寡黙庵:琉球・沖縄の地域史調査研究)(管理人:仲原)
【もくじ:トップページ】
・源朝朝公の運天渡来伝承
・良港としての自然条件が備わっている。
・北山の時代から、海上交通の重要な要所として機能していた。
・『海東諸紀』に「雲見泊要津」とある。
・『おもろさうし』に「うむてん」とうたわれている。
・薩摩軍の琉球侵攻の舟元がこほり(古宇利)と運天であった。
・近世紀初期から、源為朝の運天上陸伝説がある。
・薩摩への「仕上世米」の積み出し港であった。
・運天に番所(後の役場)・在番が置かれた。
・近世琉球の中国対策の一役を担っていた。
・歴史的な百按司墓・大北墓・大和墓・オランダ墓や古墓群などがある。
・琉球・日本との通商を目的とした外国船が来航した。
・避難や風待ちのために一時寄港地として利用された。
・大正5年運天番所(役場)を仲宗根に移転する。
・大正11年に「源為朝公上陸之址碑」の建立
・大正13年に運天隧道(トンネル)の開通
・古宇利島への発着港(昭和23年~平成15年)




2002.5.21(火)
2000(平成12)年8月21日(月)国頭村辺土名での海神祭(ウンザミ)を見る機会があった。下の写真はその時のものである。その日は盆明けの亥の日だったと記憶。かつては伊地・宇良・辺土名の順で拝んでいたという。その日は三ヶ所の神アサギで祭祀を行っていたが、辺土名ノロが回ることはなかった。伊地・宇良の神アサギに神酒や地元の神人二、三名と村人が何名か参加していた。
辺土名の上島の神アサギに村人とノロの代理(?)や神人(白の神衣装は着ていない)が参加していた。祈りの時勾玉を首からかけなかったので、ノロの代理をしている神人(あるいは簪や勾玉や水晶玉を管理している人)なのだろうか。特にヌミ(弓)などの用具は準備してなかった。大分簡略化されている。
海神祭が行われる神アサギは、辺土名の上島(古島)集落から更に登ったところにある。登っていくと神アサギの手前に庭(ミャー・広場)があり、神人を除く一般の村人達が男女に分かれて座る。神アサギの中に神衣装をまとった神人達が一段高いところに座る。男性の神役だろうか、一段低い場所から神人一人ひとりに神酒をつぐ。神人の前に紙皿に盛ったご馳走(揚げ豆腐・紅白のカマボコ・天ぷら・昆布・三枚肉)が置かれる。また、アサギナーに座っている村人にもご馳走や神酒が配られる。
花模様(牡丹?)の簪と二個の勾玉、そして水晶玉(大小と透明のと緑ぼっいのがある)。また簪の竿部分に絹糸の紐がある。勾玉は濃い紺色と茶色ぽっいのと二個あり。
▲辺土名ノロの簪と勾玉・水晶玉 ▲辺土名の神アサギ



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昭太寺に関する文献記録(伊江村史)がある。その中に「昇格登記通蝶」、「寺修補並水庫仕立記」、「水庫」、「寺囲植樹のこと」についてある。ここで念頭にいれておきたいのは「寺囲い植樹のこと」である。昭泰寺が大破し雨漏りで住むには困難である。雍正十一年癸丑四月(1733年)の修補のときに書き記したもののようである。以下のようにある。
一、寺囲い植樹のこと
お寺囲い植木無之に付風屏の為に、がじまる木枝五十八本並にうすく木枝二十二本、
福木八十本植付其首尾方も申上候処、甚だ暑く挿し木にして四十五本植付盛生承り
候間時節御見合を以て植付らえれ度候
その中に屋敷囲いに福木80本植え付け(時節御見合)風屏にしている。その福木が雍正十一年癸丑四月(1733年)頃に植えつけたと見たら、福木が屋敷林として風よけにいいということを認識していたことがわかる。つまり福木を屋敷林にしていたのはそれ以前に前例があったということなる。伊江島の昭泰寺囲いの福木の植樹はそのころとみてよさそうである。その福木はどこからかとなると、伊江島番所跡周辺にも大木の福木があり、そこらからの種子や移植の可能性が十分にある。
1700年代の移動集落の屋敷囲いに福木を植樹したであろう。しかし、それ以前から福木を屋敷林として風屏にしていたことが、そのことが寺囲いに福木を植えつけることになったのでろう。(近く伊江島に渡るので昭泰寺の福木は樹齢約270年か(2015年から)と感慨にふけてみるか。伊江島番所の福木は?)(現況の確認はしていないので書替え事になるかも)
(画像は略)
▲昭泰寺の福木(雍正13:1733年)頃に植えられた福木 ▲西江上集落あたりの福木



【伊江島の祭祀】(『のろ調査資料』中山盛茂・富村真演・宮城栄昌共著
※の祭祀はノロが関わる
※・旧正月 二十日吉日御折目
神人は各自担当の拝所(十二ヶ所)にえんどう豆二つ、ニンニク二つ、芋二つ、大根二本
を備え、各作物の豊作を祈願する。
・旧二月 麦穂祭(男折目)現在なし。
※・旧三月 麦大祭
唐豆、えん豆、麦入れの飯を供える。各家庭でも。
※・旧三月三日 ノロだけ、千人ガマ、宮てやがまを拝む。
・旧四月 畦払い、虫を海に流す。
※・旧五月 二十日後折目競馬
・旧六月 年浴 粟ご飯を供える。綱引き(現在なし)
※・旧七月 大折目(海神祭) 二十日以後の吉日
第一日 神人たちは白装束にホールンチャゴイ(かづらを頭にまとう)し、斉戒淋浴して
大船頭がなしの家に集まり祈願、二手に分かれて各所に祈願して、グスクの
御嶽に集まり、東江上御嶽である富里(ヒサト)御嶽へ遥拝。次にメーシカン
庭に移り粟神酒を供える。
第二日 神人たち、昼間飯(ヒルマムン)を持参してメーシカン庭に集まり、弓引きの
行事をする。
第三日 神人たちはフサト御嶽に集まる。
フサト根神(山城氏)が神人達の接待にあたる。フサトで七つの行事を行い門中
の若者の 牽く馬でグスク御嶽に駆け上がり、グスクの神に祈り、さらに東の方の
フサト、今帰仁神を遥拝浜下りをなし、そこで行事を行う(舟の回りを七回ま
わる。
ユー(魚)取りの所作をする。
以前はノロの五人だけが馬に乗った。全神人が参加する。
住民は第一日目各門中ごとに祈願、三日目はノロたちの祭祀をみる。
・旧八月 柴差し
※・旧九月 初種子(ハチダニ)、小麦、大麦、唐豆、えん豆などを選ぶことから、豊作を祈る。
各家庭
でも節日を祝う。
※・旧十二月二十四日 星の御願い、かまどを塗りか火神をまつる。 解御願
正月元旦 降天 立御願
【伊江島のシヌグ】
伊江島のシヌグは『琉球国由来記』(1713年)で「大折目」(七月日撰三日間)の後に、それも
日を撰ぶが「シノゴ折目」として行われる。
日撰を以、シノゴ折目トテ、御タカベ仕ル。様子ハ、色々作物ノ品品ニ、虫不付タメノ願
ニ、高一石ニ付キ、雑石二合完取合、御花・御五水・線香ニ仕替シ、城ノ頂ノ御イベ、
同所伊江セイノ御イベ、荒ノ浜御イベ・根所火神ヘ居テ、ノロ・掟神、御タカベ仕リ、万ズ
ノ蟲取集、海ニ捨テ、島中男女惣様、一日中遊申。昔ヨリ伝来テ仕ル也。
城の頂の御イベ→伊江セイの御イベ→荒の浜→集落内の根所火神へいき、ノロ・
掟神が御タカベを唱えながら、全ての虫を取り集め、海の方へ捨てる。その流れは
シヌグ(凌ぐ)である。
その様子を宮城真治氏は「宮城信治調査ノート」(昭和3年6月)でシニグは凌ぐであるとの
認識で記録してある。
【シニグ祭】
大ゆみの三日目後に行った。
ウヒャーという男の神職が行う。
東リンミャ(東りのろ殿内の庭)といりんミャー(中んノロ殿内の庭)とに集まり、シバと
いって、ヤブニッケイやアクチ(ムクタチバナ)の枝を持って悪鬼を追い払う。イッサン
ネービとて、東西各三人宛赤鉢巻をしたものが逃げてあるく。それは鬼であろう。
ウヒャーは「エートーホー
エートホー
ウニジレー(鬼は出よ)
トゥクワトドゥマリ(鬼は留まり)
ウニジレー(鬼は出よ)
エートーホー」
と唱える。ウシャパドモーまで追う。そこでもエートーホーをする。のろ等は、モーで見物する。
ウシャパドモーの南なるヤイナギ屋敷という空き家敷に竹槍を投げる。
東のミヤー人々はアラヌ浜に、イリヌミャーの人々はグシヌハマに行く。そこでかぶりもシバ
も捨てる。
2010年3月1日(月)メモ
今帰仁間切に岸本ノロがいた。現在、岸本村は字玉城に統合されている。統合は明治36年である。岸本ノ加ネイ(岸本ノロ)に関する以下の資料がある。玉城(岸本ノロ管轄の岸本村と寒水村の祭祀)を紹介する。玉城・岸本・寒水の三ヶ村は、村移動やノロ管轄、村の合併などがあり、また祭祀との関わりなど複雑である。そのため、村別とノロ管轄に分けて整理が必要。
玉城村と岸本村は「琉球国高究帳」と「絵図郷村帳」に登場するが、寒水村の登場はまだない。寒水村が登場するのは『琉球国由来記』(1713年)からである。寒水村は岸本村からの分割と見られる。岸本のろは岸本村と寒水村を管轄し、玉城のろは玉城村・謝名村・平敷村・仲宗根村を管轄する。
『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃:(田代安定)の岸本村の祭祀場として三ヶ所、寒水村も三ヶ所があげられている。ノロは岸本ノロクモイ管轄である。
・ノロクモイ火神 ・神アシアゲ ・嶌ノ大屋子火ノ神(岸本村の拝所)
・根神火神 ・神アシアゲ ・ウホンニヤ嶽(ウフンジャ嶽のことか)(寒水村の拝所)
沖縄縣指令第一四五號
国頭郡今帰仁村字玉城三百四十三番地
大城清次郎
外七名
大正二年十月十七日附願岸本
の加ネイ大城カマト死亡跡職
大城カマド採用ノ件認可ス
大正三年三月十八日
沖縄縣知事高橋啄也 沖縄県知事印
※上の県指令は大正三年なので、玉城・岸本・寒水が土地整理以後の番地である。岸本のろ家は大城清
次郎で、世帯番は岸本村三番地である(明治34年の砂糖消費税法改正之儀二付請願)。

▲岸本の加ネイ大城カマト→大城カマド ▲寒水の神アサギ
『琉球国由来記』(1713年)に、どう記録されているか。
岸本村にオホヰガワ嶽(神名:ヨロアゲマチュウノ御イベ)とある。岸本村は二度ほど移動しており、『琉球国由来記』(1713年)頃は、ウタキの位置からすると、寒水村(寒水原)のあった場所にあったと見られるので、注意が必要。同書の「年中祭祀」の所に岸本巫火神と神アシアゲがある。岸本巫の管轄である。岸本巫が管轄する村は岸本村と寒水村である。
岸本巫火神で行われる祭祀(『琉球国由来記』)は、以下の六つである。岸本・寒水の二カ村の百姓と岸本巫が関わる。
・麦稲祭
・年浴
・大折目
・柴指
・芋ナイ折目
・山留
・大折目次三日
岸本の神アシアゲでの祭祀は、百姓・居神・岸本巫が関わる。
・麦稲穂祭
・麦稲穂大祭
・年浴
・大折目
・柴指
・芋ナイ折目
寒水村は『琉球国由来記』(1713年)にウタキの記載はない。神アサギでの祭祀は、
・麦稲穂祭
・麦稲大祭
・年浴
・大折目
・柴指
・芋ナリ折目
・大折目次三日

▲ウフンジャ嶽(イベ) ▲ウフンジャ嶽(左縄がめぐらされている) ▲寒水の神アサギ
※上のウフンジャ嶽は側を流れる大井川の改修で消える。昭和44年頃まであった。

【上杉県令日誌】(明治14年11月29日)
朝の気温69度、午前8時40分に今帰仁番所、首里警察分署を出発する。
↓ 路を左に折れて小坂を登っていく。
↓ 巡査二名が護送する。村吏二人が纈袖(シボリソデ)して、
↓ 束竹を肩にして先駆けしていく。
↓ 両側の松並木続き断えず
↓ 大道は高低があり、曲折しながら過ぎていく。
↓ 右側の渓間に上運天村がある。
↓ 朝の煙が靄々(モヤモヤ)として棚引いている。
↓ 道端に一婦人あり、合掌して拝(イジギ)する。
↓ 行くこと数丁、勢理客村に入ろうとする。
↓ 仲村豊次郎の母カマト90歳がきて、合掌して拝謁(ハイエツ)する。
↓ 桃花色の外出着を新製して穿(ハ)き、児孫を傍らに侍す。令公輿を停められる。
↓ 目録の賞与あり、スデガホウと言って拝謝する。既に
↓ 途(ミチ)につく。
↓ この辺りは薯圃と藍畑あり。行くこと数丁。
↓ 広漠の水田と薯圃あり。
↓ 秧針(オウシン)(稲の苗)が青々として秀発している。
↓ 両側に藍壺六、七あり、藍葉を漬して染料を醸(カモ)す。
↓ 小さい流れを渡って仲宗根村に入る。
↓ 村の南に沿っていき、村を離れる処で路を回って上りまた下る。
↓ 二箇の空屋あり、ノロクモイの祭典(祭祀)を行う所という。
↓ 謝名村を過ぎる。
↓ 蕉(芭蕉)園多し。
↓ 行くこと数丁、馬将(馬場)あり。
↓ 圃(畑)の中に岩石が突起している。
既にして平敷村を過ぎる。
(続く)



2002.1.16(水)記録
15五日(火)大宜味村の北寄りの根路銘・大宜味・大兼久・謝名城をゆく。拘束されずの調査は楽しいものがある。天気は曇。ときどき小雨。11時頃から国五八号線を北上する。大宜味村の安根(アンネ)のバス停に車を止め、今帰仁からの道筋を振り返ってみた。安根から名護方面を見て、まず左手に大宜味村の山、旧羽地、そして名護の山が幾重にと重なって見える。名護の市街地から伊差川に至る部分は低く平らとなっている。そこから右手に本部半島が伸びる。しばらく台地状の地形となっている。嵐山一帯である。嵐山の丘陵地の後方に嘉津宇岳と八重岳が一段と高くみえる。
再び低い丘陵地があり、その右手に本部半島の満名川を挟んで本部町の今帰仁よりの山々と今帰仁村のパサンチヂやタキンチヂ・乙羽山の山並みへとつづく。さらに右側にいくとクボウの御嶽と馬鞍山(マンクラヤマ)の山並みが識別できる。クボウの御嶽の手前に今帰仁グスク、そして歴史文化センターがある。さらに右手に目をやると運天、手前の屋我地島の島がある。そして運古海峡(古宇利大橋の架設中)、古宇利島へと続く(写真の方が一目瞭然だが)。
さて、長くなったがその風景は国頭や大宜味の人達にとって今帰仁グスクがどう写るのか。国頭地方の人々の内面やその言葉にある時代を映していやしないだろうか。時々、そんなことを考えながら北のムラへ足を運ぶ。「沖縄の歴史」の三山鼎立時代の話をするのだが、具体的に今帰仁グスクを拠点にした12~15世紀の北山(山北)王が国頭や羽地、名護、金武地方をどのように支配し統治していたのか。まだ、その姿が見えてこないのである。
もし、国頭や羽地地方のムラやグスクが今帰仁グスクの北山王に物を献上したり、貢租を納めていたのか。あるいは今帰仁グスクへの勤めがあったのか。そういうことがあったとしたら国頭地方の役人(?)や人々は、今帰仁グスクへの勤めを果たしての帰路、大宜味の安根あたりから今帰仁グスクをあたりを振り向きながら、役目を果たして満足感を味わっていたのか、それとも重い貢租や暴君などに怒りや涙していたのか。
普段、今帰仁グスクのすぐ側で業務していると、三山鼎立時代の今帰仁以外の人々の動きや今帰仁グスクをみる視点がどういうものであったのか気になるところである。そういうこともあって、大宜味や国頭地方へと調査の足を向けている。
神アサギの調査は別に報告するので、大宜味村大宜味の「霊魂之塔」と「根謝銘グスク」について報告することにする。
大宜味の「霊魂之塔」(戦後の建立)は前から気にしていた塔である。というのは、塔の石は今帰仁村運天にある「源為朝公上陸之跡」の碑と同質の花崗岩である。明治7年国頭間切の宜名真沖で座礁したイギリス商船の船底に敷いたバラストだという。座礁したイギリス船員の墓地が宜名真にありオランダ墓と呼んでいる。霊魂之塔の向かって右横に「大正10年11月大宜味村立之」とあり、忠魂碑建立の年である。裏面はセメントが塗られ「忠魂碑」の文字が刻まれていた跡がある。大正11年に忠魂碑が建立され同年12月13日に忠魂碑の除幕式を行っている。向って左横に「元帥公爵山縣有朋」(下線部は埋まっている)とあり、揮毫は山形有朋である。因みに源為朝上陸之跡碑は元帥東郷平八郎である。その忠魂碑を利用して「霊魂之塔」を建立(戦後)してあるが、「忠魂碑」を再利用して「霊魂之塔」を。どんな議論がなされたのだろうか?
根謝銘グスクへ
今帰仁村中部地域のウプユミ 2002.10.11(金)整理
ここしばらく、まとまった資料づくりから離れている。今帰仁村の今泊(今帰仁グスク)と古宇利島の海神祭(ウンジャミ)についての参与観察記録は報告してきた。ウンジャミと同時期に行われる玉城ノロと中城ノロ管轄のウプユミについての参与観察記録は、歴史文化センターとしてまだ公にしていない。
今回は玉城ノロ管轄の旧暦七月最後の亥の日に行われるウプユミについて報告していく。一気にできないので日々作業を進めていくことにする(試行錯誤の作業なので随時変更する)。
〔今帰仁村中部地域のウプユミ〕①
今帰仁村の中部地域(玉城・謝名・平敷・仲宗根)の祭祀に旧暦七月最後の亥の日に行われるウプユミ(大折目)がある。玉城・謝名・平敷・仲宗根の四かムラ(字)は玉城ノロの管轄である。四かムラの年中祭祀、その中のウプユミ(大折目)について構築しておきたい。
今では玉城ノロが継承されていず、また祭祀そのものが断片的にしか行われていないため、ウプユミに参加した経験のある方々の記憶に留めているにしぎない。通して行われていないため、また聞き取りをしても記憶のあいまいさもあり全体の流れがなかなか見えてこない。
幸いにして、大正13年頃の『宮城真治民俗調査ノート』と昭和47年の「玉城部落調査報告」(普天間高等学校 郷土研究クラブ その時の写真が歴文に寄贈されている)がある。また筆者の参与観察も含めて再構築してみる。
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▲玉城の神アサギ(昭和47年) ▲謝名のペーフヤの庭で(昭和47年)
(写真提供は琉球大学の町田宗博氏)
今帰仁村中部地域のウプユミ 2002.10.12(土)整理
明日の講演?準備で詰まっています。これからテーマとスライドの選び出しです。1000枚余りの中から80枚。やっと尻に火がついたか! ウプユミは途中でチョンです。あしからず。徹夜状態かな!? 息抜きのコーヒーの差し入れでもないかな? 画面のあなたですよ。ハイ 遠慮はいりません。眠気覚ましじゃ。そう、そう湧泉散歩も朝のまんまだな!
〔今帰仁村中部地域のウプユミ〕②
大折目(ウプユミ)は海神祭(ウンジャミ)と呼ぶ地域もある。今帰仁村の中部地域は海との関わりよりも農耕(田畑)を中心としているため、ウンジャミではなくウプユミの呼び方をしているのであろう。仮説ではあるが、近世になって山・農耕・海の祭祀の合理化がなされたのではないか。その時、どの名称で呼ぶかとなると、海と関わりの強い地域はウンジャミ、そして農耕地域ではウプユミの名称を残したのではないか。玉城ノロの管轄するウプユミの祭祀に山・海・農耕の場面がどれだけ見い出せるか。
『琉球国由来記』(1713年)から玉城・平敷・謝名・仲宗根の大折目の記事を拾ってみると、以下のような供え物が出されている。注目されるのは魚とコバ餅。山の物がどれか。『宮城真治ノート』で「松の下で弓を引く」場面がある。この弓が狩猟を意味しているか。
・玉城巫火神 ・玉城村神アシャギ
線香・五水 五水・神酒・粟神酒・肴・コバ餅・魚
・平敷村神アシャギ ・謝名村神アシャギ
芋神酒・肴・粟神酒・焼酎・魚 芋神酒・魚・粟神酒・焼酎・魚
・謝名村神アシャギ
五水・神酒・肴・コバ餅
ウプユミが行われる日は旧暦7月最後の亥の日、古宇利島のウンジャミは旧盆明けの最初の亥の日、同一の日に行われることもある(今年)。まずは、祭祀が行われる場所の特定からしてみる(神人などについては別に扱う)。
〔今帰仁村中部地域のウプユミの拝所〕
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宮城真治ノート |
玉城調査(昭和47年) |
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玉城ノロ火神 |
①ヌル殿内の火神 |
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②ヌル殿内のミャー |
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玉城あしやげ |
③アシャギ |
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④ヤナジガー |
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⑤岸本アシアゲ |
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岸本ウカー |
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岸本あしやげ |
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まえ原 |
⑥神道(トーヌカ上から) |
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平敷御嶽 |
⑦平敷の神アサギ |
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| 謝 名 |
⑧謝名のアシャギ |
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ウペーフヤの庭 |
⑨ウペーフヤ |
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⑩謝名グスク(御嶽) |
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仲宗根 |
⑪仲宗根 |
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解散 |
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2011年頃、「北山の歴史」を整理していた頃、『中山世監』や『中山世譜』や『球陽』などで扱う「正史」から外れた歴史(野史)が脈々と生きていることに気づかされる。特に、国頭地方や名護地方、そして羽地地方、それと伊波グスクである。それらの地方に「仲北山」の興亡で離散した一族があることである。仲北山のジ時代から北山三王(ハ二ジ・ミン・ハンアンヂ)の時代に変わる時代である。三王のハ二ジ(長男)の兄弟が与論島(三男)、沖永良部島(次男)の流れを明確にする必要がある。そしてハ二ジ(1416年)以後は、中山の系統の支配(ノロ制度・古琉球の辞令書・おもろ編さん・まきり(後の間切)・古琉球の金石文など)だと考える必要がある。現大宜味村の根謝名にあるウイグスクを扱うのはその為である。その結論は『大宜味村史―民俗編』で報告。
グスクのウンガミ参照
【根謝銘(ウイ)グスクと関わる出来事】(歴史)
・大宜味村謝名城にある。
・根謝銘グスクはウイグスクと呼ばれる。
・標高100mの所に位置する。
・14~15世紀頃の筑城で大型のグスク
・丘陵頂上部に本部石灰岩で石塁をめぐらしてある。
・ウイグスク内に大グスク(イベか)と中グスク(イベ?)がある。
・出土遺物(土器・カムィ焼・青磁・鉄釘・獣骨などが出土
・貝塚も確認されている。
・1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に根謝銘(ウイ)グスクに「国頭城」とある。
(国頭按司の居城か。「国頭城」は北山滅亡後の「監守」制度を示しているものか)
(国頭間切の拠点は根謝銘(ウイ)グスクとみられる。国頭按司はまだウイグスクに居城か)
・1522年(弘治11) 真珠湊碑文に「まかねたるくにかミの大ほやくもい」(国頭の大やくもい)
とあり首里居住か。
・1624年(天啓4) 「本覚山碑文」に「国かみまさふろ」とあり、首里居住か。
・1597年(万暦25) 浦添城前の碑に「くにかミの大やくもいま五良」とあり、その当時の国頭
大くもいは首里に居住か。
・根謝銘(ウイ)グスクは1500年代まで(各地の按司を首里へ集居)は国頭按司の居城地か。
(1673年まで国頭間切は大宜味間切を含む地域である。大宜味按司はまだなし)
・国頭間切の安田里主所安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
(その頃国頭按司は首里に住む)。
・国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分
割以前(その頃国頭按司は首里に住む)。
・神アサギ/ウドゥンニーズ・トゥンチニーズ/地頭火神/カー/堀切/アザナあり
・旧暦7月に海神祭が行われる。
・按司墓あり
・屋嘉比川の河口に屋嘉比港あり(オモロ)
・『絵図郷村帳』(1648年頃)に「国頭間切 ねざめ村・城村・はま村・屋かひ村」とある。
・『琉球国高究帳』に「国頭間切 城村・屋嘉比村」とある。
・屋嘉比川の下流右岸に国頭番所(浜村)が置かれた。後に奥間村へ。
・1673年に国頭間切を分割して国頭間切と田港(大宜味)間切が創設される。
田港間切の番所は田港村へ、後に大宜味村(旧記の頃)、さらに塩屋村、さらに大宜味へ施設。
・1673年に屋嘉比村から見里村が分離したという。
・1673年後に屋嘉比村から親田村が分離したという。
・根路銘(ウイ)グスク内の地頭火神は国頭按司と国頭惣地頭火神と大宜味按司と大宜見親方の火
神が重なっても問題なし。
(国頭按司地頭クラスの石燈籠は国頭村比地・辺戸・奥にあるので、間切分割後の
国頭按司は国頭間切内へ)
・1695年 屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
・1713年『琉球国由来記』に、「大宜味間切 城村・根謝銘村」、「国頭間切 濱村
・親田村・屋嘉比村・見里村」がある。
・1719年国頭間切の村であった見里村・親田村・田嘉里村が大宜味間切へ。
(1736~95年の絵図には番所は塩屋村にあった:大宜味役場蔵?)
・1732年(雍正10) 国頭番所は浜村から奥間村へ移設。
・明治36年に根謝銘村と城村と一名代村が合併し謝名城村となる。
・明治36年に親田村と屋嘉比村と見里村が合併して田嘉里村となる。
・明治41年に国頭間切は国頭村(ソン)、大宜味間切は大宜味村となる。これまでの村(ムラ)は
字(アザ)となる。
・1911年塩屋にあった役場を大宜味へ移転。
※根謝銘グスク内の御嶽(イビ?)の名称は『琉球国由来記』(1713年)とでは混乱している
ようである。
・中城之嶽(神名:大ツカサ)(見里村・屋嘉比ノロ管轄)…大城の嶽(田嘉里:屋嘉比ノロ)
(当時国頭間切)
・小城嶽(神名:大ツカサナヌシ)(城村・城ノロ管轄)…中城の嶽(謝名城:城ノロ)(当時大宜味間切)

▲屋嘉比港からみたウイグスク ▲ウイグスクから見た屋嘉比港 ▲グスク内にある神アサギ

▲グスク内にあるウフグスク嶽(イビ)▲グスク内にあるナカグスク嶽(イビ) ▲地頭火神の祠

▲国頭按司(大宜味按司?)の墓 ▲ヌルガー ▲トゥンチニーズとウドゥンニーズ(火神)の祠

▲今帰仁グスクが遠望できる ▲国頭按司寄進の石燈籠か(奥)

▲城ノロドゥンチの建物 ▲ノロドゥンチの側にある石の香炉
仲原馬場(ナカバルババ)と松並木(越地)(平成2年11月号)
ナカバルババ(仲原馬場)は別名マーウイとも呼ばれ、今帰仁小学校の西側に位置する。よく写真に写される場所であり、戦前、戦後の写真が何枚か残っている。仲原馬場は昭和34年に県の文化財(史跡)指定をうけている。馬場は距離にして約 250メートル、幅約30メートルあり、中央部に石垣が残り(上の写真の中央部の左側)アブシバレーや間切(現在の村)行事の時の来賓席だったという。
写真にみるように競走路の両側には松の大木が並木をなし、その風景は見る人の胸をうつ。それらの松は、別名蔡温松とも呼ばれ松の樹齢を感じさせる。大木の松が数少なくなったが、老松の間に30年余りの若松が勢いよく成長し、松の世代交代をみせつけている。馬場の左側にキビ畑がみえ、まだ運動場が移転する前(昭和30年代後半)の風景である。
今帰仁村には、仲原馬場のほかに、今泊や天底にも馬場があった。馬場は人工的な施設であり、いつ頃つくられ始めたのかはっきりしないが、『球陽』の1695年の記事に首里に戯馬場がなく、各地に行き騎馬の方法を習って、馬場を西原郡(間切)平良邑に開いたとある。それ以前の『琉球諸島航海日誌』(1614~15年)にも競馬が行なわれていたことを記してある。今帰仁の仲原馬場の起源については、今のところ定かでない。
『沖縄県統計概表』(明治13年)は、「馬場ナルモノハ毎歳収穫ノ時ニ至リ一間切ノ人民此相会シ各穀物ノ熟否ヲ較ヘ随テ平生労力ノ勤怠ヲ鑑別スル所ナリ」とあり、馬場は間切に人民が揃い原山勝負を行なわう施設であった。その余興として競馬が開催された。
今帰仁村の仲原馬場は字の示す通り、仲原にある競馬場ということになるが、現在字越地の小字与比地原(ユピチバル)に位置する。越地は昭和12年に謝名と仲宗根の一部をあわせてできた字(アザ)である。馬場のある地が仲原という地名であったとみられる。それを証拠づけるように、明治13年の『沖縄県統計概表』に「仲原(今帰仁)」、明治31年の『琉球新報』に「今帰仁尋常高等小学校の新築工事請負入札広告」があり、「但、敷地は今帰仁間切謝名村字中原にして・・・」、同様に明治32年「今帰仁尋常小学校に高等科を併置し、今帰仁小学校と改称、敷地を謝名仲原二五三番地(現敷地)に新築移転」と記し、明治31、32年頃は現在の今帰仁小学校あたりは字仲原であったことがわかる。
仲原馬場と呼ぶのは、現在の馬場一帯が仲原という小字で、それにちなんで名付けられたと思われる。小字の組替がなされても、かつての呼び方を踏襲し、仲原という地名と人工的施設である馬場が連称され、「仲原馬場」と呼ばれている。その仲原馬場は、本来今帰仁間切の公共的な施設で、アブシバレーや原山勝負などを行なう施設で、競馬や闘牛・相撲などはその余興として行なわれた。
下の写真は、昭和35年頃の県道沿いの松並木(一部仲原馬場)である。昭和33年の記録をみると、謝名から今泊に至る街道の両側にある琉球松の大木は約 410本あったと記している。写真の手前右側に運動場があり、バスが通っている場所は二又に別れていた記憶が今に残る。
※アブシバレーは間切(村)あげての行事で、その日はクージビ(公の休息日)で、最初の日は仲原馬場で馬二頭づつ
競馬が行われた。翌日は天底馬場、翌々日は親泊(今泊)馬場で、同様なことが行われていた。
下の写真は1972・5・15ドギュメント「沖縄が祖国へ帰るまで」復帰特集号(琉球新報社編)に掲載された
仲原馬場である。復帰の年は東京で学生をしていた頃である。小川徹先生や桜井徳太郎先生の講座や新聞記事にひかれていた。学生運動の最後のころである。写真の風景は小学校生のころである。運動会の練習や体育の勉強は馬場で行った記憶がよみがえる。

名護湾岸のムラ・シマ
「沖縄地域の文化論」(3回)レジゥメ 2011.10.4
はじめに
・名護間切の変遷
・名護湾岸のムラ・シマ
・名護市屋部の現在の風景
・名護市宮里・屋部
・プーミチャー(屋部の古島)
・ナナシキ(七月森)の伝承
・屋部の大島
・屋部寺(凌雲院)と久護家と福木囲い
・名護村(マチ)の展開
・名護のマチの移り変わり
・イルカ狩りと捕鯨
まとめ



参考文献:「なきじん研究」(今帰仁村歴史文化センター)
『わがまち・わがむら』(名護市)
『名護:人々の100年』(名護市)
その他




2002年10月23日(水)過去記録
24日から26日まで南大東島です。
今晩は「渡喜仁」の字誌の検討会がある。1945年から67年までの議事録に目を通してみる。明日から南大東島へ。その準備もあり。今日は体力をセーブしないと・・・。午前中は大丈夫そうだ。
昨日は頭痛と吐き気でダウン状態。どうにか持ちそうだ。これから、もう一つ頭をめぐらさなければならない字誌がある。2時間ばかりの講座なのだ。前回は資料を準備して出張したのにお流れにしたようだ。一服できると思っていたのに。
明日の南大東島行き大丈夫だろうか。数名の回数券チケット何故か私の方に送られてきているじゃないか。信用あってのことだろうと思うのだが。来月、マットウバかどうか人間ドッグで頭の検査をすること知らないのだね。また、一番遠いのだぞ空港まで。地域史の皆さん。朝5時に自宅を出ないと行けないな。言いたいこと書きましたので忘れないでしょう。ハハッハ。みんなのためじゃ。早く片付け、徹夜なしにしましょうかね。
南大東島。はじめての島。あれみっけ。それみっけの島だろうか。八丈島?と沖縄のチャンポン文化だろうか。どん顔をした人たちが住んでいるのだろうか。大東島を見ることで足元の歴史文化を見ていくキーワードを見つけることができるだろうか。楽しみじゃ。先日行った黒島が沖縄のアイルランドと言葉を発したが、大東島はどうだろうか。
確か明治25年は那覇港を出港した大有丸は天候が悪く運天港に停泊して大東島に出港した記事があった。玉置時代と言われる八丈島出身の人物の登場がある。島の歴史はなかなか興味深いものがある。どんな歴史を歩んできたのかは、明日からの研修で学ぶこと多いであろう。島の人たちの顔、どんな表情を見せてくれるのか。いい旅したいもんだ。
2002年10月27日(日)過去記録
昨日南大東島から帰ってきた。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島の東に浮かぶ大きな島という意味のようだ。今はダイトウジマと読んでいる。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島から東の太平洋上に大きな島があるという認識が読み取れる。通りすがりや漂着した人たちが立ち寄った形跡はあるようだが、沖縄貝塚時代(縄文・弥生期)やグスク時代、そして近世に至って人々が長期に渡って居住した痕跡は確認されていないようだ。
南大東島の北港から北方に北大東島を見ることができる。案内してくれた教育委員会の宮城さんは「あの島に姉が嫁いでいるのですよ・・・。目の前にみえますがね。ボートで渡れるのですが、先が見えず波が天井から落ちてくる感じですよ」と。島には自然の入江がなく、南の亀池港や西港などの港は人工的に陸側に入江を切り込んでつくってある。漁から入江の港に帰ってきたボートは、すぐクレーンで陸に吊り上げている姿を見た。島の周辺の海岸や港を一周していると、荒波や切り立った海岸が人を寄せ付けてこなかった歴史の一面が伺える。
..
▲海岸はいつも荒波だそうだ! ▲直接外洋と接した港。接岸できません
切り立った断崖と押し寄せる荒波が人を寄せつけない環境であるが、島の内陸部は盆地状で幕(ハグ)と呼ばれる二重・三重にめぐらされた防潮風林が続き、そしていくつかの池があり大陸的な穏やかな島に一転する。


.... ▲内陸部にある池の一つ大池
..
▲ほとんどが大規模なサトウキビ畑 ▲落ち着きをみせる石積みの建物
現在につながる人々の居住は明治33年に遡る。


2002.10.27(日)
昨日南大東島から帰ってきた。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島の東に浮かぶ大きな島という意味のようだ。今はダイトウジマと読んでいる。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島から東の太平洋上に大きな島があるという認識が読み取れる。通りすがりや漂着した人たちが立ち寄った形跡はあるようだが、沖縄貝塚時代(縄文・弥生期)やグスク時代、そして近世に至って人々が長期に渡って居住した痕跡は確認されていないようだ。
南大東島の北港から北方に北大東島を見ることができる。案内してくれた教育委員会の宮城さんは「あの島に姉が嫁いでいるのですよ・・・。目の前にみえますがね。ボートで渡れるのですが、先が見えず波が天井から落ちてくる感じですよ」と。島には自然の入江がなく、南の亀池港や西港などの港は人工的に陸側に入江を切り込んでつくってある。漁から入江の港に帰ってきたボートは、すぐクレーンで陸に吊り上げている姿を見た。島の周辺の海岸や港を一周していると、荒波や切り立った海岸が人を寄せ付けてこなかった歴史の一面が伺える。

..
▲海岸はいつも荒波だそうだ! ▲直接外洋と接した港。接岸できません
切り立った断崖と押し寄せる荒波が人を寄せつけない環境であるが、島の内陸部は盆地状で幕(ハグ)と呼ばれる二重・三重にめぐらされた防潮風林が続き、そしていくつかの池があり大陸的な穏やかな島に一転する。
現在につながる人々の居住は明治33年に遡る。


▲ほとんどが大規模なサトウキビ畑 ▲落ち着きをみせる石積みの建物



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・上間家(上間殿内)の拝所
・具志堅ノロ殿内の跡?
・神道
・具志堅のお宮(拝殿・神殿:グスク)
・神ハサーギ
・真部の旧家跡
・真部の神アサギ跡
・ふぷがー(大川)

▲上間屋(上間殿内ウイマドゥンチ) ▲上間屋の拝所の内部

▲グスク(ウタキ)のイベ ▲具志堅の神ハサーギ

▲神ハサーギの内部 ▲旧家の石垣(真部)

▲具志堅の大川(フプガー) ▲ウガーミ(真部のウタキ)


②今帰仁村仲尾次
仲尾次の概況(2009年5月16日)記録
・仲尾次は方言でナコーシやノホーシとよぶ。
・現在の仲尾次は11の小字からなる(当原・水溜原・仲道原・前原・神里原・バナ原・
前平原・新石原・立石原・上原・尾山原)。
・当原(アタイバル)は、その村(ムラ)の中心となる。今帰仁グスクの前もハタイ
原という。そこはかつての集落の中心であった。
・仲尾次は1600年代には「中城村」とある。
・今帰仁村に玉城と兼次がある。玉城はタモーシ、兼次(兼城)はハニーシという。
中城は?
・仲尾次はスガーウタキ(ナカグスク)あたりからの移動村である。
・今でもウタキ(グスク)にウガン(祈願)にいく。(旧1月1日、五月ウマチー、
七月最後の亥の日、九月ウマチー)
・もともと「中城ノロ」を出す村(ムラ)だった。
・中城ノロは崎山・仲尾次(中城)・諸志(諸喜田)・兼次の祭祀(さいし)を
つかさどる。
・農村構造センター(公民館)前に神ハサギあり、神道(ヌル道)が残されている。
・仲尾次は山手から海岸に細長くのびる。
・豊年祭のスタートは崎山のウドゥイバンタでの御願踊り(ウガンウドゥイ)を行う。
・北山高等学校がある。
・ハウス栽培のスイカや野菜栽培がさかん。
・仲尾次に数か所に石橋があった。その一つが残っている。
・現存する石橋の近くは水溜原(ミンタマイバル)といい、池があった。
・イリガーと呼ばれる井戸がある。そのような井戸はチンジャという。吊るカーのこと
か。
(石柱がある)
・海岸に石柱を切り出した石切り場がある。
・イジヌイヤーヤ(岩屋)、竜宮の神様をまつってあるとか。鍾乳洞(しょうにゅうど
う)の洞窟(どうくつ)になっている。あるユタが1971年に設置した「酉龍宮権現」
の碑がある。
仲尾次はいくつも歴史を読み取っていくキーワードを提示してくれる。仲尾次の集落とウタキの関係を見ていくと「移動村である」こと。仲尾次は1600年代まで仲城村であったこと。それと中城ノロを排出した村であり、『琉球国由来記』(1713年)の頃には、中城と仲尾次が登場する。中城ノロは中城村がでたが、継承者がなく中城村→与那嶺村、さらに諸喜田村(現在の諸志)へ移動している。しかし、名称は中城ノロを今に伝えている。
中城ノロ家(現在諸志)には戦前9枚の辞令書があった。戦争で失っているが、幸いにして記録や写真(2枚)に残されている。写真で残されたのは「中城ノロ」の辞令書である。一枚は1605年の発給なので北山監守(今帰仁按司)五世克祉、もう一枚は六世縄祖の時代のものである。中城村が仲尾次になるのは、寛文8年(1668)の布令「中城と申名字衆中百姓下々迄も、御法度にて候間、別名に替申様可被申渡候」に沿ったのであれば、中城村を名乗ることが禁止されたので仲尾次村に改称したということになる。しかし、その後も中城ノロはそのまま使うし、村名も『琉球国由来記』(1713年)では両方が出てくる。下の二枚の辞令書は1668年以前なので布令の前である。
崎山にヌルドゥンチ跡がある。中城ノロが関わる祭祀の時、必ず拝む場所である。下の辞令書が発給された頃は、そこに居住していたことが想定される(今帰仁ノロ火神やアオリヤエノロ火神の例からしても)。中城村の集落も崎山にあるノロドゥンチ跡地から中尾次之嶽に至る地域にあったと見られる。それは中城巫火神(現在崎山地内にある)は中城村にあり、現在地への集落の移動は、『琉球国由来記』(1713年)より後のこととみられる。同書にある「ギネンサ嶽御イベ」を中尾次村とあるが、崎山村ではないか。崎山のウタキはジンニンサガーラの後方にあるウタキである。詳細に触れないが、『琉球国由来記』(1713年)の村の並び、そして中城之嶽(スガーウタキ)の地番が平敷地番であることなど。
仲尾次の村移動や集落移動、崎山を含めて検討を必要とし、その手掛かりがつかめそうである。
・今帰仁間切中城ノロ職j叙任辞令書(万暦33年:1605)
しよりの御ミ事
ミやきせんまきりの
中くすくのろハ
もとののろのくわ
一人まうしに
たまわり申候
しよりよりまうしが方へまいゐる
万暦三十三年九月十八日
・今帰仁間切中城ノロ職j叙任辞令書(隆武8年:1652)
首里乃御美事
今帰仁間切之
中城のろハ
一人かなに
たまわり申候
隆武八年二月五日
▲「中城ノロ辞令書」(1605年) ▲「中城ノロ辞令書」(1652年)
【調査コース】
・仲尾次の神ハサギ
・仲尾次の石橋
・掘り込み井戸(チンジャ)と石柱
・泰山石敢當
・戦没者の慰霊塔
・石切り場
・竜宮(洞窟)(どうくつ)(イジュヌイヤーヤ)(今回、満潮でいくことできず)
(画像略)
▲仲尾次の井戸(イリヌハー:チンジャ) ▲海岸の石切り場
.今帰仁間切(山原のノロドゥンチ参照)
今回は今帰仁グスク周辺の拝所と、かつて今帰仁グスクへの主要道であったであろうハンタ道をたどることにした。現在の今泊集落は今帰仁グスクの麓の海に近い場所に位置している。今帰仁グスク周辺に、今帰仁阿応理屋恵殿内火神の祠・今帰仁ノロ殿内火神の祠・トモノハーニ殿内火神の祠があり、ハンタ道沿いにミームングスクやハタイバルウーニ、そして神送り場所と見られる(ナガレ庭)、さらに下ると親川(エーガー)がある。グスク周辺にある火神の祠や拝所が、集落移動の痕跡を示す手掛かりとなり、一つの法則が見いだせる。
今帰仁グスク内の『琉球国由来記』(1713年)でいう「城内上之嶽」と「城内下之嶽」が今帰仁村(ムラ)にあるとある。両村が明治36年に合併し、同39年に分離し、昭和48年に再び合併し現在に至る。今帰仁グスクのあるハンタ原は親泊村域である。さらに古い1742年の「今帰仁旧城図」では「はんた原フノ印竿本ヨリ戌下小間右少十八間」とあるが、どの村かは明確に記されていない。
ところが、それより古い『琉球国由来記』(1713年)で今帰仁グスク(ハンタ原)は今帰仁村内である。どの時期に今帰仁グスクのあるハンタ原が親泊村に組み込まれたのか。その議論はこれまでなされたことがない(集落移動や今帰仁グスク内のウタキ(イビ)と村との関係をしる手がかりとなる重要な要素をもっているので改めて整理することに)。
もう一つ今帰仁グスクの近くにあった今帰仁村が麓に移動し、今帰仁グスクにいた今帰仁(北山)監守一族は今帰仁村へ移り住んでいる。今帰仁按司六世の位牌のある屋敷跡は今帰仁村側にあるので説明がつく。ところが、すでに今帰仁グスク近郊から麓に移動している『琉球国由来記』(1713年)の頃の阿応理屋恵按司火神は親泊村にある。親泊村側に阿応理屋恵按司火神があったとするなら、現在の今帰仁村側にあるオーレーウドゥン跡ではなく、親泊村側に求める必要がある。
画像略
▲今帰仁阿応理屋恵ノロ殿内火神の祠と内部の火神(今帰仁グスク付近)



【伊是名島の四つのムラの集落移動】
伊是名島には『琉球国由来記』(1713年)で登場する村(ムラ)は伊是名・勢理客・仲田・諸見の四つである。内花は昭和19年に字として諸見から独立しているので、ここでは扱わない。ここではグスク内にある御嶽(イベ)と祭祀との関わりで見てみる(山原のムラを見る視点、集落・御嶽・神アサギの関係と祭祀)。
『琉球国由来記』に出てくる伊是名グスク内にイベが三つ出てくる。それらのイベとムラ(あるいは集落と祭祀)の関係がどうなっているのか。集落の発生と密接に結びついている御嶽(御嶽の内部のイベ)と集落。その結びつきが祭祀の拝む場所(御嶽:イビ)に痕跡としてあるのではないか。伊是名グスクは標高97mのピラミット型の杜で、またグスクでもある。グスク内(杜)に以下の三つのイベがある。
・伊是名ミヤ御イベ:神名 伊是名森(公儀祈願所伊是名城内)←伊是名
・高城ミヤ御イベ:神名 スエノ森(公儀祈願所伊是名城内)←勢理客
・大城ミヤ御イベ:神名 真玉森(公儀祈願所伊是名城内)←(諸見・仲田)
伊是名グスクの三つのイベで、大城ミヤ御イベで諸見と仲田、高城ミヤ御イベで勢理客、そして伊是名ミヤ御イベで伊是名の人たちがウンジャミとシニグを行なっている。山原の今帰仁グスク内の二つの御嶽(イビ)、根謝銘グスク内の二つの御嶽(イビ)と同様な形態をなしている。それはグスク(御嶽:杜)に二つの集落があり、その杜がグスクとなり、杜にあった集落が移動。集落が移動しても御嶽(イビ)への祭祀は途絶えることなく継承される。そのことが、伊是名グスクにも適用できそうである。
その視点で伊是名グスク内のイベと集落の関係を見ると、伊是名杜(後にグスク)内や麓にあった伊是名・勢理客・(諸見・仲田)の集落が、そこから移動していった。イベある一帯はそれぞれの集落の故地であると。諸見と仲田は移動する前は一つの集落で、移動時あるいは移動後に二つの集落(後にムラ)に分かれた可能性がある。1713年以前の分離なので、それぞれに神アサギがあって当然なこと。(伊平屋あんがなし、二かや田、銘刈家、それと伊是名ノロの祭祀の関わりなどを含め詳細な調査検討が必要)。
【伊是名ムラの集落移動】
伊是名については、すでに解かれているように伊是名グスクから伊是名の上村へ、そこからさらに現在地に移動している。伊是名グスクあたりを元島、そこから移動した地を上村と呼び、地名(小字名:原名)に移動の痕跡を遺している。
【勢理客ムラの集落移動】
【諸見・仲田ムラの集落移動】

▲杜の内部、あるいは麓一帯に集落? ▲グスクから仲田・諸見集落をみる
2005.05.06(金)記録
「伊是名ゆき」の目的に伊是名港と山原船の件があった。伊是名は島なので、現在でも海上輸送が主である。王府時代に伊是名島に共有船や個人船(いずれも山原船)があり、沖縄本島との間で物資の輸送があった。山原船は帆での運航なので予定は風任せである。
以下の略年譜のように番所や役場は伊是名村から仲田に移動。さらに伊平屋村は昭和14年
に伊平屋村と伊是名村に分村する。
・伊平屋島の番所は伊是名村(ムラ)に置かれる。
・明治13年伊是名村の番所内に伊平屋島役所が設置される。
・明治14年伊平屋役所は那覇役所に併合され、番所はそのまま置かれる。
・明治29年郡区制が敷かれ、伊平屋島は那覇役所から島尻郡区に編入される。
・明治30年伊平屋島番所は役場と改称される。地頭代は島長となる。
・大正11年(1922)の伊福丸が伊平屋村と那覇間を就航する。
・昭和6年伊平屋村(伊是名含)役場は伊是名から仲田へ移動。
・昭和14年(1939)に伊平屋は伊平屋村と伊是名村とに分村し、伊是名村の役場は
仲田に決定する。
・伊福丸は伊是名村と伊平屋村の共同経営となる。昭和19年の10.10空襲で爆撃をうける。
・昭和39年(1964)に仲田港を拡張・整備をする。
【明治の新聞記事】
・難破船(明治31年4月15日)
・琉球形帆船の流失(明治32年8月7日)
・琉球形船の行方不明(明治34年7月7日)
・難破船(明治36年7月9日)
・山原船の海難(明治38年11月5日)
・難破船一束(明治39年10月30日)
・難破船(明治42年3月31日)
・山原船の転覆(明治43年1月23日)
新聞記事の一例「山原船の転覆」(明治43年1月23日)を全文紹介する。
島尻郡伊平屋村字伊是名の共有山原三反帆船は、同村仲田四郎を船頭として外三名
乗込み、藁三千五丸、藁五十枚、銀貨十五円位、紙幣十五円位、雑品入箱四個、公文
書類一包と、外に去る旧臘帰郷せる、同村字勢理客歩兵二等卒上原三郎の、連隊より
貸与せられたし返納軍服を積載して、去る十七日伊是名津口を出帆し国頭郡本部村字
崎浜に碇泊し、翌十八日未明那覇へ向け仝地を発帆したるが、午前九時頃恩納崎を距
る三海里の沖合に差しかかりしに、折しも吹き荒れる北風は激浪を巻き起し、終に船体
は転覆、激浪は更に乗組員一名を海中に捲き込み、行方不明となりたりとは悲惨にあ
らずや。

▲現在の伊是名港 ▲昭和14年以前はここが主港

▲伊是名のドー(観音堂)のある杜 ▲千手観音を祭った祠
・複数村(ムラ)のウタキ(御嶽)―今帰仁村玉城のスムチナ御嶽―
スムチナ御嶽(ウタキ)は今帰仁村(間切)中央部の玉城村(現在の字玉城)に位置する御嶽である。『琉球国由来記』(1713年)には「コモキナ嶽:神名コシアテモリノ御イベ 玉城巫崇所」とあり、玉城巫は玉城・謝名・平敷・仲宗根の四か村の祭祀を管轄する。このウタキの特徴は玉城・謝名・平敷・仲宗根にそれぞれウタキを持っているが、各村の御嶽とは別に四カ村のウタキとしてスムチナ御嶽が設けられている。集落の発生と関わる御嶽がある中で、スムチナ御嶽は集落の起源と直接関わるものではなくノロ管轄の制度化に伴って設立された御嶽と捉えることができそうである。
・玉 城・・・・ウタキ有り(タマグシク)
・謝 名・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)
・平 敷・・・・ウタキ有り(ウガン)
・仲宗根・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)
スムチナ御嶽は標高143mの杜で玉城ノロ管轄の四つの村を見下ろせる場所にある。逆を言えば四つの村から見える位置に御嶽を設けている。旧暦4月15日のタキヌウガンの時は、四カ字の人たちがスムチナ御嶽の中腹のウカマ(広場)に集まり待機する。四カ字の神人達は、さらに頂上部のイベまで行って祈りを捧げる。
イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(今帰仁間切惣地頭職)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。間切役人の「口上覚」に立神(タチウガン)が今帰仁グスクで行われている記事が散見される。このスムチナウタキでも行われたと見られる。それが、スムチナウタキをはじめ、謝名ウタキ、平敷のウタキ、勢理客のウタキなどにあるイベの香炉。.
