2009年12月28日(月)
御用納め。一年間の動きをここで整理してみました。どのような動きをしてきたのか。一年間の動きのタイトルをとってみました。今年の前半(6月まで)は非常に厳しいものがありました。そのことについては、「動き」の中には書き記すことありませんでした。それにしても、「よく各地を動き回っているな」と呆れてしまいます。そこに紹介できなかった調査や資料がいくつもあります。
舘(歴史文化センター)の博物館活動は、資料の収集や保存、展示(企画展など)はもちろんのことですが、資料の紹介、調査の成果はある程度オープンにしてきました。時々、このHPを参考にしたり引用したのを散見することがあります。そのことはありがたいと思います。
歴史文化センターが情報の発信源となることを念頭に置いたのが「歴史文化センター」のネーミングでした。新しく情報の発信源の拠点としていくと。本舘の今年の「動き」を振りかえってみると、調査、研究、教育普及活動をする機関としての役割は、どれだけ担うことができたか。十分とは言えないが、目的は大方は達成しているのではないか。そうした活動はスローガンに掲げることなく無意識に行ってきた成果です。これまでの動きを振り返ってみると、バトンタッチを念頭にいれた「歴史文化センターの動き」に持っていかなければと。方向転換の時期にさしかかっていますネ(遅すぎた気がしないでもありません)。
御用納めにあたり、今年はこれで閉じることにします。メールでの問い合わせには、ほとんどお答できませんでした。電話や舘に来られての質問には、そのつどお答えしてきました。メールでの質問に答えるには、相当なエネルギーと時間を必要とするからです(悪しからず)。
新年の動きは、どこからになるのでしょうか。お楽しみに。一年間ありがとうございました!
【2009年1月の動き】(平成21年)
・1月1日 今帰仁グスクからスタート
・1月2日 今帰仁村謝名のウタキの香炉
・1月10日 今帰仁グスク内の香炉など
・1月14日 本部町辺名地の香炉
・1月15日 古宇利島のムユー折目)(ウットミ、パットミ)調査
・1月18日 『家譜』から今帰仁関係記事の選びだし
・1月20日 名護市世冨慶の踏査
・1月22日 名護市世冨慶で講演(字誌に向けて)
・1月24日 今帰仁城桜まつり
・1月26日 兼次小4年生グスクで発表会/古宇利島の旧正月調査
・1月27~29日 久米島調査(勾玉やガラス玉など)
【2009年2月の動き】(平成21年)
・2月1日 戦前の郵便局員の家族の集合写真(昭和14年頃)
・2月2日 久米島の西銘に「上江洲御嶽」(あらかきの杜)の標柱(久米島調査の成果)
・2月3日 『琉球国由来記』(1713年)から「ヲヒヤ」や「ヒヤ」を拾う
・2月4日 久米島具志川グスクと具志川村(集落移動とグスク)
・2月7日 国頭村比地の整理
・2月9日 国頭村比地の整理
・2月10日 兼次小3年生 歴史文化センターで報告会
・2月15日 国頭村辺土名~奥まで踏査
・2月17日 歴史文化センター運営協議会、国頭村比地の整理
猪垣とシニグ(祭祀)について
・2月21日 大宜味村の印部石
・2月22日 「ムラ・シマ講座」の冊子発刊
・2月25日 沖縄国際センター(OIC)の留学生セミナーのメンバーへレファレンス
宜湾朝保手鏡と嘉味田家の墓の鏡のメモ整理
・2月26日 喜瀬武原のウマチモー(恩納村喜武原)(整理)
【2009年3月の動き】(平成21年)
・3月3日 上間家の文書(赤墓)
・3月4日 今帰仁村仲尾次の渡名喜栄長翁(97歳)取材調査
・3月7日 西原町の文化協会来館(レクチャー)
・3月11日 金武グスク跡とウマチモー(喜瀬武原)へ立ち寄る
・3月12日 恩納村の地頭代、スムチナウタキ・謝名のウタキ・平敷のウタキの香炉
・3月14日 「ムラ・シマ講座」の修了式/浦添市文化協会のメンバーが来館。
・3月16日 「上国之時」と刻まれた石香炉
・3月18日 恩納村山田に「護佐丸祖先墓碑」(毛氏墳墓)
・3月23日 恩納村喜瀬武原の喜瀬武原のウマチモー
・3月24~27日まで舘内のくん蒸のため閉館
・3月27日 京都国立博物館(妙心寺展)、滋賀県(安土城、県立安土城考古博物館)、
堺市博物館、岸和田城など
・3月28日 恩納村の三つの史料
【2009年4月の動き】 (平成21年)
・4月2日 新赴任教員へのレクチャー、田植え、モチキビ
・4月4日 西海岸の村々(恩納村)
・4月10日 恩納村誌の編集会議
・4月18日 今泊・仲尾次・古宇利)の聞き取り調査(今帰仁村内のノロドゥンチ)
・4月24日 昭和20年代の写真から
・4月27日 ムラ・シマ講座の募集にはいる
・4月28日 明治20年代の様子(「一木書記官取調書」(一木喜徳郎)(『沖縄県史14 雑編1』)
【2009年5月の動き】(平成21年)
・5月1日 ハル石(印部石)調査ノートの確認
・5月2日 今帰仁グスク周辺の集落跡と古琉球の集落
・5月3~5日 徳之島調査
・5月7日 古宇利小/兼次小の学習
・5月8日 徳之島の天城町調査まとめ
・5月9日 兼次の集落移動と印部石(原石)
・5月10日 徳之島伊仙町調査のまとめ
・5月12日 古宇利島のムシバレーの調査
・5月13日 今帰仁村仲尾次の歴史と中城ノロ辞令書
・5月14日 古宇利島のプーチウガンの調査
・5月15日 「村制100年の歩み」展示、村内の高齢者学級の皆さんが来舘で特別にオープン
/6年生「北山の歴史」学習スタート/与論島の三校へのレクチャー
・5月16日 「ムラ・シマ講座」スタートする
・5月18日 古宇利島のタキヌウガン調査
・5月19日 沖永良部島の知名町の下平川小学校、知名小学校、住吉小学校の三校(70余名)。
・5月20日 沖永良部島の和泊町の国頭・和泊・大城・内城の四小学校(70余名)にレクチャー
・5月21日 兼次小4年生の総合的学習、今帰仁グスクにまつわる伝承
・5月22日 兼次小3年生の総合学習。校区の5つの字(アザ)の宝物探し
・5月25日 唐人の漂着と運天港
・5月26日 5年生の総合学習。5年生はムラの豊年祭
・5月30日 関東の博物館めぐり
【2009年6月の動き】(平成21年)
・6月1日 本部町具志堅のマージン
・6月2日 根謝銘グスク(ウイグスク)と周辺の村々
・6月3日 「宮城真治民俗調査ノート」(名護市史発行)から
・6月4日 8期目の運営協議会を開催
・6月6日 「文化財・伝統芸能調査―新城徳祐資料」の展示会を企画
・6月7日 古宇利島の五月ウマチー
・6月8日 国頭村の与那・辺土名の原石(印部石)】
・6月10日 企画展の資料目録づくり
・6月11日 『諸志誌』発刊に向けて再開
・6月13日 「ムラ・シマ講座」 今帰仁グスク周辺
・6月16日 国頭村辺土名、与那、辺戸の調査。「ガラス・玉製品関係資料調査
・6月17日 国頭村安波の公民館で安波ノロの勾玉・ガラス玉・簪・衣粧などの調査
・6月20日 名桜大学の講座。「山原の碑文記―碑文に学ぶ歴史・文化・人物―」(今帰仁村編)
・6月22日 羽地間切仲尾村の移動とノロドゥント(仲尾ノロ)
・6月24日 神社建設とノロ制度
・6月25日 今帰仁村玉城の字誌の資料
・6月26日 今帰仁村玉城の字誌づくり
・6月27日 名桜大学の講座。「山原の碑文記―碑文に学ぶ歴史・文化・人物―」(本部編編)
・6月28日 梅雨明けの今帰仁グスク
・6月29日 たんぼの稲刈
・6月30日 ハル石(印部石)の整理
【2009年7月の動き】(平成21年)
・7月1日 今帰仁村の原石(印部石)の一つ
・7月3日 諸志 内法規則」(消防団)(1951年)と「諸取締規則」の紹介(字誌)
・7月4日 原石(印部土手石)の調査データの提出
・7月7日 国頭村伊地の「遠見番所」
・7月9日 「原石踏査」のメモのはいた画像
・7月10日 兼次小4年生の総合学習(野外で)
・7月11日 「ムラ・シマ講座」(運天)
・7月13日 フェリーからみた遠見火立所(西海岸)
・7月14日 留守中、志慶真ニシキ(お米)が届く
・7月15日 「北山の歴史」(総合学習)のスタート/沖永良部島の地名町の村々を踏査の整理
・7月16日 今帰仁村仲宗根の「人間総合学講座」なり
・7月18日 今泊の生徒三人が
・7月22日 「国税ノ賦課徴収方法」(土地に賦課する租税)(明治期)
・7月23日 「与論島と琉球(北山)」の原稿を書きあげる/今帰仁に残された原石(印部石)と
平敷村略図
・7月25日 企画展の準備にはる
・7月27日 6年生の「第一監守時代」のメンバー
・7月28日 仲尾次の豊年祭/与那嶺・諸志の豊年祭グループ
・7月29日 「宿道」(スクミチ)を通して歴史を描く
・7月30日 名護市仲尾は羽地間切/村制時代(戦前)
・7月31日 5年生の総合学習 棒術と豊年祭/「のがれ島の碑」
【2009年8月の動き】(平成21年)
・8月1日 今帰仁グスクの後方にあった志慶真村跡地
・8月3日 第二監守時代(前期)グループ(6年生)(総合学習)
・8月4日 「間切時代」(前期)(6年)/「間切時代」(後期)(6年)(総合学習)/
今泊の豊年祭(5年)
・8月5日 大北(ウーニシ)墓のあったウツリタマヒの墓地跡
・8月7日 今帰仁村・親泊村・志慶真村も移動集落/移動村が故地に遺していったもの
・8月10日 沖永良部島(知名町上平川と正名)のメンバーが来館/初任者研修
・8月11日 今帰仁村の古墓群の二ヶ所(大井川沿いと運天港付近)
・8月12日 テレビ番組や新聞社などの取材(古墓)
・8月13日 古宇利島でカミサガイ(神下り)の調査
・8月14日 古宇利島のユーニゲーの調査
・8月15日 古宇利島のサーザーウェー調査(1日目)
・8月16日 古宇利島でサーザーウェーとピロシーの調査(2日目)
・8月17日 「北谷ナーチラー」と「志慶真乙樽」グループの講座(4年生)
・8月18日 笹森儀助の『南嶋探験』(明治26年)の記録
・8月19日 運天の崖中腹の墓
・8月20日 学芸員実習が始まる。展示物の整理と模様替え。
・8月24日 古宇利小学校の職員の校内研修。学芸員実習生も参加
・8月25日 新城徳祐氏の資料の拓本の展示
・8月26日 山原の祭祀や神人や神アサギなどの展示作業
・8月27日 総合学習のグループと学芸員実習
・8月28日 新城氏の拓本や辞令書関係資料の場所と展示が変わる
・8月30日 新城徳祐氏の調査記録ノートを開く
・8月31日 新城徳祐資料の中に「毛姓先祖由来伝」の接写
【2009年9月の動き】(平成21年)
・9月2日 墓調査や建物などの調査、芸能関係の展示/【毛姓先祖由来記】(5~8
・9月3日 旧盆のウークイ(お送り)の日/【毛姓先祖由来記】(9~12)
・9月4日 徳祐資料のノートにはグスク、年中祭祀、芸能など調査メモ
・9月5日 山田城跡に「護佐丸祖先墓碑」/【毛姓先祖由来記】(13~16)
・9月7日 本部町具志堅】(ウーニフジ )調査/具志堅の拝殿内の香炉(三基)
・9月9日 具志堅のお宮(グシク)からの眺望・・・/本部町具志堅のウフユミ(大折目)調査
・9月10日 具志堅のトントトトンの調査(予定)
・9月11日 具志堅の祭祀の流れは・・・
・9月12日 「ムラ・シマ講座」は名護市仲尾
・9月13日 具志堅の祭祀調査をする
・9月14日 古宇利島のウンジャミグヮーの調査
・9月15日 古宇利島のウンジャミと天底のワラビミチの調査。
・9月16日 古宇利島の豊年祭調査/【毛姓先祖由来記】(⑰~⑳)
・9月18日 【毛姓先祖由来記】(21~24)
・9月19日 今帰仁村の越地と本部町浜元、そして同町瀬底のトゥーティンクー(土帝君)を案内
・9月25日 21日~24日まで、北陸へ。石川県・立山黒部アルペンルート・黒部渓谷・金沢
(兼六園・金沢城・東茶屋)、白川郷(荻町合掌集落)、白山、能登半島(和倉
温泉・輪島など)。
・9月26日 近世に分村した稲嶺村(分村→合併→分村か)
・9月28日 古宇利島のミチュンウガミ調査
・9月29日 今帰仁村玉城の字誌スタート。玉城は岸本・寒水・玉城の合併村
・9月30日 久し振りに企画展の作業に手をかける
【2009年10月の動き】(平成21年)
・10月1日 毛姓先祖由来記】(25~28)/その他
・10月2日 川小学校の4年生がやってきた
・10月3日 古琉球の辞令書に「・・・まきり」(間切)は登場するが・・・
・10月4日 今帰仁村諸志の「豊年祭」の調査
・10月5日 「古琉球のムラ・シマの成り立ち」のレジュメ/【毛姓先祖由来記】(29~32)
・10月6日 今帰仁村中央部の大折目(玉城ノロ管轄の祭祀)/【毛姓先祖由来記】(33~36)
・10月7日 「古琉球のムラの成り立ち」の講演(名護博物館)。
・10月8日 「ムラ・シマ講座」の予備調査で諸志をゆく
・10月10日 11日から13日まで出張なり(八重山)/「ムラ・シマ講座」は今帰仁村諸志
・10月14日 沖縄県博物館協議会の研修会が八重山で開催(参加)
・10月15日 企画展(新城徳祐資料―昭和30年から40年代の調査資料)の開催
・10月17日 「北山の歴史と文化」の研修会(沖縄の教育を語る会)/【毛姓先祖由来記】(37~40)
・10月19日 「うらおそい歴史ガイド友の会」のメンバーが今帰仁グスクと歴史文化センターへ
・10月22日 24日25日は「今帰仁村の文化祭」(絵画・書・写真・木工・陶芸)
・10月23日 【毛姓先祖由来記】(41~44)
・10月24日 今帰仁村の文化祭
・10月25日 26日~30日まで奄美大島、喜界島、沖永良部島調査
【2009年11月の動き】(平成21年)
・11月1日 奄美大島(名瀬、瀬戸内町、宇検村)、喜界島、沖永良部島報告/今帰仁村
今泊のフプウガン調査
・11月3日 奄美大島の宇検村名柄の「古琉球の辞令書」
・11月5日 兼次小3年 今泊グループ/【毛姓先祖由来記】(49~52)
・11月6日 兼次小3年 兼次グループの学習
・11月7日 「ムラ・シマ講座」で今帰仁村崎山をゆく/【毛姓先祖由来記】(53~56)
・11月9日 兼次小3年生の兼次グループの学習
・11月10日 「恩納村の歴史」について/毛姓先祖由来記】(57~60)(おわり)
・11月11日 『琉球国旧記』(1731年)の恩納郡(間切)に「江」と「港」
・11月14日 「ムラ・シマ講座」は今帰仁村崎山
・11月16日 恩納村の名嘉真村は金武間切からの村
・11月17日 恩納村安富祖(金武間切からの村)
・11月18日 古宇利島のプーチウガン調査
・11月20日 兼次小学校3年生の諸志グループ
・11月21日~23日まで関西ゆき
・11月24日 瀬良垣は金武間切から恩納間切へ
・11月25日 兵庫県室津までゆく
・11月26日 宇利島のタキヌウガン調査/今帰仁小4年生1組(22名)の学習
・11月27日 今帰仁小4年生(2組:21名)の授業
・11月28日 「北山の歴史と文化」で講演(一般向)
・11月30日 恩納村の読谷山間切から分離した谷茶・冨着・前兼久・仲泊・山田までゆく
【2009年12月の動き】(平成21年)
・12月1日 与那嶺と仲尾次の総合学習(3年生)
・12月2日 今帰仁村上運天をゆく(ウタキ内に神アサギ・お宮・イベ・掟火神の祠・根神
火神の祠など)(ウタキ内に集落跡ありの例)
・12月3日 読谷山間切からの村をゆく
・12月4日 今帰仁グスクまであがる(北山の歴史と文化」の講演前
・12月7日 「首里王府から山原への道」/大宜味間切の創設(1673年)から見えるもの
・12月8日 高等学校の初任者研修
・12月11日 福岡県行き(NHK福岡放送局・博多・国立九州歴史博物館・福岡城など)
・12月14日 国頭村比地、今帰仁村玉城、それから恩納村のこと
・12月15日 「今帰仁村玉城誌」の編集委員会(もくじ構成)
・12月16日 国頭村比地の海神祭などの確認
・12月18日 兼次小学校4年生(17名)の今帰仁グスクで発表(総合学習)
・12月19日 間切の地頭代名の変更
・12月20日 古宇利島を学ぼう」(名護・やんばる講座)で古宇利島へ
・12月21日 国頭村比地の公民館に立ち寄る
・12月22日 「国頭村比地の見どころ」(講演)
・12月24日 今帰仁村玉城の「たなはら御嶽」とウプユミ(ウプユミ最後の亥の日)
・12月25日 今帰仁間切寒水村
・12月26日 縄県国頭郡恩納村(大正8年)の調書
2009年12月26日(土)
以下の資料は大正八年十月十日 沖縄県国頭郡恩納村役場㊞があり、「居住地(字)、字に属する部落名、戸数、人口、備考」、そして「道路、山川、原野、海湾、湖池、社寺、名勝、旧蹟、瀑布、岩石及び樹木j等ノ名勝」が調書項目となっている。明治・大正・昭和(戦前・戦後)をつなぐ貴重なデータである。ちょうど、その年『沖縄県国頭郡志』(大正8年4月発行)されているが、人口などは『国頭郡志』とは別の資料が使われている。
【沖縄県国頭郡恩納村内註記調書】(大正8年)
道路・・・国頭街道 県道ニシテ本村各字ヲ貫通ス
山脈・・・東方名護岳ヨリ蜓蛇屈起シ本村ノ背部ヲ貫通シテ中頭郡境ニ連亘ス
山岳・・・恩納岳 字恩納ノ東、南ニ聳ユ/名嘉真岳 字名嘉真ノ東ニ屹立ス/山田岳 字山田ノ東南ニ屹立ス
河川・・・名嘉真ヤーシ川 源ヲ名護境界ノ山中ヲ発シ海岸ニ流出ス/比謝川 源ヲ大川山ノ山中ヲ発シ印部ヲ経テ海ニ流
出ス/前袋川 源ヲシカベ山ヲ発シ字ノ中央ヲ経テ船碇繋場ニ流出ス/安冨祖前袋川 源ヲ大河山ヲ発シ安冨祖
港ニ流出ス/恩納新川 源ヲ目座山ヲ発シ米島原及伊場原ヲ経テ海ニ流出ス/谷茶後川 石高バンタ及ウテンダ
ノ両面ヨリ発シ福地原ヲ経テ字ノ東南ヲ通過シテ海ニ流出ス/仲泊元島川 源ヲ中頭美里界ノナギチヨ山ヨリ発シ
蜓蛇西下シテ海ニ流出ス/外川 源ヲ岳下山ヨリ発シ此屋根ヲ経テ海ニ出ス/山田東リ川 源ヲな名幸原ヨリ発シ
久良波海ニ流出ス/西リ川 源ヲ山田城辻メヨー山ヨリ発シ久良波海ニ入ル/寺川 源ヲ山田ボツコ山及中頭郡読
谷山村字ウヤシノ両面ヨリ流レ字真栄田塩屋ノ境界ヲ通過シテ海ニ流出ス/真栄田ビール川 源ヲ宇堂山ヨリ発シ
冨里原ビール原ノ間ヲヘテ海ニ入ル
岬角・・・恩納崎 字恩納ノ北ニアリ/真栄田岬 字真栄田ノ北ニアリ
名勝旧蹟・・・万座毛 字恩納ノ西北海岸珊礁ノ上ニアリ曽テ尚敬王巡視ノ際万人ヲ座セシメ尚ホ余地アリシヲ以テ此ノ名ヲ
称セリト
山田城跡 字山田ノ東南ニアリ護佐丸盛春氏ノ父山田按司ノ居城タリ琉球尚巴志北山ヲ平ケタル後事変ヲ慮リ
按司ヲシ防守セシムル為メ築城セリト
比屋根坂 字仲泊ノ南ニアリ慶長ノ役ニ薩摩軍ト琉球軍ト激戦セシ古戦場ニシテ今ニ人骨累々タリ
イン瀧 字安冨祖ノ南方ニアリ高サニ丈余水量少ケレドモ水煙飛散シ夏尚寒ヲ覚ユ
大 字 |
大字ニ属スル |
戸 数 |
戸数 |
人口 |
人口 |
真栄田 |
真栄田 |
27 |
106 |
272 |
754 |
山 田 |
寺 原 |
34 |
113 |
220 |
700 |
仲 泊 |
名幸原 |
5 |
117 |
39 |
604 |
前兼久 |
|
|
72 |
353 |
353 |
冨 着 |
|
|
49 |
234 |
234 |
谷 茶 |
|
|
88 |
466 |
466 |
恩 納 |
屋嘉田 |
44 |
253 |
245 |
1333 |
瀬良垣 |
太田原 |
22 |
68 |
132 |
416 |
安冨祖 |
上 原 |
32 |
171 |
154 |
1033 |
名嘉真 |
伊武部 |
13 |
125 |
83 |
643 |
2009年12月25日(金)
【今帰仁間切寒水村】
寒水は現在の今帰仁村玉城の一部である。玉城は明治36年に玉城村・岸本村・寒水村が統合したものである。その痕跡として現在でも玉城の神アサギ、岸本の神アサギ、寒水の神アサギがある。明治13年(統計慨表)の三ヵ村の戸数・人口は以下の通りである。明治36年に合併した当時の玉城村は戸数123、人口の計640人である。三つの村は小規模の村である。現在の玉城は①寒水原 ②ソーリ川原 ③岸本原 ④ウチ原 ⑤古島原 ⑥外間原 ⑦東アザナ原 ⑧西アザナ原からなる。寒水の集落は寒水原に位置する。
・寒水村 13戸(男:42人 女:26人 計68人)
・岸本村 29戸(男:89人、女:80人 計169人)
・玉城村 35戸(男:69人 女:65人 計134人)
寒水はパーマと呼ばれ、浜からきた地名か。かつては寒水にマチが発達していたが、仲宗根に移動したため、そこはフルマチと呼ばれる。寒水村は『琉球国由来記』(1713年)から登場する村で岸本ノロの管轄の村である。それ以前の史料には出てこない。寒水村は1862年に移動が許された村である。地理師に風水を見せたら「寒水村を看るに、其の右辺に石砂の流去する有りて、屏範の美を失ふ。其の前面の左右に山峰の高く聳ゆる有りて、既に蛸風を受け、復、流水を受く。而して全面に山有るは、此れ皆地理雅ならず」と判断される。それで寒水村だけでなく三ヵ村の移動が許されている。
(下の画像はすべて1970年に普天間高等学校郷土研究クラブの玉城部落調査のものです。撮影された町田宗博氏(現在琉球大学教授)の提供です(歴史文化センター)。玉城の字誌の編集にはいており、調査の手がかりにしています。また、随所に画像を入れていく予定です。字の方々もびっくり! 感謝です)(画像は普天間高校民俗クラブ提供:町田氏)
▲寒水村の移動前の故地か ▲アコウの木の方に香炉がありイベか
▲スムチナ御嶽から眺めた玉城の全域 ▲寒水村の獅子(獅子頭)
▲今では亡くなった寒水村のウタキ ▲ウタキのイベ
2009年12月24日(木)
今帰仁村玉城の「たなはら御嶽」。ウプユミ(ウプユミ最後の亥の日)の翌日にタナバルウユミと呼ばれる祭祀が行われる。タナバル御嶽の前の広場(タナバルモー)に玉城村(ムラ)の方々が集まり、ヌル・根神・ウチガミ・ウペーフなどが各所のウガンが終わって、太鼓をたたきながらタナハラ御嶽に案内する。神人がやってくると、神人やシマの人々が全員でウガンをする。そこにはウシデーク、シグの所作があった。
旧暦8月10日のカミンチュウガミの時、神人と平良一門が玉城ヌルドゥンチにあるミヤー(庭)で「たなばる御嶽」に向かって遥拝する。「たなはら御嶽」は玉城村(玉城は玉城・岸本・寒水の三か村の合併。たなはら御嶽は合併前の村)のウタキのイベではないか。ただし、【沖縄島諸島祭祝女類表】(明治17年頃)には「たなはら御嶽」は出てこない。宮城真治ノートには棚原折目として登場する。(棚原ウタキのもとの場所確認)
【沖縄島諸島祭祝女類表】(明治17年頃)
玉城村の拝所(五ヵ所:玉城ノロ)
・ノロ火神 ・内神火神 ・島の大屋子火神 ・神アシアゲ ・百々喜名嶽
岸本村の拝所(三ヶ所:岸本ノロ)
・ノロコモイ火神 ・島の大屋子火神 ・神アシアゲ
寒水村の拝所(三ヶ所:岸本ノロ)
・根神火神 ・ウフンジャ嶽(大井川御嶽か)
【宮城真治ノ-ト】(大正13年調査)
大折目の翌日、棚原折目、或は棚原遊びといふ。
二ヶ字(玉城・岸本か)の神職、ミハナ、ウグシーは字から提供。
字の人は、ウシデーク(手ウチ遊び)、ウムイ。他の村踊りに相当するか。
【玉城村の祭祀】(旧暦)
・二月十五日(ウマチー)
・三月十五日(ウチマチ)
・四月十五日(タキヌウガン)
・五月十五日(ウマチー)
・六月十五日(ウチウマチー)
・六月二十五日(メーメーマチ)
・七月最後の亥の日(ウプユミ)
・ウプユミの翌日(タナバルウユミ)
・八月十日(カミンチュウガミ)
・九月七日(ミヤーヌウガン)
・十一月十五日(ウンネー)
▲「たなはら御嶽」は移設したときの記念碑 ▲たなはら御嶽からみた玉城ノロドゥンチのある杜
▲寒水のソーリガー ▲寒水組のウプガー
【国頭村比地】
2009年12月22日(火)
(国頭村比地のことで、頭の中は飽和状態なり。さて、どんな内容の話となるか! 今年、最後の講演となるか。6時30分から。頭から追い出してすっきりしたいもんだ!)
2009年12月21日(月)
明日は「国頭村比地の見どころ」をテーマに語ることに。これから比地へ頭の切り替え。ノートを探し出すより現場に足を運んだ方が早いか!(寒いですね)
比地の公民館に立ち寄ると、下の写真を公民館で入手してあった。米軍の撮影だという。昭和40年代?かと思われる。撮影場所に近いところから撮影したのがあるので対比してみる。区長さんから、写真の場面について、いろいろと伺うことがことができた。
比地大川が蛇行していたこと。川の左岸側の斜面は段々畑であったこと。山の斜面の崩壊跡は台風時の大雨の爪痕。小玉森に瓦ぶきの家があり、現在印部石やガジマルのある後方に土手があり、そこにも段々畑が見られる。
比地大川と奥間川沿いはターブックヮ(田圃地帯:フォーチブック・アーバングック・クラヌメー・メーブック)である。その写真を手掛かりに比地のことについて教えてもらうことに。この写真を話の導入にすることに。有り難いものです。
▲国頭村比地の様子(公民館所蔵写真) ▲比地の小玉森付近と集落(同写真)
▲奥間の奥間グスク付近から(平成21年1月) ▲比地の集落付近(平成21年1月)
2009年12月20日(日)
「古宇利島を学ぼう」(名護・やんばる講座)で古宇利島へ。島の概要や動きを語らすのには、やはり島の古宇利島の小浜区長さん。今年島の祭祀調査をしてきた玉城菜美路(歴文)に「プーチウガン」の解説。そして島出身の玉城夕貴さん(歴文運営委員)に、海神祭(ウンジャミ)の流れを踏査しながら説明してもらう。若者たちが、現場を踏査し調査してきたものをベースにして紹介する。そういう舞台を設けてみた(なかなかの成長ぶり。一とつひとつバトンタッチしていきましょう)。
歴史文化センターでは、博物館活動の目線や展示の見方(常設展示は20年変わりません。変わるのべきは一人ひとりです。それは本人の成長でもあります」と。最後まで同行できなかったので、参加者の声は聞くことができず残念。島の方からモーイとチンビー?の差し入れがありました(昼食時おいしくいただきました)。参加者はじめ、企画された名護博物館のみなさん御苦労さんでした。
▲古宇利島のことを語らしたら島の区長さん ▲「プーチウガン」の説明は玉城菜美路さん
▲「海神祭(ウンジャミ)」の説明は玉城夕貴さん▲30人余の参加者。島出身の方の姿も!
2009年12月19日(土)
【間切の地頭代名の変更】
『琉球国由来記』(1713年)と『琉球国旧記』(1713年)に各間切の地頭代が記されている。その時の地頭代は「・・・大屋子」である。18世紀中ごろになると、大屋子から「・・・親雲上」となり、今帰仁間切や羽地間切・大宜味間切・恩納間切で地頭代の村名の変更がある。時期を同じくしての変更であれば、王府の大きな行政の改革があったのではないか(43の間切・島の内、変更のあったのは23である)。その出来事を記す史料があるのではないか。
今帰仁間切などの例を示すと、『琉球国由来記』と『琉球国旧記』の時の地頭代は「湧川大屋子」である。その時、湧川村はまだなかった。湧川村の創設は1738年である。その時、地頭代の湧川をとって村名にし、地頭代のかかえ村は古宇利村に変更し、地頭代を古宇利親雲上にした可能性がある。羽地間切も1700年代に親川村の創設があり、地頭代親川親雲上(1735年)がが出てくるのはうなづける。その後川上親雲上に変わっている。新村の創設が理由の一つになりどうであるが、恩納間切の場合は、『琉九国由来記』(1713年)で谷茶村と前兼久村はすでにあるので、別の理由があったのであろう。変更のあった23の間切・島についてみる必要がありそうだ。村名がないのは、脇地頭が地頭代を勤めた間切なのか。
【琉球国由来記・旧記】の地頭代の村名と以後の名称
【間切名】 【由来記・旧記】
①今帰仁間切 湧川大屋子 古宇利親雲上
②本部間切 健堅大屋子 (健堅親雲上:村名は変わらず)
③羽地間切 嵩川大屋子 親川親雲上(1735年)・川上親雲上
④大宜味間切 前田大屋子 山川親雲上(道光20年:
⑤国頭間切 辺野喜大屋子 (辺野喜親雲上:村名は変わらず)
⑥久志間切 大浦大子 (大浦親雲上:村名は変わらず)
⑦名護間切 東江大屋子 (東江親雲上:東江村はない、同村は名護村))
⑧金武間切 安次富大屋子 (安次富親雲上:安冨次村はなし。同村は金武村)
⑨恩納間切 谷茶大屋子 前兼久親雲上(1763年)
2009年12月18日(金)
午前中、兼次小学校4年生(17名)の授業。「今帰仁グスクにまつわる伝承」(四題)を歴史文化センターで確認。発表の仕方やねらいを何点か工夫を。今帰仁グスクでもやりたいとの希望でグスクへ。
今回はグスクでの発表の方法を変えてみた。グループをまとめて前に出していたが、発表者一人のみ前にでての形をとってみた。みごとな発表となった。担任の先生も涙させていました。「今帰仁グスクの亡霊も見に来ていますよ。周辺の石がそれですよ」「へ~」との声。グスクの石積みをバックに。
▲「北谷菜切」グループ゚の発表(館内) ▲「志慶真乙樽」グループ(館内)
▲「北山騒動」グループ(館内) ▲「名刀千代金丸」グループ(館内)
▲グスクの城壁をバックに大きな声での発表!
2009年12月17日(木)
午前中、天底小学校の4年生(26名)の授業。26の道具を使って、一人ひとりが先生なり。自分が分担した道具の名前、使い方、なんでできているのかを絵と文章で、言葉を発して伝えることまで。26の道具が一気にクラスの話題となりました。斧・カーミ・千歯・ムイジョウキー・臼・・・神アサギなど。26の道具をスターにしてくれました。
▲はて、さて、今日は何をするんだろう? ▲館長のおじい、おばあになろう!が、わかってきたぞ!
▲ランプの発表です。よく聞いてね!▲20余りの道具、道具と顔がつながっているかな?
2009年12月16日(水)
22日に国頭村比地で講演をすることになっている。しばらく比地から遠ざかっているので。国頭村比地について報告してあるので、少し補充しての報告にする。届いた演題が「比地の見どころ」となっているので、その視点で。比地の100の質問を出してあるので、それに答える形で話をすることに。まずは、比地について思い出すことから。
比地の小玉杜(ウタキ)に旧集落を絵にさせたことがある(学芸員実習)。そのような森の斜面に集落を形成している姿は古琉球の時代まで遡るのではないかと想定している。この比地は森の斜面に昭和30年代まで集落があり、またその痕跡(屋敷跡)を今でも見ることができる。また、ウタキと呼ばれる森に集落、神アサギ、ウタキのイベなどがあり、集落をなす源初的な形態を今に伝えているものと見ている。その集落形態は、前回の「ムラ・シマ講座」で行った今帰仁村上運天と類似している(詳細については略)。
今日は国頭村比地の海神祭の様子を紹介することに。下の画像は平成10年と12年の調査である。小玉杜に神アサギ、旧家、民家、一門一門のイベがあり、集落の源初的な状態にある。海神祭と呼ばれている祭祀の名称は本質をついた名称ではないことに気づかされる。つまり海神のみではなく、山・海・農耕・人々の健康・ムラの穢れを海に流してしまうなどの要素が部署部署に見られ、海神祭はその一部にすぎないことに気づかされ、名称が必ずしも本質をついていない場合があり、名称の語義で祭祀の本質をいいあてようとすることは注意を要する。そのことを教えてもらった場所である。
配膳された供え物は山のもの(ミカン。シトギ)・猪(ヤマシシ・足)・川の物(エビ・ガサミ・タナガー・ターイユ)・海の物・田畑の物(餅・お神酒)などが供えられている。比地の神アサギから、奥間ノロ家の庭(神アサギあり)、そこからさらに鏡地の海へ行く。そこでは持ってきたものを流すが、それはニライカナイというより、村の不浄なものを海に流してしまう要素が強い。
もう一つは、ウタキの中に数ヶ所の一門一門のイベがあり、各一門から神人をだし、一門から出した神人のもとへ供え物を持参している。比地のムラは数個の一門からなり、それぞれから神人を出し、一人、あるいは二人、大きな一門からは三人などの神人だしている。それは行政ムラが成立以前のマキ・マキヨクラスの集団を行政村にまとめたことがわかる。
そのように、比地の集落のあるウタキ内での祭祀や斜面の集落跡、そして数ヶ所のイベから、古琉球の集落形態を今に継承されているとみている。そのような視点で見ていくと、見どころのある村(ムラ・シマ)である。
▲比地の小玉杜(ウタキ)の集落跡や神アサギやイベなど(俯瞰図) ▲小玉杜(ウタキ)内にある神アサギ
▲杜(ウタキ)内にある旧家跡の火神と位牌 ▲供え物(山・海・農耕・川などのもの)
▲弓で猪を射る場面 ▲猪をみたてた鼠を猪肉 ▲奥間ノロ家の庭でのノロさん
▲鏡地の海岸で(流れ庭) ▲ムラや人々の不浄や穢れを流す場面(流し:ニライカナイ?)
【琉球国由来記】(1713年)に登場する比地村
・幸地嶽
・小玉森(アマオレノ御イベ)
・キンナ嶽(中森ノ御イベ)
・神アシアゲ(伊地地頭・比地村百姓・辺野喜大屋子・南風掟・西掟)
・比地の神アシアゲでの祭祀に辺野喜大屋子(地頭代)が参加する。
【奥間のろの海神祭】
2009年12月15日(火)
「今帰仁村玉城誌」の編集委員会。今回は「もくじ」構成の案の検討(22編)。もくじの細目の説明。細目の説明の途中途中で、委員の方々から、収録すべき内容の話が聞くことができた。「それが字誌にはいる中身の話ですよ」と。特に玉城は明治36年に合併した村(字:アザ)である。そのことが字の特徴に繋がっている。まだ、スタートしたばかり。
資料の提供と話の引き出しのお手伝いはする。ここに細目は掲げないが、興味深い項目がいくつもみられる。「戦争と玉城」のところでは、友軍と米兵との狭間を体験された話。それは記録に残してほしいとの思いもあって一気に話された。早速、活字におこすことに。
「もくじ」(案)
・第一編 玉城の概況
・第二編 玉城の歴史(玉城・岸本・寒水の三つの村)
・第三編 三ヵ村の人口の推移
・第四編 玉城の行政
・第五編 玉城の各種団体
・第六編 玉城の人物
・第七編 戦前・戦後の戸籍制度
・第八編 玉城の名所旧跡
・第九編 玉城の小地名
・第十編 産 業
・第十一編 交 通
・第十二編 教 育
・第十三編 医療・保健衛生
・第十四編 風俗・習慣
・第十五編 神行事(祭祀)
・第十六編 寒水の豊年祭
・第十七編 玉城の移民
・第十八編 玉城と戦争
・第十九編 玉城の伝承
・第二十編 玉城の方言
・第二一編 玉城と関わるウタ
・第二二編 玉城関係資料
▲「玉城誌」の編集委員会(公民館)
▲玉城の神アサギ(昭和43年頃) ▲玉城の神アサギでのウプユミ(昭和43年頃)
(神アサギ画像は普天間高校民俗調査記録提供:町田氏)
2009年12月14日(月)
とうとう土曜日の午後ダウン! 一晩休んだら頭も回復。さてと。
国頭村比地、今帰仁村玉城、それから恩納村のこと。恩納村の真栄田と塩屋と比留は昨日廻ってみたので、整理してみることに。
(工事中)
ヒカンサクラがほんの数輪咲いていました。全体はまだまだ。これから日々、開花していくでしょう。真上を見て歩いたので、首がこっています。
▲今帰仁グスクへの上り口 ▲三ヶ所に桜の花が咲き出しました!
2009年12月11日(金)
福岡県にゆく機会があった。目的はNHKテレビ出演であったが、その前後に博多から太宰府、九州国立博物館、福岡城跡。二日目、番組終了後無意識に志賀島に向かっていた。志賀島に向かっていたのは、飛行機が福岡空港へ侵入していくとき機内から見えた島である。それと、九州国立博物でみた志賀島出土の金印が脳裏にあったからなのかもしれない(電車は西戸崎までしかなく、志賀島の手前まで)。
「博多は中世の日本最大の貿易都市」と言われているようで、そのことも頭の隅にあったのであろう。福岡空港に降り立つと、向かったのは太宰府跡である。博多、しかと見たいと。
(疲れ気味か。今日、一日古宇利島と大宜味のことがあり、頭がいっぱい。昨日までのことが
整理つかず。明日はムラ・シマ講座がある。ちょっと待った!待った! 頭を休めないと。
アキサミヨー)
2009年12月8日(火)
(9日、10日は福岡ですので、このページは休みです)
午前中、高校の先生方の初任者研修。指導者としてのスタンスでの話。かつて近くの高校の授業を持っていたこともあり、その経験を踏まえ、また「ムラ・シマ講座」や総合学習、あるいは大学生達への指導など。「歴史文化センター」の講座は「人間学」です。自分ながらそんな思い!
初任研から、ガイドさんの様子、今帰仁グスクの石垣、今帰仁グスクからみた海、桜の状況などなど。福岡行きに備えて駆け足の一日なり。(福岡行きに備えて!引き受けなければよかったのに。後の祭り。墓穴だけは掘らないように。ポカが多いので)
▲初任研のみなさんと(おつかれ) ▲ガイドさんの熱のこもった説明
▲今日の今帰仁グスク、いいですね。 ▲いつ頃の石? 質問あり!
2009年12月7日(月)
今週から来週にかけて、次々とつづく。小学校の学習もいくつかはいていたような。整理しておかないとスッポかしてしまいそう。最近ボケボケが続いているので注意! どれも抜けられませんね。
・沖縄市照屋と越来間切と越来按司真三郎金(今日)
・北山の歴史と今帰仁グスク(高校の初任研)(8日・火)
・福岡県(今帰仁城跡と桜と・・・/水・木)
・今帰仁村古宇利島(下調べ:やんばる講座、11日・金)
・大宜味村の歴史・文化(11日・金)
・今帰仁村上運天(ムラ・シマ講座、12日・土)
・ ?
・恩納村の歴史(村誌)(15日・火・午後)
・今帰仁村玉城誌(字誌)(15日・火・晩)
・天底小学校4年(17日・木)
・古宇利島(やんばる講座:20日・日)
・国頭村比地(講座:22日・火)
11日に開催される大宜味村の情報を少し取り出しておかないと・・・。山原の近世の道筋を彷彿させてくれる文面があるので、それをお借りして整理(思い出すことに)することに。
【首里王府から山原への道】
羽地から塩屋の旅は案外楽な旅であった。源河は源河川に沿う往還の要衝である。・・・塩屋の奥の田港は諸間切の廻船所で、那覇、泊、島々浦々の商人の行きかう港で山原の旅で一番にぎやかな港村であった。
(略)
瀬嵩は久志間切の番所で、ここから北は土地が険岨で往環が極めて不便であったので1687年には瀬嵩から羽地の真喜屋村へ山地を開鑿して西宿の道に連絡した。川田村から安波村に至る七里の間は山林がうち続き、殆ど人煙を見ず往来困難極めたところである。尚敬王の24年(1736)川田村から一部をさいて間に太鼓村を置いたことがあったが移住者が疫病でたおれる者が多く廃村となった。安田村から北の村々のうち楚洲は蔡温の山林巡検のとき創設された村で、ここから奥村へ二里、安田村まで二里、この間四里の山道は険峻で不便甚だしかった。
(略)
名護から首里に上るのに三日、名護から田港塩屋をすぎて辺戸村や奥村への旅はなお六日もかかった。乗馬さえ使わない庶民の旅路は決して楽なものではなかった。短い芭蕉着にメンダレ笠を被り蓑を打ちかけ貧しい粟の干飯を包んで日がな一日てくてく歩き、・・・(略)農民が首里親国への旅を思い切り行うのは生涯に一度あるかないかの有り様であった。
(『琉球農村社会史』饒平名浩太郎 97~98頁参照)
さて、上記のような状況の中にあった大宜味村をどのような視点で見ていけば「歴史文化」が描けるのか。これまで提唱してきた「北山文化」や「北山の歴史と文化」の骨格の一端を大宜味村を手掛かりに描くことができるのではないか。それは興味深い作業である。そんなことを夢想しながら・・・。
大宜味間切は1673年に1673年に創設された間切である。国頭間切から11ヶ村、羽地間切から2ヶ村で創設された。その多くが国頭間切からの村である。当初は田港間切と称し、同村は田港村、そこに番所が置かれたと見られる。ところが、田港間切から大宜味間切になる。その時大宜味間切の番所は大宜味村に設置されたと見られる。その後、さらに塩屋村に移動するが、間切の名称は大宜味間切のままである。田港(大宜味)間切の創設以後、1695年に屋嘉比・親田・見里の三ヵ村が国頭間切に移され、それと東海岸の川田村と平良村が一時期大宜味間切に移される。ところが1719年に屋嘉比・親田・見里の三ヵ村は再び大宜味間切に、川田村と平良村は久志間切の村へともどる。
大宜味間切は1673年に創設された間切である。それ以前はほとんどの村が国頭間切の村であった(津波村と平南村は羽地間切)。羽地間切からの二つの村と久志(名護)間切からの川田村と平良村は除く。すると大宜味間切を考えるとき、国頭地方の中心となった根謝銘(ウイ)グスクを中心となっていた時代に造られたものの痕跡がないだろうか。それと根謝銘(ウイ)グスクが国頭間切では大宜味間切の領域に組み込まれたことで、国頭按司(両惣地頭)の祭祀場を失ってしまった(そのことはどこかで)。
大宜味間切を考える場合、番所のあった村を押さえていく必要がありそう。番所があった村(行政の中心)に他の村は向っていくからである。田港村と大宜味村のウタキのイベに香炉が20基ほどあるのは、間切番所と無関係ではなかろう。それと根謝銘(ウイ)グスクにある惣地頭火神は大宜味按司?それとも国頭按司?
ペリーが塩屋湾の詳細な調査ができたわけは?石炭? それとも別の理由があったのだ!
▲田港(大宜味)間切同村のウタキのイベの祠 ▲祠の内部にある香炉(奉寄進)
▲大宜味間切番所が同村のウタキのイベ ▲大宜味間切の番所があった塩屋小
2009年12月5日(土)
【首里王府から今帰仁への道】(宿道)
北山の滅亡(1416年)、1429年の南山の滅亡で琉球国は統一国家となる。その後尚真(第二尚氏王統)になると各地の按司達を首里に集め、中央集権の制度を打ちたてたという。そのことで首里王府と各地との結び付きを強化していくことになる。地方と首里との人々の往来や物資の往来が多くなり、道路や那覇港の整備が必要となったのであろう。
十五世紀の末から十六世紀(1477~1526年)にかけて尚真王の治世になってから諸地方の按司たちを首里に集めて中央
集権の制をうち立てたため国内の交通路も一変した。道幅が広くなり役人の往還も繁く地方から農商人の往来もしげくな
って首里王府は急速な発展を遂げるようになった。即ち尚真は経済的基礎の上に自家独特の文化を創造し、石材建築、
神社、仏閣、絵画、彫刻、染色等を発達せしめ城下の園比屋武御嶽から竉潭にかけて大公園をつくり、地方出身の諸按
司の亭宅は城下にずらりと並び美しい都市美の景観をそなえるようになった。首里上りの田舎者が立並ぶ諸按司の亭宅
をうち眺めて地方の番所と見違えたのも無理のないことであった。・・・・(略)・・・政治上の諸制度が整って間切番所が置
かれるようになると番所がその地方の政治の中心となり、教化の中心となって、地方制度の整備が出来上がった。番所で
は首里政庁から発令された布達の逓送が重要な公務の一つであった。その布達は羽書と称し逓送往還の順路を宿道とい
った。(宿道の道幅は八尺、脇道は五尺)
宿道は首里に隣接する西原、浦添、真和志、南風原の四間切を起点として、それぞれ中頭、国頭、島尻に発せられた。東
海岸に沿うものを東宿、西海岸に沿うものを西宿と称し、島尻へ行く東廻りりを南風原宿といい、西廻りを真和志宿と称し
た。
中頭、国頭に行く往還路の内東廻りは、
首里から西原を出て宜野湾、越来、美里、金武、久志、羽地、大宜味、国頭
この街道から名護、今帰仁に行くには羽地から出て、本部へは名護から。
西廻りは首里から浦添を経て北谷、読谷山、恩納、名護、本部、今帰仁に通じ、・・・・
(『琉球農村社会史』饒平名浩太郎 95~96頁参照)
▲恩納村仲泊の比屋坂石畳道(宿道ルート?) ▲比屋根坂石畳道の説明板
▲恩納村仲泊にある「一里塚」の土手の一つ ▲「南天阿弥陀」?
2009年12月4日(金)
今帰仁グスクまであがってみた。「北山の歴史や文化」について話す機会があるが、そのほとんどが過去の話である。時々、その時代の記録があればと思うこと度々ある。ならば、今の今帰仁グスクの記録を将来に届ける意識や議論できる記録の仕方をしているかどうか。そんな思いをしながらグスクを回ってみた。「30年前、20年前、10年前、あるいは5年前にきたのだが・・・変わりましたね」との声。
北山の滅亡、あるいは薩摩軍の今帰仁グスクへの放火、監守一族の首里への引き上げの歴史的な変貌、そして明治、戦前、戦後と変貌してきた。ここ30年間の今帰仁グスクの変り様は、それ以上の変わりようだと思われる。歴史を辿っていると、いつもどう変わったとの変わり様の議論をしている。ならば、ここ30年間のグスクの変化(整備)がどうなのだとの比較した見せ方や説明が必要となってくる。
桜の花はまだ早いが木々の葉が落ち、グスクの城壁がよく見通せる。グスクの石積みを見るには、今の時期が一番。
2009年12月3日(木)
今帰仁グスクの桜は一月後だと思いますが、旅行者などからの問い合わせがあり桜開花モードにしていないと対応ができません。今年も「今帰仁グスクの桜の開花情報」を立ち上げました。宣伝マンも引受るハメに。桜に浸る余裕はないが、画像だけで。4年目の記録づくりになります。今年も大和の桜の常識と戦うことになるのか。沖縄のヒカンサクラの開花は真冬に向っています。ヒカンサクラの季語は?
⑦【恩納村仲泊】
仲泊の地は読谷山間切からの村である。『絵図郷村帳』(1646年頃)と『琉球国高究帳』(17世紀頃)には登場しない村である。仲泊村の登場は『琉球国由来記』(1713年)からである。それでも神アシアゲを持つ村ではなかった。同書で仲泊村が出てくるのは富着村のアフシマノ嶽の祭祀の時である。そこに「谷茶・仲泊・前兼久・富着、四ヵ村」と出てくる。冨着村の神アシアゲで、前述の四ヵ村の一つとして出てくる。そこでの祭祀は山田巫と四ヶ村の居神による祭祀である。
海中にはイノー地と呼ばれる人工による開鑿地がある。「イノー地は干潮でも船の出入りに事欠くことがないように造られたもので、この中に十二・三隻の山原船が碇泊することも見られた(『恩納村誌』)という。「イノー地は今でも潮がひいても舟が出入りできるよ」とおばあ達に声。今の「竜宮神」付近に陶土を集積するコージサモー(真積毛?)があったという。
(工事中)
▲恩納村仲泊の海岸
▲おばあ達からイノー地について伺う
▲恩納村仲泊のイノーの開削地 ▲海岸にある「竜宮神」
▲仲泊の集落内にあるアシビナー(遊び庭) ▲西海道筋にある一里塚の一つ(近くにもう一山)
▲国道をくぐり抜けたらカーがあった! ▲前の御嶽(メーヌウタキー)
2009年12月2日(水)
来週はいろいろ予定がはいているので午前中、「ムラ・シマ講座」の現場踏査。今帰仁村上運天に決定。集落の展開をしる手掛かりとなる村である。分離・集落移動・ウタキの内部に集落跡の痕跡・複数のウタキを持つムラである。などなど、なかなか面白い字(アザ)である。ムラの成り立つをみる。
・上運天のウタキ
・ウタキ内の拝所(ウタキのイベ・神アサギ・掟火神の祠・根家(ニーヤー)の火神の祠)
・二つのウタキ(上運天の嶽・ウケタ嶽)(島センコノロの管轄)
・お宮(昭和15年に建設)
・アナガーガー/アサトガー
・ウフェー
▲後方の杜がウタキ(上運天) ▲後方の杜がウキタのウタキ(浮田港付近)
▲ウタキ内にある神アサギ ▲ウタキ内のイベ
⑥【恩納村富着】
恩納村富着は1673年以前は読谷山間切の村の一つである。『絵図郷村帳』(1646年頃)に「読谷山間切 下ふづき村」と「読谷山間切 ふづき村」と出てくる。『琉球国高究帳』(17世紀)には「ふつき村」と登場する。『琉球国由来記』(1713年)以後は「恩納間切冨着村」である。
『琉球国由来記』(1713年)の富着村にアフシマノ嶽のウタキがあり、そこでの祭祀は山留、稲穂祭・稲穂大祭・年浴・柴指・ミヤタネ・竈廻がある。そこでの祭祀を取り仕切るのは前兼久根神である。谷茶村・仲泊・前兼久・富着の四ヵ村の百姓が関わる。読谷山間切からの村であるが神アシアゲがある。
富着村には神アシアゲがあり、そこでの祭祀に谷茶・仲泊・前兼久・富着の四ヵ村が関わり、稲穂大祭の時は山田ノロが関わるが、四ヵ村の居神の祭祀とある。神アシアゲでの祭祀は稲穂祭(山田ノロの祭祀)・稲穂大祭の時、山田ノロ、谷茶、仲泊、冨着・前兼久の四ヵ村の居神の祭祀である。冨着村の祭祀に山田ノロが関わり、他村とは異なっている。
冨着村は夫地頭の一人富着大屋子のあつかい村である。読谷山間切からの村である。
『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃?)の富着村には四人の神人(根神・居神・根人・バラノナデタラ神)がいて、拝所は神アサギ一ヶ所と東ノ御嶽がある。現在、地頭火神の祠があり、脇地頭火神と見られる。
『琉球藩雑記』(明治6年)に恩納間切12ヶ村とあり、富着村はその一つである。
▲冨着の神アサギ(現在) ▲富着の古島にある地頭火神の祠
▲神アサギの後ろの「上小」(旧家)の拝所 ▲地頭火神の隣にある「アガリ」(旧家)の跡
2009年12月1日(火)
午前中、兼次小3年生の総合学習。今帰仁村与那嶺と仲尾次。今日で一通りの報告終わる。二回、三回と報告してきたので、慣れてきたようだ。これからがスタート。その場所にいくと、言葉で説明できるような頭の構造をつくっていく。まずは、全体から。これから一つひとつ深めていく作業にはいる。ノートを見ると、自分たちで回るコースを絵がいている。案内をする予定のようだ。その場所で友達に報告してくれるといいですね。案内お願いします。
「ここは仲宗根政善先生の生まれた家の跡です。先生は言語学者で、大学の副学長をしたそうです。またひめゆり祈念資料館の館長も務めています。教え子を戦争で亡くしています。・・・・先生は、僕たちが使ってる方言は美しい言葉だともおっしゃっています。屋敷には建物の礎石や家畜小屋には石柱や囲いに使った切り石が残っています」。出身の仲宗根先生から、多くのことを学んでほしいですね。
これまでの、どの字(アザ)にも神ハサギがありました。どの字にもあることが歴史的に重要。今泊と諸志には二つの神アサギがありました。何故?
・今帰仁村与那嶺
①与那嶺の公民館
②仲宗根政善先生と産家
③公民館前の広場と大きな赤木
④与那嶺の神ハサギと豊年祭の舞台
⑤ユナンガーとヤシダガー
・今帰仁村仲尾次
①仲尾次の神ハサギ
②石橋
③井戸(チンジャ)
④泰山石厳當
⑤石切り場
⑥イジヌイヤーヤ(洞窟)
▲ユナンガーとヤシダガー(与那嶺) ▲仲尾次の石切り場(仲尾次)
▲志慶真乙樽殿内の報告(諸志) ▲諸志のウプガー(諸志)