寡黙庵:琉球の地域史調査研究)(管理人:仲原)
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【上杉県令日誌】(12月16日より続く)過去記録より
明治14年11月28日(午後1時40分)上杉県令の一行は屋我地島(済井出か運天原あたり)から舟で運天港にある今帰仁番所と首里警察分署の前の海岸に到着するが、番所と分署に立ち寄らず集落を抜けて坂道をいく。一つの洞窟があり、そこに鍛冶屋が設けられている。フイゴを据え、カナドコも置いてあるが人の気配がない。
道は曲折盤回して登る。山の中腹に奥深い洞があり、白骨の髑髏があり、洞の中に堆積している。あるいは腐朽している。鎧櫃の中にあるのもある。地元の人は「百按司墓」と言っている。今では弔いや祭もされず、精魂はどこあるのだろうか。この髑髏は今より(明治14年)468年前に中山王の尚思紹が兵を起こし、北山王攀安知を滅ぼした時、北山の士が戦死した屍とも、あるは今から(明治14年)273年前、薩摩の島津義久、樺山久高を大将として琉球を攻めたときの戦死者の髑髏とも伝えられている。
はっきりとした文献がまだないので両説のいずれが是なのかはっきりしない。近年本(県)庁では百按司の遺屍を埋める議論があるようだ。
百按司墓から今帰仁分署に至る。門は南西に向いカジマルの木が陰をなし、四、五百年前のもの。傍らにはりっぱな福木がしげり、港の入口には日本型の船が二艘碇泊している。
【その後の様子】過去記録より
運天は日常的に訪れる地であるが、12月20日の午前中、日本航空の写真撮影の案内があったので同行した。その時に番所(分署)跡から百按司墓まで散歩してみた。
今では首里警察分署があった場所がどこか確認できていないが、番所内に置かれたようである。この首里警察分署は明治13年6月22日に羽地分署を運天の番所に移し今帰仁分署とし森寿蔵が分署長心得となった。所管は羽地・名護・今帰仁・本部・久志・大宜味・伊江・伊平屋・鳥島の広範囲に及ぶ。鳥島は明治14年10月に那覇署の管轄となる。明治15年1月に今帰仁分署は名護大兼久移し名護分署となる(『今帰仁村史』)。
今帰仁番所は運天港の近くの福木の大木が数本ある場所である。運天に今帰仁番所が置かれたのはいつかはっきりしない。伊野波(本部)間切が分割した時には運天に番所があったとみていい(それ以前から運天にあった可能性もある)。番所が警察分署と同じ建物であれば、明治14年には門が南西に向かいガジマルの木が陰をなしたいた様子が記されている。また現在ある福木がりっぱに繁り、当時の様子が浮かんでくる。
集落の中を通り、現在のトンネル近くに出たのであろう。その近くに鍛冶屋をした跡と見られる洞窟が今でも残っている。その洞窟は物入れに使われている。所々に焼けた跡や鍛冶屋があった雰囲気が今でも漂っている。鍛冶屋跡から登る道は現在遊歩道として整備されているが、草ぼうぼうである。大正13年に建てられた源為朝公上陸之跡碑にたどり着く。
さらに行って百按司墓を訪れている。半洞窟に白骨の髑髏がたくさんあり、鎧櫃に人骨が堆積している様子が記している。人骨の多さから北山が滅ぼされた時の戦死者の屍であるとか、薩摩軍が琉球を攻めた時のものであろうとか議論があるが、まだどっちとも言いがたいとしている。
本(県)庁で百按司の遺屍を埋める義ありと聞くとあるが、それは明治15年8月に「白骨埋エイ之儀ニ付伺」を太政大臣宛に伺っているが、それは県庁費の中から流用支弁するべしと判断が下されている。明治21年頃に百按司墓は第一墓所から三墓所まで石垣が積まれ現在に至っている。
運天港周辺の集落はムラウチと呼ばれている。古宇利島への発着場所にはコバテイシの大木があり、またムラウチには大川や神アサギや地頭火神の祠などがある。また、東がわの森の麓に今帰仁(北山)監守を勤めた今帰仁按司とその一族を葬った大北墓、それと大和人の墓塔二基もある。
2002.1.5(土)過去記録より
長崎県は二度目である。4年前(2002年から)だと記憶しているが定かではない。その時は長崎市内から平戸市(平戸市切支丹資料館・オランダ商館跡など)まで足を延ばした。今回はハウステンボスと長崎市内が中心。(一部紹介)
ハウステンボスや長崎の出島を散策していると、司馬遼太郎の「街道をゆく」(オランダ紀行や肥前の諸々街道)の視点がかぶさってくる。「日本が鎖国していた間、清国(中国)とオランダの商船が長崎での通商が許されていた。日本国じゅうが暗箱の中に入って、針で突いたような穴が、長崎だけあいていた。そこから入るかすかな外光が、世界だった。」(「オランダ紀行」) その後に展開するオランダをみていく歴史の視点には、何度も身震いしたことが昨今のように思い出される。
暗箱に射し込んだ光が、まさにオランダだったわけである。200年近い歳月射し込んだ光が明治の文明化へ展開し、また琉球で西洋人をオランダーと呼んでいることにつながっている。
もう一つ「国土」についてである。「オランダ人のやり方は、単に自然を破壊し征服することによって国土を築いたわけではなかった。干拓地や堤防を見ても、日本のそれらのようにコンクリートで固め尽くすという情景は見られない。大地の上にはふんだんに緑があふれ、牛や馬が群居して草を食んでいる。この光景を目にするだけで、オランダという国が自然と敵対せずに、むしろ自然とうまく折り合い、自然を大切にしながら発達してきたということがわかる」(NHKスペッシャル「オランダ紀行」)。干拓という国土づくりのオランダをみると、歴史は未来を展望する指針となる学問だと実感させられる。現在、沖縄県でも各地で埋め立てをしている(あるいは計画がある)が、百年あるいは二百年後の国土がどうなっているのか、どのような国土をつくっていくのか。その認識が欠落しているのではないか。国土が投機の対象になっているかどうかの違いがあったにしろである。自然との折り合いについてもしかりである。
出島計画。それは1846年6月フランス艦船サビーヌ号、クレオパトール号、ビクトリューズ号が運天港に入港したことに始まる。三隻の艦船は約一ヶ月運天港に滞在し首里王府と交易の交渉をするが、目的を達することなく長崎に向かって去っていった。翌1847年薩摩の在番奉行が今帰仁間切にきて屋我地島と古宇利島の地形や水深などの実施検分を行っている。その目的は運天港を貿易港にして古宇利島と屋我地島を出島する準備であったという。滞在している間に二人のフランス人の乗組員がなくなっている。その二人を葬った墓がオランダ墓と呼んでいる。
ここで長崎の「出島」について触れないが、運天港・オランダ墓、そして古宇利島と屋我地島の出島計画。それらのキーワードを通して歴史を紐解くと同時に将来に向けてどう取り組んでいく必要があるのか。長崎・オランダ、そして琉球という枠で考えさせられる旅であった。(詳細については『なきじん研究11』の運天港部分で報告)
変貌しつづけているムラ・シマを研究対象としているものの一人として欠かすことのできないキーワードです。変化していく過程で神アサギとムラの祭祀は変わらず今に継承されています。もちろん、神アサギの建物が茅葺屋根から瓦屋根、コンクリートへ、祭祀を行う神人が少なくなり、あるいはいなくなったムラ(字・区)で区長、書記さん、神人でない方々が参加し行っています。ムラ・シマの祭祀は、公の行事であったことを示しています。
ここでは『琉球国由来記』(1713年)に登場する今帰仁間切(現在の今帰仁村)の村(ムラ・字)について紹介します。今帰仁村、親泊村、志慶真村、兼次村、諸喜田村、与那嶺村、中城(仲尾次)村、崎山村、平敷村、謝名村、仲宗根村、玉城村、岸本村、寒水村、天底村、勢理客村、上運天村、運天村、郡(古宇利)村の18か村があります。『琉球国由来記』に登場する村は、全て神アサギをもち、現存しています。『硫球国由来記』から300年余の間、継承しつづけています。
そこで神アサギと村の関係から興味深いことがいくつも見えてきます。まず一つは『琉球国由来記』にあった村には神アサギがあります。それが現在まで継承されています。明治36年に今帰仁村と親泊村が合併、村名は今泊となりますが、神アサギは一つにすることなく二つのまま。諸喜田村と志慶真村の合併で諸志となりますが、昭和25年に神アサギを一つにした時期がありますが、再び二つの神アサギとしてあります。玉城・岸本・寒水の三ヶ村も明治36年に合併し字名は玉城となりますが、神アサギは玉城神アサギ、岸本神アサギ、寒水神アサギと今でもあります。
そこから見えてくるのは、行政は一つになっても祭祀は一体化しない。他の市町村の事例に本部町の瀬底と石嘉波、崎本部の本部と崎浜、具志堅の具志堅と真部と上間、名護市の我部(我部と松田)、大宜味村の津波(津波と平南)などがあります。
『琉球国由来記』以後に創設(1738年)された村に湧川村があります、そこにも神アサギが創設し、祭祀を行っています。また、移動した村も移動先で、御嶽(ウタキ)や神アサギを建て祭祀を行っています。それは何を意味しているのでしょうか。新しく創設された村が何故神アサギを設置する必要があったのか。祭祀が「神遊び」とあるように、一般の百姓にとっての休息日(首里王府が認めた公休日)であり、祭祀を行わなければ休息日がないということになります。
それは土地制度(地割:納税)との関わりで、祭祀が機能していたと言えそうです。そのために明治以前に新設された村では祭祀を行い、祭祀場としての神アサギ、あるいは上納(穀物)の集積場として必要としたとみられます。
それだけではなく、「間切公事帳」に「月並公事」の項目があり、麦穂祭(二月)、アブシバレー(四月)、稲穂祭(五月)、稲大祭(六月)、柴差・麦初種子・みやだね(八月)、粟豆初種子の日取り(十月)、新早植の日取り(十一月) などの祭祀の日撰びは王府が行っています。作物の植え付け時期や収穫時期、アブシバレー(ムシバレー)のように作物の管理など、それらの達(たっし)は祭祀の名のもとに、その多くが貢租(納税)に関わっています。明治以前に創設された村に神アサギを設置し、祭祀を行う必要があったのはそのためです。
今帰仁村に神アサギを持たない字(アザ)があります。越地が昭和12年、呉我山が大正9年、渡喜仁が昭和15年にそれぞれ分字しているからです。明治36年以降、税は穀物ではなく金銭での納税ですので、一時期穀物を保管する施設は必要なくなります。しかし長年継承してきた祭祀は、明治36年以後に分字した村(字)でも継承されてきています。地割が廃止され休息日としての祭祀は必要としなくなります。しかし、神行事は分字する前の字と関わっていました。例えば、越地は謝名と仲宗根の一部からなり、豊年祭や神行事などになると、それぞれ出身地のムラ(字)と関わります。そこでも村(字)と祭祀との関係がみえます。新設の字ができても、祭祀はもとの字で行っていた。その様子は今帰仁ではほとんど、消えかかっています。消えるのは祭祀が農耕暦であったのが明治以降新暦に変わったことにあります。それでも祭祀は旧暦で行っています。
『琉球国由来記』(1713年)の村と神アサギ、それと祭祀、もう一つ地割とムラの関わりを通してみると近世のムラの様子が年中祭祀、山原で神アサギにその痕跡を遺しています。そのように見てくると、民俗で扱われる祭祀が歴史の変わらない(変わりにくい)部分を今に伝えていると言えそうです。
グスク内や集落から離れた高地にある神アサギは祭祀空間としての役割を果たしているが、集落内にある神アサギは、祭祀を行う施設と税(穀物)を一時集積場としての機能を果たしています。


▲今帰仁村崎山の神ハサーギ ▲今帰仁村玉城の神アサギ
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村 名 |
『琉球国由来記』(1713年)神アシアゲ |
『琉球国旧記』(1731年)神軒 |
明治17年 |
平成29年 |
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今帰仁村 |
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今泊●● ▲ |
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親泊村 |
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兼次村 |
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志慶真村 |
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諸喜田村 |
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与那嶺村 |
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仲尾次(中城)村 |
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崎山村 |
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平敷村 |
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謝名村 |
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仲宗根村 |
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玉城村 |
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岸本村 |
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玉城●●● |
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寒水村 |
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勢理客村 |
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上運天村 |
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運天村 |
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郡(古宇利)村 |
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湧川村 |
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(越地) |
昭和12年分字 |
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× |
× |
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(呉我山) |
大正9年分字 |
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× |
× |
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(渡喜仁) |
昭和16年分字 |
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× |
× |
【本部間切の神アサギ】
①具志堅村神アサギ ②上間村神アサギ ③真部村神アサギ ④嘉津宇神アサギ
⑤謝花村神アサギ ⑥浦崎神アサギ ⑦備瀬神アサギ ⑧具志川村神アサギ
⑨渡久地村神アサギ ⑩健堅村神アサギ ⑪辺名地神アサギ ⑫瀬底神アサギ
⑬石嘉波村神アサギ ⑭崎本部神アサギ ⑮伊野波神アサギ ⑯並里村神アサギ
⑰伊豆味村神アサギ ⑱天底村神アサギ

今帰仁の19のムラ・シマ(字)
①今泊 ②兼次 ③諸志 ④与那嶺 ⑤仲尾次 ⑥崎山 ⑦平敷
⑧謝名 ⑨越地 ⑩仲宗根 ⑪玉城 ⑫呉我山 ⑬湧川 ⑭天底
⑮勢理客 ⑯渡喜仁 ⑰上運天 ⑱運天 ⑲古宇利









■1857年以前の間切と村
【大城間切】(11ケ村)
①和泊 ②和 ③大城 ④赤嶺 ⑤多田平 ⑥後蘭 ⑦下城 ⑧田皆 ⑨島尻 ⑩屋子母 ⑪瀬利覚
【喜美留間切】(14ケ村)
①手々知名 ②出花 ③畦布 ④根折 ⑤玉城 ⑥内城 ⑦瀬名 ⑧永嶺 ⑨上城 ⑩大津勘 ⑪知名 ⑫上平川 ⑬下平川 ⑭皆川
【久志検間切】(11ケ村)
①喜美留 ②国頭 ③西原 ④古里 ⑤久志検 ⑥余多 ⑦屋者 ⑧芦清良 ⑨黒貫 ⑩徳時
⑪馬鹿






(以下略)





























和泊域のシマ(シマ)
①大城間切 ②喜美留間切 ③久志検間切
1857年(安政4)に方制(和泊方)(14カ村)(明治5年に方制は廃止)嶋役人 戸長
①和泊(伊延)祝女「こしゑい」 和泊湊「正保琉球国絵図」
1749年知名村に漂着した唐船の乗組員17人和泊の本御蔵に囲い琉球へ。
1734年伊延湊 朝鮮船 琉球ではなく肥前長崎へ。
②手々知名
③喜美留
「正保琉球国絵図」に村名はないが、「きびる間切」と「きびる浜」がある。
元禄以降久志検間切の内、1857年から和泊方
④国頭
世之主の家来クンゼーヤタロウという豪族。
はじめ久志検間切の内、明治4年和泊方
⑤西原
久志検間切の内、和泊方へ。
ジョバルに神石あり、集落内にシングドーあり。
⑥出花(デギ)(デーは竹のこと)
喜美留間切から和方へ。シニグドーあり。イキント溜池周辺でシニグ祭がおこなわれていた。
⑨内城
集落のあるウイバル、花崗岩が風化した地質。おもろで大ぐすくゴラルマゴハチに築城
シニグ祭のとき間切役人の与人が城跡周辺に依籠り
・出城・直城・上城
・ソーヤシキ ・イゾウヤシキ ・ノーシヤシキ ・アガリゾウヤシキ
・ヘースクヤシキ ・ウワーナスクヤシキ
・明治41年(1908)に和泊村が成立 これまでの村は大字となる。
【本部間切の事例】
・正月は元日より四日間遊ぶ。その内は童子共巷々に集まりて遊申候。
・二月は麦の穂祭と云うものあり。その時は日を撰て、のろくもいは祭りをし、人民は二日間業を
止めて各家にて遊ぶ。
・三月は、ウンジャメ祭(海神祭)と云うものあり、その時は遊ぶはなし。日を撰て、
ノロクモイは火の神所に参詣して祭申候。
・四月は虫払いと云うて、日を撰て人民耕作を止め、牛馬を引き浜辺に出づる。その時
ノロクモイ勤め済る間は、人民より牛馬に至る迄無食す。その勤めを済て後、各家に帰る。
・五月は大御願と云うて、ノロクモイ並びに人民烈りて火神所に参詣す。且稲の穂祭と
云うものあり。その時日を撰て二日間遊ぶ。
・六月は三月に同じ。
・七月は十六日、七月念仏と云う遊びあり。その時童子共、三味線を引きて人民の家々
も廻りて遊び申し候。且大折目と云うものもあり。その日は凡そ十八、九日頃より廿四、
五日頃に限る。その時人民業を止むる村もあり、止めざる村もあり。尤ノロクモイは火の
神所へ参詣して祭申候。
・八月は十一日ヨウカビと云う遊びあり。その時童子共、巷々又は毛へ集って遊び申候。
且また、豊年願の為め三・五・七年一回組踊する事もあり。
・九月には遊びはなし。然れども大御願として、ノロクモイ並びに人民召し烈り。
火の神所に参詣す。
・十月は遊びはなし。
・十一月は遊びはなし。
・十二月は遊びはなし。
2011年6月16日(木)調査記録
中城ノロ管轄のムラの祭祀を調査する。平成三年頃にも調査をしている。その時の記録と写真アルバムがみつからないので、当時のことはおぼろげである。それと崎山のノロ殿内と仲尾次の神ハサギ、それから諸志(諸喜田)での場面は見ている。
旧暦五月十五日の五月ウマチーである。中城ノロが管轄する崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田(現在は諸志)・兼次の五つのムラを連続させた祭祀であったはず。かつての五つのムラを中城ノロが、どのような形で連続させていたのか。それを復元していくことを目的の一つとしてみた。いくつも目を開かされた調査であった。

①崎山ノロ殿内でのウガン ②ノロ殿内から遥拝

③諸喜田(諸志)ウガミのイビでのウガン ④ウガミのイビでのウガン(諸志・与那嶺の方々)
⑤諸志の神ハサギでのウガン ⑦志慶真神ハサギでのウガン ⑥諸喜田神ハサギでのウガン
⑦兼次のカニマン殿内(神ハサギ跡) ⑧ウタキのイビの前でのウガン ⑨兼次神ハサギでの直会




兼次のウフウガン
旧暦の9月15日のウフウガン(大御願)である。「ウンシマへアガリンソーレ」とマイクで呼びかけている。他で字(シマ)でも行われている。兼次のウフガンの祭祀に同行してみた。
午前中、崎山のヌルドゥンチでのウガンを五ヶ字の区長と書記が崎山のノロドゥチでのウガンを済ませる。午後三時にシマ(兼次)の方々が公民館に、直接「金丸殿内」に集まる。カニマントゥンチでのウガン(お酒・米・平線香)を供えてのウガン(ウタキのイベに向かって)。そこで二回手を合わせる。そこでのウガンを済ませるとウタキへ。婦人方(お年寄りが大半)が先頭になり、男性群があとに続く。
ウタキのイビの手前にあるウカマ(広場)へ。女性群はイビの前まで進む。男性群はウカマで待機。イビから声がかかる。イビでのウガン(手を合わせる)の合図がウカマに伝える。イビでのウガンに合わせてウカマでもウガンをする(二回)。ウカマに二ヶ所のウガン場所がある(石のみ)。一ヶ所は今帰仁グスク、もう一ヶ所は首里城とかタマグスク(稲の発祥地)とかの意見あり。
ウカマでのウガンが終わるとウカマから右手の道をゆく。(かつては、イベの前を降りて沢沿いにイリバンタへ出ていた)。全員、集落内の神アサギへ。神アサギの中で女性達がウタキに向かって祈りをし終わりをつげる。その後、直会が始まる。
▲公民館に集まったメンバー ▲金満殿内に三々五々集まり揃ってウガンをする。

▲女性のみイベへ ▲ウカマに待機し、イベと一緒にウガンをする

▲イベから戻った女性達と一緒にウカマ(二ヶ所)祈りをする▲戻りは別の道をとおる
▲神アサギでウガンが無事終えた

▲アサギマーで直会
※兼次は山手にあった集落がムラウチ(村屋敷)に移動した村(字)である。このウガンは中城ノロ
管轄の祭祀であることを今に伝えている。崎山のノロドゥンチに中城ノロ管轄の崎山・仲尾次・
与那嶺・諸喜田(現諸志)の神人(今は区長・書記)が集まって祈願をし、その後神人は自分
のムラに戻りウガンをする。
大正の頃まで、中城ノロは崎山から仲尾次の神アサギ→与那嶺→諸喜田→兼次へと馬に乗って各五ヶムラを廻ったという。(経路図:仲原作図)


【本部町辺名地の神アサギ】(平成24年6月3日)メモ
本部町辺名地の神アサギは公民館の近くにあります。アサギの側に「神社改修記念碑」と「拝殿改築記念碑」(昭和12年)があります。二つの碑は昭和12年の神社と拝所の改築です。ウタキの前にある鳥居の台に「昭和六年建設」と「奉納」とあるので、昭和六年に建設され、昭和12年に神社として神殿と拝殿として改築jしたものとみられます。辺名地は神アサギを拝殿にし、神殿をつくり合祀をする形。しかし、これまでの御嶽などの祭祀場はこれまで通り踏襲しています。ただし、御嶽の入口に鳥居を建立し、御嶽を神社化した型。
神殿の内部に三基の香炉があり、その一基に「奉納寄進 咸豊九年巳未九月旦日 本部按司内 松田仁屋」とあります。またウタキのイビにある香炉も同年とみられます。同様な香炉は並里のウタキにもあります。『中山世譜』(附巻)に本部按司が上国した記事がみられます。それは本部按司に随行していた奉公人だとみられます。
咸豊9年(1859)は向氏本部按司朝章が順聖院様が薨逝されたので特使として薩州に派遣されています。その時の寄進とみられるが、松田仁屋と渡久地仁屋は按司家に奉公している、あるいは奉公していた辺名地村と並里村出身の屋嘉とみられます。
神アサギの屋根裏に桶があり、祭祀の時にお神酒をつくる容器です。内にはタモト木があります。

▲本部町辺名地の神アサギ ▲拝殿改築碑 ▲神社改築記念碑

▲ウタキの入口の鳥居の台 ▲ウタキのイベと神殿内の高炉








今帰仁阿応理屋恵に関する資料メモを引っ張りだしてみた。祭祀そのものは出ていないが、印判(辞令)の発給や知行地を賜り、廃止、復活したことは確認できる。聞得大君が100石~500石賜っているのに対し今帰仁阿応理屋恵は22石余なので、三十三君の一人ではあるが、1700年代には格下げされていたようだ。ガーナー位牌の一基に「順治十五年戊戌六月二拾九日去」(1658年)とあり、今帰仁按司(監守)六世縄祖の位牌である。
『女官御双紙』
一 今帰仁あふりやい代合之時言上ハ御自分より御済めしよわちへ御拝日撰ハ三日前ニ
今帰仁あふりやいより御様子有之候得共首里あむしられより大勢頭部御取次にてみお
みのけ申御拝の日ハ首里大あむしられ為御案内赤田門よりよしうて按司下庫裡に控居
大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふりやいよりみはな一〆御玉貫一封作事
あむしられ御取次にておしあけ申按司御坐敷御呼めしよわれハよろしろちへ美待拝申
天かなし美御前おすゑんミきよちやにおかまれめしよわれハ御持参の御玉貫真壁按司かなし
よりおしあけめしよわる相済御飾の御酒より今帰仁あふりやいに美御酌給御規式相済按司御
座敷にて首里大あむしられ御相伴にて御振舞給申相済みはい御暇气大勢頭部御取次にてみ
おミのけておれ申
一 同時御印判ハセと親雲上よりみはいの日早朝首里殿内へ持来らる首里あむしられよりミ
はいの時早朝今帰仁あふりやいへ上申
今帰仁あふりやゑの1701年の知行高は以下の通りである。
地方高 田方六石ニ斗一升三合三勺四才 (与那嶺按司朝隣夫人)
畑方十六石五升九合三勺六才 (与那嶺按司朝隣夫人)
俸 米 二石(米一石 雑石一石)
倅 者 二
宮城栄昌氏は今帰仁阿応理屋恵について『沖縄ノロの研究』(422頁)で、
「三山分立時代山北の最高神女であった「あふりやゑ」の後を継承した第二尚氏王統時代
の今帰仁あふりやゑは、山北監守が首里に移った1655年以後は知行地も今帰仁間
切に給せられ、地方ノロ的存在と化した。1701年に就任した与那嶺按司朝隣夫人のこ
の石高・・・(略)・・・1731年に廃止された。廃止しても前任関係者があふりやゑ御殿を
管理して祭祀を継続していたので、1768年6月に至り、今帰仁親泊村兼次親雲上の女
蒲戸を任命し、三十三君の一人として復活した」


6月23日が近づくと戦争体験のない私でも、トラウマのようにやってくることがある。(戦争体験の調査や話を伺っていると、何度かその方々の姿を見ている。戦争だけではない)
二人の方(宮城ハル子さんと大城千恵子さん)に大浦崎での記憶を辿ってもらった。宮城ハル子さんは聞き取り調査を行う(諸志と兼次)。当時国民学校卒業(高等科2年)(昭和5年生)したばかりと、千恵子さんは1年か2年生のころ(昭和12年生)。兼次の字誌に収録。ハル子さんが大浦崎小唄(新城苗茂:戦後徳祐作)を謡ってくださった。(仲原ノート記録(2022.6.7昨日)から)
・収容先への経路と心境
・収容先での生活
・当初テント小屋、しばらくすると、掘っ建て小屋をつくりる
・収容先の小川がたびたび出てくる
・トイレのこと
・海藻(ヒジキ)
・スパンパ(フキ)など
・配給の缶詰
・亡くなった死体の処理
・戦後、遺骨の収集
・勉強(千代先生:戦後教員をされる。結婚して仲宗根千代)
・黒板や筆記用具について(百点とるとチョコレートもらえた)
・マラリア
・荷役おろしの作業
などなど
・70年たっての思い(今でも夢に出てくる。一生忘れることのできない一人ひとりの体験記憶)
2003.5.21(水)
〔今帰仁村湧川をゆく〕
湧川ゆきは6月中旬に「平和学習」を小学生と湧川小学校の先生方をふくめてやることになっている。そのため、湧川にある戦争あるいは平和とかかわる場所や遺跡を確認したくて。小学生たちに「戦争と平和」を自分のものとして考える時間をつくりたい。湧川という地で、一人ひとりが戦争と向かいあってもらうために、いくつかのキーワードを探しに・・・・。
・湧川での戦争への流れ
・湧川からも伊江島・読谷飛行場建設
・運天港(特攻隊)の陣地構築
・防空壕堀り(ウタキの斜面や家の近くの森など)
・防空演習(竹やりや消火訓練など)
↓
↓
・収容所へ(収容所での生活)
・収容所から帰村
・慰霊塔の建立(昭和31年)
・南海の塔の建立
などを通して、戦争と平和を自分のテーマとして一人ひとりが考える機会にできればと企画している。
慰霊塔に刻銘されている233名の湧川の方々の名前、その後ウタキの斜面にある防空壕(数基)を確認してきた。気の重い重いテーマであるが、口癖のよう言っているテレビ画面の向こうの出来事ではなく、「自分が今そこに、何故人間として存在できているのか!」を戦争を通して考る機会にしたい。
昨年(2002年)は仲宗根政善先生のひめゆりや先生の著書を通して「戦争と平和」を考えたが、日々の生活の中で自分の問題として捉えることができるようになっただろうか。その時だけでなく。北山高校の生徒達よ。
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▲湧川の慰霊塔(昭和31年建立) ▲233名の戦没者の名前が刻銘
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▲ウタキの斜面の防空壕の口 ▲防空壕の内部、隣の壕との連絡口
【大宜味村田港の御嶽の祠の香炉と奉公人(…にや)】
大宜味村田港と大宜味のウタキの祠に数多くの石の香炉がある。ウタキの中に香炉について伺ってみるが、「たくさんあるね」「字書いてあったかね」と余り知られていない。田港のウガンの祠には二一基の香炉が置かれている。文字が一字でも判読できたのは以下の六基である。田港に何故、二一基の香炉が奉納(寄進)されているのか。それは1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港間切が創設され、田港間切の同村であることと無縁ではなかろう。
田港間切が大宜味間切と改称されると番所は大宜味村に移動したとみられる。その大宜味のウタキの祠に十一基の香炉が置かれている。番所が大宜味村(ムラ)に移ったことで、香炉の寄進が二カ所になされたのではないかと考えている。大宜味村からさらに塩屋村に番所が移っているので塩屋のウタキにも香炉があるのかどうか。ニカ村ほどの数はないのではないか。つまり大宜味番所が置かれていた時期が明治の初期か、それより少し古い時期なのかもしれない。①~⑥の香炉は大宜味村田港のウタキの祠の香炉である。
①「奉寄進 大□□」(年号なし)
②嘉慶九年甲子 奉寄進 九月□日 宮城仁屋 玉城仁屋」と読める。
嘉慶九年は西暦の一八〇四年である。『中山世譜』(附巻)に大宜味按司や親方と関わる記事は見出していない。『家譜』の記事から拾えるかもしれない。
③「奉寄進 同治□年 □□□ 宮城仁屋 西掟 大城□□」
年号の文字の判読が困難であるが、向氏大宜見親方朝救が同治三年に年頭の慶賀で薩州へ派遣されている。それに伴うものか。
④屋古前田村 □□月 根路銘掟 □□□
⑤□□□月吉日 宮城仁屋 大城仁屋 □□仁屋
⑥「奉寄進」の文字のみ

①の香炉 ②の香炉

③の香炉 ④の香炉

⑤の香炉 ⑥の香炉
【羽地間切稲嶺村の真照喜御宮の香炉銘】
名護市稲嶺(真喜屋村から分離)の真照喜屋御宮の四基の香炉がある。その一基に「奉寄進 明治廿八年九月吉日 上京之時 真喜屋村上地福重」とある。その香炉は上地福重氏が上京した時の寄進だと明確に記したものである。ただ、氏が上京した記録はまだ確認できていない。どう結びつくかはっきりしないが、その頃の資料に羽地間切稲嶺村十七番地平民の宮里清助の「御願書」がある。その中に、上京と関わる出来事が確認できる。

▲名護市(羽地間切)稲嶺の真照喜屋御宮 ▲上京の時に寄進した香炉


▲宮にある四基の香炉 ▲稲嶺村の宮里清助氏の「御願書」(一部)
【今帰仁間切の拝所にある香炉と人物】
今帰仁間切内の四つの香炉の年号と二人の内の一人の今帰仁按司の動きが『中山世譜』(附巻五)の記事を合わせ見ることで判明する。
今帰仁村勢理客のウタキ(御嶽)の中のイビに二基の石香炉が置かれている。「奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋」がある。スムチナ御嶽の香炉の年号と一致しそうである。今帰仁按司が上薩のときの旅祈願(航海安全)の香炉なのかもしれない。御嶽での祈願の一つに航海安全があることがしれる。
イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また、それとは別に雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。
すると、これまで判読できなかった勢理客の御嶽のイビにある二つの香炉と玉城のスムチナ御嶽にある判読できない部分は以下のように補足できる。それは『中山世譜』(附巻五)の記事と合わせ見ることでできる。①③の道光二拾年(1840)については、再度石灯籠の年号の確認が必要であるが、同治九年(1840)は今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州(薩摩)に王子として派遣されている。勢理客村の親川仁屋と上間仁屋、それと謝名村とみられる大城にやと松本にやは、今帰仁御殿へ奉公した、あるいは奉公人であろう。そのような関係が中央の芸能を地方に伝播させる要因になっているのであろう。
①奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋→奉寄進 道光二拾年八月吉日 親川仁屋
②奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋→「奉寄進 同治九年庚午十月 上間仁屋
③奉寄進 道光二拾年→奉寄進 道光二拾年(八月吉日)
④奉寄進 同治九年十月→奉寄進 同治九年(庚午)十月 大城にや 松本にや

▲勢理客のイビの前の香炉 ▲謝名のウタキのイビの香炉 ▲平敷のウタキのイビの香炉
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▲スムチナ御嶽のイビ ▲イビの前にある三基の香炉
【国頭村辺土名の「世神之宮」の香炉 】
国頭村の辺土名まで。国頭村辺土名の「世神之宮」の祠にある四基の石香炉がある。石灯籠や銘のある香炉と按司や王子、あるいは親方や脇地頭、奉公人などの薩州や江戸登りと結びつけることができる。宮城栄昌氏が遭難や漂着船と結びつけようとされてため、結論を見い出すに至っていなかった。
王子や親方や按司、脇地頭などの薩州行きとの関係でみると、「世神之宮」の石香炉の三基は『中山世譜』(附巻)の薩州行きの記事と三基(①~③)とも一致する。仁屋クラスのメンバーは殿内や御殿に奉公していた各村の人物とみている。それは他の資料で紹介する予定。(以下の記事の左側は石香炉、右側は『中山世譜』(附巻)の記事)
①道光二十二年寅年 宮里仁屋(1842年)→国頭王子正秀が薩州に赴いている。
②咸豊九己未 金城仁屋 仲間仁屋→馬氏国頭王子正秀が薩州に派遣されている。
③咸豊十年九月?宮城仁屋(1860年)→辺土名親雲上正蕃が薩州に派遣される。
④光緒十一乙酉 新門謝敷仁屋(1885:明治十八年)

▲国頭村辺土名の「世神之宮」 ▲①②の石香炉
【本部町にある本部按司と香炉】
崎本部の御嶽のイビに二基の香炉がある。「奉寄進 □□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(左)と「奉寄進 同治□年□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(右)とある。同治元年(1859)の向氏本部按司朝章の薩州行き(六月~十月)と関わるものか。

▲本部町崎本部のウガミ(ウタキ) ▲ウガミの上部にある香炉

▲左側の香炉 ▲右側の香炉
【国頭村比地の石香炉と石灯籠】
1849年福寧府に漂着した国頭船には五人があ乗り組んでいた。そこで救□を受け、、また船の修理をしてもらった後、福州を経て同年接貢船とともに帰国した。この国頭船が比地船であったことは、比地の中の宮とびんの嶽にある石灯籠及び石香炉によって知ることができる。・・・正面に国頭王子正秀の銘が刻まれ、横面に道光29年己酉と刻まれていた(現在摩耗し確認困難)。また中の宮の香炉の一基に道光29年9月吉日に神山仁屋と山川仁屋が「奉寄進」している。
びんの嶽の石香炉の一つに道光29年9月吉日に国頭王子正秀が寄進している(『国頭村史』)。石香炉や大きな石灯籠は首里に住む按司クラスと関係がある。その典型的な石灯籠は今帰仁グスク内のものである。


【国頭村辺戸の石灯篭と石の香炉】







本部町具志堅の上間殿内は尚円につながる旧家である。上間家の先祖の上間大親は尚円王の弟にあたる人物で、尚真王が山原を巡回しているとき暴風にあった。そのとき上間大親の親子が尚真を助けた。そのお礼として子ども達は首里で役職を賜り、上間大親は上間村の土地を賜った。上間大親は墓を伊是名島が正面に見える今帰仁村諸志の佐田浜につくり赤墓と呼ばれている。
上間殿内の神家に龍が描かれた図がある。龍は首里王に関わるもので、上間家が尚円王(尚家)につながる伝承を持つ家筋なので龍(爪三本)の図像が掲げ、上間殿内が首里の尚氏の系統であることの証として掲げてあるのであろう。その神家には左手から位牌(二基)、中央部に火の神、千手観音、龍の描かれた図像の順に置かれている。
『沖縄県国頭郡志』
『具志堅字誌』
『本部町史』





