沖縄の地域調査研究

       寡黙庵:琉球の地域史調査研究)(管理人:仲原)   

                         もくじ:トップページ

 問い合わせ             新問い合わせメール

                   
2022年6月
                    
先月5月へ

  

山原のシニグ  今帰仁阿応理屋恵
沖永良部島を往く
・徳之島を往く
喜界島阿伝(あでん)(東間切)
北山の時代と沖永良部島2016年11月5日沖永良部島講演)
沖永良部島(2022年4月)
今帰仁村崎山のハサ―ギ(葺き替え作業)
国頭村過去記録
徳之島と琉球へ
奄美大島―瀬戸内町―加計呂麻島
本部ミャークニーを辿る
・2005年8月の記録から「ドイツ・オーストリアを往く
本部町の神アサギ(工事中) ・本部町健堅 ・本部町浜元
本部町具志堅  ・具志堅  ・本部町瀬底  ・本部町謝花
本部町嘉津宇  ・本部町備瀬 ・本部町崎本部 ・伊野波・並里・満名
中南部のグスク・ウタキ
国頭村安田のシニグと辞令書

加計呂麻島1  加計呂麻島2

2022年6月30日




2022年6月29日

 『風土記日本』(第一巻 九州・沖縄篇)の「沖縄篇」に目を通していると興味深いことに気づかされる。その中に「運天港」の写真があり、「運天港 沖縄島中部の今帰仁村にあり、かつては琉球語港(那覇、馬天、安護、船浮、運天)のうちでも随一といわれているところ」とある。運天と関わる歴史的なことが思い出される。写真は昭和35年頃だと思われる。その頃、父の自転車にむすびつけられ、運天港にあった海上警察署(父の職場)に何度か連れていかれた記憶がある。写真の撮影ポイントが港への入口のようで気になる。2002年(平成14)頃は「運天の歴史」に没頭していた頃か。


【上杉県令日誌】(12月16日より続く)過去記録より
 
 明治14年11月28日(午後1時40分)上杉県令の一行は屋我地島(済井出か運天原あたり)から舟で運天港にある今帰仁番所と首里警察分署の前の海岸に到着するが、番所と分署に立ち寄らず集落を抜けて坂道をいく。一つの洞窟があり、そこに鍛冶屋が設けられている。フイゴを据え、カナドコも置いてあるが人の気配がない。

 道は曲折盤回して登る。山の中腹に奥深い洞があり、白骨の髑髏があり、洞の中に堆積している。あるいは腐朽している。鎧櫃の中にあるのもある。地元の人は「百按司墓」と言っている。今では弔いや祭もされず、精魂はどこあるのだろうか。この髑髏は今より(明治14年)468年前に中山王の尚思紹が兵を起こし、北山王攀安知を滅ぼした時、北山の士が戦死した屍とも、あるは今から(明治14年)273年前、薩摩の島津義久、樺山久高を大将として琉球を攻めたときの戦死者の髑髏とも伝えられている。

 はっきりとした文献がまだないので両説のいずれが是なのかはっきりしない。近年本(県)庁では百按司の遺屍を埋める議論があるようだ。

 百按司墓から今帰仁分署に至る。門は南西に向いカジマルの木が陰をなし、四、五百年前のもの。傍らにはりっぱな福木がしげり、港の入口には日本型の船が二艘碇泊している。

【その後の様子】過去記録より
    
 運天は日常的に訪れる地であるが、12月20日の午前中、日本航空の写真撮影の案内があったので同行した。その時に番所(分署)跡から百按司墓まで散歩してみた。

 今では首里警察分署があった場所がどこか確認できていないが、番所内に置かれたようである。この首里警察分署は明治13年6月22日に羽地分署を運天の番所に移し今帰仁分署とし森寿蔵が分署長心得となった。所管は羽地・名護・今帰仁・本部・久志・大宜味・伊江・伊平屋・鳥島の広範囲に及ぶ。鳥島は明治14年10月に那覇署の管轄となる。明治15年1月に今帰仁分署は名護大兼久移し名護分署となる(『今帰仁村史』)。

 今帰仁番所は運天港の近くの福木の大木が数本ある場所である。運天に今帰仁番所が置かれたのはいつかはっきりしない。伊野波(本部)間切が分割した時には運天に番所があったとみていい(それ以前から運天にあった可能性もある)。番所が警察分署と同じ建物であれば、明治14年には門が南西に向かいガジマルの木が陰をなしたいた様子が記されている。また現在ある福木がりっぱに繁り、当時の様子が浮かんでくる。

 集落の中を通り、現在のトンネル近くに出たのであろう。その近くに鍛冶屋をした跡と見られる洞窟が今でも残っている。その洞窟は物入れに使われている。所々に焼けた跡や鍛冶屋があった雰囲気が今でも漂っている。鍛冶屋跡から登る道は現在遊歩道として整備されているが、草ぼうぼうである。大正13年に建てられた源為朝公上陸之跡碑にたどり着く。

 さらに行って百按司墓を訪れている。半洞窟に白骨の髑髏がたくさんあり、鎧櫃に人骨が堆積している様子が記している。人骨の多さから北山が滅ぼされた時の戦死者の屍であるとか、薩摩軍が琉球を攻めた時のものであろうとか議論があるが、まだどっちとも言いがたいとしている。

 本(県)庁で百按司の遺屍を埋める義ありと聞くとあるが、それは明治15年8月に「白骨埋エイ之儀ニ付伺」を太政大臣宛に伺っているが、それは県庁費の中から流用支弁するべしと判断が下されている。明治21年頃に百按司墓は第一墓所から三墓所まで石垣が積まれ現在に至っている。
 運天港周辺の集落はムラウチと呼ばれている。古宇利島への発着場所にはコバテイシの大木があり、またムラウチには大川や神アサギや地頭火神の祠などがある。また、東がわの森の麓に今帰仁(北山)監守を勤めた今帰仁按司とその一族を葬った大北墓、それと大和人の墓塔二基もある。 


2002.1.5(土)過去記録より

 長崎県は二度目である。4年前(2002年から)だと記憶しているが定かではない。その時は長崎市内から平戸市(平戸市切支丹資料館・オランダ商館跡など)まで足を延ばした。今回はハウステンボスと長崎市内が中心。(一部紹介)

 ハウステンボスや長崎の出島を散策していると、司馬遼太郎の「街道をゆく」(オランダ紀行や肥前の諸々街道)の視点がかぶさってくる。「日本が鎖国していた間、清国(中国)とオランダの商船が長崎での通商が許されていた。日本国じゅうが暗箱の中に入って、針で突いたような穴が、長崎だけあいていた。そこから入るかすかな外光が、世界だった。」(「オランダ紀行」) その後に展開するオランダをみていく歴史の視点には、何度も身震いしたことが昨今のように思い出される。

 暗箱に射し込んだ光が、まさにオランダだったわけである。200年近い歳月射し込んだ光が明治の文明化へ展開し、また琉球で西洋人をオランダーと呼んでいることにつながっている。

 もう一つ「国土」についてである。「オランダ人のやり方は、単に自然を破壊し征服することによって国土を築いたわけではなかった。干拓地や堤防を見ても、日本のそれらのようにコンクリートで固め尽くすという情景は見られない。大地の上にはふんだんに緑があふれ、牛や馬が群居して草を食んでいる。この光景を目にするだけで、オランダという国が自然と敵対せずに、むしろ自然とうまく折り合い、自然を大切にしながら発達してきたということがわかる」(NHKスペッシャル「オランダ紀行」)。干拓という国土づくりのオランダをみると、歴史は未来を展望する指針となる学問だと実感させられる。現在、沖縄県でも各地で埋め立てをしている(あるいは計画がある)が、百年あるいは二百年後の国土がどうなっているのか、どのような国土をつくっていくのか。その認識が欠落しているのではないか。国土が投機の対象になっているかどうかの違いがあったにしろである。自然との折り合いについてもしかりである。

 出島計画。それは1846年6月フランス艦船サビーヌ号、クレオパトール号、ビクトリューズ号が運天港に入港したことに始まる。三隻の艦船は約一ヶ月運天港に滞在し首里王府と交易の交渉をするが、目的を達することなく長崎に向かって去っていった。翌1847年薩摩の在番奉行が今帰仁間切にきて屋我地島と古宇利島の地形や水深などの実施検分を行っている。その目的は運天港を貿易港にして古宇利島と屋我地島を出島する準備であったという。滞在している間に二人のフランス人の乗組員がなくなっている。その二人を葬った墓がオランダ墓と呼んでいる。

 ここで長崎の「出島」について触れないが、運天港・オランダ墓、そして古宇利島と屋我地島の出島計画。それらのキーワードを通して歴史を紐解くと同時に将来に向けてどう取り組んでいく必要があるのか。長崎・オランダ、そして琉球という枠で考えさせられる旅であった。(詳細については『なきじん研究11』の運天港部分で報告)


2022年6月28日

 以下の文章は2014年『沖縄県地域史協議会 会誌』掲載した短文です。平成以前から「ムラ・シマ」をテーマに調査をしていた頃のものです。「神アシアゲ」(神アサギ)は山原地域の歴史を描くのに欠かす事の出来ないキーワードの一つでした。(北山文化圏・シニグ文化圏・神アサギ文化圏などを提言)先日の「沖永良部島」調査で「シニグの残存」の痕跡を辿るのが目的でした。

山原の神アサギ―神アサギとムラ・シマ―


 山原のムラ・シマの踏査ほぼ完了。取りこぼしの補足調査と「まとめ」にはいります。これまで各地のムラ・シマ踏査をしてきました。特に『琉球国由来記』(1713年)に出てくる山原の村(ムラ)に神アシヤギ(アサギ)が出てきます。その神アサギは、廃藩置県・大正・昭和(戦前)と大和化、あるいは取り込まれていく中、戦後の社会の変化、復帰後、さらには平成の時代に至る約300年も継承され続けています。それは何を意味しているのか。

変貌しつづけているムラ・シマを研究対象としているものの一人として欠かすことのできないキーワードです。変化していく過程で神アサギとムラの祭祀は変わらず今に継承されています。もちろん、神アサギの建物が茅葺屋根から瓦屋根、コンクリートへ、祭祀を行う神人が少なくなり、あるいはいなくなったムラ(字・区)で区長、書記さん、神人でない方々が参加し行っています。ムラ・シマの祭祀は、公の行事であったことを示しています。

ここでは『琉球国由来記』(1713年)に登場する今帰仁間切(現在の今帰仁村)の村(ムラ・字)について紹介します。今帰仁村、親泊村、志慶真村、兼次村、諸喜田村、与那嶺村、中城(仲尾次)村、崎山村、平敷村、謝名村、仲宗根村、玉城村、岸本村、寒水村、天底村、勢理客村、上運天村、運天村、郡(古宇利)村の18か村があります。『琉球国由来記』に登場する村は、全て神アサギをもち、現存しています。『硫球国由来記』から300年余の間、継承しつづけています。

そこで神アサギと村の関係から興味深いことがいくつも見えてきます。まず一つは『琉球国由来記』にあった村には神アサギがあります。それが現在まで継承されています。明治36年に今帰仁村と親泊村が合併、村名は今泊となりますが、神アサギは一つにすることなく二つのまま。諸喜田村と志慶真村の合併で諸志となりますが、昭和25年に神アサギを一つにした時期がありますが、再び二つの神アサギとしてあります。玉城・岸本・寒水の三ヶ村も明治36年に合併し字名は玉城となりますが、神アサギは玉城神アサギ、岸本神アサギ、寒水神アサギと今でもあります。

そこから見えてくるのは、行政は一つになっても祭祀は一体化しない。他の市町村の事例に本部町の瀬底と石嘉波、崎本部の本部と崎浜、具志堅の具志堅と真部と上間、名護市の我部(我部と松田)、大宜味村の津波(津波と平南)などがあります。

『琉球国由来記』以後に創設(1738年)された村に湧川村があります、そこにも神アサギが創設し、祭祀を行っています。また、移動した村も移動先で、御嶽(ウタキ)や神アサギを建て祭祀を行っています。それは何を意味しているのでしょうか。新しく創設された村が何故神アサギを設置する必要があったのか。祭祀が「神遊び」とあるように、一般の百姓にとっての休息日(首里王府が認めた公休日)であり、祭祀を行わなければ休息日がないということになります。

それは土地制度(地割:納税)との関わりで、祭祀が機能していたと言えそうです。そのために明治以前に新設された村では祭祀を行い、祭祀場としての神アサギ、あるいは上納(穀物)の集積場として必要としたとみられます。

それだけではなく、「間切公事帳」に「月並公事」の項目があり、麦穂祭(二月)、アブシバレー(四月)、稲穂祭(五月)、稲大祭(六月)、柴差・麦初種子・みやだね(八月)、粟豆初種子の日取り(十月)、新早植の日取り(十一月) などの祭祀の日撰びは王府が行っています。作物の植え付け時期や収穫時期、アブシバレー(ムシバレー)のように作物の管理など、それらの達(たっし)は祭祀の名のもとに、その多くが貢租(納税)に関わっています。明治以前に創設された村に神アサギを設置し、祭祀を行う必要があったのはそのためです。

今帰仁村に神アサギを持たない字(アザ)があります。越地が昭和12年、呉我山が大正9年、渡喜仁が昭和15年にそれぞれ分字しているからです。明治36年以降、税は穀物ではなく金銭での納税ですので、一時期穀物を保管する施設は必要なくなります。しかし長年継承してきた祭祀は、明治36年以後に分字した村(字)でも継承されてきています。地割が廃止され休息日としての祭祀は必要としなくなります。しかし、神行事は分字する前の字と関わっていました。例えば、越地は謝名と仲宗根の一部からなり、豊年祭や神行事などになると、それぞれ出身地のムラ(字)と関わります。そこでも村(字)と祭祀との関係がみえます。新設の字ができても、祭祀はもとの字で行っていた。その様子は今帰仁ではほとんど、消えかかっています。消えるのは祭祀が農耕暦であったのが明治以降新暦に変わったことにあります。それでも祭祀は旧暦で行っています。

『琉球国由来記』(1713年)の村と神アサギ、それと祭祀、もう一つ地割とムラの関わりを通してみると近世のムラの様子が年中祭祀、山原で神アサギにその痕跡を遺しています。そのように見てくると、民俗で扱われる祭祀が歴史の変わらない(変わりにくい)部分を今に伝えていると言えそうです。

グスク内や集落から離れた高地にある神アサギは祭祀空間としての役割を果たしているが、集落内にある神アサギは、祭祀を行う施設と税(穀物)を一時集積場としての機能を果たしています。


  ▲今帰仁村崎山の神ハサーギ         ▲今帰仁村玉城の神アサギ

村 名

『琉球国由来記』1713年)神アシアゲ

『琉球国旧記』1731年)神軒

明治17

平成29
ハサーギ・アサギ

今帰仁村

 

 

今泊●●

 


(城内神アサギ)※

 

親泊村

 

兼次村

 

志慶真村

 

諸喜田村

 

与那嶺村

 

仲尾次(中城)村

 

崎山村

 

平敷村

 

謝名村

 

仲宗根村

 

玉城村

 

岸本村

 

玉城●●●

寒水村

 

勢理客村

 

上運天村

 

運天村

 

郡(古宇利)村

 

湧川村

 

(越地)

昭和12年分字

 

×

×

(呉我山)

大正9年分字

 

×

×

(渡喜仁)

昭和16年分字

 

×

×

【本部間切の神アサギ
 ①具志堅村神アサギ ②上間村神アサギ ③真部村神アサギ ④嘉津宇神アサギ 
 ⑤謝花村神アサギ   ⑥浦崎神アサギ   ⑦備瀬神アサギ   ⑧具志川村神アサギ
 ⑨渡久地村神アサギ ⑩健堅村神アサギ ⑪辺名地神アサギ ⑫瀬底神アサギ 
 ⑬石嘉波村神アサギ ⑭崎本部神アサギ ⑮伊野波神アサギ ⑯並里村神アサギ 
 ⑰伊豆味村神アサギ ⑱天底村神アサギ


2022年6月27日

 来月(7月)本部町立博物館の講座は、本部町具志堅である。先日、戦後具志堅から分離独立し、上本部村の字(アザ)となった嘉津宇・北里・新里(現在本部町)を踏査している。以下の二枚の辞令は奄美の古琉球の辞令書を見ていくベースとなっている。

2011
年2月19日(土)記録


 本部町具志堅と関わる古琉球の辞令書が二枚ある。「くしけん」は上間殿内が所蔵していた「古琉球の辞令書」(今帰仁間切東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年)(宮城真治資料所収)と中城ノロ家の「今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書:万暦14、1586年)(『御案内』所収)の二枚に登場する。以前、触れたことがあるが、再度触れておきたい。古琉球の時代の村(ムラ)の概念と村の範囲について、近世の行政村とは大分異なっているようである。そのことを、もう少し丁寧に見て行くことに。その前提となる辞令書がどの程度正確に読み取っているか不安である。
 
今帰仁間切東の掟宛辞令書:嘉靖42、1563年】(具志堅上間家)

    しよりの御ミ事
      ミやきせんのまきりの
      くしけんのせさかち
      この内にひやうすくミかないのくち御ゆるしめされ
      五おつかかないのところ
      二かりやたに十三まし
      たけのみきはる又まへたはるともニ
    又二百三十ぬきちはたけ七おほそ(二百三十ぬきち)
      とみちやはる 又きのけなはる 又あらはなはる
    又たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
    又まふはるともニ
      この分(ふん)のミかない
      四かためおけの なつほこりミかない
    又くひき みしやもち
    又四かためおけの せちミかない
    又一かためおけの なつわかミかない
    又一かためおけ 又なかう正月ミかない
    又一くひき みしやもち
    又五かためおけの きみかみのおやミかない
    又一くひみしやもち
    又一かためおけの けふりミかない共
      このふんのみかないは
      上申□□□
        ふみそい申候ち
        もとは中おしちの内より
     一ミやうすくたに 二まし
       まえたはる一
       このふんのおやみかない
     又十五ぬきちはたけ 一おほそ
       あまみせはる一
       このふんのおやみかない
       又のろさとぬし
       おきてかないともニ
       御ゆるしめされ候
    一人あかるいのおきてに給候
    しよりよりあかるいのおきての方へまいる
     嘉靖四十二年七月十七日

 【今帰仁間切浦崎の目差宛辞令書:万暦14、1586年】(中城ノロ家)

   しよりの御ミ事
     ミやきせんまきりの(このふんのミかない 上申あるべし ふみそい申しちもとは)
     よなみねのうちま人ち
     中くすくのおきてのちの内より
     人ひようすくたに二まし
     やせたはる又かなわらはるともに(ニ)
     又もとはくしけんのはらちのうちより 
   一十五ぬきちはたけ三おほそ
     えつかたはる 又しけやはる 又大たはる共に(ニ)
       この子人(ふん)のおみ(ミ)みかない
     又のろさとぬしおきてかないいともに(ニ)
     御ゆるしめされ候
     一人うらさきのめめさしにたまわり申(候)
    しよりよりうらさきのめさしの方へまゐる
   万暦十四年五月九日

 最初の辞令書に「くしけん」と「まふ」とあり、後の具志堅村と真部村へつながる地名とみてよさそうである。真部村の成立は近世中以降であるが、具志堅村の存在は少なくとも1500年代にはあったとみてよさそうである。但、後の間切が仮名の「まきり」であり、村の表現はまだ登場してこない。後の「浦崎の目差宛辞令書」にも「元は具志堅の原地(畑地)より」とあり、後の具志堅村の存在を伺わせる。

 近世になると『絵図郷村帳』に今帰仁間切「具志堅村」、『琉球国高究帳』に今帰仁間切「具志賢村」と登場する。1713年の『琉球国由来記』以降では今帰仁間切「具志堅村」である。1666年に今帰仁間切は本部間切とに分割されるので、それ以降の具志堅村は明治41年まで本部間切具志堅村である。明治41年に本部間切は本部村、具志堅村は字具志堅となる。昭和15年に本部町字具志堅となり、戦後上本部村となり、三字が具志堅から分離独立する。再度本部町となり現在に至る。

 明治初期以前に具志堅村と真部村、そして上間村が具志堅村に統合される。神アサーギは昭和16年まで旧村名で引き継がれた。明治明治36年に嘉津宇村が具志堅村に統合されるが祭祀は別である。昭和16年に具志堅から嘉津宇・北里・新里が分離し新設される。昭和16年以降、現在の具志堅の範囲となる。

 以前、原(小字)から村(ムラ)の領域について考えたことがある。古琉球の村(ムラ)は現在の行政村(字:アザ)の範囲を隣接している字まで広げてみる必要がある。そのことまで確認できたと記憶している。
 
▲本部町具志堅の青年会館(昭和27年頃と大川(フプガー)(メルビン・八キンス氏撮影:提供)

2022年6月26日

 七月の上旬「今帰仁のムラ・シマ」について話をしてもらいたいとの依頼。参加者が何を聞きたいのかはっきりしなかったので、玉城・謝名・平敷・崎山などの村(ムラ)なりたちについて準備するか。下の画像の子供達は、今では60~70年代。復帰以前の歴史をみていく場合、以下のような風景を脳裏に浮かべて見ていく必要がありそう。

今帰仁の19のムラ・シマ(字)

①今泊 ②兼次 ③諸志 ④与那嶺 ⑤仲尾次 ⑥崎山 ⑦平敷

謝名 ⑨越地 ⑩仲宗根 ⑪玉城 ⑫呉我山 ⑬湧川 ⑭天底

⑮勢理客 ⑯渡喜仁 ⑰上運天 ⑱運天  ⑲古宇利




 

 




2022年6月25日(

 頭の切り替え。11年前に訪れたタイ国の画像が登場。アユタヤに日本人マチの痕跡がないか。どんな雰囲気のマチなのか。河口にできたマチがテーマだったような。

 梅雨明けの猛暑に慣れたのか、向かいの乙羽山まで足を運ぶ。山頂から先日行った沖永良部島(与論島)方面、伊是名・伊平屋島、ちょっと遠くに国頭村の辺戸岬が眺望できる。近くに古宇利島、屋我地島は今帰仁側(天底)と一つにない(海峡:ワルミ)は見えず。羽地内海、名護湾も見渡せる。今帰仁村歴史文化センター後方のクボウのウタキなども見渡せる。

 そこに運天港をはじめ数多くの歴史が浮かんでくる。(病(腰痛)は仕事で治す:自論))

  




2022年6月24日(

 10年前に沖永良部島について大学で講座を開いている。その後も何度か島を訪れている。今回、ほぼ沖永良部島のシマを踏査することができあ。「沖永良部島と琉球」の時代をまとめることに。どうしても、沖永良部島のまきり(間切)の時代、「方」(1857年)の時代。琉球の間切内のムラの属地と大分異なる。そのことを念頭に入れて見ていく必要がありそう。その違いを古琉球の痕跡なのか、薩摩の影響なのか。



■1857年以前の間切と村

【大城間切】(11ケ村)
  ①和泊 ②和 ③大城 ④赤嶺 ⑤多田平 ⑥後蘭 ⑦下城 ⑧田皆 ⑨島尻 ⑩屋子母 ⑪瀬利覚

【喜美留間切】(14ケ村)
  ①手々知名 ②出花 ③畦布 ④根折 ⑤玉城 ⑥内城 ⑦瀬名 ⑧永嶺 ⑨上城 ⑩大津勘  ⑪知名 ⑫上平川 ⑬下平川 ⑭皆川

【久志検間切】(11ケ村)
  ①喜美留 ②国頭 ③西原 ④古里 ⑤久志検 ⑥余多 ⑦屋者 ⑧芦清良 ⑨黒貫 ⑩徳時  
  ⑪馬鹿








      (以下略)


2022年6月23日(

 一通り和泊町と知名町のムラ(大字)を踏査する。そこから琉球国と関わる間切・シニグ・シニグドー、おもろに登場するムラ名の確認。間切から�方への移行。琉球の方切とは、どうも異なる区分をしている。(それは、徳之島や与論島の扱村の区分は、首里の按司の配置、ノロ管轄の配置に類似している。シニグも山は山原の北部の辺戸・奥・安田ではシニグと海神祭が隔年に交互に行っている。与論島・沖永良部島にはシニグ部分が遺っているのではないか)(一部記憶が混在している)

 沖永良部島を見ていく場合、鹿児島から南下していく流れで見ていく視点、琉球国からの視点、島を基点に見ていく視点があることに気づく。そのこともあって、まずは全シマを踏査。

 
⑭上城村(現知名町上城・新城)

 隆起サンゴ礁の段丘上にある。下城ムラを含めて「にしみ」(西目)。北方を見張る番所
   があったという。
 世之主の居城(内城)に対し上城としたという。
 「おもろさうし」に「里中のころがま 一の櫂 真強く 歓へ子が 守りよわるゑすほ 
   又としら もいころがま 又田皆嶽 見居り 又西銘嶽 見居り 又せりよさのはつき
   走へ来居り あけより」と謡われている。
 「正保琉球国絵図にも上城付近に「おかミ山」がある。同国絵図に「徳時間切之内西銘村
   とある。
 琉球国時代、徳時間切、元禄以降、喜美留間切、安政4年(1857年)から西方。西方役所
   が置かれる。
 明治5年戸帳役所は田舎平村(現和泊町谷山)に置かれる。
 下の段丘(ニシミンバルの耕作地に家々が移転、昭和15年(1950年)に分離し新城となる。
 新城に代官遠矢金兵衛が築板という横穴堀式の墓がある)

 

 

⑮下城村

 沖泊港がある。交易地であった。上城村を含めて西目村。
 世之主の生誕地とみられ、居城(内城)に対して下城だという。
 世之主神社があり、隣に竈石(ウヮマ)がある。
 世之主の四天王の一人ニシミクニウチベーサの屋敷跡がある(今回確認できず)
 初め大城間切の内、安政4年(1857年)に西方。

 

⑯田皆村

 田皆岬あり。タンニャは田と焼畑に由来するという。
 「おもろさうし」に田皆嶽」と「西銘嶽」がある。

 

⑰馬鹿村(現正名)

 慶長14年(1609年)薩摩軍の琉球入りの時、上陸してきた軍勢と戦わずして降伏したことから
 「馬鹿村」と呼ばれたという。



⑱島尻村(現知名町住吉)

 飲料水は地下のクラゴーから汲んだ。
 大城間切に属す。文政4年(1857年)から西方。
 文政4年(1857年)から西方。
 文政11年(1828年)、異国船が漂着、乗組員が知名湊に上陸。
 シニグ祭ではヒャー神を祀るため男性が山手のシニグ山で夜籠りをする。翌朝下山して
 シニグドーで住民総出のシニグ遊びをした。そのシニグ祭は明治4年に全島で廃止
 島尻村では明治5年にシニグドーに溜池を掘った。
 
 



2022年6月22日(

 沖永良部島の情報が頭から抜けず。知名町の数かムラを遺して次へ。雨の中、そして腰痛で車の乗り降りで難儀をする。サンゴ礁段丘の狭い場所に集落が多い。頭に描いていた通りにいかずしまい。

【知名町側のムラ】B

⑥芦清良村
 当初具志検間切の内、安政4年(1857年)から東方。東方の役所が置かれる。明治13年に戸長役場が置かれる。

 

⑦下平川村
  隆起サンゴ礁の段丘上に集落が形成されている。(沖縄の古琉球からの集落ではないjか)
  ユシキャ川(良い川)に由来か。
  琉球国時代は大城間切の内、


⑧上平川村
(ヒョー村)
  ヒョーは百(ヒャー)から来たか・ 山手に豪族の居城(ハナグスク)があるという。
  シ二グ祭には大山から降りてくるノロをマチシニグで迎え神酒を供え、ヒョーシニグドーで
  シニグ遊びをする。
  初め喜美留間切の内、安政4年に東方。
  中国に漂着した政孝が伝えた蛇踊りがある。彼を祭ったトゥヌチ神社がある。 


▲上平川生活館

⑨屋者村
 中世(古琉球)の四之主の四天王の一人ヤマジャバルが住み、切妻屋根の横穴式の墓がある。
 初め久志検間切、安政4年(1857年)から東方。
 1890年ウジジ浜にカナダ船が座礁、12名が死亡、10名救助。

 

 

⑩余多村

 余多の集落は沖永良部高校側から臨むと他の集落と異なった地形の上にある。地質はサンゴ礁
 上にあるが、古琉球の時代から同地に集落があった印象。
 クラゴーが多い島であるが、河川が陸の上部を流れている。
 田の多い地であったようである。
 水車がある(故障中) 説明文に竿津・余多とあり、昭和24年に余多から竿津が分離。

  
 

⑪赤嶺村

 初め、大城間切に属した。安政4年(1857年)に西方に属する。
 集落は丘陵地のアーニバルから、後原、前原、ハノーに移転。
 山手に横穴式墓がある。

  

⑫久志検村

  

 

⑬竿津

 


2022年6月21日(

 梅雨があける。空に真っ白な入道雲が発生している。一気に真夏である。樫木(チャーギ)のてっぺんにランが花をつけている。

   

【知名町側のムラ】A

 知名町側の字(ムラ)を雨の中を回ってみた。特に集落の様子とシニグと琉球的と見られる墓を踏査してみた。

参考文献:『鹿児島県の地名』日本歴史地名大系 47 平凡社

①屋子母(やこも)知名町
  隆起サンゴ礁上の段丘にあり。
  初め大城間切に属す。安政4年(1857年)から東方
  シニグドーに立石あり、旗を立て神酒をのみシニグ道を通り、大山のヒガヤマサキに上り、
  シニグ遊びをする。
  海岸に浜倉あり(説明版あり)
  

 

②大津勘村




③徳時村
 琉球の時代、徳時間切が置かれ、元禄年間に具志検間切へ。安政4年(1857年)に東方。
 琉球から来たというユナンドガナシを祀った世並蔵神社あり(生誕のガマあり)

 

④勢理覚村(ジ―キョ)
 隆起サンゴ礁の段丘上に集落あり。集落窪地から湧水あり。
 当初は大城間切、安政4年(1857年)から東方。
 中世にホービャガルミという豪族がいたという。フグミの段丘上にあったノロと琉球王との間に
 生まれた世の金を祀った向田神社がある。
 シニグ祭には各集落の百(ヒャー)がムラの衆を引き連れて、集落内のシニグドーから後方の
 マチシニグイを経由して大山のヒガヤマサキに集まり祭祀を行っていたという。
    (ノロ遺品あり)

⑤黒貫村
 初め久志検間切、安政4年(1857年)から東方。
 集落後方にフースクの按司の城跡あり。トーマブシという見張り台があったという。
 シニグ祭に大山のヒガヤマサキから旗を立てて踊りながら下りてきてシニグドーだ祭りを
 行っていたという。

 


2022年6月20日(

 1992年9月に『沖永良部の世之主」伝説と今帰仁の歴史』として講演に使った図である。30年前のことである。その時の講演記録は『なきじん研究』第3号91~96頁)に所収。その時、「世の主の墓の厨子甕」を見てほしいとのことであった。その答えは講演の中で「古くて17世紀、口広の厨子甕なので18世紀」と答えたと思いいます。会場がどよめきがあったことを記憶している。ただし、厨子甕の人骨は世の主のものなのかはわかりませんと弁明したことがあった。その後、私的に沖永良部島を訪れてきた。
 大きく「今帰仁からの視点」と「沖永良部からの視点」から述べている。



 今回の沖永良部への渡島は、『和泊町誌』の分担の「永良部と北山・琉球」である。他の方々と競り合わがあったので書き改めることに。

 与論以北の奄美に古琉球の痕跡がどのように遺っているかが今回の渡島の目的である。(梅雨のため予定通りには行かず。二日間は会議の合間を縫って・・・。

参考文献:『鹿児島県の地名』日本歴史地名大系 47 平凡社

①和泊町古里(サトゥ)
  古里のサトゥは琉球の村以前のマクに相当するか。
  与和の浜 「おもろさうし」で与和泊と謡われる。(中寿神社が建立、世の主の家来の切腹地)

②皆川(イニャーグ)のシニグドー
  シニグドーは世之主が巡回のとき馬を下りて休憩
  近世シニグ祭りの大城・久志検・喜美留の三間切の与人が白装束で与人旗・衆多旗・百姓旗   
    を持った騎馬隊を率いて集まり太鼓をならして模擬戦い(沖永良部島郷土史料)

③大城村(ふうぐすく)(現在はオオジロ)
  大城まきり時代の主邑だったのではないか。1857年(安政4年)に和泊方に属する。
  シニグドーがある。

④玉城(イニャトー)今はタマジロ
  イニャトーは稲作と広場に由来するか。
  14世紀玉城のフバドーに館を構えたという。
  当初、玉城は喜美留間切、安政3年(1857年)から和泊方に属する。
  明治9年(1876年)社倉の籾貯蔵用の高倉が建立。同「10年玉城小学校設立する。明治13年
    戸帳役場が置かれる。(沖永良部島郷土史料)

⑤内城(ぐすく) 現在和泊町内城(ウチジロ)
  村以前のウイグスク(上城)とノ―シグスク(直城)がある。世之主の居城跡あり。「おもろさうし」
  で永良部 立つ あす達 大ぐすく げらへて げらへ遺り 思ひ子の 御為 又 離れ立つ 
  あす達 大ぐすく」

⑥根折(ニュイ村) 和泊町根折
  初め喜美留間切で安政4年(1857年)から和泊方。天保年間に鹿児島藩の文化明党事件に
  関与して流罪になった目付曾木藤太郎が根折村に居住、私塾を開く。墓が残される。明治17年
  (1884年)に玉城小学校の分校が設置される。明治27年に大城尋常小学校に統合。



⑦畦布村 現在和泊町
  源為朝が麻布に上陸し住む。その末裔の義本王が退位して畦布に渡り、按司として移り住んだ
  のが大和城だという伝説がある。「きびる間切あぜふ村」とある(正保琉球国絵図)。初め喜美留
  間切の内、安政4年(1856年)に和泊方。ワンジョウに複数のトゥ―ル墓あり。
  「貞享三年(1685年)寅八月九日奉九加修補忌屋代々為先祖也孝孫敬白 和之掟大工松
  細工牛川間」と刻まれているという。明治10年畦布小学校を設立。明治27年年に和泊小学校
  に合併。集落内に「ヌールバンドーの差し石」がある。

 源為朝の上陸の地、近くに大和城がある。






⑧伊延(港)




⑨出花村(デイギむら) デイギは竹のこと。花は舌状の鼻から来ているという。
  「李朝実録」正祖14年(1790年)七月条の「出花村」とあり、出村の仲正・先甫が畦布村など
  他村の五人と朝鮮に漂着したという。シニグドーには竈石のウヮーマが神石として祭られている。
  (昨年、金毘羅神社で拝見した石?) ウミリ祭(海神祭?)のとき、海岸のサンゴ礁の上に
  竹杖を立て、供え物をした。イキントー溜池周辺でシニグ祭が行われていたという。
   (この場面は沖縄のシニグや与論のサークラのシニグの「流れ」の場面に類似している。)

 

⑩西原(和泊町西原)
   初め久志検間切の内、安政4年(1857年)から和泊方。元禄7年(1694年)に唐船が一艘漂着。
   破船し乗組員111人のうち一人死亡、ほかは薩摩の山川湊へ送り届けている(沖永良部島
   代官系図) 
   寛政12年(1800年)に鹿児島藩士族の代官所役人が金毘羅権現を建立。明治4年(1871年)
   に大物主神社に改称、現在は金毘羅神社となる。(出花で捜したが探せず、西原だったのか)
   西部のジョウ―バルに神石があり、ウミリ祭に粟や神酒を供えた。集落内にシニグドーあり。
   シニグ祭のとき神酒を造る竈石のウヮーマが祀られていた。

 


⑪国頭村(和泊町国頭)(クンゼー村)
  中世に世之主の家来のクンゼ―ヤタロウと言われる豪族がいたという。初め久志検間切の内、
  安政4年(1857年)に和泊方に属する。「李朝実録」正祖十四年(1790年)7月条に「国頭村」と
  あり国頭村の高甫が田村の四人と朝鮮に漂着。

⑫喜美留村(チビル村) 和泊町喜美留
  飲料水は暗川(クラゴー)から汲んでいた。正保国絵図に「きびる間切」があるが、それ以前から
  同間切はあったと見られる。元禄年間(1688~1704年)後久志検間切りの内、安政4年(1857年)
  から和泊方に属した。

⑬手々知名村(和泊町手々知名・上手々知名)
   手々知名地域は、他の字(ムラ)とは異なった薩摩役人がマチを形成している。
   今回初めてマチの中を歩いてみた。独立した項目で扱うことに。そこには琉球的な
   形がほとんど見られず、薩摩の武家屋敷や薩摩商人の痕跡が色濃く遺っている。
   (上の図の大和的(薩摩的)部分)
   
 

 

⑳後蘭
 大山の裾野にある盆地にある集落。
 グラルマグハチの居城跡あり。
 「おもろさうし」で永良部まこはつが・・・と謡われる。
 マグハチは世之主の四天王の一人。マグハチの墓がある。
 古謡に「クラルマグハチが積み上ぎたるグスク 永良部三十ノロの遊び所」とある。
 当初、大城間切の内、安政4年から西方。

  

㉑田舎平村(現谷山)(イ二ヤヒャー村)

 昭和18年に大島支長の谷村秀綱と和泊町長職務官掌の登山明竜の姓から一字づつとって谷山。
 



2022年6月16日(

 今帰仁村兼次の字誌の編集会議。豊年祭の画像の編集。発刊日の確認。
 私の頭は、今日から出かける「沖之永良部島」(和泊町誌)の原稿の中身が頭で回転している。フェリーの中で整理できるか? 



和泊域のシマ(シマ)

  ①大城間切  ②喜美留間切  ③久志検間切

 1857年(安政4)に方制(和泊方)(14カ村)(明治5年に方制は廃止)嶋役人 戸長

①和泊(伊延)祝女「こしゑい」 和泊湊「正保琉球国絵図」
    1749年知名村に漂着した唐船の乗組員17人和泊の本御蔵に囲い琉球へ。
    1734年伊延湊 朝鮮船 琉球ではなく肥前長崎へ。

②手々知名

③喜美留 
  「正保琉球国絵図」に村名はないが、「きびる間切」と「きびる浜」がある。
  元禄以降久志検間切の内、1857年から和泊方

④国頭 
  世之主の家来クンゼーヤタロウという豪族。
  はじめ久志検間切の内、明治4年和泊方

⑤西原
  久志検間切の内、和泊方へ。
  ジョバルに神石あり、集落内にシングドーあり。

⑥出花(デギ)(デーは竹のこと)
  喜美留間切から和方へ。シニグドーあり。イキント溜池周辺でシニグ祭がおこなわれていた。 

⑦畦布 
  きびる間切の内あぜふ村  和方へ。ヌルバンドー石あり

⑧根折

⑨内城 
  集落のあるウイバル、花崗岩が風化した地質。おもろで大ぐすくゴラルマゴハチに築城
  シニグ祭のとき間切役人の与人が城跡周辺に依籠り
   ・出城・直城・上城
   ・ソーヤシキ ・イゾウヤシキ ・ノーシヤシキ ・アガリゾウヤシキ 
   ・ヘースクヤシキ ・ウワーナスクヤシキ 

⑩大城
  大城間切あり。川内の百

⑪皆川 
  村名のイニャーグは稲と川に由来。石橋川があり、世之主が巡回のときの休息場 
  シングドーがある。シニグ祭のとき、大城・久志検・喜美留の三間切の与人が白装束
  で与人旗・衆多旗・百姓旗を持って騎馬隊を率いて集まる。太鼓をならして模擬の
  たたかい。

⑫古里 

⑬玉城
  フバドー

⑭和
 
 ・シマアタイ・メーマアタイ ・ミームアタイ 

・明治41年(1908)に和泊村が成立 これまでの村は大字となる。


2022年6月15日(

 今年の6月13日は旧暦の五月十五日にあたり、「五月ウマチ―」である。昨日兼次区長が「字誌編集会議」開催の公文を届けに来られた。五月ウマチー参加してきたとの報告(中城のろ管轄村)。寡黙庵のある謝名でも謝名区長と書記さんが神アサギでウガンを行っていた(玉城のろ管轄村)。

 夕方から「兼次字誌」の編集会議があるので五月ウマチーについて紹介するか。過去の調査記録で紹介。

 祭祀の日は「神遊び」といい、現在の公休日に相当するものであると説いている。そのことがピンと来ないようである。それで具体的な事例を示すことにする。各間切によって異なっている。名護間切と本部間切を紹介する。今帰仁村中城のろ管轄の祭祀、五月ウマチー(稲穂祭)は、まさに「神遊」である。その習慣はまだ息づき継承されていることに気づかされる。

【本部間切の事例】

 ・正月は元日より四日間遊ぶ。その内は童子共巷々に集まりて遊申候。
 ・二月は麦の穂祭と云うものあり。その時は日を撰て、のろくもいは祭りをし、人民は二日間業を
  止めて各家にて遊ぶ。
 ・三月は、ウンジャメ祭(海神祭)と云うものあり、その時は遊ぶはなし。日を撰て、
  ノロクモイは火の神所に参詣して祭申候。
 ・四月は虫払いと云うて、日を撰て人民耕作を止め、牛馬を引き浜辺に出づる。その時
  ノロクモイ勤め済る間は、人民より牛馬に至る迄無食す。その勤めを済て後、各家に帰る。
 ・五月は大御願と云うて、ノロクモイ並びに人民烈りて火神所に参詣す。且稲の穂祭と
  云うものあり。その時日を撰て二日間遊ぶ。
 ・六月は三月に同じ。
 ・七月は十六日、七月念仏と云う遊びあり。その時童子共、三味線を引きて人民の家々
  も廻りて遊び申し候。且大折目と云うものもあり。その日は凡そ十八、九日頃より廿四、
  五日頃に限る。その時人民業を止むる村もあり、止めざる村もあり。尤ノロクモイは火の
  神所へ参詣して祭申候。
 ・八月は十一日ヨウカビと云う遊びあり。その時童子共、巷々又は毛へ集って遊び申候。
  且また、豊年願の為め三・五・七年一回組踊する事もあり。
 ・九月には遊びはなし。然れども大御願として、ノロクモイ並びに人民召し烈り。
  火の神所に参詣す。
 ・十月は遊びはなし。
 ・十一月は遊びはなし。 
 ・十二月は遊びはなし。

2011年6月16日(木)調査記録

中城ノロ管轄のムラの祭祀を調査する。平成三年頃にも調査をしている。その時の記録と写真アルバムがみつからないので、当時のことはおぼろげである。それと崎山のノロ殿内と仲尾次の神ハサギ、それから諸志(諸喜田)での場面は見ている。

 旧暦五月十五日の五月ウマチーである。中城ノロが管轄する崎山・仲尾次・与那嶺・諸喜田(現在は諸志)・兼次の五つのムラを連続させた祭祀であったはず。かつての五つのムラを中城ノロが、どのような形で連続させていたのか。それを復元していくことを目的の一つとしてみた。いくつも目を開かされた調査であった

   
  崎山ノロ殿内でのウガン           ノロ殿内から遥拝

  
 諸喜田(諸志)ウガミのイビでのウガン  ウガミのイビでのウガン(諸志・与那嶺の方々)

   
諸志の神ハサギでのウガン    志慶真神ハサギでのウガン    諸喜田神ハサギでのウガン

    
兼次のカニマン殿内(神ハサギ跡)  ウタキのイビの前でのウガン      兼次神ハサギでの直会


2022年6月14日(

 日曜日、梅雨の合間に草kリ作業。画像を取り組むコードが不具合、別のコードで取り組むことができた。草刈り機の振動で、腰痛は回複気味。やれやれ。まだ、半分は残したまま。今日、明日で片づけないと。


 




2022年6月13日(

 
晴れ間をみて、草刈り作業。どうにか腰痛を庇いながらの作業。いつもの半分。来月上旬、今帰仁の戦後間もない頃の風景を紹介の予定。その変貌を説明する画像を集めてみた(画像は今帰仁村歴史文化センター蔵)

 
    ▲1950年頃               ▲1957年頃

 
     ▲1963年頃

2022年6月12日(

 ちょうど一週間。腰痛で自由に動けず。曇りになり、動けるようになったので寡黙庵の庭や花畑の草刈りでもやってみるか。兼次のフプウガン(大御願)数年前の調査メモ:字誌に収録のため書き改)

 今週、後半は沖永良部島へ出張。

兼次のウフウガン

 旧暦の9月15日のウフウガン(大御願)である。「ウンシマへアガリンソーレ」とマイクで呼びかけている。他で字(シマ)でも行われている。兼次のウフガンの祭祀に同行してみた。

 午前中、崎山のヌルドゥンチでのウガンを五ヶ字の区長と書記が崎山のノロドゥチでのウガンを済ませる。午後三時にシマ(兼次)の方々が公民館に、直接「金丸殿内」に集まる。カニマントゥンチでのウガン(お酒・米・平線香)を供えてのウガン(ウタキのイベに向かって)。そこで二回手を合わせる。そこでのウガンを済ませるとウタキへ。婦人方(お年寄りが大半)が先頭になり、男性群があとに続く。

 ウタキのイビの手前にあるウカマ(広場)へ。女性群はイビの前まで進む。男性群はウカマで待機。イビから声がかかる。イビでのウガン(手を合わせる)の合図がウカマに伝える。イビでのウガンに合わせてウカマでもウガンをする(二回)。ウカマに二ヶ所のウガン場所がある(石のみ)。一ヶ所は今帰仁グスク、もう一ヶ所は首里城とかタマグスク(稲の発祥地)とかの意見あり。

 ウカマでのウガンが終わるとウカマから右手の道をゆく。(かつては、イベの前を降りて沢沿いにイリバンタへ出ていた)。全員、集落内の神アサギへ。神アサギの中で女性達がウタキに向かって祈りをし終わりをつげる。その後、直会が始まる。

       
▲公民館に集まったメンバー  ▲金満殿内に三々五々集まり揃ってウガンをする。

 
  
 ▲女性のみイベへ           ▲ウカマに待機し、イベと一緒にウガンをする

 
▲イベから戻った女性達と一緒にウカマ(二ヶ所)祈りをする▲戻りは別の道をとおる
▲神アサギでウガンが無事終えた

 
   ▲アサギマーで直会

兼次は山手にあった集落がムラウチ(村屋敷)に移動した村(字)である。このウガンは中城ノロ
  管轄の祭祀であることを今に伝えている。崎山のノロドゥンチに中城ノロ管轄の崎山・仲尾次・
  与那嶺・諸喜田(現諸志)の神人(今は区長・書記)が集まって祈願をし、その後神人は自分
  のムラに戻りウガンをする。


 大正の頃まで、中城ノロは崎山から仲尾次の神アサギ→与那嶺→諸喜田→兼次へと馬に乗って各五ヶムラを廻ったという。(経路図:仲原作図)




【本部町辺名地の神アサギ】(平成24年6月3日)メモ

 本部町辺名地の神アサギは公民館の近くにあります。アサギの側に「神社改修記念碑」と「拝殿改築記念碑」(昭和12年)があります。二つの碑は昭和12年の神社と拝所の改築です。ウタキの前にある鳥居の台に「昭和六年建設」と「奉納」とあるので、昭和六年に建設され、昭和12年に神社として神殿と拝殿として改築jしたものとみられます。辺名地は神アサギを拝殿にし、神殿をつくり合祀をする形。しかし、これまでの御嶽などの祭祀場はこれまで通り踏襲しています。ただし、御嶽の入口に鳥居を建立し、御嶽を神社化した型。

 神殿の内部に三基の香炉があり、その一基に「奉納寄進 咸豊九年巳未九月旦日 本部按司内 松田仁屋」とあります。またウタキのイビにある香炉も同年とみられます。同様な香炉は並里のウタキにもあります。『中山世譜』(附巻)に本部按司が上国した記事がみられます。それは本部按司に随行していた奉公人だとみられます。

 咸豊9年(1859)は向氏本部按司朝章が順聖院様が薨逝されたので特使として薩州に派遣されています。その時の寄進とみられるが、松田仁屋と渡久地仁屋は按司家に奉公している、あるいは奉公していた辺名地村と並里村出身の屋嘉とみられます。

 神アサギの屋根裏に桶があり、祭祀の時にお神酒をつくる容器です。内にはタモト木があります。 

  
 
 ▲本部町辺名地の神アサギ           ▲拝殿改築碑     ▲神社改築記念碑

  
  ▲ウタキの入口の鳥居の台     ▲ウタキのイベと神殿内の高炉


2022年6月11日(

 梅雨で外に出れず、過去の記録を確認することに。


2004.12.2(木)

 明治35年の文書(「玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書」)を起こしてみた。今帰仁間切玉城村のノロ職に関するものである。ノロの継承や取り戻しにつての事例である。それと玉城ノロ家は玉城村に置かれるのが慣例だとし、取り戻しの理由としている。



      玉城村ノカネイ跡職願之儀ニ付理由書

 今般玉城ノカネイ跡職願之義ニ付理由奉陳述抑々玉城ノカネイ職タルヤ先々我先祖ヘ御下命相成リ其後代々吾ガ血統内ヨリ継承セシ所タリ 然ルニ数百年前之事ハ口傳而己ニテ旧記等モ無之候ニ付先ヅ中古我ガ六代ノ先祖ヨリ順次陳述仕候
 一、先祖武太平良(武太平良ハ六代ノ先祖ニ當ル)妹ウトへ
   継承シ該跡職ハ
 ニ、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ五代ノ先祖ニ當ル)姉玉
   城村松田方婚嫁セシマカへ継承シ該跡職ハ
 三、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ四代ノ先祖ニ當ル)妹カナ
   ヘ継承し該跡職ハ
 四、本家血統内ニ継承スベキ人物ナキテ以テ不得己

 前記五代ノ先祖平良筑親雲上姉マカ婚嫁松田方ノ外孫与那嶺村内間方ヨリ松田方ヘ養女ニナリシナベへ仮ニ継承セシメ該跡職ニ於テモ尚ホ我ガ血統内ニ相当ノ人物ナキテ以テモ前職ナベ養妹即チ松田方養二女マツ(前職松田マツノコト)ヘ継承セシメタリ然ルニ其後チ該マツ在職中我ガ血統ニ相当ノ人物相出来候ニ付此際更代合ヲ以テ血統ヘ帰シラレシ度旨関係村(玉城 平敷 謝名 仲宗根 四カ村ヲ云)並松田マツ方ヘ申出候処種々協議ノ末遂ヒ跡職継承ノ事ニ別紙証拠書並日記之通没シ

 去ル明治廿七年七年五月ヨリ跡職見習(俗ニ前据ト云フ)トシテ現ニ本職者同様相勤メ居候事ハ別紙関係村証明書之通ニ御座候且ツ該ノカネイ神社(ノル殿内)ノ位置ハ古来玉城村境界内ニ設置セラルル慣例ナルヲ以テ

 従テ神職ノカネイ住家モ必ズ神社敷地内ニ一定セラレシガ前職者松田マツハ後来自分ノ血統ヨリ継承セラザル理ヲ悟リ住家モ去ル明治三拾一年ニハ生家仲宗根村山城方ヘ引移シタルヲ以テ其跡ヘ私方ヨリ新ニ住家ヲ建テ該跡職ト定メタルツルヲ現住セシメ神社ヲ管掌セシメ居候然ルニ前職故松田マツ方ヘニ於テハ該親類中ヨリ推挙セントノ考案ヨリ拙者ヨリ提出致候採用願ニ連署セザル次第ニ御座候間何卒前件ノ次第被遊御洞察右ツルヘ御下命被成下度此段理由奉開陳候也

  明治三十五年  国頭郡今帰仁間切玉城村拾七番地
                      平良 幸通

           親戚同郡仝間切仝村拾六番地
                      平良 幸誠
           仝上仝郡仝間切廿一番地
                      平良 幸佐
           仝上仝郡仝間切拾九番地
                      平良 幸貴
           仝上仝郡仝間切廿二番地
                      平良 幸宗


2022年6月10日(

2018年11月ベトナムを訪れている。沖縄から台北経由でホーチミン・ハノイへ。関心ごとは、船と焼き物と香辛料であった。13世紀14世紀の琉球国と東南アジアの国々との交流。数百年前のことを体で感じたくての旅でした。ハロー湾の奇岩や赤土での磁器類の運搬。香辛料は今でも貴重なようだ(画像に収める余裕がなかった)。



   ▲ハロー湾の奇岩と船        

2022年6月9日( 
 
 先日、戦争体験の記憶として調査する機会があった。戦時中の兼次校に軍隊が駐屯したことがあった。高学年の生徒達はタコツボや塹壕堀に動員されたという。勉強どころではなかったようだ。学校周辺の画像を集めてみた。字誌に収録(大城秀昭氏、島袋佳春氏提供)





2022年6月8日(

 来週、沖永良部島に往くので「永良部ノロ」に関する情報を入れておく事に。奄美地域にのろに関する辞令書が数点確認されている。永良部ノロの下に位置づけられるノロである。永良部ノロは沖永良部島に置かれたのか。奄美地方に三十三君クラスのノロが二人いたのではないかと言われている。加計呂麻島に鳳凰の簪があり永良部のろの一人か。もう一人は沖之良良部島か。

 今帰仁阿応理屋恵に関する資料メモを引っ張りだしてみた。祭祀そのものは出ていないが、印判(辞令)の発給や知行地を賜り、廃止、復活したことは確認できる。聞得大君が100石~500石賜っているのに対し今帰仁阿応理屋恵は22石余なので、三十三君の一人ではあるが、1700年代には格下げされていたようだ。ガーナー位牌の一基に「順治十五年戊戌六月二拾九日去」(1658年)とあり、今帰仁按司(監守)六世縄祖の位牌である。


『女官御双紙』

  一 今帰仁あふりやい代合之時言上ハ御自分より御済めしよわちへ御拝日撰ハ三日前ニ
     今帰仁あふりやいより御様子有之候得共首里あむしられより大勢頭部御取次にてみお
     みのけ申御拝の日ハ首里大あむしられ為御案内赤田門よりよしうて按司下庫裡に控居
     大勢頭部御取次にてみおみのけ申今帰仁あふりやいよりみはな一〆御玉貫一封作事
     あむしられ御取次にておしあけ申按司御坐敷御呼めしよわれハよろしろちへ美待拝申


  天かなし美御前おすゑんミきよちやにおかまれめしよわれハ御持参の御玉貫真壁按司かなし
  よりおしあけめしよわる相済御飾の御酒より今帰仁あふりやいに美御酌給御規式相済按司御
  座敷にて首里大あむしられ御相伴にて御振舞給申相済みはい御暇气大勢頭部御取次にてみ
  おミのけておれ申


   一 同時御印判ハセと親雲上よりみはいの日早朝首里殿内へ持来らる首里あむしられよりミ
     はいの時早朝今帰仁あふりやいへ上申


 今帰仁あふりやゑの1701年の知行高は以下の通りである。 
   地方高 田方六石ニ斗一升三合三勺四才  (与那嶺按司朝隣夫人)
          畑方十六石五升九合三勺六才   (与那嶺按司朝隣夫人)
    俸 米  二石(米一石 雑石一石)
          倅 者 二 


 宮城栄昌氏は今帰仁阿応理屋恵について『沖縄ノロの研究』(422頁)で、

   「三山分立時代山北の最高神女であった「あふりやゑ」の後を継承した第二尚氏王統時代
   の今帰仁あふりやゑは、山北監守が首里に移った1655年以後は知行地も今帰仁間
   切に給せられ、地方ノロ的存在と化した。1701年に就任した与那嶺按司朝隣夫人のこ
   の石高・・・(略)・・・1731年に廃止された。廃止しても前任関係者があふりやゑ御殿を
   管理して祭祀を継続していたので、1768年6月に至り、今帰仁親泊村兼次親雲上の女
   蒲戸を任命し、三十三君の一人として復活した」


【今帰仁阿応理屋恵の祭祀の復元】

 
今帰仁阿応理屋恵の継承についていくつか研究があるが、その継承もまだ不明の部分が多い。ましてや今帰仁阿応理屋恵の祭祀については皆目わからない。残念なことに今帰仁阿応理屋恵が廃止されていた時期に『琉球国由来記』(1713年)に編集されているので、阿応理屋恵の祭祀の記録がほとんどない。

 辛うじてあるのが『琉球国由来記』(1713年)における阿応理屋恵按司火神(親泊村)の記録である。

  阿応理屋恵按司火神 親泊村
   麦稲四祭之時、仙香、肴一器、蕃署神酒一完(百姓)
    大折目・柴指・芋ナイ折目之時、仙香、花米五合完、五水二合完、肴一器(百姓)供之。
    同巫・居神、馳走也
とあるが、同巫は今帰仁阿応理屋恵の可能性もあるが、流れから見ると同巫は今帰仁巫の可能性もある。他の今帰仁グスク内での祭祀は今帰仁巫の祭祀となっている。

 今帰仁グスク内の今帰仁里主所火神、グスクの近くにあるコバウノ御嶽は今帰仁阿応理屋恵の祭祀ではなかったかと考えている。今帰仁阿応理屋恵の祭祀は消えてしまっているので久米島の君南風の祭祀からいくらか復元が可能ではないか。そんな期待を持っている。まだ、見通しはまったくナシ

 『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)や『久米のきみはゑ五〇〇年』(久米島自然文化センター)で「久米島の君南風」の二枚の辞令書が紹介されている(鎌倉芳太郎ノート)。今帰仁阿応理屋恵にも辞令(印判)の発給がなされているが、その現物や辞令の写しなどは確認されていない。久米島の君南風と同様な内容に違いない。

 君南風の大阿母知行安堵辞令書1566年)
    しよりの御ミ事
      くめのくしかわまきりの
      にしめのうちま人ちもとハ
      あまかちの内より
     一かりや三おつかたに六十九まし
      ひらちしやはる又□□□はるともニ
     又七十ぬき〔ちはた〕け〔おほ〕そ
      はゑはる又はなうはる?
    〔又〕おち□□〔はる〕〔又〕□□はるともニ
     このちのわくそこの大あむかめはたまてハ
     御ゆるしめされ候
    一人きミはいの大あむに
      たまわり申〔候〕
    しよりよりきミはいの大あむか方へまいる
   嘉靖四十五年十月八日

 君南風の大阿母知行安堵辞令書1595年)
    しよりの御ミ事
      くめのくしかわまきりの
      あらかきちもとのきミはいの
      大あむかのろち
    一 せちよくたに十四ましこミなとはる
    又 十にきちたけ〔おほそ〕
      きし□□□
      このちの□□かり(しまくにの人の?)〔て〕ま
      つかいハ御きんせい(にて)候
      一人きミはいの大あむに
      あまわり申〔候〕
   しよりのきミはいの大あむか方へまいる
   万暦二十三年正月十二日 


 ・今帰仁按司(監守:阿応理屋恵)が首里に引き揚げる1665年まで
 ・今帰仁間切(今の本部町含む)のときの間切番所は今帰仁グスク内にあったのでは!

 今帰仁間切から伊野波(本部)間切が分割されると今帰仁間切は運天港に、本部間切は渡久地港に番所が置かれた。

※扁額撮影と採択は仲原(昭和60年)「なきじん研究所収」

2022年6月7日(

 6月23日が近づくと戦争体験のない私でも、トラウマのようにやってくることがある。(戦争体験の調査や話を伺っていると、何度かその方々の姿を見ている。戦争だけではない)

 二人の方(宮城ハル子さんと大城千恵子さん)に大浦崎での記憶を辿ってもらった。宮城ハル子さんは聞き取り調査を行う(諸志と兼次)。当時国民学校卒業(高等科2年)(昭和5年生)したばかりと、千恵子さんは1年か2年生のころ(昭和12年生)。兼次の字誌に収録。ハル子さんが大浦崎小唄(新城苗茂:戦後徳祐作)を謡ってくださった。(仲原ノート記録(2022.6.7昨日)から)

  ・収容先への経路と心境
  ・収容先での生活
  ・当初テント小屋、しばらくすると、掘っ建て小屋をつくりる
  ・収容先の小川がたびたび出てくる
  ・トイレのこと
  ・海藻(ヒジキ)
  ・スパンパ(フキ)など
  ・配給の缶詰
  ・亡くなった死体の処理
  ・戦後、遺骨の収集
  ・勉強(千代先生:戦後教員をされる。結婚して仲宗根千代)
  ・黒板や筆記用具について(百点とるとチョコレートもらえた)
  ・マラリア
  ・荷役おろしの作業
   などなど

  ・70年たっての思い(今でも夢に出てくる。一生忘れることのできない一人ひとりの体験記憶)

2003.5.21(水)

〔今帰仁村湧川をゆく〕

 湧川ゆきは6月中旬に「平和学習」を小学生と湧川小学校の先生方をふくめてやることになっている。そのため、湧川にある戦争あるいは平和とかかわる場所や遺跡を確認したくて。小学生たちに「戦争と平和」を自分のものとして考える時間をつくりたい。湧川という地で、一人ひとりが戦争と向かいあってもらうために、いくつかのキーワードを探しに・・・・。

 ・湧川での戦争への流れ
 ・湧川からも伊江島・読谷飛行場建設
 ・運天港(特攻隊)の陣地構築
 ・防空壕堀り(ウタキの斜面や家の近くの森など)
 ・防空演習(竹やりや消火訓練など)
    
    
 ・収容所へ(収容所での生活)
 ・収容所から帰村
 ・慰霊塔の建立(昭和31年)
 ・南海の塔の建立

などを通して、戦争と平和を自分のテーマとして一人ひとりが考える機会にできればと企画している。

 慰霊塔に刻銘されている233名の湧川の方々の名前、その後ウタキの斜面にある防空壕(数基)を確認してきた。気の重い重いテーマであるが、口癖のよう言っているテレビ画面の向こうの出来事ではなく、「自分が今そこに、何故人間として存在できているのか!」を戦争を通して考る機会にしたい。

 昨年(2002年)は仲宗根政善先生のひめゆりや先生の著書を通して「戦争と平和」を考えたが、日々の生活の中で自分の問題として捉えることができるようになっただろうか。その時だけでなく。北山高校の生徒達よ。
    
..
湧川の慰霊塔(昭和31年建立)     ▲233名の戦没者の名前が刻銘

..
  
ウタキの斜面の防空壕の口       防空壕の内部、隣の壕との連絡口


2022年6月6日(

 「寄進」の香炉と奉公人の調査をした頃がある。

【大宜味村田港の御嶽の祠の香炉と奉公人(…にや)】

大宜味村田港と大宜味のウタキの祠に数多くの石の香炉がある。ウタキの中に香炉について伺ってみるが、「たくさんあるね」「字書いてあったかね」と余り知られていない。田港のウガンの祠には二一基の香炉が置かれている。文字が一字でも判読できたのは以下の六基である。田港に何故、二一基の香炉が奉納(寄進)されているのか。それは1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港間切が創設され、田港間切の同村であることと無縁ではなかろう。

 田港間切が大宜味間切と改称されると番所は大宜味村に移動したとみられる。その大宜味のウタキの祠に十一基の香炉が置かれている。番所が大宜味村(ムラ)に移ったことで、香炉の寄進が二カ所になされたのではないかと考えている。大宜味村からさらに塩屋村に番所が移っているので塩屋のウタキにも香炉があるのかどうか。ニカ村ほどの数はないのではないか。つまり大宜味番所が置かれていた時期が明治の初期か、それより少し古い時期なのかもしれない。①~⑥の香炉は大宜味村田港のウタキの祠の香炉である。
①「奉寄進 大□□」(年号なし)
②嘉慶九年甲子 奉寄進 九月□日 宮城仁屋 玉城仁屋」と読める。
 嘉慶九年は西暦の一八〇四年である。『中山世譜』(附巻)に大宜味按司や親方と関わる記事は見出していない。『家譜』の記事から拾えるかもしれない。
③「奉寄進 同治□年  □□□ 宮城仁屋 西掟 大城□□」
 年号の文字の判読が困難であるが、向氏大宜見親方朝救が同治三年に年頭の慶賀で薩州へ派遣されている。それに伴うものか。
④屋古前田村 □□月 根路銘掟 □□□
⑤□□□月吉日 宮城仁屋 大城仁屋 □□仁屋 
⑥「奉寄進」の文字のみ

  ①の香炉                  ②の香炉

 
      ③の香炉                ④の香炉

 
    ⑤の香炉                ⑥の香炉

【羽地間切稲嶺村の真照喜御宮の香炉銘】

 名護市稲嶺(真喜屋村から分離)の真照喜屋御宮の四基の香炉がある。その一基に「奉寄進 明治廿八年九月吉日 上京之時 真喜屋村上地福重」とある。その香炉は上地福重氏が上京した時の寄進だと明確に記したものである。ただ、氏が上京した記録はまだ確認できていない。どう結びつくかはっきりしないが、その頃の資料に羽地間切稲嶺村十七番地平民の宮里清助の「御願書」がある。その中に、上京と関わる出来事が確認できる。 


 
名護市(羽地間切)稲嶺の真照喜屋御宮    上京の時に寄進した香炉


      宮にある四基の香炉         稲嶺村の宮里清助氏の「御願書」(一部)
 
【今帰仁間切の拝所にある香炉と人物】

 今帰仁間切内の四つの香炉の年号と二人の内の一人の今帰仁按司の動きが『中山世譜』(附巻五)の記事を合わせ見ることで判明する。
  
 今帰仁村勢理客のウタキ(御嶽)の中のイビに二基の石香炉が置かれている。「奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋」がある。スムチナ御嶽の香炉の年号と一致しそうである。今帰仁按司が上薩のときの旅祈願(航海安全)の香炉なのかもしれない。御嶽での祈願の一つに航海安全があることがしれる。
  
 イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また、それとは別に雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。

 すると、これまで判読できなかった勢理客の御嶽のイビにある二つの香炉と玉城のスムチナ御嶽にある判読できない部分は以下のように補足できる。それは『中山世譜』(附巻五)の記事と合わせ見ることでできる。①③の道光二拾年(1840)については、再度石灯籠の年号の確認が必要であるが、同治九年(1840)は今帰仁王子朝敷(尚泰王の弟:具志川家とは別)が薩州(薩摩)に王子として派遣されている。勢理客村の親川仁屋と上間仁屋、それと謝名村とみられる大城にやと松本にやは、今帰仁御殿へ奉公した、あるいは奉公人であろう。そのような関係が中央の芸能を地方に伝播させる要因になっているのであろう。
 
   ①奉寄進 道光□□年八月吉日 親川仁屋→奉寄進 道光二拾年八月吉日 親川仁屋
   ②奉寄進 同治九年午□□ 上間仁屋→「奉寄進 同治九年庚午十月 上間仁屋
   ③奉寄進 道光二拾年→奉寄進 道光二拾年(八月吉日)
   ④奉寄進 同治九年十月→奉寄進 同治九年(庚午)十月 大城にや 松本にや

   
 ▲勢理客のイビの前の香炉      ▲謝名のウタキのイビの香炉    ▲平敷のウタキのイビの香炉 

.
     ▲スムチナ御嶽のイビ             ▲イビの前にある三基の香炉


国頭村辺土名の「世神之宮」の香炉

国頭村の辺土名まで。国頭村辺土名の「世神之宮」の祠にある四基の石香炉がある。石灯籠や銘のある香炉と按司や王子、あるいは親方や脇地頭、奉公人などの薩州や江戸登りと結びつけることができる。宮城栄昌氏が遭難や漂着船と結びつけようとされてため、結論を見い出すに至っていなかった。

 王子や親方や按司、脇地頭などの薩州行きとの関係でみると、「世神之宮」の石香炉の三基は『中山世譜』(附巻)の薩州行きの記事と三基(①~③)とも一致する。仁屋クラスのメンバーは殿内や御殿に奉公していた各村の人物とみている。それは他の資料で紹介する予定。(以下の記事の左側は石香炉、右側は『中山世譜』(附巻)の記事)

 ①道光二十二年寅年 宮里仁屋(1842年)→国頭王子正秀が薩州に赴いている。
 ②咸豊九己未 金城仁屋 仲間仁屋→馬氏国頭王子正秀が薩州に派遣されている。
 ③咸豊十年九月?宮城仁屋(1860年)→辺土名親雲上正蕃が薩州に派遣される。
 ④光緒十一乙酉 新門謝敷仁屋(1885:明治十八年) 

 
 
 ▲国頭村辺土名の「世神之宮」   ▲①②の石香炉

【本部町にある本部按司と香炉】

崎本部の御嶽のイビに二基の香炉がある。「奉寄進 □□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(左)と「奉寄進 同治□年□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(右)とある。同治元年(1859)の向氏本部按司朝章の薩州行き(六月~十月)と関わるものか。

 
  本部町崎本部のウガミ(ウタキ)        ウガミの上部にある香炉

 
    左側の香炉            右側の香炉


【国頭村比地の石香炉と石灯籠】

 1849年福寧府に漂着した国頭船には五人があ乗り組んでいた。そこで救を受け、、また船の修理をしてもらった後、福州を経て同年接貢船とともに帰国した。この国頭船が比地船であったことは、比地の中の宮とびんの嶽にある石灯籠及び石香炉によって知ることができる。・・・正面に国頭王子正秀の銘が刻まれ、横面に道光29年己酉と刻まれていた(現在摩耗し確認困難)。また中の宮の香炉の一基に道光299月吉日に神山仁屋と山川仁屋が「奉寄進」している。
 びんの嶽の石香炉の一つに道光299月吉日に国頭王子正秀が寄進している(『国頭村史』)。石香炉や大きな石灯籠は首里に住む按司クラスと関係がある。その典型的な石灯籠は今帰仁グスク内のものである。

 

 

【国頭村辺戸の石灯篭と石の香炉】

  



2022年6月5日(

 若い頃とは言っても30代中頃である。『名護碑文記』の三府龍えい碑記を執筆していた。その頃、山原の金石文の採択を数多くこなしていた。『なきじん研究』に利用した拓本は、その頃のものである。

 名護碑文記の三府龍えい碑記を執筆していると、「琉球之文化」加藤三吾で琉球の名所旧蹟の田舎の旅路で名護町(現名護市)でヒンプ―シーを目にされている。その文で都(首里)を名護へ、屋部川を開削して羽地内海へつなぐという大それた構想があり、それに蔡温はクギを刺したという碑文である。だれが、そのような構想を持っていたのか。それは今帰仁按司(十世宣謨:今帰仁王子)ではないかと論じたことがある。
 

  

2022年6月4日(

 本部町具志堅と北里、新里を往く。具志堅は1500年代には「くしけん」と登場する。新里は具志堅と備瀬の一部からなる字。北里は具志堅と謝花の一部からなる(昭和16年)。新里と北里は上間間家にあったという東の掟宛辞令書】(嘉靖42年:1563)の頃は具志堅(まだ村)は使用されていない)時代である。具志堅のムラ域は、新里・北里も含まれる(謝花、備瀬からの原は除く)。今帰仁間切関係の古琉球の辞令書は『なきじん研究』(第三巻)(平成5年版)で扱ったことがある。後の研究の蓄積があるので再検討中。

 過去の記録を思いおこすために、新里と北里、元になる具志堅を雨の中を往く。
  
▲本部町具志堅の神ハサ―ギ  ▲新里の公民館(コミュニティーセンター) ▲北里の公民館(閉館) 

 以下の小字は「角川地名辞典」所収を活用。

【新里】
 和名原(ワナバル) 立石原(タテイシバル) 高石原(タカイシバル) 長浜原(ナガハマバル) 住賀原(スミガバル)

【北里】
 富謝原(トンジャバル) 風登原(アトウバル) 歌原(ウタバル) 穴花原(アナハナバル) 読座原(ユンザアバル)
 長増原(ナガマスバル) 辺名原(ヘンナバル) 岩屋原(イワヤバル) 中尾原(ナカオバル) 白石原(シライシバル)

【嘉津宇】
 嘉津宇村は1719年に伊地味村の嘉津宇原から具志堅村地内に移動。東の掟宛辞令書】(嘉靖42年:1563)
の頃は、
 現嘉津宇村地内は具志堅村の可能性がある。嘉津宇の小字まで。嘉津宇原があるので、1719年以降のハル名か?
  崇原(タキバル) 上原(ウイバル) 嘉津宇原(カツウバル) 田真地原(タマチバル) 安場地原(アンバチバル)
  底名原(スンナバル)


【具志堅】
 謝根原(ジャ二バル) 大嶺原(ウフン二バル) 出謝原(イジジャバル) 松部原(マブバル) 大平原(ウプンラバル)
 有馬原(アリマバル) 佐手奈原(サディナバル) 津味原(ツミバル) 宇茂佐原(ウンサバル) 
 後田原(シリーダバル) 片鎌原(カタカマバル) 真部原(マブバル)
 

2006年11月1日(水)

【赤墓と上間ヤーと古琉球の辞令書】

 先日「赤墓」について触れましたが、今日も来館者や電話での問合せが続いている。追加するなら、具志堅の上間ヤーは上間大親の伝承と関わる家であることは間違いない。戦前、上間ヤーには古琉球の辞令書(嘉靖42年:1563年)があったこと。それは、首里王府から上間家に「あかるいの掟」(東掟のことか)なる役職の人物がおり、その方に土地(田畑)や「みかない」(貢租)などを引き継いでいる。尚真王を助け、上間大親は具志堅(上間)に土地を賜り、息子の二人は首里王府役人を授けられ、世代も変わり60年近い歳月を経った頃の辞令書であるが、尚真王と上間ヤーとは、密接な関わりがあったと見てよさそうである。

 この辞令書の文面は戦前宮城真治氏がノートに書き写したメモである(宮城真治資料:名護博物館蔵)。興味深いので全文掲げてみる。辞令書に出てくるはる(原)について、四、五ヶ所確認できたような(20年前のことなので再度確認してみたい)。

【東の掟宛辞令書】(嘉靖42年:1563)(具志堅上間家)
  しよりの御ミ事
   ミやきせんまきりの
   くしけんのせさかち
   この内にひやうすくミかないのくち御ゆるしめされ
   五おつかかないのところ
   二かりやたに十三まし
   たけのみはる又まへたはるともニ
  又二百三十ぬきちはたけ七おほそ(三百三十ぬきち)
   とみちやはる又きのけなはる又あらはなはる
  又たこせなはる又あふうちはる又ふなさとはる
  又まふはる共ニ
   この分(ふん)のミかない
   四かためおけの なつほこりミかない
  又くひきゆら ミしやもち
  又四かためおけの せちミかない
  又一かためおけの なつわかミかない
  又一かためおけの おれつむミかない
  又一かためおけ又なかう正月ミかない
  又一くひき みしやもち 
  又五かためおけの きみかみのおやのミかない
  又一くひみしやもち
  又一かためおけの けふりミかない共
    このふんのミかないは
    上申□□□
      ふみそい申候ち
      もとは中おしちの内より
  一ミやうすくたに ニまし
    まえたはる
  又十五ぬきちはたけ一おほそ
    あまみせはる一
    このふんのおやみかない
    又のろさとぬし
    おきてかないともニ
    御ゆるしめされ候
  しよりよりあかるいのおきての方へまいる
   嘉靖四十二年七月十七日

 辞令書に「くしけん」と「まふ」とあり、後の具志堅村と真部村へつながる地名とみてよさそうである。真部村の成立は近世中以降であるが、具志堅村の存在は少なくとも1500年代にはあったとみてよさそうである。但、後の間切が仮名の「まきり」であり、村の表現はまだ登場してこない。後の「浦崎の目差宛辞令書」にも「元は具志堅の原地(畑地)のより」とあり、後の具志堅村の存在を伺わせる。

本部町具志堅の上間殿内】

 本部町具志堅の上間殿内は尚円につながる旧家である。上間家の先祖の上間大親は尚円王の弟にあたる人物で、尚真王が山原を巡回しているとき暴風にあった。そのとき上間大親の親子が尚真を助けた。そのお礼として子ども達は首里で役職を賜り、上間大親は上間村の土地を賜った。上間大親は墓を伊是名島が正面に見える今帰仁村諸志の佐田浜につくり赤墓と呼ばれている。

 上間殿内の神家に龍が描かれた図がある。龍は首里王に関わるもので、上間家が尚円王(尚家)につながる伝承を持つ家筋なので龍(爪三本)の図像が掲げ、上間殿内が首里の尚氏の系統であることの証として掲げてあるのであろう。その神家には左手から位牌(二基)、中央部に火の神、千手観音、龍の描かれた図像の順に置かれている。

  『沖縄県国頭郡志』
  『具志堅字誌』
  『本部町史』


2022年6月3日(金)

 デジカメのカードが壊れる。デジカメはノート代わりなので早速購入。今月中旬、沖永良部島に往くので、忘れかけている奄美大島の確認。それと与論島も。奄美のノロ制度 奄美の辞令書。与論島と沖永良部島の歴史でハ二ジの系統を明確にしておく必要がある。

 そとは小雨、やはり家に籠ってゴロゴロしている性格ではなさそう。戦後、本部町から独立した上本部村の主に寄留民で、できているムラ・シマ(現アザ)を行ってみるか。
 (車の乗り降りに苦労しているが)

 大雨洪水警報が続き、自宅で足止め。


 
2008年1月30日(水)
メモ
 明治36年の地図の整理にかかる。表題は「国頭郡今帰仁間切・・・村全図」とある。「沖縄県土地整理紀要」(土地測量の順序方法)から地図に関する情報を引き出していく。土地整理事業着手完成時期が一覧表で示されている。土地整理事業と言っても多種多様である。国頭郡の場合、以下のようになっている。
  ・土地処分   明治32年4月~34年4月
  ・土地測量
     一等図根 明治33年10月~34年3月
      二等図根 明治33年9月~34年7月
      砕部測量 明治34年10月~35年7月

  ・製 図     明治35年10月~36年10月
  ・地価査定 
     ・地押調査  明治33年11月~34年5月
      ・段別地価地租査定 明治36年1月~明治36年10月
      ・土地台帳調製  明治35年1月~36年10月

 土地整理事業は宮古郡と八重山郡は明治32年4月に始まり明治35年12月をもって完了し、翌年明治36年1月1日から地租条例及国税徴収法が施行された。国頭郡、中頭郡、島尻郡の三区と那覇区と首里区は明治36年10月をもって完了し、明治37年1月1日より施行された。

 村全図は六千分の一、村図には図根点、境界、宅地(赫黄の淡色)耕地不耕地(鉱禄お淡色)の概形、道路(赫黄の中色)、河川、海岸線、渉所、橋梁、渡船場、諸注記を地図に図示するとある。

 「地押調査手続」の第十四条に「見取図及字別村図ハ之ヲ編綴シ其表紙ニ郡間切村名完結年月日及従事者ノ官氏名ヲ記シ捺印スルモノトス」あるが、今帰仁間切村全図には郡間切村名まであるが、宜野湾市のように年月日や官氏名や捺印がない。

 「国頭郡今帰仁間切村全図」を「沖縄県土地整理紀要」の文面と合わせ見る必要がある。その地図から土地整理の目的は何だったのかを念頭にいれて読み込むことが重要である。その最終仕上げ図(成果品)が一筆事に番地が付され、「土地整理事務局」と記された図と見ている。


  
  ▲今帰仁間切兼次村全図    ▲今帰仁間切仲尾次村全図        ▲村全図の凡例

2022年6月2日(木)

 雨続きでゴロゴロ。腰痛で「く」の字に曲がらず。しばらく、腰痛と戯れるか。先日収穫したバナナが熟れつつあり。苦瓜も実がついている。

  




2022年6月1日(水)

 

 日曜日、「パインナップル寡黙庵に届けてあるから」と連絡あり。翌日、一番太陽のあたる場所に植え付けた。水をかけるとタイワンクツワムシが寄ってきた。初夏のパインは格別おいしい。

 腰痛になっている。どうにか座ることはできる。16日から沖永良部島へ(和泊町誌)編集会議と調査。

2015年6月17日(水)メモ

 北山高等学校の「平和学習」の講演会。戦前・戦中・戦後を生き抜いた仲嶺氏にも体験について話していただいた。わたしは、戦前・戦時中・戦後、そして今というテーマで話をする。戦争がどういうものだったのか、画像で実感してもらう。それを念頭に入れての調査をすること。戦争を自分のテーマとして向かい合って欲しい。また、社会の動きや国の動きに敏感であってほしい。「戦前の昭和の20年と平成の20年は重なっている」、そのことに気づいて欲しい。

 一時間半の話に真剣聞いてくれました。戦時中の戦死者、ガマから出てきた方々、軍隊の捕虜、10・10空襲・艦砲射撃の跡、銃で蜂の巣状に撃たれた死体・家が焼かれる場面・収容所の生活など、目を負いたくなる場面などいくつもあった。戦争というのは、目をおおいたくなる場面をつくりだしている。

 まずは、そのような状況を念頭に入れてもらい、その場面、場面を自分の問題としてとらえ、そして見つめてほしい。そして家族の戦争状況を記録してみること。今聞けたこと、その記録は五年後、十年たったときに活かされる。

 生徒たちに質問して挙手してもらった。日本国の読みは「ニッポン国派?」ニ割、「ニホン国派?」六割。生徒達の六割近くがニホン、軍靴の足音に敏感に気づいている。言葉にださなくても、戦争をしない国を念じていることが世論としての流れをつくっていく。戦争だけでなく、他の分野での調査をしていくことで気づかされるはず。

 北山高校の295名の生徒達、「戦争と平和」について一緒に考えることができました。