2015年5月の調査記録調査記録 

        
  
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2015年5月30日(土)

 5月予定の講座・講演など、どうにか終えることができました。緊張の連続でした。ほっと一息。今日は頭の中は抜け殻状態。来客や問合せがありますがボ~・・・・。

 ①北山の滅亡と宝剣千代金丸(大学)(5/7)
 ②山原のムラ・シマ講座(謝名)(5/16)
 ③「辺境の地(おんころ島)」(映画上映)(大学)(5/17)
 ④玉城の字誌(原稿整理で進捗報告)(5/22)
 ⑤諸志誌の二校(本の体裁)(5/25)
 ⑥伊是名村の歴史と文化(伊是名村)(5/26)
 ⑦沖永良部(知名町)、徳之島と今帰仁(27)
 ⑧今帰仁と沖縄戦(地域史)(5/29)

2015年5月28日(木)

 「今帰仁と沖縄戦」をテーマに講演。重圧のかかる気の重いテーマである。戦後戦争に関して、調査や研究がなされてきたのであるが、それは平和につながっていない。ニッポン、ニッポンが国名として正しいようだが、またそうなっているようである。「ニッポン、ニッポン」の響きは戦前の軍靴の足音に聞こえてならない。「ニホン、ニホン」と響いてくる社会になっていけばいいのだが。戦争の調査研究は、「ニホン、ニホン」と響く国に向かっていく、その方向に向かって支えなる研究でなければならないのではないか。さて、どんな内容にまとまるか、まとめきれるか?


2015年5月26日(火)

 「伊是名村の歴史と文化」のレジュメ完了。これから伊是名島(村)へ。最近の画像を取り込む余裕がないの~。話の中身はフェリーの中で整理することに。これが終ると、明日の「沖永良部知名町と今帰仁」について頭の整理。手つかずのが「今帰仁村と沖縄戦」。今日のが終ってから整理することに!


2015年5月22日(金)

 宝剣金装刀剣(千代金丸)についての解説および刀剣づくりの映写会。これは手抜き。今日の2本が終っても、まだつづく。

 

 

 晩は『玉城の字誌』の編集会議。進捗状況の確認。私の方が手が回らず、今日は「もくじ」と仲松先生の「大井川の地理的研究」から仲宗根のマチ以前の玉城のフルマチ(寒水:パーマ)について紹介することに。







2015年5月21日(木)

 「今帰仁村と沖縄戦」について講演が近づいている。今帰仁だけでは、どうも動きが見えてこない。それで本部町の崎本部から一人ひとりの戦争体験に目を通す必要がある。昭和198月今帰仁村に守備軍が駐屯、運天港に海上特攻隊、白石、鶴田、山根の各隊の魚雷艇、特殊潜航艇が配備され、また各学校も兵舎として利用される。昭和19年の10・10空襲以前の伊江島徴用、その後昭和20年3月の爆撃、その間の村民の動き、6月17日謝名、越地から東側の村民の羽地へ疎開命令(収容)が出される。6月25日に平敷から西側の村民は久志村大浦崎へ疎開命令(収容)が出される(当時助役の糸数昌徳氏メモ)。米軍が東は湧川から、西は本部町側から駐屯すると、村民、日本軍、米軍三者の動きが人々の運命を変えていく。一人ひとりの戦時中の人々の動きをできるだけ追いかけてみる(戦後の写真を使うのであるが)。その場所に立ったとき、どう動くのか(避難)が見えてきそうである。それまでの竹やり訓練や艦砲射撃が飛んでくる距離など、どれも想定を遥かに超えるものであった。講演まで、どれだけ踏査できるか。

 それらの画像を見ると、その場所での戦争体験した方々の話しが浮かんでくる。


 ▲今帰仁村今泊のハヤモーから伊江島を眺める             ▲伊江島徴用の話


     ▲爆撃のあった名護の町           ▲本部町崎本部の人々がウプガーなどへの避難

2015年5月16日(土)

 久しぶりに更新です。パソコンの前に座っていますが・・・・・。ここに書き記すのが定まらず。今日は「山原のムラ・シマ講座」今年度スタートの講座。今帰仁村謝名でした。その地は私の生誕地、そこが、私の沖縄研究の根底に流れている風土であること。そして他のムラ・シマの形を見ていく、考えていく上で柱になっていること。これまでまとめてきたことの再確認と、さらに考えを深めたり、広げたり。
 謝名の大島(ウプシマー)へ。そこには神アサギ、アサギミャー、豊年祭の舞台、旧家の跡が数件、現在の民家が15世帯足らずである。

 集落の後方にウタキ(グスク、お宮ともいう)があり、昭和9年に立てられた「謝名神社」がある。鳥居から麓にいく道筋が神道である。その両サイドに民家が展開する形をとった集落である。そこは謝名大島遺跡となっていてグスク時代以前から現在まで人が住み続けている複合遺跡である。

 地名もウタキを背にした南斜面の集落、大島原があり、麓の方に前田原(かつての水田地帯)があり、さらに前方は前原である。その大島原を中心に名づけられた地名がウタキの後方(北側)は仲原(ナーボロ)、さらに海への場所は越地(フイジ)である。謝名の地名は、この大島原を中心に名づけられている。

 ごく最近、神アサギも作りかえられ、神人はいなくなったが祭祀はまだ行き続けている事例である。その地から研究上、古琉球のムラ・シマの形や地名など数多くのヒントをいただいたムラ・シマである。

  
▲今年度のムラ・シマ講座スタート       ▲戦争当時避難場所となったトーヌカと墓


 ▲今年4月に作りかえられた神アサギ 

2015年5月9日(土)

 昭和12年頃から昭和24年頃までの記事の整理にはいている。聞き取りや断片的なことについて把握してきたが、「今帰仁村と沖縄戦」を演題にする。そのためには、全体的な動き(運天港の海軍・兼次校を拠点とした陸軍、そして学校など)の動き、そして家族としての動きなど、一つひとつ重ねみていく必要がある。全体的な流れは整理してみたが、まだ見えてこない場面が多い。生き延びたか、亡くなったかは、その多くが運命的としか表現のしようがない。

 まずは、資料や聞き取りの整理から。
    

大浦崎                     相川徳祐(新城徳祐)

 七月二一日夕刻、余は捕らえられの身となった。


 海軍飛行中尉渡辺芳雄をかくまった理由によって、遂に米軍の知る所となり大浦崎なる米軍政府へ引かれて数日間尋問をされ、其の挙句く一晩泊置かれ、翌早朝宜野座なる情報本部へ移され数日間の後、宜野座大久保にある金網に入れられた。

 爾来朝夕二食に空腹をかかへて開放になることを祈ったが、益々苦しさが増すばかりにて、□やせ細り我手なり足かと思うばかり骨と皮とにやっと息を通わせている。夜ともなれば、我特攻隊の敵状態偵察に手に汗を握り、かすかなる爆音に無事を祈るのであった。

 かくして一月余り、八月二五日裁判する事に決まり、大浦崎本部へ移され家族並に衆人多数傍聴の前にて裁かれる事とは思ったが、既に罪状決して居ると思え、芝居じみた裁判を一週間続け八月三一日其れぞれ刑が決まり、余は九月一日より翌年五月三十日まで九ヶ月間禁錮の刑を言い渡され。思えは余等の行為は日本人として当然の事と思うのであるが、敵軍からすれば矢張り罪人であり、敵対行動であるが、それにしても、余りに重い罪刑である。然りに尚女子等も余と同じ刑とは気の毒の至りである。

 判決に依り而来大浦崎なる金網へ入れられる事となり家族の面会及び差し入れ等も許され不自由ながらも楽な生活を送る事が出来た。

 同志男十名、女四名は程国情を論じ或いは世界の情勢を語り合い、尚お選米国の非をならし、時としてはトランプに興を乗せ余は初詩の□を得る。

 □くされる内に一ヶ月すぎ十月と成りぬれば早や朝夕肌寒く毛布の請求すれど何らの□りとなき一同がこち居る内、伊江は久志に移動、本部、今帰仁は郷里へ移動する事と成ったれど何時とも分り得ずらくて只民心の動揺するのみなりが、十一月の声を聞くや□に移動開始され家族も郷里へ帰る事となりたり。然るに我等は如何になるか定めつかず依って警察を通じて幾回となく交渉せるも何等の便りなく、遂に意を決して逃亡せる者六名、二日後には女二人となりたれど開放の報あるによってて我等三人は最後まで残りて開放となり、其の報を彼等に知らさんとせるも遂に開放放とならず

 然も久志へ移転とて米憲兵のトラック待ち来たりて引去らんとす。今やこれまでと我も直ちに逃げ去れど逃げ遅れて久志へ連れ去られし二人の女共の気の毒さよ。其の日十一月八日余は移動のトラックに乗せて貰うことにして遂に此処まで逃げ伸びたり、然るに尚巡査の由にて部落へ落ちつかれざる故、一泊の後翌九日は津波へ行き其の処へ宿泊し我は謝名なる同志と打ち合せて今後の身の振り方を決める可く一夜を語り、世を避ける可山奥の苔屋に老人と活らす事とせり、時に十一月十一日日曜なりき。

 翌十二日朝老母(彼も米軍の為めに家は焼かれ一人息子を戦地へ送り生死の程も知らず只朝夕息子の生還を祈りつつ細々と、やっと彼の老爺の家に寝起きし致し居りたり)沸かす茶を□りて過ぎ越し方を思い浮かべながらペンを走らせたり。

 午前九時頃初めての山道を迂回して謝名へ向かう。鬱蒼たる枝の下道を幾度となく行き過ぎ又後戻りしつつ、やっと謝名林道を探しあて、ひた下りに下りて昼頃暫かにして着くことを得た。側の小屋には矢張り同志が隠れ居り明日の事を約して午後五時頃我が小屋へと急ぐ。近道をと思へど山道の事とて



新城徳祐氏の伊江島メモ(昭和19年5月23日~10月10日メモ)

 




2015年5月7日(木)

 午前中、「北山の滅亡と金装宝剣(千代金丸)」について。太刀ができるまでDVDで。まずは一本終了。




2015年5月1日(金)

 出勤前、実家に立ち寄ってきた。ユリが咲いているが、例年より咲きがよくない。裏手のウタキ(グスク)からアカショウビンの鳴き声。庭にはツルバラやハイビスカスなどが咲いている。ピタンカの実も色をつけている。5月のスタートの合図は実家の廻りの様子から。

  
      ▲庭の数ヶ所にユリの小さな群生をなしています!

  
▲ツルバラが花を咲かせています▲ピタンカの実が色づいています▲年中咲くハイビスカス