今帰仁村の戦後60年の軌跡―企画展―(2008nen kaisai) トップ
近現代の歴史を描くことは非常に難しい印象を持つことが多い。同時に違和感を持つことが度々である。それは現在に近い単なる時間の短さではないような気がする。戦後60年の時間が、近世や古琉球の時代、それ以前のグスクの時代同様重みのある歴史として描くことができないだろうか。そういう思いもあって「戦後60年の軌跡」をテーマに企画展を開催した。戦後60年の軌跡を重みある歴史展示への挑戦でもある。
戦後60年の移り変わりを戦後資料や写真などで描くことにした。平成の時代に生きる私たちが、昭和(戦後)と平成の時代をどう描くことができるか。そして消え去っていくもの、継承し残してゆくべきものは何だろうか。さらに、100年先から昭和(戦後)・平成という時代をどう捉え議論されるか。特に沖縄では、戦後60年に生きた人々は裸足の時代から宇宙の時代を経験した人々である。そのような時代を経験した歴史・文化は過去になかった。戦後60年という時代をどう位置づけできるのか。この企画展で試みるものである。
①導入部
今帰仁村の各字が戦後60年でどのように変わってきたのか。そのことを歴史文化センターが所蔵している戦後資料から見ていく。また、19の字があるが、それぞれ個性を持っている。それは何故なのか。字別の個性はどこから生まれてくるものなのか。戦後資料のそのほとんどを展示し、そこから各字の個性や独自性を見出していくことを目的とする。
ここでは、19字の現在の様子、そして昭和42年の沖縄タイムスで紹介された「ふるさとの顔」(各字)の見出しは、当時の字の個性をよく言い表している。昭和45年頃の各字の特徴を「ふるさとの顔」の見出しを掲げてみる。
・今帰仁村―美しい蔡温松―伝説と松の多い由緒の村
・親 泊―コバテイシの大木―樹齢三百年の天然記念物
・兼 次―換地分合を促進―悪条件にいどむ
・諸 志―養鶏、村で最も盛ん―「なちぢんうかみ」の生地
・与那嶺―果樹栽培に力こぶ―ほとんど姿消す米づくり
・仲尾次―黄金森の一本松―自然崇拝の病魔よけ
・崎 山―野菜づくりが盛ん―ほとんど軍向け出荷
・平 敷―戦前は献穀田も―まだ不便多すぎる
・越 地―たばこ栽培が盛ん―育隣組活動活発
・謝 名―共進会で毎年一位―ことしで十連勝
・仲宗根―教育活動が活発―村でも大きな字
・玉 城―点灯待ちわぶ―しだいに有畜農業へ
・呉我山―パイン景気にわく―山地のほとんどがパイン畑
・湧 川―沖縄の塩の発祥地―豊富な水としおの伝説
・天 底―学事、農事を奨励―まだ四〇%はランプ生活
・勢理客―村で一番小さな字―七十三歳以上が一割も
・渡喜仁―白い煙、黒い煙―素朴で人情こまやか
・上運天―北部の貿易港―砂糖、パインを積み出す
・運 天―為朝上陸の場所―運を天にまかせ たどりつく
・古宇利―水のないのが悩み―男女の数もアンバランス
②貴重資料(展示ケース内)
戦後使われた村長、助役、収入役印をはじめ、様々な印。今帰仁グスクから「山北王之印」が出土してこないだろうかと期待するが、戦後の首長などの印は、100年200年経ったとき昭和、平成の首長などの印も山北王之印同様歴史的に重要な資料となるにちがいない。一筆限帳や名寄帳など。
③今帰仁村歴史文化センターの動き
歴史文化センターの準備室が発足したのは平成元年である。その後平成7年に歴史文化センターとして開館する。その足跡を、ここで確認してみる。これまで発刊してきた『なきじん研究』、あるいは企画展や特別展などを振り返り、歴史文化センターが目指していく方向性をさぐる糧にする。
【企画展】
・今帰仁のムラ・シマ(平成元年)【特別展】
・ホアキンの世界―ホセ・ホアキンの作陶展(平成7年)
・ワラビ細工―魅せられる作品・色・人(平成8年)
・嶋原徳七作陶展―土を焼く・アハンナ焼き(平成9年)
・かな文字の世界―かな・画・墨の重なり(平成10年)
・絵と木工の三人展―酒井亜人・鋭二・玻名城政隆の作品展(平成11年)
・不遇の画家―酒井亜人の作品展(平成12年)
・山城政子絵画展―時・こくの世界(平成12年)
・今帰仁のワラビ細工―伝統をつくる(平成12年)
・故郷への想い―彩墨画展(平成15年)
・4人展R(あ~る)(平成16年)
昭和25年頃から同36年までの11年間に撮影されたスライドや写真から子供達や集会に集まった人々を写真パネルで紹介する。5、6歳だった子供が、今では50歳を過ぎ60歳の年齢を重ねている。その方々がこの60年間歩んできた足跡を確認していく作業が、企画展の目的の一つでもある。
今帰仁村出身の島袋源一郎や霜田正次、平良新助や仲宗根政善などの人物は出版物で登場させる。そして『縣史』(地方人事調査会)から200名近い方々を登場させてみた。
昭和27年頃の写真である。それから50年余経った現在、どんな人生を歩んだのだろうか。戦後数年たった頃である。戦後間もない頃に生まれているので、生活が苦しいとか家が貧しいとか、大人とはちがい、当たり前の生活だったに違いない。また、時間がたつことで過去のことは昇華され、あるいは貧困な時代であったことに、今の自分のふがいなさを転化しているかもしれない。一人ひとりの50年を辿るのは胸が痛む。すでに他界された方、病に伏している方、現役で頑張っている方、もうこのムラには住んでいない方、移民をした方など様々である。一人ひとりの人生をたどることはできないが、これから将来の50年を見通せる手掛かりになれば幸いである。
⑤戦後の建物と物
戦後数年頃の村内の民家がどういうものだったのか。茅葺屋根で二棟の建物が一般的である。そこには数名の子供と両親、さらに祖父祖母が同居する時代があった。その時代に使われて道具類を展示する。
⑥今帰仁村役所
役所は戦後の復興の行政の要になった施設である。戦後いち早く村長を決め、学校の創設や配給物資、土地測量や戸籍簿などの編成が行われている。議会も開催され、残された戦後資料から役所が様々な問題解決にあたっている様子が伺える。
⑦戦後の生業と新聞スクラップ
戦後間もない頃、まだ電気やガスのない時代である。この頃の生業の中心は村内では農業である。戦後5代目の故松田村長が膨大な資料を残してくれた。この新聞スクラップもそうである。4期村長を務めた方である。戦後の今帰仁村を引っ張ってきた人物の一人である。
⑧写真資料
今回展示してある写真資料はメルビン・ハッキンス氏とクロイド氏、そして村出身の新城徳祐氏から寄贈いただいた写真資料である。そこから写真が生きた歴史資料であることに気づかされる。ここでは、見る側が読み込みできる写真が資料として価値あるものとして評価している。
⑨戦後の公文書などの文書資料(約5000点)
公文書は年度毎に綴られている。味気ない公文書と見ていたが、それが歴史を描く史料になることを実感させられる。100年200年先への贈り物になれば幸いである。
・呉我山の開墾予定地の件
・島内生産物の緊急集荷配給の件
・役場の資材拠出の件
・軍政府の配給の見通しや集荷配給の方法
・生産予想の調査
・戦後の村長、村議員選挙の件
・田井等高等学校の修築に関する件
・実業高等学校の敷地及び校舎に関する件
・役場落成に関する件
・電話架設に関する件
・慰安演劇に関する件
・役場落成式に関する件
・その他
⑩写真にみる今帰仁の戦後
12年間に写真を手掛かりに今帰仁を紹介してきた。ここでは戦後の写真を介してまとめ、文章を含めて展示してある。このシリーズは「広報なきじん」で紹介し、『なきじん研究―写真に見る今帰仁―』(第11号)に収録してある。
⑪稲作が行われていた風景
今帰仁村で稲作が姿を消したのは昭和40年代である。稲作が消えた理由は、まず昭和36年頃大型の精糖工場が操業したこと。それと昭和38年に大旱魃があり水田は畑にした。砂糖キビの値段がつき、本土では減反にはいったこともあり、砂糖キビから稲作に戻ることなく現在に至っている。稲作が消えたことで、旧暦で行われる祭祀と稲作の収穫までの流れが密接に関わっていた姿が見えなくなり、祭祀の衰退へとつながっていく。
塩田づくりは今帰仁村では昭和36年に姿を消す。塩づくりに使われた塩田跡が湧川の海岸に残っている。まだガスや電気が引かれていない時代は、炊きつけは薪である。山から薪をとり頭上に乗せて運んでいた時代があった。
各字は更に小字があり、小字は「・・・原」と記されことからハルナーと呼ばれたりする。戦争で戦前の土地台帳や名寄帳、それと図面を戦争で失ってしまった。昭和22年に図面を作成される。展示してあるのは、そのときの図面である。200枚余ある。
⑭行政文書類
行政文書綴りは故松田幸福村長時代に収集整理した資料である。分類整理された資料である。資料の整理・分類の重要さに気づかされる。
【戦後すぐの議事録】
昭和22年1月11日から同26年1月までの会議録がある。戦後復興の動きを読み取ることができる資料である。戦後すぐの記録として今泊と越地と渡喜仁に「議事録」が残っている。戦後の歴史を描くのに基本資料となるものである。
・呉我山の開墾予定地の件
・島内生産物の緊急集荷配給の件
・役場の資材拠出の件
・軍政府の配給の見通しや集荷配給の方法
・生産予想の調査
・戦後の村長、村議員選挙の件
・田井等高等学校の修築に関する件
・実業高等学校の敷地及び校舎に関する件
・役場落成に関する件
・電話架設に関する件
・慰安演劇に関する件
・役場落成式に関する件
・その他
⑮戦後の学校の様子
村内の今帰仁小学校は明治15年に創設される。今帰仁中学校は昭和23年の大井中等学校としてスタートし、同27年に今帰仁中学校と改称する。平成15年に村内の中学校は統合される。北山高等学校の設立は昭和23年である。創設当初の写真や教科書を展示する。
⑯消えゆく祭祀(海神祭、ウプユミなど)
戦後資料の中の字の予算書をみると、御願費というのがある。線香や神酒、米などを購入する予算である。祭祀も公の予算で行っているのである。神人たちが行う祭祀が公務というのはそこからきている。また祈りを聞いていると、五穀豊穣、豊漁願い、ムラの繁栄など、個人の祈りではなく、ムラという公に向けての言葉である。
戦後大きく変貌したのが祭祀である。変貌というより消滅の危機と言った方がよさそうである。特に今帰仁村での祭祀が消滅していくのは昭和30年代からである。祭祀の衰退は経済成長、そして稲作の消滅、さらには旧暦の廃止と時期を同じくしている。
戦後60年の今帰仁の主な出来事を拾ってみることにする。
【昭和20年】(1945年)
・10月下旬~11月にかけて村民は帰村する。
・松本吉英氏を村長に選任する。
【昭和21年】(1946年)
・仮役場を仲宗根に置く。
【昭和22年】(1947年)
・青年実業高等学校の開校式を仲原馬場で行う。
・村役所をくすのきで瓦葺にする。
【昭和23年】(1948年)
・市町村長選挙が行われる。
・大井中等学校として設立許可される。
・通貨交換実施(B軍票を使用)
・大井中等学校の開校式(今帰仁小で行われる)
・六・三・三制度を実施する。
・本土から教科書入荷、小中学校で使用する。
・北山高等学校が創立する。
【昭和24年】(1949年)
・大井中第一回卒業式、今帰仁小で行われる。
・本土からの沖縄への旅券発行開始する。
・大井中の入学式天底小で行われる。
・大井中の敷地旧製糖工場跡地に決定する。
・米国留学制度実施する。
【昭和25年】(1950年)
・大井中二回目の卒業式が行われる。
・政府割り当て校舎木造瓦葺竣工する。
・中学校の学校地の地ならし(4月)
・中学校の学校地ブルトーザーでの地ならをする。
・沖縄郡島政府創立する。
・琉球大学開学する。
・指導主事制が制定される。
・米国民政府設立される。
・ドルと円との為替レート設定(1ドル:120円)
・大城全英氏村長になる
【昭和26年】(1951年)
・大井中、全職員、生徒が一堂に会して入学式を行う。
・琉球臨時中央政府設立する。
・教科書有償制となる。
・文教局設置される。
・日米安保条約調印される。
【昭和27年】(1952年)
・第1回立法院議員選挙が行われる。
・大井中等学校から今帰仁中学校へ改称する。
・初等学校を小学校、中等学校を中学校へ改称する。
・メルビン・ハッキンス氏今泊のキリストの教会を設立する。
・今帰仁と親泊の二ヶ字で今帰仁グスクの大隅にミカン1400本植える。
【昭和28年】(1953年)
・米民政府祝祭日に限り学校での国旗掲揚を許可する(4月)
・今帰仁中学校石積校舎竣工する。
・奄美大島日本復帰する。
・ニクソン米副大統領来沖する。
【昭和29年】(1954年)
・今帰仁中学校鉄筋ブロック校舎竣工する。
・今帰仁中学校の仮校舎、暴風のため崩壊する。
・アイゼンハワー大統領、沖縄基地の無期限保持声明する。
・文化財保護調査委員会発足する。
・与那嶺新蔵氏村長に選任される。
昭和30年】(1955年)
・初めて16件の文化財指定がなされる(その内4件が今帰仁村)。
①北山城址(今帰仁村親泊)
②天底の井戸のしまちすじのり(今帰仁村天底)
③今帰仁街道の琉球松並木(謝名~今泊)
④諸志御嶽の植物群落(今帰仁村諸志)
【昭和31年】(1956年)
・親泊のコバテイシ天然記念物として指定受ける。
・大城健一氏村長になる。
・今帰仁城内に志慶真乙樽の歌碑が建立される。
【昭和35年】(1960年)
・金城勘正氏村長に当選する。
【昭和37年】(1962年)
・今帰仁城は有形文化財(建造物)の指定を受ける。
・村役所新庁舎が落成する。
【昭和39年】(1964年)
・宮里政安氏村長に当選する。
【昭和43年】(1968年)
・松田幸福氏村長に当選する。
【昭和47年】(1972年)
・今帰仁城跡は国の史跡として指定を受ける。
・諸志の植物群落が国指定となる。
【昭和48年】(1973年)
・今帰仁と親泊が合併して今泊となる。
【昭和50年】(1975年)
・神人(今泊:映画)が作成される。
・『今帰仁村史』が発刊される。
【昭和52年】(1977年)
・今帰仁城跡保存管理計画の策定始まる。
【昭和62年】(1987年)
・今帰仁城跡の火神の祠と山北今帰仁城監守来歴碑記が移築される。
・『謝名誌』が発刊される。
・『湧川誌』が発刊される。
【昭和63年】(1988年)
・上間博安氏が村長に当選する。
【平成元年】(1989年)
・『崎山誌』が発刊される。
・『なきじん研究』1号発刊される。
【平成2年】(1990年)
・歴史資料館設立審議委員会
・フェリー伊平屋丸運天港へ就航する。
【平成3年】(1991年)
・呉我山・乙羽トンネル開通する。
・今泊のコバテイシ保護対策が施される。
【平成4年】(1992年)
・『なきじん研究』2号発刊される。
【平成5年】(1993年)
・県道72号線(本部循環線)が国道505号線となる。
・『仲尾次誌』が発刊される。
・『なきじん研究』3号発刊される。
【平成6年】(1994年)
・『今泊誌』が発刊される。
・『なきじん研究』4号発刊される。
【平成7年】(1995年)
・今帰仁村歴史文化センター開館する。
・『与那嶺誌』が発刊される。
・『なきじん研究』5号発刊される。
【平成8年】(1996年)
・『仲宗根誌』が発刊される。
・『なきじん研究』6号発刊される。
【平成9年】(1997年)
・『なきじん研究』6号発刊される。
【平成10年】(1998年)
・『なきじん研究』8号発刊される。
【平成11年】(1999年)
・『なきじん研究』9号発刊される。
【平成12年】(2000年)
・今帰仁グスク世界遺産に登録される。
【平成13年】(2001年)
・『なきじん研究』10号発刊される。
【平成14年】(2002年)
・『なきじん研究』11号発刊される。
【平成15年】(2003年)
・『なきじん研究』12号発刊される。
【平成16年】(2004年)
・『なきじん研究』13号発刊される。
【平成17年】(2005年)
・古宇利大橋開通する。
・『なきじん研究』14号発刊される。
【平成18年】(2006年)
・『古宇利誌』が発刊される。
【平成19年】(2007年)
・『なきじん研究』15号発