本部町並里~伊野波(本部ミャークニーの跡をたどる)
年度は忘れたが、今帰仁村歴史文化センターで行った講座であるが、今年は本部町で開催。その準備。本部ミャークニーで謡われるムラ・シマを辿ったコースでした。今回はまだ未定です。参加者と顔合わせをしてから決めます。雰囲気を味わってもらうためです。(うたは略)
・監守が山道を通って、伊野波に行く。山の宿道。
・本部間切新設後、伊野波に番所ができる。本部按司の屋敷跡=本部御殿・番所は
後に渡久地に移る。
【大堂】

▲大堂の藍壷 ▲藍の畑
■沖縄の藍
①琉球藍(キツネノマゴ科)
原産地はインドアッサム地方。山間で栽培することから、山藍とも呼び、生育には適度な雨量と、肥料、特に牛糞を必要とする多年草。直射日光や台風に弱いので、山合いのかげ地で栽培される。明治時代後期までは、沖縄本島北部の各地で作られ、マメ科の藍と同じように泥藍を作る。一年に2回、夏(6月)と冬(11月)の雨の多い時期に刈り取る。しっくいの藍壷(直径4m、深さ1.5m)に葉を漬け込み、発酵させて石灰を加え、沈殿物を水分を含めた状態で固めるという泥藍を作る技術が、本部町山里や伊豆味などの各地に伝わっている。
②タデ藍(タデ科)
原産地は東南アジア、一年草。日本の藍染の主流。沖縄県では、宮古島・八重山でわずかに栽培され、琉球藍の発色剤として少量混ぜて、宮古上布などの染料に使用されている。タデ藍を宮古方言でミーアス(男藍)、沖縄本島の琉球藍をビーキアス(女藍)と呼び、この二種類の藍を混合して染めている。
タデ藍は飛鳥時代に中国から日本に持ち込まれ、広く栽培された。四国の徳島県で一番多く栽培されていることから、阿波藍とも呼ばれ、7月と8月に2回刈り取り、葉を乾かしてつぶして発酵させることで、布を染まりやすい成分に変える。これをスクモといい、スクモを丸めて乾かしたものを藍玉という。藍玉は長期の保存と輸送に便利。「タデ食う虫も好きずき」のタデ。
③インド藍(マメ科)
南インド産と、南米産の二種類がある。
葉や茎を水に浸けて発酵させ、石灰を混ぜて、沈殿させた色素分(インディゴ)を乾燥
させて固める。できた藍は泥状で、泥藍と呼ぶ。八重山諸島・小浜島で栽培されている。
藍は・・・
・虫やガラガラヘビなどを寄せ付けない
・ブルーカラーと呼ぶ所以となる。
【山里】
・公民館の下に民家があり、その屋敷内に神アサギがある。ウタキはない。
・かつての宿道。
・ほとんどが寄留。
・戦争のとき、左側の山に逃げるが、海からの艦砲射撃が、この山を越えて後ろの八重岳
まで届いたという。
【伊野波】
・方言でヌファという。かつてムラの前面に広がっていたイノー(礁池)に関わる地名か?
・1666年、今帰仁間切より伊野波間切が創設されたときに、主ムラとなり、番所が置かれた。
・瀬底島への通耕を行っていた。
・伊野波・並里・満名は伊野波ノロの管轄。

▲ウーワク(大きな湧く)
ここで水汲みをしたり、洗濯をしたりした。

▲伊野波公民館 ▲本部のマンホール
伊野波公民館のある一角に、かつて伊野波間切番所があったと考えられる。付近には、旧家と見られる屋敷などもある。

▲伊野波神社入り口 ▲階段の左手に遥拝所、奥に見えるのは神アサギの屋根

▲神アサギの中にはタモト木がある。香炉は首里を向いているか?もともと公民館のところにあったものを、この場所に移したという。

▲伊野波神社。伊野波のウタキのイビヌメーにあたる。▲「敬神」「泉石書」の扁額

▲昭和46年 7月25日改築 ▲昭和8年旧7月10日 ▲ペルー国帰朝記念
メキシコ帰朝■■ 仲程長四郎 仲宗根文■ 仲程清栄 工手 上間■

▲右手から、伊野波惣地頭火ヌ神に行く階段がある。▲これは何の改修碑だったか?
(なきじん研究18号139ページ参照)
全ノロがグスクに集まる祭祀は、今帰仁・本部では継承されなくなってしまう。同じような例に、国頭間切から大宜味間切が新設されたために、根謝銘グスクで国頭間切の全ノロが集まっていた行事がなくなってしまう。
伊野波惣地頭(本部御殿、伊野波家)の火ヌ神があり、香炉が置いてある。
伊野波家は護佐丸に繋がるという。
伊野波家は、北山監守(今帰仁間切惣地頭)と婚姻関係にある。

▲消防庫。 ▲石くびりの坂を上る

▲伊野波節の歌碑
ヌファぬ石くびり ンゾチリティぬぶる ナヒン 石くびり 遠さはあらな
「伊野波の石ころ坂道を、愛しい人と登ります。難儀な坂ではあるけれど、もっともっと遠くまで続けばいいのにと思います」
石くびりの道はワイトゥイ。

▲最初の歌碑は昭和36年建立。 ▲歌意を説明する、山内範正師匠。
現在の碑は平成6年に建てられたもの。
【並里】

▲並里公民館 ▲公民館のそばにある、掟(ウッチ)火ヌ神。
伊野波ムラとあわせてヌファ・マンナ(伊野波・満名)と称され、並里の名は出てこない。満名は伊野波からの別れという伝承を持つ。並里の発祥に関わるナンジャトガサという山(14世紀中北山の時代に、勢力争いに敗れた按司が難を避けて、ナンジャトガサに避難し、その主がマンナ上殿内の並里家)からとられた地名とも考えられる。また満名殿内(伊野波ノロ殿内)が「並里」家である。明治36年、「並里」に「満名」を併合したという(『南島風土記』)。行政ムラとしては並里、通常の呼び方としては満名となる。
マンナターブクと呼ばれるほどの水田地帯で、昔はマンナターブクから満名川沿いの県道や、運立橋近くまで入り江となっていて、船が往来したという。並里公民館あたりには造船所があり、ジューフニモー(造船広場)という地名が残っていることから、かつての集落はもっと北側の台地上にあったことが分かる。

▲満名上殿内 ▲左が満名殿内、右に拝所
満名上殿内は、伊野波ノロを出す家である。(ヌンドゥルチは別にあるようだが、仲原館長によると、ノロ殿内は満名上殿内のことという)。
伊野波ノロの屋敷が、満名の地にあるため混乱してしまうが、満名はもともと伊野波ムラの内なので、伊野波ノロの屋敷が満名にあってもおかしくはない。
伝説に、14世紀中ごろの中北山の時代、怕尼芝との勢力争いに敗れた按司今帰仁子が、難を避けてナンジャトガサに隠れ住み、それが満名殿内の並里家だと伝えられている。
また「古櫃の中に、古刀三振、衣類二枚、繻子の古帯一筋、羽二重の襦袢一枚」を秘蔵し、中北山城主が滅亡したときに王族が隠したものだという。また並里家はかつて今帰仁城下に住んで、今帰仁ノロクモイを継承してきたが、本部に移居するときに、この神職を今の今帰仁ノロ家に譲ったという伝承もある。
公民館の東側、南側一帯がヒチャンバーリと区分され、ここの親川家をヒチャヌトゥンチ(下の殿内)と呼ぶ。

▲土管でかつて水を引いた ▲並里神社
土管は焼き物、明治以前から使っていた。具志堅や運天港のウプガーでも使用。
並里神社は、並里ムラの御嶽。階段を上がって、神アサギがあり、その先にイビがある。神社化したときに、神アサギを拝殿・イビを神殿の形にしたが、左側にもとの神道を残し、本来のイビの香炉まで行けるようになっている。祭祀はこの神道を通り、時計回りの方向でまわって下に下りてくる(スムチナ御嶽と同じ)。

▲神アサギに上る階段の手前にかつてのアサギの▲アサギの柱に残る、板をはめ込んだ跡柱が置かれている。 根謝銘グスクのアサギ位大きかった可能性が!

▲アセローラ! 満名殿内で飲んだジュースが▲集落の後方にあるタンダウタキ。頂上付近に
美味しかった!イビがあるという。

▲山川宗道氏の銅像 ▲「満名松下」の歌碑
並里はマンナターブクと呼ばれた水田地帯であったが、ウェーキが米を作り、大部分は山あいの田んぼで自家用程度の米を作ったり、サトウキビや藍などの換金作物で生計をたてていた。そのため、大正時代から南米、特にペルーに移民が多い。
かつてのマンナターブクで、今はターイモ栽培が行われている。
「満名松下に 黄金燈篭さげて おれがあかがれば みろく世果報」
満名村の松の木の下に、黄金の燈篭を下げたが、これに明かりが灯されたら、
平和で豊かになるときだよ
■今帰仁ムラ~大堂~山里~伊野波~満名(並里)の道筋は、かつて、北山監守が通って
いた道でもある。
監守一族と、伊野波間切伊野波家との関わりは深く、監守七世従憲は、伊野波親雲上の娘をめとり、その弟従宣は、本部間切伊野波村居住の阿応理屋恵按司をめとっている。監守十一世弘猷はの四女は、向氏伊野波按司に嫁ぐ。
このように、監守と伊野波は親しく繋がっている。