渡嘉敷島 トップヘ
・渡嘉敷 ・安波連
2006.09.25(月)
24日(土)渡嘉敷島(渡嘉敷・阿波連)までゆく。午前9時の高速船で島に渡る。約35分。200名近い乗客。そのほとんどが阿波連ビーチへの海水浴客である。渡嘉敷港に到着すると「渡嘉敷村有償バス」と書かれたバスが10台余、それとワガゴン車が10台余りが待機している。まずは渡嘉敷の集落から入るのであるが、後で阿波連までゆくので、バスの運行の確認に。「阿波連まで行きたいのですが、バスの運行時刻わかりますか?」「船が着くごとに」「どのバスに乗ればいいでしょうか」「どれでも」「ハハハ、なるほど」 それ以上は聞かないことに。
渡嘉敷島は「貢船、冊封船の風待ちの港として利用されている」という。そのことが気になっての渡嘉敷島渡りである。やはり、『琉球国由来記』(1713年)に「小嶺村」が出てくる。その村は渡嘉敷村に統合されたようである。その痕跡や合併した村の痕跡がどう残っているのか。また集落の成り立ちがどうなっているのか。その視点で見るのも面白い。
【渡嘉敷村渡嘉敷】
渡嘉敷港を降りると渡嘉敷の集落へ。学校の前の通りを歩いていると右手と左手、そして正面に山があり、渡嘉敷の集落は三面山に囲まれている。低地に発達した家々は道路より低い場所に作られている。どの古い屋敷はそうである。それと屋敷に小さな祠が置かれ、それが屋敷神かと。山原で引っ越した屋敷に残された火神や位牌が置かれた拝所とは性格が異なるに違いない。
役場の手間に右手の山麓に墓が見える。立ち寄ってみる。鬼慶良間が造った墓(ターチ墓)のようだ(渡嘉敷村民を助けた人物)。その近くにウル墓(按司墓ともいう)一帯にある墓は島の役人層か旧家の墓なのであろう。
渡嘉敷神社の手前にりっぱな石垣囲いの根元家の屋敷がある(村指定文化財)。渡嘉敷の蔵元で唐や大和などとの貿易で栄えた家のようだ。石垣の外側に拝所もある。
【渡嘉敷集落への移住伝承】(渡嘉敷村史資料編)
沖縄本島(あるいはニライカナイ)→黒島→儀志布島→渡嘉敷島(西山の西嶽)→西御嶽・
城(グシク)・里(サトゥ)→(三者が集まって協議した山がクミチヂ山(久米頂山)
クミチヂ山の近くまで入り江となっていて、入り江にある小島だったという。入り江が陸化していったことでクミチヂ山の麓に移動してきて集落を形成したという。近世には小嶺村と渡嘉敷村が形成され、二つの村が統合し渡嘉敷村を形成された。小嶺村と渡嘉敷村の統合は明治36年だとするが(『沖縄県角川地名辞典』)、近世期のようだ。渡嘉敷の小字に小嶺原があり、一帯に小嶺村の中心部があったのだろうか(詳細調査は改めて)。やはり、統合した村の祭祀がどうなっているのか・・・。
クミチヂ山の前にあるが渡嘉敷神社、別名トゥンチグヮーともいう。鳥居は昭和12年に建立されている。神社の前には前・元・新のノロ殿内があり、船頭の根元家、イリンダカリ(西ン渠)の大城家などの旧家があり、祭祀を中心とした集落の要となっている。
(集落や御嶽など、一つひとつ確認してみたいものだ!)

▲役場の近くにある祠 ▲渡嘉敷神社(殿内小)

▲根元家の屋敷囲いの石垣 ▲恩納川沿いに広がる水田

▲集落の南側の川にある太鼓橋 ▲手前の森がクミチヂ山

▲鬼慶良間が造ったという二つ墓 ▲家の屋敷に見られる屋敷神の祠

▲烽火台跡(ヒータティヤー跡) ▲烽火台跡からみた城島
2006.09.26(火)
渡嘉敷島(間切)と首里王府との関わりを知ることができるのに「辞令書」(「辞令書等古文書調査報告書」沖縄県文化財調査報告書所収)がある。「麻姓家譜」(田名家)は、二世真宗あたりから九世真周までは真和志間切儀間村の地頭(脇地頭)として関わっている。十世真房から十三世真敦・真喜まで渡嘉敷間切惣地頭職を給わっているが、十四世真幸から田名親雲上を名乗っている。渡嘉敷間切惣地頭の辞令書(6枚)を掲げてみる。
渡嘉敷間切惣地頭職を給わっているが、渡嘉敷島と具体的にどう関わっているのか。他間切の「内法」で惣地頭との関係の規定が見られるが「渡嘉敷間切内法」では惣地頭についての規定がみられない。渡嘉敷間切の間切内法の条文の数が34条である。他間切では100条余りあるので略されているのであろう。
@首里之御詔
渡嘉敷間切
惣地頭者武富
親雲上給之
康煕五十七年戊戌正月廿六日(1718年)
A首里之御詔
渡嘉敷間切
惣地頭者渡嘉敷
筑登之親雲上給之
康煕五十九年庚子六月十五日(1720年)
B首里之御詔
渡嘉敷間切惣地頭者
麻氏次男渡嘉敷子
真富給之
雍正十年壬子四月廿二日(1732年)
C(首里之御詔)
渡嘉敷間切惣地頭者
麻氏嫡子渡嘉敷子
真忠給之
乾隆十四年已巳七月十九日(1749年)
D首里之御詔
渡嘉敷間切惣地頭者
麻氏渡嘉敷里之子親雲上
真勝給之
乾隆廿四年已卯十二月朔日(1775年)
E首里之御詔
渡嘉敷間切惣地頭者麻氏
嫡子渡嘉敷里之子親雲上
真喜給之
乾隆三十三年戊子二月廿七日(1768年)
【渡嘉敷村阿波連】
渡嘉敷港からバスに乗り込み、渡嘉敷集落を通りぬけ阿波連へ。川沿いに山の方へ。あちこちに土砂崩れの跡が見られる。もとの道を修復したというより新しく道や橋を作り替えている。昭和15年5月渡嘉敷島を訪れている河村只雄は阿波連から渡嘉敷へ山道約1里を二時間かけて踏査している。
「阿波連と渡嘉敷とを結ぶこの山道はなるほど理想的なハイキングコースであった。ゆるやか
坂を上ったり、下ったり、谷間を渡り、峰をつたい、変化に富んだ展望をほしいままにすることが
出来る」(『南方文化の探究』河村只雄 講談社)
と記してある。バスに揺られながら見下ろす渡嘉志久あたりの風景は今も昔も変わらず美しいようだ。途中、灰谷健次郎の表札のかかった別荘?が目にはいる。この時期の渡嘉敷島行きのほとんどが海水浴客である。阿波連の集落は水着でカッポしている若者の世界。別世界である。集落の成り立ちを見て歩く者にとっては、冬場がいいかもしれない。
阿波連ビーチの西側の海上にハナリ(離)島がある。その島にチンベーヤー(君南風屋)と呼ばれる
洞窟があるという。久米島のチンベーが久米島と首里王府との間を往来の途中、風が悪く進めなく
なったので阿波連近くのウフシュロージに碇泊するが、なかなか風が吹かない。チンベーにハナリ
に降りて岩屋で暮らしてもらうことになった。阿波連のノロはじめ神人たちがお重をもってハナリ島へ
渡り慰めた。それが三月三日だった。それ以来阿波連の人たちは三月三日になると船を連ねてハ
ナリに渡り、チンベーが泊まった岩屋を拝み、一日中そこで過ごすようになっという(『渡嘉敷村史』
資料編)。
▲阿波連ビーチを望む ▲福木の大木が旧集落の名残を

▲集落の山手に近い旧家の豚小屋 ▲集落の奥にある阿波連神社

▲チンベーヤーのある離島(ハナリ) ▲クバの林に祠がある(クバンダキ)