本部町瀬底島(
ムラ・シマ講座)(平成23年)配布資料 
 
 

 本部町瀬底島は現在一字ですが、瀬底村と石嘉波村が明治36年に両村は統合し瀬底村となる。行政上、一つの村(ムラ:アザ)となっているが、祭祀は別々に行っている。石嘉波村は1736年に本島側(健堅と崎本部)から瀬底島に移動してきた村。そこでは移動村と合併村の姿がテーマとなる! 

 瀬底村側には集落の古い形態が今でもみることができる。グスク(ウタキ)を背に、近くノロドゥンチや旧家の屋敷跡が残り、集落内に根家(ニーヤ)の大城家があり、そこに神アサギやニガミヤーの火神の祠があり、鳥居をつくり神社化されている。 

瀬底島の概要

・瀬底島は本部町にある。
・1471年の『海東諸国紀』に「世々久」と見える。方言でシークという。
・1469年、第一尚氏が滅びると第一監守も崩壊する。その一人が瀬底島に逃れ、ムラの草分けと
 なる(伝承:ウフジュク)
・遠見台がある。伊江島→瀬底島→座喜味→首里というコースとなる。
・1666年に今帰仁間切を二つに分割する。今帰仁間切と本部間切が創設される。
 瀬底島は本部間切の内となる。
・瀬底島には瀬底と石嘉波の二つのムラからなる。
・石嘉波は1736年に崎本部と健堅の間から瀬底島に移動させられる。
・健堅側と瀬底島には瀬底大橋が1985年(昭和60年)に架かる。全長762m。
 橋が架かる以前は、対岸の本部港から1日10往復の定期船が就航。
 大雨や台風、異常気象時には安全のために、通行規制(風速25m以上で通行止め)となる。
・瀬底のウフジュクは第一監守が崩壊したとき逃げのびた人物で島にきて草分けとなる。
・瀬底の神アサギは大底(ウフジュク:大城家)の屋敷内にある。
・ウフジュクはグスク近くから移動してくる。
・ウフジュクの側の広場で豊年祭が行われる。
・瀬底には、瀬底ノロさんがいた。屋敷跡がヌルルンチである。
・旧屋敷跡に祠をつくり火神や位牌が祀ってある。
・首里に向かっての遥拝所がいくつも置かれる(門中ごと)。
・ウチグスク(内城)があるが、別名:東の御嶽(アガリヌウタキ)とも呼ぶ。
・ウチグスクは岩(イビ)の前に香炉のみであったが、コンクリートの祠と鳥居がつくられる。(1991年)。
・瀬底には七御嶽がある。

 
▲本部富士から望む瀬底島           ▲海からの瀬底大橋 

平成23年6月11日(土)のムラ・シマ巡見

 午前9時に集合
   ↓出席の確認
   ↓瀬底島の概要説明
   ↓(瀬底島へバスで出発)
   ↓石嘉波村の拝所(旧家・神アサギ・根所・タキサン(ウタキ)
   ↓土帝君・瀬底ウェーキ跡
   ↓綱引き・公民館
   ↓ウチマンモー(シニグ・ウシデーク・綱引きなど)
   ↓大城家(ウフジュク:大底)・神アサギ・アサギミャー(豊年祭の舞台)
   ↓瀬底ヌルルンチ
   ↓ウチグスク
   ↓チンガー・ケーガー
   ↓石嘉波ガー
   ↓ウフンニ(遠見台跡)
   ↓ティランニー(洞窟)
   ↓石嘉波村の故地(健堅~崎本部)
   ↓(13:00 解散予定) 

☆石嘉波村の拝所

 元は健見堅村に隣接した石嘉波(現石川)にあったが、蔡温の山林政策で、尚敬王代の乾隆元年(1736)瀬底島に村移。明治36年(1903)石嘉波村が瀬底村に合併。

 石嘉波村の御嶽・タキサンも旧石嘉波の故地へのお通し御嶽であり、祭祀も現在に至るまで瀬底村とは別々に行われている。 

・御嶽(タキサン)
 小高い森一帯が、石嘉波村の御嶽である。ここではタキサンという。森の中にコンクリートの祠があり(昭和3年戌辰旧七月十二日建立)西側入口に鳥居がある。

・根所
 タキサンからほど近い場所に石嘉波村の根所がある。祠があり、火神である。 

・神アサギ
 柱はコンクリートで屋根はセメント瓦である。
 
・旧家
 石嘉波では最も大きな門中は「金城門中」とされている。神行事などの祭祀もこの門中が中心となって行っている。
 尚敬王代の1736年、瀬底に移り住んだ当初からの祖先であり、古い歴史をもっているとされる。 

☆土帝君と瀬底ウェーキ跡
・瀬底の土帝君(トゥーティンクー)
 中国起源の土地・農耕の神様である。瀬底の土帝君は1712年に上間家(瀬底ウェーキ)で二代目健堅ペーチンという人が中国に渡った時に木像を持ち帰って祀ったのがはじまりだといわれている。

 1997年(平成9年)に国指定の重要文化財になった。ここの他にも今帰仁や国頭、読谷、西原など沖縄のいたるところに土帝君はあるが、瀬底は礼拝所として最大の規模をもつ。

 ちなみに、健堅ペーチンが中国から持ち帰った木像は沖縄戦で米兵に持ち去られ、現在あるのは上間家が昭和32年頃に那覇の彫師に造らせたものだそう。

毎年旧暦の2月2日に豊年祈願の祭りが行われ、瀬底では「土帝君正月」とよばれている。旧暦2月2日は中国では土帝君の誕生日とされている。上間一門で祀ってきたが、大正の頃からは瀬底ムラで祀るようになる。

土帝君の礼拝所広場では、豊年祭の道ジュネーの準備や控え場として使用されることもある。この広場を囲うのは琉球石灰岩(サンゴ石)の石積みで、建設年代は不明、石組みなどの状態から推測すると18世紀頃の造営と考えられる。

ここは神社形式となっており、手前に拝殿、その奥に本殿がありそこに木像が祀られている。

  
▲瀬底島の土帝君                ▲土帝君の祠を覗きこむ 

・瀬底ウェーキ跡

 瀬底ウェーキとよばれる、上間家の屋敷跡がある。瀬底ウェーキはムラの豪農で代々本部間切の地頭代役を勤めた。瀬底ウェーキの民話・伝承の聴取は多い。

 瀬底ウェーキの先祖は、一代目は「鍛冶屋(カンジャヤー)」であった。島の北西、海岸近くにカンジャーガマがあり、そこで鍛冶屋をしていたとされ、一門の拝所となっている。また、二代目からは地頭代をしている。

 海の切り石で積まれた、立派な屋敷囲い(一部)にかつての豪農であった面影がうかがえる。

  
▲瀬底ウェーキの立派なヒンプン     ▲瀬底ウェーキの立派な石垣

☆ウチマン毛(モー)(綱引き、豊年祭)

 綱引きは南北にわかれて行われる。瀬底の豊年祭は4年マーイである。豊年祭のプログラムには組踊があり、出演者は全員男性で演じられる。

 ウチマン毛の広場では、棒衆による「潮巻(スーマ)き」が行われる。この潮巻きは瀬底の独特のもので、別名「チクラ巻き」とも言われる。これは小魚のチクラが群れをなして渦を巻いたり、離れたりするのによく似ているところから、この名がつけられたとされる。

 この潮巻きは、他では見られないもので、今からおよそ70年あまり前の大正初年に仲宗根嘉助氏(故人・マーヌクヮスメー)によって、那覇の泊から習って伝えられ、大正5年の村踊りで行われ以後受け継がれ、現在にいたっているものである。また、小・中・高校の男生徒への伝統芸能の継承につとめている。

 ウチマン毛では、ウシデークも行われる。また、南側には慰霊塔や拝所(若狭松)などがある。 

☆大城家(ウフジュク)と神アサギと根火神

・大城家(ウフジュク)

1469年、第一尚氏が滅びると第一監守も崩壊する。その一人が瀬底島に逃れ、ムラの草分けとなる。
大城家(ウフジュク:大底)はグスク近くから移動してくる。大城家側の広場で豊年祭が行われる。
瀬底の神アサギは、大城家の屋敷内にある。(屋敷内に神アサギがあるのは、中南部形式である!)


▲アサギ、根火神の鳥居 

・神アサギ

 アサギ内の東側にタモト木の丸太がおかれている。祈願の際はタモト木の上に線香を供える。アサギの屋根裏には獅子が保管されている。

 現アサギは戦後造り直したもので、セメント瓦屋根である。戦前のアサギは茅葺きで昭和19年10月10日の米軍空襲(十・十空襲)で獅子と共に焼失した。

  
▲屋敷内にある神アサギ            ▲タモト木は香炉かわりにも・・・ 


▲アサギの天井には獅子が保管

・根火神

 神アサギの北側に根所と呼ばれる祠がある。根火神が祀られている。根所である大城家の東側にあることから、大底(大城氏)門中の火神であろうと思われる。瀬底のほとんどの祭祀で拝まれる。

☆瀬底ヌルルンチ

 ウチグスク入口にある、瀬底ノロの古い時代の住居跡。ノロ家は何度か移動するが一番古い場所に火神の祠が設置してある。ここも七御嶽のひとつとして数えられる。

瀬底ノロは、瀬底・石嘉波・健堅・辺名地を管轄。ノロの勾玉と簪は昭和52年に本部町指定有形文化財として指定されている。

 ほとんどの祭祀で拝まれる。戦前は「お宮」とも呼ばれ、出征兵士を送る際の祈願、旅達の祈願、帰郷した時のお礼(御願解き)、入学祈願などにも拝まれた。「琉球国由来記」に「瀬底村、瀬底巫火神」とある。

  
▲ヌルルンチ鳥居と祠       ▲「のろ火の神」の碑

☆ウチグスク(内城)

 ウチグスクは東のウタキ(アガリヌウタキ)とも呼ばれ、ウフジュクの一番古い住居があったという。1991年に祠が建てられ、火神が祀られている。祠の後ろの岩がウタキのイビである。

 今のウフジュク(大城家)は三度めの移動場所である。二番目の屋敷地に火神を祀った祠がある。イビの後方に初代(草分け)の内城按司の墓がつくられている。鳥居と祠は1991年に建立。

  
▲ウチグスクの鳥居       ▲ウチグスク祠

☆チンガー・ケーガー

 瀬底で最も高いウンバーリの西方の低地にケーガーがある。周辺の森に降った雨が溜まった池で、ケーガーは飲料水を貯める。以前は飲料用水として使用されていたが、現在は農業用水として利用されている。

後方のモリはウタキではないかと思われる。その前に祠があり、3基の香炉が置かれている。昭和4年に南洋やサイパンに移住した、瀬底の方々の送金で建立、又は整備したものであろうと思われる。

 三日月、星、太陽が描かれており、三ツ星は異国からでも見えるので、故郷を偲んで描いたものであろう。垂直に掘り込み、石積みのチンガー(掘り込み井戸)がある。

  
▲ケーガー全景            ▲整備されたケーガー一部 

  
▲整備されたチンガー      ▲チンガーのある森の拝所 

☆石嘉波ガー

 石嘉波村の拝井泉(カー・ハー)は、瀬底村のケーガーの北側にあり、ウンバーリーの山に降った雨水をためる溜め池である。ここは石嘉波村が瀬底島に移ってからの拝井泉であり、その他に現在も故地の拝井泉にハー御願をする。 

☆ウフンニ(遠見台跡)

 ウフンニ又はウフニヤは島で最も高い場所にある拝所である。祠は浄水場近くにあり、旧正月ウフニヤ御願にウフシヌヘーと区長が年頭に当たって村人の健康と村落の繁栄を祈願する。

 かつてウフニヤには、日本や中国への貿易船の出入りを見守るトゥーミ(遠見番)の職がおかれ、伊江から入船合図の狼煙が上がるとウフニヤでも烽火をあげて読谷村座喜味に伝えたという。島では今も「遠見屋」(トゥミヤー)の屋号が残っている。

☆ティランニー(洞窟)

 深さ5~6m程の竪穴の洞窟があり、そこがティランニーとよばれる拝所である。以前はこの洞窟の中で祭事が行われていたが、現在は上の方に小さな祠をつくり「遙拝(お通し)」をする。旧5、9、11月のティランニーの行事とあり、穀物の豊作祈願としての祭祀が行われる。かつては梯子を使い、洞窟に下りて祭祀儀礼を行っていたようである。

☆石嘉波村の故地(健堅~崎本部)

 尚敬王代の乾隆元年(1736年)の三司官である蔡温が諸国の山林を巡見したさい、健堅や崎本部・石嘉波・辺名地などの諸村が一ヵ所に集中しているため農地が少なく、焼畑に頼る状態であった。そのころ健堅村は瀬底島と関係が強かったと思われ、瀬底島にも耕地を持っていたという。そこで、蔡温は人口が少なく、これら諸村や伊野波村の耕地が混在していた瀬底島に健堅村に隣接していた石嘉波村を移し、同村旧地は健堅村と崎本部村に分け与えられたという。そのとき、健堅村が所有する瀬底島の土地と石嘉波村の土地が交換された可能性もあるとされている。