山原の集落とウタキと神人                  トップヘ

 

 


沖縄の村(ムラ)を見ていくとき、『琉球国由来記』(1713年)の村や神アシアゲや御嶽などの確認をする。それは1700年頃から2000年の約300年近い歳月で、由来記にある村や神アシアゲや祭祀がどう変貌しているかの確認でもある。その中の特に山原の「神アシアゲ」はそのほとんどが今に伝えている。明治から現在まで大きく変貌する中で、300年という歳月で9割以上残っているのは、確固たる史料がなくても、歴史を読み取っていく上で無視できないものがある。仲宗根村が明治41年に字仲宗根なり、小さな集落がマチとして発達していくが、近世から継承されてきた御嶽や神アサギやカーなど祭祀に関わる空間も形として遺し続けている。執り行う神人の継承がほとんどなされることなく消えつつある。

  1700年以前の移り変わりの緩やかな時代ならば、現在まで激動の中の300年で残っているのは、変貌の緩やかな1700年より300年前にはすでにあったのではないか。少なくとも1700年から200年は遡っていいのではないかと考えている。仲松先生も「古層の村」として祭祀や御嶽や神アサギやマキ・マク・マキヨ(小集落)などの視点で見ている。

  『琉球国由来記』(1713年)を利用するのは、その記事に1609年以前の王府の統治の姿が反映していると考えている。仲宗根村の祭祀に中(仲)宗根地頭(脇地頭)が祭祀に出席している。それは、首里に住む役人と村(領村)との関係を示すものである。つまり仲宗根地頭は仲宗根村を「あつかい村」として何がしの貢租を受け取っている関係にあったのであろう。そのために祭祀になると、わざわざ首里から「あつかい村」の祭祀に参加している。

  地頭あるいは脇地頭は地頭地から給与として上納を受けていた。『法式』(1697)で地頭が「あつかい村」に行って迷惑かけないように達(たっし)が出ているようであるが、明治6年調査の『琉球藩雑記』にみると、「領地 今帰仁間切仲宗根村作得四石余」とあり脇地頭仲宗根親雲上は四石余りの作得をもらっている。このように『琉球国由来記』の記事は、歴史を紐解く手掛かりとなる史料でもある。

 


@集落の発生と関わるウタキ(御嶽)―今帰仁村平敷―

 集落の発生と関わるウタキ(御嶽)の一つに今帰仁村平敷のウタキがある。シマの方々は拝所のある杜のことをウガンやウガンジュ(御願所)、あるいはタキ(ウタキのこと)と呼んでいる。ここでは杜全体をウタキ、ウタキの中の香炉が置かれた場所をイビがイビである。

 ウタキの中の一段高いところに香炉が置かれ、そこは神降臨の場所だとの認識があり、そこをイビやタキと呼ぶ場合がある。『琉球国由来記』(1713年)に平識(敷)村に御嶽は記載されていないが、「神アシアゲ 平識(敷)村」とあるので平敷村の存在は確認できる。平敷村の神アシアゲでの祭祀を見ると、オエカ人・百姓・巫(ノロ)・掟神・居神の参加がある。玉城ノロの管轄村である。首里王府役人の地頭(脇地頭)の参加がみられない。そこでのオエカ人は今帰仁間切役人のことで、村の祭祀に間切役人の参加があったことは、間切の統括と祭祀が一体となっていたことが伺える。

 平敷のウタキ(御嶽)は標高約15mの低地にあり、ウタキの南から東よりに集落が発達していた。ウタキの中、あるいはウタキに近い場所に集落が展開していたことが窺える。現在は、さらに国道沿いから山手の方に家々が建てられつつある。ウタキの周辺からグスク系土器や中国製の陶磁器や染付、それと近世以降の沖縄製の陶器などが採集される。

 平敷村の集落の発生は、少なくともグスク時代に遡ることができそうである。集落はウタキの内部、そしてウタキの周辺部に広ってあったことがわかる。ムラ(村)レベルのウタキと集落は不可分の関係にあり、ウタキを中心として南斜面やカー(湧泉)との関わりで展開していく。

 平敷のウガンにはイビ、そして神アサギがある。さらにシマダドゥンチとペーフドウンンチとウッチドゥンチが合祀され、ニーグラの祠などもウガンの内部に置かれている。ウガンの内部にある拝所は、もともとウガンの南側周辺にあったのをまとめてウガン内に置いたものである。平敷のウガン内に、少なくともイビと神アサギ、アサギミャーがある。集落はウガンの内部から周辺部に広がり、ウガンと集落の関係を読み取ることができる。

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  ▲平敷ウガン(御嶽)の遠景       ▲平敷ウガンの中の神アサギと拝所

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    ▲平敷ウガンの内部にあるイベ       ▲平敷ウガンの麓にあるピシチガー


・集落の発生と関わるウタキ―国頭村比地の御嶽(幸地嶽・キンナ嶽)―

 国頭村比地に二つの御嶽がある。『琉球国由来記』(1713年)の国頭間切比地村に三つの御嶽がある。現在呼ばれている(   )に想定できそうである。
    ・幸地嶽  神名:アカシニヤノ御イベ(現在のイビヌタキ)
    ・キンナ嶽 神名:中森ノ御イベ    (現在の中の宮)
    ・小玉森  神名:アマオレノ御イベ (現在のアサギ森)
    
 『琉球国由来記』(1713年)で幸地嶽としてあるのは、一帯はウチバルと呼ばれている。ウチバルは河内(こうち)原の「こ」が脱落した呼び方で、カワチに幸地と漢字を充てたのであろう。幸地嶽は河内原にある御嶽ということになる。イビヌウタキと呼ばれている杜全体が幸地御嶽とみることができる。

 現在イビヌウタキと呼ばれている場所に祠があるが幸地御嶽のイビに相当すると考えていい。そしてキンナ嶽は「中の宮」と呼ばれているが、中の宮は『由来記』の神名中森ノ御イベからきたもので、中ノ嶽とも呼ばれている。幸地嶽と中の宮の関係は幸地森全体が御嶽で、イビヌウタキがイビ、そして中の宮がイビヌメー(イベの前)に相当する。今帰仁村今泊のクボウの御嶽の構造と類似する。村人達は中の宮に集まり、イビへは神人のみ上っていく。イビで祈りをした神人はドラを敲いて下で待機している人たちに合図をしたという。

 中の宮(イビヌメー)の中にある香炉と国頭王子(正秀)の石燈籠に、この御嶽の性格が読み取れそうである。比地村の御嶽(小玉杜)と性格を異にした御嶽である。ここで関心を持っているのは石燈籠の銘や香炉とイビヌメーヌ嶽付近から出土したという鏡や鉦皷などである(『沖縄の古代部落マキョの研究』所収325頁)。按司や王子クラスの御嶽と見てよさそうでる。特に按司や王子などの薩摩や唐旅に関わる航海安全に関わる御嶽とみることができそうである。


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    ▲イビヌタキ(幸地嶽のことか)          ▲中の宮(キンナ嶽・中森のことか)


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   ▲中の宮の中にある10基余の香炉       ▲国頭王子の銘のある燈籠



A複数のウタキと神人―今帰仁村古宇利島の七杜七嶽―

 古宇利島は今帰仁村にある離島である。この島に七杜七嶽(ナナムイナナタキ)がある。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる古宇利(郡)島の御嶽は次の三つである。
  ・中 嶽       神名:ナカモリノ御イベ   (現在のナカムイヌ御嶽)
  ・サウ嶽御イベ  (神名不伝)           (現在のソウヌ御嶽)
  ・カマニシ嶽御イベ(神名不伝)         (現在のハマンシヌ御嶽)
 『琉球国由来記』に記載のないのがマーハグチヌ・プトゥキヌメーヌ・ハマンシヌ・マチヂヌの四御嶽である(郡巫の崇所の所に錯綜があるのでそこは注意)。御嶽の議論をするとき、どの御嶽かを特定して論を展開する必要がある。

          ▲古宇利島の七森七嶽の位置

 島には七森七嶽(ナナムイナナタキ)がある。一島であると同時に一村である。そこに七つの御嶽がある。島の集落の発生と御嶽(ウタキ)との関係がどう位置づけられるのか。本島側の御嶽からするとマクやマキヨの小規模の集落と結びつけて考えられないか。さらに御嶽を担当する神人(神人をだす一門)との関わりでみていくとどうだろうか。かつてはタキヌウガン(旧4月と10月)のとき、島中の人たちが参加したという。

 古宇利島が複数の小集落の統合があり、さらに村の合併の痕跡がある。ただし、近世には一村になっている。村の統合の痕跡は神アサギが二つあったこと。現在の神アサギ(ウイヌアサギ)とヒチャバアサギ(下のアサギ)があること。ウンジャミのときウイヌアサギとヒチャバアサギで同様な所作を行っている。そしてソウヌウタキ付近にアサギマガイの地名があることなど、少なくとも二つの村レベルの集落の合併があったとみられる。

 古宇利島のウタキ(御嶽)と集落、集落を一つにした村(ムラ)との関わりで見ると、どうも島のいくつかの小さな集落(マクやマキヨ規模)から成り立っていた。それが、次第に村としてまとまっていく(あるいは、まとめられた)。その痕跡として七森七嶽のウタキを担当する神人があてがわれているのではないか。集落は村(ムラ)として一つにまとまったのであるが、別々の集団を一つの村にしたとき、それぞれの一門から神人をだし、ウタキを担当する神人として伝えているのかもしれない。その姿は国頭村比地のアサギ森(ウタキ)の中にある数カ所のイベに、各一門が集まる姿とよく似ている。古宇利の七森七嶽は島内に数個の集落の発生があり、それが一門のよりどころとして御嶽をつくり、祭祀に関わる神人の出自と御嶽が結びついている。古宇利島の七森七嶽は、そういった集落の展開と祭祀、さらに神人との関係をしる手掛かりとなりそうである。

 古宇利島の七つの御嶽は杜をなし、その中にイベに相当する岩場がある。岩場の半洞窟や洞窟を利用している。マーハグチは半洞窟部分に石を積み上げ内部に頭蓋骨や人骨がある。形としては墓である。かつては頭蓋骨を拭いたというので墓ではないのかもしれない。ナカムイヌ御嶽だけはコンクリートで祠をつくってある。ソウヌ御嶽のイビは未確認である。 


御嶽(ウタキ)名と概要

現在の御嶽の様子

ナカムイヌ御嶽

 古宇利の集落の中に位置し、中森御嶽の近くに神アサギやフンシヤー、そして南側に内神屋・ヌル屋・ヒジャ屋などの旧家がある。豊年祭や海神祭を行うアサギナーがある。年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンだけでなく他のウガンでも拝まれる御嶽である。御嶽と神アサギの間はミャー(庭)となっていて豊年祭やウンジャミが行われる。御嶽の中にイビがあり、そこに祀られている骨は人骨の認識がある。プーチウガンやナカムイヌ御嶽は古宇利子(フンシヤー)の扱いである。下の画像はナカムイヌ御嶽の中にある祠。イベにあたる


マチヂヌ御嶽

 古宇利集落の後方に位置し、年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。マチヂのイベ部分は琉球石灰岩がズレ落ち三角の半洞窟状になっている。その内部に石がころがり、手前に香炉(比較的新しい御影石?)が置かれている。『宮城真治資料』によるとヤトバヤの扱いとなっている。拝む方向としては、現集落を背にして拝む形である。一帯は中原遺跡となっていて、集落があった痕跡がある。ヤトウバヤ(恩納ヤー)の担当の御嶽。
 下の画像はマヂヂヌ御嶽のイベにあたる部分。大きな岩の窪みに石がいくつも置かれている。


マ|ハグチヌ御嶽

 最近マーハグチまでの道が開けられた。神人達はタキヌウガンのとき、そこまで来ないで道路でお通しをする。大きな岩の下に石積みがあり、頭蓋骨をみることができる。現在は年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンで拝まれるが、根神の一門で正月・四月・七月・十月の年四回拝んでいたよだ。花米や御五水(酒)を供え、白い布を酒でひたし二つの頭蓋骨を拭くこともやっていたという。担当は根神である(マーグスクヤー)。

トゥンガヌ御嶽

 道路から御嶽の中に入り進んで行くと岩がある。その下に線香を立てる石が置かれている。年二回のタキヌウガン(旧4月と10月)の時は道路で線香をたてお通しをする。ノロなど七名の神人が担当するという。



ソ|ヌ御嶽

 古宇利島の東側に位置し、御嶽の近くの浜はソーヌ浜と呼ばれる。杜全体が御嶽になっていてイビがあるというが未確認。ウンナヤーは一帯から集落内に移動したという伝承がある。そのためかウンナヤー担当の御嶽だという。タキヌウガン(旧4月と10月)のときは、上の道路からお通しをしている。宮城真治資料ではノロなど七名の神人の担当になっている。ウンナヤーのここからの移動伝承は、御嶽と御嶽担当の神役との関係を示している可能性がある。

プトゥキヌメ|ヌ御嶽

 島の一周線から御嶽に入ると半洞窟の岩屋がある。そこは御嶽のイビがあり線香をたてる。鍾乳洞の石が仏に似ていることに由来するのだろうか。タキヌウガン(旧4月と10月)のとき、神人達はイビまで行ってウガンをする。ノロ担当の御嶽のようである。付近に集落があったかどうかの確認はまだできていない。

ハマンシヌ御嶽

 一帯の地名がハマンシ(浜の石)で、島の西側の浜は石が多いことに由来するようだ。別名ビジュルメーヌ御嶽ともいう。御嶽に入るとイビの奥に小さな洞窟があり、人形の形をしたビジュル(小石:石筍)がいくつもある。ここも年二回(旧4月と10月)のタキヌウガンの時に拝まれる。二、三人の神人が洞窟内で石を持って吉凶を占う。内神の担当のようである。

 


B集落移動の村の御嶽(ウタキ)―名護市(旧羽地間切)仲尾村―

 仲尾は羽地間切仲尾村で現在名護市の一字である。ここでの「集落移動の村」とは、同村(ムラ)地内で集落部分が移動した村のことである。同村地内で集落が移動したときに、御嶽(ウタキ)はどうしたかである。仲尾のウタキはヒチグスクと呼ばれ、集落跡地の丘陵に向って右側には親川グスクがある。ヒチグスクと親川グスクの間に堀切があり、親川グスクへの神道として使われていたという。

 

 仲尾は『琉球国高究帳』(1640年代)に「なかう村」、『琉球国由来記』(1713年)で「中尾村」、「琉球一件帳」(1750年頃)から「仲尾村」と記される。仲尾村の集落移動は「羽地間切肝要日記」にみることができる。道光15年(1835年)「村(集落)の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を作った。両兼久の敷地の竿入れをしてみたら百姓持の土地なので村敷(屋敷)にしたいと願い出て認めれた。この時期に勘手納に7家族、東兼久に4家族が引っ越してきた(頭数134人)」。故地は「仲尾古村遺跡」と命名され集落が移動した痕跡を見せる。そこには御嶽(ヒチグスク)や神アサギ、根神屋やヌルドゥンチ跡やカーなどが今でも遺っている。

 

 集落は移動したが御嶽(ヒチグスク)は新しく設けることなく、また旧家跡や神アサギは元の場所に残し、集落のみの移動である。距離として約700mばかりである。村内の集落のみの移動の場合、御嶽(ここではグスクと呼んでいる)はもとの場所に置き、神アサギや旧家の火神(ウペーフヤー・ニガミヤー・ヌルヤー)の祠(神屋)を置き、祭祀は故地で行っている。畑やかつての水田は故地に近い場所に広がっていた。土地改良で地形が大きく変わってしまうが、ウタキや神アサギや旧家の火神の祠(神屋)は残され、それらから集落跡を確認することができる。

  『琉球国由来記』(1713年)に「谷田之嶽 神名:ニヨフモリノ御イベ 中尾村」とあるが、中尾村ではなく谷田村の誤りと思われる。仲尾村の御嶽は由来記に記されていないと見るべきである。『琉球国由来記』の祭祀で注目すべきことは、惣地頭が中尾村の神アシアゲと池城神アシアゲに参加することである。仲尾ノロ管轄内の田井等村からに1700年代に親川村の創設があり、池城神アシアゲは親川村の神アサギ(親川グスク地内)となる。羽地間切の海神祭のとき、中(仲)尾・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ・伊指(佐)川・源河の全ノロが仲尾村と池城神アシアゲでの祭祀に参加する。そのとき、惣地頭も両神アシアゲの祭祀に参加する。ここでも羽地間切の按司や親方クラスが祭祀に参加している。グスクの神アサギでの祭祀に仲尾ノロが重要な役目を果たしている。そのことを示すように天啓二年(1622年)の辞令書があり、仲尾ノロは「大のろくもひ」と呼ばれている(『かんてな誌』43頁所収。仲尾ノロに関する明治の史料があるが省略)。


 

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 ▲羽地間切仲尾村のヒチグスク(現名護市)     ▲道光15年ここ勘手納に集落を移動

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  ▲集落のあった半田原に神アサギがある。      ▲故地にある仲尾ヌルドゥンチ跡

 首里乃御ミ事
 はねしまきりの
 大のろくもひ
 一人 もとののろのうまか
     ひやかなに
 たまわり申し候
 天啓二年十月一日

 

 


C移動ムラ(村)のウタキ(御嶽)―今帰仁村天底― 

  天底村は移動した地で御嶽(ウタキ)をつくっている。御嶽のことをお宮と呼んだりしている。集落の形成をみると高いところに御嶽をつくり、その麓に近いところに神アサギを建て、御嶽の麓にウブガーがある。ウブガーは村が移転してきた当時、最初に使っていたカーだという。神アサギのさらに下の方にアミスガーがあり、ウブガーより水量は豊富である。


  ここで移動した村(ムラ)というのは、隣接する村を飛び越えて移動した村をさしている。近世にそのような移動した村に、本部間切から今帰仁間切へ移動した天底村(1719年)や嘉津宇村、今帰仁間切内の志慶真村(17世紀初頭)、1736年の呉我村・振慶名村・我部村・松田村などがある。それらの村が移動したとき、御嶽はどうしたのだろうか。天底村の移動と御嶽について紹介してみる。

  1719年に天底村は本部間切の伊豆味村あたりから、現在の今帰仁村天底地内に村を移動した。『球陽』の尚敬王七年(1719年)の条に「本部間切天底村を遷して今帰仁間切に入る」と現在の今帰仁村呉我山あった呉我村が羽地間切に移動した(1736年)ので、天底村は呉我村を通り越して現在地に移動したので集落移動の村ではなく「村移動の村」である。

 神アサギ周辺に天底ノロ家跡や根神ヤー跡などがある。御嶽内の最高部にイベを収めた祠がある。御嶽に入っていくと、階段があるがそこに左縄を張り、そこから内側は神人達の世界である。タキヌウガンのとき(旧暦の4月14日か15日)、村の人たちは階段の前までいき、そこで祈願をする。神人達はイベのある祠までいく。

 移動村である天底をみると、村が移動してもウタキをつくる。ウタキの向きは高い杜の頂上部に向けてイベをつくる。必ずしも故地に向けて御嶽を設けていないことがわかる。村が移動すると高いところに向けてウタキをつくる習性があるようだ。天底に名前のわからない祠がある。向きは故地の伊豆味あたりに向いているので、その拝所は「お通し」なのかもしれない。

 「移動村と御嶽」のことで言えば、村が移動したとき、御嶽をつくり神アサギも設置する。そして移転先で祭祀も継承される。元の村地に向って「お通し」をつくる傾向もある。天底ノロの管轄村は天底村・伊豆味村である。移転後(大正頃)も伊豆味村の祭祀をおこなっていたという。移動後もノロ管轄は変更されることがなかった。

 現在の天底の集落は天底小学校周辺にある。御嶽や神アサギ周辺から明治以降、集落はさらに移動し、ノロドゥンチやニガミヤーなどに、明治頃までの天底村の集落の跡が窺える。


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     ▲天底の御嶽(ウタキ:お宮ともいう)      ▲御嶽のイビへの道 

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    ▲イビが納められている祠         ▲御嶽の近くにある天底の神アサギ 

 


Fグスクの中のウタキ(御嶽:イベ)―大宜味村の根謝銘グスク―

 国頭地域の御嶽を踏査していると、村レベルの御嶽と国や按司クラスの御嶽が混在していることに気づく。村(ムラ)の御嶽と国や按司クラスの御嶽と区別して考える必要がありそうである。按司や脇地頭と関わる御嶽は主に航海安全、そして首里に住んでいて役地の祭祀との関わりで御嶽を置いている例がある。それらを理解するために「国頭の歴史」を十分把握する必要がありそう。複雑にしているのは間切の分割や番所の移動や大宜味間切との村の組み換えなど。さらに間切分割で国頭地域のグスク(根謝銘グスク)が国頭間切ではなく大宜味間切の地(さらに村の合併)にあること。そのことがあって惣地頭や按司の領地の拠点が時代によって違っているため、1673年以前・以後なのか、番所はどこにあったのかなど、合わせ見て考える必要がある。

 一言でそうだという答えがないところがなかなか面白い。現場に立ったとき、御嶽の性格がよく見えてくる(ただし、御嶽は一言で何かという発想や視点ではどうだろうか)。中南部の御嶽やグスクを見ていくと、これまでの発想がもろとも崩れるかもしれない。それがまたもっと面白い。
 

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  ▲グスク内のナカグスク(イベ)            ▲グスク内にある神アサギ

 

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 ▲屋嘉比港からみた根謝銘グスク     ▲グスク上り口のウドゥンニーズとトゥンチニーズ

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 ▲グスクの上り口から今帰仁グスク方面をのぞむ      ▲グスク内のウフグスク(イベ)



Fグスクの中のウタキ(御嶽:イベ)―根謝銘グスクの中のウタキ(御嶽)―

 根謝銘グスクは別名ウイグスクと呼ばれ、『海東諸国紀』(1472年)の琉球国之図で「国頭城」と出てくる。そのため国頭城は根謝銘グスクと想定されたりする。このグスクはグスクと御嶽の関係をしる手掛かりを持っている。グスクが先か御嶽が先かの議論。

 根謝銘グスクは大宜味村字謝名城にあるグスクである。大宜味間切は1673年に国頭間切と羽地間切の一部を分割してできた間切である。間切分割以前の国頭間切(大宜味間切の大半を含む)の拠点となったグスクと見られる。国頭按司の首里への移り住みや間切分割で大宜味間切地内にとなり複雑である。根謝銘グスクは大宜味間切内の根謝銘村に位置する(明治36年以降謝名城)。

 杜全体が根謝銘グスク(ウイグスク)である。杜全体を御嶽(ウタキ)と見なすと、根謝銘グスク内にウフグスクとナカグスクの二つのグスクがあるが、それは一つのウタキにイベが二つある御嶽と見た方がよさそうである。ナカグスクとウフグスクはグスクと呼んでいるがそこは御嶽のイベに相当する位置にある。

 杜全体が御嶽(グスク)で、御嶽(グスク)の中に二つのイベがあると考えた方がいいのではないか。そのパターンは今帰仁グスクも同様である。今帰仁グスクを含めて、もう一度整理してみる必要がある。



Gクニ(国)レベルのウタキ(御嶽)―国頭村辺戸の安須森(アスムイ)―

 安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。
 
 『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
   ・シチャラ嶽   神名:スデル御イベ
   ・アフリ嶽     神名:カンナカナノ御イベ
   ・宜野久瀬嶽  神名:カネツ御イベ

 アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
 
 それは今帰仁阿応理屋恵が北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。

 アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れ王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。

 宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
    「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
    又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
    ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」
の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。

 首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたのは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。


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     ▲辺戸岬から見た安須森              ▲辺戸の集落から見た安須森
  


Hその他 複数村(ムラ)のウタキ(御嶽)―今帰仁村玉城のスムチナ御嶽―

 スムチナ御嶽(ウタキ)は今帰仁村(間切)中央部の玉城村(現在の字玉城)に位置する御嶽である。『琉球国由来記』(1713年)には「コモキナ嶽:神名コシアテモリノ御イベ 玉城巫崇所」とあり、玉城巫は玉城・謝名・平敷・仲宗根の四か村の祭祀を管轄する。このウタキの特徴は玉城・謝名・平敷・仲宗根にそれぞれウタキを持っているが、各村の御嶽とは別に四カ村のウタキとしてスムチナ御嶽が設けられている。集落の発生と関わる御嶽がある中で、スムチナ御嶽は集落の起源と直接関わるものではなくノロ管轄の制度化に伴って設立された御嶽と捉えることができそうである。

    ・玉  城・・・・ウタキ有り(タマグシク)
    ・謝  名・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)
    ・平  敷・・・・ウタキ有り(ウガン)
    ・仲宗根・・・・ウタキ有り(お宮・グシク)

 スムチナ御嶽は標高143mの杜で玉城ノロ管轄の四つの村を見下ろせる場所にある。逆を言えば四つの村から見える位置に御嶽を設けている。旧暦4月15日のタキヌウガンの時は、四カ字の人たちがスムチナ御嶽の中腹のウカマ(広場)に集まり待機する。四カ字の神人達は、さらに頂上部のイベまで行って祈りを捧げる。

 イベに三基の石の香炉が置かれている。「奉寄進」と道光、同治の年号があるが判読ができない状態に風化している。平成元年の調査で「道光二拾年」(1840)と「同治九年」(1870)、「奉寄進」「大城にや」「松本にや」の銘を読み取っている。同治九年向氏今帰仁王子朝敷(今帰仁間切惣地頭職)が薩州に派遣されている。大城にやと松本にやはその時随行していったのか。それとも今帰仁王子の航海安全を祈願して香炉を寄進したのか。スムチナ御嶽での祈願の一つに航海安全があることが窺える。また雨乞いや五穀豊穣や村の繁盛などが祈願される。

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   ▲ウカマに集まった村の人たち      ▲ウカマでイビに向って祈りをする神人

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     ▲スムチナ御嶽のイビ           ▲イビにある三基の香炉


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  ▲イビへの道に左縄が張られる   ▲後方の山の少し盛り上がった部分がイベ



M国頭村比地村の御嶽(小玉森)
 
 国頭村比地の小玉森(ウタキ)は興味深くみてきた。アサギムイともいい、『琉球国由来記』の小玉森は「クダの杜(ウタキ)」のことではないか。クダはマクやマキヨ同様、小規模の集落のこと。マは間で広場や空間のこと。するとクダマ(小玉)杜はクダの広場の杜、つまりウタキのことだと解することができる。まさに集落の発生と関わるウタキである。

 これまで調査したウンジャミや神アサギもあるが、ウンジャミのとき、それぞれの一門が赤木や福木の大木の下に香炉を置き、一族がその前に集まり線香をたてる。その風景は比地村は複数の集団からなる村ではないか。マク・マキヨクラスの集団が一つの村を形成し、神人はそれぞれの一族から出してきた姿ではないか。

 神アサギの中に座っている神人達は、一門からだされた供え物がお土産として持ち帰る。それは神人達の報酬である。その姿は、かつての神人たちの報酬の受け取りの場面であったにちがいない。一族一門が繁盛すれば、報酬が多くなる計算である。祈りのときの唱えに「村(ムラ)の繁盛」があるのは神人の報酬につながっていた。
 
 森全体がウタキでウタキの中に一門一族のイビがあり、神アサギもある。周りに旧家とみられる神屋が何軒かある。ウタキの中に家々があり、斜面にもシマンポーヤー・根神屋跡がある。比地の集落はウタキの内部から斜面にかけてあったのが、次第に麓に移動していったとみられる。集落とウタキが密接に結びついていたことがわかる。集落の発生と村の成立で、神人は一門から出していく形で継承されてきている。
 

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  ▲国頭村比地の小玉森(ウタキ)     ▲ウタキ内にある神アサギ(平成15年)

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   ▲それぞれのイビに一門が集まる       ▲福木や赤木の大木の下に香炉が

  


P辺戸のシチャラ嶽

 『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。

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   ▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽)    ▲御嶽のイビヌメーだとみられる

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    ▲御嶽の頂上部にあるイベ         ▲辺戸の集落の後方に御嶽がある