間切役人(奉公人)と上国に随行と石香炉と上国       トップへ


 1.今帰仁間切
 2.本部間切
 3.羽地間切
 4.名護間切
 5.大宜味間切
 6.国頭間切
 7.久志間切
 8.金武間切
 9.恩納間切
 10.伊江島
 11.伊是名島


 1.今帰仁間切

今回は今帰仁グスク周辺の拝所と、かつて今帰仁グスクへの主要道であったであろうハンタ道をたどることにした。現在の今泊集落は今帰仁グスクの麓の海に近い場所に位置している。今帰仁グスク周辺に、今帰仁阿応理屋恵殿内火神の祠・今帰仁ノロ殿内火神の祠・トモノハーニ殿内火神の祠があり、ハンタ道沿いにミームングスクやハタイバルウーニ、そして神送り場所と見られる(ナガレ庭)、さらに下ると親川(エーガー)がある。グスク周辺にある火神の祠や拝所が、集落移動の痕跡を示す手掛かりとなり、一つの法則が見いだせる。
 
 今帰仁グスク内の『琉球国由来記』(1713年)でいう「城内上之嶽」と「城内下之嶽」が今帰仁村(ムラ)にあるとある。両村が明治36年に合併し、同39年に分離し、昭和48年に再び合併し現在に至る。今帰仁グスクのあるハンタ原は親泊村域である。さらに古い1742年の「今帰仁旧城図」では「はんた原フノ印竿本ヨリ戌下小間右少十八間」とあるが、どの村かは明確に記されていない。

 ところが、それより古い『琉球国由来記』(1713年)で今帰仁グスク(ハンタ原)は今帰仁村内である。どの時期に今帰仁グスクのあるハンタ原が親泊村に組み込まれたのか。その議論はこれまでなされたことがない(集落移動や今帰仁グスク内のウタキ(イビ)と村との関係をしる手がかりとなる重要な要素をもっているので改めて整理することに)。

  もう一つ今帰仁グスクの近くにあった今帰仁村が麓に移動し、今帰仁グスクにいた今帰仁(北山)監守一族は今帰仁村へ移り住んでいる。今帰仁按司六世の位牌のある屋敷跡は今帰仁村側にあるので説明がつく。ところが、すでに今帰仁グスク近郊から麓に移動している『琉球国由来記』(1713年)の頃の阿応理屋恵按司火神は親泊村にある。親泊村側に阿応理屋恵按司火神があったとするなら、現在の今帰仁村側にあるオーレーウドゥン跡ではなく、親泊村側に求める必要がある。

 
  今帰仁阿応理屋恵ノロ殿内火神の祠と内部の火神(今帰仁グスク付近)

 以下の文書(『御案内』)をもって解決つくものではないが、参考のために掲げておく。以下の「御殿屋敷」跡は親泊村側にあり、そこでの移動が阿応理屋恵であれば整合性があるのだが。
 
 「今帰仁城監守移転の跡」(『御案内』平敷兼仙著 昭和11年)
  阿応理屋恵御殿より馬場を東に二百四十米の南部に「ウドン屋敷」と俗に言ふ監守別宅
  の跡がある。現宮里喜一氏、金城蒲戸氏の屋敷が其れで、(昭和11年から)230年前
  までは、具志川家からたびたび「おぐわん」に来られたと村の老人は話している。
   具志川家の祖なる今帰仁按司は、六世まで北山城内に在りしが、七世の時、志慶真村、
  城下より親泊の大兼久に総引っ越をなししかば、古城附近は民家なく、荒涼寂莫たる古
  戦場となりしを以て城内監守も遂に居宅を親泊馬場の東端に移して之に居り更に王命に
  よりて首里に引き上げたりと言う。今に其の居址を「御殿屋敷」と呼ぶ。

 
 
     今帰仁ノロ殿内火神内部火神今帰仁グスク付近

 
   トモノハー殿内火神内部崩壊中)(今帰仁グスク付近

 
ハタイバルのウニ(御舟今帰仁ニ、本部ニ(ハタイ

 
 今帰仁グスクへのかつての主要道(ハンタ道) ハンタ道の起点にあるエーガー(親川) 

 ついでにオーレウドゥンの祠までゆく。最後のアットメー(最後の今帰仁阿応理屋恵)が住んでいた屋敷跡に祠がありウドゥンガーと呼ばれる掘り抜きの井戸がある。祠には六世縄祖の位牌が今でもある。ガーナー位牌が二基あり、その一基に「帰一瑞峯□祥大祥定門」とあり、後面に六世の没年(順治15年6月29日」(1658年没)と彫られている。

 親泊村側と今帰仁村側にある二つのウドゥン(御殿)と北山監守(今帰仁按司)の御殿と今帰仁阿応理屋恵の御殿の関係についての確認が必要。そのことと『琉球国由来記』の今帰仁グスクが今帰仁村から親泊村の村域になるのはどの時期なのか。そのことは今帰仁ノロが今帰仁グスクの側にあった頃に名づけられた名称だとすると、その場所は今帰仁村となり、麓に移動した時に親泊村地内に移動したことになる(現在の今帰仁ノロ殿内は親泊村側にある)。

 (文字に表された資料と現場を合わせ見ていくと、史料を踏まえて論理的にまとめているようにみえるが、そう単純ではないことを実感させられている。資料が出てくるたびに書き
替えが続く。それも楽しいものだ!)。

 
 集落内の「ウドゥン屋敷」跡と言われる馬場の角の宮里家の屋敷と金城家(現在)



 
▲集落内のオーレーウドゥン(今帰仁阿応理屋恵)跡にある祠と内部の二基のガーナー位牌(現在)

今帰仁グスク内の火神の祠の前に四基の石灯篭がある。「奉寄進石燈爐」「今帰仁王子朝忠」「乾隆十四年己已仲秋吉日」と摩耗してるが辛うじて読み取ることができる。乾隆十四年は1749年で今帰仁王子朝忠は今帰仁按司十世の宣謨(1702〜1787年)で、王子になったのは乾隆12年(1743)である。その時、薩州(薩摩)へ使者として赴いている。詳細について触れないが、これら石燈爐の二年後の建立は薩州へ赴き無事帰ってきたことと無縁ではなかろう。それと下記の「覚」の「城内の旧跡の根所の火神や御嶽々は今でも毎月朔日、十五日の折目折目の祭祀を行う仕事がある」とも。

『具志川家家譜』(那覇市史 家譜資料首里系)に、次のような「覚」書きがある。そこには、今帰仁グスクを関わる重要なことがいくつも記されている。

  ・此節御支配・・・元文検地のこと(今帰仁グスクは乾隆七年(1742)に行われる)
  ・尚巴志王の時落城
  ・国頭方は險阻で殊さら難しい所である。
  ・権威のある人物を派遣して守らせる。
  ・尚真王の時、今帰仁王子(一世の尚韶威)が鎮守する。
  ・今帰仁グスク内に住み六代まで相続し勤める。
  ・今帰仁村と志慶真村は城の近方にあったが場所がよくないので敷き替えをする。
  ・そのため村が遠くなったので城の住居は不自由となる。
  ・高祖父?の時代今帰仁村へ引っ越す。
  ・城内の旧跡の根所の火神や御嶽々は今でも毎月朔日、15日の折目折目折目の祭祀を行う
   仕事がある。

  ・宗仁以来10代までやってきたが、この節所中(間切)に渡したならば後年旧跡は廃れてしまう。
  ・それは黙止することはできない。

・そのようなことで、城囲内は子孫へ永代御願地にして下さるよう願いでて許される

  
 

      覚
   今帰仁城之儀、此節御支配ニ付而間切江被下候旨承知仕候、然者今帰仁城之儀
 尚巴志王御代致落城候得共、国頭方險阻殊六ケ敷所ニ而
 尚真様御代元祖今帰仁王子宗仁右為鎮守奉

  命、今帰仁城内江被詰居、高祖父迄六代右之勤致相続候、然処今帰仁村志慶真
 村之儀、城近
方ニ有之候処、場所能無之故、當村江致敷替候ニ付而、村遠相成城
 之住居不自由有之候之処
、 

氏具志川家の十二世鴻勲(朝郁)(1783〜1804年)は嘉慶元年(1796)に楽童子として江府(江戸)に赴いている。楽童子は江戸上の時、琉球音楽や躍りを演じる若者で鴻勲は十三歳の時である。江戸上の詳細は『具志川家家譜』の十二世鴻勲のところに記されている。鴻勲が今帰仁間切の村の村踊(ムラウドゥイ)に影響及した可能性は少ない。どちらかと言えば、これまで見てきた間切からの御殿や殿内などへ奉公人や奉公した後の間切役人などが中央の芸能を村向踊の演目に取り入れていくことに影響を及ぼしているとみている。また按司や脇地頭などの「初地入」は、按司や脇地頭などを歓迎する演目としたのではないか。

 今帰仁グスク内の石灯籠もそうであったが、今帰仁阿応理屋恵火神の祠(今帰仁グスク近く)の後側にある四基の「奉寄進」(年号部分は判読できにない)は、今帰仁王子や按司などの薩州や江戸上と無関係ではなかろう。香炉の向きは、伊是名島や辺戸などへの遥拝と言われるが、香炉は伊是名島と辺戸岬との中間に向いて置かれていて、それは薩摩や帰国への航海安全の祈願とみていい。今帰仁阿応理屋恵火神の祠の手前右側にも数基の銘の刻まれた石の香炉があったが不明。(近くに放置されているかもしれないので探してみるか。その中には年号はっきりしているのもあるかもしれない)。


【『中山世譜』(附巻)より薩州や江戸上の親方・按司・王子など】

 ・天啓6年(1626) 孟氏今帰仁親方宗能、薩州へ(月日不明)
 ・康煕2年(1663) 高氏今帰仁親雲上宗将
 ・康煕15年(1676) 向氏今帰仁親方朝位、年頭使として6月27日薩州へ、
               翌年11月4日帰国する。
 ・康煕25年(1686) 向氏今帰仁親方朝位、年頭使として5月26日薩州へ、翌年
              11月7日帰国する(翌年病で没)。

 ・康煕35年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲、鷹府城の回録で8月24日薩州へ、
              11月6日帰国する。
 ・康煕45年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲、7月10薩州へ、11月9日帰国する。
 ・康煕48年(1709) 向氏今帰仁按司朝季、尚益王の即位で9月12日薩州へ派遣、
              11月日に帰国する。
 ・康煕51年(1712) 向氏今帰仁親方朝哲、8月4日薩州へ、翌年11月14日帰国する。

 ・康煕60年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲、年頭頭として6月21日薩州へ、翌年10月
              22日帰国する。
 ・乾隆5年(1740) 向氏今帰仁按司朝忠、吉貴公妃(霊龍院)の弔で閏5月27日薩州
             へ派遣、10月25日帰国する。
 ・乾隆12年(1749) 向氏今帰仁王子朝忠、慶賀で6月13日薩州へ、12日江戸へ、
              翌年3月1日薩州へ、4月9日帰国する。
 ・乾隆52年(1787) 向氏今帰仁按司朝賞、太守様元服で8月2日薩州へ、翌年3月
              11日帰国する。
 ・嘉慶25年(1820) 向氏今帰仁按司朝英、前年薩州へ赴く(慶賀)前に船は風に遇い、
              八重山・与那国島に漂着する。
 ・同治9年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷、6月22日薩州へ、10月11日帰国する(明治3年)。
 ・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷、9月24日薩州へ、10月24日東京へ、翌年1月
              29日帰る。
 

今帰仁阿応理屋恵(オーレーウドゥン)に二つの古い位牌(ガーナー)がある。その一つは六世縄祖の位牌である(表に「帰一瑞峯須祥大禅定門」、裏に「順治十五年戊戌六月二九日去」と線彫されている)。何故、今帰仁阿応理屋恵(オーレーウドゥン)にその位牌あるのか。そして銘のないもう一つのガーナー位牌は次男の従宣(阿応理屋恵按司(童名思武太金)の夫)のものか。あるいは、五世克祉の次男縄武も阿応理屋恵按司(童名思乙金)を妻にしているので縄武の位牌の可能性もある。

 そこに長男の縄祖の位牌がある例からすると五世克祉の位牌があってもおかしくはない。次男の縄武も阿応理屋恵按司を娶っている。もっとあった古いタイプのガーナー位牌が二つのみ残ったのかもしれない。『向氏家譜(具志川家)』(那覇市史家譜資料(三)首里系)の記録を手掛かりに読みとることができればと考えているが。

   
▲六世縄祖(瑞峯)の位牌  ▲死去日が線彫されている▲古いタイプのガーナー位牌(無銘) 

【今帰仁按司六世縄祖の位牌と阿応理屋恵(オーレーウドゥン)】 

 六世縄祖今帰仁按司の童名は松金、名乗は朝經、号は瑞峯である。万暦29年(1601)に生まれ順治15年(1658)6月29日に亡くなる。五八歳である。縄祖の父は克祉(五世:薩摩の琉球侵攻のとき死亡)、母は向氏の真鍋樽、室(妻)は向氏宇志掛按司。(庸や妥地、俸禄などがあるが略) 婚嫁のところで次男従宣は孟氏伊野波(本部間切伊野波村居住)の女阿応理屋恵按司(童名思武太金)を娶っている。

  五世克祉今帰仁按司童名真市金、名乗朝容、号宗清である。万暦10年(1609)3月28日に28歳でなくなる(薩摩軍の今帰仁入りの時)。その長男縄祖の位牌が阿応理屋恵(オーレーウドゥン)にあるので、克祉の位牌の可能性もある。それまた、縄祖の次男同様克祉の次男縄武も中宗根親雲上の女(娘)の童名真比樽(阿応理屋恵按司)を娶っている。

  他の位牌が置かれる事例を合わせみながらみていく必要がありそうだ。ここでは触れないが、大北墓の五世、六世、それと四名のアオリヤエとの関係も言及できそうだ。


 
 ▲今帰仁阿応理屋恵火神の祠(グスク近く)   ▲後ろにある四基の石香炉

 「江戸上り」(参府)の使節の中に儀衛正(ぎえいせい)がいる。儀衛正(路次楽の総監督:路次楽奉行)について、宮城栄昌氏は『江戸上り』で5つの史料から以下の記事を拾っている。路次楽は1477年の尚真王の母オギヤカモイが路次楽を奏でながら首里の大路を行進している様子を描写しているという。路次楽が中国音楽だったため久米村出身者が選ばれたという。

  ここで路次楽を掲げているのは、今帰仁村の湧川で路次楽が豊年祭で行われているからである。首里王府や江戸上りの時に演奏された路次楽が、どのような経路で今帰仁村湧川に伝えられたのか。もちろん、寄留士族によって村踊(豊年祭)に組み入れられているのであるが、継承している與儀家が久米系なのか、そして江戸上りでの使節の一員であった可能性が大である。一族の家譜から探せるか。中央の芸能が地方へ伝播され、そこで継承されているのがいくつかある。「組踊」もそうであるが、薩摩藩屋敷で行われた「しゅんどう」(男女の面かぶり:舞楽図)(沖縄県史ビジュアル版所収の図)は古宇利島の豊年祭の最終演目で行われている。

    ・中官ノ内ニテ路楽ノ頭ニテ御座候、此上ニテハ物頭恰合ノ官ニテ御座候
    ・中官之内路次楽の頭之者頭恰好の者也
    ・右行列方并路次楽司申候、於琉球国ハ諸衍
(ママ)奉行格式ニ而御座候
    ・路次楽人相携候、尤久米村より被仰付唐字方相勤候
    ・中官之内路次の頭也、者頭恰好の者也

 
   ▲今帰仁村湧川の路次楽(現在)        ▲今帰仁村古宇利の「しゅんどう」

 【薩州・江戸上りと楽童子と奉公人】
  琉球国から薩州や江戸上りをした王子や親方などに随行していった楽童子が、帰国してから首里王府の芸能もそうであるが、地方の芸能に影響を及ぼしているのではないか。その学童子の中に各地の間切から殿内や御殿へ奉公した人物が散見できる。それらの奉公人が地方への伝統芸能の伝播の橋渡しをしているのではないか。

  薩州や江戸へ随行していった楽童子達が、どのようなことをしているのか。そして、大和の芸能を見て琉球へ導入したのがあるのではないか。『琉球使者の江戸上り』(宮城栄昌著)で、「江戸における公式行事」や「薩摩邸における行事」や「使者たちの私的文化活動」で楽童子達(楽人)の役割が述べられている。享保3年(1718)の楽人は延44人である。中に獅子舞も演じられている。

  琉球の文化や琉球人に対する評価は別にして、楽師や楽童子など楽人に推挙され、王子や親方等に随行して薩州や江戸上りできることは、名誉なことであった。そのことと各地に寄進されている石灯籠や石香炉など大和めきものと結びついている。それだけでなく、薩州や江戸へ持っていった芸能を各地の村踊(ムラウドゥイ)の番組に取り組まれていったとみられる。その体表的なものが各地の組踊りであり、今帰仁村湧川の路次楽や松竹梅や古典音楽などである。

  今、調査を進めている「操り獅子」(アヤーチ)(今帰仁村謝名・名護市川上・本部町伊豆味)の導入も、王子や親方などの薩州・江戸上りの随行者、そして間切からの殿内や御殿への奉公人(中には楽童子や躍人として随行)、奉公人が間切役人となる。そのような芸能の伝播の様子が見えてくる。

  ただし、大和の芸能を琉球に移入していく場合、そのままの形で導入していくものと、琉球化していくものがある。「操り獅子」について、まだ直接の史料に出会っているわけではないが、江戸や大阪で「操」は見ている。その「操」(あやつり)は操人形かと思われる。その操の技法を学び、操りの人形部分を獅子にした可能性がある(もう少し資料を追いかけてみるが、果たしてどうだろうか)。


 『琉球使者の江戸上り』の研究をされた故宮城栄昌氏は以下のように述べている。

  「使者たちが受けた日本文化の影響も測り知ることのできないものがあった。それが琉球文化の中に日本文化の要素を混融させることとなり、琉球文化の領域と内容を豊かならしめることとなった。琉球文化は固有性に富んでいるといわれながら、異質性にも満ちている。その異質性は琉球に置かれている位置からくる外交活動の側面であった。」

  「また、宝暦2年(1753)の謝恩正使今帰仁王子朝義は、薩摩や江戸で島津重年に対し奏楽・漢戯・琉戯を演じ、明和元年(1764)の慶賀正使読谷山王子朝恒も同様であり、さらに寛政2年(1790)の慶賀正使読谷山朝祥も、薩摩・伏見・江戸で奏楽・作舞をしているから、舞踊が半ば公的に演ぜられることは、早くから行われていたようである。そして島津家に慶事があれば、格別盛大な祝賀芸能があった。」


 『向姓家譜大宗尚韶威』などの家譜から、丁寧に拾い掲げている。
 
【今帰仁】
 ・天啓6年(1626)  孟氏今帰仁親方宗能 薩州へ派遣される。
 ・康煕2年(1663)  高氏今帰仁親雲上宗将 宮古薩州長崎
 ・康煕15年(1626) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
 ・康煕25年(1686) 向氏今帰仁親方朝位 薩州へ。
 ・康煕35年(1696) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ
 ・康煕45年(1706) 向氏今帰仁親雲上朝哲 薩州へ。
 ・康煕48年(1707) 向氏今帰仁按司朝季 尚益王即位で薩州へ派遣
 ・康煕51年1712)  向氏今帰仁親方朝季 年頭使で薩州へ。
 ・康煕60年(1721) 向氏今帰仁親方朝哲 年頭使として薩州へ。
 ・乾隆5年(1740)  向氏今帰仁按司朝忠 霊龍院(吉貴公妃)の薨で薩州へ派遣される。
 ・乾隆11年(1746) 尚氏朝忠 王子のとき薩州へ。
 ・乾隆12年(1747) 尚氏今帰王子朝忠 慶賀使として薩州へ。
             (今帰仁グスク内に乾隆14年の今帰仁王子朝忠の石灯籠あり)
 ・乾隆17年(1752) 尚氏今帰王子朝忠 正史として薩州、江戸へ派遣される(謝恩使)。
 ・嘉慶25年(1820)(前年か) 向氏今帰仁按司朝英 前年台風で八重山与那国島
             (慶賀改めて)
 ・同治9年(1870) 尚氏今帰仁王子朝敷 薩州へ。
 ・光緒元年(1875) 尚氏今帰仁王子朝敷  薩州東京へ  

勢理客の御嶽とスムチナ御嶽の三基の石香炉の採拓をする。そこに彫られた年号と「…仁屋」の人名をしかと確認したくて。それが揺れていると他の史料とのかみ合わせができなくなる。香炉は雨風にさらされ、また線香をたくので摩耗が激しく、判読がなかなか困難である。

 

 勢理客のウタキ香炉の拓本(二基)    スムチナ御嶽の香炉の拓

『中山世譜』(附巻)や香炉や石灯籠には確認できないが、道光26年(1846)丙午十月写文書「元祖日記」の記事に、

  一、嘉慶24年(1819)己卯四月御殿大按司様御上国ニ付金城にや御旅御供被仰付
    同七月
十五日那覇川出帆与那国嶋漂着翌辰年六月帰帆仕申候

また、「先祖伝書並萬日記」(平田喜信)に、
  一、兼次親雲上(道光20年死去)御事第四代ノ長男、幼少ノ頃ヨリ
    両惣地頭ノ御奉公
勤勉之為メ、掟…
   一、二男武太(光緒5年死去)ハ両惣地頭ノ御奉公向全ク勤勉致候ニ
     付、平田掟役勤ミ
志慶真村夫地頭役被仰付、志慶真大屋子ト云フ…

新城徳助の「口上覚」にも、
  一、咸豊九年(1859)譜久山殿内御供被仰付同拾壱年酉八月譜久山里之子
     様屋嘉
被仰付光緒元年亥八月弐八迄難有御奉公相勤置申候


などの記事を拾うことができる。石灯籠や石香炉に必ずしもないが(あったのもあろうが摩耗したり廃棄されたりしたのも多数あろう)、家文書などから、奉公人(後に間切役人となる)と御殿や殿内(按司や惣地頭)との密接な関わりが見いだせる。奉公人は間切への文物(首里文化)を運びこむ重要な役割を果たしている。石灯籠や石香炉は山川(鹿児島県)石や凝灰岩だときく。薩摩からの帰りの船のバラストとして持ち帰った石を使って石灯籠や香炉を作った可能性が大きい。 

 ワラザン(藁算)調査の来客があり、勢理客のヌルドゥンチ跡の神屋、そして近くに勢理客のウタキの香炉の確認まで。勢理客のウタキのイベの祠に二基の石香炉がある。それには銘があり「奉寄進 道光19年? 8月吉日 親川仁屋」と「奉寄進 同治9年9月吉日 上間仁屋」である。勢理客のウタキの中のイビに二基の香炉が置かれている。一基はスムチナ御嶽の香炉の年号と一致する。その同治9年は今帰仁王子朝敷が薩州へ派遣された年である。

  道光年の石香炉は年号の確認がぜひ必要である。そこに登場する親川仁屋と上間仁屋は今帰仁御殿や殿内などでの勢理客村出身の奉公人ではなかったか。「大城仁屋元祖行成之次第」(口上覚)に以下のような記事がある。奉公人と御殿や殿内との関係を伺いしることがきる。(もう少し整理が必要なり)


 勢理客村大城仁屋(玉城掟)(口上覚)
  一、嘉慶20年亥12月御殿御共被仰付寅年迄4ヶ年御側詰相勤置申候事
  一、嘉慶24年卯正月嫡子今帰仁里之子親雲上屋嘉被仰付丑4月迄十一ヶ年相勤置申候
  一、道光9年疱瘡之時宮里殿内江御雇被仰付10月よ里12月迄昼夜相勤置申候


 勢理客村兼次親雲上(覚)
  一、道光25年乙巳御嫡子今帰仁里之子親雲上御上国ニ付而宮里殿内江御雇
     被仰付9月
より12月迄昼夜相勤置申候事
  一、嘉慶21年卯11月24日御嫡子今帰仁里之子親雲上御婚礼之時御雇被仰付罷
    登首尾能相勤置申候事
  一、嘉慶20年子3月故湧川按司様元服之時肝煎人被仰罷登首尾能相勤置申候事
  一、嘉慶23年卯三月故湧川按司様御婚礼之時肝煎人被仰付罷登首尾能相勤置申候事 


 勢理客のヌルドゥンチ跡の神屋にあるワラザン(藁算)については、改めて報告することに。

 
     勢理客のウタキ内のイビの様子      銘のある二基の香炉

 
  勢理客のウタキのイビの祠にある銘のある二基の石香炉

 

 勢理客ヌルドゥンチ跡の神屋にあるワラザン(藁算:二本)
 


2.本部間切

 【本部間切と両惣地頭家】

(本部按司家:御殿)
 ・尚質王の六子朝平を元祖とする。
 ・本部按司朝完(二世:朝定)1696年西御殿御普請・南風御殿修補の総奉行を勤める。
 ・本部按司朝智(三世)1716年那覇津浚濬奉行を勤める。
 ・本部王子朝隆(四世)…1736年総奉行となり国中の河川の改修に努める。
 ・本部按司朝救(五世:朝恒)薩摩に上国する。(1773年)
 ・本部按司朝英(六世)薩摩に上国する(尚王即位)。
 ・伊野波按司朝徳(七世)
 ・本部按司朝章(七世)薩摩に上国する。
 ・本部按司朝宜(八世)
 ・本部按司朝真(九世)明治6年の『琉球国藩雑記』で、家録高150石、物成19石、
             本部間切に
作得37石余。
 ・「奉寄進 咸豊9年己未9月吉日旦 本部按司内松田仁屋」とある(1859年:本部町辺名地)。
 ・「奉寄進 咸豊9年9月 本部按司並里仁屋」とあるあ(1859年:本部町並里)
 ・乾隆16年(1751) 向氏本部按司朝恒 薩州へ(尚穆王即位)。
 ・嘉慶9年(1804) 向氏本部按司朝英 薩州へ(尚王即位)。
 ・嘉慶14年(18069) 向氏本部王子朝朝英 薩州へ。
 ・咸豊9年(1870) 向氏本部按司朝章を薩州へ特遣。

(伊野波殿内:惣地頭家)

 ・康煕5年(1666)伊野波盛紀(7世)本部間切惣地頭職となる(今帰仁間切を分割)
 ・康煕27年(1688)に伊野波親方盛平(8世)は本部間切惣頭職となる
          (40石から80石となる)。
 ・康煕38年(1699)に伊野波親雲上盛忠(9世)は本部間切惣地頭職を賜る。
 ・康煕42年(1703)に伊野波親方盛祥(10世)本部間切惣地頭職となる。
 ・乾隆3年(1738)に盛真(11世)が本部間切惣地頭職となる。
 ・乾隆16年(1751)に盛周(12世)が本部間切地頭職となる。

(本部間切の脇地頭)

  本部町伊野波の神アサギの側にウルン(御殿)と呼ばれる祠がある。伊野波家(惣地頭家)の殿内ではないか。『琉球国由来記』(1713年)をみると、本部間切伊野波村(同村)での祭祀に関わるのは惣地頭のみである。按司は見られない。それからすると伊野波にあるウルン(御殿)は伊野波殿内の拝所ではないか。

  また本部町の並里と辺名地に「本部按司」と記された奉寄進の香炉がある。まだ確認していないが、本部按司の上国と関係しているとみられる。そこには本部按司だけでなく並里仁屋や渡久仁屋などの名があるのは、按司に仕えた村出身の奉公人ではなかったか。そこから間切や村と按司や惣地頭との関係が見えてきそうである。
  

 
  伊野波にある御殿(ウルン)跡      ▲ウルンの中の香炉(銘は不明)

         
▲咸豊9年本部按司とある香炉(本部町並里)    ▲並里仁屋とある香炉(年号未判読)

咸豊9年(1859)は向氏本部按司朝章が順聖院様が薨逝されたので特使として薩州に派遣されている。その時の寄進とみられるが、渡久地仁屋は按司家に奉公している、あるいは奉公していた並里出身の屋嘉とみられる。

 崎本部の御嶽のイビに二基の香炉がある。「奉寄進 □□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(左)と「奉寄進 同治□年□□ 仲地仁屋 金城仁屋」(右)とある。同治元年(1859)の向氏本部按司朝章の薩州行き(6月〜10月)と関わるものか(未確認)。

 
  本部町崎本部のウガミ(ウタキ)        ウガミの上部にある香炉

 
 
       ▲左側の香炉              ▲右側の香炉

 本部町堅健と瀬底、そして水納島(本部町)までゆく。本部間切の地頭代になると健堅大屋子(前健堅親雲上)を名乗る。今帰仁間切や与那城間切、勝連間切のように地頭代は島の名を名乗ってよさそうであるが、『琉球国由来記』(1713年)以後も変わっていない。健堅村の対岸に瀬底村(島)があり、健堅と瀬底島との間は瀬底二仲(シークタナカ)と呼ばれ、港としての機能(停泊地)を果たしている。本部間切の番所は、間切創設当初は伊野波村、後に渡久地村に移動する。

  瀬底島に上間ウェーキ(富農)があり、代々地頭代を出している。上間ウェーキの二世の健堅親雲上(1705〜1779年)が、若い頃(御殿奉公のときか)山内親方の供をして清国に三回も渡り、木彫の土帝君を持ち帰り瀬底に祀ってある。首里王府から「善行家風」(道光11年・・・1831)や「厚徳」(土帝君の祠)(咸豊元年・・・1851)に掲げられていた。画像の土帝君は『瀬底誌』所収より。瀬底に健堅屋(キンキンヤー)の屋号があり、地頭代を出した家が三家ある。

  本部町に土帝君が瀬底と浜元の二カ所にある。瀬底は上間ウェーキの一人が中国(清国)へお供し、浜元の土帝君は具志川ノロ家の男方が唐旅したことと土帝君の導入と関わっているのではないか(現在は本部町辺名地仲村家にノロ辞令書一枚と男方の辞令書二枚(目差・掟)。また今帰仁村越地の土帝君も唐旅をした時に宮里家の先祖が持ち帰ったと伝えられている。それらについて、もう少し資料にあたってみることにする。


  
       瀬底の土帝君          土帝君が安置?されている祠   


 3.羽地間切

羽地間切については、「羽地と地方役人」で詳細な解説がなされているので参照する(「地方役人関連資料」(名護市史資料編5)。各間切とも羽地間切と同等のレベルで論ずることはできないが、間切と両惣地頭との関係を具体的に、また体系的にまとめられた研究である。間切から首里王府や御殿や殿地との関係や間切から中央を照らし返してみることのできる絶好のものである。

  羽地間切の事例を踏まえて、各間切と按司地頭家や親方地頭家、首里王府との関わりを間切(オエカ人・ウェーキ・ノロなど)がどう見ていたのか。時代は変わっても、その目線は今も変わっていないのではないか(変わらないものかもしれない)。

「羽地間切各村内法」に両惣地頭と関わる条文がある。

  第一条 夫地頭掟ハ平常村ヘ出張第一身分ヲ慎万端正道ニ相勤百姓中ノ亀鑑ニ相成
        候様左候百姓迷惑掛候由相聞候ハゝ糾方ノ上頭御役両惣地頭御差図ヲ以テ
        重キ御取扱可仰付事
  第四三条 百姓地及村持ノ地頭地オエカ地・・・・
  第九五条 田地御方両惣地頭ヘモ御案内ノ上当人


 【羽地間切と両惣地頭家】

 ・羽地御殿(按司地頭家)

 ・池城殿内(親方地頭家)

 ・羽地間切の脇地頭家

 「午年羽地按司様御初地入日記」(同治9年:1870)は、解説によると羽地按司が領地に初めてやってきた時の様子を記したものだという。一行の羽地間切での動き、「覚」(日記)を記したのは受け入れ側である。按司様一行をどのようにもてなしたのか。そして、どのような拝所を廻ったのか。羽地間切内の源河と伊佐川を除いた「のろこもい火神」(ノロ殿内)を廻っている。按司家から間切役人への拝領物の進呈、間切から按司家への進上などがある。

  他の間切でも按司や惣地頭などが間切へやってきた時には、同様な対応をしていたのではないか。その事例があるので『琉球国由来記』(1713年)の「両惣地頭」が関わる祭祀の時、首里からやってきた時、間切は同様に対応をする様子が浮かんでくる。

  ・同治9年(1870)9月3日/羽地按司が初めて羽地間切にやってくるのでお迎えに首里に向かう。 
  ・同9月6日/羽地按司の出発の日であるが、5日から6日まで台風のため、出発をひかえる。
  ・同9月8日/羽地按司はじめお連れ衆(総勢16人)が出発し、読谷山間切宇座村で一泊する。   
  ・同9月9日/恩納間切番所に一泊する。
  ・同9月10日/名護番所に一泊する。

  ・同九月十一日/羽地間切に到着。羽地番所で御三献して真喜屋村の宿舎へ。

   羽地按司は川さう仲尾親雲上宅

   御内原(按司様の奥方)は前地頭代川上親雲上宅

   役人はおかいら親川親雲上宅

   親泊筑親雲上はたんはら屋

   間切の役々は仲尾筑登之宅
・同9月12日/(翌日の準備、それと休息日としたのか、動きはとして何も記されていない)

・同9月13日/御立願をする。

 

  @御殿火神(親川村)→A城(親川)→B勢頭神御川(親川村)→C御殿御川
 Dのろ御火神(仲尾村)→Eのろ御火神(真喜屋村)→F御嶽(真喜屋村)

  ・同九月十四日/屋我地御立願

   @のろこもい御火神(我部村)御嶽(我部村)→Bのろこもい御火神(によひ名村)

   Cいりの寺(饒平名村)→D東の寺(饒平名村)済井出村屋我村を巡検される。
・同九月十五日/間切から招待

  ・同9月16日/按司様から真喜屋村の宿舎にさばくり(5人)、惣耕作当・御殿に仕えたもの・
   間切役人・神人(14人)・80歳以上の老人を招待される。

       (拝領物あり)  (進上物あり)

  (9月17日〜25日の間についての記録がないが、その間、拝領物や進上物や間切役人など
   の訪問があったであろう

 ・同9月26日/羽地大川のたから(タガラ)から東宿で帰られる。

        (首里までの到着の記録はない)

御殿と殿内への奉公人(後間切役人へ)

  「地方役人関連資料」(名護市史)に御殿と殿内へ奉公した奉公人がいる。それら奉公人(後の間切役人)と御殿と殿内との関係は、密接な関わりが読み取れる。奉公人の御殿、殿内を崇めたてる気持ちは、平民も同様なものとみられる。まだ確認していないが、出身地の村のウタキなどの拝所の「奉寄進」の香炉に彼らの名があるかもしれない(未確認)。

 
 ・羽地間切川上村の親川仁屋(羽地按司家)
  ・羽地間切仲尾次村の平良仁屋(羽地按司家)
  ・赤平地頭代プスメー(松川仁屋)(羽地間切古我知村)
  ・上里仁屋(羽地間切振慶名村)(池城御殿)
  ・宮里清助(池城殿内)(羽地間切稲嶺村)
  ・親川登嘉(羽地間切川上村)(羽地按司家)

 
                               ▲羽地の親川グスク

 
▲親川グスクにある拝所(池城里主所火神?)
     

 

【羽地間切稲嶺村の真照喜御宮の香炉銘】

  名護市稲嶺(真喜屋村から分離)の真照喜屋御宮の四基の香炉がある。その一基に「奉寄進 明治廿八年九月吉日 上京之時 真喜屋村上地福重」とある。その香炉は上地福重氏が上京した時の寄進だと明確に記したものである。ただ、氏が上京した記録はまだ確認できていない。どう結びつくかはっきりしないが、その頃の資料に羽地間切稲嶺村17番地平民の宮里清助の「御願書」がある。その中に、上京と関わる出来事が確認できる。

 
 ・旧惣地頭亡池城親方東京御使者之時、旅供拝命、上京仕候事 仝(明治)九年
   九月廿七日ヨリ仝十年七月廿日迄
  ・東京博覧会ニ於テ当間切出品総代相勤申候 羽地番所 仝(明治)廿三年九月三日

  ここでは、宮里清助氏(天保12年・・・1853生)が羽地間切役人になる以前、羽地間切惣地頭池城親方家で奉公をしていた。どのような役目をしていたのかをあげると、茶湯詰・側詰・雇詰・宿詰・馬當詰・小鳥当詰・内原詰・手作詰・道具搆・庫理詰・物方取扱搆・惣地頭池城親方上京の時の御供などを勤めている。その後の明治12年に羽地間切屋我村掟となり、西掟・南風掟大掟・首里大屋子・夫地頭・惣山当・惣耕作當代理(明治29年)まで勤めている。殿内や御殿での奉公人の奉公をみると、それは首里で培ったことを地方に伝える電流のような役割を果たしている。

 
▲名護市(羽地間切)稲嶺の真照喜屋御宮         ▲上京の時に寄進した香炉

 
      ▲宮にある四基の香炉     ▲稲嶺村の宮里清助氏の「御願書」(一部)


.名護間切

名護按司地頭は尚円王統9代の尚質王の第三子朝元である。そこを名護御殿と呼び、按司地頭という。朝元は1667(寛文7)年6月14日摩文仁惣地頭職から名護惣地頭職となる。その後、九世の朝忠まで212年間惣地頭職を世襲する。明治12年の廃藩置県で家禄は無くなる。

 名護市の安和に部間権現がある。そこに「道光30年・・・」1850)の石灯籠が二基(対)立っている。安和村は名護間切の村なので名護王子や名護親方の薩州や江戸上リと関わる寄進だと見られるが、直接関わる記事は未確認。ただし、道光30年(1850)には、以下のメンバーが薩州・江戸に派遣されており、部間権現に寄進した人物も同行したに違いない。石灯籠や香炉などの寄進をしたメンバーが按司や親方などに薩州・江戸に御供し、帰ってきて大和情報を首里王府のみでなく、間切や末端の村まで伝達する役目を担っている姿が見え隠れする。その頃名護按司の御側使いをした人物(東江親雲上・比嘉筑登之・仲村渠鍋山(惣耕作など)が安和村にいる。


 ・向氏奥武親方朝昇が年頭の慶賀として派遣される(6月〜翌8月)
 ・尚氏玉川王子朝達が王の即位と典礼の謝賀として正使として薩州・江戸へ
    派遣される(6月〜翌4月)
 ・向氏野村親方朝宜が薩州・江府へ福使として派遣される(6月から翌4月)。
 ・毛氏我謝親雲上盛紀が贊議官として薩州・江戸に派遣される(6月〜翌4月)。
 ・向氏伊是名親雲上が耳目官として薩州に派遣される(8月〜9月)。

  
▲部間権現の石灯籠(左)   ▲右側の石灯籠         ▲部間権現の拝殿と神殿

 ・万暦42年(1615) 馬氏名護親方良豊 薩州へ派遣される。
 ・順治6年(1649) 馬氏名護親方良益 年頭使で派遣されるが台風で破船し死する。
 ・順治9年(1652) 馬氏名護親方良紀 年頭使で薩州へ派遣される。
 ・康煕9年(1670) 尚氏名護王子朝元 薩州へ。直尚貞王即位
 ・康煕21年(1682) 尚氏名護王子朝元 江戸上り(慶賀使)
 ・康煕51年(1712) 馬氏名護親方良直 薩州へ特使として派遣される。(将軍謝恩)
 ・康煕61年(1722) 向氏名護按司朝栄 薩州へ。
 ・乾隆14年(1749) 向氏名護按司朝宜 慶賀使として薩州へ。
 ・乾隆37年(1772)向氏名護按司朝長 薩州へ。
 


6.大宜味間切

大宜味間切は1673年に国頭間切から11カ村、羽地間切から二カ村を分割して創設された間切である。当初、田港間切で番所は田港村に置かれたという。後に大宜味間切と呼ばれ、その頃に番所も大宜味村に移したようである。移された年は不明だが、番所はさらに塩屋村に移している。1731年の『琉球国由来記』では駅(番所)は大宜味邑(村)であるが、『大宜味村史』(通史編)に「1760年(乾隆25)に作成された大宜味間切の絵図には、すでに塩屋村に移転していた」とある。

  そこで、大宜味間切と首里に住む地頭家との関わりがどのようなものだったのか。『大宜味村史』(通史編)にまとめられているので参照する。それらのことを踏まえて大宜味間切から首里に住む地頭家をみると、地頭家と間切とは切り離せない密接な関係にあることがわかる。(国頭間切と両惣地頭家、本部間切と両惣地藤家、恩納間切と両惣地頭家)

大宜味村田港と大宜味のウタキの祠を訪ねる。近くのアタイグヮーで畑仕事をしている方々と言葉を交わしながら、ウタキの中に香炉について伺ってみるが、「たくさんあるね」「字書いてあったかね」のような会話が続く。字(アザ)の方々は香炉に字が書かれていることは意識していない様子である。「ウートートゥ以外は行かんさ」と。祠には21基の香炉が置かれている。文字が一字でも判読できたのは以下の6基である。田港に何故、21基の香炉が奉納(寄進)されているのか。それは1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割して田港間切が創設され、田港間切の同村であることと無縁ではなかろう。

  田港間切が大宜味間切と改称されると番所は大宜味村に移動したとみられる。その大宜味のウタキの祠に11基の香炉が置かれている。番所が大宜味村(ムラ)に移ったことで、香炉の寄進が二カ所になされたのではないかと考えている。大宜味村からさらに塩屋村に番所が移っているので塩屋のウタキにも香炉があるのかどうか。二カ村ほどの数はないのではないか。つまり大宜味番所が置かれていた時期が明治の初期か、それより少し古い時期なのかもしれない。@〜Eの香炉は大宜味村田港のウタキの祠の香炉である。


 

 @「奉寄進 大□□」(年号なし)
 A嘉慶九年甲子 奉寄進 九月日 宮城仁屋 玉城仁屋」と読める。
  嘉慶9年は西暦の1804年である。『中山世譜』(附巻)に大宜味按司や親方と関わる記事は
  見出していない。『家譜』の記事から拾えるかもしれない。
 B「奉寄進 同治年  □□□ 宮城仁屋 西掟 大城□□
  年号の文字の判読が困難であるが、向氏大宜見親方朝救が同治3年に年頭の慶賀で薩州へ
  派遣されている。それに伴うものか。
 C屋古前田村 □□月 根路銘掟 □□□
 D□□□月吉日 宮城仁屋 大城仁屋 □□仁屋 
 E「奉寄進」の文字のみ

 
        @の香炉                  Aの香炉

 
        Bの香炉                Cの香炉

 
      Dの香炉                     Eの香炉

【大宜味村大宜味の御嶽の祠と香炉】

 この祠は1953年に建立されている。中に11基の香炉があるが摩耗したためか文字が読めるのは一基もなかった。そのため、田港の香炉との比較ができないのが残念である。

 
▲1953年に建立された大宜味のウタキの祠   祠の内に11基の香炉がある

 
【大宜味間切と両惣地頭家】
 ・新設された田港間切は摂政羽地王子朝秀(向象賢)と国頭殿内の当主屋嘉比親雲上朝隆朝茲
  に与えられる。
 ・羽地王子朝秀が亡くなると羽地家は田港間切の地頭職をめしあげられる。
 ・1682年に北谷按司朝隆が按司地頭職を賜る。その時に田港間切大宜味間切へ?(番所も)
 ・1695年に屋嘉比村が国頭間切へ。
 ・1719年に国頭間切だった屋嘉比村と親田村と見里村が大宜味間切へ。
 ・1796年(嘉慶1) 大宜見王子朝規 謝恩使(尚温襲封)で江戸り。
 ・按司地頭家は大宜味御殿、親方地頭家は大宜見殿内。
 ・地頭は王府から家禄が与えられる(知行米)と間切の地頭地からの作得米を取得する。
 ・中には知行仕明請地として強制的に耕作させて一定の米を取得するのもいた。
 ・御殿や殿内は盆や正月や祝いのときなど、魚・肉・猪・薪・墨などを間切から調達した。
 ・領地の間切から奉公人(悴者)がおくられた。
 ・奉公人は地頭代の推薦で行われ間切役人層やノロ家の子弟。(御殿奉公・殿内奉公)
 ・殿内や御殿奉公は間切から見ると誇りであり、間切役人へのエリートコースである。
 ・役人層は競って子弟を首里奉公させた。
 ・羽地朝秀の頃、按司家13人、総地頭家12人、脇地頭家五人と制限する(実際は守られ
  ていないという)。
 ・明治12年頃の大宜見御殿、殿内の奉公人は総勢60人に達していた。
 ・奉公人は御殿・殿内で間切役人となる筆算や読書などを学び、また首里・那覇での見
  聞や文物を
間切へ伝える役割を果たしている。
 ・1736年頃の大宜味間切の地頭作得地は田地の計1,167反の内405反(約35%)、畑地の
   計327反の内地頭作得地は94反(約29%)である。
 ・大宜味按司と惣地頭は城村の城巫火神、喜如嘉村の神アシアゲの祭祀と関わる(『琉
  球国由来記』)。
 ・大宜味按司は屋古前田村の田湊巫火神での祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・喜如嘉脇地頭は城巫火神・喜如嘉神アシアゲの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・根路銘脇地頭は田港巫火神の祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・津波脇地頭は津波村神アシアゲの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・根謝銘(上)グスクへの登り口にあるトゥンチニーズ(殿内根所火神)とウドゥンニーズ
  (御殿根所火神)は大宜味按司の御殿、惣地頭の殿地か。それとも田港間切創設以
  前の国頭按司と惣地頭のものか。

【大宜味按司家】(御殿)

 田港間切(後に大宜味間切)の按司地頭職であった羽地朝秀(向象賢)が亡くなると、羽地家は田港間切は削減され、羽地間切のみの領地を世襲する。羽地家を継いだのが北谷家の系統。1679年から四代按司地頭職を継承した。その一族は北谷や大宜味姓を名乗っているようである。御殿は羽地家→北谷家→大宜見家と引き継がれていく。

  北谷家の後を継いだのは大宜見御殿の一族で7代にわたって世襲したという。


【大宜見殿内】
  大宜味間切の総地頭職を継いだのは間切創設当時から明治12年の廃藩置県まで、代々大宜見殿内の一族が世襲する。初代の屋嘉比親雲上朝茲は国頭間切総地頭職であったが、田港(大宜味)間切の創設で大宜味間切の総地頭職となる。

【脇地頭家】
 脇地頭は村を領有する。大宜味間切の脇地頭は津波脇地頭・田港脇地頭・根路銘(慶世村)脇地頭・喜如嘉脇地頭の四名である。脇地頭は首里に住むが、中には村に住み地頭作得地を耕すのもいる。山原の他の間切については、『中山世譜』(附巻)から必要な記事を拾ってみたが、ここでは『中山世譜』の附巻から先に記事を拾い石灯籠や石香炉の銘の確認をしてみることにする。石灯籠と銘のある石香炉から王子や親方などが薩州へ派遣されたことと関係あることがしれた。ここでの狙いは、按司や親方と間切や村との密接な関わりがあったことをみていくための作業である。それが石灯籠や石香炉に登場する「仁屋」クラスの人物達が果たした間切(地方)への影響がどれほどのものだったのか。そのことを明らかにしたいがための作業でもある。

  『大宜味村史』(資料編)に「沖縄県大宜味地方旧慣問答書」がある。その問答から両惣地頭家や脇地頭家と間切役人や奉公人との関係がはっきりみえてくる資料である。


 吏員ノ事
  
一、問 旧地頭ヘ奉公スルノ手続並年限給料ノ有無又ハ掟ヘ採用ノ手続現今ノ人員
     若干ナルヤ
    答 右ハ筆算稽古人ノ内ヨリ文子ヘ採用スルウト同シ手続ニテ奉公セシム年限ハ定
      ルンレト
雖トモ凡ソ三十年位ニテ掟ヘ進ム給料ハナシ間切ヨリ正頭三分七厘三
      毛余ヲ引ク人員ハ両
惣地頭ヘ六十七人ナリ(六十七人は六、七人?)
  一、問 掟ヘ採用ノ手続如何掟ヘ採用方ハ縦令ハ甲年按司地頭ヨリ乙年惣地頭ヨリ両
     年間切ヨリ
順番ヲ以テ人体勤功取調掟ヘ採用ス

 
付届ノ事 
   一、問 文子以上役上リノ時地頭代以下役々ヘ付届並ニ盆暮等役々ヘ付届ノ並ニ
      盆暮等役々
ヘ付届ノ定例如何
      答 役々相互ニ付届ケスル事ナシ
   一、問 文子以上地頭代マデ役上リノ時々両惣地頭其他ヘ付届ノ定例如何
      答 地頭代以下役上リノ時々付届ノ定例左ノ通リ

       両惣地頭へ          地頭代例
         一、肴拾斤ツヽ         一、焼酎二合瓶一対ヅヽ
        両惣地頭嫡子元服次第    同人へ
         一、肴二斤ヅヽ          一、焼酎一合瓶一対ツヽ
        両惣地頭惣聞へ
         一、肴二斤ツヽ

   盆上物例
      両惣地頭へ          間切ヨリ
       一、薪木拾束ツヽ     一、明松三束ツヽ
       一、白菜一斤ツヽ     一、角俣一斤ツヽ
       一、ミミクリ一斤ツヽ    一、辛子一升ツヽ
       一、玉子五十甲ツヽ
      脇地頭へ            村々ヨリ
       一、白菜半斤ツヽ    一、角俣半斤ツヽ
       一、ミヽクリ半斤ツヽ   一、辛子五合ツヽ 


6.国頭間切

  午前中国頭村楚洲での講演がすむと、奥と辺戸に立ち寄る。両字に大きな石灯籠がある。風化し記銘は全く読めない。石灯籠は首里の弁ガ岳にあるような大きなものである。今帰仁グスクにある今帰仁王子(十世宣謨)クラスの人物の寄進ではないか。国頭按司(王子)の誰かではないか。国頭間切から大宜味間切が分割し、根謝銘(上)グスクは国頭間切ではなく、大宜味間切内に入ったため、国頭按司(クラスの人物)は国頭間切内の辺戸や奥、比地に大きな石灯籠を設置したのだろうか。あるいは脇地頭クラス。(以前に整理したような気がしているが?)

 

   国頭村奥のウガミ(神社)にある石灯籠(一基)

 
    国頭村辺戸のウガミにある石灯籠(二基)

・万暦42年(1614) 馬氏国頭按司正彌薩州(国頭左馬守)へ。
・崇禎3年(1614) 向氏国頭親方朝致、薩州(年頭使)へ。
・崇禎5年(1632) 馬氏国頭按司正彌薩州へ(年頭使)。
・崇禎35(1646) 向氏国頭親方朝季、薩州へ。
・順治5年(1648) 馬氏国頭王子正則薩州へ(尚質王即位)。
・順治7年(1650) 向氏国頭親方朝季薩州へ。
・順治9年(1652) 馬氏国頭王子正則薩州へ、大守様に随行して江府へ(将軍家綱公襲封)。
・順治13年(1656) 馬氏国頭王子正則薩州へ。
・康煕3年(1664) 馬氏国頭王子正則薩州へ(年頭使)。
・康煕16年(1687) 馬氏国頭按司正美薩州へ。
・乾隆6年(1741) 向氏国頭親方朝斉 薩州へ。
・乾隆26年(176) 馬氏国頭按司正俸 薩州へ
・乾隆33年(1768) 向氏国頭親雲上朝衛 薩州へ。
・乾隆42年(1777) 向氏国頭親雲上朝衛 薩州へ。
・乾隆48年(1783) 向氏国頭親方朝衛 薩州へ(慶賀使)。
・道光22年(1842) 馬氏国頭按司正秀 薩州へ。
・道光二九年(1849) 国頭王子正秀 薩州へ派遣。(船三隻、運天港へ)
  比地の中の宮とびんの嶽の石灯籠と石香炉
・咸豊9年(1870) 馬氏国頭王子正秀を薩州へ特遣。
  奥のミアゲ森小祠に咸豊9年の香炉あり。
 

旧羽地村・大宜味村・国頭村と動いてみた。大宜味村でシンポがあったので参加。山原各地の動きをしるために。その後、大宜味村の喜如嘉、国頭村の辺土名まで。国頭村辺土名の「世神之宮」の祠にある四基の石香炉が気になってである。以前にも紹介したような記憶があるが、その時は石灯籠や銘のある香炉と按司や王子、あるいは親方や脇地頭、奉公人などの薩州や江戸登りと結びつけるまでには行かなかった。宮城栄昌氏が遭難や漂着船と結びつけようとされていたため、それにつられて見てきたため結論を見出すにまだ至っていなかった。

 王子や親方や按司、脇地頭などの薩州行きとの関係でみると、「世神之宮」の石香炉の三基は『中山世譜』(附巻)の薩州行きの記事と三基(@〜B)とも一致する。仁屋クラスのメンバーは殿内や御殿に奉公していた各村の人物とみている。それは他の資料で紹介する予定。(以下の記事の左側は石香炉、右側は『中山世譜』(附巻)の記事)

 @道光22年寅年 宮里仁屋(1842年)国頭王子正秀が薩州に赴いている。
 
A咸豊9己未 金城仁屋 仲間仁屋馬氏国頭王子正秀が薩州に派遣されている。
 
B咸豊10年九月?宮城仁屋(1860年)辺土名親雲上正蕃が薩州に派遣される。
 
C光緒11乙酉 新門謝敷仁屋(1885:明治18年) 

 
    ▲国頭村辺土名の「世神之宮」      ▲@A宜野湾王

 国頭間切は沖縄本島の最北に位置する間切(現在の国頭村)である。1673年以前は、現在の大宜味村の津波を除いた大半である。古琉球から17世紀半ばまでの北山(山原)の五間切の一つである。国頭間切と首里に住む国頭按司や国頭親方との関係を見ることに。

【国頭間切と両惣地頭家】
 国頭間切と羽地間切の村を分割して大宜味間切が創設される以前の国頭間切の間切番所はどこだったのか。大宜味間切分割後の間切番所は浜村→奥間村へ移動している。分割以前は城村、あるいは根謝銘グスクのある根謝銘村だったのか。それとも、大宜味間切分割以前から根謝銘グスクの麓を流れる屋嘉比川下流域の浜村だったのか。『国頭村史』(宮城栄昌著)で「国頭間切の番所は、1673年の田港間切成立のときまで城村にあったであろう」と。

 国頭按司や国頭親方などを拾ってみる。以下のことを踏まえて国頭按司(琉球)と薩摩との関係もあるが、国頭間切と地頭家との関わりに踏み込めたらと。

国頭御殿(按司地頭家)
(王族以外で明治まで残ったただ一つの按司家) 
 ・国頭按司の始祖は不明。
 ・国頭親方正胤(元祖:馬氏大宗)奥間加治屋の次男
 ・二世国頭親方正鑑父子ともに功積あり。
 ・三世国頭按司正格1537年尚元王が大島遠征中に病気になり正格が身替りとな
  り按司の位を贈られる。
 ・四世国頭按司似竜父の功績で位をもらう。(国頭正教)
 ・五世国頭按司正影
 ・六世国頭按司正弥島津の琉球侵攻後、国質として薩摩に滞在。島津家久から国頭
  左馬頭の
称号を賜り、太刀など武具を与えられ、大阪夏の陣に従軍。戦は終わってい
  たという。1632年に再び年頭使として薩摩に赴いている。
 ・1644年(順治1) 国頭王子正則 謝恩使(尚賢襲封)で江戸上り。
 ・1653年(順治10) 国頭王子正則 慶賀使(家綱襲職)で江戸上り。
 ・七世国頭按司正則島津光久の信頼が厚く薩摩との交渉にあたる。羽地朝秀と対立。
  西森ノ御イベ(下儀保村)は1657年国頭王子正則が島津光久の厄難を消すために創建
  (『琉球国由来記』)。首里の国頭御殿は、その近くにある。異国奉行(廃官:旧記)。
 ・八世新城按司正陳
 ・八世国頭按司正美
 ・国頭王子総大は道光29年(1849)に謝恩で薩州へ赴いている。
 ・国頭按司正全の家録高は250石、物成82石(明治六年)の『琉球藩雑記』)
 ・国頭按司は奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・国頭家には家久からの拝領品(各画・鎧・甲などが保存されていたという(沖縄戦で焼失)。

国頭親方(親方地頭家?国頭殿内)
 ・国頭親方朝致五世国頭親方朝季(三司官)六世国頭親方朝治七世国頭親方朝茲
  →
八世大宜見親方朝楷朝致は中国への進貢の二年一貢を陳情し許される。福州で客死。
 ・国頭親方先元(呉氏大宗:川上家)尚元王代
 ・二世国頭親方先次(尚寧王代に三司官となる)
 ・国頭親雲上憲宜(嘉靖?国頭地頭職兼大島奉行)(蘇氏)
 ・国頭親方景明浦添親方(嘉靖38・・・1559年〜隆慶元年・・・1567まで久米島へ
   流される)(和氏)
 ・国頭親方盛順(嘉靖年間三司官)正徳6年生〜万暦八年没・・・翁姓)(尚元王代に三司官)
 ・国頭親方盛埋(万暦二年・・・1574)国頭間切惣地頭職となる。1580年に三司官となる。
 ・国頭親雲上盛許(豊見城家・・・国頭御殿十六世)
 ・国頭親雲上盛乗(十七世のとき、琉球処分となる)の家録30石、物成9石、作得27石
   (『琉球藩雑記』)。

 ・国頭親方は国頭按司同様奥間村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 ・国頭親方家は首里の大中にある(首里古地図)。
 ・「浦継御門の南のひのもん」の世あすたべ三人の一人に「くにかミの大やくもいしおたるかね」
   (国頭大臣塩太良加禰)(1564年)
 ・浦添城の前の碑文の「くにかミの大やくもい」は国頭按司正教?
 
  1667年羽地朝秀(向象賢)は、按司地頭と惣地頭は年に一日、脇地頭は二日に限って使役させることした。また従来按司地頭と惣地頭は領内から忰者(コモノ)を五、六十人、脇地頭は10人から20人を使用していたのを、按司衆は13人、親方部は12人、以下位階に応じて減らすこととした。御歳暮の礼として三司官などに贈っていた猪二枝やからかみ一手などを禁止した。
 
 
 以前紹介した石香炉と石灯篭である。それらの香炉や石灯篭は国頭按司や国頭親方と関わるものではないかと見ている。ただ、下にある国頭王子正秀が国頭御殿の国頭按司(王子)にみられないが『中山世譜』(附巻六)に「馬氏国頭按司正秀。(道光22・・・1842)7月11日。薩州に到り。9月27日に国に帰る」とあり、その時は按司である。同人は道光29年(1849)に佛夷(フランス)が来たので使いとして薩州に王子として派遣されている。その時の寄進ではないか。船三隻が運天港に到着しているので道光26年(1846)の出来事のことか。馬氏国頭王子正秀は咸豊九年(1859)にも太守公の継統の大典の祝賀で特別に派遣されている
(その頃のことは整理が必要なり)

【国頭村比地の石香炉と石灯籠】
  1849年福寧府に漂着した国頭船には五人が乗り組んでいた。そこで救を受け、また船の修理をしてもらった後、福州を経て同年接貢船とともに帰国した。この国頭船が比地船であったことは、比地の中の宮とびんの嶽にある石灯籠及び石香炉によって知ることができる。・・・正面に国頭王子正秀の銘が刻まれ、横面に道光29年己酉と刻まれていた(現在摩耗し確認困難)。また中の宮の香炉の一基に道光29年9月吉日に神山仁屋と山川仁屋が「奉寄進」している。

  びんの嶽の石香炉の一つに道光29年9月吉日に国頭王子正秀が寄進している(『国頭村史』)。石香炉や大きな石灯籠は首里に住む按司クラスと関係がある。その典型的な石灯籠は今帰仁グスク内のものである。


 
 

 


  
   【国頭村辺戸の石灯篭と石の香炉】


 

        【国頭村奥の石灯篭と石の香炉


7.久志間切

  以前、「午年羽地按司様御初地入日記」(同治9年…1870)について触れたことがある。それは按司の間切への初入りであった。按司の事例としてまだ一例しか目にしていない。今回、地頭(脇地頭)の「初地入り」を三例、それは高里親雲上(久志間切辺野古村)の三例である。『那覇市史』近世那覇関係資料(古文書編)所収の資料で「福地家文書」の日記(道光28年戊申卯月吉日・・・善継)に含まれている。これらの事例から首里・那覇に住む按司や脇地頭などの士族と家録や領地とする間切や村との関わりが具体的に見えてくる。各地への「初地入」の一般的な様子を描きだすことができる事例である(詳細は別稿でまとめることにする。名護市史本編9 民俗Vでも触れている)。

【地頭地へ初入】(咸豊5年9月16日…1855)(脇地頭の名代) 

  地頭地は初入したのは嫡子唯延の次男唯昌と外孫の宮里の子供一人を遣わされている。唯延は私(高里親雲上)の名代として派遣されている。金武間切を通り「久志同村ニ而」とあるが、それは久志間切辺野古村を指しているとみられる。もし、惣地頭であれば、久志間切同村(久志村)である。

  到着した翌18日午前に十時頃唯延(名代)は色衣冠、唯昌宮里も色着を来て、村からも頭々が色衣冠で、神人二人、根人三人、掟や頭々が三、四人を召し連れて地頭火の神、根神火の神、御嶽の三ケ所を拝む。美花や御五水、線香を供え、立願する。

  到着した日には、うすていく(ウスデーク)や躍狂言などで歓迎された。それは先例のようであるが、その節は行われなかったようである。そこで行われた狂言は大和の狂言ではないであろう。もしかしたら、組踊なのかもしれない。

【地頭地へ初入】(咸豊八年十二月二七日:1858)(脇地頭) 

  一 白米四升五合先  一 焼酎二沸  一 線香五結
    右者私事、其元地頭相続被仰付置候付而ハ追々初地入いたし、地頭火神并根
   神并根神火之神
御嶽三ケ所参詣可致立願候得共、先其内神入并頭々共ニ而
   申上、分ケ掛ほさいの御願相立
首尾可被申出候、尤焼酎代二十貫文并線香
   者、爰元ニ而まつ金城いゆ金城両人
相渡置候間、米者当年作得米之内
   より差出跡以外引合可致候、此段致問合候、以上
   十二月廿七日        高里親雲上
     辺野古村
       掟 頭々


【地頭所手札宗門御改并初入】(咸豊九年八月十三日:・1859)(惣地頭名代)

  この年は地頭地入りと手札宗門改めを兼ねての久志間切入りである。ここでも「久志同村蔵の前ニ而」とあるが、久志間切辺野古村でのことである。


【久志親方や久志親雲上などの薩州ゆき】(『中山世譜』(附巻より拾う)

 ・康煕13年(1674)顧氏久志親方助豊は年頭使として6月13日薩州に派遣され
  翌年十月に帰国する。
 ・康煕22年(1683)顧氏久志親方助豊は年頭使として5月11日薩州に派遣され翌年
  十一月に帰国する。
 ・康煕55年(1716)金氏久志親方安当當は婚礼の賀で6月1日薩州へ、11月9日
  に帰国する。
 ・乾隆37年(1772)金氏久志親雲上安執が6月23日に薩州へ派遣され、翌1月12日
  帰国する。
 ・乾隆46年(1781)金氏久志親雲上安執が5月25日に耳目官として薩州へ、翌2月
  27日帰国する。
 ・嘉慶11年(1806)金氏久志親雲上安昌が讃議官として薩州、江戸に派遣される。
 

【久 志】
 ・康煕13年(1674) 顧氏久志親方助豊 年頭使として薩州へ派遣
 ・康煕22年(1683) 顧氏久志親方助豊 薩州へ。
 ・康煕55年(1716) 金氏久志親方安當 薩州へ派遣される。
 ・乾隆46年(1781) 金氏久志親雲上安執 薩州へ(進貢使帰国のことで)
 ・嘉慶11年(1806) 金氏久志親雲上安昌 薩州、江戸へ(尚成王の薨)
 


8.金武間切

【金 武】
 ・天啓7年(1627) 尚氏金武王子朝貞 家久公の賀で薩州へ派遣さえる。
 ・崇禎2年(1629) 尚氏金武王子朝貞 謝恩で薩州へ派遣される。
 ・崇禎7年(1634) 尚氏金武王子朝貞 年頭使で薩州へ派遣される。
 ・崇禎11年(1638) 尚氏金武王子朝貞 薩州へ
 ・崇禎16年(1639) 尚氏金武王子朝貞 家綱公(将軍長子)誕生で薩州・江戸へ。
 ・順治9年(1652) 金武親方安實 薩州、江戸へ
 ・康煕9年〈1670) 金武王子朝興 正使として薩州、江戸へ派遣される(1671年?
                謝恩使)。
 ・康煕27年(1688) 尚氏金武王子朝興 薩州へ。病で卒する。
 ・康煕52年(1713) 尚氏金武王子朝佑 尚敬王即位で正史として薩州、江戸へ
              派遣される。
 ・康煕53年(1714) 向氏金武王子朝祐 徳川吉宗襲封(謝恩使)。
 ・乾隆52年(1787) 向氏今帰仁朝賞 大守様元服の賀で薩州へ。
 ・道光20年(1840) 章氏金武親雲上正孟 薩州へ。
 ・道光26年(1846) 章氏金武親方正孟 年頭慶賀で薩州へ。
 ・同治4年(1865) 馬氏金武親方良智 (闘病のため正議大夫を派遣))


9.恩納間切

恩納間切は1674年の創設である。金武間切と読谷山間切から分割した村々からなる。『恩納村誌』(昭和五五年)で故仲松先生は間切の税制について詳細な報告をなされているので参照する。近近の税制から恩納間切と首里王府、恩納間切や村と恩納御殿家と惣地頭家との関わりがより見えてきそうである。(国頭間切と両惣地頭家大宜味間切と両惣地頭家本部間切と両惣地頭家

  ・税は村(ムラ)に課せられていて、個人には課されていなかった。
  ・税の対象は基本的に田畑であるが、外に特別税というのがある。
  ・田畑、他の耕地は村に貸与。
  ・村は貸与された田畑を人数に応じて各家に配分(地割)する。
  ・未納の家があった場合は、村が責任を負う。
  ・間切での土地(田畑)での産物がどれだけの額算出できるか調べ、それに基づいて課税。
  ・税は米に換算して、米何石に相当する産物があるか。「石高」で表す。
  ・税の主なものは米・麦・粟・豆など。砂糖・織物・ウッチンなど。
  ・恩納間切の場合は米・麦・粟・豆、それにウッチンが主な産物であった。
  ・恩納間切のウッチンは貢税で島津への王府からの貢納品(染色・薬用)。
  ・納税の期限
  ・麦の上納は旧三月から四月中。国頭方・久米島方は海路なので四月から六月中。
  ・米の上納は旧六月から八月中。国頭方・久米方は六月から十月中。
  ・大豆の上納は十月から十一月中。国頭方・久米方は十二月中。
  ・恩納間切は国頭方なので陸路で首里・那覇への運送は困難。海上輸送となり、名護間切の
   湖辺底へ。湖辺底港から那覇・泊へ。
  ・運送は山原船(マーラン船)で、各村にもマーラン船を持ち、村船という。

     
【恩納間切と両惣地頭家】

【恩納間切と按司地頭家】
 ・創設当時の按司地頭は大里王子朝亮、恩納間切惣地頭は佐渡山親方安治である。
 ・惣地頭は恩納村の「城内之殿」と恩納村の神アシアゲでの祭祀と関わる
    (『琉球国由来記』)。
 ・恩納神アサギ近く(現公民館)にあった上間家屋敷内にある火神は按司地頭火神と
  総地頭火神だという。

【佐渡山惣地頭家】(首里)

 
佐渡山家が代々惣地頭職を継承している。
 佐渡山惣地頭は恩納間切を領地とし、間切に地頭地(田畑)として持っていた。
 間切惣地頭地は間切の人に耕作させ、収穫物の三分の一を間切へ、三分の二から税を引いた残りが自分のもの。自己の耕作地から手に入るものを「作得」という。明治六年の佐渡山親雲上の作得は
二一石余である。

  恩納間切惣地頭の佐渡山家は恩納間切に仕明地を持っていた。(恩納グスク下、グランチャマ、
  馬場の下印場、シルジ枝、屋下の下り下、太田のクビリ、安富祖の川沿いなど。
  惣地頭は恩納村の「城内之殿」と恩納村の神アシアゲでの祭祀と関わる(『琉球国由来記』)。
 

 
   恩納の神アサギ        現公民館の側にある拝所

【恩納間切の脇地頭】

・『琉球国由来記』(1713年)に見える脇地頭は以下の六名。
 
  真栄田・山田・富着(富着・谷茶・前兼久・仲泊)・瀬良垣・屋富祖・名嘉真

 ・明治六年の脇地頭は、以下の
@Cの四名。
  
@名嘉真筑登之(名嘉真村作得二石余)(那覇出身の嘉手納姓、地頭地は伊武部の
   入口付近)。
脇地頭は神アシアゲの祭祀と関わる。
  
A真栄田親雲上(真栄田村作得三石余)(那覇久米村出身)。脇地頭は神シアゲでの
   祭祀と関わる。
  
B山田(親雲上か)(山田村作得九石余)(倉波に居住、脇地頭火神は旧神アサギの
    ところ)。読谷
山(山田)村神アシアゲでの祭祀と関わる。
  
C安富祖親雲上(安富祖村作得六石余)。脇地頭は神アシアゲでの祭祀と関わる。
  ・富着脇地頭火神は神アサギの側にある。富着脇地頭は富着村神アシアゲの祭祀
   と関わる。
  ・瀬良垣脇地頭は不明、脇地頭火神が神アサギの側に残っていたという。瀬良垣脇
   地頭は神アシアゲの祭祀と関わる。
  

 
  名嘉真の脇地頭火神の祠  富着の脇地頭火神の祠 

 各地の石灯籠や香炉の銘の調査は、「北山(山原)の歴史と文化」の「山原の各間切と御殿・殿内」へと結びつくものである。その調査は、もう少し続く。昨日は恩納村の谷茶までいく。谷茶の御嶽の中の祠に銘のある香炉がある。年号は彫られていないが、「奉寄進 □□ 仲村渠にや」の香炉が二基ある。もう一基にも同様な銘が書かれているが判読が困難である。恩納村については、前に少し触れているが、重複する部分もあるが、整理してみることに。

  恩納間切の創設1673年である。金武間切と読谷山間切を分割して創設される。恩納間切が創設されたとき、大里王子朝亮と佐渡山親方安治に領地として恩納間切が与えられた。その後、佐渡山親方家が廃藩置県まで恩納間切と密接に関っている。恩納村や安富祖村に佐渡山家の仕明地が多くあった。

  佐渡山殿内は恩納間切の総地頭をだした家である。その佐渡山家は仕明地を多く持っていたようである。『恩納村誌』を見ると、恩納グスクの下、グランチャマの砂質地一帯の畑、南恩納の馬場の下印場一帯、シルジ、屋嘉の下り口、太田のクビリ、安富祖の川沿いの水田、字名嘉真にあったという。


 
      覚
  恩納村帳内の原に有之候佐渡山親雲上面付三万三千四百二十三坪七分之内
  潟二万八千二百三十六坪七分・・・

 (佐渡山殿内の土地を手放したのは佐渡山安嵩が中国に行く準備のため、借金を負うようになった。その目的が達せず多くの土地を手放すことになった。

 
  恩納村谷茶(後方の森がウタキ)       ウタキの中にある祠

 
     祠の中にある銘のある石香炉


10.伊江島

伊江島は間切ではなく島である。本島の間切同様地頭代など間切役人がいる。

『琉球国由来記』(1713年)の「諸間切諸島夫地頭理ヲエカ人之事」の伊江島に、
    
西江大屋子(地頭代)東江大屋子・大城大屋子(三員夫地頭)
    首里大屋子・大掟・東江掟・西江掟・東江目指・西江目指・大掟(七員赤冠也)

    謝花掟・上地掟・今帰仁掟・川平掟(四員青冠也)

とある。伊江島に謝花と今帰仁のつく掟がいる。明治十三年の伊江島には東江村・西江村・川平村の三つの村が登場。明治八年に分村したようだ。東江上村・東江前村・西江上村・西江前村・川平村の五つの村となる。いずれにしろ、謝花と今帰仁は伊江島では村名として登場しない。本部間切の謝花と今帰仁間切の今帰仁の名の掟が置かれたのか。どなたか、そのことについてすでに説明されているかもしれない。少し調べてみたい。『琉球国由来記』(一七一三年)で今帰仁間切の謝名村のことを平田村と出てくる事例はいくつかある。謝名の場合の平田村=謝名村の平田は脇地頭の姓である。村との関わり、あるいは脇地頭でありながら村に貢献したことで脇地頭の姓が掟名となったとも考えられる。明治二八年の伊江島今帰仁掟の辞令書がある(『伊江村史』(下巻所収)。

  伊江島の場合はどうだろうか。首里に住む謝花と今帰仁を名乗る脇地頭が島に貢献して伊江島にない村名の役職が置かれたのだろうか。それとは別の理由があって本部間切と今帰仁間切の村名の掟を置いたのか。まだ結論は見出していない。平凡社の『沖縄県の地名』で伊江島の歴史的なことを分担したことがある。その時も、答えは出せなかったような。すっかり忘れている。

  伊江島の夫地頭の一人に大城大屋子がいる。伊江島に大城村がないが大城地根所火神があり、そこは大城大屋子を出した家なのであろう。村名のない今帰仁掟と謝花掟も同様な理由なのかもしれない。それにしても『琉球国由来記』(1713年)に登場する伊江島の十七の火神は、集落(マキヨ・マキ規模クラス)の展開と関わっているのではないか。そして「根所」は奄美大島のトネヤと同様なも
のではないか。

 @エ地ノ根所火神  A本十三里地根所火神  B徳十三里地火神 Cセド神但大ノロ火神
   (公儀御祈願所)   
D東ノロ火神(公儀御祈願所)  E佐辺ノロ火神(公儀御祈願所) 
 
F佐辺地根所火神(公儀御祈願所) G玉城知根所火神  H中ノロ火神(公儀御祈願所)
 
I前スカ地根所火神  J島中地根所火神  K仲村渠地根所火神  
 
L大水ノロ火神(公儀御祈願所) M伊是名大水地根所火神 Nセマタ地根所火神
 
O大城地根所火神 P石那覇ノ火神 

  伊江島の原石の採拓とノロについての調査。伊江島に渡る前に少し予備知識でも。伊江島にある謝花掟と今帰仁掟は気になる。再び挑戦してみるか。


 伊江島今帰仁掟の辞令書(明治28年) 


11.伊平屋島