古代の支配者と名護城
2019年6月へ
[名護600年史より](比嘉宇太郎著)
後年尚巴志王統が亡んだ際にも、その系統の北山監守は逃亡したが、国頭地方の諸按司は、謂はゞ血族同志で、地理的にも政治的にも相互の関係が深く、中山の政変は勿論、北山城の内肛の場合にも安堵としていないのが常である。天孫氏滅亡の後に、名護城(なんぐすく)もまた相次いで今帰仁の北山城と運命を共にしたであろうことは疑を容れない。
為朝の子舜天が義兵を挙げて纂奪王利勇を滅ぼし、按司中の最強者大世の主の地位を獲得した年代は一一八七年で、彼はまだ二十二才の若冠であった。按ずるに大昔北山の離散滅亡は、利勇の革命の余波を受けて起った事件であるから、大昔北山最后の日は明かでないにしても、舜天創業の年代とそう開ぎはなかろう。爾来五十有餘年北山には主がなくどう始末されたかも判然していない。
口碑や旧家系譜の伝える北山中興の経緯を辿って、次に興った仲昔北山は、舜馬順熙王の次子を迎えて北山の世の主(よのぬし)今帰仁城主に奉じ、二世は嗣子がなかったので、中山英祖王の次子を養子に入れて統を継がしめた。これが北山の世の主湧川王子である。北山の世の主という称号は、国頭地方の諸按司を支配する最高の権力者を指す尊称である。湧川王子の嫡流は代々今帰仁に根城をおき、その一族は間切按司として名護、羽地、国頭の諸郡に君臨していたから、国頭地方は、宛然北山閥族一色で塗りつぶされた観がある。湧川王子の孫に当る三世の今帰仁城主に至って、一族の怕尼芝は宗家を覆えし、当時中山の衰頽に乗じてその覊絆を脱し、自ら北山王を名乗って天下三分の形勢を作った。
史上の名護按司と羽地、国頭の諸按司は、怕尼芝に敗れた今帰仁城主の弟君で、血縁のつながりから、骨肉相噛む北山の内紅を身近かに感じ、怕尼芝の謀反をいた<忌み嫌った。それで名護按司は、今帰仁を遂はれた城主の弟とその家族達を保護隠匿するなど、暗に敵対行為を示し、捲土重来の機会
を待っていた。即ち一族の諸按司が大義を以て合従同盟を結び、敢て社禝の義戦を戦はなかったのは、怕尼芝の武力と権勢に対し、相桔抗すべく余りにも微弱であったことに原因する。
以来柏尼芝の統は珉、攀安知と三代九十一年に亘り北山に覇を唱え、中山、南山に倣って明に進貢して冊封を受けたが一四一六年中山の尚巴志に征服されて遂に滅亡した。巴志の北山出師の前后において、名護按司等一族累代の諸按司が策戦の枢機に参劃し、中山王を尊いて宗家の一族を攻め滅ぽす挙に出たことは正史の伝える所であるが、宗家を滅ぼした北山王が、感情的に好ましくないというより、彼の武力が是等三按司家の存立の脅威であったがため、敢て遠交近交の策に出たものと思はれる。
吾々は今まで古い時代の統治者即ち名護按司に、ついて主として北山との関係において、その来歴を略述したが、英祖王の子で北山の世の主になった湧川王子の孫(今帰仁城主の弟)が正史に出て来る最初の名護按司であることは既に述べておいた。しかし当の名護按司は、何時頃名護に封ぜられたの
かその年代を明かにすることが出来ない。実兄に当る今帰仁城主は、一族の怕尼芝に取って代えられ、城主の一家は浪々の身となって、親戚の名護按司を頼りに匿っている事情から推して、この事変以前に遡ることであろう。
三山鼎立の当初、怕尼芝が中山の覇絆を脱して独立を唱え出したのは、
玉城王の治世の中葉一三二五年頃の出来事で、従って、仲北山系の名護城按司の起りは、これに先立つ十数年以前ではない。察するに玉城王が統を継いだ一三一四年頃と見て、今を距る凡そ六百四十年が名護城中興期である。
巴志の北山攻略戦で、名護按司等門中の諸按司は、六路軍の部将として今帰仁城下に奮戦し、仇敵を仆して宿願を成就したが、彼等はまたこの兵戦で殊動を樹て.巴志に忠誠を尽しているから、夫々の地位や所領に安堵することが出来たであらう。しかし巴志は仲北山王統の復僻を欲しなかった。北山滅亡後六年、一四二二年には次子尚忠を今帰仁城に遣はし、監守として北山の守護に任じている。これを要するに、北山が険岨を恃み、索朴剛健な気風を以て中山の教化に靡かず、再び兵乱の起らんことを恐れたからである。
一四六八年、中山には復々世替りが起って、巴志王統の末王尚徳は廃された。翌年尚円が即位すると、巳志の三男なる北山監守は亡び、城内官職に在った仲北山系の一族も離散亡命した。この革命騒ぎで、仲北山に統を汲む諸按司家の内部に動揺が起きたかどうかは知られていないが、怕尼芝纂立の時と異って、名護按司は亡命者を隠蔽するようなことはなく「寧ろ友邦に贈るとも家奴に与うる勿れ」と、支那流の方策に見倣ってか、今度は門中の亡命者を見殺しにして、孜々按司家の保全に力めた。一四七七年尚真登極して中央集権の策を樹て、各間切に城砦を構え、戦士を抱える按司達から武器を没収して、按司とその家臣を束ねて居を首里城下に移した。名護按司が首里の北の平等に引き揚げた年代は明らかにされていないが、一五〇〇年頃で今を距る凡そ四百六十年も昔のことである。
顧みる仲昔北山の盛んなる頃、湧川王子の孫が名護按司として名談城に拠り、間切人民を支配するようになってから凡そ二百年、住民達は城を中心に聚落を作って繁植したが、按司家とその家臣逹が引払った後の山上部落は、間もなく平地えと分散して、古城には祭祀と伝説だけが残った。
名護城は天孫氏以来の按司の居城たりし地で、歴代の按司はこヽを根拠に間切住民を支配した。城は海抜三百呎に達する瞼峻な山塞で、南面は名護湾に迫って水清く、波濤によってのし上げた白い珊瑚の砂丘が陸地を拡げつヽ海に向って前進し、北西遙かに嘉津宇の連峰を距てヽ、その間数哩に及ぶ緩やかな丘陵は、住民に農耕地を与えるだけでなく、戦略的には遮ることのない広い展望が、外敵の襲来に備えて哨戒に都合がよく、北東の背面は嶮難な名護岳と一連の山続きで、城砦の後楯ともすべき数丈の懸涯は、城川の渓谷に落ち込んでいる。形相が軍事的或は政治的見地からして、当代に.おける優れた要衝であったことは、ぐすくという名称からしても間切唯一の城都たることが窺はれる。しかし名護城に残る古い伝承は、のろ、根神、内神などの神職と住民達の祖神名幸の墳墓があるだけで、城砦の構築に使用されたと覚しき木石の遺存するものがない、朝鮮瓦の破片が時々地中から堀り出されるけれども、これは後代に属するもので、当代の城塞は茅萱の類で葺き、篠竹を編んで囲塀を作り、これを縄で繋ぎ固めて八尋殿(やひるどん)、十尋殿(とひろどん) と称していた程で民力と文化の程度は低かった。首里王城てもまだ瓦は使っていない時代である。