寡黙庵:琉球・沖縄の地域史調査研究)(管理人:仲原)   

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2022年7月
                    
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▲今帰仁村崎山の神ハーサギ   ▲羽地内海(カンテナ湊)      ▲今帰仁村仲尾次の神ハサ―ギ

山原のシニグ  今帰仁阿応理屋恵
沖永良部島を往く
・徳之島を往く
喜界島阿伝(あでん)(東間切)
北山の時代と沖永良部島2016年11月5日沖永良部島講演)
沖永良部島(2022年4月)
今帰仁村崎山のハサ―ギ(葺き替え作業)
国頭村過去記録
徳之島と琉球へ
奄美大島―瀬戸内町―加計呂麻島
本部ミャークニーを辿る
・2005年8月の記録から「ドイツ・オーストリアを往く
本部町の神アサギ(工事中) ・本部町健堅 ・本部町浜元
本部町具志堅  ・具志堅  ・本部町瀬底  ・本部町謝花
本部町嘉津宇  ・本部町備瀬 ・本部町崎本部 ・伊野波・並里・満名
中南部のグスク・ウタキ
国頭村安田のシニグと辞令書
  ・(山原のノロドゥンチ参照
加計呂麻島1  加計呂麻島2

2022年7月31日(

今帰仁村内の神アサギ(ハサギ)

運天港と歴史的出来事

    ・源朝朝公の運天渡来伝承

   ・良港としての自然条件が備わっている。

    ・北山の時代から、海上交通の重要な要所として機能していた。
  ・『海東諸紀』に「雲見泊要津」とある。

    ・『おもろさうし』に「うむてん」とうたわれている。

    ・薩摩軍の琉球侵攻の舟元がこほり(古宇利)と運天であった。

    ・近世紀初期から、源為朝の運天上陸伝説がある。

    ・薩摩への「仕上世米」の積み出し港であった。

    ・運天に番所(後の役場)・在番が置かれた。

    ・近世琉球の中国対策の一役を担っていた。

    ・歴史的な百按司墓・大北墓・大和墓・オランダ墓や古墓群などがある。

    ・琉球・日本との通商を目的とした外国船が来航した。

    ・避難や風待ちのために一時寄港地として利用された。
  ・大正5年運天番所(役場)を仲宗根に移転する。
  ・大正11年に「源為朝公上陸之址碑」の建立
  ・大正13年に運天隧道(トンネル)の開通  

  ・古宇利島への発着港(昭和23年~平成15年)




2022年7月30日(

 退屈な日が続いているので、ちょっとより道でも。名護市の古我の湧泉(カー)の様子をレジカメで写す。名護市呉我参照 今年もオゴマダラやってきた。散水すると姿を見せる。

   


▲オオゴマダラ        ▲ホウライカガミ       ▲真夏の風景

 平成12年に国頭村辺士名(上島)での海神祭(ウンザミ)を拝見。そのときのメモである。その後、辺士名のろドゥンチ、玉ガーラと勾玉の調査をしている。

2002.5.21(火)

 2000(平成12)年8月21日(月)国頭村辺土名での海神祭(ウンザミ)を見る機会があった。下の写真はその時のものである。その日は盆明けの亥の日だったと記憶。かつては伊地・宇良・辺土名の順で拝んでいたという。その日は三ヶ所の神アサギで祭祀を行っていたが、辺土名ノロが回ることはなかった。伊地・宇良の神アサギに神酒や地元の神人二、三名と村人が何名か参加していた。

 辺土名の上島の神アサギに村人とノロの代理(?)や神人(白の神衣装は着ていない)が参加していた。祈りの時勾玉を首からかけなかったので、ノロの代理をしている神人(あるいは簪や勾玉や水晶玉を管理している人)なのだろうか。特にヌミ(弓)などの用具は準備してなかった。大分簡略化されている。

 海神祭が行われる神アサギは、辺土名の上島(古島)集落から更に登ったところにある。登っていくと神アサギの手前に庭(ミャー・広場)があり、神人を除く一般の村人達が男女に分かれて座る。神アサギの中に神衣装をまとった神人達が一段高いところに座る。男性の神役だろうか、一段低い場所から神人一人ひとりに神酒をつぐ。神人の前に紙皿に盛ったご馳走(揚げ豆腐・紅白のカマボコ・天ぷら・昆布・三枚肉)が置かれる。また、アサギナーに座っている村人にもご馳走や神酒が配られる。

 花模様(牡丹?)の簪と二個の勾玉、そして水晶玉(大小と透明のと緑ぼっいのがある)。また簪の竿部分に絹糸の紐がある。勾玉は濃い紺色と茶色ぽっいのと二個あり。

    
   ▲辺土名ノロの簪と勾玉・水晶玉     ▲辺土名の神アサギ


2022年7月29日(金)

 旧暦6月26日前の四日間は①旧23日がカミサガイ ②旧24日がユーニゲ― ③旧25日がサーザ―ウェー ④旧26日がサーザーウェー(ピローシー)と神行事が四日連続続く。古宇利大橋が架かる前の記録である。根人の神役をになっていた古宇利春夫氏が元気な頃の記録である。最近は参加していないので…)

 古宇利島の一年間の祭祀は「なきじん研究17号」―古宇利島の祭祀の調査・研究―2010年発行所収

2005.07.31()の調査記録

 
旧暦の6月26日である。古宇利島では23日、24日、25日、そして26日と祭祀が続く。その中のサーザーウェーの二日目が今日である。そして神人のほとんどが参加するピロシー。
   6月23日 カミサガイ
   6月24日 ユーニゲー
   6月25日 サーザーウェー
   6月26日 サーザーウェー(ピロシー)
 これから祭祀に参加。古宇利島までゆく。

 古宇利島のサーザーウェーは何を中心とした祭祀なのか疑問であった。サーザーウェーの語義の解釈から紐解こうとしていたことに起因していないか。これまでもサーザーウェーで歌われている歌詞や所作や拝む場所から読み取ってきた。
   ・旧暦の6月23日~26日にかけての行事である
   ・建ててから3年内の家々を回る
   ・複数の神家をまわる
   ・イルカを捕獲する場面がある

 たまたま古宇利島から帰り際、旧羽地村呉我で行なわれているヤーサグイの祭祀を見る機会に恵まれた。ヤーサグイとサーザーウェーと共通する場面がいくつも見られる。この祭祀もウンジャミ(海神祭)がそうであったように、いくつかの祭祀や要素が組み込まれているのではないか。そんな印象を持つ。つまり、ここではウンジャミ、あそこではシニグやウプユミなどと。

 古宇利島で旧暦の6月26日に行われるサーザーウェーは呉我ではヤーサグイと呼ばれているのではないか。古宇利島の旧家や新築家回り部分はヤーサグイと言ってもよさそうである(他にいくつか共通部分がある。まとめて報告する)。

  呉我ではかつて七件の家々を太鼓を打ちながらまわっていた。
  古宇利ではウンナヤー→ウチ神ヤー→新築の家→フンシヤー(1日目)
         ムラヤー→ヌルヤー→新築の家→しちやぐやー→お宮(2日目)
        (省略されている部分がある。かつては鼓を打っていた)

 同じ日に行なわれる他の地域の祭祀と比較検討すると、祭祀の名称は異なるが共通性が見えてくる。名称は祭祀の一面を示しているに過ぎないことがわかる。

 
 
▲サブセンターとしちぐやーで(古宇利氏一人で)

 
  ▲ピロシーの前の祈り               ▲ヒートゥを捕獲する場面


 今帰仁村教育委員会発行(2010年)


2022年7月28日(木)

 2003年(平成15年)の墓調査である。墓調査の依頼が始まったころである。懐かしさもあるが、再度訪ねてみたい。当時のテーマは現在を記録するであった。その記録や画像は今に生きている。


2003.12.18(木)(平成2年)

【本部町崎本部の
満名殿内(金城家)墓調査】

 午後2時頃から本部町崎本部の満名殿内(金城家)の墓調査。こちらからは仲原・石野・仲里なぎさ(文化財)が参加する。島尻氏(那覇歴史資料室)・田中さん(〃)・亀田くん(北谷町史)・玉城氏(北谷町史)が参加する。金城家の関係者が数名。

 金城家の墓は崎本部の集落の南側を流れるシンシナ川沿いに位置する。崖の中腹あたりに掘り込んだ墓である。シンシナ川は、かつては泳ぐことができるほど水量があったという。

 墓にいくと、二人の女性が供え物を置き、線香をたて墓を開けるための祈りをしていた。墓口を開ける道具(ツルハシ)で三回墓口の石をたたいた後にあけた。墓の内部は段差はなく平たくなり、18基の厨子甕が安置されていた。銘書に「昭和三七年九月二七日門中の協議により整理す計十五名」とあるように合葬されている。奥にあるサンゴ石灰岩の厨子甕も人骨をみると合葬されているようだ。そのため期待していたような系図をつないでいけるほどの成果は得られなかった。大急ぎの調査でした。

【厨子甕の種類】
  ・サンゴ石灰岩の厨子甕(5基)
  ・無頚の厨子甕(5基)
  ・有頚の厨子甕(6基)
  ・御殿型厨子甕(1基)(マンガンかけ)
  ・耳壷を利用した厨子甕(1基)

【銘 書】
  ・昭和三七年九月二七日門中の協議により整理す計拾五名
  ・石嘉波親雲上夫婦
  ・満名親雲上 妻(丸一 二の記号あり)
  ・石嘉波親雲上?(蓋の破片)
  ・三良金城にや 孫マツ
  ・かまた 石嘉波親雲上
  ・まつ金城 じら
  ・大清乾隆五十年乙己七月二十八日死去 前夫地頭石嘉波大屋子
     妻前のろくもい(書きかえられたもののようだ)
  ・南ノ前石嘉波親雲上 同人次男 金城にや 〆三人□置

.
    ▲墓を開ける前の御願           ▲墓口を開けるところ

.
      ▲墓の内部の様子(サンゴ石灰岩の厨子甕のみ銘書あり)

.
    ▲前のろくもいの銘書          ▲昭和37年に整理したと記名

※『琉球国由来記』(1713年)による本部間切の夫地頭
   
・健堅大屋子(地頭代)
    ・渡真利大屋子・満名大屋子・石嘉波大屋子
    ・辺名地大屋子・並里大屋子・小浜大屋子(七名が夫地頭)

 崎本部の満名殿内には本家とは別に二つの神屋が門の入口付近の左右にある。年中拝みにやってくる人がいると見え、開け放たれている。崎本部の祭祀のときに拝まれる旧家でもある。満名殿内からウフジンガナシーの神役を出している。
 崎本部の満名殿内は旧暦7月18日に行われるウフユミ(大折目)のときに、アサギからいくつかの拝所を拝んでいくが満名殿内もその一つにはいている。今回開けた墓には石嘉波親雲上(大屋子)や満名親雲上(大屋子)の銘書があり、女性が重要な神役を勤めると同時に男性は間切の役人(夫地頭)を勤めていることがわかる。乾隆50年(1785)にのろくもい(本部ノロか)を勤めた人物もでている。

2003.12.19(金)メモ

【並里の満名殿内】

 本部町に満名殿内(マンナドゥンチ)が二カ所にある。その一カ所は本部町並里(並里家)、もうひとつが崎本部にある満名殿内(金城家)である。崎本部の満名殿内についての調査はこれからだが、並里の満名殿内(並里家)については、『沖縄県国頭郡志』で以下のように紹介されている。

・本部村並里(元満名)屋号上の殿内(別名満名富家)
    右並里家当地方に於ける旧家にして今帰仁本部及び県下各地方
    より神拝みと称し、巡礼する者甚だ多し。同家上座敷の左隅に御柵
    あり。按司位牌三個を祀り霊前古櫃の中には古刀三振(大一本二尺
    七寸、小二本一尺五寸宛)
    衣類弐枚(一は絹地、一は更紗)襦子の古帯一筋、羽二重の襦袢一
    枚とを秘蔵せり。同家の伝説に依れば中昔は北山城主滅亡に祭し王
    族の隠遁せるものなりという。然れども父祖以来数百年間の由緒甚だ
    秘密に付せられしを以って記録と口碑の正確なるものなきを憾とす。



2022年7月27日(水)

 七年前の伊江島のことが思いだす。未解決のことがあったからである。20156月17日(水)参照。まだ答えがでているわけではないが。島に渡りたいのだが、新型コロナで遠慮。イータッユー(城山)(182m)の山頂に登るのが恒例だが。まだ登れるか?

 昭太寺に関する文献記録(伊江村史)がある。その中に「昇格登記通蝶」、「寺修補並水庫仕立記」、「水庫」、「寺囲植樹のこと」についてある。ここで念頭にいれておきたいのは「寺囲い植樹のこと」である。昭泰寺が大破し雨漏りで住むには困難である。雍正十一年癸丑四月(1733年)の修補のときに書き記したもののようである。以下のようにある。
   一、寺囲い植樹のこと
      お寺囲い植木無之に付風屏の為に、がじまる木枝五十八本並にうすく木枝二十二本、
      福木八十本植付其首尾方も申上候処、甚だ暑く挿し木にして四十五本植付盛生承り
      候間時節御見合を以て植付らえれ度候

 その中に屋敷囲いに福木80本植え付け(時節御見合)風屏にしている。その福木が雍正十一年癸丑四月(1733年)頃に植えつけたと見たら、福木が屋敷林として風よけにいいということを認識していたことがわかる。つまり福木を屋敷林にしていたのはそれ以前に前例があったということなる。伊江島の昭泰寺囲いの福木の植樹はそのころとみてよさそうである。その福木はどこからかとなると、伊江島番所跡周辺にも大木の福木があり、そこらからの種子や移植の可能性が十分にある。

 1700年代の移動集落の屋敷囲いに福木を植樹したであろう。しかし、それ以前から福木を屋敷林として風屏にしていたことが、そのことが寺囲いに福木を植えつけることになったのでろう。(近く伊江島に渡るので昭泰寺の福木は樹齢約270年か(2015年から)と感慨にふけてみるか。伊江島番所の福木は?)(現況の確認はしていないので書替え事になるかも)

    (画像は略)

▲昭泰寺の福木(雍正131733年)頃に植えられた福木      ▲西江上集落あたりの福木


2015年6月11日(木)過去記録より

 15日の伊江島行きは、北山高等学校の平和学習で伊江島の戦況の様子の話からスタートするので、肌で感じとるため。それと伊江島の祭祀(大折目)の祭祀場から見えてくるもの。沖縄本島側とは大分異なる。そのことが面白い。

 伊江島の旧暦7月日撰の「大折目」(三日間)の祭祀場の確認をする必要がありその下調べ。①ウプアンシャリ殿 ②メースィンカンニャ ③メーナガ殿 ④ナハヌル殿 ⑤ウイサビモー ⑥アスィデンニャ ⑦フサト ⑧フサトの各拝所の確認と、まずは祭祀の流れをつかむことに。上国の時の寄進(乾隆17年:1752)された銅製の鐘鼓、確認できれば幸いだが。

伊江島の大折目(2022年7月23日(土)参照

 『新城徳祐氏ノート』(なきじん研究10巻所収)に氏は伊江島の調査(1957.5.6)を行っている。その中のメモをいくつかとりあげてみる。
  ・今帰仁拝みする一門が大半、今帰仁の子孫。具志川拝み、久高拝みをする系統もある。
  ・東上が伊江島の最初の集落。
  ・伊江島には今帰仁掟の役名があり、上位の役職である。
  ・根の御神加奈志(東上) 東上、西上に各六ヶ所宛ある。部落の創始者の屋敷跡がある。
      (根の御神加奈志の拝所と大折目のときの拝む場所か)
  ・旧七月の終わり頃、ウプウイミ(3日間)
    初日ニャーグミ(庭ごもり)
    二日 城(ヨーマー、今日のよかる日に、なんじゃ)
    三日 城、馬にのる(ノロ)
  ・乾隆十七年九月吉日
      奉寄進 東江以下十三名  上国の時 以上の銘の入った銅製木魚(鉦鼓)

2022年7月26日(火)

 四、五日、休みました。親戚の告別式に出る。日曜日にはコロナの新型コロナの接種(四回目)で体調不良。四回目はやめておこうと決めていたのに、島外への出張があるの打つことに。体調が悪いので、今日まで休みます。(あちこち、迷惑をかけています。すみません)





2022年7月23日(土)

 大分前人に「伊江島の大折目」で講演をしたことがある。伊江島参照
 伊江島大折目の中にシニグが含まれているのではないかと。講演は「伊江島の大折目」が復元できないかということであった。講演の後の「踊り」があったが、そのことが狙いだったような。他の地域のウシデークのことだった。大折目・シニグ・ウシデークの認識がごちゃ混ぜに認識されていることに気づかされる。


【伊江島の祭祀】(『のろ調査資料』中山盛茂・富村真演・宮城栄昌共著

※の祭祀はノロが関わる
※・旧正月 二十日吉日御折目
    神人は各自担当の拝所(十二ヶ所)にえんどう豆二つ、ニンニク二つ、芋二つ、大根二本
    を備え、各作物の豊作を祈願する。
 ・旧二月 麦穂祭(男折目)現在なし。
※・旧三月 麦大祭
       唐豆、えん豆、麦入れの飯を供える。各家庭でも。
※・旧三月三日 ノロだけ、千人ガマ、宮てやがまを拝む。
 ・旧四月    畦払い、虫を海に流す。
※・旧五月  二十日後折目競馬
 ・旧六月 年浴 粟ご飯を供える。綱引き(現在なし)
※・旧七月 大折目(海神祭) 二十日以後の吉日
   第一日 神人たちは白装束にホールンチャゴイ(かづらを頭にまとう)し、斉戒淋浴して
        大船頭がなしの家に集まり祈願、二手に分かれて各所に祈願して、グスクの
        御嶽に集まり、東江上御嶽である富里(ヒサト)御嶽へ遥拝。次にメーシカン
        庭に移り粟神酒を供える。
   第二日 神人たち、昼間飯(ヒルマムン)を持参してメーシカン庭に集まり、弓引きの
        行事をする。
   第三日 神人たちはフサト御嶽に集まる。
         フサト根神(山城氏)が神人達の接待にあたる。フサトで七つの行事を行い門中
        の若者の 牽く馬でグスク御嶽に駆け上がり、グスクの神に祈り、さらに東の方の
        フサト、今帰仁神を遥拝浜下りをなし、そこで行事を行う(舟の回りを七回ま
            わる。
        ユー(魚)取りの所作をする。
         以前はノロの五人だけが馬に乗った。全神人が参加する。
        住民は第一日目各門中ごとに祈願、三日目はノロたちの祭祀をみる。
  ・旧八月 柴差し
※・旧九月 初種子(ハチダニ)、小麦、大麦、唐豆、えん豆などを選ぶことから、豊作を祈る。
        各家庭         でも節日を祝う。
※・旧十二月二十四日 星の御願い、かまどを塗りか火神をまつる。 解御願
     正月元旦 降天  立御願 

【伊江島のシヌグ】

 伊江島のシヌグは『琉球国由来記』(1713年)で「大折目」(七月日撰三日間)の後に、それも
日を撰ぶが「シノゴ折目」として行われる。
   日撰を以、シノゴ折目トテ、御タカベ仕ル。様子ハ、色々作物ノ品品ニ、虫不付タメノ願
   ニ、高一石ニ付キ、雑石二合完取合、御花・御五水・線香ニ仕替シ、城ノ頂ノ御イベ、
   同所伊江セイノ御イベ、荒ノ浜御イベ・根所火神ヘ居テ、ノロ・掟神、御タカベ仕リ、万ズ
   ノ蟲取集、海ニ捨テ、島中男女惣様、一日中遊申。昔ヨリ伝来テ仕ル也。

  城の頂の御イベ→伊江セイの御イベ→荒の浜→集落内の根所火神へいき、ノロ・
  掟神が御タカベを唱えながら、全ての虫を取り集め、海の方へ捨てる。その流れは
  シヌグ(凌ぐ)である。


 その様子を宮城真治氏は「宮城信治調査ノート」(昭和3年6月)でシニグは凌ぐであるとの
 認識で記録してある。

【シニグ祭】
   大ゆみの三日目後に行った。
   ウヒャーという男の神職が行う。
   東リンミャ(東りのろ殿内の庭)といりんミャー(中んノロ殿内の庭)とに集まり、シバと
   いって、ヤブニッケイやアクチ(ムクタチバナ)の枝を持って悪鬼を追い払う。イッサン
   ネービとて、東西各三人宛赤鉢巻をしたものが逃げてあるく。それは鬼であろう。
     ウヒャーは「エートーホー
              エートホー
            ウニジレー(鬼は出よ)
            トゥクワトドゥマリ(鬼は留まり)
            ウニジレー(鬼は出よ)
              エートーホー」
と唱える。ウシャパドモーまで追う。そこでもエートーホーをする。のろ等は、モーで見物する。
  ウシャパドモーの南なるヤイナギ屋敷という空き家敷に竹槍を投げる。
  東のミヤー人々はアラヌ浜に、イリヌミャーの人々はグシヌハマに行く。そこでかぶりもシバ
  も捨てる。
 


2022年7月22日(金)

201031日(月)メモ

 今帰仁間切に岸本ノロがいた。現在、岸本村は字玉城に統合されている。統合は明治36年である。岸本ノ加ネイ(岸本ノロ)に関する以下の資料がある。玉城(岸本ノロ管轄の岸本村と寒水村の祭祀)を紹介する。玉城・岸本・寒水の三ヶ村は、村移動やノロ管轄、村の合併などがあり、また祭祀との関わりなど複雑である。そのため、村別とノロ管轄に分けて整理が必要。

 玉城村と岸本村は「琉球国高究帳」と「絵図郷村帳」に登場するが、寒水村の登場はまだない。寒水村が登場するのは『琉球国由来記』(1713年)からである。寒水村は岸本村からの分割と見られる。岸本のろは岸本村と寒水村を管轄し、玉城のろは玉城村・謝名村・平敷村・仲宗根村を管轄する。

 『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃:(田代安定)の岸本村の祭祀場として三ヶ所、寒水村も三ヶ所があげられている。ノロは岸本ノロクモイ管轄である。

   ・ノロクモイ火神 ・神アシアゲ ・嶌ノ大屋子火ノ神(岸本村の拝所)
   ・根神火神 ・神アシアゲ ・ウホンニヤ嶽(ウフンジャ嶽のことか)(寒水村の拝所)

  沖縄縣指令第一四五號

     国頭郡今帰仁村字玉城三百四十三番地
           大城清次郎
            外七名

   大正二年十月十七日附願岸本
   の加ネイ大城カマト死亡跡職
   大城カマド採用ノ件認可ス
     大正三年三月十八日
   沖縄縣知事高橋啄也 沖縄県知事印

 ※上の県指令は大正三年なので、玉城・岸本・寒水が土地整理以後の番地である。岸本のろ家は大城清
   次郎で、世帯番は岸本村三番地である(明治34年の砂糖消費税法改正之儀二付請願)。
    
   
 
 ▲岸本の加ネイ大城カマト→大城カマド     ▲寒水の神アサギ

 『琉球国由来記』(1713年)に、どう記録されているか。
 岸本村にオホヰガワ嶽(神名:ヨロアゲマチュウノ御イベ)とある。岸本村は二度ほど移動しており、『琉球国由来記』(1713年)頃は、ウタキの位置からすると、寒水村(寒水原)のあった場所にあったと見られるので、注意が必要。同書の「年中祭祀」の所に岸本巫火神と神アシアゲがある。岸本巫の管轄である。岸本巫が管轄する村は岸本村と寒水村である。

 岸本巫火神で行われる祭祀(『琉球国由来記』)は、以下の六つである。岸本・寒水の二カ村の百姓と岸本巫が関わる。
    ・麦稲祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナイ折目
    ・山留
    ・大折目次三日

 岸本の神アシアゲでの祭祀は、百姓・居神・岸本巫が関わる。
    ・麦稲穂祭
    ・麦稲穂大祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナイ折目

 寒水村は『琉球国由来記』(1713年)にウタキの記載はない。神アサギでの祭祀は、
    ・麦稲穂祭
    ・麦稲大祭
    ・年浴
    ・大折目
    ・柴指
    ・芋ナリ折目
    ・大折目次三日 
  
▲ウフンジャ嶽(イベ)         ▲ウフンジャ嶽(左縄がめぐらされている)  ▲寒水の神アサギ

 ※上のウフンジャ嶽は側を流れる大井川の改修で消える。昭和44年頃まであった。


2022年7月21日(木)

 昨日は今帰仁村兼次の字誌の編集会議。復帰後のアメリカユの話題を伺う。コラムに入れる予定。
 ・パーマ ・ラクダ印のタバコ ・トーバイホー ・DDT ・オイル ・ブドウ ・薬莢 など

 「ちむどんどん」朝ドラが話題に。撮影場所が何か所にあるので。

 


2022年7月20日(水)

 上杉県令の日誌の今帰仁間切内を通る道筋を辿ったことがある。戦前・戦後の写真を手がかりに当時の様子を連載したことがる。一番の狙いは、歴史を見ていく場合、当時の風景や人々の様子を頭に入れおく必要があった。そして写真も歴史史料であることに気づかされる。

2002.1.18(金)記録より


【上杉県令日誌
(明治141129日)
 朝の気温69度、午前8時40分に今帰仁番所、首里警察分署を出発する。
   路を左に折れて小坂を登っていく。
   巡査二名が護送する。村吏二人が纈袖(シボリソデ)して、
   束竹を肩にして先駆けしていく。 
   両側の松並木続き断えず
   大道は高低があり、曲折しながら過ぎていく。
    右側の渓間に上運天村がある。
   朝の煙が靄々(モヤモヤ)として棚引いている。
   道端に一婦人あり、合掌して拝(イジギ)する。
    行くこと数丁、勢理客村に入ろうとする。
   仲村豊次郎の母カマト90歳がきて、合掌して拝謁(ハイエツ)する。
   桃花色の外出着を新製して穿(ハ)き、児孫を傍らに侍す。令公輿を停められる。
   目録の賞与あり、スデガホウと言って拝謝する。既に
   途(ミチ)につく。
   この辺りは薯圃と藍畑あり。行くこと数丁。
   広漠の水田と薯圃あり。
   秧針(オウシン)(稲の苗)が青々として秀発している。
   両側に藍壺六、七あり、藍葉を漬して染料を醸(カモ)す。
    小さい流れを渡って仲宗根村に入る。   
   村の南に沿っていき、村を離れる処で路を回って上りまた下る
   二箇の空屋あり、ノロクモイの祭典(祭祀)を行う所という。
    謝名村を過ぎる。
   蕉(芭蕉)園多し。
    行くこと数丁、馬将(馬場)あり。
   圃(畑)の中に岩石が突起している。
    既にして平敷村を過ぎる。 
   (続く)

2002.1.18(金)記録

 上杉県令もやっと運天番所から本部間切へと腰をあげました。明治14年のことですから、今みたいに自動車があったわけではないのでノンビリと行きましょう(ホントは私が道草しているのだが)。気温は華氏の69度である。今帰仁番所・首里警察分署(運天)から上運天村・勢理客村・仲宗根村・謝名村・平敷村へ、東から西の渡久地番所(本部間切)へと向っている。

 途中、松並木や芋畑、藍畑、藍壺、水田、芭蕉畑、馬場などを眺めたり、側を通りながらの道中である。稲の苗が青々とした様子なども目にしている。藍壺に藍を漬して藍をつくっている場面、ノロなどが祭祀を行う空屋(寒水村か仲宗根の神アサギだろうか?)などにも気を止めている。

 馬将は仲原馬場を指しているだろうし、道の傍らに90歳余の老人などが出迎えると上杉県令はわざわざ輿(車)を停めて賞与(褒美)を差し上げている。明治14年頃の今帰仁間切の宿道(スクミチ)沿いや村の様子が彷彿する。この日誌の記事を追いかけていると、120年前の時と場所へどれだけ深くはまり込んでいけるか、その感性が問われているような気してならない。往時の姿がどれほど確認でき、あるいは面影を見つけることができるであろうか。これから村人の記憶を拾っていく作業が待っている。

 

 
  

2022年7月19日(火)

 ちょっと、頭の中は多忙中。原稿執筆に追われている。過去の記録で穴埋め。

2002.1.16(水)記録

 15五日(火)大宜味村の北寄りの根路銘・大宜味・大兼久・謝名城をゆく。拘束されずの調査は楽しいものがある。天気は曇。ときどき小雨。11時頃から国五八号線を北上する。大宜味村の安根(アンネ)のバス停に車を止め、今帰仁からの道筋を振り返ってみた。安根から名護方面を見て、まず左手に大宜味村の山、旧羽地、そして名護の山が幾重にと重なって見える。名護の市街地から伊差川に至る部分は低く平らとなっている。そこから右手に本部半島が伸びる。しばらく台地状の地形となっている。嵐山一帯である。嵐山の丘陵地の後方に嘉津宇岳と八重岳が一段と高くみえる。

 再び低い丘陵地があり、その右手に本部半島の満名川を挟んで本部町の今帰仁よりの山々と今帰仁村のパサンチヂやタキンチヂ・乙羽山の山並みへとつづく。さらに右側にいくとクボウの御嶽と馬鞍山(マンクラヤマ)の山並みが識別できる。クボウの御嶽の手前に今帰仁グスク、そして歴史文化センターがある。さらに右手に目をやると運天、手前の屋我地島の島がある。そして運古海峡(古宇利大橋の架設中)、古宇利島へと続く(写真の方が一目瞭然だが)。

 さて、長くなったがその風景は国頭や大宜味の人達にとって今帰仁グスクがどう写るのか。国頭地方の人々の内面やその言葉にある時代を映していやしないだろうか。時々、そんなことを考えながら北のムラへ足を運ぶ。「沖縄の歴史」の三山鼎立時代の話をするのだが、具体的に今帰仁グスクを拠点にした12~15世紀の北山(山北)王が国頭や羽地、名護、金武地方をどのように支配し統治していたのか。まだ、その姿が見えてこないのである。

 もし、国頭や羽地地方のムラやグスクが今帰仁グスクの北山王に物を献上したり、貢租を納めていたのか。あるいは今帰仁グスクへの勤めがあったのか。そういうことがあったとしたら国頭地方の役人(?)や人々は、今帰仁グスクへの勤めを果たしての帰路、大宜味の安根あたりから今帰仁グスクをあたりを振り向きながら、役目を果たして満足感を味わっていたのか、それとも重い貢租や暴君などに怒りや涙していたのか。

 普段、今帰仁グスクのすぐ側で業務していると、三山鼎立時代の今帰仁以外の人々の動きや今帰仁グスクをみる視点がどういうものであったのか気になるところである。そういうこともあって、大宜味や国頭地方へと調査の足を向けている。

 神アサギの調査は別に報告するので、大宜味村大宜味の「霊魂之塔」と「根謝銘グスク」について報告することにする。

 大宜味の「霊魂之塔」(戦後の建立)は前から気にしていた塔である。というのは、塔の石は今帰仁村運天にある「源為朝公上陸之跡」の碑と同質の花崗岩である。明治7年国頭間切の宜名真沖で座礁したイギリス商船の船底に敷いたバラストだという。座礁したイギリス船員の墓地が宜名真にありオランダ墓と呼んでいる。霊魂之塔の向かって右横に「大正10年11月大宜味村立之」とあり、忠魂碑建立の年である。裏面はセメントが塗られ「忠魂碑」の文字が刻まれていた跡がある。大正11年に忠魂碑が建立され同年12月13日に忠魂碑の除幕式を行っている。向って左横に「元帥公爵山縣有朋」(下線部は埋まっている)とあり、揮毫は山形有朋である。因みに源為朝上陸之跡碑は元帥東郷平八郎である。その忠魂碑を利用して「霊魂之塔」を建立(戦後)してあるが、「忠魂碑」を再利用して「霊魂之塔」を。どんな議論がなされたのだろうか?

 根謝銘グスクへ


2022年7月18日(月)

 古宇利島や国頭村や大宜味村などで海神祭・シニグと呼ばれる祭祀がある。今帰仁村中部域(玉城ノロ管轄)ではウプユミと呼ばれる祭祀がある。今帰仁グスク(今帰仁ノロ管轄)ではウー二フジ・グスクウイミ・シマウイミと呼び、まとめて海神祭という。「琉球国由来記」(1713年)では大折目(海神祭)とある。ボツボツ、それらの祭祀について総まとめでもしてみるか。


今帰仁村中部地域のウプユミ 2002.10.11(金)整理

 ここしばらく、まとまった資料づくりから離れている。今帰仁村の今泊(今帰仁グスク)と古宇利島の海神祭(ウンジャミ)についての参与観察記録は報告してきた。ウンジャミと同時期に行われる玉城ノロと中城ノロ管轄のウプユミについての参与観察記録は、歴史文化センターとしてまだ公にしていない。

 今回は玉城ノロ管轄の旧暦七月最後の亥の日に行われるウプユミについて報告していく。一気にできないので日々作業を進めていくことにする(試行錯誤の作業なので随時変更する)。

〔今帰仁村中部地域のウプユミ〕①
 今帰仁村の中部地域(玉城・謝名・平敷・仲宗根)の祭祀に旧暦七月最後の亥の日に行われるウプユミ(大折目)がある。玉城・謝名・平敷・仲宗根の四かムラ(字)は玉城ノロの管轄である。四かムラの年中祭祀、その中のウプユミ(大折目)について構築しておきたい。

 今では玉城ノロが継承されていず、また祭祀そのものが断片的にしか行われていないため、ウプユミに参加した経験のある方々の記憶に留めているにしぎない。通して行われていないため、また聞き取りをしても記憶のあいまいさもあり全体の流れがなかなか見えてこない。

 幸いにして、大正13年頃の『宮城真治民俗調査ノート』と昭和47年の「玉城部落調査報告」(普天間高等学校 郷土研究クラブ その時の写真が歴文に寄贈されている)がある。また筆者の参与観察も含めて再構築してみる。

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▲玉城の神アサギ(昭和47年)    ▲謝名のペーフヤの庭で(昭和47年)
                     
(写真提供は琉球大学の町田宗博氏) 

今帰仁村中部地域のウプユミ 2002.10.12(土)整理


 明日の講演?準備で詰まっています。これからテーマとスライドの選び出しです。1000枚余りの中から80枚。やっと尻に火がついたか! ウプユミは途中でチョンです。あしからず。徹夜状態かな!? 息抜きのコーヒーの差し入れでもないかな? 画面のあなたですよ。ハイ 遠慮はいりません。眠気覚ましじゃ。そう、そう湧泉散歩も朝のまんまだな!
 
〔今帰仁村中部地域のウプユミ〕②

 大折目(ウプユミ)は海神祭(ウンジャミ)と呼ぶ地域もある。今帰仁村の中部地域は海との関わりよりも農耕(田畑)を中心としているため、ウンジャミではなくウプユミの呼び方をしているのであろう。仮説ではあるが、近世になって山・農耕・海の祭祀の合理化がなされたのではないか。その時、どの名称で呼ぶかとなると、海と関わりの強い地域はウンジャミ、そして農耕地域ではウプユミの名称を残したのではないか。玉城ノロの管轄するウプユミの祭祀に山・海・農耕の場面がどれだけ見い出せるか。

 『琉球国由来記』(1713年)から玉城・平敷・謝名・仲宗根の大折目の記事を拾ってみると、以下のような供え物が出されている。注目されるのは魚とコバ餅。山の物がどれか。『宮城真治ノート』で「松の下で弓を引く」場面がある。この弓が狩猟を意味しているか。

 ・玉城巫火神              ・玉城村神アシャギ
   線香・五水               五水・神酒・粟神酒・肴・コバ餅・魚
 ・平敷村神アシャギ          ・謝名村神アシャギ
   芋神酒・肴・粟神酒・焼酎・魚    芋神酒・魚・粟神酒・焼酎・魚
 ・謝名村神アシャギ
   五水・神酒・肴・コバ餅

 ウプユミが行われる日は旧暦7月最後の亥の日、古宇利島のウンジャミは旧盆明けの最初の亥の日、同一の日に行われることもある(今年)。まずは、祭祀が行われる場所の特定からしてみる(神人などについては別に扱う)。

〔今帰仁村中部地域のウプユミの拝所〕 

 宮城真治ノート
  (大正13年)

玉城調査(昭和47年)

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玉城ノロ火神

①ヌル殿内の火神

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②ヌル殿内のミャー

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玉城あしやげ
 ウムイをうたう
 踊る

③アシャギ
・アサギ
・内神殿内
・大屋子殿内
・玉城勢殿内
・シリトゥンガ
・玉城ヌシー
・テンチヂ・アマチヂ
・ウチ殿内


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④ヤナジガー
・岸本と寒水のフルジマ を通ってヤナジガーへ

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⑤岸本アシアゲ

 

岸本ウカー

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岸本あしやげ

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まえ原
トーヌカ
上ジナの松の下
・松の下で弓を引く

⑥神道(トーヌカ上から)
(謝名のサンケーモー)

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平敷御嶽
平敷あしやげ
ウプアシアゲ
マチガヌ蔵



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⑦平敷の神アサギ
・蔵

謝  名

⑧謝名のアシャギ

.

 

 

 

 

 

 

 

 

ウペーフヤの庭

⑨ウペーフヤ

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⑩謝名グスク(御嶽)
    (お宮)

..

 

仲宗根
アシャギ

⑪仲宗根
・神アシャギ前

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解散

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2022年7月17日(

 2011年頃、「北山の歴史」を整理していた頃、『中山世監』や『中山世譜』や『球陽』などで扱う「正史」から外れた歴史(野史)が脈々と生きていることに気づかされる。特に、国頭地方や名護地方、そして羽地地方、それと伊波グスクである。それらの地方に「仲北山」の興亡で離散した一族があることである。仲北山のジ時代から北山三王(ハ二ジ・ミン・ハンアンヂ)の時代に変わる時代である。三王のハ二ジ(長男)の兄弟が与論島(三男)、沖永良部島(次男)の流れを明確にする必要がある。そしてハ二ジ(1416年)以後は、中山の系統の支配(ノロ制度・古琉球の辞令書・おもろ編さん・まきり(後の間切)・古琉球の金石文など)だと考える必要がある。現大宜味村の根謝名にあるウイグスクを扱うのはその為である。その結論は『大宜味村史―民俗編』で報告。

 グスクのウンガミ参照


【根謝銘(ウイ)グスクと関わる出来事】(歴史)

 ・大宜味村謝名城にある。
 ・根謝銘グスクはウイグスクと呼ばれる。
 ・標高100mの所に位置する。
 ・14~15世紀頃の筑城で大型のグスク
 ・丘陵頂上部に本部石灰岩で石塁をめぐらしてある。
 ・ウイグスク内に大グスク(イベか)と中グスク(イベ?)がある。
 ・出土遺物(土器・カムィ焼・青磁・鉄釘・獣骨などが出土
 ・貝塚も確認されている。
 ・1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に根謝銘(ウイ)グスクに「国頭城」とある。
     (国頭按司の居城か。「国頭城」は北山滅亡後の「監守」制度を示しているものか)
     (国頭間切の拠点は根謝銘(ウイ)グスクとみられる。国頭按司はまだウイグスクに居城か)
 ・1522年(弘治11) 真珠湊碑文に「まかねたるくにかミの大ほやくもい」(国頭の大やくもい)

  とあり首里居住か。
 ・1624年(天啓4) 「本覚山碑文」に「国かみまさふろ」とあり、首里居住か。
 ・1597年(万暦25) 浦添城前の碑に「くにかミの大やくもいま五良」とあり、その当時の国頭

大くもいは首里に居住か。
 ・根謝銘(ウイ)グスクは1500年代まで(各地の按司を首里へ集居)は国頭按司の居城地か。
     (1673年まで国頭間切は大宜味間切を含む地域である。大宜味按司はまだなし)
 ・国頭間切の安田里主所安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
     (その頃国頭按司は首里に住む)。
 ・国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分

割以前(その頃国頭按司は首里に住む)。
 ・神アサギ/ウドゥンニーズ・トゥンチニーズ/地頭火神/カー/堀切/アザナあり
 ・旧暦7月に海神祭が行われる。
 ・按司墓あり
 ・屋嘉比川の河口に屋嘉比港あり(オモロ)
 ・『絵図郷村帳』(1648年頃)に「国頭間切 ねざめ村・城村・はま村・屋かひ村」とある。
 ・『琉球国高究帳』に「国頭間切 城村・屋嘉比村」とある。
 ・屋嘉比川の下流右岸に国頭番所(浜村)が置かれた。後に奥間村へ。
 ・1673年に国頭間切を分割して国頭間切と田港(大宜味)間切が創設される。
   田港間切の番所は田港村へ、後に大宜味村(旧記の頃)、さらに塩屋村、さらに大宜味へ施設。
 ・1673年に屋嘉比村から見里村が分離したという。
 ・1673年後に屋嘉比村から親田村が分離したという。
 ・根路銘(ウイ)グスク内の地頭火神は国頭按司と国頭惣地頭火神と大宜味按司と大宜見親方の火
  神が重なっても問題なし。
     (国頭按司地頭クラスの石燈籠は国頭村比地・辺戸・奥にあるので、間切分割後の
      国頭按司は国頭間切内へ)
 ・1695年 屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
 ・1713年『琉球国由来記』に、「大宜味間切 城村・根謝銘村」、「国頭間切 濱村
      ・親田村・屋嘉比村・見里村」がある。
 ・1719年国頭間切の村であった見里村・親田村・田嘉里村が大宜味間切へ。
    (1736~95年の絵図には番所は塩屋村にあった:大宜味役場蔵?)
 ・1732年(雍正10) 国頭番所は浜村から奥間村へ移設。
 ・明治36年に根謝銘村と城村と一名代村が合併し謝名城村となる。
 ・明治36年に親田村と屋嘉比村と見里村が合併して田嘉里村となる。
 ・明治41年に国頭間切は国頭村(ソン)、大宜味間切は大宜味村となる。これまでの村(ムラ)は
     字(アザ)となる。
 ・1911年塩屋にあった役場を大宜味へ移転。

 ※根謝銘グスク内の御嶽(イビ?)の名称は『琉球国由来記』(1713年)とでは混乱している
  ようである。
 ・中城之嶽(神名:大ツカサ)(見里村・屋嘉比ノロ管轄)…大城の嶽(田嘉里:屋嘉比ノロ)
  (当時国頭間切)
 ・小城嶽(神名:大ツカサナヌシ)(城村・城ノロ管轄)…中城の嶽(謝名城:城ノロ)(当時大宜味間切)

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屋嘉比港からみたウイグスク ウイグスクから見た屋嘉比港 グスク内にある神アサギ

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グスク内にあるウフグスク嶽(イビ)グスク内にあるナカグスク嶽(イビ) 地頭火神の祠

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  国頭按司(大宜味按司?)の墓       ヌルガー          トゥンチニーズとウドゥンニーズ(火神)の祠

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    今帰仁グスクが遠望できる         国頭按司寄進の石燈籠か(奥)

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          城ノロドゥンチの建物              ノロドゥンチの側にある石の香炉


2022年7月16日(

 この原稿は「写真にみる今帰仁」の100回連載(100回:10年間)シリーズの一コマである。

仲原馬場(ナカバルババ)と松並木(越地)(平成2年11月号)

  ナカバルババ(仲原馬場)は別名マーウイとも呼ばれ、今帰仁小学校の西側に位置する。よく写真に写される場所であり、戦前、戦後の写真が何枚か残っている。仲原馬場は昭和34年に県の文化財(史跡)指定をうけている。馬場は距離にして約 250メートル、幅約30メートルあり、中央部に石垣が残り(上の写真の中央部の左側)アブシバレーや間切(現在の村)行事の時の来賓席だったという。

  写真にみるように競走路の両側には松の大木が並木をなし、その風景は見る人の胸をうつ。それらの松は、別名蔡温松とも呼ばれ松の樹齢を感じさせる。大木の松が数少なくなったが、老松の間に30年余りの若松が勢いよく成長し、松の世代交代をみせつけている。馬場の左側にキビ畑がみえ、まだ運動場が移転する前(昭和30年代後半)の風景である。

  今帰仁村には、仲原馬場のほかに、今泊や天底にも馬場があった。馬場は人工的な施設であり、いつ頃つくられ始めたのかはっきりしないが、『球陽』の1695年の記事に首里に戯馬場がなく、各地に行き騎馬の方法を習って、馬場を西原郡(間切)平良邑に開いたとある。それ以前の『琉球諸島航海日誌』(1614~15年)にも競馬が行なわれていたことを記してある。今帰仁の仲原馬場の起源については、今のところ定かでない。

  『沖縄県統計概表』(明治13年)は、「馬場ナルモノハ毎歳収穫ノ時ニ至リ一間切ノ人民此相会シ各穀物ノ熟否ヲ較ヘ随テ平生労力ノ勤怠ヲ鑑別スル所ナリ」とあり、馬場は間切に人民が揃い原山勝負を行なわう施設であった。その余興として競馬が開催された。

  今帰仁村の仲原馬場は字の示す通り、仲原にある競馬場ということになるが、現在字越地の小字与比地原(ユピチバル)に位置する。越地は昭和12年に謝名と仲宗根の一部をあわせてできた字(アザ)である。馬場のある地が仲原という地名であったとみられる。それを証拠づけるように、明治13年の『沖縄県統計概表』に「仲原(今帰仁)」、明治31年の『琉球新報』に「今帰仁尋常高等小学校の新築工事請負入札広告」があり、「但、敷地は今帰仁間切謝名村字中原にして・・・」、同様に明治32年「今帰仁尋常小学校に高等科を併置し、今帰仁小学校と改称、敷地を謝名仲原二五三番地(現敷地)に新築移転」と記し、明治31、32年頃は現在の今帰仁小学校あたりは字仲原であったことがわかる。

 仲原馬場と呼ぶのは、現在の馬場一帯が仲原という小字で、それにちなんで名付けられたと思われる。小字の組替がなされても、かつての呼び方を踏襲し、仲原という地名と人工的施設である馬場が連称され、「仲原馬場」と呼ばれている。その仲原馬場は、本来今帰仁間切の公共的な施設で、アブシバレーや原山勝負などを行なう施設で、競馬や闘牛・相撲などはその余興として行なわれた。

  下の写真は、昭和35年頃の県道沿いの松並木(一部仲原馬場)である。昭和33年の記録をみると、謝名から今泊に至る街道の両側にある琉球松の大木は約 410本あったと記している。写真の手前右側に運動場があり、バスが通っている場所は二又に別れていた記憶が今に残る。

  

※アブシバレーは間切(村)あげての行事で、その日はクージビ(公の休息日)で、最初の日は仲原馬場で馬二頭づつ
  競馬が行われた。翌日は天底馬場、翌々日は親泊(今泊)馬場で、同様なことが行われていた。


 下の写真は1972・5・15ドギュメント「沖縄が祖国へ帰るまで」復帰特集号(琉球新報社編)に掲載された
仲原馬場である。復帰の年は東京で学生をしていた頃である。小川徹先生や桜井徳太郎先生の講座や新聞記事にひかれていた。学生運動の最後のころである。写真の風景は小学校生のころである。運動会の練習や体育の勉強は馬場で行った記憶がよみがえる。



2022年7月15日(金)

 現役の頃、 「名護湾岸のムラ・シマ」をテーマに講座を行っていた。時には、住居を置いている名護市のことでも。

名護湾岸のムラ・シマ

                        「沖縄地域の文化論」(3回)レジゥメ 2011.10.4

 はじめに

  ・名護間切の変遷

  ・名護湾岸のムラ・シマ

  ・名護市屋部の現在の風景

  ・名護市宮里・屋部

  ・プーミチャー(屋部の古島)

  ・ナナシキ(七月森)の伝承

  ・屋部の大島

  ・屋部寺(凌雲院)と久護家と福木囲い

  ・名護村(マチ)の展開

  ・名護のマチの移り変わり

  ・イルカ狩りと捕鯨

 まとめ


 名護湾岸に安和・山入端・屋部・宇茂佐・宮里・名護(大兼久・城・東江)・世富慶・数久田・許田・幸喜・喜瀬のムラがあります。名護グスクから名護湾を眺めると、それらのムラが名護湾岸にみることができます。名護グスクを要(拠点)にした時代があり、今では名護のマチを中心とした時代になっています。

 1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に那五とあり、それは方言音のナグに表記上「那五」を充てたとみています(ナゴの方音がナグになったとの見解もあります)。 ナグは「和む」意味合いからきた地名ではないかと考えています。名護のナゴマサーの気質からすると、それは願望かもしれません。

 名護グスクはグスクのイメージを一転させるグスクです。一般的にグスクは防御的な施設です。ところが、名護グスクは石積みがありません。グスクの後方に丘の丘陵地を堀切った二つの堀切りがありますが、防御的な施設とするには規模が小さすぎます。防御的な施設としては頼りないです。それでも名護湾岸のムラを統治したとするなら、権力での統治ではなく、統治できたグスクの按司は人望の厚い、仁徳のあった支配者だったに違いない。

 山原のムラ・シマにはウタキがあり、集落内にムラヤー(村屋:今の公民館)や神アサギがあり、その周辺に集落が発達しています。ムラ・シマに住む人々は、ウタキやカー(湧泉)や神人を出した家(旧家)跡に火神を祀っています。祭祀はムラ・シマに住む人々の休息日にあたり、祭祀を今でも「神遊び」と呼び、神に名付けて休息日をとっていた名残りです。

 山原のムラ・シマを見る時、集落内のムラヤー(今の公民)に行き、そして周辺の神アサギを見つけます。さらに神アサギからウタキの確認をします。ムラヤーや神アサギや拝所、旧家などから集落の成り立ちをしることができます。ムラ・シマの歴史を辿ることで、そのムラ・シマの伝統芸能であったり、ムラ・シマの文化を体で感じとることができます。

 名護湾岸のムラ・シマを訪ね、各ムラの歴史や文化を肌で感じ取ることは、そのムラの個性を知ることでもあります。ムラの歴史や文化を一つひとつ拾ってみてはいかが・・・。

     

 下は名護市屋部域(昭和27年頃)

 ※写真はメルビン・八キンス氏提供

参考文献:「なきじん研究」(今帰仁村歴史文化センター)

       わがまち・わがむら』(名護市)

       名護:人々の100(名護市)

       その他


2022年7月14日(木)

 古宇利島のスルルガマ(洞窟)のことが思い出される。「古宇利島の戦争」として古宇利の小中の生徒が報告してくれた。このガマで助かった人々の話である。まだ、古宇利大橋が架かっていない頃。

2005.07.23(金)過去記録

 午前11時から諸喜田節子さん(古宇利島出身)親子(三名)と福保先生、歴文から私とうし丸が参加。ボートで島の西側のガマ(洞窟)をゆく。一度は行って見たいと思っていた場所である。島の西側は切り立った崖になっていて、崖の下にスルルガマやヤマトゥガマやパマイャーヤ(浜の岩屋)などの洞窟がある。他にサバアナやゼンシンヤーヌガマ(生け簀)などもある。サバアナはサバが入り込んだ穴、ゼンシンヤーのガマは海人(漁師)をしていたゼンシン氏が生け簀に使っていたガマに付いた呼称。ハマンシ(浜岩)は崖から崩れ落ちた石(岩)があちこちに転がっていることに因んだ地名なのであろう。

 戦争の時、西側のスルルガマに逃げ延びたと、何度か聞かされていた。古宇利島の方々だけでなく運天の人たちにも。案内いただいたのは、スルルガマで米軍の「出て来い、出て来い」に応え、両手を挙げて出て行き、羽地の田井等の収容所に連れて行かれ、助かった方々である。スルルガマからグサブ(古宇利港)に連れていかれ、そこから米軍の舟艇で羽地の田井等に収容され(昭和20年3月)、そこは満杯だったため羽地の呉我の民家に移され、昭和20年の10月頃帰島を許されたという。

 幸いなことに、古宇利島のスルルガマに隠れた人たちは助かり、死者は一人も出なかったという。今次大戦でスルルガマのような洞窟に多くの人たちが避難した。多くの犠牲者を出したガマもあるが、古宇利島のスルルガマでは全員が助かった。そこで生死を分けたのは何だったのか深く考えさせられる。

 ガマ調査の後、大潮なので潮の引きがよく潮干狩りをする。サザエなどの貝や海草がよく取れる。それは海人の諸喜田節子さん(80歳)のこと。素人の私たちはタコの子を二匹と貝を一個見つけただけ。帰りには、諸喜田さんから貝や魚などお土産にたくさんいた。ガマ調査にボートを出していただき、さらに潮干狩りをし、私たちにたくさんの海の幸のお土産まで。

 
   ▲運天港からボートが出た       ▲スルルガマは古宇利島の西側〈左)にある

 
 ▲まずは生け簀に使っていたガマへ       ▲崩れ落ち岩があちこちにある

 
   ▲ガマの入口から外をみる         ▲崖のあちこちにガマがある

 
  ▲スルルガマの前に大きな岩がある      ▲スルルガマの中にさらに穴がある


2022年7月13日(水)

 名護市汀間の調査(参照)をしたことがある。大東島を思い出したのは名護市汀間の祭祀(ウイミ)
で海岸で見送りする所作がある。その場所は竜宮と呼んでいる。汀間の方々は竜宮やニライカナイなどの観念を持っている。その祭祀で謡われる神歌で「あがりうふじま」(大東島)と謡われる。ウタでは大東島へお送りしている。神アサギから海岸までの所作はシニグ(凌ぐ、浄める)ではないかと考えている。その送り先は汀間では大東島である。

2002年10月23日(水)過去記録

  
24日から26日まで南大東島です。

 今晩は「渡喜仁」の字誌の検討会がある。1945年から67年までの議事録に目を通してみる。明日から南大東島へ。その準備もあり。今日は体力をセーブしないと・・・。午前中は大丈夫そうだ。
 昨日は頭痛と吐き気でダウン状態。どうにか持ちそうだ。これから、もう一つ頭をめぐらさなければならない字誌がある。2時間ばかりの講座なのだ。前回は資料を準備して出張したのにお流れにしたようだ。一服できると思っていたのに。

 明日の南大東島行き大丈夫だろうか。数名の回数券チケット何故か私の方に送られてきているじゃないか。信用あってのことだろうと思うのだが。来月、マットウバかどうか人間ドッグで頭の検査をすること知らないのだね。また、一番遠いのだぞ空港まで。地域史の皆さん。朝5時に自宅を出ないと行けないな。言いたいこと書きましたので忘れないでしょう。ハハッハ。みんなのためじゃ。早く片付け、徹夜なしにしましょうかね。

 南大東島。はじめての島。あれみっけ。それみっけの島だろうか。八丈島?と沖縄のチャンポン文化だろうか。どん顔をした人たちが住んでいるのだろうか。大東島を見ることで足元の歴史文化を見ていくキーワードを見つけることができるだろうか。楽しみじゃ。先日行った黒島が沖縄のアイルランドと言葉を発したが、大東島はどうだろうか。
 確か明治25年は那覇港を出港した大有丸は天候が悪く運天港に停泊して大東島に出港した記事があった。玉置時代と言われる八丈島出身の人物の登場がある。島の歴史はなかなか興味深いものがある。どんな歴史を歩んできたのかは、明日からの研修で学ぶこと多いであろう。島の人たちの顔、どんな表情を見せてくれるのか。いい旅したいもんだ。


2002年10月27日()過去記録

 昨日南大東島から帰ってきた。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島の東に浮かぶ大きな島という意味のようだ。今はダイトウジマと読んでいる。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島から東の太平洋上に大きな島があるという認識が読み取れる。通りすがりや漂着した人たちが立ち寄った形跡はあるようだが、沖縄貝塚時代(縄文・弥生期)やグスク時代、そして近世に至って人々が長期に渡って居住した痕跡は確認されていないようだ。

 南大東島の北港から北方に北大東島を見ることができる。案内してくれた教育委員会の宮城さんは「あの島に姉が嫁いでいるのですよ・・・。目の前にみえますがね。ボートで渡れるのですが、先が見えず波が天井から落ちてくる感じですよ」と。島には自然の入江がなく、南の亀池港や西港などの港は人工的に陸側に入江を切り込んでつくってある。漁から入江の港に帰ってきたボートは、すぐクレーンで陸に吊り上げている姿を見た。島の周辺の海岸や港を一周していると、荒波や切り立った海岸が人を寄せ付けてこなかった歴史の一面が伺える。

..
   
▲海岸はいつも荒波だそうだ!     ▲直接外洋と接した港。接岸できません

 切り立った断崖と押し寄せる荒波が人を寄せつけない環境であるが、島の内陸部は盆地状で幕(ハグ)と呼ばれる二重・三重にめぐらされた防潮風林が続き、そしていくつかの池があり大陸的な穏やかな島に一転する。


....      
          ▲内陸部にある池の一つ大池

..
 
▲ほとんどが大規模なサトウキビ畑       ▲落ち着きをみせる石積みの建物

 現在につながる人々の居住は明治33年に遡る。


2022年7月12日(火)

 本部町具志堅をいく。

 具志堅の集落内の分校跡地へ。この広場で舞台を組み立て豊年祭をおこなっていたことがある。今では駐車場として使われている。今は町営具志堅団地の現場。十年前の以下の立ち話を思い出しながらの①広場 ②上間神ハサ―ギ跡 ③上間家(ウイマヤ―)の祠 ④具志堅ハサ―ギ跡地 ⑤シニ―グ(道ジュネ―の道筋) ⑥クラマー ⑦旧家 ⑧神ハサ―ギ(昭和17年真部ハサ―ギ、上間ハサ―ギ 具志堅ハサ―ギを統合) ⑨お宮 ⑩ウタキのイベ ⑪ウシデーク広場 ⑫旗頭・踊り方の入場口 ⑬旧家(神道) ⑭神道への登り口(具志堅さんに教えてもらう。家の前の花木の名前も)) ⑮真部神ハサ―ギ跡(行けず) ⑯フプガ―(大川) ⑰池内の9本木) ⑱シニグ(流し)の場・・・。

 農作業帰りのおばあさんがフプガーに降りて手足と顔を洗っていた。フプガーの側の畑の手入れをしたいたおばさんも手を休めて一服。そこで以下の会話(10年前の島人(シマンチュ)との会話。

  「フプガーの側の道、謝花に行くのですか?」
  「嘉津宇に行けるよ」
  「フプガー綺麗に掃除してありますね?」
  「この前よ、中の掃除したさ。あの木(棒)も取り換えたさ」
  「トン・トト・トンは太鼓の音ですかね?」
  「うん、そうだよ。こっけいだね」
  「昔は、家々を回っていたのですか?」
  「今は回っていないがよ、新しい家を回っていたさ」
  「クランモーの場所わかりますか?」
  「うん、仲里・・・、ウイヌジュンサ・・・の側の道を降りていくさ。年に一回
   しか使わないから草ボーボーだはずさ」
  「イェー、どこかで見たさ。館長さんでしょう。ほんものが若いさ!」
  「ありがとさん。ヘヘヘヘ・・・。」
  「みなさんも、シニグ踊るのですか?練習もするのですか?」
  「踊るよ。ウタの練習するよ。中学生の女の子たちもね」
  「今度のシニグ、応援に来ますからね」

  

  

2022年7月13日(水)

 名護市汀間のウイミの調査をしたことがある。神ウタの中に、「あがりうふじま」(大東島のこと)が謡われている。ウイミ(折り目か)のとき、海岸(竜宮と言っている)から「あがりうふじま」(東の大島)へ見送る所作がある。地元の方々は竜宮(ニライカナイ)への見送りとの観念を持っている。私はシニグの「流し」の場面だとみている。今年もその祭祀の時期が近い。「あがりうふじま」(大東島のこと)が浮かぶ。


2002年10月23日(水)過去記録

  
24日から26日まで南大東島です。

 明日から南大東島へ。その準備もあり。今日は体力をセーブしないと・・・。午前中は大丈夫そうだ。
 昨日は頭痛と吐き気でダウン状態。どうにか持ちそうだ。これから、もう一つ頭をめぐらさなければならない字誌がある。2時間ばかりの講座なのだ。前回は資料を準備して出張したのにお流れにしたようだ。一服できると思っていたのに。

 明日の南大東島行き大丈夫だろうか。数名の回数券チケット何故か私の方に送られてきているじゃないか。信用あってのことだろうと思うのだが。来月、マットウバかどうか人間ドッグで頭の検査をすること知らないのだね。また、一番遠いのだぞ空港まで。地域史の皆さん。朝5時に自宅を出ないと行けないな。言いたいこと書きましたので忘れないでしょう。ハハッハ。みんなのためじゃ。早く片付け、徹夜なしにしましょうかね。

 南大東島。はじめての島。あれみっけ。それみっけの島だろうか。八丈島?と沖縄のチャンポン文化だろうか。どん顔をした人たちが住んでいるのだろうか。大東島を見ることで足元の歴史文化を見ていくキーワードを見つけることができるだろうか。楽しみじゃ。先日行った黒島が沖縄のアイルランドと言葉を発したが、大東島はどうだろうか。

 確か明治25年は那覇港を出港した大有丸は天候が悪く運天港に停泊して大東島に出港した記事があった。玉置時代と言われる八丈島出身の人物の登場がある。島の歴史はなかなか興味深いものがある。どんな歴史を歩んできたのかは、明日からの研修で学ぶこと多いであろう。島の人たちの顔、どんな表情を見せてくれるのか。いい旅したいもんだ。

2002.10.27(日)

 昨日南大東島から帰ってきた。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島の東に浮かぶ大きな島という意味のようだ。今はダイトウジマと読んでいる。ウフアガリジマと呼ばれるように沖縄本島から東の太平洋上に大きな島があるという認識が読み取れる。通りすがりや漂着した人たちが立ち寄った形跡はあるようだが、沖縄貝塚時代(縄文・弥生期)やグスク時代、そして近世に至って人々が長期に渡って居住した痕跡は確認されていないようだ。

 南大東島の北港から北方に北大東島を見ることができる。案内してくれた教育委員会の宮城さんは「あの島に姉が嫁いでいるのですよ・・・。目の前にみえますがね。ボートで渡れるのですが、先が見えず波が天井から落ちてくる感じですよ」と。島には自然の入江がなく、南の亀池港や西港などの港は人工的に陸側に入江を切り込んでつくってある。漁から入江の港に帰ってきたボートは、すぐクレーンで陸に吊り上げている姿を見た。島の周辺の海岸や港を一周していると、荒波や切り立った海岸が人を寄せ付けてこなかった歴史の一面が伺える。

..
  ▲海岸はいつも荒波だそうだ!    ▲直接外洋と接した港。接岸できません

 切り立った断崖と押し寄せる荒波が人を寄せつけない環境であるが、島の内陸部は盆地状で幕(ハグ)と呼ばれる二重・三重にめぐらされた防潮風林が続き、そしていくつかの池があり大陸的な穏やかな島に一転する。

現在につながる人々の居住は明治33年に遡る。


.             ▲内陸部にある池の一つ大池


 ▲ほとんどが大規模なサトウキビ畑        ▲落ち着きをみせる石積みの建物


2022年7月11日(月)

 何年ぶりか忘れたが本部町水納島を訪れる。渡久地港からフェリーで20分足らずの島である。水納島は本部町字瀬底に含まれた小島である。
  ・おもろさうしで、おきみつな わらいきよ (沖水納のワライキヨ(神女)
           わらいきよは たかへて (ワライキヨ(神女)、たかへて)
           ・・・
  ・正保国絵図帳 「水な嶋」
  ・絵図郷村帳  「水な島無人居」
  ・「ペリー艦隊日本遠征記」の付図  Mina I. ミナ島
  ・「南島水路誌」(明治16年)  面那島(ミンナ島) 「人煙ナシ」
  ・明治・大正期 水納島と水無島と使われる。
  ・明治20年代中頃まで無人島
  ・明治23年(1890年)に瀬底島の人々によって農耕地として開拓
  ・1899年の人口  13人
  ・1960年(昭和35年) 103人
  ・2000年(平成12年)  53人
  ・2016年(平成28年)  40人

 ※平成11年度の島を訪れる人々 約5万人
 
 「琉球国由来記」(1713年)の瀬底村メンナイ御嶽(ミンナ島か)  
 「琉球国旧記」(1731年)に面那嶽とある。

 島の紹介と学校が紹介されている。

「沖縄県国頭郡志」(大正8年発行)に、以下のように述べてある

   瀬底の西方伊江との間に水無島あり。周囲三十四丁新世の隆起珊瑚岩にして、サンゴ礁を
   以て囲◆せられ、半島より之を瞥見せば白砂日光に相映じ悶々として、亦海中の一奇観たり。
   島は西方に湾曲して、コ字形をなし、中央低地して甘藷および瓜類等の栽植に適す。住民二十
   数戸、旧藩時代には一時伊江間に属し、樹木繁茂せしが、濫伐せられ後再び本部村瀬底の
   小字となれり。

  

 

  

 

2022年8月10日(

 多忙中!

 本部町水納島に渡る。明日の講座の件で本部町は博物に立ち寄る。
 
2022年7月9日(

 本部町博物館の講座は本部町具志堅の予定。コースはシニグとトントト・トン(流し)を体験してもらうことに。10年前の学芸員実習をした一人が来沖、急遽参加予定。2003年のメンバー今では?

 明日は本部町水納島へ。小さな島。どう変貌しているか。目で確かめてみることに。

2003.10.11(土)のムラ・シマ講座参照

..
      ▲徒歩で神ハサ―ギ、さらにお宮まで

.
▲具志堅の神ハサ―ギ      ▲上間家の前(文教場跡)上間ハサ―ギ跡

.

▲上間家(ウイマヤー)の側の拝所       ▲フプガーでシニグ(浄め)

2022年7月8日(金)

 本部町具志堅の報告をする。具志堅のお宮内に香炉がある。「奉寄進」と刻まれた石の香炉が五基ほどある。刻字はほとんど摩耗しているが、按司や王子や親方などに随行して行った奉公人の江戸上り(江戸立)など「上国」のことを調べ、るため、関西を訪れたことがある。

20085月1日(木)過去記録

 神戸や兵庫、大阪などが登場してくると「江戸上り」(江戸立)が被さってくる。「江戸上り」について研究書もあるが、沖縄県史が発刊された「江戸上り琉球使節の江戸参府」(ビジュアル版)があり非常にわかりやすい。有り難い。

 これまで、按司や王子や親方などの薩州行きや参府(江戸)に赴いた正使や福使をはじめ儀衛正・楽童子・楽師・与力などが琉球からの物や出し物(歌や踊りや音楽の演奏など)を持っていくが、向こうで能や武田操(からくり)や手妻(手品のこと)や人形芝居などを見る機会があった。それに随行していった地方の奉公人なども、そのような芸能を鑑賞する機会があった。

 江戸上りで大坂まで来ると、江戸堀と土佐堀の間の島に薩摩藩蔵屋敷(大坂公館)があり、そこに招かれ、宴を賜り竹田操(からくり)や手妻と人形芝居や狂言などを鑑賞している。薩摩藩蔵屋敷と薩摩藩中屋敷は中の島の隣りの島である。中の島と薩摩藩蔵屋敷のあった島には、数多くの蔵屋敷が並んでいたようだ。

 今回は「中の島」までいく。大坂の港が知りたくて「築港」や「天保山」など案内していただいた。使節を乗せた川舟は淀川をさかのぼり伏見で荷揚げをし陸上で江戸へ向かったという(「中の島」あたりの画像がみつかりません)。

 これまで確認してきた沖縄本島の石灯籠や銘のある香炉、それと関わった王子や親方、そして地方の奉公人。薩摩や江戸上りへお供していった奉公人が間切の村々へ、芸能など伝えていく、その役割を担っていた様子が見える。(各地にみる村々の拝所の「奉寄進」香炉や間切の奉公人の勤職書:参照)
  
    大阪城の内堀       大阪城の天守閣      大阪城の内堀

  
 
  中の島と堂島に架けられた難波橋       何回も架け替えられた太平橋

   

【近世の琉球の動き】

 ・1598年 豊臣秀吉63歳で生涯を閉じる。
 ・1599年 島津氏は庄内(都城)の領主伊集院忠真の叛にあう。翌年終結する。
 ・1600年 島津氏は関ヶ原の戦いで西軍に味方し敗れて不安定なものになる。
 ・1602年 家康より罪を許され義久に薩摩・大隅の両国と日向の一部が安堵される。
 ・1604年 義久は尚氏宛て書状を送る。その書状内容が・・・
 ・1604年 上の書状に対して9月尚氏は中村親雲上を島津氏に送るが徳川氏へは謝恩の使者を送っていない。
 ・16057月 島津氏より琉球出兵の願いが出される。(出兵理由)
 ・16066月 琉球出兵を認める(島津家の当主家久)。
 
160934日 山川港出発する。
16105月 家久は尚寧王を伴って薩摩の京泊をたつ、6月伏見、8月駿府、20日江戸。
1610828日 将軍秀忠に喝見。尚寧は家久にともなわれて、将軍世子竹千代に拝喝。琉球国王の引見。
1611年 尚寧王帰国を許される。

 
 今帰仁村今泊のシルバマ(夕暮れの海岸)  浜の堤防にヤッカをつくりそこで一杯!

2022年7月7日(木)

 具志堅を訪れてみた。具志堅の区長さん、上間さんを訪ねる。コロナで神行事は行われていなかったと伺っていた。今年はどうかと気がかりになっていた、「今年はやらないと・・・」と区長さんのお言葉。公民館隣の上間さん宅へ。上間さんの区長時代、シニグやウシデークの調査をさせてもらったことがある。「田天事業」で一緒に提案された治(ハル)氏の様子を伺う。「寡黙庵」のシーサーをつくってくださった方である。「トン・トト・トンのコースを辿ってみた。

 何度か「学芸員実習」の調査地でお世話になった所である。実習生と一緒に「今帰仁グスクを抱えたムラ」として企画展」を開催したムラでもある。

 以下の企画は2008年に行った「ムラ・シマ講座」の踏査コースと画像である。具志堅の神行事は来月からなので、まだ準備がされていないので以前の画像で。来週の講座は、コロナのこともあるので、座学にするか延期にするか。

具志堅(ぐしけん:本部町)2008年(平成20)・12月13日撮影

 ・上間家(上間殿内)の拝所
 ・具志堅ノロ殿内の跡?

 ・神道
 ・具志堅のお宮(拝殿・神殿:グスク)
 ・神ハサーギ
 ・真部の旧家跡
 ・真部の神アサギ跡
 ・ふぷがー(大川)

C:\Users\nakahara\Pictures\2008-12-09\035.JPG C:\Users\nakahara\Pictures\2008-12-09\039.JPG
  ▲上間屋(上間殿内ウイマドゥンチ)      ▲上間屋の拝所の内部

C:\Users\nakahara\Pictures\2008-12-09\055.JPG C:\Users\nakahara\Pictures\2008-12-09\066.JPG
       ▲グスク(ウタキ)のイベ               ▲具志堅の神ハサーギ

C:\Users\nakahara\Pictures\2008-12-09\068.JPG C:\Users\nakahara\Pictures\2008-12-09\106.JPG
   ▲神ハサーギの内部               ▲旧家の石垣(真部)

C:\Users\nakahara\Pictures\2008-12-09\099.JPG C:\Users\nakahara\Pictures\2008-12-09\109.JPG
      ▲具志堅の大川(フプガー)           ▲ウガーミ(真部のウタキ)


2022年7月6日(水)

 台風後のヒヨドリの巣をのぞいてみた。ひながが四羽。ギマの木に営巣。無事に育っている。側に立派なシーサーが見守っているので大丈夫か。

 原稿がプロジェクターで開けず、パワーポイント原稿で説明。調査風景は過去の記録で。(参加者、暑い中ごくろうさんでした)

 来週、本部町のフィールドワークがあるので、コースの下見に行ってみるか。
  

  


2022年7月5日(火)

 夕方から「移住懇話会」 今帰仁村兼次・諸志・与那嶺・仲尾次・崎山の紹介。その準備OK。

②今帰仁村仲尾次                             

仲尾次の概況(2009年5月16日)記録

 ・仲尾次は方言でナコーシやノホーシとよぶ。
 ・現在の仲尾次は11の小字からなる(当原・水溜原・仲道原・前原・神里原・バナ原・
  前平原・新石原・立石原・上原・尾山原)。
 ・当原(アタイバル)は、その村(ムラ)の中心となる。今帰仁グスクの前もハタイ
  原という。そこはかつての集落の中心であった。
 ・仲尾次は1600年代には「中城村」とある。
 ・今帰仁村に玉城と兼次がある。玉城はタモーシ、兼次(兼城)はハニーシという。
  中城は?
 ・仲尾次はスガーウタキ(ナカグスク)あたりからの移動村である。
 ・今でもウタキ(グスク)にウガン(祈願)にいく。(旧1月1日、五月ウマチー、
  七月最後の亥の日、九月ウマチー)
 ・もともと「中城ノロ」を出す村(ムラ)だった。
 ・中城ノロは崎山・仲尾次(中城)・諸志(諸喜田)・兼次の祭祀(さいし)を
  つかさどる。
 ・農村構造センター(公民館)前に神ハサギあり、神道(ヌル道)が残されている。
 ・仲尾次は山手から海岸に細長くのびる。
 ・豊年祭のスタートは崎山のウドゥイバンタでの御願踊り(ウガンウドゥイ)を行う。
 ・北山高等学校がある。
 ・ハウス栽培のスイカや野菜栽培がさかん。
 ・仲尾次に数か所に石橋があった。その一つが残っている。
 ・現存する石橋の近くは水溜原(ミンタマイバル)といい、池があった。
 ・イリガーと呼ばれる井戸がある。そのような井戸はチンジャという。吊るカーのこと
  か。
   (石柱がある)
 ・海岸に石柱を切り出した石切り場がある。
 ・イジヌイヤーヤ(岩屋)、竜宮の神様をまつってあるとか。鍾乳洞(しょうにゅうど
  う)の洞窟(どうくつ)になっている。あるユタが1971年に設置した「酉龍宮権現」
  の碑がある。

 仲尾次はいくつも歴史を読み取っていくキーワードを提示してくれる。仲尾次の集落とウタキの関係を見ていくと「移動村である」こと。仲尾次は1600年代まで仲城村であったこと。それと中城ノロを排出した村であり、『琉球国由来記』(1713年)の頃には、中城と仲尾次が登場する。中城ノロは中城村がでたが、継承者がなく中城村→与那嶺村、さらに諸喜田村(現在の諸志)へ移動している。しかし、名称は中城ノロを今に伝えている。

 中城ノロ家(現在諸志)には戦前9枚の辞令書があった。戦争で失っているが、幸いにして記録や写真(2枚)に残されている。写真で残されたのは「中城ノロ」の辞令書である。一枚は1605年の発給なので北山監守(今帰仁按司)五世克祉、もう一枚は六世縄祖の時代のものである。中城村が仲尾次になるのは、寛文8年(1668)の布令「中城と申名字衆中百姓下々迄も、御法度にて候間、別名に替申様可被申渡候」に沿ったのであれば、中城村を名乗ることが禁止されたので仲尾次村に改称したということになる。しかし、その後も中城ノロはそのまま使うし、村名も『琉球国由来記』(1713年)では両方が出てくる。下の二枚の辞令書は1668年以前なので布令の前である。

 崎山にヌルドゥンチ跡がある。中城ノロが関わる祭祀の時、必ず拝む場所である。下の辞令書が発給された頃は、そこに居住していたことが想定される(今帰仁ノロ火神やアオリヤエノロ火神の例からしても)。中城村の集落も崎山にあるノロドゥンチ跡地から中尾次之嶽に至る地域にあったと見られる。それは中城巫火神(現在崎山地内にある)は中城村にあり、現在地への集落の移動は、『琉球国由来記』(1713年)より後のこととみられる。同書にある「ギネンサ嶽御イベ」を中尾次村とあるが、崎山村ではないか。崎山のウタキはジンニンサガーラの後方にあるウタキである。詳細に触れないが、『琉球国由来記』(1713年)の村の並び、そして中城之嶽(スガーウタキ)の地番が平敷地番であることなど。

 仲尾次の村移動や集落移動、崎山を含めて検討を必要とし、その手掛かりがつかめそうである。

 ・今帰仁間切中城ノロ職j叙任辞令書(万暦33年:1605)
    しよりの御ミ事
      ミやきせんまきりの
      中くすくのろハ
        もとののろのくわ
     一人まうしに
     たまわり申候
    しよりよりまうしが方へまいゐる
  万暦三十三年九月十八日

 ・今帰仁間切中城ノロ職j叙任辞令書(隆武8年:1652)
   首里乃御美事
     今帰仁間切之
     中城のろハ
     一人かなに
     たまわり申候
  隆武八年二月五日 

                (以下 画像略)
  ▲「中城ノロ辞令書」(1605年)     ▲「中城ノロ辞令書」(1652年)

【調査コース】

  ・仲尾次の神ハサギ
  ・仲尾次の石橋
  ・掘り込み井戸(チンジャ)と石柱
  ・泰山石敢當
  ・戦没者の慰霊塔
  ・石切り場
  ・竜宮(洞窟)(どうくつ)(イジュヌイヤーヤ)(今回、満潮でいくことできず)
 
(画像略) 
      ▲仲尾次の神ハサギ                            ▲石 橋

 
(画像略) 
  ▲仲尾次の井戸(イリヌハー:チンジャ)   ▲海岸の石切り場

【今回、記録した場所】

  以下略


2022年7月4日(月

 今月は歴史を軸にした講座が四件予定。そのため、うる覚えの時代の流れを明確にして話すことに。
 台風後の片づけへ。

.今帰仁間切山原のノロドゥンチ参照

今回は今帰仁グスク周辺の拝所と、かつて今帰仁グスクへの主要道であったであろうハンタ道をたどることにした。現在の今泊集落は今帰仁グスクの麓の海に近い場所に位置している。今帰仁グスク周辺に、今帰仁阿応理屋恵殿内火神の祠・今帰仁ノロ殿内火神の祠・トモノハーニ殿内火神の祠があり、ハンタ道沿いにミームングスクやハタイバルウーニ、そして神送り場所と見られる(ナガレ庭)、さらに下ると親川(エーガー)がある。グスク周辺にある火神の祠や拝所が、集落移動の痕跡を示す手掛かりとなり、一つの法則が見いだせる。
 
 今帰仁グスク内の『琉球国由来記』(1713年)でいう「城内上之嶽」と「城内下之嶽」が今帰仁村(ムラ)にあるとある。両村が明治36年に合併し、同39年に分離し、昭和48年に再び合併し現在に至る。今帰仁グスクのあるハンタ原は親泊村域である。さらに古い1742年の「今帰仁旧城図」では「はんた原フノ印竿本ヨリ戌下小間右少十八間」とあるが、どの村かは明確に記されていない。

 ところが、それより古い『琉球国由来記』(1713年)で今帰仁グスク(ハンタ原)は今帰仁村内である。どの時期に今帰仁グスクのあるハンタ原が親泊村に組み込まれたのか。その議論はこれまでなされたことがない(集落移動や今帰仁グスク内のウタキ(イビ)と村との関係をしる手がかりとなる重要な要素をもっているので改めて整理することに)。

  もう一つ今帰仁グスクの近くにあった今帰仁村が麓に移動し、今帰仁グスクにいた今帰仁(北山)監守一族は今帰仁村へ移り住んでいる。今帰仁按司六世の位牌のある屋敷跡は今帰仁村側にあるので説明がつく。ところが、すでに今帰仁グスク近郊から麓に移動している『琉球国由来記』(1713年)の頃の阿応理屋恵按司火神は親泊村にある。親泊村側に阿応理屋恵按司火神があったとするなら、現在の今帰仁村側にあるオーレーウドゥン跡ではなく、親泊村側に求める必要がある。

   画像略
    今帰仁阿応理屋恵ノロ殿内火神の祠と内部の火神(今帰仁グスク付近)




2022年7月3日(

 台風4号は沖縄本島からそれたようだ。まだ雨は降っている。

伊是名島参照

【伊是名島の四つのムラの集落移動】

 伊是名島には『琉球国由来記』(1713年)で登場する村(ムラ)は伊是名・勢理客・仲田・諸見の四つである。内花は昭和19年に字として諸見から独立しているので、ここでは扱わない。ここではグスク内にある御嶽(イベ)と祭祀との関わりで見てみる(山原のムラを見る視点、集落・御嶽・神アサギの関係と祭祀)。

 『琉球国由来記』に出てくる伊是名グスク内にイベが三つ出てくる。それらのイベとムラ(あるいは集落と祭祀)の関係がどうなっているのか。集落の発生と密接に結びついている御嶽(御嶽の内部のイベ)と集落。その結びつきが祭祀の拝む場所(御嶽:イビ)に痕跡としてあるのではないか。伊是名グスクは標高97mのピラミット型の杜で、またグスクでもある。グスク内(杜)に以下の三つのイベがある。

  ・伊是名ミヤ御イベ:神名 伊是名森(公儀祈願所伊是名城内)←伊是名
  ・高城ミヤ御イベ:神名 スエノ森(公儀祈願所伊是名城内)←勢理客
  ・大城ミヤ御イベ:神名 真玉森(公儀祈願所伊是名城内)←(諸見・仲田)

 伊是名グスクの三つのイベで、大城ミヤ御イベで諸見と仲田、高城ミヤ御イベで勢理客、そして伊是名ミヤ御イベで伊是名の人たちがウンジャミシニグを行なっている。山原の今帰仁グスク内の二つの御嶽(イビ)、根謝銘グスク内の二つの御嶽(イビ)と同様な形態をなしている。それはグスク(御嶽:杜)に二つの集落があり、その杜がグスクとなり、杜にあった集落が移動。集落が移動しても御嶽(イビ)への祭祀は途絶えることなく継承される。そのことが、伊是名グスクにも適用できそうである。

 その視点で伊是名グスク内のイベと集落の関係を見ると、伊是名杜(後にグスク)内や麓にあった伊是名・勢理客・(諸見・仲田)の集落が、そこから移動していった。イベある一帯はそれぞれの集落の故地であると。諸見と仲田は移動する前は一つの集落で、移動時あるいは移動後に二つの集落(後にムラ)に分かれた可能性がある。1713年以前の分離なので、それぞれに神アサギがあって当然なこと。(伊平屋あんがなし、二かや田、銘刈家、それと伊是名ノロの祭祀の関わりなどを含め詳細な調査検討が必要)。

【伊是名ムラの集落移動】

 伊是名については、すでに解かれているように伊是名グスクから伊是名の上村へ、そこからさらに現在地に移動している。伊是名グスクあたりを元島、そこから移動した地を上村と呼び、地名(小字名:原名)に移動の痕跡を遺している。
 
【勢理客ムラの集落移動】

【諸見・仲田ムラの集落移動】

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 杜の内部、あるいは麓一帯に集落?          グスクから仲田・諸見集落をみる
 

2005.05.06(金)記録

「伊是名ゆき」の目的に伊是名港と山原船の件があった。伊是名は島なので、現在でも海上輸送が主である。王府時代に伊是名島に共有船や個人船(いずれも山原船)があり、沖縄本島との間で物資の輸送があった。山原船は帆での運航なので予定は風任せである。

 以下の略年譜のように番所や役場は伊是名村から仲田に移動。さらに伊平屋村は昭和14
  に伊平屋村と伊是名村に分村する。
 ・伊平屋島の番所は伊是名村(ムラ)に置かれる。
 ・明治13年伊是名村の番所内に伊平屋島役所が設置される。
 ・明治14年伊平屋役所は那覇役所に併合され、番所はそのまま置かれる。
 ・明治29年郡区制が敷かれ、伊平屋島は那覇役所から島尻郡区に編入される。
 ・明治30年伊平屋島番所は役場と改称される。地頭代は島長となる。
 ・大正11年(1922)の伊福丸が伊平屋村と那覇間を就航する。
 ・昭和6年伊平屋村(伊是名含)役場は伊是名から仲田へ移動。
 ・昭和14年(1939)に伊平屋は伊平屋村と伊是名村とに分村し、伊是名村の役場は
  仲田に決定する。
 ・伊福丸は伊是名村と伊平屋村の共同経営となる。昭和19年の10.10空襲で爆撃をうける。
 ・昭和39年(1964)に仲田港を拡張・整備をする。

【明治の新聞記事】
 ・難破船(明治31年4月15日)
 ・琉球形帆船の流失(明治32年8月7日)
 ・琉球形船の行方不明(明治3477日)
 ・難破船(明治36年7月9日)
 ・山原船の海難(明治38115日)
 ・難破船一束(明治39年10月30日)
 ・難破船(明治42年3月31日)
 ・山原船の転覆(明治43123日)

 新聞記事の一例「山原船の転覆」(明治43123日)を全文紹介する。
   島尻郡伊平屋村字伊是名の共有山原三反帆船は、同村仲田四郎を船頭として外三名
   乗込み、藁三千五丸、藁五十枚、銀貨十五円位、紙幣十五円位、雑品入箱四個、公文
   書類一包と、外に去る旧臘帰郷せる、同村字勢理客歩兵二等卒上原三郎の、連隊より
   貸与せられたし返納軍服を積載して、去る十七日伊是名津口を出帆し国頭郡本部村字
   崎浜に碇泊し、翌十八日未明那覇へ向け仝地を発帆したるが、午前九時頃恩納崎を距
   る三海里の沖合に差しかかりしに、折しも吹き荒れる北風は激浪を巻き起し、終に船体
   は転覆、激浪は更に乗組員一名を海中に捲き込み、行方不明となりたりとは悲惨にあ
   らずや。

   
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         現在の伊是名港                   昭和14年以前はここが主港

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  伊是名のドー(観音堂)のある杜         千手観音を祭った祠


2022年7月2日(

 大雨洪水注意報が発令される。台風対策へ。午後から解除。晴れ間をみて、花畑の草刈りへ。台風の接近まで、一日の時間あり。

2018年5月30日(水)調査記録(まとめ)参照)(本稿では画像略)

 以前スムチナウタキは「複数村(ムラ)のウタキとしたことがある。「奉納寄進」や年号の刻まれた石の香炉を集めてみると「立神」(旅立や無事帰郷)との関わりのあるウタキであることがよくわかる。クボウのウタキの「首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、唐・大和・宮古・八重山、島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也。」のウタキであることが主である。祈りの百果報、五穀豊穣、航海安全などを祈るウタキである。

複数村(ムラ)のウタキ(御嶽)―今帰仁村玉城のスムチナ御嶽―

 スムチナ御嶽(ウタキ)は今帰仁村(間切)中央部の玉城村(現在の字玉城)に位置する御嶽である。『琉球国由来記』(1713年)には「コモキナ嶽:神名コシアテモリノ御イベ 玉城巫崇所」とあり、玉城巫は玉城・謝名・平敷・仲宗根の四か村の祭祀を管轄する。このウタキの特徴は玉城・謝名・平敷・仲宗根にそれぞれウタキを持っているが、各村の御嶽とは別に四カ村のウタキとしてスムチナ御嶽が設けられている。集落の発生と関わる御嶽がある中で、スムチナ御嶽は集落の起源と直接関わるものではなくノロ管轄の制度化に伴って設立された御嶽と捉えることができそうである。

    ・玉  城・・・・ウタキ有り(タマグシク)
    ・謝  名・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)
    ・平  敷・・・・ウタキ有り(ウガン)
    ・仲宗根・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)

 スムチナ御嶽は標高143mの杜で玉城ノロ管轄の四つの村を見下ろせる場所にある。逆を言えば四つの村から見える位置に御嶽を設けている。旧暦4月15日のタキヌウガンの時は、四カ字の人たちがスムチナ御嶽の中腹のウカマ(広場)に集まり待機する。四カ字の神人達は、さらに頂上部のイベまで行って祈りを捧げる。

 イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(今帰仁間切惣地頭職)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。間切役人の「口上覚」に立神(タチウガン)が今帰仁グスクで行われている記事が散見される。このスムチナウタキでも行われたと見られる。それが、スムチナウタキをはじめ、謝名ウタキ、平敷のウタキ、勢理客のウタキなどにあるイベの香炉。.


2018年5月29日(火)の調査記録

 今帰仁村玉城のスムチナ御嶽で行われるタキヌウガンの調査。四ヶ村(字)が参加しての祭祀。玉城ノロ管轄の祭祀である。スムチナ御嶽には四ヶ字の人々が集まり、そこでのウタンが終わるとそれぞれの字でのウガンがある。今回は仲宗根に参加予定。玉城になるかも。

【今帰仁村玉城のスムチナウタキでのタキヌウガン】

 旧暦4月15日に行われるタキヌウガン。玉城・謝名・平敷・仲宗根の四ヶ字(アザ)合同の祭祀である。(玉城は寒水村と岸本村が合併した村(ムラ)でタキヌウガンに参加するのは玉城のみ)

 コモケナ(スムチナ)嶽そこでの祭祀や唱えについては、なんら記されていない。しかし、四ヶ村合同の祭祀となると重要な祭祀であったと見られる。今帰仁グスク近くにある「コバウノ嶽」がある。そこでの祭祀は国(クニ)レベルの祭祀だと言い続けている。北山監守と今帰仁アオリヤエ一族が首里に引揚げる(1666年)までは今帰仁アオリヤエの崇所であったとみている。『琉球国由来記』(1713年)の頃はクボウノ嶽は今帰仁ノロが肩代わりしておこなっていた。

 謝名村に、アフリノハナト、云う所アリ。昔、君真物出現之時、此所ニ、黄冷傘立つ時ハ、
 コバウノ嶽ニ、赤冷傘立、又コボウノ嶽ニ、黄冷傘立時ハ、此所ニ、赤冷傘立と、申伝也。
 
 また、コボウノ嶽(今帰仁村)での唱えは、以下の通りである。

  首里天加那志美御前、百御ガホウノ御為、御子御スデモノノ御為、又島国之、作物ノ為、
  唐・大和・宮古・八重山、島々浦浦ノ、船々往還、百ガホウノアルヤニ、御守メシヨワレ。
  デヽ御崇仕也。

 スムチナ御嶽もクボウヌ御嶽と同様タキヌウガンの名称でウランサン伝説があり、国(クニ)レベルの祭祀ではなかったか。
   
 スムチナ御嶽でのウガンがすむと、玉城は神アサギへ、仲宗根はヒージャーガー、集落内のアガリギッチョへ、謝名はサンケモーへ、平敷は神アサギへ。そこでタキノウガンが無事終わりましたのでウガンで祭祀は閉じる。その後、村人達がオミキを酌み交わし、玉城は神アサギ内でご馳走を前に直会。


2022年7月1日(金)

 7月スタート。予定では全て片づけ、ぼんやり過ごしているとことを夢想していた。そうも行かないです。今月も、すでに数件の予定あり。昨日立ち寄った花畑、苧麻(マーウーベー)が花木においかぶさっている。台風が発生、接近する前に花が咲きだしたバナナの台風対策(支え)をすばいと。雷がゴロゴロ怒っているのが聞こえています。

 まだ続いている腰痛を草刈り機の振動でリハビリでもするか。楽しい7月に入ります。さて、リハビリに出発。