2007年8月の調査記録
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2007年8月31日(金)

 展示は少しづつではあるが進めている。以前「山原の歴史散歩」をテーマで琉球新報の「南風」のコラムを11回わたって執筆したことがある(2005年1月~6月)。それを「山原の歴史の概要」とすることに。山原の歴史散歩とした場所の原稿に、画像1、2枚を添えて構成してみた。それに「山原の歴史的な碑」を配置して、膨らみをもたして立体的な展示にしてみることに。「山原の歴史散歩」の内容は以下の通りである。(学芸員実習生達が展示作業をする。)

  ①山原の歴史散歩
  ②今帰仁グスクに立つ
  ③島に橋が架かる
  ④名護は和(ナグ)?
  ⑤御嶽に築いたグスク
  ⑥塩屋湾で歴史を思い描く
  ⑦山原の神アサギ
  ⑧伊是名・伊平屋は山原?
  ⑨山原の御嶽と祭祀
  ⑩山原の津(港)と山原船
  ⑪山原は様々な学問の対象地

 
                  ▲展示作業中の様子

 
                        ▲展示作業中の様子


2007年8月30日(木)

 山原(北山)の主なグスクをゆく。名護地方の名護グスク、国頭地方の根謝銘(ウイ)グスク、羽地地方の親川(羽地)グスク、そして最後に本部半島の今帰仁グスク。ほぼ、そのような順序で回るのには理由がある。それは、三山の一つ、北山の国(クニ)を感じ取ってもらうためである。『明実録』でいう三山や「山北王」の存在をグスクの規模や発掘された遺物などから北山というクニの存在が確認できればと。

 それとグスクの構成要素の確認である。ウタキとどこが同じで、どこが異なるのか。そのような視点で見ていくグスク踏査である。実習生(金城・三澤・玉城・河井・青木)

①名護グスク(名護市名護)
②根謝銘(ウイ)グスク(大宜味村謝名城)
③羽地(親川)グスク(名護市親川)
④今帰仁グスク(今帰仁村今泊)
  (金武グスクは略)
⑤源河ウェーキ(名護市源河)
⑥真喜屋(神アサギ・ノロドゥンチ・ウタキなど)
⑦勢頭神の祠
⑧親川(羽地)グスク(神アサギ、地頭火神の祠)
⑨仲尾ノロドゥンチ跡(神アサギ・根神ドゥンチなど)

 
    ▲名護グスクの頂上部への道         ▲名護グスクの堀切の一つ(三澤)

 
    ▲根謝銘(ウイ)グスクの遠景          ▲グスク内にある中城のイベ
 
      ▲親川(羽地)グスクの遠景          ▲グスクの地頭火神の祠

 
      ▲源河ウェーキの屋敷             ▲屋敷内のブタ小屋跡

 
       ▲仲尾ノロドゥンチ跡            ▲羽地グスクの前のウドゥンガー


2007年8月29日(水)

 沖縄国際大学と広島女学院大学の学芸員実習生(計5名)が合流する。中城と勝連、そして座喜味の三つのグスクを回ってもらった。明日は山原の名護・羽地(親川)・根謝銘(ウイ)グスク、最後に今帰仁グスクを回ることに。時間があれば、もう一つのコースも。

 実習生が留守している間に、正面の壁展示にかかる。「北山(山原)の歴史」を描くにはどうしても必要な風景やくらしを展示することに。旧暦での生活、あるいは稲作が行われていた風景、祭祀が息づいていた様子など。各時代へタイムスリップしていく導入部である。

 
                          ▲導入部の展示作業

 午後から来客(琉大図書館・熊本大図書館)があり運天の百按司墓と周辺の墓まで。運天の古墓の壊れている木棺のいくつを画像に納める。(墓についての情報のほとんどを話しましたので何も頭に残っていません。画像のみで。悪しからず)

 


2007年8月28日(火)

 学芸員実習は後半に入る。北山の流れをくむという伝承を持った村(ムラ)をマップにしてみた。北山系統の一族だとする伝承が史実をどれだけ反映しているのか。一族が北山系統だとする伝承が史実かどうかの議論は別の機会にする。まずは、北山系統の一族の村(ムラ)であるとする分布がどのようになっているのか。まずは分布の状況を把握することから。

 学芸員実習生(金城・三澤・玉城)は展示パネルづくりの作業から。29日広島のメンバーが今帰仁入り。賑やかになりそう!

  (工事中)

[
国頭間切]北山系統 ■中山系統 南山系統 ◎その他)
 ・安 波 (■  
 ・安 田 (● ◎)
 ・楚 洲 (新設村)(◎)
 ・奥    (■ ◎)
 ・辺 戸 (
●  ◎)
 ・宜名真 (寄留士族)
 ・宇 嘉 (
● ◎)
 ・辺野喜 (
 ■ ◎)
 ・佐 手 (
 ◎)
 ・謝 敷 ( ? )
 ・与 那 (■  ◎)
 ・伊 地 (■  ◎:多くが他地からの寄留)
 ・宇 良 (
 ◎)
 ・辺土名 (■ ◎)
 ・桃 原  (奥間から分離)
 ・奥 間 (■ ◎:寄留)
 ・比 地 (
 ◎)
 ・鏡 地  (比地と奥間から独立)
 ・半 地 (■:奥間から分離:士族)
 ・浜    (■ ◎)

[
大宜味間切]

[
久志間切]
北山系統 ■中山系統 南山系統 ◎その他)
 ・川 田 (■  ◎)
 ・宮 城 (川田から分離)
 ・平 良 (川田の根謝銘屋:
系統)
 ・慶佐次 (
 ◎)
 ・有 銘 (? ■ ◎)
 ・高 江 (廃藩置県頃、中南部から寄留)
 ・瀬 嵩
 ・辺野古
 ・久 志
 ・汀 間
 ・安 部
 ・嘉 陽
 ・三 原
 ・天仁屋
 ・底仁屋
 ・大 浦
 ・大 川

 
        ▲展示作業中の様子                   ▲展示作業中

[
羽地間切]北山系統 ■中山系統 南山系統 ◎その他)

[
名護間切]北山系統 ■中山系統 南山系統 ◎その他)

[
金武間切]北山系統 ■中山系統 南山系統 ◎その他)

[
恩納間切]北山系統 ■中山系統 南山系統 ◎その他)

[
今帰仁間切]
 北山系統 ■中山系統 南山系統 ◎その他)


2007年8月25日(土)

 
旧盆です! 先祖様と語らうことに。


2007年8月24日(金)

 一部展示作業を進める。今回の展示で一つテーマにしたいのがある。それは各地にある屋形(家形)の墓と木棺である。屋形(家形)の建物は墓、墓内部に見られる木材で作られた木棺は,近世では厨子甕と同様の役割を果たしていると考えているが、古琉球の木棺は崖の中腹や洞窟や半洞窟に風葬した骨を集骨して入れたものではないか。屋(家)形の墓や木棺の分布や木棺を整理してみる必要がありそうだ。何ケ所かで確認した木棺と出版物で公にされている木棺を画像で紹介。

 

 

 

 

 

 


2007年8月23日(木)

 本部町古島(元は謝花村)のウフグシクムイ(ウタキ)に登る。学芸員実習生の三澤・金城・玉城、古島の仲里なぎさ、職員の恵が参加する。頂上部から集落とウタキとの関わりを見た。ウタキを集落との関係を見ると、まずは移動集落である。謝花の集落はウフグシクムイの麓の古島原から現在地に移動。そのため故地は古島原(古島)と呼ばれる。現在の字古島は戦後分区し、現在古島に居住している方々の多くは他地域からの寄留である。

 古島区あたりに住んで ウフグシクムイはグスクと呼ばれるがウタキであり、ウタキをグスクと呼ぶ事例である。『琉球国由来記』(1713年)の「ミタテ森城」は謝花の現在地にあるウタキではなく、このミタテ森城を指しているとみてよさそうである。ミタテ森はヒタテ森?

 ウフグシクムイの拝所は頂上部へのルートとは別にある。ゴルフ場の敷地から入っていくと、途中段々畑があった痕跡が見られる。また所々に平坦地があり、段差のところに石積みが見られる。ウフグシクムイ全体がウタキで、その三合目あたりにイビにあたる部分は祠にしてある。

 ウタキと集落との関係から、謝花村が移動集落であり、移動地に神アサギを設け、新しく遥拝のウタキを造っている。ウフグシクムイは集落とウタキ、ウタキとグスクの関係、そして村内での集落移動でありながら、新しくウタキ(遥拝所)をつくっている。ウタキや集落移動、そして戦後分区した地区に謝花の故地の古島(原)名をつけている。ウフグシクムイや拝所や地名などから謝花村の複雑な歴史を読み取っていくことができる。

 
      ▲ウフグシクムイの遠景                ▲向かって左側の頂上部

 
    ▲頂上部はちょっとした平坦地            ▲頂上部近くに二つの洞窟

 
   ▲別ルートにある拝所           ▲別ルートの三合目あたりにある謝花の拝所(イベ)


2007年8月22日(水)

 三名にそれぞれテーマを与え、午後には一部展示を試みた。①間切役人が果たした役割を「羽地按司初入日記」と「地方役人勤書」を通して、首里王府と間切との関係を描き出してみる。②近世から現在までの図(村略図・間切村全図・竿入図・土地整理図・戦後図)の変遷をみる。③今帰仁グスクと関わる山原のグスクを描いてみる。それらのテーマは一日二日でできるものではない。これまで数年積み重ねてきたテーマを展示する作業である。展示をする裏側には、テーマ一つひとつの調査研究に膨大なエネルギーが費やされていることに気づいてもらえればと考えている。ご苦労さん。(しばらく、待ったなしで進めていくが、悪しからず)

 三名とも、今のところ無我夢中。展示物の作成、そして展示をしながら調査したものを展示までもっていく過程を実践で体験できる場面である。学芸業務の醍醐味のひとつである。(この歳になると学生達にはついていけません。醍醐味だったはずの展示が、苦痛になっているワイ。それも歳か!)

 
     ▲近世(元文検地)から戦後すぐの地図まで。地図の変遷を描く。

 
 ▲「羽地按司初地入日記」と「間切役人勤書」から間切役人の果たした役割を描く


2007年8月21日(火)

 学芸員の実習がスタートする。今日が初日である。今年は「山原の歴史」を中心とした規模の大きな展示会を予定している。全体の概要を説明し、早速明治の「今帰仁村字・・・全図」(60001)の裏打ち作業にはいる。「・・・全図」は200枚近くあり、30枚ばかり裏打ちすることに。学芸業務で現物資料に触れることができるのは贅沢だと常々考えている。資料の整理、あるいは修復などを通して、資料から情報を読み取っていくことの面白さ。その体験をしてもらっている。

 午後から小学校3年生の学習に参加してもらう。今日のグループは兼次と諸志である。それぞれの字の数ポイント、ポイント探しのための予備的な作業である。普段通りながら見ているが、気づいていない。気づいてもそれが何なのかまでは考えていない。気づかせ、そして何だろうと感心を持たせる初歩的な問いかけから。

 諸志の焚字炉(フンジロ)と兼次の第五タンクのスケッチをし、そしてそこにまつわる話を書きとめ、それを発表してもらう。一人ひとり、出番あり。今回初めてはので戸惑いもあるが、二、三回では、しっかりと報告できるまでになります。もちろん、学芸員実習生達も発表の出番あり。(厳しいの声が聞こえてきそう)

 学芸業務の要に、そのようなレファレンスがある。今日は小学生達と一緒に勉強なり。こちらの小学生達は大学生と同様な学習をしています。三回目くらいから、大学生顔負けの報告ができるようになります。前回は今泊(別のメンバー)、今回は兼次と諸志。次は画像でみた場所探しをしてみてみよう!



  
▲「今帰仁村字・・・全図」の裏打ち作業中         ▲小3年生、まずは画像での学習


2007年8月18日(土)

 北山(今帰仁)グスクと関わる伝承を持つグスクとムラについて整理してみることから。本部町古島にある本部富士(ニラムイ:標高230m)に登ってみた。その隣に標高237mのウフグシク(ウィグシクともいう)があり、本部町古島(フルジマ)は昭和22年に謝花から分割した字(区)なので、ウフグシクはもとは謝花ということになる。そこには拝所があり謝花の拝所のようである。ウフグシクの近隣のムイはカルスト地形でよく知られている。

【北山(今帰仁)グスクと関わる伝承を持つグスクとムラ】

①本部町古島のウフグシク(ウィグスク)(元は謝花村)
 そのウフグシクを隣のニラムイ(本部富士)から眺めると頂上部はテラス状に見える。果たして人手のはいたテラスかどうか。中腹に謝花区の拝所があり、旧暦5月9日と9月9日にウフウガンを行っていたという。神人は白衣装を着てチヂン(鼓)をならしてウフグシクまで行き、祈願をしたという。ウフグシクムイは謝名のウタキではなかったか。ウフグシクムイにある拝所はウタキのイビにあたるのではないか。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる謝花村の「ミタテ森城 神名:コメケナノ御イベ」は、このウフグシクと見られる。

 ウフグシクは「今帰仁グスクが築かれる前に造りかけたグスクではないか」との伝承がある。

 
        ▲ニラムイ(本部富士)から見たウフグシクムイ(本部町古島)

 
▲ニラムイ(本部富士)の頂上部付近    ▲ニラムイの頂上部から麓をみる


2007年8月16日(木)

 3年生が5名やってきた。今泊の生徒達である。第二展室の壁は今泊なのでそこを使うことに。まずは自分の家探しからである。3年生の頭はまだまだ視野が狭い。視野を広げてあげるのがこちらの役目。今日は今泊の壁画から、ほとんど気にとめていない10のポイントさがし。そのポイントの確認ができると、質問形式でやりとりしていく。それぞれのポイントについて、話を聞きまとめ、さらにみんなに報告する訓練。

 一気に大人の世界へ引き込んでいく。どぎもを抜くことに。指導者が子供の視点にへりくだることもあるが、見つけたポイントを通してどんどん話を展開していく。「ムラ・シマ講座」方式である。

 最後に子供達に二、三報告してもらった。「いつも見る浜ですが、シルバマというのだ」と。「獅子小屋しっているよ」「獅子は何時出てくるのかな?ヨウカイがシマに入ってくる時期がある。ヨウカイを追い払うのだぞ」などなど。

  ①公民館 ②大きなコバテイシ ③エーガー(親川) ④井戸 ⑤福木のある集落
  ⑥シルバマ(白浜) ⑦馬場跡 ⑧二つの神ハサギ ⑨獅子小屋 ⑩マチンチャガー(井戸)


  次は今泊に出かけポイントを確認し、そこで話を聞き、他の友だちに報告するのだぞ。


   ▲頭の中がいっぱいになっちゃった!

 琉球大学の地理学科(?)のメンバーが10数名がやってきた。明治以前の図、土地整理直前の図、土地整理期の図を見学。近世から現在に至る図の変遷がわかるように急きょ展示。それと館内のレファレンスを一部。


2007年8月15日(水)

 そろそろ学芸員実習にはいる。その下準備を進めているところである。その一つに「北山時代」について考えていかなければならない。それは、どうしても避けて通れないテーマである。断りを入れておきたいのは、ここで「北山時代」を設定するのは、琉球の歴史の上で、三山鼎立の一山である北山の時代を指している。北山が琉球全域を統治した時代はもちろんなかった。しかし今帰仁グスクを中心とした時代が山原にはあり、その時代に築かれたと見られるいくつかの事象がある。それが、統一国家が形成された後も、中山・南山とは異なる意識で見られ続けてきた。それを具体的に引き出す作業である。

 三山鼎立時代、北山王の攀安知が亡ぼされるまでに培われたものが何か。それが今にどう残し伝えているのか。北山の時代に形成されたもの。統一国家となり中山を中心とした制度や文化が北山時代に形成されたもの(文化)の上に、どんどんかぶさっていくが、それでも根強く引きずってきたものがある。

 北山を教化(中山化?)していこうとした現われの一つが1422年に置かれた監守制度であり、それは第二尚氏王統まで継承された(1665年首里引き揚げ廃止される)。

 山北王の怕尼芝・珉・攀安知の時代については、少ないながらも『明実録』を手掛かりとすることができる。しかし、それ以前については全くと言っていいほど史料がない。考古学での発掘の成果にゆだねるしかない分野である。私が手に負える分野ではないので、別の視点から見ていくことに。それが歴史を実証できるとは考えていない。一度も作業をせずして退散するのもどうかと。・・・挑戦してみることに!

 まずは、北山と関わる伝承を持つグスクはどのようなグスクなのか。それとどのような伝承を持っているのか。手始めに『沖縄の城跡』(新城徳祐著)から確認作業をしてみることに。その後、市町村史や野史と言われているもの。(どれだけ史実を伝えた伝承なのか。疑問を持ちながらの作業なので気が重い! その結末は!)。

【中・南部のグスク】

・伊波グスク(うるま市石川伊波)
 伊波グスクは北山城主(中北山系の今帰仁世の主)が、後北山王の初代である怕尼芝に亡ぼされととき、中北山系の子孫たちは何処こともなく離散し逃げ延びた。その中の一人が北山城からのがれて伊波部落の隣の嘉手苅の洞窟に隠れていたのを付近の住民がかくまって、ただ人ではないことをしり、伊波按司にしたという。伊波グスクは伊波按司が築いたグスクだという。
 伊波按司は伊波グスクを拠点にして子孫と一族の山田按司・大湾按司・安慶名按司・越来按司・中城按司・勝連按司を配置し、勢力の挽回に向けて力を注いでいた。後北山の怕尼芝を狙っていたが、中国との交易で権力を強め、与論島や沖永良部島まで勢力を広げていた。敵討ちの到来を待っていたが北山は怕尼芝から珉、そして攀安知へと王が変わり、ますます権力を強めていった。
 時期が到来したのは、尚巴志の北山討伐である。伊波按司一族は中山の勢力に組みして北山を亡ぼした。
 伊波按司は五代まで伊波グスクに住み、五代目のとき中山は第二尚氏の時代となっていて、尚真王の時、首里城下に移り住むようになったという。
 北山との関わりを示すかのように伊波グスク内に今帰仁グスクに向けての遥拝所がある。


・山田グスク(恩納村恩納、1673年以前は読谷山間切の内)


座喜味グスク(読谷村座喜味)

・屋良グスク
(嘉手納町屋良)
・安慶名グスク
(うるま市具志川安慶名)
 安慶名按司は伊波按司の系統で伊波按司の五男だといわれている。伊波グスクから分家したとき、兼箇段集落の前方の森に築こうとしたが、安慶名集落の東北にある、そこが条件が整っているということで安慶名グスクを築き住んだという。グスクの近くを流れる天願川は地元で大川と呼んでいる。そのため大川グスクとも呼ぶ。屋良の大川グスク、北谷の大川グスクと区別するため安慶名大川グスクと呼ばれる。按司も大川按司、あるいは安慶名大川按司と呼ばれる。
 安慶名大川按司の二男を屋良グスクに、三男を喜屋武グスクに配置したという。

・兼箇段グスク(うるま市具志川兼箇段)
 兼箇段グスクは安慶名大川按司が当初グスクを築こうとした場所だという。途中で安慶名にグスクを築いたため石積みがみられないという。また北谷グスクの野国按司の二男を派遣して住まわせたグスクだともいう。

・江洲グスク(うるま市具志川江洲)
 江洲按司は三つの系統があるという。①北山からきたという。 ②尚巴志の六男の布里が江洲按司となるが短命。③尚泰久の五男の尚武が江洲按司となる

・越来グスク(沖縄市越来)
 一説には中北山時代の伊波按司の四男を派遣したともいう。
 越来グスクは第一尚氏の時代、王子領として王子の居城だった。

・知花グスク(沖縄市知花)

・幸地グスク(西原町幸地)
 伊波按司の二代目から分家してきた按司が築いたグスクで、幸地按司と名乗ったという。幸地按司はアッタヌシー(熱田子)と呼ばれていたといい、熱田子と津喜武多城の按司とのことを聞きつけた今帰仁按司は、怒り熱田子の城を攻めるが、策略でやられてしまう。今帰仁按司には四名の大将がおり、敵討ちを誓い、悪運の強い熱田子も打ち亡ぼされたという伝説がある。

・津喜武多グスク(西原町小波津)
 中北山系の今帰仁世の主が、後北山の怕尼芝に亡ぼされたとき、今帰仁世の主の四男が逃げ延びてきて住みつき、付近の住民の協力でグスクを築き、津喜武多按司を名乗ったという。(伊波按司の二男が、この地に派遣され津喜武多按司を名乗ったともいう)幸地グスクの熱田子に亡ぼされ、空城になったという)

・棚原グスク(西原町棚原)
 中北山系の子孫といわれ、安慶名大川按司の弟が棚原按司となって築城したと伝えられる。棚原按司の妻は美人だったそうな。夫人がグスクを出て兼箇段まで行ったところ幸地按司に連れて行こうとしたので舌を噛み切って死んでしまったという。兼箇段大主は丁寧に葬ったよし。  棚原グスクは五、六代まで続いたというが、第二尚氏時代に首里城下に移り住み、その後空城になったという。

・泊グスク(うるま市宮城島)
 仲宗根若按司(北山城)の末子は志慶真樽金と称し、北山落城のとき、母親と共に久志村に逃げ隠れる。・・・久志の子に救助を乞い、小舟で高離島の宮城村に渡る。・・・この村に一グスクを築き高花城主となり、俗に隠れグスク、または泊グスクという。中北山城主の怕尼芝に亡ぼされたとき、中北山系の子孫が宮城島にきて築城したのではないかという」。

・真栄里グスク(糸満市高嶺)
 中北山系の伊波按司の子供が伊波グスクから分家し、初め中城間切の泊のデーグスへ。二代目のとき中グスクを築いて移り、三代目のとき真栄里にグスクを築き移り住んだという。三代目まで続いたというが尚真王の時代、首里に移り住み空グスクになったという。

・国吉グスク(糸満市国吉)
 先中城按司(真栄里按司)と護佐丸は共に中北山系の系統である。今帰仁グスクへの遥拝所があり、北山系統がグスクを築き居城したとのこと。


【山原(北山)のグスク】

  (工事中)

・今帰仁グスク(今帰仁村今泊)

・根謝銘グスク(大宜味村根謝銘)

・津波グスク(大宜味村津波)
  根謝銘グスクの城主であった大宜味按司の配下として板干瀬大主が派遣される。 

・名護グスク(名護市名護)
  中北山の今帰仁世の主の二男を派遣される。代々の名護按司の居城。

・親グスク(名護市川上)

・羽地(親川)グスク(名護市親川)

・屋我グスク(名護市屋我)
  北山の出城。

・久志グスク(名護市久志)
 
・シイナグスク(今帰仁村呉我山)

・ジングスク(本部町伊豆味)
 


2007年8月14日(火)

 体調を崩し、根気なし。ちょっと休憩!

 『海東諸国紀』(琉球国)1471年)
 「国王の喪は、金銀を用いて棺を飾り、石を鑿ちて槨を為る。埋葬せず。屋を山に造り、以て之に安んず。後十余日、親族・妃嬪会して哭き、棺を開きて尸を出し、尽く肌膚を剔り、諸を流水に投じ、骨を棺に遷す。土庶人の喪も亦之の如し。但し石槨は無し。」とある。

『使琉球録:陳侃』(1534年)(「大明一統志」)


 「子、親の喪の為に、数月も肉食せざるに及ぶ。亦其の俗之嘉とすべし。死者は。中元前後の日を以て、渓水もて其の屍を浴し、其の腐肉を去りて其の骸骨を収め、布帛以て之を纒ひ、□むに葦草を以てし?土して殯す。上に墳を起こさず。王及び陪臣の家の若きは、則ち骸匣を以て山穴中に蔵し、仍ほ木板を以て小□戸を為り、蔵時の祭掃には則ち啓鑰して之を視る。蓋し木朽ちて骨暴露するを恐るるなり。」

※福木の大木搬入(今帰仁村字謝名:桃原惣福氏提供)


2007年8月11日(土)

 今日は「ムラ・シマ講座」でした。朝から大雨でしたので館内で。急きょ湧川の番組をパワーポイントで構成。ところが、プロジェクターから画像が出ず、オタオタ。現場の画像がないと説明が困難。プロジェクターはあきらめスライドで(湧川ではない)。湧川は来月行くことに。

 学芸員実習生の澤田・金城・玉城の三名(沖国大)も「ムラ・シマ講座」に参加。実習モードに入りました。バリバリやってくれそう。広島のメンバーは、まだつかみ所がありませんね。

 湧川をモデルにウタキ・イビヌメー・イビ、それと神アサギと神アサギではない施設の違いをしっかりと確認してもらうことに。スガーやスガーのウタキ、ヌルドゥンチ・新里ヤー・塩田跡・ムラガーなどの画像を準備する。館内でしっかり理解してもらうつもりでしたが・・・。来月現場で。

 湧川に二つの神アサギがあるが、湧川の神アサギと奥間神アサギとの違いを見究める。神アサギには火神(三つの石)が置かれることはありません。火神があるのは、旧家のあと。奥間アサギは勢理客ノロ家(婿入り?)の先祖に奥間親雲上(羽地間切出身)の屋敷跡。(湧川の地は1692年頃から1736年まで羽地間切でした。1736年に呉我・我部・松田・振慶名・桃原の五つの村を羽地と屋我地島に移動。今でもフプユミとワラビミチの神行事の時、呉我や我部から神人が奥間アサギで祭祀を行っている)。

 
   ▲後方の杜全体が湧川のウタキ        ▲ウタキへの道(整備されている)

 
  ▲ウタキの中にあるイビヌメー    ▲イビヌメーの上の方にイビ(石)

 
       ▲湧川の神アサギ             ▲置かれた木はタモト木

 
▲奥間アサギ(本来のアサギとは異なる)      ▲火神が置かれている


2007年8月9日(木)

 5年生6名がやってきた。今帰仁グスクと結びついた伝統芸能についてまとめるという。今泊で行われている「獅子舞と棒術」について。やる気満々のメンバー。すでに棒をやっているのもいる。来週から豊年祭の棒の練習に入るという。棒を指導する父親の参加があり連動させることに。シメシメである。

 舞台でやる演技だけでなく棒や獅子舞が、村の伝統文化となっているのは生活と密接に結びいていたことを実感させることから。棒や獅子舞は豊年祭の演目の一部だということも。棒や獅子舞をする場所は、みな知っているので足が地についた演舞ができそう。それと観覧する方々を引き込んでいく、もう一つ二つ工夫が必要。まずは、獅子舞と棒術についての話と質問から。画像を何枚か見ながらイメージづくり。

・今泊と今帰仁グスクとの関係
・豊年祭が行われるのは満4年に一回(5年マーイ)
・獅子舞も豊年祭で行われるが毎年旧8月11日に獅子小屋を出て舞う。
・旧8月11日(ヨウカビ)に獅子が舞うのは?
・獅子小屋はどこにあるの?
・獅子の中にはいるのは何人?
・獅子を操る人は?
・獅子を踊らすには三線が必要。
・どこで舞うのかな?
・豊年祭の時は棒と戦うぞ!どっちが勝でしょうか?

・棒は何の木でできている?
・大人用はどのくらいの長さ?
・何故棒が盛んになったのだろうか?
・いつやるの?(豊年祭とは別に村まつりや芸能大会などにも出演)
・全国で準優勝したこともあるぞ!
・どこでやるのかな?
・二人組、スーマチ、群棒もあるぞ。
・合図するにはドラも必要。
・旗頭(むかじ旗・三角旗
・棒の1組、2組・3組と続くぞ。
・獅子舞や路次楽も続きます。
などなど・・・

 
       ▲棒シンカが勢揃い              ▲旧8月11日のヨーカビに登場

 
 ▲馬場跡(ブウミチ)でのスーマチ(総巻)     ▲みんな自然とメモをとっていく!


2007年8月8日(水)

 古宇利島のサーザーウェーとピローシの調査に出むく。島に一時間ばかり早く着いたので古宇利春夫さん宅で近況を伺ってみた。「サ-ザーウェーをやる人がいないから、わっし一人では寂しいな。若いのが出てこんな」と。島の祭を行うのに、非常に厳しい状況にあることを実感させらる。昨日はウンナヤー、ウチ神ヤー、新築の家(一軒)、フンシーヤの順で行ったという。

 今日のサーザーウェーの流れは①サブセンター ②ヌルヤー ③シチャグヤー ④お宮の順で行われた。サーザーウェーは古宇利春夫氏一人。お宮でのウタと舞いでサーザーウェーは終わる。

 お宮の前(クワッサヤー)に神人が揃う(今回5名)のを待ってピローシが行われる。ロープは網を模したものでピートゥ(イルカ)を捕獲する場面がある。そこでもウタが謡われる。

【サーザーウェー】(旧暦6月26日)

 
       ①サブセンターで                         ②ヌルヤー

 
       ③しちゃぐやー              ④お宮(クワッサーヤー)

【ピローシー】

 
 ▲ビンシー(神酒・米・塩・平線香)         ▲東方(塩屋か)に向っての祈り

 
 ▲ピートゥ(イルカ)を追いかける場面         ▲ピートゥを捕獲する場面


       ▲終わってから直会


2007年8月7日(火)

 4日~6日まで沖永良部島与論島に渡る。今回の目的の一つは両島のシニグがどう認識されているのか。その確認である。沖縄のシニグとの違いや共通する部分はどういうところなのか。そのことがしりたくての渡島であった。これまで見てきたいくつかの沖縄本島でのシニグは、まずは村(ムラ:字)、あるいはノロ管轄のムラの範囲で行われている。その次にムラにおける祭祀者や一門(集団)の祭祀や祭祀場である認識がある。

 ところが、沖永良部島でのシニグはムラを越えたところで行われている。ノロ管轄というより沖永良部島では明治まで行われていたというシニグの動きは余多の百(ヒャー)・屋子母の百・西見の百など組長(酋長)が中心となり統括している。与論島では「・・・サアクラ」という集団(氏族・血族?)が中心に行われる。沖永良部島に「世之主ロード」として10余のポイントに説明板が設置されている。非常に有り難い。その多くがシニグと関わる場所である。その道筋はシニグを沖永良部島に持ってきた一団(一族集団)の足跡、あるいはシニグが行われた場所の痕跡をなのかもしれない。

 沖縄本島北部のシニグではノロや神人が祭祀の祈り部分が強調されるが、『琉球国由来記』(1713年)の祭祀に同()村に按司や惣地頭やオエカ人(役人)、各村には地頭(脇地頭)などが参加している。そのような視点で見ると、どうも沖永良部島と与論島のシニグは古琉球のシニグの形態を伝えているのではないか。それと、琉球でシニグの祭祀を行っていた集団、あるいは一族が沖永良部島や与論島に移住し延々と伝えてきたのではないか。そんな印象をもって帰ってきたところ(詳細については別報告)

 
 ▲シニグと関わるユワヌ浜(和泊町古里)         ▲フバドゥ(和泊町玉城)


2007年8月3日(金)

 与論島のシニグについて少し調べてみた。まずは与論のシヌグについて形式的なところから。旧7月16日にパルシニグ、17日が本祭、18日は休み、19日はムラ人の直会。サアクラという集団を中心に行われる。そしてパルシニグとムカエ(迎え)シニグがある。沖永良部島では明治5年には廃止されたが、与論島では明治32年に復活し、現在に至っているという。ウンジャミは与論島で復活できなかったようである。

 沖永良部島では、余多の百、屋子母の百、西見の百が中心となっての動きがるが、与論島ではそれに相当するのが、・・・サアクラという集団(一族・一門・祭祀集団)である。与論島にはパラシニグと迎えシニグがある。パルシニグを迎える神道があり、両シニグが合流したり、ムラの各戸をシニグ旗(デーク?)を携え叩き回わったり、自分達のサアクラに戻り、祭祀を済ますとムラはずれのまで行ってウークイ(神送り)をするという(一部復元を試みたが、やはりシニグの参与観察記録をし流れや場所の特定をしないと心もとない)

 宮城栄昌氏は沖縄本島のシニグと頗る類似しているという。与論島のシニグも見てみたいものである。明日から、二つの島をシニグを手掛かりにしかと見てくることに。(猛暑だから、熱射病にならないように! 昨年は肩痛に耐えながらだったのを思い出す)


2007年8月2日(木)

 8月の中旬から9月上旬にかけてハードなスケジュール。前半で調査の時間をとらないと大変じゃ。そう思っていると、頭はすでに沖永良部島のシニグ(明治以前の)が駆け巡っている。
 
 昨年から気になっている沖永良部島と与論島のシニグ。シニグは沖縄本島北部から東海岸の島々に根強く残っている祭祀の一つである。与論島、沖永良部島では明治5年の明治維新でシニグが絶たれたという。明治3年まで与論・沖永良部島で行われたシニグは(3年回り)、古琉球からの引き継がれたものの一つではないか。両島に伝えられるシニグの村々をつなぐ流れ部分は、琉球(北山かもしれない)から島へ入り、グスクをつくり統治していった経路ではないか。

 そのような視点で沖永良部島の余多・屋子母・西見(上城・下城)・上平川・下平川・屋者・足清良・黒貫などの村(大字)を近々訪ねてみたい。そこで山原で行われているシニグの流れに、当初村に入ってきた経路の場所が祭祀場となっている場面がないだろうか。比較してみると面白そうである。(今のところ与論・沖永良部と沖縄本島では、全く反対の結論を出しているのだが・・・。説明は十分つきそうである。下の画像は20067月撮影)

 
      ▲皆川のシニグドー                  ▲大城のシニグドー


2007年8月1日(水)

 「今帰仁城跡案内ガイド養成講座」に参加する。テーマは波照間永吉氏(県芸大教授)の「今帰仁のオモロをめぐって」である。オモロに目を通す機会がめったにないので、いい機会であった。これから行う調査にいくつも示唆を与えてもらう。感謝である。

 以前から仮説として「北山文化圏」を掲げているのであるが、波照間教授の「今帰仁をめぐるオモロ」の報告を伺っていると、今帰仁(みやきせん)を褒めたたえ、首里と今帰仁との関係について述べられた。今帰仁を賛美するオモロは、文化の高い地域、あるいは崇めたてるほどの人物がいる、りっぱなグスクがあるなど。文化を形成する程の時間(歴史)、物やグスクや人物がいたということなのではないか。オモロは「北山文化」の存在を確認できる手掛かりとなるのかもしれない。

 それと、オモロに登場する今帰仁と関わる地名。すでに想定できた地名とまだの地名があるようだ。想定できていない地名について、念頭に入れてみていきたい。波照間氏のレジュメから「今帰仁関係オモロに詠み込まれた地名」を掲げると以下の通りである。( )すでに想定されている場所。(?)について、丁寧に地名を見ていくことに(相当検討なされているようなので、私の手に負えないのであるが)。
  ・みやきぜん(今帰仁)
  ・せりかく(勢理客)
  ・かなひやぶ(今帰仁グスク内の上の御嶽)
  ・ぎんか(現在名護市源河)
  ・やせのはなさき(?、古宇利島と想定された方もいたような)
  ・中かみ(?)
  ・かつおうたけ(現在の本部町の嘉津宇岳)
  ・こばうたけ(クボウの御嶽・今帰仁グスクの近く)
  ・うむてん・こみなと(運天)
  ・なかぐすく(中城、現在の仲尾次)
  ・ひやにやなかぐすく(?)
  ・つぢやなかぐすく(?)
  ・さちぎやもりぐすく(?)
  ・くになつち(?)
  ・なかち(?)
  ・おわたて(?)
  ・いぢへは(伊是名)
  ・ゑひや(伊平屋)いた謝花村の人たちは、現在地(スクミチ沿い)に移動している。移動した謝花村の人たちは集落に神アサギをつくり、故地に向けて遥拝のウタキをつくっている。