【羽地城の歴史】(羽地村誌)
羽地城祉は羽地平野の中央部に位置し、その場所は、あまり高い岡、高い山ではないが、見晴らしがよく、源河部落をのぞくほとんど羽地の全部落を一眸に収められる。近くの足もとには勘定納港を見おろし、羽地湾から屋我地島・古宇利島・伊平屋島・今帰仁半島、さらに遠く大宜味・国頭の連山を眺望される。思うに古代・創始時代の城は対外的に攻防によい嶮岨な地を選ぶよりも対内に部落の長として部落民を支配し、民心を収らんするに都合のよいところを選定したのでなかろうか。この見地からすれば羽地域は恰好の場所を占め、
ここの城主は全羽地をうまく手中にまるめていたことであろう。しかも当時の沖縄は未だ漁猟時代から漸く農業時代に入り、農業といっても砂糖もなく、また甘藷もなく、ただ米・粟をつくって糊口を淩いでいた時代であるから、農耕地としては水田が一番重宝にされ、したがって広大な水田を擁する羽地を支配した按司は、按司の中でも最も有力であったと思われる。
この羽地城を初めて開いた按司がどんな人であったかは記録がなく未だ明らかにされていないが、後で北山城主になった怕尼芝按司の若い時代はここで過ごしたのであろう。怕尼芝は唐音でパニジと発音され、羽地から出たものであろうとは伊波・東恩納両文学士が言われているところである。経済的に恵まれた羽地を支配した彼は武力・胆力にもすぐれていたので、1322年隣りの今帰仁城を陥れ、本島の各間切村をはじめ、離島の伊江・伊平屋・与論・永良部等までうちしたがえ、自ら北山王と称して北山の基礎をうちたてたのである。
なお、怕尼芝のあと三代目の攀安知もハニジとよまれる一方、その攀安知を滅ばした尚巴志に助勢をしたという羽地按司は何者であろうか、それは怕尼芝系統の血縁の争いか、あるいは彼に恨みを持つ羽地の他の部落の按司であったか明らかでない。羽地城および羽地城主たる按司のことについては、さらに後で私見(平良盛吉氏)をのべることにするが、とにかくその頃までは沖縄の各地方に大小の按司が割拠していたのである。
ところがその後、尚巴志の三山統一(1416年北山滅亡―1429年南山滅亡)と、さらに尚真王時代(1477年即位―1526年逝去)の中央集権政策実施によって、地方按司の勢力はおとろえ、あるいは全く一掃され、羽地城もついに廃墟となるに至ったのである。

①宮城真治の「走川」(ハンヂャ)と伊波普猷の「ハニ」
②「おもろ」に謡われた「はねち」「はねぢ」
③17 世紀の『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』から「はねち」「はねしまきり」に「羽地間切」となる。
④1622年と1625年の二枚の辞令書(公式文書)には「はねし」
今帰仁村と東で接し、北では大宜味村、南で名護、久志と接している。東恩納寛惇は、羽地は方言でハニジ怕尼芝、『明実録』の洪武16年の「北山王怕尼芝」、洪武27 年の「攀安知」は羽地按司の略であると述べている。それだけでなく、周煌禄に「国音呼為安知、山北王有攀安知者、必其上世有為按司者、故以官名也」とあるのは敵している。また、おもろで「まはねじ」は、羽地は柑橘に適した地域で、羽地唐九年母の名夙に著聞している。「まはねぢ」はそれを謡ったものであろうと。
(第13巻 72)
一 しも月が たちよれば
あん まちよれ
まはねじ まはねじは
きもからも さらん
又 わかなつか たちよれは
羽地地域にミカンが有名であることは、いいのですが、それでは「はねじ」の語義の説明になっていません。
宮城は「大浦は大川の義である」とされる。『琉球国由来記』は『琉球国旧記』の「大浦江」は「大川」と同義だとされるが、はねぢ(羽地)については触れていない。
羽地大川修補日記(1735年)八月十五日の条に、以下のようにある。
羽地間切大浦川之儀、毎年多少之水損不相絶此程修補に付ては百姓及難儀来候。
殊に去7月大風雨にて夥敷致水損一ヶ間切にて手に及不申必至と迷惑仕候由さばくり中、
書付を以て申出候
十二月十七日の条に、
大浦川の儀、羽地間切に有之候処、大浦川と唱候儀、不可然候故、向羽地大川と唱へ、さばくりへ申渡候也。大浦川を羽地大川と改称したのは1735年のことである。そこでも大浦川を、すでにあった羽地間切の羽地をつけて羽地大川となったのである。そこでも大浦が大川との説明で、羽地については触れていない。
そこで、蔡温の羽地大川修補日記(1735年)より、以前から「はねぢ」があるわけだから、羽地大川ではなく他に語義を求めるべきであろう
「まはねぢ」の「ま」は「ほんとうの」「真の」「りっぱな」の意味であろう。すると、その地でそのような意味をなすのは何かということになる。もし、古い時代から「大浦川」をもつ「りっぱな地」であれば、羽地間切ではなく「大浦間切」になっていたことであろう。同村が田井等(平良)村ではなく、大浦村となってもいい。そうはならなかったのである。
「ま」は接頭辞。おもろでは「ぢ」と「じ」、辞令書では「じ」である。「ぢ」と「じ」の区別が失われている。
本来は「ぢ」のようである。
(第13巻 816)
一 いへの、はたころ、
あちにせ(に)、なりよもい、
まはねぢは、
あんしおそいに、みおやせ
又 はなれ、はたころ、
あちにせ、ないよもい
(第13巻 817)
一 しも月か、たちよれは、
あん、まちよれ、まはねじ、
まはねじや、
きもからも、さらん
又 わかなつか、たちよれは
(第17巻 1180)
一 なこ、さかい、 一 名護酒
おや、さかい、きよもの 親酒 来よもの
おやちやうあけて、 親門 開けて
わん、いれゝ、 吾 入れゝ
又 おきて、にしや、 又 掟にしや
もの、いにしや、きよ、もの 物言にしや 来よもの
まはねじの、 又 真羽地の
たれ、しけち、きよもの たれしけち 来よもの
又 あわ、やぶの、 又 安和 屋部の
せに、たまり、きよもの せにたまり 来よもの
(第17巻1184)
きこゑ うちたかか、 聞ゑ打ち高が
けらへたる、まはねじ、 げらへたる真羽地
あんしおそいか、 按司襲いが
くむこ、よせ、くすく 雲子寄せぐすく
又 とよむ、 うちたかか 又 鳴響む打ち高が
そこでおもろで「はねぢ」「はねち」、近世初期の二枚の辞令書(1623年と1625年)では「はねし」(羽地間切)である。「はねぢ」と「はねじ」に視点をあててみる。ハネヂはハニヂやパニヂと発音されてもいい。ハニは金のこと。ち(ぢ)は土地のこと。つまり「金の産出する地」のこと。そういう場所が付近にあるかというと、伊差川の小字の「金川」(ハニガー)、金川のカーがあり、金川は伊差川から、かつての大浦川へ向って流れ、途中で合流する。金川は、かつては羽地間切の主邑である田井等村に向っている。田井等村に羽地グスクがある(1750年頃創立した親川村に位置する)。
ハニガーを金川と記されるが、1400年代(尚泰久王)に二十余の梵鐘が鋳造されるが、「是らの梵鐘は往時羽地村金川に鉱山もあり、琉球で出来たという伝説も多い」(「琉球の梵鐘について」外間正幸)とあり、金川でもいいのであるが、鐘に因んだ鐘川(ハニガー)でもよさそうである。梵鐘を鋳造した大工に花城がいる。国吉なる人物もいるが、彼は藤原国吉なる人物で大和大工である。これらの鐘の原料(銅)と鋳造した場所などが結びつくと、1400年代には「おもろさうし」で「まはねぢ」が金地、あるいは鐘地として謡われたとしてもよかろう。
「はねち」「はねし」は金地や鐘地ではないか
①金川の銅山
②十五世紀に鋳造された鐘と伊差川銅山との関係
③ハネヂはパニヂは金地(ハニヂ)、あるいは鐘地(ハニヂ)からきた名称か
④ハニヂグスクのハニヂ(羽地))も金(銅)の産地のグスク
⑤ハネヂは羽地大川からきた名称ではない
羽地大川は蔡温の大浦江の改修後(1744年)に大浦江から大川と名称替えをする。
羽地は現在名護市域である。名護市に合併される以前は羽地間切、羽地村であった。その羽地域を流れる羽地大川があり、その川名に由来しているとの誤解がありそうだ。
羽地大川と呼ばれるのは蔡温の「羽地大川修補日記」(1735年)で「羽地間切大浦川」を「向後羽地大川と唱え」ると申し渡しがなされている。そこでの大浦川が大川であるとするのは、別に疑問とするものではない。その時、大浦川を羽地大川としたため、羽地(間切)の由来を大川(ハンジャー)に因んだものと解されている。
羽地の登場は、羽地大川とされる1735年以前から登場する。「おもろさうし」で「まはねち」「まはねぢ」と謡われている。古琉球から近世の過渡期の二枚の辞令書で「はねしまきり」(羽地間切)とあり、『琉球国絵図郷村帳』(1648年)と『琉球国高究帳』(1648年)で「はねし」に「羽地」と漢字が充てられている。羽地の語義は「はねち」「はねぢ」あるいは「はねじ」に求められるべきであろう。
「はねぢ」「はねち」「はにし」の方音は、ハニヂ、ハニジ、パニヂ、ハニシとみてよさそうである。ヂやジは地の漢字が充てられ土地や場所である。問題はハニである。ハニは金である。名護市伊差川を流れる金川(カニガー:ハニガー)がある。そこは明治から昭和の初期に銅を発掘した場所である。その山一帯から流れる川がハニガー(金川)である。明治以降に発掘されていた記録があるが、いつ頃から発掘されたのかは不明である。
おもろさうしで「まはねぢ」「まはねち」と謡われるその「はねぢ」地名がどこから来ているか。大川ではなく、ハニチ(金地:銅を産する地)に求めるべきであろう。そこから流れ出るハニガー(金川)は羽地間切の中心となる田井等村(主村)へ向かって流れている。
