大浦崎 相川徳祐(新城徳祐)
七月二一日夕刻、余は捕らえられの身となった。
海軍飛行中尉渡辺芳雄をかくまった理由によって、遂に米軍の知る所となり大浦崎なる米軍政府へ引かれて数日間尋問をされ、其の挙句く一晩泊置かれ、翌早朝宜野座なる情報本部へ移され数日間の後、宜野座大久保にある金網に入れられた。
爾来朝夕二食に空腹をかかへて開放になることを祈ったが、益々苦しさが増すばかりにて、□やせ細り我手なり足かと思うばかり骨と皮とにやっと息を通わせている。夜ともなれば、我特攻隊の敵状態偵察に手に汗を握り、かすかなる爆音に無事を祈るのであった。
かくして一月余り、八月二五日裁判する事に決まり、大浦崎本部へ移され家族並に衆人多数傍聴の前にて裁かれる事とは思ったが、既に罪状決して居ると思え、芝居じみた裁判を一週間続け八月三一日其れぞれ刑が決まり、余は九月一日より翌年五月三十日まで九ヶ月間禁錮の刑を言い渡され。思えは余等の行為は日本人として当然の事と思うのであるが、敵軍からすれば矢張り罪人であり、敵対行動であるが、それにしても、余りに重い罪刑である。然りに尚女子等も余と同じ刑とは気の毒の至りである。
判決に依り而来大浦崎なる金網へ入れられる事となり家族の面会及び差し入れ等も許され不自由ながらも楽な生活を送る事が出来た。
同志男十名、女四名は程国情を論じ或いは世界の情勢を語り合い、尚お選米国の非をならし、時としてはトランプに興を乗せ余は初詩の□を得る。
□くされる内に一ヶ月すぎ十月と成りぬれば早や朝夕肌寒く毛布の請求すれど何らの□りとなき一同がこち居る内、伊江は久志に移動、本部、今帰仁は郷里へ移動する事と成ったれど何時とも分り得ずらくて只民心の動揺するのみなりが、十一月の声を聞くや□に移動開始され家族も郷里へ帰る事となりたり。然るに我等は如何になるか定めつかず依って警察を通じて幾回となく交渉せるも何等の便りなく、遂に意を決して逃亡せる者六名、二日後には女二人となりたれど開放の報あるによってて我等三人は最後まで残りて開放となり、其の報を彼等に知らさんとせるも遂に開放放とならず
然も久志へ移転とて米憲兵のトラック待ち来たりて引去らんとす。今やこれまでと我も直ちに逃げ去れど逃げ遅れて久志へ連れ去られし二人の女共の気の毒さよ。其の日十一月八日余は移動のトラックに乗せて貰うことにして遂に此処まで逃げ伸びたり、然るに尚巡査の由にて部落へ落ちつかれざる故、一泊の後翌九日は津波へ行き其の処へ宿泊し我は謝名なる同志と打ち合せて今後の身の振り方を決める可く一夜を語り、世を避ける可山奥の苔屋に老人と活らす事とせり、時に十一月十一日日曜なりき。
翌十二日朝老母(彼も米軍の為めに家は焼かれ一人息子を戦地へ送り生死の程も知らず只朝夕息子の生還を祈りつつ細々と、やっと彼の老爺の家に寝起きし致し居りたり)沸かす茶を□りて過ぎ越し方を思い浮かべながらペンを走らせたり。
午前九時頃初めての山道を迂回して謝名へ向かう。鬱蒼たる枝の下道を幾度となく行き過ぎ又後戻りしつつ、やっと謝名林道を探しあて、ひた下りに下りて昼頃暫かにして着くことを得た。側の小屋には矢張り同志が隠れ居り明日の事を約して午後五時頃我が小屋へと急ぐ。近道をと思へど山道の事とて
新城徳祐氏の伊江島メモ(昭和19年5月23日~10月10日メモ)