西走、熱誠人の肺腑を突き自らもまた千金を投じて必死にその設立のために奮闘したので、遂に成功。
大正13年11月17日(1924年)県会議事堂において沖縄海外協会は設立された。わが海外協会の設立は全くわが在米県人の両先輩平良、太田の犠牲的活動の賜物というも過言でない。
沖縄海外協会創立の報に接するや、南カリフォルニヤ沖縄県人会では直ちに評議員会を開いたが、議事一決、先ず県人会を解消して海外郷支部を設立することを可決し1925年5月、南カリフォルニヤ沖縄県人会は、その最終の総会を召集して満場一致で同会解消、同時に海外協会南カリフォルニア支部を設立し、太田蒲戸を挙げて第一期支部長として、屋部憲伝を幹事に選んでさらに新しい陣容を整えて海外発展のために奮闘する活き意気を示した。
これと同様インペリタryバレー全県人会においても1926年2月、県人会を解消して海外協会支部を設立するため最後の総会が開かれ、同年4月4日に支部発会式も挙げた。
その日はインペリヤルバレー全県人が比嘉金俵農園ヤードに参集し総会かたがた大園遊会を催しロサンゼルスからも、太田鎌戸、奥武、仲村(仲村渠信義)、屋部が海協を代表して出席したが、山なす珍味のほか手踊等の余興もなかなか盛会を極めた。

沖縄海外協会の設立と平良新助
1922年(大正11)ロサンゼルスにおいて県人の中心人物であった太田鎌戸、奥武朝道の両人が母国を訪問しています。彼らは帰ってきて県下を視察し県社会、県民生活の窮状を目の当たり見て、海外にいる同胞の生活と比べて、この惨憺たる生活を黙過することが出来ず、大いに海外発展の必要を認め、そのためには、県移民政策の確立、移民地の組織研究、および海外移民統一機関の設置の急務を痛感しています。海外協会設立を広く県内の官民有志に計ったが、まだ具体的運動までに至らないまま帰米しています。
太田は再度渡米後も、なおその志を忘れず熱心に海外協会設立を期し、カリフォルニア州県人を遊説して在留県人の署名を求め連署して県当局に請願しています。
その翌年1924年ブローレーにありし、平良新助が母国訪問のため帰朝する機会がありました。羅府(ロサンゼルス)を出る時、太田は早速平良新助に会って協会設立の使命を託しています。
平良新助は、かつて県下で謝花昇、上間当山らと共に奈良原知事の施政の下に呻吟していた県民を救済しようとして同志糾合して血判、命を賭けて奮闘したため、官憲に睨まれ遂に海外に亡命した熱血児でした。いかにして遅疑する事が出来よう、直にこれを承諾し熱い握手をして別れています。
海外協会創立される。右の感謝状は「海外協会」創設の業績によるものです。

平良一三(タム)
1901年(明治34)今帰仁村謝名に生まれる・彼は1914年(大正3)1月、13歳のとき、父(新助)が帰国して、義母と共に父に連れられて渡米、ニューメキシコ州ラトン市の父の家に着いた。四年後の1918年、彼は父母に先んじて加州ブローリ市に移転、ブローリ ユニオン ハイスクルークールを卒業、更にウッドベリービジネスカレッジに学ぶ。
その後、ブローリ市で雑貨商、グロサリー店を経営、県人農家の不景気の時などには、いろいろ便宜を計ったりした。一方では県人会の会計をつとめたこともある。
日米開戦と共に、アリゾナ州ポストンの収容所に、終戦と共にロサンゼルスに帰還、直ちにホステルをレントして経営、またニュウーヨークホテルを購入し経営した。
ニューヨークホテルは、小東京の中心地目抜きの場所に建った便利なビルデングで、日本かrふぁのお客で繁昌している。
平良一三は、終戦直後の沖縄救援復興基金寄付の外、副会計をつとめ、また自分が経営しているホステルやニューヨークホテルで、収容所から帰還の人々や沖縄から次々渡米の国民指導員・視察員・学生などの世話や送り迎え、あるいは家庭に招いて歓迎パーティを催すなどひとかたならぬ努力をした。
彼は他にもホテルや病院、商会などの貸し家を所有しており、公共のためにも奉仕している。
春子婦人との間に一男一女、孫三人あり、長男アルバート弘は、父親と共同の少壮実業家として活躍している。
兼次忠七郎(仲宗根)
1883年(明治16)沖縄県今帰仁村仲宗根に父兼次忠八郎の二男として生まれる。県立師範学校「単位課」を卒業後、名護小学校、今帰仁高等小学校に教職する。
1912年(大正元)年、妹はな、はなの夫比嘉才次郎、従弟金城寛五郎と共に南米ペルーへ渡る。五、六年苦労して、1918年(大正7)北米行きを決行する。途中メキシコ国サリナ・クルース市で同郷の幸地新政一行に偶然出会い、北米入りまで苦難を共にした。
九死に一生を得る困難は、幸地新政の体験記に記されている。




【新聞記事】より
・1950年(昭和25)9月3日 平良新助氏母校へ図書
沖縄自由民権運動の先駆「謝花昇」の同志で現在カリホルニヤに健在の平良新助(今帰仁
村出身)氏は琉大創設の報に喜びを込めて次の琉歌を寄せたが母校天底校と北山高校に
三百余冊の図書並に地球儀を寄贈してきた。
□にげ事んかなて 学府□お門あきて 世々の□若人に道のしるば
・1956年(昭和31)5月19日
若人よ雄飛したまえ―平良新助先生訪問記―中今 信(当時琉球大学助教授)
・1964年(昭和39)11月23日 九十歳で東南ア旅行
・1965年(昭和40年)11月1日 琉球新報賞(第2回) 文化の日に贈呈式(平良新助氏)
(移民功労賞)
・1965年(昭和40)11月4日 平良新助氏受賞祝賀会御通知
11月8日 今帰仁村役所ホール
発起人:今帰仁村長 宮里政安
・1967年(昭和42) 移民の功労者 平良新助―アメリカで活躍― (『沖縄百年』)






今帰仁村大井中学校 村の教育復興援助(1948年9月15日)

志喜屋孝信氏からの手紙(1947年12月)
・東虎氏が志屋孝信を訪問(民政府)へのお礼
・万年筆と鉛筆などの贈り物
・ロスアンゼルス・インピリアルビレッジでお世話になったお礼
・帝国平原で様子(御厚意へのお礼)
・今次大戦で無一物なっている復興へのお願い
当山正堅氏からの手紙(沖縄民政府内)(1947.10.4)(帰郷前:1953)

本籍沖縄県高嶺村真栄里(現在ハワイ)
賀数箸次氏からの手紙(1966年9月11日)
我が尊敬する平良新助様
はじめて伺います。私は原籍沖縄県島尻郡高嶺村字真栄里の者です。現在ハワイ島コナ ホルアロア に居る賀数箸次なる者であります。
先月沖縄から山城茂氏が御出て映画「移民の父 当山久三」を見せていただきました。見る人々をして大いなる感激をもようしつつ拝見した次第です。
特に嬉しかった事は、彼の時当山先生の片腕となって活動して下された貴方が今なお元気で居られる事を知った事です。私は山城氏の希望によって「映画評」も書きましたが、其の大部分は貴方の事を書きました。
私は山城氏に貴方の住所を尋ねて少しでも御礼が出来たならと思いましたが、山城氏も貴方の住所は分からないとの事で仕方なく、この手紙は金武村役所に宛て送りましたが、神の助けあってこの手紙が貴方の御手に届くなら一日も早くたしかなる貴方の住所の宛名をお知らせ下さい。(※手紙で真助となっていますが新助と改めました)
仲宗根政善氏からのハガキ(1964年)
御目出とうございます。平良さんのなすことすべてが沖縄の人々に勇気を与えて下さいます。
九十才まで東南アジアを旅行して帰られるかくしゃくたるお姿を想像し眼がしらのあつくなるような
喜びをおぼえました。我々にこれほど力を与えるのは今の沖縄にはございません。
ますます御健康に御注意百寿を完うせられますよう。
したいさい ぷすめ
九十ぬ命力(ぬちぢから)
ひやみかち飛ばい
南ばんにいもち


以下略