2008年12月              トップ(もくじ)へ



・羽地村の銅山(金川) ・今帰仁村諸志のフプガー ・『海東諸国紀』(1471年) ・小学生総合学習
・大宜味村 ・国頭村 ・与論島をゆく ・本部間切具志川村の脇地頭を拝受し ・謝名の平田村


20081224日(水)

  しばらくの間、休みにします。。。。


20081223日(火)

 『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に掲げられた旧羽地村(現在名護市)をゆく。22日天気が悪く、画像に収めたのは金川銅山跡の碑と金川のみ。羽地間切の「羽地」は羽地大川ではなく「金川」(ハニガー)に由来しているのではないか。1700年代には羽地大川は大浦川であり、その後に羽地大川と表記されるようになる。「はねち」は羽地大川以前からオモロや辞令書に登場しているので、羽地大川とは別に「はねち」の後義を求めるべきである。

【旧羽地村】『沖縄県国頭郡志』(大正8年)
 羽地 和蘭墓(オランダ墓) ヒルギ林 呉我港 鍛冶屋原 勘手納墓
 羽地大川 羽地城祉 親城 池城墓 古我知 金川銅山 源河

 『国頭郡志』に「金川銅山」について以下のように記してある。
  字伊差川の南方に金川銅山あり。明治209月尚侯爵家に於て之が試掘の認可を受け、大阪の人加藤久次郎を
   雇入て実験せしめしに、銅鉱含有の見込みなれども成績なく、翌213月鉱山家山田譲を聘用して其有望なる判
  定を得、同年10月山本勝太郎外職夫10余名を率い来り、採鉱精錬して大に好成績を収め、223月借区許可せらる。・・・(省略)

 口碑に依れば昔金川の銅にて円覚寺の大鐘を鋳造せしが後薩摩に取り上げられ、彼地に於いて突きしに、金がーどんどん伊差川珍らさ、元の沖縄に帰らうやーひやー
と響きたり云々。・・・(省略)


  
    金川鉱山跡之碑       金川の様子(上流部)       鉱物(銅)の残さい

 19日(金)に兼次小3年生が今帰仁村諸志のウプガーで水汲みをする。一人での水汲みはまだまだ。しかし、二人での水汲みは、協力してしっかりとくむことができた。今日は汲んだ水を溜めるところまで30m。実際は、自分の家まで運ぶのだぞ!湧泉(カー)を通して、湧き出るカーのある場所、水道が家庭にはいる前の時代のこと。その大変さを実感させる。一人ひとりの報告まで。

 
      一人ひとり水くみをする。         簡単みたいだけと、やってみると

 
     水くみを通しての発表!          水汲みは簡単そうだけど・・・・


20081218日(木)

 『海東諸国紀』(1471年)に、以下の条文がある。
  一、国王の喪(ソウ)は、金銀を用(も)つて棺を飾り、石を鑿(うが)ちて槨(かく)を為(つく)る。埋葬せず。屋(おく)を山に造り、以て之に安んず。後十余日、親族・妃嬪(ひひん)会して哭(な)き、棺を開きて尸(し:しかばね)を出し、尽く肌膚(きふ)を剔(えぐ)り、諸(これ)を流水に投じ、骨を棺に還す。士庶人の喪も亦之(かく)の如し。但し石槨(せきかく)は無し。

 上の条文から15世紀中頃の葬制が知れる。まずは、国王クラスと庶民では違いがあったことに注意が必要。国王の喪には金銀で棺(ひつぎ)を飾り、「石を鑿ちて槨(かく)を為(つく)る」(墓か)とあるので、棺(ひつぎ)をつくり、それを岩を掘り込み、そこに安置したということであろう。埋葬はしていない。日が経つと棺(ひつぎ)を開けて、尸(しかばね)を出して、まだ付いた肌膚をえぐりとり、洗い流して骨を棺(同じひつぎに?)に戻す。当時、洗骨が行われていたことが知れる。それと、庶民は「石槨」(墓?)なかったという。一般庶民は洞窟や半洞窟などに葬ったということか。

 土庶人(庶民)の喪も上級クラスと同様であるが、「石槨(かく)」は無いということなので、石や岩を彫り込んだ墓ではないという。すると、洞窟や半洞窟や崖中腹などの場所に安置したと見てよさそうである。そのような形態が与論島の崖の中腹や麓、今帰仁村の運天港付近の崖中腹などにある墓の形態と類似している。それは古琉球の庶民の死者の葬り方であり、与論島にはそれがまだしっかり残っていると見られる。

【兼次小4年生】今帰仁グスクにまつわる伝説

 兼次小4年生クラスのメンバーが、今帰仁グスクで中間発表。4グループでの発表でした。4月からスタート、何度か全員で伝説に登場する場所を探訪。夏休みにグループごとにまとめ。そして、今日は今帰仁グスクで中間発表。一度は館内での発表が必要だったかな? 即野外での発表では気がちってしまいます。野外での発表の仕方を工夫してもらえればいいかな。いい所まで行っています。桜の季節には、余裕のある発表ができるように頑張ってもらいましょう。

 

 


20081217日(水)

 午前中、天底小学校の4年生達(25人)が今帰仁グスクで学習。歴史の予備知識を持っていない生徒達なので、まずはグスクの場所の確認から。二時間半という長時間がとられているので生徒達は、もう大変。ピクニックとは違い、はじめての歴史学習。次々と聞きなれない言葉が飛んでくる。

 今帰仁グスクのある場所
 今帰仁グスクは世界遺産であること。
 平郎門(正門)
 三・五・七の階段
 旧道
 大庭
 北殿(礎石探しと建物の大きさの確認)
 志慶真乙樽の歌碑
 大内原
 テンチヂアマチヅ(上の御嶽のイベ)
 本丸(主郭)
 本丸の火神の祠
 本丸の礎石
 本丸の火神
 志慶真郭からみた本丸の石積み
 志慶真郭

 志慶真郭で一人ひとり楽しい報告会。何度も平郎門や旧道や大庭などが報告の中で出てくるの自然と頭にはいていきます。最後に、まとめとして今帰仁グスクの歴史について話をする。それぞれの場所で質問を投げかけながら。

 
 北殿跡の礎石の確認(柱になーれ)   志慶真郭へ。冒険だな~少しは。

 
    まとめの発表で~す!         石囲い中はあたたかいな~


20081216日(火)

 大正8年(1919)に発行された『沖縄県国頭郡志』、発行から90年という歳月が経過している。これまで三版されている。大正4年(1915)に原稿を起こしたという。90年余という歳月で『郡志』に書かれた項目や場所や資料がどうなっているのか。そのことの確認が必要だと実感している。その全てを一気に調べ、確認、踏査することはできないが、やってみる価値は十分にある。これまで、自分が抱えたテーマで参照、あるいは引用してきたが、見逃している部分、丁寧に読んでいない部分が多々ある。

 『沖縄県国頭郡志』は三十の章があり内容も多岐に及ぶ。まずは、「名所旧蹟」(第三十章)から。平成の『沖縄県国頭郡誌』にまとめることができればと夢みているのだが。まずは、大宜味村と国頭村からスタートさせてみた。ここに文章まで掲げる余裕はないので項目と画像で一部紹介。

【大宜味村
 津波城  森川子旧址  塩屋湾  田港  寺屋敷  根謝銘城址
 の「寺屋敷」の項で興味深いことが記されている。北山監守引き揚げについて時期尚早と主張した人物のようであり、また実在の人物である。北山監守制度は首里王府が北山の地の首里化を狙ったものであることが知れる。

 田港の後方なる滝川(ダチガー)のほとりに寺屋敷と称える所がある。250年前(大正5年:1916から)(1666年にあたる)定水和尚が草庵を結び居たりし跡なりという。
 定水は首里新城家の祖先にして王府に仕え重職に在った人物である。
 寛文5年(1666)国王尚質重臣を会し、尚真王以来派遣した北山監守を撤廃しようと諮った時、定水は北山の地避遠にして未だ教化普及していないので、時期尚早であると・・・(略)・・・即ち、仏門に入り剃髪して定水と号し、閑寂なる塩屋湾の一隅に退隠して悠々余生を送ったという。・・・・(略)

 『沖縄コンパクト辞典』に「1653~?(尚質61017~?) 僧侶。歌人。1671年勝連按司を辞し、護国寺の頼昌法印によって剃髪、仏門に入る。のち禅宗に改宗。宜湾朝保編『沖縄集』に「定水和尚の庵室を訪ねて」と詞書された一首がみられる」とある。

 
   大宜味間切番所のあった塩屋   定水和尚の草庵があった場所か(滝川)?

【国頭村】
 奥間  土帝君  経塚  辺土名  伊地の古墳  与那の高坂
 謝敷板干瀬  辺野喜  宜名真御殿  茅打万端  戻る道
 辺戸御嶽  義本王の墓

  
奥間にある土帝君      奥間加治屋跡              加治屋の祠にあるフイゴ

  
   金剛山の碑(1706年)      国頭間切の番所村があった奥間

 
     戻る道(現在)          義本王の墓だという


20081212日(金)

 与論島をゆく。講演まで少し時間があったので島を踏査する。与論グスク(琴平神社・地主神社)、按司根根津江神社、磯武里墓(花城真三郎の墓)、大堂那太の伝承を持つ家、アマジョウ、船蔵など。それらは与論の歴史を述べる上で重要なキーワードである。現場を踏まえて話すかどうか、それは重要なことだと常に考えている。それとそこに掲げた人物を中心とした出来事が史実かどうかについて問うつもりはない。それらの人物をめぐっての出来事が与論島の方々がどう捉えているかに関心がある。興味深い話ができたと思っている。

 今朝もフェリー乗船まで時間があったので島を廻る。特に崖中腹の墓に惹かれたので三ヶ所と城・朝戸・西区あたりの集落を歩いてみた。朝戸集落に按司根津江と大道那太と関わる一族の拝所や墓、それと座元?家がある。島の方に「朝戸集落内の近い所に三つの家筋がありますが、中はいいのですか?」と質問をしてみた。「今は仲いいですが、祖父の時代は・・・?」と。それらと関わる方々を前にして話をするわけだから手ごわいことは覚悟で。話に登場する場所や人物についてしっかりと押さえておかないと・・・。講演の前に現場を確認していてよかった・・・。(冷や汗かくところでした)

 与論島の歴史に浸っている場合ではありません。「ムラ・シマ講座」の具志堅と「山原のウタキ・グスクをみる視点」(琉大史学会の講演)に頭の切り替えないと・・・・。

 

 

 


20081210日(水)

 
11日、12日と与論島ゆき。講演の演題は「与論島と北山(琉球)」である。以下の項目でざっくばらんな話。与論島と北山(琉球)との関わりを歴史や文化などの視点で。結びは・・・(お楽しみ!)時間があれば島を一巡する予定。これからプレゼンテーションの準備なり。

  はじめに
   1.与論島と関わる歴史的な出来事
   2.奄美に発給された首里王府の辞令書(与論島からは未発見)
   3.与論島の間切と村(近世)
   4.与論町の大字
   5.与論島の崖葬墓と運天などの墓
   6.与論島のシニグ
   7.古琉球の時代からの針突(パジチ・ハジチ)
   8.近世の与論島の系図にみる琉球的な役職
  おわりに


2008129日(火)

 『なきじん研究』16号(300頁)の「北山の歴史と文化」の執筆・編集にはいる。一気に140頁ほどの原稿整理まで。「ムラ・シマ講座」の下見(本部町具志堅)とノートづくり。これから「与論島と北山(琉球)」の講演原稿のレジュメ作成。同時に13日の「山原のウタキとグスクをみる視点」も。それはぶっつけ本番になりそう。さあ、一つひとつ片づけていきましょう。

 今帰仁村仲尾次の老人会の皆さん、企画展へ。94歳の渡名喜長永翁も。会場を二回も三回も見て回っている。それは、本人たちが歴史の場面に登場しているわけだから。話題も尽きない。それと自分達の公民館にあった文書も展示してあるし。企画する者にとって「ムラ・シマに生きる方々が歴史の主人公である」そのことを実感させられる。「刊行本にできないか」と、どこからかの声あり。有難いです。 

 

 13日の「ムラ・シマ講座」は本部の具志堅です。今年度、最後のフィールドワークとなります。お楽しみに。

 
   本部町具志堅の上間ヤ(上間殿内)      具志堅の神ハサーギ


2008124日(木)

 以前、「与論・沖永良部・徳之島の三島と琉球」のテーマで講演したことがある。今回は「与論島と北山(琉球)のタイトルで講演することに。与論島は「北山の歴史」と深い関わりのあった時代がある。そのあたりを含めて話をすることに。

 それに引き続いて「山原のウタキ・グスクを見る視点」で講演をすることになっている。ボツボツ「恩納村」から与論島とウタキ・グスクへ頭の切り替えをしないといけません。さらに「今帰仁に伝わる伝承・民話」(上)(600頁)と「北山の歴史」(300頁)の発刊に向けての執筆・編集と続く。その間、講演が何本かはいている。どう片づけましょうかね。頭の中身がパンクしないように。さて、「与論島と北山(琉球)から。


2008123日(水)

 なかなか資料や参考文献に目を通す時間がない。不十分であるが、ポンポン書き進めていかないと後が詰まってしまう。修復した図が戻ってきた。明日にでも広げてみることに。

【恩納村安富祖】(『恩納村誌』参照)

 恩納村(ソン)安富祖は1673年以前は金武間切の村の一つであった。1673年に恩納間切が創設されると同間切の村となる。『琉球国絵帳』と『琉球国高究帳』では「金武間切あふそ村」とある。『琉球国由来記』(1713年)になると恩納間切安富祖村となる。また、おもろでは「おんなやきしま あふそやきしま」と謡われている。

 『琉球国由来記』(1713年)に安富祖村の御嶽が二ヶ所登場する。また祭祀場として三ヶ所ある。安富祖巫の祭祀の管轄は安富祖村のみである。

  ・森城嶽(神名:根立森イベヅカサ)
  ・アッタ嶽(神名:コバウノモリイベナヌシ)
  ・安富祖巫火神
  ・根神火神
  ・神アシアゲ

 

 
 
【安富祖の小字】

 安富祖には小字が13ある。喜瀬武原に小字が二つあり、喜瀬武原と廻袋原である。地積上字となったのは昭和23年である。行政区となったのは大正11年に安富祖から分離する。

 ・宜志富原 ・熱田原 ・金良原 ・大堂原 ・赤瀬原 ・高武名原 ・前袋原 ・村内原
 ・明地原 ・正底原 ・浜原 ・クガチャ原 ・上原




 村内原は安富祖の中心となる場所で、村内原の北側の明地原前袋川が流れ仕明地だったとみられる。恩納間切惣地頭佐渡山殿内が水田化したという。戦後になって前袋川の河口を直線的に海に流れを変えた。旧川地は埋立地にした。

 国道沿いに元佐渡山殿内の仕明地あり。

 

【安富祖の旧集落】(明治34年頃)

 明治34年頃の安富祖の中心は小字名の示すように「村内原」に集落がある。そこには、安富祖ノロドゥンチ、村屋(村学校)、耕作屋、地頭代、惣耕作などを勤めた家がある。恩納小学校地(後に現在地の熱田に移動)やウッチン畑が見られる。前袋川沿いに伝馬船着き場や薪津口、それにブリ倉が9棟あったという。また惣耕作やミチグイやマザカヤに高倉が記されている。

 

【熱田の集落】
 ・泊・首里からの移住者(ヤードゥイ)
 ・熱田に居住した泊系統は松茂良(山原船の持ち主)と山田。山田は後に喜瀬武原へ。
 ・首里系統の泉川、佐渡山、喜瀬、幸喜などが移住してきた。
 ・熱田御嶽があるが、移住者の御嶽ではない。
 ・村内集落に熱田から移動して住んでいる人たちの御嶽

【安富祖と山原船】
 伊江島との往来あり。竹茅・山原竹束・薪を伊江島へ。伊江島からは甘藷・豆類など。

【安富祖への芸能の伝播】
 ・安富祖の芝居の練習は御嶽などの拝所で。
 ・後には地頭代屋で
 ・ボージガマへ遥拝する。
 ・根人兼ボウジ頭主出自のハルヌ屋で踊り(ハルヌ屋がないので略)、その後公民館の舞台へ。
 ・本部大主(組躍りは以前からあった。[屋倉」は明治40年に首里人の泉川(良)から教わる。
 ・京太郎 明治35年頃までチョンダラー四、五人が安富祖を訪れ、ノロ殿内や富着屋などの家を廻り
  米一升づつもらった。 


2008122日(火)

 恩納村(ソン)名嘉真と安富祖まで足を伸ばしてみた。手始めに二つの字の地理感覚を体に覚えさせるためである。時々、名嘉真のこと? 安富祖のこと? どの字(アザ)のことだったかなどと混乱を起こすことがある。まずは、恩納村の15の字について、しっかりと体に覚えさせることから。しばらく恩納村の村々を歩くことにする。

 名嘉真の集落内を歩いていると、声をかけられる。「どちらから?休んで行って」と。
    「そこ、流れている川はなんというのですか?」
    「名嘉真川ですよ。どこから来なさったのですか」
    「大和から・・・。海から海水があがってくるのですか?」
       (ウソをつく。丁寧に教えてくれるので)
     「今、潮水があがってきているでしょう。あれ、ザザザーと」

たわいもない会話を交わしていると、「そこによ、仲間節の碑建てたばっかしよ。ウシデークも踊ってお祝いしたさ」と。ウシデークや神行事のこと。ウタキや旧集落のことなどを伺う。「そこの新城だからよ。ちょっと待って」と言って、家から缶ジュース二本、お菓子までも。忘れませんね。このようないいシマは。仲間節の碑建立のいきさつを記した資料をいただく(公民館から)。

【恩納村名嘉真】
 恩納村名嘉真は1673年まで金武間切の村の一つであった。1673年に金武間切と読谷山間切から村を分割して恩納間切を創設した。それ以後、名嘉真村は恩納間切の内。『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』には「金武間切中間村」とあり、『高究帳』の石高を見ると田が157石余、畠が7石余で、圧倒的に水田が多い村であった。その名残は小字名の川田原と新田原の原名にみられる。1713年の『琉球国由来記』では「名嘉真村」と表記さ、以後の資料では名嘉真村である。

 名嘉真(中間)村が金武間切であったことを示すのが、以下の琉歌である。その碑が1128日に建立されている。「金の御前がなし」は金武王子、あるいは金武按司は仲間(名嘉真)から久志辺野古まで領地とし、もう一首は「佐渡山の主御前」で恩納間切の総地頭であり、名嘉真村から真栄田・塩屋まで領地としていたことが読み取れる。間切分割以前の金武間切は西海岸から海岸、恩納間切は北の名嘉真から読谷山間切の村であった南側の塩屋・真栄田まで領地とし、間切の領域が知れる。

  仲間から かいとて
  久志辺野古までも
  金武の御前がなし
  うかけ親島

 もう一首あり。
  名嘉真からけとて
  塩屋・真栄田までん
  佐渡山の主御前かけ親島

 

【名嘉真の小字】
 名嘉真は村内原・浜原・前袋原・川田原・新田原・竿底原・伊武部原・下袋原・ヤーシ原・アンタカ原・金武上原・名嘉真山の12の小字からなる。現在、村内原と浜原に集落が発達している。カンカーの祭祀があり、大島組・新島組・浜組に分かれ、各カンカー毛で祈願がなされ、豚の下アゴを各組の入口に吊し悪疫払いをしたという(『恩納村誌』)。


   名嘉真の12の小字

 名嘉真は古島・新島・浜の三つの集落からなる。古島の方に神アサギや地頭火神、そして名嘉真ノロ殿内(ヌール屋)などがあり、古島から新島、そして浜へと集落が展開していく様子が知れる。近年、古島に新しく家が建っているのが目につく。

【三つの御嶽】
 『琉球国由来記』(1713年)に名嘉真村に三つの御嶽が記されている(以下のように想定されている)。
  ・トマリガシラ嶽(神名:アフスシヅカサ)・・・・新島東側の杜
  ・カワイフ嶽(神名:アフデヅカサ)・・・・・・・・古島の近く
  ・マナツジ嶽(神名:マカサノイベヅカサ)・・・新島と浜の境界を流れる名嘉真川沿い

【名嘉真古島の復元】
 『恩納村誌』に名嘉真の古島集落の復元図が掲げられている。それによると昭和4年頃まで約10戸、昭和43年には3戸、昭和550年には川端屋のみとなる。近年、また住宅が増えつつある。ノロドゥンチを始め、祭祀を司る根神やニーブヤなど旧家が見られる。それと村屋や地頭屋敷跡などもある。川端や玉井は集落内に住んでいる寄住人や寄留人である(姓のみの屋号)。イーフヌヤーの屋号の家があるが、イーフ(深田)の近くにあったことに由来しているのであろう。前袋原当たりの水田は深田だったのであろう(確認のこと)

  ・イーフヌヤー ・イリジョー ・国神小 ・タンパラヤ ・ニーブヤ ・ノロドゥンチ
  ・地頭屋敷? ・前ヌカー ・村屋 ・神アサギ ・国頭屋 ・テラヤ ・根神
  ・クシライ ・ノロドゥンチ小 ・新城ヤ ・玉井 ・ジョーヌ屋 ・谷茶 ・アガリジョー
  ・大屋 ・ミーヤ ・マースヤ ・横目 ・川端 ・金城ヤ ・門口 ・門口小 ・入門小
  ・ニーブ小 ・獅子祠 ・大屋

 名嘉真の豊年祭の番組の導入は、『恩納村誌』に記されている。
  ・組踊りの八重瀬は与那原殿内が村廻りで教授(明治21年頃)(マナツジ嶽で稽古)
  ・女踊りの紅型衣装は御殿家下り(七百五十貫と八百貫で購入)
  ・村遊び棒は越来間切の比嘉・島袋村の人の伝授。

 
    海水が遡流している名嘉真川             名嘉真の海岸の様子

 
      名嘉真ヌール屋            新しく葺きかえられた神アサギ

 
  地頭(名嘉真脇地頭)火神の祠         カワイフ嶽への遥拝所

【名嘉真と山原船】

【倉敷】

【ペリー行が歩いた道筋】

【喜瀬武原】

【名嘉真ー喜瀬武原ー金武】


2008121日(月)

 『金氏家譜』(十一世金聘)(久米系)の記事に、

  「乾隆四十七年(1782)壬寅十月十八日拝授本部間切具志川(今呼浜元)地頭職」
とある。金氏十二世策が本部間切具志川村の脇地頭を拝受して記録である。1782年には具志川村は浜元村になっていたことがわかる。一部は渡久地村へ。村名の消えた具志川村の名の具志川ノロは古琉球の時代から登場する(1607年の具志川ノロ辞令書あり)。具志川ノロの住居は浜元にあった。ノロの名称は浜元村になっても「具志川ノロ」をそのまま継承している。また(脇)地頭も本部間切具志川村を領地とし作得(14石余)賜っているが、浜元親雲上を名乗っている。具志川ノロ家は、現在本部町辺名地(仲村家)に移っている。脇地頭の名と村名が一致しない村がいくつか見られる。

 今帰仁間切謝名村が平田村になったり、脇地頭は平田親雲上を名乗っている。何故か、その理由も興味をひく。按司クラスにもある。例えば、東風平間切の儀村按司、兼城間切の玉川按司、茶田に間切の大村按司など。
  
 
     村制100周年記念式典・祝賀会が開催される(2008.11.30