嘉味田家の墓調査 トップへ
嘉味田家の墓調査は平成12年11月12日に行った。墓地は那覇市大名墓地に(大名馬場付近)にある。墓の概況は典型的な亀甲墓(昭和41年頃、大道から現在地大名に移葬される)。墓内は棚が三段となっていて、イケは設けられていない。墓堂は一部横堀りしてあるが、墓石で堂内を石で巻いてある。シルヒラシ所は比較的狭く、火葬になったため必要としなくなったためであろうか。
墓庭周辺の石積は、切石を使った布積。墓室入口の両サイドにウーシと呼ばれる円柱がある。墓を開ける前に、丑年生まれの方がヒラチをたたいてから開けた。
墓室内に石製厨子甕4基、素焼き厨子甕4基、御殿型厨子甕7基、御殿型厨子甕(コバルト塗)5基、小型円形の厨子甕1基、藍色の焼物1基の計23基がはいている。御殿型厨子甕(コバルト)の一基は使われていない。
同家には『嘉味田家家譜』が現存している
(花城家所有)。
越来王子龍徳は尚真王の第四男で越来朝福である。嘉味田家の元祖で成化年間、嘉靖年間、越来間切総地頭職を勤めた人物である。今回調査した嘉味田家の墓に葬られているのは二世の向恭安(越来按司)からである。兄の尚紹威は今帰仁王子で、
越来王子龍徳も那覇市首里の玉陵(首里山川の西の玉陵)に葬られている。
現在の墓地は昭和40年頃那覇市大道から大名に移葬される。その前に康熙26年(1688)に
東風平間切富盛村の墓地は長年になり、風水や地震で傷んでいるため風水を見てもらっている。七世喜屋武按司の時、乾隆15年(1750)頃東風平間切富盛から
安里村松尾原に移葬されている。さらに昭和41年頃、大道から現在地(那覇市大名)に移葬される。
・康熙26年(1688)年東風平間切冨盛の墓が雨風などで傷んでいるため、
唐栄地理官蔡応瑞を使って、墓地を求め改葬する。
※厨子甕に鳩目銭が入っている。素焼きの厨子甕(茶色)。蓋の上部に向か
いあった龍と大きな蓮の花。地理官蔡応瑞は福州で地理を学び(1679年)、
伊平屋島の風水を見(1684年)、護佐丸の墓の風水を見(1686年)た人物
である。東風平間切冨盛の石獅子の建立(1689年)も同一人物である。
上記の唐栄地理官蔡応瑞の風水見は、墓の改修や墓地移動に大きな影響を及ぼしているようである。丁度、系図座ができ家譜の申請がなされた時期と重なる。また、墓の近世的墓の形態へ影響を及ぼしている見ている。
▲那覇市大名の嘉味田家の墓 ▲平成12年11月21日墓を開ける

―墓正面―(厨子甕の配置図)

▲墓室内部の様子(左側・右側) ▲外での厨子甕の確認
【23基の厨子甕】(メモ)
@ |
二世向恭安(越来按司)童名小樽金 名乗朝村 号華屋 |
萬暦十一年丑
華屋
九月二十七日卒
帰元 各霊位
崇禎三年癸午
桂岳
七月二日卒 |
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・琉球石灰岩製岩製厨子甕(奥の段左)。屋根は入母屋造で軒部分に垂木
が模してある。
・二世向恭安と室真鶴金の2人がはいている。
・恭安は嘉靖32年〜萬暦11年9月27日没(81歳)(1553〜1612.9.27)
・室は真鶴金君辻按司加那志伊江王子朝義の長女号桂丘。
嘉靖40年生〜崇貞3年7月2日没(1561〜1630.7.2)(61歳)
※二世向恭安は父尚龍越来王子朝福から万暦24年(1596.10.2)に
越来間切惣地頭職を継ぐ。
※副葬品があり、銅製の丸銅鏡二枚(中国製?直径8.1p)、ハサミ(種子鋏)、
和鋏、銅製のキセル、毛抜き?、木製の櫛片がはいていた。
A |
三世向成名(喜屋武按司)童名思松金 名乗朝重 号仁嶽 |
順治十年癸巳
仁嶽
三 六月五日卒
帰元 各霊位
世 崇禎十年(干支)
槐屋
(卒年) |
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・琉球石灰岩製厨子甕(奥右)。屋根は入母屋造で軒部分に10余の垂木が
模してある。
・三世向成(仁嶽)と室思乙金(
槐屋)の二人がはいている。『家譜』に「生日
忌日不伝」とある。
・万暦41年(1613)越来間切惣地頭職を継ぐ。
・順治2年(1645)喜屋武間切惣地頭職を授かる。
・室は越来間切上地村知念尓也の娘。
※副葬品として手鏡(直径12p、把手9p)と磁器・銅製のキセル・円形の金具
(鋏の一部か)がはいていた。

(那覇市史提供図)
B |
四世向良翰の女(室)と長女(真鶴金) |
真鶴金
□□□妙□大禅定尼
大清康熙十九年庚申
五月十七日死去
向良翰喜屋武
按司朝古女
大清康熙二十二年庚亥
十月十三日卒 |
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・琉球石灰岩製の石厨子甕(奥から二列目左一番目)。ひさし部分に10本余
の垂木が模されている。正面には赤茶色で四角の囲みが描かれている。
囲みの部分に銘書がなされている。
・四世向良翰の女(室)と長女(真鶴金)の二人が葬られている。
・銘書の「大清康熙十九年庚申五月十七日死去」(1680.5.17)は四世向
良翰の長女真鶴金(号心涼)である。来越按司に嫁ぐが三十五才で亡く
なり実母と一緒に葬られている。
・銘書の「大清康熙二十二年庚亥十月十三日卒」(1682.10.13)は四世向
良翰の室真蜷甲金、尚豊王の三女(号剛心)である。
※四世向良翰の室真蜷甲金と長女真鶴金の二人(実の親子)が葬られて
いる。
C |
四世向良翰(喜屋武按司)童名小樽金 名乗朝古 号了岳 |
康熙九年庚戌
南室
五月四日卒
四 康熙九年庚戌
帰元 了岳
世 五月四日卒
康熙十七年戌午
月庵
八月十三日卒 |
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・琉球石灰岩製の厨子甕(奥から二列目、左から二番目)。入母屋造りの
屋根で軒に10本の垂木が模してある。
・号南室は四世良翰の継室思武太金(向氏中村渠親方朝勝長女)
(崇貞元年正月生〜康熙九年五月四日)享年25歳)(1628.1.1〜1670.5.4)
・了岳は四世良翰(天啓六年四月生〜康熙九年五月四日)(享年45歳)
(1626.4〜1670.5.4)
・月庵は四世良翰の次女真香春金(順治十一年三月生〜康熙十七年八月卒)
(1654.3〜1678.8)
・四世良翰と継室思武太金と次女の真香春金の三人が葬られている。
D |
五世向殿桂(喜屋武按司) 童名思松金 名乗朝里 号公輔 |
向殿柱喜屋武按司朝里
五 号公輔
康熙五十一年壬辰四月廿日卒
世 室真松金東風平按司味朝臺
二女 号涼閣
雍正八年庚戌四月八日卒
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・素焼きの厨子甕(奥から二列左から三番目)。屋根に向かい合った龍が
施されている。屋根部分蓮の花と葉が浮き彫りされている。正面に「五世」
とあり、開花した蓮、左側に開花しかけた花、右側に蕾がある。
・五世の向殿柱と室真松金が葬られている。
・向殿柱(順治八年十二月生〜康熙五十一年卒)(享年62歳)
(1651.12.24〜1712.4.20)
・涼閣は室真松金向氏東風平按司朝臺(順治九年三月二十七日〜雍正八
年四月八日)の次女(享年79歳)
(1652.3.27〜1730.4.8)
・康熙26年(1688)年東風平間切冨盛の墓が雨風などで傷んでいるため、
唐栄地理官蔡応瑞を使って、墓地を求め改葬する。
※厨子甕に鳩目銭が入っている。素焼きの厨子甕(茶色)。蓋の上部に向か
いあった龍と大きな蓮の花。
地理官蔡応瑞は福州で地理を学び(1679年)、
伊平屋島の風水を見(1684年)、護佐丸の墓の風水を見(1686年)た人物
である。東風平間切冨盛の石獅子の建立(1689年)も同一人物である。
E |
六世向兆鳳(小波津按司)童名思徳金 名乗朝恒 号羽聖 |
向兆鳳小波津按司
康熙四十八年巳丑
六 五月二十四日卒
世 松堂按司加那志
乾隆十二年丁卯正月十七日卒
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▲Eは中の列一番右
・素焼きの厨子甕(二列目一番右。左から四番目E)。
・六世向兆鳳と室思武樽金(尚貞王長女)の二人が葬られている。
・六世向兆鳳(1676〜1709年)は康熙四十二年(1703)に西原間切小波津、
小橋川、翁長の三ヶ村の地頭職となる。
・六世向兆鳳の室思武樽金(尚貞王長女)(1678〜1747年)は尚貞王の長女。
F |
七世向棟(喜屋武按司)童名思亀樽 名乗朝寛 号延義 |
(裏)
乾隆二十五年
庚辰正月五日
喜屋武按司朝
寛室向氏
真呉勢金
向棟喜屋武按司 乾隆
二十九年甲申正月三十日卒 |

(表) (裏に銘書あり) |
・素焼きの厨子甕(後ろから三列目の左側)。屋根に向かいあった龍。屋根
部分は瓦状になっている。正面左右に仏、咲いた蓮、つぼみ、半開きの蓮
が描かれている。
・蓋の裏に「向棟喜屋武按司朝寛同人室」と墨書されている。
・厨子甕には七世向棟喜屋武按司と継室真呉勢金、そして蓋に墨書されてい
る室の真牛金の三人がはいている。
・
乾隆辛未(1751年)に安里村の東大堂松尾に墳墓を壬丙向きに座らせ、翌年
三月に移す(嘉味田家家譜:「墓誌」)。
・地理師阮超陛の風水判断で7世喜屋武按司向棟、5世向殿柱の富盛の墓地
を安里に移動する。
G |
七世向鼎(翁長按司)童名思五良金 名乗朝徳 号延珍
七世向棟(喜屋武按司)童名思亀樽 名乗朝寛 号延儀 |
向鼎□□
康熙四十九年庚寅九月
七 二十二日卒
世 向棟喜屋武按司
□□(延儀か)
乾隆二十九年甲申正月
三十日卒 |

(表) (裏) |
・素焼きの厨子甕(後ろから三列目、左から二番目)。屋根に向かい合った龍。
屋根部分に蓮、正面に「七世」と墨書きがあり、中央部に開花した蓮。左右に
半開きの蓮が描かれている。軒に5本の垂木を模してある。
・七世向鼎は十四歳で亡くなり、向棟が後継者となる。兄と弟の二人が葬られて
いる。
H |
八世向憲(喜屋武按司)童名思樽金 名乗朝隆 号成徳 |
八 向憲喜屋武按司朝隆乾隆
四十九年申辰十二月朔日卒
室向氏思戸金嘉慶八年癸亥閏
世 二月十九日卒 |
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・御殿型の白っぽい陶製厨子甕(後ろから参列目で左から三番目)。
・八世向憲と室思戸金の二人が葬られている。
・向憲は雍正十年壬子十一月十九日(1732.11.19)〜乾隆四十九年
甲辰十二月朔日(1784.12.1)卒(享年53)。
I |
九世向銓(喜屋武按司)童名思徳(改真三良金) 名乗朝教
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九 向銓喜屋武按司朝教嘉慶二十
五年庚辰十月十一日卒
室馬氏真加戸樽道光十一年
世 辛卯六月二十八日卒
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・御殿型の白っぽい陶製厨子甕(後方から参列目、左から四番目)。
・向
銓は乾隆二十一年生(1756.3.24)〜嘉慶二十五年十月
(1820.10.11)卒(享年65歳)。
・室真加戸樽は乾隆二十四年十月十七日(1759.10.17)〜道光十一年
六月二十八日(1830.6.28)卒。
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J |
本家より移葬
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(誌板と蓋)
一九五四年八月二十七日
嘉味田本家
室□ヨリ霊骨ヲ移置
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・有頸陶製厨子甕(前から二列と三列目の左側に置かれる)。
・誌板がはいている。
・蓋と誌版に「一九五四年八月二十七日 嘉味田本家ノ墓
室□ヨリ霊骨ヲ移置ス」とある。
N |
十世向弘業(嘉味田親方)童名思次良金 名乗朝昌
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十 向弘業嘉味田親方朝亮光緒四年 戌寅六月二十四日卒
世 室毛氏真鶴光緒十三年丁亥十一 月八日卒
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・陶製御殿型の白塗りの厨子甕(前列一番左側に配置)。
・向弘業嘉味田親方と室の毛氏真鶴の二人が葬られている。
・向弘業は嘉慶七年壬戌三月十日(1802.3.10)〜光緒四年戌寅六月
二十四日(1878.6.24)卒。
・道光六年父から継いで喜屋武間切惣地頭職となる。
L |
十一世向椿 童名 真蒲戸 名乗朝愛 |
十 向椿嘉味田里主朝愛道光九年
一 乙丑八月三日卒
世 妻馬氏真鶴道光三十年庚戌
五月五日死
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・後ろから四列目、左から2番目。
・十一世向椿は嘉慶十七年〜
※『嘉味田家家譜』では十一世であるが、銘書では十世となっている。
M |
十世向基(佐久間按司) 童名 樽金 名乗朝英 号明然 |
十 向承基佐久間按司朝英乾隆五十
八年癸丑七月二十一日卒
世 |
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・後から四列目で左から三番目。
・向承基は乾隆四十年八月生〜乾隆五十八年(享年19歳)
(以下略)