本部の神アサギと村
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2014年5月11日(日)

 本部町の神アサギを踏査する。本部半島を時計まわりで。名護市の宇茂佐からスタートし、屋部、山入端、安和、部間も立ち寄るが、それらは名護の方で。

 本部は塩川、崎本部、健堅、石嘉波、瀬底、辺名地、大浜、谷茶、渡久地、伊野波、並里(満名)、浜元まで。伊豆味、浦崎、謝花、古島、嘉津宇、具志堅、真部、北里、新里、備瀬、石川、豊原、山川がある。下線したのが『琉球国由来記』(1713年)に登場する村である(仲松先生がいう古層の村)。戦後独立行政字(区)多くみられる。それらの区には神アサギがない。

 村移動した嘉津宇、天底(1719年に今帰仁間切へ)、石嘉波がある。それらの村は神アサギを移動先でも作り、祭祀を行っている。それは何を意味しているのか。

 神アサギの修理や役人が寄進した香炉があり、祭祀と役人、本部按司などの首里王府との関わりが祭祀を通しみることができる。祭祀が首里王府がムラ・シマの末端まで統治する手段だとするのは、そのことである。

 

【辺名地の神アサギ】(平成24年6月3日)メモ

 本部町辺名地の神アサギは公民館の近くにある。アサギの側に「神社改修記念碑」と「拝殿改築記念碑」(昭和12年)がある。二つの碑は昭和12年の神社と拝所の改築である。ウタキの前にある鳥居の台に「昭和六年建設」と「奉納」とあるので、昭和六年に建設され、昭和12年に神社として神殿と拝殿として改築jしたものとみられる。辺名地は神アサギを拝殿にし、神殿をつくり合祀をする形。しかし、これまでの御嶽などの祭祀場はこれまで通り踏襲している。ただし、御嶽の入口に鳥居を建立し、御嶽を神社化する型。

 神殿の内部に三基の香炉があり、その一基に「奉納寄進 咸豊九年巳未九月旦日 本部按司内 松田仁屋」とあります。またウタキのイビにある香炉も同年とみられる。同様な香炉は並里にもある。『中山世譜』(附巻)に本部按司が上国した記事がみられる。

 咸豊9年(1859)は向氏本部按司朝章が順聖院様が薨逝されたので特使として薩州に派遣されている。その時の寄進とみられるが、松田仁屋と渡久地仁屋は按司家に奉公している、あるいは奉公していた辺名地村と並里村出身の屋嘉とみられる。

 神アサギの屋根裏に桶があり、祭祀の時にお神酒をつくる容器。内にはタモト木がある。 


 
 ▲本部町辺名地の神アサギ       ▲拝殿改築碑     ▲神社改築記念碑

  
  ▲ウタキの入口の鳥居の台         ▲ウタキのイベと神殿内の高炉

【伊豆味の神社と神アサギ】(平成24年6月25日)メモ

 本部町伊豆味の「伊豆味神社」の建立は昭和5年である。神社の右手に神アサギ、左側にはトゥヌグヮがあり、神社の建設をすると共に、これまでの拝所もそのまま置かれている。碑には「御大禮記念」とあり、裏には「昭和四年十一月二日着手 昭和五年九月十八日竣工」とある。

 明治17年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』の伊豆味村に「伊豆味ノ神アサギ」と「大嶋ノ神アサギ」の二つの神アサギが記されている。伊豆味の神アサギは今につながる神アサギである。大嶋ノ神アサギは1719年まで天底村があり今帰仁間切へ移動する。その神アサギに天底村があった痕跡を遺している。伊豆味村と天底村は混在した形であったようで、また両村の祭祀は天底ノロ管轄である。天底村が今帰仁間切に移動しても大正頃まで天底ノロが伊豆味まで馬に乗って行っていたという。(移動村と祭祀、神アサギについて)



 ▲本部町伊豆味神社    ▲大典禮記念の碑      ▲伊豆味の神アサギ(右の建物)