奄美大島宇検村名柄の辞令書

                              沖縄の地域調査研究(もくじ)


2009年11月3日の調査記録

 10月27日奄美大島の宇検村名柄の「古琉球の辞令書」を所蔵されている吉久家を訪れた。辞令書だけでなく、玉や櫃や扇なども拝見することができた。辞令書を入れる箱に「吉久家 古琉球御朱印状 五通」とあり、五通が以下の辞令書である。

 これらの辞令書は首里王府から発給されたものであること、1609年以前の古琉球の辞令書、そして同家に掟や目差の役職の人物(男方)の辞令書、それと「なからののろ」(名柄ノロ職:女性)の辞令書があることに注目している。それだけではなく、ノロ関係の遺品と見られる玉(勾玉や水晶玉(ガラス)、それを入れる櫃や扇などが遺されていることに注目したい。それだけではなく、①たらつゐはん(人物)→名音、②名音→名柄、名柄→阿木名、→名柄、あくにや→崎原へと、賜る領地?の変更がなされている。奄美の辞令書を見ると大幅な賜る領地の移動がなされている。ノロ(名柄ノロ)はもとののろのめいのつるが賜っている。

 以下の五通の辞令書は名柄の吉久家の所蔵である。嘉靖あるいは萬暦の時代からの伝世品だとすると、同家でノロと掟や目差などの役人を出していることになる(他にも同様な辞令書の所蔵がある。例えば、今帰仁間切の中城ノロ家は9通の辞令書が戦前確認されていて、2通がノロ職補任、7通は掟や目差など男方への発給である)。

 『女官御双紙』(1709年)に、「恵良部さすかさのあんし 馬氏国頭親方原行女揚氏敷名親雲上昌喜室」と出てくる。

①
屋喜内間切の名音掟職補任辞令書(嘉靖33年:1554)

   しよりの御ミ事
    やけうちまきりの
    なおんのおきてハ
    一人たらつゐはんに
    たまわり申候
  しよりよりたらつゐはんの方へまいる
  嘉靖三十三年十二月廿七日

②
屋喜内間切の名柄掟職補任辞令書(嘉靖35年:1556)
 
  しよりの御ミ事
   やけうちまきりの
   なからのおきては
   一人なおんのおきてに
   たまわり申候
  しよりよりなおんのおきての方へまいる
  嘉靖三十五年八月十一日

③
瀬戸内間切の阿木名目差職j任辞令書(隆慶5年:1571)
 
  しよりの御ミ事
    せとうちひかまきりの
    あきにやめさしハ
    一人なからのおきてに
    たまわり申候
  しよりよりなからのおきての方へまいる
  隆慶五年六月十一日

④
屋喜内間切の崎原目差職補任辞令書(隆慶6年:1572)

  しよりの御ミ事
    やけうちまきりの
    さきはるめさしハ
      せんとうちひかの
    一人あくにやめさしに
    たまわり申候
  しよりよりあくにやめさしの方へまいる
  隆慶六年正月十八日

⑤
屋喜内間切の名柄のろ職補任辞令書(萬暦11年:1583)

  しよりの御ミ事
    やけうちまきりの
    なからのろは
      もとののろのめい
    一人つるに
    たまわり申候
  しよりよりつるか方へまいる
  萬暦十一年正月廿七日

 
▲宇検村名柄の吉久家の前の辞令書の説明板    ▲吉久家の庭にある高倉

      ①                           ②
 

      ③                            ④
 

     ⑤


※『女官御双紙』(上巻)に金丸加那志より阿母嘉那志へ賜わったものは何点もあり。四代先の阿母嘉那志の時
  (120年前)に不慮の火事の時に焼失する。残ったのが、以下のものである。
   ・金の御髪指 一つは31匁に銘あり。惣長7寸1分、かぶの廻り7寸3分、かぶの上に鳳凰二つ飛ぶ。
    台には雲形、かぶの裏はから草、くきも同断。
   ・玉かわら長4寸7分、廻3寸1分、水晶玉数100星、廻3寸7分完

※
伊平屋阿母嘉那志が亡くなり、その子からは按司部位の席となるが、それでも三十三君の内である。その引き継ぎ
  の様子が記されている。渡海して首里城内や首里御殿などで引き継ぎが行われている。その時、金丸王加那志
  より拝領した金の釵(カンザシ)や玉カワラをはかせらる。首里天加那志(王)の前で朝衣を着て、金の釵と玉カワラ
  をはき、王様の前に三参し、御印判(辞令書)を戴く。
  印判(辞令書)は新しく戴くが釵と玉カワラは前任者から引き継がれている様子がうかがえる。それからすると、
  各地に残っている釵や玉カワラは継承された伝世品とみれそうである。

  また、「那覇の大あむ」について、「御朱印失脚して年月日は知らないが、二代の大あむより五代の大あむまでは
  御朱印を御賜る也」とあり、二代の大あむの御朱印(辞令書)を掲げてある。そこに明確に記されていないが、釵と
  玉カワラは前任者から引き継がれ、印判は新しく賜ったのであろう。

     志よ里の御ミ事
      なはの大あむハ
       もとの大あむのめい
     一人おとまそもいにたまハ里申(候)
    しよりよりおとまそもいの方へまいる
    萬暦十年八月二日

  志よ里の御ミ事
    まわしまき里の
    うちま人ちもとハ
    あまもいのち
   一二かやたに 二まし 三やきとはる
   一又五十ぬきはたけ一おほそ あめくはる一 このふんのおや
   三かない 又のろさとぬしおきてかないとも 御ゆるしめされし 
   一人もとの大あむのめい おとますもい にあまわり申し(候)
  志よ里よりおとますもいの方へまいる
  萬暦十年八月二日

※
八重山の大阿母もについて、以下のようなことが記されている。
   最初の大阿母より十代に当て大新城親方安基子息宮良親雲上女子ひるま大あむ職を命せられ、
   釵(カンザシ)一個(かぶハ金まいが七寸九分牡丹の花がた有り、くきは釵長六寸一分に二分角
   からくさのほり付きあり。
   美玉数九十八(長七分米二寸九分 かたらは
             長五寸二分 二寸九分まいり(廻り)
   家宝にして子孫代々襌求るなり