具志堅(ぐしけん:本部町)(2008年・12月13日)

 ・上間家(上間殿内)の拝所
 ・具志堅ノロ殿内の跡?
 ・神道
 ・具志堅のお宮(拝殿・神殿:グスク)
 ・神ハサーギ
 ・真部の旧家跡
 ・真部の神アサギ跡
 ・ふぷがー(大川)

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  ▲上間屋(上間殿内ウイマドゥンチ)           ▲上間屋の拝所の内部

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    ▲グスク(ウタキ)のイベ                   ▲具志堅の神ハサーギ

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     ▲神ハサーギの内部                        ▲旧家の石垣(真部)

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   ▲具志堅の大川(フプガー)         ▲ウガーミ(真部のウタキ)


具志堅の概況(本部町)

 具志堅は1666以前今帰仁間切具志堅村であった。1666年以降は伊野波(本部)間切具志堅村となり、明治41年以降は本部村具志堅、昭和15年に本部村は本部町となる。

 ・昭和22年に上本部村具志堅となる。昭和46年に再び本部町具志堅となる。
 ・明治初期真部村と上間村が具志堅村に統合される。明治36年に嘉津宇村が具志堅村に統合される。
 ・明治14年上杉県令が上間家(上間殿内:ウイエマヤー)で休憩する。
 ・具志堅の上間家に1563年の辞令書があった。「みやきせんまきり ぐしけんの・・・」とある。
 ・明治20年具志堅に本部小学校分校ができる。
 ・明治21年に謝花尋常小学校が創設される。
 ・大正10年具志堅の区事務所に仮教室をつくり、昭和2年に昇格し分教場となる。
 ・昭和16年具志堅から新里と北里が分離する。
 ・昭和17年ウイハサーギ(旧具志堅)・真部ハサーギ・上間ハサーギが一つにまとめられる。
  その時拝殿と神殿がつくられる。
 ・昭和18年嘉津宇が具志堅から独立する。
 ・昭和20年新里小学校が設立される。
 ・昭和34年に今帰仁村に大型製糖工場が建設されたため具志堅の稲作からサトウキビづくりへと
  切り替わり、水田が減少する。
 ・昭和50年国際海洋博が本部町で開催され、具志堅でも農地を手放したり、関連工事へ動いていく。
  その後遺症が今でもみられる。
 ・昭和52年仲里家の明治の辞令書(9点)と「御教条」が本部町の指定文化財となる。
 ・昭和53年「具志堅誌」が発刊される。
 ・平成15年「今帰仁グスクが抱えた村―本部町具志堅―企画展が歴史文化センターで開催される。
 ・平成20年具志堅の大川(ふぷがー)が改修される。


【上間家にあった辞令書】(写)2003.7.31メモ

 この辞令書は戦前具志堅の上間家にあったものを宮城真治がノートに写しとったものである(ノートは名護市史所蔵)。「具志堅上間家の古文書」とある。名護市史の崎原さんに捜してもらい、ファックスで送ってもらった資料である。感謝。

 この辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。首里王府から「あかるいのおきて」(東掟)に発給された辞令書である。現在の具志堅が今帰仁間切内(1665年以前)のムラであった時代である。

 現在の具志堅の小字(原名)と辞令書に出てくる原名を比較してみた。三つの原名は想定できそうだ。但、近世でも原域の組み換えがなされているの、確定はなかなか困難である。小地名まで合わせみると、いくつか合致するでしょう。

     ・たけのみはる→嵩原?
     ・まへたはる→前田原(現在ナシ)
     ・とみちやはる→富謝原 
     ・きのけなはら
     ・あら(な?)はなはる→穴花原
     ・たこせなはる
     ・あふうちはる
     ・ふなさとはる
     ・まふはる→真部原
     ・あまみせはら

 貢租に関わる「ミかない」いくつもあり、季節ごとに「ミかない」(租税)収めていたのかもしれない。
     ・なつほこりミかない
     ・せちミかない
     ・なつわかミかない
     ・おれつむミかない
     ・正月ミかない
     ・きみかみのおやのミかない
     ・けふりのミかない

 のろ(ノロ)・さとぬし(里主)・おきて(掟)のみかないは免除され「あかるいのおきて」(東掟)一人に給わった内容である。
 古琉球にノロ・里主・掟・東掟の役職があったことが、この「辞令書」から読取ることができる。

【辞令書の全文】(一部不明あり)
  志よりの御ミ事
   みやきせんまきりの
   くしけんのせさかち
   この内にひやうすく みかないのくち 御ゆるしめされ
   五 おミかないのところ
   二 かりやたに 十三まし
   たけのみはる 又まへたはるともに
  又 二百三十ぬきち はたけ七おほそ
    とみちやはる 又きのけなはら 又あらはなはる
  又 たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
  又 まふはるともニ
    この分のミかない与
    四かためおけの なつほこりミかない
  又 くひきゆら ミしやもち
  又 四かためおけの なつわかミかない
  又 一かためおけの なつわミかない
  又 一かためおけの おれつむミかない
  又 一かためおけ 又なから正月ミかない
  又 一lくひき みしやもち
  又 五かためおけの きみかみのおやのミかない
  又 一くひ みしやもち
  又 一かためおけの けふりミかない共
    この分のみかないは
    上申・・・・・・
    ふみそい申しち
    もとは中おしちの内より
  一 ミやうすくたに ニまし
    まへたはる
    この分のおやみかない
  又 のろさとぬし
    おきてかないともニ
   御ゆるしめされ候
  一人あかるいのおきてに給う
 志よりよりあかるいのおきての方へまいる
   嘉靖四十二年七月十七日


【本部町具志堅の上間家の位牌】

 23日本部町具志堅の上間家を訪れる。離れに位牌が二つ並んでいる。位牌の文字を見ると、上間家の「先祖之由来遺書」(上間筑登之)と一致する。小さめの位牌には「上間三良」などの人物の銘が記されている。(この位牌と関わる今帰仁村諸志の赤墓については何度か紹介してあります)
  

   ▲本部町具志堅の上間家にある位牌   ▲左側にある位牌には「上間三良神位」などの銘

【位牌の銘】

      (位牌表上の段)                   (位牌表下の段)
 ・乾隆五十五年庚戌六月六日死去父親   乾隆五十九年甲寅正月廿一日死去母親
 ・元祖上間大親亨翁               帰真
                            道光二十五年乙巳十月十八日 金城筑登之 妻

    
   
▲「先祖之由来遺書 上間筑登之」(大清道光庚未八月吉日:1823)より


【本部町具志堅】

 
本部町具志堅にトン・トト・トンという祭祀があります。今帰仁村今泊でも行われていましたが、今でも消えてしまった祭祀の一つです。具志堅のトン・トト・トンを通して今泊のをいくらかでも復元できればと。トン・トト・トンの名称は鼓を打つリズムや棒を打ちつける時のリズムからとった名称とみられます。トン・トト・トンの所作はシルガミと呼ばれる男の神人が関わることに特徴があります。

 結論を言うと「トン・トト・トンはシニーグ(シニグ:凌ぐ)を表出」場面である。

【具志堅のトントトトン】
 本部町具志堅で旧暦の7月19日、7月21日、7月23日、7月25日、7月26日に行われる祭祀がある。それら一連の祭祀をシニーグと読んで呼んでいるが、それぞれの日の祭祀は呼び方がある。シニーグの祭祀の名称は、トン・トト・トンを鼓を打ちながらムラの悪疫や不浄のものを祓いする(凌ぐ)所からきているとみてよさそうである。

【本部町具志堅】
  @7月19日はウーニフジ(御船漕ぎ)
  A7月21日はフプユミ(大折目)
  B7月23日はトン・トト・トン(シルガミが関わる)
  C7月25日はソウニチ
  D7月26日はタムトゥノーシ

【今帰仁村今泊】
 @旧盆明けの戌の日 ウーニフジ(二カ所のウーニ)
 A旧盆明けの亥の日 ウプユミ(大折目:グスクウイミ)
 B旧盆明けの子の日 シマウイミ
   (神ハサーギでウシデークの舞いをやっていた)

   (シニグイ道で男神役がトン・トト・トンをする)

 一連の祭祀があるが、ここでは二か字のトン・トト・トンの流れをまず抑えてみます。このトン・トト・トンと呼ばれる行事の所作に「シニーグ」(凌ぐ)の名称が充てられているのではないか。そこで重要な役目を果たしているのが男神人(シヌガミ:シドゥガミ)です。国頭村安田のシニグの時、三つの山から男衆が山から太鼓を打ち鳴らしながら降りてくる場面、その時木の枝で悪疫や邪気を払いながらいく所作と類似しています。山から海までいく所作にシニグ(凌ぐ)名称がつけられた見ているからです。
 

 本部町具志堅で上の5日間の祭祀に移る前に大ウサイと言って氏子調査がなされていたようです。『具志堅誌』(573-4頁)で以下のように記してあります。

  
シニーグ(ここでも5つの祭祀をシニーグと呼んでいる)の行事にうつる前に、大ウサイと云って、
  具志堅(ウイ=元になる部落)、真部(マブ)、上間(ウイマ)の三ハサーギ(三つのハサーギ)の
  シヌガミ(男の神人)が具志堅(ウイ)のハサーギに集まって、島の大屋子(シマンペーフ)(男の
  神人)と共に、十五才以上の男子を調査する。調査した数を、かねて用意したワラザイに数量を
  しるし、それを氏神に報告する。これは大切な調査だと云われている。これによって十五才以上
  の男子は、粟や稗wぉ一人五合宛、十五才以下の男子は一人一合宛、各自の属するハサーギ
  へ納めて、氏神祭り(シニーグ)の時おミキの原料にあてたり、その他の費用に(換金)に当てて
  いる。
  現在(昭和52年頃)は、どの家庭も殆ど粟、稗をつくらない。水田も甘蔗(サトウキビ)作にきりか
  えられているので、購入した食料米から一戸二合宛献納し、おミキをつくりお供えをしている。
  従来は三ハサーギあったので、各戸の属するハサーギに納めたが、昭和16年に三ハサーギ統
  合後は具志堅(ウイ)ハサーギに奉納している。


具志堅のトン・トト・トンの祭祀の流れ
 ・ノロはじめ神人(男女)、島の大屋子(シマンペーフ)がハサーギに集まる。
 ・悪疫祓いの祈願(ウガン)をする。
 ・神ハサー内での祈願が済むとグシク(具志堅のウタキ:お宮)森のイベへ。
 ・イベでの祈願をし、そこで男の神人はシバキの小枝を白の衣装の襟の後ろにさし、
  小さな鼓をトントト・・トトンと打ちながらグスク(御嶽:お宮)から降りてくる。
 ・さらに集落内を廻る。

     (まだ、続きます)

 ・ミハージ(海岸)で襟にさしていたシバキの小枝を海に流す(そこが流れ庭)
   (悪疫が海の方へ流れて行っての祈願)
 ・男の神人達は、ノロや女性の神人が待つ大川(フプガー)へ。
 ・そこで参加者が祈願をし終わる。

(以下は2009年の具志堅のトン・トト・トン)









【今泊のトン・トト・トンの祭祀の流れ】



【具志堅の海辺をゆく】2003.7.23(

 本部町具志堅の地形を読取るため山手から海岸、そして隣接する嘉津宇と新里までゆく。嘉津宇は先日昭和30年代の画像を取り込んだので、現在の様子確認のため足を運ぶ。

 さて、具志堅の海岸の新里よりから場所の確認をしてみた。昭和16年に具志堅から西半分は備瀬から分区し新里区として独立した。具志堅のハルヤーだった認識があり、首里・那覇からの寄留人が多い。新里地番は具志堅である。具志堅のマーウイ(馬場)跡は新里区の方にある。マーウイのように新里地域に具志堅と深く関わる場所がある。それで新里域の地名も拾ってみた。ムラを見ていくためには、地名調査もいれんといかんな(大変だぞ)。

・トゥヌジンマガイ
   新里域の海岸にある地名。トゥヌジは飛び出たの意味がある。マガイは
   曲がったところ。弓状に曲がった砂浜があり、その向こうは飛び出た崖
   になっている。地形に由来する地名のようだ。

・パナリヒシ(離れ岩?)
  離れた岩(干瀬?)のこと。陸から離れたところにある石(岩)のこと。満潮
  になると海中の小島となる。

・ナートゥ(港)
  港のこと。河口の場所。かつて港として機能していた時代があったのであろう。

・ハサバマ(ハサ浜)
  ハサ? パマは浜のこと。ハサの浜であるがハサは不明。

・ミハージ?
  松部のナガシミャー(流し庭・流し場所)での御願がすむと神人はミハージ
  (ハサ浜の中央部)の浜までやってきて祈る。ムシバレーやアブシバレーの
  時に、芭蕉の柄でつくった小舟に虫を乗せて流した場所である。

・パマグァー(浜小、小さい浜)
  ハサパマの東側にある小さな浜のこと。別名ハサグヮーともいう。グヮーは小
  さいこと。ハサはハサバマのハサであるが意味?

・イジカタバマ(出方の浜)
  現在ボートの発着場になっている。

 海岸にある地名を拾ってみた。即座に意味解きはできないが、土地を知る上でなかなかおもしろい。新里のパナリヒシの近くの護岸で涼んでいる二人のオバアに声をかけてみた。

  「そこに岩があるでしょう。何と呼んでいますか?」

  「アリナー、ナーアイタガヤ?!」(あれねー、名前あったかね)

  「パナリとか言いませんか?」
  「アイエッタラハジ、ワヌウマンチュヤラングトゥワカランサ」
    (そうだはず、私はこっちの人ではないのでわからないさ)

  「トゥヌジマガイは知っていますか?」
  「ウリヤワカルンドー、ウリ、アマヌパマミッチメー。マガトゥラヤー。ウマヤッサ」
    (これはわかるよ。向こうの浜を見てごらん。曲がっているでしょう。そこ
     だよ)

 おばあ達とのやりとりは、なかなか面白い。方言を聞き取るにはなかなか難しいのであるが、生の声で話が聞けるというのがまたいい。

 具志堅や新里のハサ浜は泳いでいる人一人もいません。一人占めの海岸調査。贅沢なもんだわい。暑さ? 34度だそうだ。体温と気温の差が3度以上あれば大丈夫なり。ハハハ

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   ▲中央の岩がパナリヒシ、                   ▲ハサバマ
     左向こうがトゥヌジマガイ  
     

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    ▲新里の海岸でオバア達と          ▲河口部分がナートゥ(港)

 具志堅の海岸を歩き、公民館(事務所)に立ち寄る。8月のシニグ調査の件でお願いした。「学生が10名ほどで見学にきます。勉強させてください」とのお願い。「いいですよ」と快い上間区長さんの返事。「近いうちに、再度お願いに伺います」ということで。


2003年6月6日(金)

〔本部町具志堅のミージマをゆく〕

 具志堅のミージマへ。現在の具志堅はプシマ(大島)・ミージマ(新島)・サガヤと大きく三つの集落に分けれる。さらにその下に12の班がある。今日はミージマ(新島)を歩いてみた。

 ミージマ(新島)は名の示すとおり新しい集落である。新しい集落というのは、プシマ(大島)に対しての新旧である。そのプシマもプルグシチン(古具志堅)やマンバルから移動した伝承を持つ。さらに現在のプシマは具志堅・上間・真部の三つの村(ムラ)の合併である。三つの村の合併は昭和16年に三つの神ハサーギを一つにしたことにみることができる。かつての三つの村は現在のプシマの範囲にあった。そこからサガヤとミージマへと広がっていたとみてよさそうである。具志堅の方々の認識もそのようである(具志堅の歴史的な変遷は別にまとめる予定)。

 ここでは具志堅のミージマについてみる(ミージマを歩くにあたり、『本部町字具志堅の方言』仲里長和著所収の「具志堅の小地名・屋号等」を活用させていただいた。感謝)。
  @ジャニバシ
  Aアガリガー(東の井戸)
  Bブブジャモービラ(奉行毛坂)
  Cブジャモー(奉行毛)
  Dサニガガー(井戸)
  Eハキキナアジマー
  Fアガリンファーイ
  Gパギター
  Hピータティヤー
  Iパサマビラ
  Jウンサフ
  Kピクルムイ
  Lウイヌトゥムイ
  Mヒチャヌトゥムイ

 ミージマ集落一帯の小地名を拾ってみた。その中でブジャモーやブジャモービラがあるが、それは今帰仁間切と本部間切の番所を往来する奉行(役人)が事務引継ぎする場所、あるいは一服する場所に因んだ地名に違いない。その場所が丘(モー:毛)やヒラ(坂道)になっている(写真)。

 ミージマに掘り抜きの井戸が三ヶ所ある。掘り抜き井戸は、新しい集落に見られる特徴である。ミージマの東側に位置するアガリガーとサニガガーは、ミージマの方々が利用した井戸にちがいない。

 もう一つジャニガーがある。今帰仁村と本部町の境界を流れるジャニガーの側にある。現在は墓地の側にあり、1mほど埋められたのか上部にヒューム管を置いてある(写真)。ジャニガーはミージマの方々か、あるいはサガヤの方々が利用していたのか。現集落から距離がある。その距離でも水汲みをしていたのであろうか。あるいは井戸付近に人家があったのか。その確認はこれから調査である。

 ミーシキヤー(大家)の石囲いはりっぱである。ぱったり出会った近所の老人の説明では「100年はたっているよ。小さいときから、すでにあったからな」とのこと。入り口はコンクリートになっている。コンクリートの部分は「昭和4年建設」である。「これもう、崩れるよ。膨らんでいるでしょう。もう、なおせる人いないよ」と嘆いていた。

 道路の拡幅であったり、舗装されたり、水道や下水道を引くために道を掘りおこしていく。そのたびに石積みの塀が一つひとつ消え去っていく。石積みのある集落は、そこに住んでいる人たちにとっても、ムラを出て行った方々にとっても、形には見えないが宝物を贈り続けている。アガリガーやジャニガーやブジョウビラなどもそうである。

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 ▲ミージマの集落内の現在の道     ▲りっぱな石垣のあるミーシキヤー

..

  ▲集落内に立っている「安全運転」の碑    ▲建物の柱に使われた石柱


..
 ▲ミージマの東側にあるブジャモービラ ▲ジャニーガーラの近くにあるジャニガー(井戸)


2003年6月7日(土) 

 一日雨。今日は本部町具志堅の資料に目を通したり、地図にメモを入れてみた。8月下旬に企画展を開催する予定である。それに向けて、ボツボツ展示プランを立てなければならない段階にきている。具志堅を10数余のキーワードで描いてみる。どのようになるのかはこれからの楽しみである。具志堅のムラを歴史を軸として、様々な視点で描いてみたい(そろそろ、みなでテーマを拾いをしていくことにしよう)。

 今帰仁グスクを扇子の要とした時、扇子を広げると今泊と具志堅が今帰仁グスクに近いところに位置すると同時に、資料を見ていると祭祀や人の交流が密接であることに気づかされる。

 下の写真は具志堅のプシマ(大島)にある青年クラブ(1953年3月)と具志堅公民館(1953年3月)と大川(フプガー:1951年)である。これらの写真を手がかりに50年前の具志堅の様子を聞いてみる予定である。(1950年代の三枚の写真は故メルビン・ハッキンス氏撮影:歴文蔵)

 カマボコ型のコンセット(横5間、長さ20間、54坪)の建物は米軍から譲り受けたもののようである。公民館は戦争で消失し、天幕張りで雨風をしのいでいた。具志堅の東側のジャニー(謝根)に米軍が二棟のコンセットを建ててあったのを米軍の移動をしり、交渉して譲り受けたもの(当時の区長:金城嘉保氏)。

 フプガー(大川)の戦前の様子は写真でみていないが、昭和26年の様子が下の左である。円を半分に切ったカマボコ型になっているが、その前は半月型だったという。幾度となく工夫したようで、飲料水汲み場、洗濯場、浴び場、野菜洗い場、家畜浴びせ場などと。子どもが産まれた時の産水や正月の若水とり場になっている。

 昭和31年から上本部中に赴任してきた比嘉太英氏は具志堅に間借し、その頃の大川のことを「島の人々は、大川へ水汲みに集まり、列をなすことも楽しみの一つでした。特にその頃、八重岳の米軍部隊の洗濯アルバイトとして、島の御婦人、乙女が何十人も大川に群がり、所狭しと洗い流す中を中を、縫うようにして、水汲みをしたことがありました」(『具志堅誌』819頁)と回顧されている。
 


 ▲茅葺屋根の家々と青年クラブ(1953.3)       ▲コンセットの公民館(1953.3)

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  ▲具志堅の大川(フプガー)(1951年)         ▲現在の大川(フプガー)



本部町嘉津宇(2003.7.19)                   トップへ

 本部町嘉津宇は移動してきた村(ムラ)である。村があった元の場所は伊豆味の古嘉津宇である。『琉球国由来記』(1713年)の頃は、移動する前で嘉津宇村に嘉津宇嶽・小嶽・ソノヒヤン嶽の三つの御嶽を持っていた。嘉津宇嶽は嘉津宇岳にある御嶽のことだろうか。その頃嘉津宇村を管轄するノロは天底ノロである。

 1719年に伊豆味村近くにあった天底村が今帰仁間切地内に移動している。その理由が旱魃による飢饉であった。その時、天底村の人たちは具志堅村に働きに出る。それでも村の復興ができず首里王府に願い出て村移動をしている。嘉津宇村も同様な理由で、具志堅村地内に移動したのかもしれない(嘉津宇村の移動の資料は未確認)。

 嘉津宇村は具志堅村地内に移動し、明治36年に具志堅村に併合され、昭和16年に分離する。明治15年頃の『沖縄島諸祭神祝女類別表』に「嘉津宇村 根神一人」とあり、そして拝所は「嘉津宇御嶽・神アサギ・ノロ殿内火神」の三ヶ所あげてある。

 嘉津宇村の移動をみると、村が移動すると移動先で御嶽や神アサギを新しくつくっている。天底村の移動も同様なことがいえる。嘉津宇村の「ノロ殿内火神所」については、もう少し調査する必要がありそうだ。それは嘉津宇の神アサギの側にあるウドゥンを指しているのかもしれないが、天底ノロがある時期、嘉津宇村から出ていた可能性もある。

 嘉津宇村は明治36年に具志堅村に統合されるが、御嶽や神アサギなど祭祀に関わることは一つにしないという原則はここでも貫かれている。それと、村が移動した時、御嶽は高い所に向かって置き、あまり故地にこだわらないということ。村移動のとき神アサギは集落と共に移動する傾向にある(集落移動のときは、神アサギは動かさない傾向にある)。

 具志堅を中心とした企画展を予定しているが、嘉津宇村の具志堅村への合併、分離があるので歴史で扱うことになるので、少しだけ触れておいた。

 
事務所(公民館)は平成12年にスラブの建物に建てかえられた。現在の神アサギはセメント瓦葺きである。トゥンは昭和11年に竣工されている。トゥンの横に「嘉津宇神社改修記念 昭和十一年丙子六月二十五日」と刻まれている。

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▲嘉津宇の事務所(ムラヤー・公民館)   ▲神アサギとウドゥン(昭和30年頃)

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▲嘉津宇の神アサギとトゥン




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