本部町嘉津宇(2003年7月19日) トップへ
本部町嘉津宇は移動してきた村(ムラ)である。村があった元の場所は伊豆味の古嘉津宇である。『琉球国由来記』(1713年)の頃は、移動する前で嘉津宇村に嘉津宇嶽・小嶽・ソノヒヤン嶽の三つの御嶽を持っていた。嘉津宇嶽は嘉津宇岳にある御嶽のことだろうか。その頃嘉津宇村を管轄するノロは天底ノロである。
1719年に伊豆味村近くにあった天底村が今帰仁間切地内に移動している。その理由が旱魃による飢饉であった。その時、天底村の人たちは具志堅村に働きに出る。それでも村の復興ができず首里王府に願い出て村移動をしている。嘉津宇村も同様な理由で、具志堅村地内に移動したのかもしれない(嘉津宇村の移動の資料は未確認)。
嘉津宇村は具志堅村地内に移動し、明治36年に具志堅村に併合され、昭和16年に分離する。明治15年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』に「嘉津宇村 根神一人」とあり、そして拝所は「嘉津宇御嶽・神アサギ・ノロ殿内火神」の三ヶ所あげてある。
嘉津宇村の移動をみると、村が移動すると移動先で御嶽や神アサギを新しくつくっている。天底村の移動も同様なことがいえる。嘉津宇村の「ノロ殿内火神所」については、もう少し調査する必要がありそうだ。それは嘉津宇の神アサギの側にあるウドゥンを指しているのかもしれないが、天底ノロがある時期、嘉津宇村から出ていた可能性もある。
嘉津宇村は明治36年に具志堅村に統合されるが、御嶽や神アサギなど祭祀に関わることは一つにしないという原則はここでも貫かれている。それと、村が移動した時、御嶽は高い所に向かって置き、あまり故地にこだわらないということ。村移動のとき神アサギは集落と共に移動する傾向にある(集落移動のときは、神アサギは動かさない傾向にある)。
具志堅を中心とした企画展を予定しているが、嘉津宇村の具志堅村への合併、分離があるので歴史で扱うことになるので、少しだけ触れておいた。
事務所(公民館)は平成12年にスラブの建物に建てかえられた。現在の神アサギはセメント瓦葺きである。トゥンは昭和11年に竣工されている。トゥンの横に「嘉津宇神社改修記念 昭和十一年丙子六月二十五日」と刻まれている。
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▲嘉津宇の事務所(ムラヤー・公民館) ▲神アサギとウドゥン(昭和30年頃)
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▲嘉津宇の神アサギとトゥン