恩納間切のヌルドゥンチ
(ノロ制度の終焉へ)
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恩納間切は1673年に金武間切と読谷山間切の一部をとって創設された間切である。現在の恩納村である。ノロと関わる管轄村や祭祀を見ていく場合、間切時代まで戻した形で考える必要がるため、ここでは恩納間切のとしている。『琉球国由来記』(1713年)に登場するノロは、恩納巫(ノロ)・真栄田巫・山田巫・安富祖巫・名嘉真巫である。ノロは巫や祝女やのろこもいなど、表記はいくつも出てくる。ここではノロあるいはヌルと表記する。のろくもいと記すこともある。ノロは複数の村(ムラ)の祭祀を管轄している。
・恩納ノロ・・・・・・・恩納村
・真栄田ノロ・・・・・真栄田村・(塩屋村)
・山田ノロ・・・・・・・山田(古読谷山)村・富着村
・安富祖ノロ・・・・・安富祖村
・名嘉真ノロ・・・・・名嘉真村
・安富祖のろくもい
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・名嘉真のろくもい
・サクオモイ(旧五月御祭ノ時)
・ジラチノモイ(旧六月御祭ノ時)
・アガリマールオモイ(旧八月ノ時)
・フネオモイ
・恩納のろくもい
恩納村(ムラ)は1673年以前は金武間切の村の一つであった。恩納ノロに関する古琉球の辞令書と近世初期の辞令書二枚が写真で残っている(『補遺伝説 沖縄の歴史』島袋源一郎)。一枚は万暦12年(1584)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書(1584年)、もう一枚は順治15年(1658)の金武間切恩納ノロ職叙任辞令書である。まだ恩納間切が創設される以前である。そのため「きんまきりの」(金武間切の)となっている。また年号に干支が書かれない最後の辞令書である。翌順治16年の辞令書から干支が記されるようになる。
しよりの御ミ事 首里の御見事
きんまきりの 金武間切の
おんなのろハ おんなのろハ
もとののろのくわ □□□□□
一人まかとうに 一人□□□□に
たまわり申候 たまわり申候
万暦十二年五月十二日 順治十五年七月廿八日
明治36年頃の恩納ノロのノロ地(田畑など)は以下の通りである(『恩納村誌』)。
・畑(赤間原)1200坪 ・田(屋嘉下り口)700坪 ・畑(先原)1200坪 ・田(ウチノウラ)400坪
・田(伊場)750坪 ・田(当袋)600坪 その他
[明治43年の作得]
作得表高 米1石2斗5升4合 雑穀 9斗7升
雑穀9斗7升
現収高 (ナシ)
▲恩納ノロの辞令書(1584年) ▲恩納ノロの辞令書(1658年)
▲恩納ヌルドゥンチ
▲恩納ヌルドゥンチの拝所
明治14年
一恩納ノロクモイ始め十三の分現収高既に減殺せる今日に在りては更に廃給のものとして制外に付すべき事(県史11)
【恩納のろくもい】
フナオモイ
しまのくにしどが、たなとてうちおォーち、むらのくにーどが、いちやとてうちけおォーち、むらのくにーどが、いちゃとてうちけおォーれ、じかじゅ、ゑらて(の)せおォーれ、こがねばァーやおしたてれ、なんちやばァやおしたてれ、おふら(テカヂ)ぼややをらさあち、やをらぼや、あかさあち、んんぢやすゥーご のせあうちやみ、いくさちに、ちちやみ、はまさまにちちやみ
・コバシノオモイ
・ヤマノオモイ
・ソコノオモイ(六月御祭ニ)
・シラチナノオモイ
・山田のろくもい
作得表高 米1石2斗7升7合5勺2才
雑穀 3斗4升3合1勺4才
現収高 (ナシ)
山田ヌンドゥンチの神屋(カミヤー)の位牌に「くらはぬるこもひ」とある。倉波は山田に吸収されたようである。久良波は山田の小字として残っている。「くらはのろ」は山田村に統合される前のことであろうか。『琉球国由来記』(1713年)には山田巫と登場するので、それより古いことなるか。山田ノロは山田村と富着村の祭祀をつかさどっている。
明治34年の山田の旧集落の地籍図をみると、そこに「ノロ殿内」がある。山田ヌルドゥンチは、旧地(山田グスクの麓)から現在地へ移動している。山田ノロが久良波と関わっていたことは以下のウタにみることができる。
入るや入るや居しが出る人居らぬ
久良波ノンドンチ不審どころ
(久良波ノンドンチを首里殿内に換えたウタもある)
▲ノルドゥンチは旧地から現在地へ移動
▲山田ヌルドゥンチ ▲「くらはぬるこもひ」ある位牌
・真栄田のろくもい
(恩納村塩屋)
作得表高 米1斗4升7合8勺9才
▲塩屋にある真栄田ヌルドゥンチ跡 ▲真栄田ヌルドゥンチ跡