伊江島
・伊江島番所と惣地頭 ・伊江島番所
伊江島番所と惣地頭(2006年12月27日メモ)
伊江島番所と惣地頭との関係がどうなっているのか。『琉球国由来記』(1713年の伊江島の祭祀と按司や惣地頭との関係が見えてこない。公儀の祭祀場がいくつもあるが惣地頭の提供物がない。惣地頭や按司に変わってノロが提供したのだろうか。そのあたり気になる。
伊江島の惣地頭職は伊江家が一世の朝義(伊江王子)から十一世の朝忠まで代々継承している。首里に住む伊江按司の家禄400石、物成131石余、領地 伊江島作得54石余、川平親方の家禄80石、物成26石余、領地 伊江島作得47石余、川平親雲上 領地 伊江島川平作16石余とある(『沖縄県史』14雑編)。伊江按司二人が惣地頭職を賜った辞令書がある(『伊江村史』上巻口絵所収)が、具体的にどうなのか。他の間切を領地とした按司や惣地頭を賜って得られた作得や物成や領地と間切や島との関係が、まだ具体的に理解できないでいる。(もう少し、史料の読み込みが必要)。
伊江按司(五世の辞令書)(1717年)
首里之御詔
伊江嶋惣
地頭者猶子
玉寄按司
給之
康煕五十六年丁酉四月廿三日
十一世朝忠の辞令書(1835年)
首里之御詔
伊江嶋惣地頭者
尚氏猶子大城王子
朝忠賜之
道光十五年乙未五月十三日
伊江島番所(2006年12月26日メモ)
伊江島の番所に関わる記事を拾ってみる。伊江島番所は『伊江村史』に図面で納められている。番所の痕跡として、敷地内の「番所井戸(バンジョガ)」と後方の御殿山の拝所に見ることができる。僅かに残っている福木もそうか。明治初期に番所前に掘られたウシャバド池は埋められ駐車場となっている。
・1701年東江村と西江村と川平村の三ヶ村となる。
・1729年伊江親方が伊江島惣地頭職を賜る。伊江按司と共に両惣地頭として廃藩置県まで続く。
(明治初年川平殿内と呼ばれるようになる)
・1744年元文検地が行われ伊江島図が作成される。
・1875(明治8)年東江村は東江上と東江前、西江村は西江上と西江前になる。
(川平村を加えた五ヶ村となる。)
・1897(明治30)年に番所は役場と改称される。地頭代は島長となる。
・1903(明治36)年土地整理事業終わる。
・1904(明治37)地租条例及国税徴収法が施行される。物納から金納に、村から個人へ
(伊江島は一年早い明治36年摘要される)。
・1908(明治41)年間切と島は村(ソン)と改称される。伊江島長は伊江村長となる。
・1920(大正9)年木造発動機船伊江丸が、伊江本部間を運航する。
・戦前以前の役場(番所)のあった敷地は東江上(御殿山の前)である。
・戦前の伊江港は阿良港であったが戦後具志港へと移る。
・現役場(東江前)は昭和25年に敷地を選定し木造瓦葺庁舎を建築、10年後の1960年に現庁舎となる。
【参考文献】
『伊江村史』(上巻・下巻)
「向氏家譜(伊江家)」(家譜資料 首里系)『那覇市史』所収
▲グスク山の頂上から番所敷地跡をみる ▲番所跡からグスク山をみる
▲番所があった屋敷。手前はウシャバド池跡 ▲敷地にある番所井戸
▲番所跡地後方の御殿山の拝所 ▲拝所への階段