※当時のままです。
2011年2月8日(火)
【国頭村安波①】
国頭村安波までゆく。安波について報告する予定あり。名護市から大宜味村のムラを通りながら北上。大宜味村喜如嘉から謝名城へ入る。謝名城の根謝銘(ウイ)グスクへの通りの桜並木は見ごたえがあるからである。それと1673年に国頭間切は分割し、国頭間切と田港(大宜味)間切となる。分割した直後の国頭間切の番所は浜である。そこに番所(地頭代)火神の祠がある。旧正月で拝む方がいるのだろうか。その確認で足を運んでみた。最近、拝んだ痕跡あり。12月に文化財で硯の展示会をしたので硯が頭にあり。祠の近くに二つに割れたを硯みっけ。
奥間の金剛山の桜、辺土名の上島、伊地などの桜を見ながら、与那から東海岸へ抜け出る。目的地は安波である。安波の斜面の集落。そこには神アサギ、安波ノロドゥンチや上之屋などの拝所。そこから安波のウタキが見下ろせる。ウタキは昭和13年に神社化され、その時に桜を植えたようである。鳥居の側の一本が花を咲かせている。
安波のウタキの前の橋が御拝橋(ウガンバシ)とある。ウタキに因んだ橋の名称だとわかる。拝原の小字があれば、それによるが、あるいは小地名としてあったかもしれない。また小字に恩納原がある。どういう場所だろうか。すぐに地名議論ができる。
安波のウタキは山原的なウタキではない。ウタキの祠の後ろに石盛がある。どうも中南部のウタキのイベには、ムラを創設した人物を葬る習俗がある。安波のウタキもそうである。「部落の発祥は浦添間切から船でやってきたさむらい一家によって新設された」との伝承を持っている。なるほどである。つまり、安波は山原的というより、習俗は浦添からやってきた中山の文化を踏襲している可能性がある。ウタキの位置にもそれが伺える。安波川から入り、まずは今のウタキ付近にきて、それから今の集落へ移動。ウタキの場所は、最初に足を置いた場所。
上之屋の拝所がある。そこは久志間切の川田からやってきたとの伝承がある。その一族は山原の習俗をもった一族である。すると、安波のムラは少なくとも中部と北部の集団の混合である。さらに寄留してきた南山からの一族がいる。それだけでなく、中城や今帰仁などからやってきた人達もいる。各地からやってきて出来たムラ。どのような文化見いだせるだろうか。シニグと海神神祭は山原的。それと神アサギも。

▲国頭村浜(番所のあった所)の火神 ▲硯を見つける

▲ウタキの中の拝所(村創設の人が葬られているという:山原のウタキのイベにあたる)
2011年2月9日(水)
平成12年と13年の国頭村安波のシニグのアルバムを出してみた。3月5日に国頭村安波でムラの方々と一緒に安波について学ぶことに。祭祀については、安波の方々から教わることにしたい。平成13年は安波の祭祀を行う場所が整備された年のようである。ちょうど、その変わり目であった平成12年と13年に調査をしている。
【国頭村安波②】
島袋源七氏は『山原の土俗』(昭和4年)で国頭村安波のシニグについて記してある。昭和の初期と平成12、13年とでは、大分変貌している。9年前の画像を追いながら、安波の方々から教えを請いたい。(下の画像は与那嶺江利子さんからの提供。感謝。私は安田の調査で安波は僅かしか見ていない)。
・毎年旧七月亥の日に行う。
・昔は五日に渡って行っていたようだが、昭和4年頃は三日ですましている。
・ウィキー拝み 祭典の前夜は神人は祝女殿内に集まって祭神を礼拝する。
それがすむと字で選ばれた男一人は神人の所へ行く。神人は男に盃を捧げる。
ウィキーの力量徳行等を賞賛する挨拶をし献酬して別れる。
・祭当日 早朝から祝女は数多くの神人を従えて字の創始の神と称するヌー神(マシラリの神)を祭(ウタキ内?)、
御酒と御花米を供えて拝む。これがすむと神アシアゲに引き上げる。神アシアゲでも同様な事をして午前中で終
わる。
・午後四時頃、アシアゲの庭に神人をはじめ字内の男女の全部が集まり、祝女の指揮により一同祭神を礼拝し、
各自携帯してきた酒肴を開く。
・酒宴中数名の女が男の席に行き、「私共の仲間を男が奪い取ったのは不都合である」というような言葉を申し立
てて大騒ぎを演じつつ男を縄で縛る。古老の話によれば掠奪結婚の遺風だといっている。後は思い思いに散会
する。
・ウスダイコ(三日目か)
午後四時頃になると、各自酒肴を携えて神アシアゲの庭に集合する。この日は別に祈願もなく、神人も平服の
ままきて、字内の婦女のウスダイコ踊りを見物する。
1995年のシニグ儀式と大分異なっているようだ。所作をあげてみる。
①夕がた前に神人たちがヌルドゥンチに集まる。神衣装を着てウガンをする。
②ウフェーヤーの火神を拝む。旧家のウフヤー→ミーヤーの順に拝む。
③シマンナハからウガミ(ヌーガミ:ウタキ)へ行く。ウガミの祠はシマナハに向っている。
④祠の後ろの石積みは安波の創設の人物の墓とみなされている。
④拝殿の横に香炉があり、ミレー(海の神)に向っているという。
⑤ここでは拝殿(火神)と墓と香炉を拝む。
⑥ウガミ(ウタキ)から戻ると神人と紺地衣の女性たちが数名、アサギの座に着く。
⑦アサギへは階段がある(以前木で出来た階段であった)。
⑧男達がヒニバンタに集まってくる。
⑨ヒニバンタの東側は崖となっていて海が一望できる。
⑩神アサギの前を通るとき男達は一礼して通っていく。
⑪子供達が魚となる。棒をもった漁師が追い囲む。
⑫帆柱?を押し戻す所作
などなど

▲平成13年のシヌグ(神アサギで) ▲アサギマーでウシデークを踊る(平成13年)

▲平成14年の安波シニグ(網の準備中) ▲新しくできた神アサギの前で

▲安波のナカヌヤー?(ウガミへ向う)(平成14年) ▲アサギマーでの所作の一つ
2011年2月10日(木)
【国頭村安波③】
・安波ノロの簪や一連の勾玉や衣装がのこっている。
・安波はマキヨ(マク)名は「おうじまく」である。
・『絵図郷村帳』に「国頭間切あだ村」とある。
・『琉球国高究帳』(1643年)には「あは村」でてこない。
・『琉球国由来記』(1713年)に「国頭間切安波村」と出てくる。
安波巫の管轄は安波村と安田村。
安波村のウタキは「ヤギナハ森城」、神名はカネマシノ御イベとある。
(安波はウタキはウガミと呼び、ウタキの神をマシラジと呼んでいる)
安波巫火神/神アシアゲ
海神折目とシノゴ折目が一年越に行われる。
・1747年辺野喜・奥村と並んで津口勤番が置かれた。
・道光30年(1850)も「国頭間切阿波村江汐掛之大和船船中之者捕付方ニ差越候足軽共、
間切々々より夫雇入置候賃分請取候様申出候段、那覇役人より問答返答并御物奉公
江通達之事」
・安波の津口(港)に大和船が汐掛することがあった。
・安波川と譜久川が合流し、沖縄最大の川。洪水や暴風時の波浪による被害が多かった。
・廃藩置県の頃、我部・新垣・平識などの一族はシマナカに居住し、地人同様百姓地の配
分を受けた。他は美作(ツラサク)に居住(屋取)。
・明治14年学校が一校あり、それは首里からきた士族が開いたもの(生徒三人)。
・明治14年の安波の戸数50戸、人口300人。明治36年99戸、527人と増加。
・明治14年山方筆者11名中、国頭間切では安田と謝敷に各一人配置。
安田山筆者・・・安波・安田・楚洲・奥・辺戸の村を管轄
謝敷山筆者・・・宇嘉・辺野喜・佐手・謝敷・与那・伊地・宇良・辺土名・奥間・比地・浜を管轄。
・明治28年に安波尋常小学校が開設される。
・明治35年内法にあたる「川廻り規定」ができ、各戸順番で川岸巡視を行う。
近年の規定
・巡視時期は畦払より湯風呂切る(10月)迄とす
・川廻範囲は上は高石より下は幸地原田尻迄とす
・巡廻実施区間家屋 福地光三郎屋より前田屋迄とし、巡視資格及責任者は戸主とす
・巡廻巡視時間 朝は八時より晩は七時迄とす
・其の他必要事項
・安波の経済圏は安田・楚洲とともに泡瀬や与那原方面へ。上納米は与那原経由で首里へ。
・山原船は久志間切大浦港をへて与那原方面と往来した。
・『水路誌』」に安波港について「南東より来る波浪を防ぐが故に、大浦湾以北に於ける
琉球形船の好泊地とす。港首に安波大川あり、高潮には小船を入るるを得、河により
上流四鏈に安波村あり」とある。
【安波の集落】
・安波の集落は安波川の右岸の斜面(清水山の中腹)から麓にかけて発達している。
・清水は草分けの家(上大屋)の右手にある。若水汲みや飲み水の汲み場となっている。
・上大屋のすぐ下方(前)に神アサギと安波ノロドゥンチ、中屋がある。
・ノロは上大屋の一門の世襲。若ノロと勢頭神の同一門から。この一門は川田からの移住。
・根神は南山からの移住の一族から。南山タンメー(麓にある新屋)。
(宮城栄昌は公儀ノロが任命された時、根神であった上之屋から公儀ノロを、一門の次に古い新家系が
根神となったという)
・安波の集落は上之屋から下方、西側へ展開している。そこはシマナハ(島中)とよばれ、そこから対岸の前田原、
上流部の福地原(学校付近)へ発達している。
安波の集落について、次のような新聞記事(「ふるさとの顔」(沖縄タイムス:1965年10月)がある。
「沖縄では珍しい階段式の家並が、訪れる人の目をみはらせる。まだほとんどがかやぶきぶきだが、このかやぶきが
かえって周囲にマッチする。伝統的な村落(集落)の趣を残し、ほとんどの観光客が感嘆の声をもらすほど。ここで
は沖縄の各地が戦争で失った‘ふるさと‘の姿を、そのまま残している。山ぞいに家がならび、その下を川が流れて
いるのは、沖縄ではほかに例がないといわれ、いわば理想的な村落形態だが、安波が、現在の形になったのには
二つの理由がある。ひとつは、安波川と十三号線ぞいに流れるフーク(普久)川流域がかなり広い平坦地で、耕地
に最適だったこと。もう一つは、二つの川が大雨のたびにあふれ、平坦地が浸水したことである」と。

▲現在の安波のシマナハの集落 ▲清水山の斜面から麓へ展開する集落

▲ヒラバンタからみた安波の河口(津口) ▲安波川と流域
安波は四つの集落からなる。シマナハ(ムラウチ)が安波の中心となる集落である。①シマナハはウイバレーとサーバレー、②福地、③メーダ、④ツラサクからなる。
①シマナハ・・・雛段状の集落形態(ウイバレー:神アサギ・ノロトゥンチ・上之屋)がある。
②福地(フクジ)・・・安波川沿いの平坦地(福地)は明治10年頃から集落が形成される。
③メーダ(前田)・・・シマナハの前方、安波川を隔てた対岸の平坦地。明治10年頃から。
④ツラサク(美作)・・・サフは窪地や小さな谷間。明治30年代から開墾のため集落が形成。
昭和40年頃の調査で安波には20の門中がある。自称する出身地はすべて安波以外の地である。東村川田・大宜味村謝名城、国頭村比地・浜・勝連町浜比嘉などである。そのことが安波の村としての祭祀に影響を及ぼしていそうである。
※主な参考文献
・『国頭村史』
・『国頭の今昔』など
【国頭村安波④】
安波の門中。安波には20近い門中がある。1964年の安波の世帯数は98、人口は490人である。因みに明治13年は52戸、人口は301人である。安波には村墓と門中墓がある。安波は山原的ではない印象を持っていた。まず、一つはウタキの位置である。ウタキの位置は、村立の中心となった一族は、外からやってきたのではないかということ。ウタキのイベにあたる場所に村の創設の人物の墓にしている。それは中南部の集落とウタキとの関係によく似ている。
昭和30年代に調査した門中の全てが他の地域からやってきたとの伝承をもっている。そのことが、故地(特に中南部)の伝統を安波に導入している。17世中頃の『絵図郷村帳』に「国頭間切あは村」と出てくるので村が成り立っていたことがわかる。
・古琉球から住んでいた一門
・近世に移ってきた一門
・明治の初期に移ってきた一門
・大正期に入って来た一門
それらの一門が一つの村(ムラ)として祭祀や習俗を導入していく場合、各地のを取り入れていくため複合的な形態になっていると見られる。公儀ノロの存在は首里での習俗を村に導入する役割を担う。
『琉球国由来記』(1713年)には、国頭間切安波村とあり、祭祀も行われ、百姓・安波ノロ、そして安波大屋子の存在が確認することができ、祭祀が行われていた。今に伝えているシノグ(シニグ)と海神折目が見え、1700年代から一年越しに行っている。安波ノロ火神もある。
(安波に住む各地から居住してきた一門が村の中の習俗や祭祀にどのような影響を及ぼしているのか?)
安波の墓は村墓から門中墓、さらに個人墓に移行しつつある。村墓も存続しているようである(村墓・門中・個人墓の確認する必要あり)。


参考文献
・「国頭村安波における門中制度の変遷」常見純一『沖縄の社会組織と宗教』所収(1965年発行)