千代金丸と北山の滅亡(講演レジメ)      

                  シンポジウム (於:今帰仁村コミュニティーセンター)
                                      (2015年12月6日)

                                 仲原弘哲(今帰仁村歴史文化センター館長)                


はじめに 

 千代金丸は金装宝剣拵(号 千代金丸)と報告書などにある。千代金丸はいろいろなところで取り上げられ、あるは研究されているようである。近世から明治、あるいは戦前に千代金丸に触れている文献をとりあげ、そこから見えてくる「千代金丸」について整理してみる。実物をみる機会があったが、現物からコメントする力量はありませんので先行研究を参考にしながらまとめていきます。後に尚真王から北山監守(按司:韶威)に献上された(16世紀初頭)一銘備州長光や一銘相州秋廣についても検討してみる必要がありそう。千代金丸のことを重千金と記したのもある。

   「千代金丸」について記された文献を掲げ、整理してみる。 

1.主な参考文献

 『黎明期の海外交通史』 東恩納寛惇著(初版昭和16年)

「北山の興亡と其の裔」(『伝説補遺 沖縄の歴史』(昭和7年)島袋源一郎著108
 『中山世鑑』
 『琉球国由来記』(1713年)
 『中山伝信録』(1721年)
 『球陽』(読み下し編)昭和49年初版
 「真境名安興全集三巻」(33頁)

 『真境名安興全集』(第四巻)(334頁)
 『南島風土記』(東恩納寛惇著)(389頁)昭和25年発行
 『琉球百話』島袋源一郎著(昭和16年)(100頁)
 「伝説を探る」新聞記事(新聞名?)

 『中世南島通交貿易史の研究』小葉田惇著 昭和14年 昭和43年発行
 『歴代宝案』 

(明国との交易)(省略)

・1371年 明の太祖、楊載を派遣し招論する。中山王察度進貢する。大統暦および綺紗羅を賜る。
     尚巴志生まれる(1372~1439年)
・1374年 中山王察度進貢(使者泰期)し、暦および幣帛(ヘイハク)を賜る。太祖、
      刑部侍朗李浩を派遣し陶器7万、鉄器1000を以って馬と硫黄を購入する。
・宣徳7年(1432)中山王尚巴志をして人を日本に送って、幕府の家臣琉球に来るものあらば、
     柴山の船に同船させ、柴山に銅銭に二千貫を持たせて屏風・扇・腰刀・生漆などを購入。
     翌1433年に琉球に到着。本土で腰刀などの品々を購入している。小葉田淳は「その頃の
     屏風・扇子や高雅な装飾の刀剣類は近畿により多くあつまっていた事であろう」
     (『中世南島通交貿易史の研究』21頁 小葉田淳著)。

 琉明貿易と南海貿易の発展時期、尚巴志より、尚円にいたる時代は大交易時代。

【宣徳9年:1435】(本土にて買得)(腰刀も長短あり)(一貫=10万円)
 ・金龍並銀銅結束靶黒漆鞘嵌金龍腰刀(各帯鞘長三尺一寸八分)(2巴)(約96cm)(314.9貫)
 ・金並結束靶黒酒漆鞘嵌金鳳腰刀(各帯鞘長三尺一寸四分)(約93cm)(2巴)(約95cm)
     (347.6貫)
 ・金龍並銀銅結束靶酒金鞘腰刀(各帯鞘長三尺八分)(約93cm)(20巴)(255.94貫)
 ・金貼銅結束紅漆靶鞘腰刀(長短不等)(20巴)(82貫)
 ・金貼銅結束螺細靶鞘腰刀(長短不等)(20巴)(70貫)
 ・金包銅結螺細靶鞘袠刀(長短不等)(6巴)(169.55貫)

  ※腰刀は鍔がない。短刀。 

3.山北王の明国との交易 

【山北王怕尼芝】1383~1390年)(7)

①洪武16年(1383)正月丁未(3日) 
 詔して琉球国中山王察度にに鍍金銀印并びに織金文綺・帛・紗・羅凡そ七十二匹を賜う。
 山南王承察度も亦た之の如し。亜蘭匏等は文綺・鈔・帛を賜うこと差有り。…時に琉球国、
 三王雄長を争いて相い攻撃す。使者帰りて其の故を言う。是に於て亜蘭匏等を遣(や)り
 て還国せしむるに、并びに遣使した中山王察度に勅した曰く「王、滄溟の中に居り、崇き山
 環(めぐ)れる海に国を為す。事大の礼行わざるとも亦た何をか患(うれ)えんや。

 王能く天を体して民を育て、事大の礼を行う。朕即位してより十有六年、歳ごとに人を遣わし
 て朝貢す。朕、王の至誠を嘉し、尚佩監奉御路謙に命じて王の誠礼に報わしむ。何ぞ期せん、王
 復た遣使し来りて謝す。今内使監丞梁民をして前の奉御路謙と同(とも)に符を齎(もたら)し
 て王に渡金銀印一を賜わしむ。近ごろ使者帰りて言わく、琉球の三王互いに争いて農を廃し民
 を傷つく、と。 

朕甚だ焉(これ)を閔れむ。詩に曰く、天の威を畏(おそ)れ、時(ここ)に于て之を保たん、
 と。王其れ戦を罷め民を息(やす)ましめよ。務めて爾の徳を脩むれば則ち国用永く安からん」。
 山南王承察度・山北王怕尼芝に論して曰く「上帝生を好めば、寰宇の内に生民衆(おお)し。
 天、生民の互相に残害するを恐れ、特に聡明なる者を生じ之に主たらしむ。
 邇者(ちかごろ)琉球国王察度、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず。而して山南王承察度も
 亦た人を遣わし使者に随い入覲せしむ。其の至誠くを鑑(み)、深く用て嘉納す。近ごろ使者、
 海中より帰りて言わく、琉球の三王互いに争い農業を廃棄し人命を傷残す、と。憐
 朕之を聞き憐憫に勝(た)えず。今遣使し二王に論して之を知らしむ。二王能く朕の意を体
 し、兵を息め民を養いて以て国祚を綿(つら)ぬれば、則ち天必ず之を祐(たす)けん。然ら
 ずんば悔ゆるとも及ぶことを無からん」。

②洪武16年12月甲申(1382年)
 琉球国山北怕尼芝、その臣模結習を遣わし方物を貢す。衣一襲を賜う。

③洪武17年正月己亥(1日)(1384年)
 琉球国中山王察度・山北王怕尼芝・暹羅斛国王参烈宝毘偲哆囉禄及び雲南・四川・湖広の諸蛮夷
 の酋長、倶に遣使して表を進め方物を貢す。文綺・衣服を賜うこと差有り。

④洪武18年正月丁卯(5日)(1385年)
 琉球国の朝貢の使者に文綺・鈔錠を賜う。及び駝紐鍍金銀印二を以て山南王承察度・山北王怕尼芝
 に賜う。又中山王察度・山南王承察度に海舟各一を賜う。

⑤洪武21年正月戌子(13日)(1388年)
 琉球国山北王怕尼芝、其の臣を遣わして方物を貢す。

⑥洪武21年正9月丁亥(16日)(1388年)
 琉球国中山王察度・山北王怕尼芝、其の臣甚模結束致等を遣わし、表を上りて天寿聖節を賀し馬を
 貢す。来使に鈔を賜うこと差有り。

⑦洪武23年正月庚寅(26日)(1390年)
 琉球国中山王察度、亜蘭匏等を遣使し表を上りて正旦を賀し馬二十六匹・硫黄四千斤・胡椒五百斤・
 蘇木三百斤を進む。王子武寧、馬五匹・硫黄二千斤・胡椒二百斤・蘇木三百斤を貢す。山北王怕尼
 芝、李仲等を遣使して馬十一匹・硫黄二千斤を貢す。而して中山王遣わす所の通事屋之結なる者、
 附して胡椒三百斤余・乳香十斤を致す。守門せる者、験して之を得、以聞すらく、当に其の貨を没
 入すべし、と。詔して皆之に還す。仍お屋之結等六十人に鈔各十錠を賜う。


【山北王珉】(1)(1395年)

①洪武28年(1395年)正月丙申(1日)
 是の日、朝鮮国李旦・琉球国山北王珉・貴州宣慰使安的并びに金筑等処の土官、各々方物・馬匹を進む。


【山北王攀安知】12)(1396~1415年)

①洪武29(1396年)正月己巳(10日)

 琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶を遣わし、中山王察度、其の臣の典簿程復等を遣わし、各々表を奉り馬及び方物を貢す。詔して来使三十七人に鈔二百四十七錠を賜う。

②洪武29(1396年)十一月戊寅(24日)

 琉球国山北王攀安知、其の臣善佳古耶等を遣わし、中山王世子武寧、其の臣蔡奇阿敖耶等を遣わし、馬三十七匹及び硫黄等の物を貢す。并びに其の寨官の子麻奢理・誠志魯二人を遣わして太学に入れしむ。

 是れより先、山南王其の姪三五郎□を遣わして太学に入れ、既に三年にして帰省す。是に至り、復た麻奢理等と偕に来りて太学に入るを乞う。詔して之を許し、仍お衣巾・靴韈を賜う。

③洪武30(1397年)二月丙戌(3日)
 琉球国中山王察度、其の臣友賛結致を遣わし、山南王叔汪英紫氏、渥周結致を遣わし、各々馬及び硫黄を貢す。

④洪武30(1397年)十二月癸巳(15日)
 琉球国山北王攀安知、恰宜斯耶を遣使し、中山王察度、友賛結致を遣使し、各々表を上(たてまつ)りて馬及び硫黄を貢す。

⑤洪武31(1398年)正月(8日)
 琉球国山北王攀安知、その臣を遣わして表を進め馬を貢す。

⑥永楽元年(1403年)三月丙戌(9日)
 琉球国中山王の従子三吾良□等に宴を会同館に于て賜う。・・・・・

琉球国山北王攀安知、善住古耶等を遣使し、表を奉りて朝賀し方物を貢す。鈔及び襲衣・文綺を賜う。善佳古耶、攀安知の言を致し、冠帯・衣服を賜いて以て国俗を変ずるを丐(こ)う。上、之を嘉し、礼部に命じて其の国王曁(およ)び臣に冠帯を賜う。

⑦永楽2年(1404)三月己未(18日)
 琉球国山北王攀安知、亜都結制等を遣使して方物を貢す。銭・鈔、文綺、綵幣を賜う。

⑧永楽2年(1404)四月壬午(12日)
 詔して汪応祖を封じて琉球国山南王と為す。応祖は故琉球山南王承察度の従弟なり。承察度は子無く、臨終に応祖に命じて国事を摂らしむ。能く其の国人を撫し、歳々に職責を修む。是に至り隗谷結制等を遣使し来朝して方物を貢す。且つ奏して山北王の例の如く冠帯・衣服を賜わんことを乞う。
 上、吏部尚書蹇義に論して曰く「国は必ず統有り、衆を撫し、且つ旧王の属する所の意なり。宜しく言う所に従いて以て遠人を安んずべし」。遂に遣使して詔を齎して之を封じ、并びに之に冠帯等の物を賜いて其の使いと倶(とも)に還らしむ。

⑨永楽3(1405年)四月丙寅(1日)
 琉球国山北王攀安知、赤佳結制等を遣使して馬及び方物を貢す。賜うに鈔錠・襲衣・綵幣表裏を以てす。

⑩永楽3(1405年)十二月戊子(26日)
 琉球国中山王武寧、山南王汪応祖、山北王攀安知、西番馬児蔵等の簇、四川・貴州の諸士官、各々人を遣わして方物を貢し、明年の正旦を賀す。

⑪永楽13(1415年)四月丙戌(19日)
 琉球国中山王思紹並びに山北王攀安知、人倶に遣使して馬及び方物を貢す。

⑫永楽13(1415年)六月辛未(6日)
 琉球国中山王思紹・山北王攀安知の使臣辞す。悉く鈔幣を賜う。 


4.「明実録」(三山王時代の琉球国と東南アジアの国々

山北王・中山王・南山王の時代、明実録の記事に三王の名が記されない記事がある。三山を三山を琉球一国とみている可能性がある。そのことについては、ここで扱わないが、東南アジアへの方物の中に刀剣が重要な品であったことが窺われる。尚巴志の時代、中山・北山・南山も大和から入ってきた刀剣類をもって東南アジアへの礼物として輸出したとみられる。中継貿易の拠点としたと見られる。

占城(チャンバ)・真臘(カンボジア) ・暹羅(アユタヤ) ・三仏齋(パレンバン) 

・瓜哇(ジャワ)・渤泥(ボルネオ) ・高麗

 【朝鮮との交通記録】

・1392年 察度、朝鮮へ二度使者を派遣する。
・1394年 察度、朝鮮へ使者派遣する。
・1398年 山南王温沙道、朝鮮へ亡命。10月客死。
・1400年 察度、朝鮮へ使者派遣、世子武寧も方物を献上する。
・1409年 山南王、朝鮮へ阿乃佳結制を派遣する。
・1410年 山南王、朝鮮へ模都結制を派遣する。
・1415年 将軍足利義持、尚思紹(りゅうきゅう国よのぬし)の文書を送る。
・1416年 北山王攀安知、中山に滅ぼされる。
・1420年 中山王佳期巴那をシャムに派遣。 

【旧港との交通記録】(パレンバン・チューラ・ジャンビ)(マレー半島)

 旧港との交通は1426年尚巴志に文書に登場する。磁器を搭載し胡椒を買い入れる。礼物として素段、大青盤、小青盤など。舊港との交通か以下のように8回見られる。宣徳3年(1428)に袞刀二柄、腰刀二柄。宣徳5年10月5日?の腰刀二把がある。舊港への礼物の中に刀があったことがわかる。つまり琉球側からの貢物である。 

 ・宣徳三年(1428) 9月24日実達魯などを舊港に遣わす。
 ・  同      10月5日 同上
 ・宣徳5年(1430)10月18日 歩馬結制等を遣わし舊港に書を送る。
 ・宣徳6年(1431)2月3日  舊港より来信。
 ・正統3年(1438)10月4日 阿普尼是等を舊港に使す。
 ・ 同      10月26日 同上
 ・正統5年(1440)9月    同上
 ・正統5年    10月4日  同上 

【マラッカとの交通記録】(室町中期足利義政頃~50年間)(尚徳・尚円・尚真の時代)

 マラッカとの交通は1463年~1480年まで間15回みられる。天順7年(1463)に腰刀五把、天順8年(1464)に腰刀五把、成化元年に腰刀五把、成化2年(1466)に腰刀五把、成化3年(1467)に腰刀五把。その年まで腰刀が五把礼物に記録されている。その次の成化4年(1468)年から以後、成化16年までの礼物に刀の記載がみられない。

 

【爪哇との交通記録】(ジャワ)

 永楽2年(1430)10月18日附で尚巴志が南者結制等を爪哇に遣わしたのが文書に見える最初のようである。この年は尚巴志が山南を滅ぼし三山統一し、尚巴志は南者結制を爪哇に使わした文書があるようだ。同じ年の同日に三佛齋にも使節を派遣している。4回の使節派遣が見られる。

 ・永享2年(宣徳5:1430)10月18日 南者結制等を爪哇に派遣する。
 ・永享12年(正統5:1440)10月16日楊布等を爪哇に遣わす。
 ・嘉吉元年(正統6:1441)4月19日阿普斯古等を爪哇に遣わす。風にあって翌年福健より帰る。
  7月6日達福期等を爪哇に派遣、10月1日風にあって同月3日再び行く。
 ・嘉吉2年(正統7年、1442)10月5日楊布等を爪哇に遣わす。

 

 宣徳5年に腰刀五把、正統5年(1440)に腰刀十把、正統6年(1441)腰刀拾把、正統7年(1442)腰刀拾把がみられる。

  


【狒太泥との交通】

 



【暹羅との交通】 

 


5.貿易品の方物(刀剣類)

 「大明会」記載の貢物

 馬・盔(カイ・かぶと)・鎧・劔(つるぎ)・腰刀・鎗(やり)・塗金装金綵屏風・・・・・瑪瑙・水晶数珠・硫黄・蘇木・牛皮など20種類。琉球貢物の大部分は南洋諸国のお土産であるが、刀・金銀酒海・金銀粉厘・擢子扇などは日本品である。

 

・洪熙元年(1425)閏7月中山王尚巴志より献上された方物

 ・金包鞘刀 二把
   一把 帯鞘長二尺一寸五分
   一把 帯鞘長二尺刀把露木一寸
 ・金結束鞘 二把
   一把 帯鞘長一尺九寸五分
   一把 帯鞘長一尺七寸五分
 ・金結束長刀 二把
   一把 帯鞘長四尺七寸五分
    一把 黒漆鞘一連長 三尺七寸五分
 ・金帯銅結束鞘刀 二把
   一把 帯鞘長三尺一寸
   一把 帯鞘長二尺九寸五分
 ・漆鞘袞刀 四把内長長短不齋
   長刀 三把内長短不齋
 ・黒漆鞘腰刀 六十把各長短不等

 

※進貢の方物の中に、刀剣や屏風の類は不可欠の品物のようである。日本刀を珍重して
 いた。明時代は北方民族になやされていたため日本刀を珍重していた。室町時代の貿易
 は刀剣類が重要な品物であった。 

※天文8年(1539)大内義弘が将軍義晴に命じた進貢したときの目録
  第一号船積載太刀数12954把、第二号船5875把、第三号船5323把、三隻の合計24152把
  その他に自身用に710把、総計24862把の大量である。

 

 御商物目録によると、太刀850丁代850貫文、一口一貫文(今の10万円)になる計算。武具だけで24862貫文が74586貫文の三倍となる。輸出過剰で一時下落したし、一貫800貫文、それでも8割の拾利益があった。琉球の方物に刀剣類が多数見られるのはそのことがあってのことである。(近世まで続く) 貿易品の外に琉球国内でも使用されたのが、旧家に残る刀剣とみられる。尚家に所蔵された刀剣類も束糸の巻き方が室町時代に属するとするのもそうである(関保之助氏の鑑定)。

 首里山川町の天山の古墳から木瓜形の大切羽一枚確認、鎌倉末期に属する(山上八郎氏鑑定)。
 室町期頃において多数の武器類が琉球に渡り、明貿易品として利用、自家用にも使われた。

 

【嘉靖14年大明へ謝恩の使者あり】(1537年)

 金靶鞘腰刀二把(きんのつかのさやのわきざし)
 銀靶鞘腰刀二把(ぎんのつかのさやのわきざし)
 紅漆螺鈿鞘鍍金銅結束袠刀 二十把
 紅漆鞘鍍金銅結束腰刀 二十把
 紅漆螺鈿鍍金結束腰刀 二十把
 紅漆鞘鍍金銅結束腰刀 四十把
 黒漆鞘銅結束腰刀 八十把

【嘉靖18年慶賀】(1539年)
 金靶鞘腰刀 二把
 銀靶鞘腰刀 二把
 鍍金銅結束紅漆靶鞘袠刀 十六把
 鍍金銅結束紅漆鞘沙魚皮把腰刀 十把
 金結束黒漆鞘沙魚皮把腰刀 二把
 鍍金銅結束漆把鞘袠刀 十二把
 鍍金銅結束漆鞘魚皮靶腰刀 十把 


6.琉球側の千代金丸の資料

 

『中山世鑑』三巻 40 41
・・・・・・去る程に山北王某を招いて二の丸へ引下り神代より城守護のイベとて崇め奉りし盤石あり其の前て宣いけるは、今はイベも神も諸共に冥土の旅に赴かんとて腹搔き切り、反す太刀にて盤石イベを切り破り後様へ五町余りの重間河へぞ投げ入れ給う。

 

 

『琉球国由来記』(1713年)(永楽20年尚巴志即位の条)

「北山の滅亡」と千代金丸
 去る程に山北王、今は是までぞ。今一度、最後の会戦して、心よく自害をもせんとて、赤地の錦の直垂に、火威の鎧を着、龍頭の甲の緒をしめ、千代金丸とて、重代相伝の太刀をはき、三尺五寸(約106cm)の小長刀を腋(ワキ)に挟み、花やかに鎧ふたる、兄弟一族、只十七騎、三千余騎の真中に懸入り、面も振ず、火を散してぞ、もみ合ける。

  (略)

 去程に、山北王、其の兵を招て、サノミ罪を作りても、何かせん、人手に懸んと、末代の耻辱ぞ
かしとて、二の丸へ引上り、神代より、城守護の、イベとて、崇奉りし、盤石あり。其の前にして、宣けるは、今は、イベも、神も諸共に、冥途の旅に赴んとて、腹掻切て、反す太刀にて、盤石のイベを切り破り、後様へ、五町(500m余)余りの、重間河(志慶真川のこと)へぞ、投入給。七騎の者も、思々に自害して、主の尸を、枕にしてぞ、臥せたりける。

    【具志川家家譜の今帰仁旧城図のイベ】

 

『中山世譜』

 今に至り神石尚ほ存す。而して十字の開の跡あり。剣の名は千代金丸。沈みて重間河に在り後に葉壁の人之を獲。又城門外の一大石上に王の乗る所の馬蹄の跡あり。皆山北の古蹟なり。

 

『中山伝信録』(1721年)

 百年の後流れて水漲渓に至り、光天を挿す。伊平屋島の人之を獲て中山に献上ず、今王府第一の宝剣とす。

 

 『球陽』
 『球陽』の記す所によれば、巴志幼年の時、嘗つて与那原に遊び鍛冶屋をして剣を造らしむ。鐡匠農具を造ることに忙しく剣を造ること甚だ遅し、巴志屢々(しばしば)徃いて之を督促す。匠人詐つて巴志の面前に於いて剣を鍛錬して成る。或る日巴志此剣を帯舟遊びをなせるに忽ち大鱶踊上り舟将に沈没せんとす。巴志直剣を握りて突立つ、鱶怖れて逃げ去りしという。
 その頃本土の商船鉄塊を載せて与那原に来り貿易をなす。即ち巴志帯ぶる所の剣を見て瀕りに之を求めんことを欲し、遂に満載せし鉄塊を以て之を購う。巴志多くの鉄を得、兵器を造らず、悉く農民に分与して耕具を造らしむ、百姓感激せざるものなく、為に産業俄に興り民力充実するに至る。云々

「真境名安興全集三巻」(33頁)

【北山王自刃の宝刀】
 故小松下御至愛の北山王自刃の宝刀
 千代金丸
 刀身二尺三寸六分
は、明治42年の夏手入した当時の鑑定の大家今村長賀、関保之助氏が天下の至宝なりと折紙をつけたようである。
 尚家の由来書は史にある通りであるが、麹町の今村長賀、小石川の関保之助氏の折紙にはこう書いてある。
 千代金一口、作者不明拵への年代足利時代に属す。大切羽二枚完備せるは、他に類なき珍品なり。柄は短くして騎兵刀の様式を具へ頭槌形に成り能く握るに適す。柄糸の巻方古式にして頗る珍重すべし。別に柄袋を調整して覆ひ置くべきは勿論取扱すべて鄭重にして糸を損ぜざるよう心得肝要なり。
 ―頭菊紋の毛彫は想うに琉球特有の作ならん。京都の作りとは思われず。刻する所の大世の二字、尚泰久王世代所鋳大世通宝の銘文と字格頗る相似たり。蓋し大世は同王神号代世主にとるか。鐔猪の目の金の中、覆輪最珍也。
 鞘の熨斗付金に継目あるは帯取の跡なり。刀身の地金細かにして焼刃亦同断。要之伝家の宝刀たるのみに非ず、以て天下の至宝とすべし。―刀身が二尺三寸六分、刀紋乱れ刃で裏と表にご本の腰樋(こしひ)がある。中心が三寸六分七厘で重さが九十六匁、目貫は金唐花で目釘また金無垢である。
 柄頭は頭槌形で菊紋も彫、ここに折紙で不思議がられている問題の「大世」この二字が彫まれている。・・・・
 千代金丸はただの一度もわれらの眼にふれようとはしなかったが東京で報知新聞社の名宝展に出展され世の宝剣家のすべてへ声をかけようとしている。不思議な機会が開かれたものといってよい。前後一度その手入れの時立合った人々は先代の尚侯爵夫妻と家令家職のもののほか前に来た鑑定者二人、研師の井上行造、杉本次郎、鞘師小堀政治との門人一名であった。 

『南島風土記』(東恩納寛惇著)(389頁)に、
 伝に、古へ山北王、中山に滅ぼさるゝに當り、其の佩刀を取りて是れに投ず、後伊平屋島の人これを獲て中山王に献じたり、今侯爵尚氏に蔵する所の千代金丸これである。伝信録重金丸に作る。方音千代チユにひゝくからである。大島筆記をこれを承けて、「重金丸の事を尋しに、それは琉球王第一の宝剣にて王府の中に秘蔵してあり、霊徳あり、前方王府回録のありしにも、どうして出たやら、脇にうつり存て、無恙由なり」

【千代金丸】
 刀身長 二尺三寸六分、匁乱刃、表裏五本ノ腰樋有之
 中心長 三寸六分七厘、刀身重量 九十六匁、柄頭 頭槌形、菊紋毛彫大世ノ文字有之、目貫 金唐花、目釘金無垢、鎺(ハバキ) 烏銅、色絵菊紋散文字一字有之、縁 菊紋毛彫、柄糸 鶯茶、巻下地 萠黄金襴、鐔(ツバ) 木瓜形、烏銅色絵菊文散、鯉口 金枝菊高彫鞘 金慰斗付、小尻 鯉口ニ同ジ、帯取 金物無之。

(備 考)(390頁)
 千代金丸一口、作者不明、拵の年代足利初代に属す。大切刃二枚完備せるは他に類なき珍品なり。柄は短くして騎馬兵刀の様式を具へ頭槌形に成り、能く握るに適す。
 柄糸の巻き方古式にして頗る珍重すべし。頭菊文の毛彫は想うに琉球独特の作ならん。京都作とは思われず。刻する所大世の二字尚泰久王世代所鑄大世通貨の銘文ニ字尚泰久王世代所鑄大世通貨の銘文二字格頗る相似たり。蓋し大世は同王神号大世主に取るか。

 鐔猪の目の金の中覆輪最珍也。鞘の慰斗付金に継目あるは帯取の迹なり。刀身の地金細かにして焼刃亦同断。要之伝家の宝物たるのみあらず。亦以て天下の至宝とすべし(今村長賀・関保之助両氏鑑定)。

 蓋し、この刀は尚巴志(1372から1439年)時代に盛んに支那に輸出された金結束袞刀の一種であって、山北滅亡の前年に尚巴志の長孫尚泰久が生まれているから、後に尚泰久に伝えられ、泰久時代に多少の改装を加えて今日に至ったものであろう。

 

今村長賀
 今村長賀 (いまむらながよし、1837年(天保8)土佐生まれ。1888年(明治14)宮内庁御用掛、1886年(明治19)、東京九段の遊就館取締りとなり武器甲冑の整頓、鑑別を託された。全国有名寺社旧家の武器を調査、刀剣鑑定家としての名声をあげた。晩年、宮内庁御刀剣係となる。蒐集した刀剣は3000振りと言われている。1910年(明治43)12月27日、東京麹町で死去、享年74。

※関保之助(せき やすのすけ)
 1868-1945年 明治~昭和時代前期の有職(ゆうそく)故実研究家。慶応4年4月10日生まれ。有職故実の資料,古武器の収集・研究家として知られた。明治28年帝室博物館はいり,昭和8年東京帝室博物館芸委員。母校東京美術学校(現東京芸大)や京都帝大でもおしえた。昭和20年5月25日死去。78歳。江戸出身。

 

『南島風土記』(東恩納寛淳著:昭和25年版 389頁

 伝に、古へ山北王、中山に滅さるゝに当り、その佩刀を取りて是に投ず、後侯爵尚氏に蔵する所の千代金丸これである。伝信録重金丸に作る。

方音千代チュにひゝくからである。大島筆記これを承けて、「重金丸の事を尋しに、それは琉球王第一の宝刀にて王府の中に秘蔵してあり、霊徳あり、前方王府回録のありしにも、どうして出たやら、脇にうつり在て、無恙由なり」

2.千代金丸・治金丸・北谷菜切の鑑定書(明治42年)
 イ、千代金丸
  刀身長    二尺三寸六分、刃文乱刃、表裏五本の腰樋有之
  中心長    三寸六分七厘
  刀身重量    九十六匁
  柄  頭   頭槌形、菊文手彫大世の文字有之
  目  貫   金唐花
  目  釘   金無垢、
  鎺(はばき)烏銅、色絵菊文散文字一字有之,
  縁      菊文毛彫
  柄  糸   鶯茶
  巻下地     萌黄金襴
  鐔(つば)  木瓜形、烏銅色絵菊文散
  大切羽     色絵菊文散
  鯉 口    金枝菊高彫
  鞘      金熨斗付
  小 尻    鯉口に同じ
  帯 取    金物無之

【備 考】
 千代金丸一口、作者不明、拵の年代足利初代に属す。大切羽二枚完備せるは他に類例なき珍品成り。柄は短くして騎兵刀の様式を具え頭槌形に成り、能く握るに適す。
 頭菊文の毛彫は想うに琉球特有の作ならん。京都作とは思われず。刻する所大世の二字尚泰久王世代所鑄大世通宝の銘文二字と字格頗る相似たり。蓋し大世は同王神号大世主に取るか。
 鍔猪目の金の中覆輪最も珍也。鞘の慰斗付金に継目あるは帯取りの迹なり。刀身の地金細かにして焼刃亦同断。
 要之伝家の宝物たるのみにならず、亦以て天下の至宝とすべし。(今村長賀・關保之助両氏所見)

【東恩納寛淳氏のコメント】
 蓋し、この刀は尚巴志(1429~1439年)時代に盛んに支那に輸出された金結束袞刀の一種であって、山北滅亡の前年に尚巴志の長孫尚泰久が生まれているから、後に尚泰久に伝えられ、泰久時代に多々の改装を加えて今日に至ったものであろう。

 

治金丸(今村長賢・関保之助両氏の鑑定) 『南島風土記』(東恩納寛淳著:昭和25年版 110頁)
 刀身長   一尺七寸八分刃紋乳刃刀表裏四本樋
 中心長   四寸一分
 刀身量数  一百七匁
 柄頭    角頭巻懸柄
 目貫    黒ミ銅、桐紋
 目 釘   竹
 鎺(はばき)金着セ
 柄糸    鶯茶
 巻下地   黒塗鮫
 鐔(つば)  木瓜形烏銅色絵菊紋散(千代金丸の鐔(つば)と同形同大、但し緒覆輪剥落)
 大切羽   烏銅色絵菊紋散
 鞘     黒花塗
 小尻    丸小尻
 粟形    黒塗黒塗鴻目金
 反角    黒塗
 小柄    金含烏銅入絵雲形紋様
 小刀    無 之 

【備 考】
 治金丸一口、年代千代金丸に同じ、刀身地金見事也、焼刃亦細、作者は応永頃の信国乎、柄糸の巻方、頭に巻懸け、頭と糸との間に空隙あり、親鮫の位置第二の菱形に当る、但し古式也、今日完存するもの稀也、袋に包み、手を掛けないよう心得肝要也、小柄及び紋様共に名作、珍重すべし。

 おもろさうし八の二十八に

    おもろ ねあがりや 

    いみやけど 世は まさる

    てがねまる しまけねて きより

 

同六の三四に、

    きこえ きみがなし

    とよむ きみがなし

    これど だにの まてだやれ

    つくしちゃら はきよわちへ

    てがねまる さしよわちへ

「てかねまる 宝剣の名也」 

ハ.北谷菜切一口 『南島風土記』(東恩納寛淳著:昭和25年版 377頁

 刀身長 七寸六分
 中心長 二寸七分、
 刀身  量数十六匁
 柄頭   金唐草唐花彫
 目貫 無し
 目釘  黒角、
 鎺(はばき) 金着 但し鎺(はばき)は鞘の中へ食い込み無之。
 縁  頭に同じ
 柄   金着
 鐔(つば) なし

鞘     両□青貝摺
 小尻    頭に同じ、
 粟形    同上

 裏瓦   同上

 反角   同上
 小柄   金含、雲に貘の高彫、裏に篆字及び分銅形毛彫
 笄(ケイ・こうが)篆 金着、桃枝の高彫、裏に篆字(てんじ)
 下緒       お納戸色石打

【備 考】

 刀身摩滅、作柄不明、焼刃は鐔(つば)元少し存在、年代四五百年程、地金よし。
 

因みにいう、おもろに、刀の異名として、「つくしちゃら」があり、混効験集に筑紫刀の字を充ててある。海録巻八の三八に、「筑紫長刀、芝愛宕下に河野良意という医師あり、その所蔵に大友家の旧物の由にて薙刀あり、今のものとはやや異なり、その製如此、見ればおぼつかなし、筑紫長刀と云う物は、其の製少し異なるなり」云々とあるを思えば、筑紫の長刀は筑紫長刀ともいうべきものにやあらん。亀山侯の大夫松平帯刀君の所蔵にも右のような長刀これあり、もとは播州の古祠より出し物といへり。随意観必図の中に釣刀とて出せる右信州諏訪所有古刀、長三尺、美成按にこの物も亦筑紫長刀なるべし。

『東恩納寛惇全集10』

 以上は今村・関二氏の大要であるが、歴代宝案所文書に依ると、尚巴志以来歴代進貢諸物の中に「鍍金胴結束線紮靶紅漆腰刀何把、鍍金胴結束螺鈿靶鞘袞刀何把」等の品目が毎次挙げられているが、この刀も多分その一であろうと思われる。山北滅亡の前年に尚巴志の長孫尚泰久が生まれているから、後に尚泰久に伝えられ、泰久時代に改装されたものに違いない。その金光燦然たる大観にも時代の豪華を認めるに足るものがあって、而してその豪華は支那・朝鮮及び南洋各地との貿易によるもので、鐘銘に、舟楫を以って万国の津梁と為し、異産至宝十方刹に充満せり、とあるのはこの事を自賛したものであろう。(285頁)

『補遺伝説 沖縄の歴史』115頁 島袋源一郎

 

『琉球百話』島袋源一郎著(昭和16年)(100頁)
 此の千代金丸は現に東京尚侯爵家の所蔵に係り其の宝物写真は大正十四年十二月発行啓明会第十五回講演集の口絵に載せてある。刀身二尺三寸六分、明治三二年小松宮殿下台臨の折、御観賞を蒙り其の後も屢々御噂をせられ給いしといい、又明治42年御手入の時斯道の諸大家より天下の至宝と激賞されたという。其の鑑定に依れば「室町時代の作にて、大功刃二枚完備せるは他に比類なき珍品なり、柄は短くして騎兵刀の様式を具へ、頭槌形に成り能く握るに適す、柄巻の糸方古式にして頗る珍重すべし・・・・・頭菊文の毛彫は想うに琉球特有の作ならん、京都の作とは思われず、・・・・之を要するに伝家の宝刀たるのみならず、以て天下の至宝となすべし」云々。

【尚巴志の名刀】(「球陽」読み下し)116頁
・・・・・時に城中に一霊石あり。攀安知常に拝して神と為す。此の日智尽き力窮る。其の石を叱して曰く、予今死なん。汝豈独り生きんやと。剣を揮ひて石を劈(サク)り、自ら刎ねて亡ぶ。是れに由りて山北、復、中山に帰す(今に至るも神石を尚存す。而して十字劈開の跡有り。剣は千代金丸と名づけ、沈みて重間河に在り。後、葉壁の人、之れを獲。又城門外の一大石上に、王乗る所の馬の蹄有り。皆山北の古蹟なり)。

 

『伝説を探る』―千代金丸霊石を両断―(新聞記事)
 尚巴志の率いる聨合□□□三昼夜激戦の□□止むなきに至った時に攀安知は城中に鎮護の神として一霊石を祀ってあったが己に力尽きて自刎するに臨み、重代相伝の宝剣千代金丸を持って霊石を□断し、その腹切掻切って刀を志慶真川へ投げ棄てた。伝信録に依ると「其剣流れて水漲渓(親泊の東側今にミヂハイと呼ぶ)に至り、光大を挿す。伊平屋の人之を獲て中山に献ず、今王府第一の宝剣とす」と記してある。

 此の宝剣千代金丸は今東京の尚候爵邸秘蔵の宝物となっているが、刀身ニ尺三寸六分、明治二十三年小松宮殿下台臨の折御感賞を蒙り、又明治四十一年御手入の時斯道諸大家より『天下の至宝』と激賞されたとのことである。

 当時の「鑑定書」によれば足利時代の作りで、切羽二枚完備せるは他に類例なき珍品なり。柄は短くして騎兵刀の様式を具へ、頭槌形に成り能く握るに適す。柄巻の糸□古式にして頗る珍重すべし・・・・頭菊紋の毛彫は想うに琉球特有の作ならん京都の作とは思われず。之を要するに伝家の宝刀たるのみならず以て天下の至宝となすべし云々」此宝刀は右の如く余り他に類例を見ない程のもので、しかも古琉球の作品だということであるが之に大世の文字が刻まれているというのから考えると大世主即ち尚泰久王が愛蔵していたことに相違なく結局北山王の滅亡後尚巴志王家の宝物となり、更に王統改変後第二尚王家に移ったものであろうといはれている。宝物の写真は大正十四年十二月行啓□第十五回講演集口絵参照)

※切羽は鐔(つば)を挟むように装着される薄い板金。
  鐔(つば)は柄の縁を鎺(はばき)に挟まれた部分に付けられた金具。柄を握る手を保護するため、
  また刀の重心を調整するためにある。刀を抜くときは、鞘の上部を握った左手の親指で鐔を押す。

 

宮城真治が調査(昭和17年)した今帰仁城内の上の岳(ウイヌウタキのイベ:テンチヂアマチヂ)

 

『古代の沖縄』1972年版:421頁)。「受剣石の行方」
・石の高さ地上 5尺8寸3分(約1.76m)
・石の周り 16尺4寸3分(約4.97m)
  向かって斜め右上より斜め左下に裂けたる跡  4尺2寸4分(約 1.28m)
  なお、同所より更に裂け目の隠れて現われざる部分 2尺1寸(約 63cm)
  向かって斜左上より斜め右下に裂けたる跡 2尺1寸2分(約64cm)
  なお、同所より更に裂目の隠れて現われざり部分 1尺3寸(約39cm)
  切り落とされたと称する二刀の間の高さ 1尺9寸(約57cm)
  同じく幅  1尺6寸(約48cm).
  右の通りとなっていた。然るに昭和28年5月10日に行って見ると、先年の戦禍によって傷ついたものか(写真)の如く数個に砕かれていた。

 

『沖縄の城跡』「宝剣千代金丸と受剣石」(新城徳裕著66~70頁)

  「思うに尚巴志は佐敷の一隅より起り、粉々たる百余年の騒乱を掃とうして王業を定めしより七代64年にして滅亡するに至った。まことに権花一朝の夢というべきである。然るにこの一世紀足らずの間に、内は三山を平定して民心を統一し、国門(中山門)を建て遊園(竜譚池周辺)を設けて都府を美化し、外は明国(中国)との貿易を盛んにして経済の充実をはかり、且つ本土との交通を復活し、両国の文物を輸入して文化の発達をうながし、神社仏閣を建立して宗教思想の根底を啓培し、あるいは鬼界を征伐して国威を輝かし、洋々として開明に進み、泰平のきざしようやく現れんとしたが、布里の乱や阿麻和利の反逆などがあって、群雄割拠時代の余波、いまだ静まらなかった」(島袋源一郎:沖縄の歴史)を引用されている。尚巴志が南山の佐敷城から起り、大里按司の汪英紫を滅ぼし、大里を手にし、中山に接近する。中山の武寧を滅ぼし、思紹を中山の王にし、山北・山南を討伐して三山統一をはかった背景には大和との通交、明国との交易、さらには朝鮮や東南アジアとの通交で経た経済力が大きな力となっている。


7.尚巴志の動きと北山 

尚巴志の三山統一が始まった佐敷は前述の通り、決して大きな領地ではありませんでした。
近隣の按司の中で最大勢力を誇っていたのは、島添大里城の主で南山王の叔父の汪英紫で、南山王と同等かそれ以上の力を持っていました。
 この汪英紫は尚家の親戚にあたる大城按司を討っており、尚巴志にとっては仇であったようですが、汪英司が生きているうちは攻め入ることが出来なかった、と言われています。
 汪英紫の死後、長い雌伏の期間に国力を蓄えた尚巴志は、島添大里城を制圧し、ここに拠点を移し、その南山王とも力を二分した島添大里を支える広大な領地を手に入れます。この地を手に入れたことにより、尚巴志は琉球の統一を狙える位置についたのです。
 しかし、未だに南山王は健在で強い力を誇っており、南山を統一するのは難しい状況であったため、中山の武寧王を攻め、ついに地方の小按司から中山を支配するにまで至ったと伝えられます。


8.刀剣を持つ旧家(参考)

①本部村並里(満名) 上の殿内(満名富家)
 並里家は当地方における旧家にして今帰仁本部及び県下各地方より神拝みとし巡礼する者甚だ多し。同家上座敷の左隅に御棚あり、按司位牌三個を祀り霊前古櫃の中には古刀三振(大一本2尺7寸、小二本1尺5寸宛)


②久志村川田(根謝銘屋)
 根謝銘屋には絹地の衣類、古刀及び黄金かぶの簪などの遺物を保存せしが、火災の為焼失して、今は類似の品を以って之に代えたり。同家客間の右方に特に神壇を設けて祖霊を祀る。

③国頭村安田屋号川口
 同家には遺物として黄金カブの男挿簪及び一尺一寸五分の古き短刀一振を蔵せり。外に古文書として万暦十五年(1587)二月十二日の辞令書。


その外にも古刀の記事を散見することがある。今帰仁按司(韶威)が北山に派遣されたとき(弘治年間)、脇指二振(銘備州長光と銘相州秋廣)・御鎧(銘行平)(兵火により失う)を賜っている。

 

⑤伊是名村銘刈家

 

  ▲脇差                        ▲長刀(軍刀?)

年代不明 脇差:総長51.7cm 刀身長:37.4cm
          長刀:総長95.0cm  刀身長:69.5cm
    (鞘は白鞘、朴の木) 

⑥大宜味村田嘉里の屋嘉比ノロ家の遺品

【大宜味村田嘉里の勾玉(玉ガーラ)・簪・脇差(刀)】
 大宜味村田嘉里の屋嘉比ノロ殿内の遺品調査。竹筒二本。大きい竹筒の勾玉と水晶玉(ガラス玉)。大きい竹筒に「屋嘉比のろくもい代合之時日誌」と墨で書かれている。竹筒の蓋の内側にも墨字がある。大の竹筒の中に勾玉と水晶玉(ガラス玉)が納めれていた。
  ・緑色かかった勾玉一個
  ・水晶玉(ガラス玉) 二つの輪になっている。(勾玉側□個)
 小さい竹筒に、
  ・簪(かんざし)
  ・小玉の勾玉(玉飾り)(青・乳白色・半透明)(玉ガーラ)
  ・外れた勾玉一個(青)

【脇差】
  ・刀剣(柄部分なし、棟区(むねまち)・刃区(はまち)・目釘穴・鎺(はばき)・反りあり

・全長□㎝・刃長(□㎝)
  ・鞘(下緒がついている・栗・子尻)・鍔や切羽は失っている)
  ・刃長□cm  鉄 鍛造  目釘穴1個 

【竹筒にのろ代合の年号?】
 「屋嘉比のろくもい代合之日記入箱」の墨字がある。また蓋の内側に同墨書きがる。それとは別に「□□四拾二年□□」の線堀がある。琉球で使われてきた中国年号で「四拾一年」以上あるのは、嘉靖(1562年)と万暦(1613年)と康熙(1702年)、そして乾隆(1776年)の四時代である。その年代が特定できると勾玉、簪、脇差などの遺品が、首里王府から就任、あるいはノロの交代時期がわかる。それと竹筒に「代合之時日誌」とあるのは、それ認証の辞令書が複数枚あった可能性がある。

 注目されるのは、それらの遺品(10枚近いのろ衣装)と「おもろ」で謡われた「やかひ杜」と屋嘉比ノロの存在である。やかひ杜はういグスク(根謝銘グスク)の大城(『琉球国由来記』の見里村の中城之嶽」をさしている可能性がある)、屋嘉比巫火神は見里村にあるからである(ノロ家は麓から現在地に移動したという)。

 
   ▲二つの竹筒と簪と勾玉と水晶玉など                           ▲脇差(刀剣と鞘と鎺(はばき)

 
    ▲勾玉と水晶玉(ガラス玉)(玉ガーラ)                  ▲「□□四拾一年□□」の線彫がある

 
     ▲簪のかぶ部分                           ▲勾玉(玉ガーラ)や簪などをいれた竹筒 

・大宜味村の城ノロの遺品

 


・今帰仁村内間御殿の太刀

 諸志の内間御殿

 

 

 

おわりに