沖縄の地域調査研究

       寡黙庵:琉球の地域史調査研究)(管理人:仲原)   

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2022年5月
                    
先月4月へ
    

山原のシニグ
沖永良部島を往く
・徳之島を往く
喜界島阿伝(あでん)(東間切)
北山の時代と沖永良部島(2016年11月5日沖永良部島講演)
沖永良部島(2022年4月)
今帰仁村崎山のハサ―ギ(葺き替え作業)
国頭村過去記録
徳之島と琉球へ
本部ミャークニーを辿る
・2005年8月の記録から「ドイツ・オーストリアを往く
本部町の神アサギ(工事中) ・本部町健堅 ・本部町浜元
本部町具志堅  ・具志堅  ・本部町瀬底  ・本部町謝花
本部町嘉津宇  ・本部町備瀬 ・本部町崎本部 ・伊野波・並里・満名
中南部のグスク・ウタキ
国頭村安田のシニグと辞令書


2022年5月30日(

 本部町の旧上本部村に字(アザ)について調べる必要があり、近々踏査の予定。間切の変遷、村の変遷を整理しておく必要あり。近いところから。
 ・昭和22年本部町から上本部村として独立。●のついている字は神アサギあり。
   ①石川
   ②浦崎●
   ③謝花●
   ④具志堅●
   ⑤新里
   ⑥北里
   ⑦備瀬●
   ⑧嘉津宇●
   ⑨豊原
   ⑩古島
   ⑪山川
   ⑫山里
   ⑬大堂

 神アサギのない字は主に寄留人で形成された字(ヤードィ集落)。現本部町はヤ―ドゥイ集落が目立つことが特徴かもしれない。そのことを頭に叩き込んでおこう。

2017年6月22日(木)メモ

 本部町渡久地大多良原にある「御夫人御墓」(おなじゃら墓)を開ける。調査体制と厨子甕数の多さ、足の踏み場もないほどなので詳細は昭和49年の銘書記録にゆずることに。内部の様子を確認するのみとする。昭和49年の調査記録(銘書)を仲村家が持参しておられたので撮影。それらで墓の性格や様子を整理することに。(尋ねられることが多々あるので)

 大正時代に開けた墓は「安司多部御墓」(あすたべ墓=按司墓)、按司墓と呼ばれる墓。)
   

  

 

  阿さたひ御墓に入れたる厨子に銘書ありて村民との関係者の様に認めらる者の様に認めらる
  もの左の如し。

 (銘書は参照)
    (抜け:工事中)

 一、満名村松田にや
 一、乾隆三十九年五月浜元村 
     唐山仲宗根
 一、嘉慶十七年大辺名地村
     唐山蒲渡久地
 一、乾隆十九年死去八月廿一日洗骨
     浜元村辺名地親雲上アンシ
    乾隆○○○○丁亥謝花掟
 一、金城 松
     浜元村前並里親雲上
 一、具志川のろくもい女子 まうし
     健堅親雲上女房
 一、伊野波村仲程
     渡真理親雲上妻
 一、乾隆三十八年三月廿五日
     伊野波村加那玉城
 一、渡久地村前石嘉波親雲上
     妻
 一、道光三年未八月浜元村
     上渡久地妻
 一、乾隆五十六年戌浜元村
     石嘉波大屋子
 一、浜元村
     並里親雲上
 一、乾隆三十六戌 浜元村
     浜元にや 石嘉波大屋子
 一、伊野波村仲程
     渡真理親雲上
 一、嘉慶元年辰六月九日
     辺名地村辺名地親雲上母
 一、辺名地村
     辺名地親雲上 妻
 一、志ひら下こうり浜元村
     辺名地親雲上妻
 一、道光十七年丁■二月十九日死
     浜元村満名村大屋子 妻
 一、乾隆三十五年康寅二月七日
     浜元村島袋筑登之の妻
 一、嘉慶七年三月
     浜元村渡真理親雲上
 一 ○○○○親雲上
     伊芸親雲上妻
 一、辺名地村■山辺名地親雲上
     男子  ■■郎
 一、前辺名地親雲上 男子
     太良にや
 一、乾隆十六年辛未
     大掟文子
 一 浜元村
     並里親雲上妻
 一、大辺名地仲村渠親雲上
     具志川のろくもい女子
 一、タンチャ掟
     渡口村
 一、乾隆二十九年甲申正月十六日
     浜元村渡久地大屋子
 一、伊芸親雲上母
     真部親雲上
 一、申八月廿四日
     ■■親雲上ウシ
 一、乙未
     辺名地掟女房
 一、伊芸親雲上
 一、渡久地村仲宗根方
     玉城にや
 一、乾隆十四年寅十四日
     辺名地村辺名地親雲上
 一、渡口にや女房
     武太父親
 一、銘書不明十一個

  昭和四十九年四月十三日 旧三月二十一日
     ヌール墓を開けた。


2022年5月29日(
 2009年10月29日奄美大島の宇検村と瀬戸内町の調査、別の機会に喜界島や徳之島も訪れています。に沖縄県の調査に同行している。祭具の調査だったと思います。その時、祭具の遺品と辞令書などを拝見する機会がありました。祭具の調査の分担分は報告済。瀬戸内町の辞令書と瀬戸内町での鳳凰のカンザシなど、強烈に頭に遺っています。

  (工事中)

【瀬戸内西間切の西の大屋子職補任辞令書】

   しよりの御ミ事
     せとうちにしまきりの
     にしの大やこハ
     一人ひかのしよりの大やこに
     たまわり申候
   しよりよりひかのしよりの大やこか方へまいる
  嘉靖二十七年十月廿八にち

【屋喜内間切の名音掟職補任辞令書】

   しよりの御ミ事
     やけうちまきりの
     なおんのおきてハ
     一人たらつゐはんに
     たまわり申候
   しよりよりたらつゐはんの方へまいる
   萬靖三十三年十二月廿七日

【  】
 







2022年5月28日(

 奄美の喜界島と琉球国の関係を思い出してみる。近年、辞令書の確認があるが、文章や画像は当時のままとする。
  
 荒木漁港                        保食神社(荒木)

喜界島をゆく
(2005年4月30日~5月2日) 記録             
                                        
 4月30日の午後4時半頃、喜界島に入る。天気は曇、時々小雨である。那覇空港から奄美空港経由での喜界島入りである。奄美空港から喜界島へは、乗り継ぎのため三時間ばかり待ち時間がある。奄美の(笠利町:現大島市)を回ろうかと、一瞬よぎったのだが、今回は喜界島に集中することに決める。少し時間があるので、空港近くの奄美パークと田中一村美術館で奄美の感覚をつかむことにした。

 喜界島空港に降りると、早速車を借りる。空港近くは市街地を形成しているので、またそこに宿泊するので5月2日の朝の調査が可能である。それで反時計周りに喜界島を回ることにした。湾のマチを抜け、中里へ。中里・荒木・手久津久・上嘉鉄・先山・蒲原・花良治・蒲生・阿伝とゆく。阿伝で日が暮れる。嘉鈍から先は5月1日(二日目)に回ることにした。戻ることのできない性格なので、二日目にゆく嘉鈍より先の村々は、素通りしながら宿のとってある湾まで。宿に着いたのは午後7時過ぎである。島の一周道路沿いに集落がある。喜界島の集落の成り立ちの特徴なのかもしれない。それと一周線沿いの集落のいくつかは、台地あるいは台地の麓からの移動集落ではないかと予想している。が、まずは集落にある公民館と港(今では漁港)を確認することから。公民館は防災連絡用のマイクを見つければいい。

 琉球と喜界島との関わりは、どのようなことから見ていけばいいのか。確固たるキーワードを持っての喜界島行きではない。島の村々の集落に足を置いてみることで見えてくるのはなんだろうか。そんな単純な渡島であった。島の数ヵ村の集落を見ていくうちに、喜界島と琉球との関わりを見るには漂着船の記事ではないか。というのは、今では整備された漁港であるが、それでも岩瀬が多いところである。そのような岩瀬の多い所への舟の出入りはなかなか困難である。よほどの事情がないと入れないのである。よほどの事情というのが、琉球から薩摩へ向かう船。あるいは逆の薩摩から琉球へ向かう途中、嵐にあい、喜界島に漂着したことが予測できる(特に近世)。

 それから西郷隆盛や名越左源太などのような道之島への流人である。島に与えた流人(特に薩摩からの流人)の影響も大きかったであろう。近世であるが琉球からの喜界島への流人の例もみられる。もちろん大きな影響を与えたのは薩摩からの役人達である。そんなことを思いふけながら、二時間ばかりの数ヶ所の集落めぐりである(一日目)。

【喜界島の野呂(ノロ)】

 『大島 喜界 両島史料雑纂』に「喜界島史料―藩庁よりの布令論達掟規定約等」(明治41年中旬調査:読み下し文と訳文)がある。その中に「野呂久目」について何条かある。その条文は安永7年(1778)のようである。1611年に与論以北は薩摩の支配下に組み込まれ、薩摩化させられていったが、この野呂は古琉球から近世に渡って根強く残ってきたものである。この段階でも、いろいろ禁止されるが、その後までひきづり、ノロ関係の遺品が遺されている。

  一 野呂久目春秋の祭一度づつ花束一升づつ、その外の神事はさしとめ候
     ただし村々みき造り候義さしとめ候
   一 野呂久目、湾間切入付而は所物入用これある由候間、以来さしとめ候
   一 右湾方の野呂以下代合の節、ふくろ物と名付け、米相拂い来り由候得ども、向候得ども、
     向後差とめ候
   一 野呂久目神がかりの節、前晩より右湾えさしこし来る由候得ども、向後さしとめ候

ノロの弾圧
  喜界島のノロも大島群島同様、安政7年の禁止令があり、弾圧された。ノロもフドンガナシも隠れて、明治に至る。
  赤連の「新山家系図は明治になって不明。

・阿 伝(あでん)(東間切)

 阿伝には琉球国(首里王府)から発給された「辞令書」がある。この辞令書は伊波普猷の『をなり神の島』(全集五巻:鬼界雑記)で紹介されている。喜界島の東間切の阿伝ノロと首里王府との関わりを示す史料である。そこで伊波は、奄美と琉球国との関わりを以下のようなことを掲げている。
  ・大島が琉球王国の範囲に入ったのは1266年である。
   ・喜界島は二回ほど氾濫を起こし征伐される。
   ・1609年の島津氏の琉球入りで大島諸島は薩摩の直轄となる。
   ・寛永元年島津氏は役人や神職の冠簪衣服階品を琉球から受けることを禁止する。
   ・寛文三年に島津氏は統治上、大島諸島の家譜及び旧記類を取り上げて焼き捨てる。
   ・享保17年役人の金笄朝衣広帯などを着ける琉球風を厳禁する。
   ・琉球的なものを厳禁した中で辞令書は秘蔵している。

【鬼界の東間切の阿田のろ職補任辞令書】(1569年)

  しよりの御ミ事           首里之御ミ事
   ききやのひかまきりの       喜界の東間切の
   あてんのろは             阿田のろは
      もとののろのおとゝ             元ののろの妹
   一人ゑくかたるに          一人ゑくか樽に
   たまわり申候            給わり申候
  しよりよりゑくかたるか      首里よりゑくか樽
           方へまいる          方へまいる
  隆慶三年正月五日         隆慶三年正月五日(1569年)

 この辞令書は「喜界島の早町村の阿伝の勇という旧のろくもいの家でもこれを一枚秘蔵している」(伊波普猷全集第五巻)と。太平洋戦争で焼失してしまったという(『喜界町誌』)。阿伝のノロ家は、早町村にあったのか、それとも阿伝村の勇家(現:山野家)なのか。阿伝ノロ家が早町村にあるなら、古琉球の時代の喜界島におけるノロは、複数の村を管轄していたことがわかる。

 

 

 

 ▲日本復帰記念碑(昭和28年)         ▲末吉神社

【喜界島の主な出来事】

 ・1441年 大島は琉球に従う
 ・1429年 琉球国は三山が統一される。
 ・1450年 尚徳、喜界島を攻略する。琉球王国の支配下に置かれる。
 ・1466年 尚徳、互弘肇に命じ、泊地頭職を任じ、(泊村)及び大島諸島を管轄させる。 
       その頃、米須里主之子を喜界島大屋子として派遣する?・1472年『海東諸国紀』の「琉球国
       之図」に「鬼界島属琉球 去上松二百九十八里去大島三十里」とある。
 ・『中山世譜』に「琉球三十六島」のうちとして「奇界」とある。
 ・『球陽』に「鬼界」とある。
 ・「琉球時代」以前は大宰府の管轄にあったとの認識がある。
 ・12世紀保元の乱で敗れた源為朝が伊豆大島を経て喜界島北部の小野津に漂着した伝承がある。
 ・12世紀平資盛らが豊後国から船を出して屋久島、喜界島、奄美大島へ逃げて行った伝承がある。
 ・七城・・・島の最北端にあり、平資盛が13世紀初めに築城したという。あるいは15世紀後半に琉球の
      尚徳王が築いたともいう。
 ・1266年に琉球王国に朝貢したという?
 ・1450年朝鮮人が臥蛇島(トカララ列島)に漂着し、二人は薩摩へ、二人は琉球へ。
 ・1456年琉球に漂着した朝鮮人の見聞。池蘇と岐浦はききゃ?
 ・「おもろさうし」に「ききゃ」(喜界島)と謡われる。
 ・琉球国王尚泰久のとき(1454~61年)諸島を統治した後、「鬼界ガ島」に派兵(『琉球神神記』)。
 ・喜界島が琉球国に朝貢がないので兵を派遣して攻める(『中山世鑑』)。
 ・1466年尚徳王自ら大将として2000名の兵で喜界島を攻撃する(『中山世鑑』)(『中山世譜』)。
 ・1537年 奥渡より上の捌が初めて任命される。
      ・1554年「きヽきのしとおけまきりの大くすく」(辞令書)
         (間切・大城大屋子の役職)

 ・1569年「きヽやのひかまきりのあてんのろ」(辞令書)(間切・ノロ)
    (ノロに関する伝世島:バシャ衣・ハブラ玉)

 ・1611年 大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島が薩摩藩の直轄とされる。
 ・1613年島津氏は奄美五島(与論・沖永良部・徳之島・奄美大島・喜界島)を直轄領とする
 ・「正保琉球国絵図」に喜界島の石高6932石余、志戸桶間切・東間切・西目間切・わん間切・荒木間切の
    五間切)
 ・「大御支配次第帳」によると「荒木間切・伊砂間切・東間切・志戸桶間切・西間切・湾間切の六間切)
    (間切のもとに村々がある)

 ・1837年琉球国王の即位につき清国から冊封使がくると喜界島からも米11石を納めている。
     (豚・鶏・玉子・塩魚・きのこ・海苔・あおさ・白菜など)

http://yannaki.jp/kakogazou/501s01.jpg
               
 【喜界島の集落】

 喜界島には源為朝は伊豆大島に流され、1165年に琉球に渡ろうとしたが喜界島の沖合いに流され、船上から島に向かって放った矢がささった所から水が湧きでた場所が「雁股の泉」だという源氏に関わる伝承。そして平家の武将が射場跡だという矢通場がある。また長嶺村には平家森、志戸桶の沖名泊に平家の上陸地などがあり、平家・源氏に関わる伝承を根強く伝えている。それと琉球と関わる伝承も。

 喜界島には「嶺」のつく村名に川嶺・坂嶺・長嶺がある。今帰仁村で大嶺原の小字がある。呼び方としてはプンニである。プンニは大きな骨(嶺)のことである。喜界島の嶺のつく村名は字の通り「嶺」からきた村名であろう。、

 喜界島の歴史を見ていく場合、間切(まきり)である。喜界島には五つの間切があり、間切の村がどうなっているのか。

  ①湾間切・・・・・・・湾・赤連・中里・羽里・山田・城久・川嶺
  ②荒木間切・・・・・荒木・手久津久・上嘉鉄・蒲原・花良治
  ③西目間切・・・・・西目・大朝戸・坂嶺・中熊・先内・中間・伊砂・島中・滝川
  ④東間切・・・・・・・早町・白水・嘉鈍・阿伝・塩道・長嶺
  ⑤志戸桶間切・・・志戸桶・佐手久・小野津・伊実久


2022年5月27日(金)

 今年4月沖永良部島を訪れている。帰り際、知名町の屋子母→大津勘→徳時→住吉→正名を回っているとき、屋子母で浜倉、住吉で見張台(のろし台)があることに気づかされる。その日は、帰る日なので11時の下りのフェリーに合わせて知名町の全ての字を踏査する。知名町の集落の多くが島のメイン道路沿いに狭しと立ち並んでいる。古琉球の時代から集落が同じ場所にあるのではないか。集落の道筋を通ると狭く、くねっている。知名町の下城・上城、和泊町の谷山・永嶺・後欄・瀬名・内城・大城・玉城などを回ると、沖永良部島の集落は高地に位置している。琉球のグスクのつく場所が高地(標高50m~100m)に位置し、グスク(城)は高地性集落ではないか。
 
 昭和10年代「奄美の島々」を訪れた河村只雄(敬称略)の当時の文章(『南方文化の探求』所収:手元にある講談社学術文庫)が興味深い。

 河村の「粟粥攻」の戦術」、「奄美の家人の制度」、「南島の為朝伝説」、「奄美の洗骨の文化」、「島津藩の宗教政策」、「奄美に対する島津藩の文化政策、「琉球治下の奄美と島津治下の奄美」など、戦前の奄美の様子を知ることができる。

 河村只雄(敬称略)の「奄美に対する島津藩の文化政策」から、「奄美の島々に対し島津藩は文化的にはあまり干渉しなかった、砂糖さえうまく搾取できるなら文化的には琉球的であろうとかまわないといった態度をとっていたようだ」と評している。島津氏が奄美の島人に対した文化的圧迫は、島人のもてる系図、古文書類を没収・焼棄したことであるという。
  ・元禄六年(1693)と同十年(1597) の二回
  ・宝永三年(1706)と同四年(1707)に大島の代官に命じて、奄美の島人が所持
   していた民間の系図や諸記録をことごとく取り上げて焼棄したという。

   (与人の上国の制限、諸島民の系図、文書の差出が命ぜられる)
 
  ・亀津に観音堂、和泊に弁財天宮を建つ
  ・大島の宇宿大親家譜ができる。
  ・与論島、金毘羅権現を上城に移し建立
  ・沖永良部島、金毘羅権現建立(1824年)
  ・田宗宗左衛門、諸鈍に資盛碑建立
  ・1850年沖永良部間切横目平安統「世の主由緒」を藩に報告。
  ・1850年名越左源太配流(在島中、「南島雑話」を記す)
  ・1855年 徳之島神女小屋廃止?
  ・1857年 沖永良部島 従来の大城・喜美留・久志検の三間切を改め、和泊方、
        東方、西方とする
  ・1858年 沖永良部島和泊の与那川、玉城内城川に太鼓橋設置
  ・1858年 伊延港の船路を広げる
  ・1869年 大島各地に高千穂神社建立、ノロの神事一切廃止。(明治2年)
  ・1871年 沖永良部島 弁天を厳島、金毘羅を大物主、天神を菅原神社と改称
         世の主・四並蔵は神社となる。世の主神社禅王寺跡に建立
        (下城) 

   (工事中)







   知名町遺跡散歩(知名町教育委員会編)


2022年5月26日(木)

 「仲里門中系譜」があり、その中に「トーミ家」を見つける。過去に古宇利島、本部町大嶺原、伊江島、本部町瀬底島、伊是名島、国頭村の辺戸、伊地などの遠見所を確認した記録を思い出す。記録や画像は2002年当時のまま。

2002.6.21(金)

 午前中のちょっとした時間、今帰仁村今泊(本部町具志堅との境)の大嶺原のピータティファーイまで登ってみた。というのは、19日古宇利島から大嶺原を眺めたので、大嶺原から古宇利島がどう見えるのかの確認である。大嶺原からつなぐ伊江島の方向も眺めてみた。大嶺原のピータティファーイから正面に伊是名・伊平屋島、右手に古宇利島、左手に伊江島が見える。今日は雲の多い天気だったのだが、下の写真のように伊江島と古宇利島が見える。
 『伊江村史』に遠見番について詳細な記述がなされている。古宇利島のトーミヤーの様子を見るための手掛かりとなる記述がある。
 ・唐船、薩州船や難破船の見張りをする。
 ・上佐辺のツリワイ毛に遠見番所があった。
 ・六人が常時詰めた。三交代で二人が立番をする。
 ・唐船の通航時期になると臨時の在番役人が来島した。
 ・民家から離れた場所にある。
 ・一隻の時は一炬、二隻の時は二炬、異国船の時は三炬
 ・火立所は離れて参ヶ所にある。
 ・中央が一番火立所、西が二番火立所、東が三番火立所
 ・五月になると島民の漁火が禁止された(唐船通過後に解禁)。
 ・屋号にトーミがあり、遠見番を勤めたことに由来。

   
   
▲大嶺原から伊江島を眺める       ▲大嶺原から古宇利島を眺める


2002.6.20(木)

 総合学習の後の余韻が歴文まで伝わってくる。また、伊江島からもお礼の手紙をいただいている。先日伊江島の子供達は、今帰仁グスクから城山を見つけて歓声をあげていたのを思い出した。いくつかヒントをもらったようで、早速島村屋にいって調べるとのこと。私自身、今伊江島にはまっている状態。先日のトーミヤーの件もそうである。古宇利→大嶺原→伊江島とつながることもあって、五月に伊江島に渡った時、早朝イータッチューの頂上まで登った。それは古宇利島→大嶺原→伊江島のルートを伊江島からどう見えるのか、その確認でもあった。伊江島から大嶺原の方向を見ると、備瀬崎の後方に清掃工場のエントツが見える。エントツの左側に大嶺原がある。エントツから煙が出ていると、烽火がそのように見えたのだと想像する。二つ、三つ煙を上げるには大分離さないと風で一つになってしまう。すると、40~50mは離さないとイカンなとか、いろいろ考える。(煙をあげる場所が三か所確認できるのは、国頭村辺戸や伊地の遠見所)

 宮城真治は古宇利島の「火立て屋」について、以下の記録を残してくれた。
   位置 宿の前原2833原野の南部
       火立て屋 チータッチュー屋三つあった。
       中に薪を一ぱい、薪は間切船、唐船や大和行の船(偕船?)
       を見た時、その一つを焼く。
       火立ては国頭、伊平屋、具志堅、伊江にもあった。
       その番人の家 遠見屋という。
       唐船の入る頃になると掟も来て勤める。
       古宇利の人より番人は六人、功によって筑登之より親雲上の
       位まで授けられる。終身職で頭を免ぜられた。

 火立て屋あたりを、調査する手掛かりをいくつも与えてくれる。そういう記録は、非常にありがたい。
 今帰仁村と本部町の境界の大嶺原は、右手に古宇利島、左手に伊江島が視野に入り、トーミヤー(ピータティファーイという)を設置するのに最適な場所である。
     
      
▲大嶺原(ピータティファーイ)から伊江島を望む


2022年5月25日(水)

 本部町立博物館のムラ・シマ講座の第一回目を済ませ、帰りに本部町具志堅(参照、画像記事当時のまま))に立ち寄る。第二回のフィールドは具志堅の予定。具志堅の神ハサ―ギ、シニグを行う広場、シニグ旗のスタートの広場、上間家の前の広場、フプガーへ。梅雨の最中なので、まだ草刈りがなされていず、梅雨明けを待っているのであろう。2020年の12月に故新城徳祐先生の旧宅へ呼ばれ、残った資料を寄贈いただく。その中に、「仲里門中系譜」があり、その中に「トーミ家」を見つける。今帰仁村と本部町の境界にあった「遠見所」の番人を出した家なのであろう。

 7月に行うムラ・シマ講座は具志堅なので詳細の調査をすることに。

▲具志堅の神ハサ―ギ      ▲旧家前の石垣と大福木     ▲大量の水が湧き出る(フプガー)
 

2021年1月27日(水)過去メモ

本部具志堅のトーミヤー
.
 本部間切具志堅村に遠見所が置かれていた。本部間切には具志堅村と瀬底村(島)の二か所に置かれていた。「沖縄旧慣地方制度」(明治26年)に「遠見番」、定員12名、雑給十一円五十二銭となっている。定員12名というのは本部間切に二か所に遠見所があったことがわかる。因みに今帰仁間切の遠見番は六名なので遠見所は一か所(古宇利島)である。本部間切は本部間切具志堅と瀬底島の二か所である。

 「正保国絵図」(1645年)に本部間切は、まだ今帰仁間切である(1666年まで)。その絵図に古宇利島に(沖ノ郡嶋)に異国船遠見番所とあるが、具志堅村と瀬底嶋には記されていない。しかし具志堅の大嶺原と瀬底嶋に遠見番所跡が残っている(大嶺原に鉄塔がつくられ残っていない。鉄塔が造られる前に確認したことがある)。

 具志堅の「仲里門中系譜」に遠見番の役人をだした家とみられる「トーミ屋」が見られる。瀬底でも水納島のトゥミヤー、トゥミヤー(大城家)が散見できる。古宇利島(今帰仁)→大嶺原(本部)→伊江島→瀬底島(本部)→座喜味)→

 
▲本部町具志堅から眺めた伊江島 ▲具志堅村の桜の開花


2022年5月24日(火)

 これから「本部町のムラ・シマ講座」の大筋の解説(歴史)。レジメ未完成のままで。



2022年5月23日(

 本部町伊野波・並里のシニグ調査をしたことがある。2006年なので16年もたったか。

伊野波(2006.08.19メモ)

 伊野波の神アサギは公民館の側から、現在地に移動したようである。殿(トゥン)と呼ばれる神家があるが、それは伊野波ノロ殿内のようである。ムックジャのユングトゥを唱える場所でもある。「神敬」の扁額が掲げられている。殿の中に三つの香炉があり、その一つに「奉寄進 咸豊九年巳未九月吉日 本部按司内 渡久地仁屋」とあり、首里に住む本部按司(あるいは按司家)と伊野波村は密接な結びつきがあったことが知れる。

 また、伊野波の方々にはあまり認識されていない拝所がある。それは殿の右手にある小さな祠である。それは伊野波家の火神である。それは惣地頭火神でる。首里に住み本部(伊野波)間切の惣地頭である。伊野波村に伊野波姓が一軒もないからと誤解している話も聞かれた。それは『琉球国由来記』(1713年)の伊野波村の祭祀に惣地頭が関わっていた痕跡が、惣地頭火神の祠にみることができる。また、並里にも「本部按司」と彫られた香炉がある。それは並里は伊野波村から1666年以降に分離した村である。そのため本部按司は伊野波と並里の両村の祭祀に関わったと見てよさそうである。

 
▲正面の祠が殿(トゥン)(伊野波ノロ殿内)         ▲殿にある「本部按司内」の香炉
 

 
    ▲シニグイ当日の神アサギ             ▲強飯(粟のはいたおにぎり)

 
    ▲惣地頭火神とみられる祠             ▲ウシデークとムックジャの場面
伊野波・並里・満名(2006.08.18 メモ)

 伊野波、並里のシニグ(シニグイ)の調査をする。芸員実習もかねている。伊野波は昼間のウガンは終わっていて(潮に合わすようだ)、その足で並里へ。並里は公民館でウガンの準備中。以下の順で同行させてもらう。

  ①並里公民館   ハシキ(米と粟)お神酒(ゲンマイ)などを準備
  ②上満名殿内の離れの拝所
  ③上満名殿内(火神→神棚(関帝王三人像)→位牌)
  ④並里神社(上の祠:ウタキ)→神アサギ内)

 
 ▲ハシキと神酒(ゲンマイ)(公民館)    ▲上満名殿内の離れの拝所

 
  ▲上満名殿内で三ヶ所拝む         ▲神棚の関帝王にも拝む

 
    ▲神アサギの上の方にある祠へ            ▲神アサギ内でのウガン 


2022年5月22日(

 『海東諸国紀』(1471年)の「琉球国之図)の地名をみる。まだ比較をしているのではないが、「おもろさおし」と並列してみるとどうなるか。「おもろさおし」の表記は大半がひらがなである。「おもろさうし」で地名が「まく」(まきよ)として登場している(久米島)。「おもろさうし」の編集が1500年代か1600年代である。古琉球の辞令書もひらがな表記でなされている。おもろや古琉球の辞令書や金石文もそうである。1609年以前のひらかな表記の史料・資料は、同時代史料として扱えないのか。「おもろ」に出てくる奄美の地名や人名や出来事など。

 (作業中)

琉球国之図(1471年)

   国頭城(根謝銘グスクか)
池城足城(池城城/羽地城か)
賀津連城(勝連城)
五欲城(越来城)
中具足城(中城城)
鬼具足城(知花城か)
越法具足城(大里村の大城城か)
玉具足城(玉城城)
島尾城(島尻城 豊見城j城?)
宝庫(御物城)
那波皆渡(那覇港)
国庫(親見世 那覇市)
九面里(久米村)
石橋(那覇~首里間か)
浦傍城(浦添城)
奇羅波城(倉波:読谷山の古名)
大西崎(読谷崎)
白石城(読谷村長浜?)
河尻港(?)
瀬々九浦(瀬底島)
那五城(名護城)
伊麻奇時利城(今帰仁城)
雲見泊要津(運天湊)

※「まきり」や「むら」の言葉はでてこない。後の間切名や村名が登場している。




2022年5月21日(

 本部町健堅は「絵図郷村帳」に「今帰仁間切けんけん村」と登場。健堅地内に石嘉波村、崎浜村などが散在していたと見られる。健堅の村名は、ケンケンヒャーの伝承が村名となったとみている。人物(ケンケンヒャー)の生誕地が伝承が村名になった事例。石嘉波村は1738年ころ、瀬底島へ移動。崎浜村は隣の本部村と合併し、現在の崎本部。(詳細は講座で説明することに)





2022年5月20日(金)

 本部町瀬底のムラ・シマ講座の配布資料見つける。『恩納村史』から先日戦争編の寄贈があった。中身はまだ目は通してないが、三枚の恩納村の航空写真(戦争遺跡)が収められていた。恩納村の一部は踏査したが、航空写真で集落の位置や海岸の様子がよくわかりありがたい。再度、各字に足を運びたくなる(感謝!)。



 先日(水曜日)、以下の「諸物作節帳」で説明をすると80歳余の方々にとっては体験したことを思い出してくれた。肥料づくりには、牛・馬・山羊が必要、農作業の帰りにはかややススキや木の枝などを運ぶ。田のあぜ草は、カマで刈る。大雨で田畑や道路などが壊れると夫(ブー)で修復するなど。
 作物もキビ・稲・田いも・さつま芋・麦・粟・大豆・とうがん・青瓜・きゅうり・へちま・棕櫚・蘇鉄・しょうが・綿・キビなど。また作物の除草、農具、農耕暦ど聞き手がその情報を持っていないと引き出すことが不十分であったことを実感。

  道光二十年(和暦 天保十一年)
   耕作下知方並諸物作節附帳
          大宜味間切
            地頭代 山川親雲上
            総耕作当 山川親雲上 前田親雲上 宮城築登之
 目 次
  一、農事一般
  二、 居年の播種期と農具の準備
  三、 毎月の農事ごよみ
  四、 あとがき

 毎月の一日に村々の地頭、掟、耕作当が番所へ集まるさいに申し渡す農事の方法に関する項目を次に記す

一、農事一般
 ○田畑については、いくら耕しても肥料を使わなければ収量が少ないことは誰でも知っている。
  肥料を調達するには、よくよく念を入れなさい。
 ○肥料は、牛馬や羊を屋敷内で飼わなければ思うように確保できないものである。したがって、
  以前からたびたび申し渡された通知を確実に守らなければならない。
 ○農民は、毎日の野良仕事から帰るとき、牛馬、山羊用の草、かや、すすきの類、木の小枝などを
  運ばなければならない。かや、すすきは、台所近くの庭から豚小屋の前まで広げておいて踏みつけ、
  雨の降るときにはぬらさないようにがつのところに取りこんでおく。腐ってきたら豚小屋に入れ、豚
  に踏ませたのち肥料小屋に積んで貯えておき、使用すること。
 ○田ごしらえのとき、あぜ草は鎌で刈り取ること。鍬を使うとあぜをくずしてしまうのでかたく禁止する。
 ○大雨が降って田畑、河川、道路に被害があったときは、すぐさま組の者たちで補修すべきである。
   もし被害が大きく、組の者たちだけで修理できない場合には、惣耕作当まで申し出て、検者、地頭代
   の検査を受けたうえで人夫の増員を願い出ること。
 ○堤防の保全には十分念を入れること。

二、稲の播種期と農具の準備
 ○屋嘉比、親田、見里、城、根謝銘、一名代、喜如嘉、饒波、大宜味、根路銘の十か村では、
  八月の秋分から五十五、六日たったら稲の種子を播きなさい。塩屋、屋古前田、田港、渡野喜屋、
  津波の五か村では、、同じく六十五、六日目に播種すること。
 ○鍬、鎌、へら(漢字)、おの、やまがたな、ざる、竹かご、もっこ、蓑笠

 これらの農具は農民には絶対に欠かせないもので、ない場合には山仕事のさい困ることになる。一月と七月の二度、地頭、掟、惣耕作当が検査し、その状態を検者と地頭代まで報告すること。

三、農事ごよみ

一  月
○念入りに田ごしらえをする。
○田植えの適期は場所によって違うので、いつごろから行ったらよいか、相談すること。
きびを播く。
○山の新開地に粟を播く。
○黒かじを挿す。
しゅろ苗を植えつける。
田いもを植えつける。
さつまいものつるを植えつける。
さつまいもの種いもを伏せこむ。
とうがん、青瓜、きゅうり、へちまの播種をする。

二  月
○田植えをする。
○畑を耕起、整地しておき、雨が降って土がうるおいしだい、さつまいものつるを植えつける。
綿を植えつける。
しょうがを植えつける。
○さつまいもの種いもを伏せこむ。
○そてつの種子を植えつける。

三  月
○畑を耕起、整地しておき、雨が降って土がうるおいしだい、さつまいもや各種の作物を植えつける。
○大豆の播種をする。
○あずきの播種をする。
○粟畑の除草をする。
○稲の播種をする。
○平地のさつまいも畑の除草と施肥をする。

四  月
○山の新開地の地ごしらえをし、さつまいものつるを植えつける。
○稲の除草をする。
○粟畑の除草をする。
○綿畑の除草をする。

五  月
○畑を耕起、整地し、さつまいものつるを植えつける。
○稲の除草をする。
○粟畑の除草をする
○綿畑の除草をする。
○大豆畑の除草をする。
○さつまいも畑の除草をする。
○稲の作柄調査をする。

六  月
○畑の耕起、整地をして、さつまいものつるを植えつける。
○稲刈りをする。
○秋作稲の播種をする。
○薩摩への上納米について、調製も含めて村々で準備するよう申し渡す。
○大豆畑の除草をする。
○綿畑の除草をする。

七  月
○苗代の耕起、地ごしらえをする。
○さつまいものつるを植えつける。
○秋作稲を植えつける。
○さつまいも畑の除草をする。

八  月
○大豆と小豆の収穫、調製が終りしだい、畑の耕起、整地をする。
○さつまいものつるを植えつける。
○田の荒起こしをする。

九  月
○綿を移植する畑を耕起、整地する。

十  月
○湿田の荒起こしをする。
○二度目の田打ちをする。
○稲の播種をする。
○麦の播種をする。

十 一 月
○山の新開畑を開墾する。

十 二 月
○三度目の田打ちをする。
○粟の播種をする。
○山の新開畑を開墾する。

四、あとがき
 このたび、前記の数か条をかたく守るように村人に申し渡し、さらに田地御奉行様から示された条項をかたく守るように申し渡した。ついては、その結果を報告されるようお願いいたします。
  道光二十年(天保十一年)十一月                   さばくり一同
 惣耕作当一同               地頭代
 以上のように、村人に農事にはげみ怠りなく働くよう、かたく申し渡したことを報告します。
  道光二十年(天保十一年)十一月                   検者 下知役

以上の『農務帳』一冊と『耕作下知方並諸物作節附帳』一冊とは、農事の重要な規範でアあるから、おろそかにすべきではないが、大宜味では廃棄してしまったのだろうか、きちんと保管されていないので田地方のものを写して改めて下付した。ここに書かれているように、念を入れて耕作するよう申し渡しておく。一所懸命に耕作にはげみ、生活が安定するように常々申し聞かせてきたが、今回改めて申し渡すしだいである。以上
  道光二十一年(天保十二年)二月
    検者         屋嘉比筑登之親雲上   下知役 仲吉筑登之親雲上
  地頭代  喜如嘉村  山川親雲上殿
  惣耕作当 同村    山川親雲上殿
  同右   塩屋村   前田親雲上殿
  同右   同村     宮城筑登之殿


2022年5月19日(木)

 兼次の字誌の会議で人物の一人の諸喜田福保(兼次出身)の追加紹介。「兼次の農業」関係の資料を配布。米・麦・大豆・トーマミ・さつまいもなどの植える時期、手入れ、施肥の仕方など。話題がつきない。配布資料を置き忘れてきたので添付なし。久しぶりに天気回復。

 

諸喜田 福保
(兼次出身)(「辞令書」と「口上覚」は村指定文化財:歴史文化センター蔵)

  諸喜田福保は今帰仁間切兼次生まれて、今帰仁間切最後の地頭代を勤めている。明治二八年の辞令書があり「今帰仁間間切耕作當 諸喜ぶ田福保 任今帰仁間切地頭代 兼次村 明治廿八年九月三十日」とある。また「名誉賞状「(明治四十年十二月五日)を受賞している。

 他に「口上覚」があり、明治期の間切役人の昇級過程や間切の出来事を知ることができる。

 「口上覚」から間切の役人とその昇級過程がわかる。文久二年に挽船宰領、潮係之時宰領、両総地頭地の配置係、用地申請の時係、明治に入って挽船宰領、捌庫理代理、掟、西山奉行所仮筆者修繕係、上納砂糖払方係、そこから間切へ。兼次夫地頭、総山當代理、総山當代理、総耕作當代理、運天村下知人、総耕作當加勢、総耕作當代理、総耕作當、地頭代代理、地頭代となる。地頭代になったのは明治二十八年任命で、最後の地頭代である。

 明治三十年になると、間切島吏員規定が制定・施工され、地頭代は廃止され間切長がおかれる。

 明治28年に発給された今帰仁間切の最後の地頭代(諸喜田福保)の辞令書と「勤職書」に目を通す。辞令書の文面は「今帰仁間切耕作當諸喜田福保 任今帰仁間切地頭代 明治廿八年九月三十日 印」とある。印は「沖縄県庁」の印である。これが地頭代の最後の辞令書というのは、明治31年に間切の地頭代は間切長となり、同41年には村長となるからである。

 「勤職書」は、この文書の表題部分が欠落しているため、琉球大学の島袋源七文庫の中に、「勢理客村湧川親雲上勤職書」とあり、それに因んで「今帰仁間切諸喜田福保勤職書」と命名した記憶がある(昭和57年)。辞令書と勤職書を公に紹介したことから、後に寄贈いただくことになる。

 沖縄の歴史研究に手を染め始めた頃である。というよりは、それがきっかけで歴史に本格的に足を踏み込んだように思う。言語調査から入り数年、民俗調査に数年、宮城真治資料と関わって民俗と決別、昭和55年頃諸喜田福保の辞令書と勤職書をきっかけに歴史へ。10年近く歴史と悪戦苦闘している。その頃、「今帰仁村の村落の変遷」や「北山の歴史」や「運天の歴史」などをまとめている。そのころ角川の「沖縄の地名辞典」で羽地や久志地域を。そして名護市史で歴史原稿をまとめている。

 平成元年4月に今帰仁村に仕事場を移し、資料館(現在の歴史文化センター)づくりへと。準備室時代が7年あった。資料館(博物館)づくりに入ると言語、民俗、歴史、地名などと分野を分けて業務をすることができない状況であった。自分の専門としたい分野だけでは博物館は成り立たないのである。やってきたものには分野を問わず関わらざる得なかった。教育の分野まで。苦手としたのは、芸能や音楽、それと自然。それらは今でもお手上げである。申し訳ないと思っている。

 歴史に足を踏み入れるきっかけとなった「辞令書」と「勤職書」を手にしていると、30年余の沖縄研究の足跡を整理する時期にきたかと思う。表舞台に出ることは苦手。(平成5年頃のメモ)
 
▲今帰仁間切最後の地頭代任命の辞令書  ▲諸喜田福保勤職書の一部


2022年5月18日(水)

 今日は、一日中「兼次誌」に集中しなければならない。夕方から「兼次字誌」の編集会議。予算の検討会議。さて、脳裏にある兼次を思い出しながら「寡黙庵」へ。




2022年5月17日(火)

 奄美の喜界島までは、何度か調査で訪れていた。そこ以北のトカラ列島まで研究の視野に入れていなかった。また、訪れることはないだろうと。その北の屋久島や種子島は行ってみたいと思っていた。種子島は鉄砲伝来でよく知られている。屋久島の宮島は今帰仁村の運天港に二基の大和人墓があり、その一基に「屋久島之宮之浦 父立也 新七 敬白」とあり、そのため屋久島に行ってみたいと思っていた。いまだにかなっていない。島袋源一郎(敬称略)の資料目録を作成中「琉球列島に於ける民家の構造と其の配置」に気づく。薩南十島村とあり、トカラ海峡を越えた地も視野に入れねばと。(もう体力的にコロナで無理かと)。



 琉球列島に於ける民家の構造と其の配置(『旅と伝説』か?所収)
                       島 袋 源 一 郎 

私は今日迄の間に沖縄県下數十の島々を殆んど探訪するの機会を惠まれたので多少此等の島々の伝説歌謠土俗等に趣味を有って採集することに努めたのであるが、沖縄本島地方で十分理解することの出来ない材料が或は奄美大島の資料に依って釋然と氷解するのがあり、或は先島(宮古、八重山)の材料に依って理解せらるゝものもあって、何とか機会を得て大島諸島の土俗を調査して見たいとの欲求を持つようになった。
 處が昭和九年五月渋沢男爵の後援により東北より九州に至る各官立大学の地質、動植物、宗敎、農学、人類学其他各科の權威者を以て組織せらるゝ敎授の方々が薩南十島村を調査して帰らるゝ御一行と名瀨より同船し、鹿児島図書館の階上に於て、十島村視察報告講演会が催されたので之は実に絶好のチャンスだと思い聽講に出掛けたのである。元より多人数にて発表時間の制限もあり十分に伺うことは出来なかったが、沖縄のそうした事柄に就いて興味を持っている自分には極めて有益であったのみならず事々物々皆沖縄と大同小異であり、且つその延長であるかの感を懷いたのである。此に於て従来の奄美大島調査の宿望は更に增大して十島村即ち吐噶喇群島迄延長しなければならぬという必要を痛感するに至った。

幸い昭和十年六月東京より帰県の際鹿児島衞生課勤務の友人前沖縄県学校衞生技師呉泉氏の慫慂に依り六月十四日夜半鹿児島に於て十島丸という百五十五噸の小型優秀船に同乘していよいよ前年来の懸案たる十島村調査に乘出すことになった。抑も十島村とは薩南に羅列する竹島・黒島・硫黄島・口之島・中之島・臥蛇島・平島・宝島・悪石島・諏訪瀨島の所謂十島を以て一村を形成せるもので、文字通り交通不便なるは勿論、昭和五年四月に初めて小学校令が実施せられたという一事を以て万事は推測すべきである。昭和八年十島丸が建造されて此等の島々へも文化の波が寄せるようになった。爰に遺憾に思うのは竹島・硫黄島・黒島・口之島の四島を視察して中之島へ上陸しようとする時天候俄かに不穩となり一昼夜船は島影で荒浪に飜弄せられて上陸不能に陷り、遂に一路名瀨港を指して避難しなければならぬ事情に立至ったことと、当時十島丸は簡閲点呼官の一行と濟生施療の医師一行を載せている関係上一日に二三島を巡歴するので緩々詳細な調査を行うことの不可能であったことである。しかし一島僅に数時間宛の見学には過ぎなかったが其の收穫は決して少なくはなかった。

とはいうものの此の稿に於てはそれを全部報告する目的ではないのであるから、其の中の民家に就いての瞥見を述べ更に大島及沖縄先島の三群島との比較を試みて見たいと思う。之とても只單に大體の話であって委しいことは他日に完成する外はない。六月十五日午前六時半先づ竹島に着いた。他の一行が小学校に於て点呼並診療に従事している間自分は単身部落の民家を勝手に見て歩いたら図らすも日本上古の民家は確に斯んな風であったろうと想像せらるゝ配置を発見した。(第一図)

  以下略


2022年5月16日(月)

 北山の歴史の素描(工事中) 本部町のムラ・シマの講座を予定しているが、その講座のバックボーンとなる北山の領域であった1666年までの歴史を整理していくことに。

(工事中)


本部の歴史の概略(本部地方が今帰仁(まきり)領域にあった時代まで)

1.先史時代~貝塚時代
2.グスク時代~三山(山北・中山・南山)時代~仲北山時代~
    三王(怕尼芝・珉・攀安知)時代)

3.第一監守時代(1429年)~第二監守時代(~142990年頃)
    古琉球の辞令(ノロ・目指・掟)
    第二監守の一世に脇差やおもろなどを
4.薩摩の琉球侵攻と今帰仁城
   監守・按司
・今帰仁阿応理恵の首里引揚、それらの一族は大北墓に葬れれる。
5.神人、ノロ


1.貝塚時代 約6000年~1000年前
  ・土器が使われる前の時代・・・旧石器時代
  ・土器を使って料理したり、貯蔵したりする・・・貝塚時代

①人々が海岸でくらしていた時代。

②本部町村内の遺跡・遺物散布地

③出土したもの
 ・土器・・・九州や奄美との交流があった。
 ・貝、魚の骨・・・狩猟・採取の人生。
 ・石斧、石皿、たたき石など・・・かたいものを砕いて食べていた。
 ・マガキガイのビーズなど。
 ・住居跡・・・地面を掘り、柱をたてて、屋根は草や茅葺き(竪穴式住居)。

2.グスク時代→仲北山時代(本部大主)→三王(怕尼芝→珉→攀安知)の時代
    与論・沖永良部の関りは、怕尼芝王から北山滅亡、三山の統一まで)

  1200年代の終わりごろ~1429年まで

  ・本部域のグスク

①海辺に暮らしていた人々が、理由ははっきりしないが、高い場所に住み始める→グスク時代のはじまり

②按司と呼ばれる豪族が、権力を争い、最終的に沖縄本島の中に三地方にまとまる(山北・中山・南山)(南山は大里と高嶺の二地方)。

・南山(大里 高嶺)・中山(浦添グスク)・北山(今帰仁グスク)

・北山王国は、現在の恩納村恩納から北~奄美大島の範 

③源為朝が琉球に来た!?
 ・為朝渡来伝説

「源為朝は保元の乱(1156年ごろ)のとき伊豆大島に流されたが、伊豆大島を脱出した為朝は、奄美の島々を渡り歩いた後に、船出するが暴風にあってしまう。運を天にまかせていると、ついたところが今帰仁の港だったので、その地を運天港と名づけた。為朝はしばらく運天のティラガマに隠れていたが、南部に下り、大里按司の妹をめとり、尊敦が生まれる。尊敦はのち、琉球最初の王舜天となった。為朝は妻子を連れて日本に戻ろうとするが、海が荒れ、船頭に女子どもを乗せているから竜神が怒っていると言われ、やむなくふたりを残して船出した・・・」。

・為朝伝説は奄美・沖縄全域に伝承されていて、地名の起源に結び付けられたり、記念の場所の由来にまつわることが多い。

・伝説のもと本は『保元物語』(1220年以降に成立)

為朝が琉球に来た話は、1605年には、琉球に流布していた。1650年に記された琉球最初の「正史」と言われる『中山正鑑』に、為朝の琉球来訪が登場する。滝沢馬琴作の『椿説弓張月』、(葛飾北斎絵、18071811)は、その話をさらに活劇仕立てにし、全国的に有名にした。

・「来たという証拠もなければ、来なかったという証拠もない」、伊波フ猷と東恩納寛惇との間
  で論争あり)

④三人の北山王が、中国側の『明実録』に登場!(1383年~)

 ・怕尼芝→珉攀安知
 ・明国への朝貢の記録(貢物をおさめて、服従を誓って、冊封を受けて、返礼品をいただく)
 ・貢物の品々(硫黄・馬・産物)(東南アジアの国々の産物はないか?)

 ・返礼品リスト:鉄器・陶磁器・絹織物・舟・印鑑など

 ・三王の入貢回数怕尼芝7回、珉 1回 攀安知 11回 計19回)

⑤北山王攀安知、尚巴志の連合軍に滅ぼされる(1416年)
   その時、山原の国頭・羽地・名護
は中山の巴志軍へ組した二つの理由?

 ・経済力や政治力、文化的な力を背景に、尚巴志の連合軍が、北山を攻略した。
 ・1429年、南山が中山に併合され、三山が統一される。

⑥今帰仁グスクにまつわる伝説(仲北山)
  ・北谷ナーチラー(菜切り包丁)
  北山騒動(絶世の美女「志慶真乙樽」) 
  ・宝剣千代金丸

3.監守時代(山原地方の監守と首里化1422年~1665年)
  監守時代の前期(1609年まで)首里王府からの辞令が発給されている。

①尚巴志の次男尚忠が、監守(今帰仁按司)として務める。祭祀は今帰仁阿応理恵が祭祀を行う
 行事がある。

②尚巴志の系統が金丸(尚円)に滅ぼされ、第二尚氏がスタートする。
 第二尚氏の時代になっても、まだ監守を置いている。
 ・北山は中山から遠く離れていて、地形がけわしい。
 ・性格が勇ましく、荒々しく、また謀反をおこす怖れがある。
 ・北山の領域に「今帰仁阿応理屋恵」を配置する。

 →そのために監守を置いて、北山地方の監守と首里化をすすめる。

古琉球の辞令書(伊野波地方に関わる辞令書)
 ・東の掟 具志堅 ・辺名地の目指 ・具志川のろ(辺名地?) ・謝花の掟(謝花)
 ・本部目指 

③尚真王の時代(14771527)、国王に権力を集中させる「中央集権国家」がととのえられ、東アジアを舞台に、中継貿易をベースとした大交易時代を迎え、政治・経済・文化の黄金時代となる。

4.薩摩の琉球侵攻と今帰仁グスク

1609年、薩摩藩(島津氏)が武力をもって琉球を支配するまでの時代背景。

①大交易時代を築いてきた琉球王国にも、中国やポルトガル商人の台頭により、かげりが見え始める。とはいえ、中国との朝貢関係は続いていた。

②堺・博多の日本商人が琉球にひんぱんに来航するようになり、薩摩の領海を通過する際、島津の印判をもたない船とは貿易をしないよう琉球に申し入れるなど、島津氏の琉球に対する特権が強力になっていく。

1591年、豊臣秀吉が朝鮮半島を武力で制圧しようと、島津を通して琉球側に「兵士7,00010ヶ月分の食糧と、名護屋城をたてるための負担金」を命令してくる。

④当時の琉球は、財政難がだんだん深刻になってきていたことと、宗主国である明を裏切ることになるので、要求の半分だけを出した。

⑤島津も、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いなどでお金を使い果たして、財政難だったため、「琉球貿易(中国・朝鮮・日本)を独占したい!領土がほしい!」という野望を強める。 

■薩摩軍の琉球侵攻

①・薩摩側の資料『琉球渡海日々記』:「1,500人だけで攻めたぜ」
 ・琉球側の資料『喜安日記』:「3,000人も襲いに来た」
 ・家譜資料に琉球侵攻に関わった記事が散見
 

②旧暦325日に運天港に上陸。陸路と海路に分かれて、首里城へ進軍。今帰仁グスクを訪れた兵士たちは、城の中のものを持ち出した後、午前10時ごろ、城を焼き討ちにした。今帰仁の城内は誰一人いなかった。                                      
③当時は、北山監守が今帰仁グスクに住んでいた時代で、五世克祉の頃。監守一族の家譜を見ると、克祉の死亡月日が運天港上陸の翌日になっていることから、責任をとって自害したのかも。

琉球侵攻の今帰仁への影響

①今帰仁グスク周辺の今帰仁ムラ・志慶真ムラが移動する。
②「山北」はすでに謀反をおこす恐れはなくなったため、祭祀の継承などの勤めはあったが、
 「監守」は形だけのものになっていた。薩摩の襲撃のあと、監守もグスクを出て、城下に移動。

③首里王府の財政が厳しくなり(首里城の火災、疫病等)、監守の立場がますます弱くなる。
 監守は首里に帰りたい。                                 
1665年、監守一族は首里に引き上げ、翌年、今帰仁間切は分割され、伊野波(本部)
 間切が創設される。

5、神人(カミンチュ)、ノロについて

①尚真王の時代、聞得大君を頂点とした祭祀の体制(ノロ制度)ができる。
 神人にはノロをはじめいろいろな神人がいる。村によっては根人(ニッチュ)と呼ばれる男性の
  神人もいる。(現在神人が生まれないので、区長さんや書記さんが行っている) 
 

■本部間切のノロと祭祀の管轄村(確認のこと)
伊野波ノロ(シニグ ムックジャ復活する)
・天底ノロ(1719年、本部間切より移動。天底村・嘉津宇村・伊豆味村を管轄)
・瀬底ノロ(瀬底村)(島に田がないので満名川沿いに田を持つ)
・具志堅ノロ(具志堅村)(五日間の行事あり、シニグあり)
・謝花ノロ(謝花村)(備瀬も管轄する、シニグあり)
・浦崎ノロ

・具志川ノロ(浜元?→辺名地へ)(辺名地シニグあり)
・本部ノロ(崎本部?)
(シニグあり)


2022年5月15日(

 雨続きで休息。とは言うものの関西から来客あり。本部町のムラ・シマのことが頭を駆け巡っている。2005年に「本部町のガイド養成講座」を行っている。すっかり忘れている。その時は、本部町全体を視野に入れた講演をしている。今回の講座は「ムラ・シマ」毎に行う予定。先日、博物館の職員に「あれこれよく話せるな」と思っていた。2005年にやっていたのだ!

2005.07.06(水)

 午後から本部町のガイド養成講座のメンバーがやってきた。80枚の本部町を中心としたスライドで。1時間30分の講演と30分の質疑応答となった。現場を踏まえた質問なので、手ごたえのある回答をしなければならない。
 ・健堅の集落の形態(堅健)
 ・伊豆味の藍づくりと寄留人(伊豆味)
 ・具志堅と今帰仁グスクとの関わり(具志堅)
 ・伊野波の北谷真牛(城間家)の衣装と永楽□年の青磁(伊野波)
 ・嘉津宇の古い衣装(仲村家)(嘉津宇)
 ・満名川沿いの水田開拓と土地所有者(伊野波・満名・並里)
 ・各ムラの言葉の違いと地割制度
 ・仲村家の古琉球の辞令書と北山監守と大北墓(辺名地)
 ・具志川ノロと浜元のヌルドゥンチと土帝君(浜元)
 ・瀬底ウェーキと地頭代(瀬底)
 ・健堅と瀬底タナカ(堅健・瀬底)
 ・今帰仁グスク(北山の歴史:1666」年まで本部町も今帰仁間切の内)
 ・神アサギのあるムラ・シマ(仲松先生のおっしゃる古層のムラ)
 ・神アサギのない字(大正後に分字)
など、話題はつきない。

 本部町の字(ムラ・シマ)別に資料づくりをするか!


2022年5月14日(

国頭村安田のシニグと辞令書に目を通す。2001年の調査である。まだ祭祀調査は不慣れな頃である。それと、祭祀の名称と神行事の内容がしっくりせず、参与観察記録に徹していた頃である。国頭村安田のシニグ・海神祭が隔年に行われ、三つの山(ササ・メーバ・ヤマナス)の三つの山から降りてきて、トウンチバルで合流し、集落内をとおり、浜へ。そこまでが、シニグではないかと疑問をもつ。そして安田は三つのマク(マキヨ)の集団が、安田の村落に統合されたのではないか。

 国頭間切の安田里主所安堵辞令書〕(1587年)と国頭間切の安田よんたものさ掟知行安堵辞令書〕(1587年)の二枚の古琉球の辞令書(『国頭郡志』所収)、首里王府から沖縄本島の北端のムラへ、里主、よんたものさ(読谷山)掟の辞令書の発給。それにつながるのが、奄美への古琉球の辞令である。

 今日は雨模様。明日は沖縄が復帰した年。その時、私は東京で学生をしていた。復帰運動に翻弄されていた。アメリカ世に嫌気をさしていた自分と憧れた部分があり、時代に流された自分の姿が今につながっている。何回も「平和学習」をやってきたことが思い出される。平成生まれが大学にやってきた頃、「平和学習は諦めた」、と口に出してしてきた。


2003.6.17(火)(「小学生への平和学習」)過去メモ

 先日、湧川小学校(現天底小学校に統合)の生徒達に二つの質問を投げかけてあった。そのアンケートの整理をして明日の「戦争と平和」学習に備えたい。

  ①湧川内で戦争(せんそう)とかかわるものを見つけよう!
  ②戦争(せんそう)のとき、あなたのおじいさんやおばあさんは、どこにいまし
    たか?

①湧川内で戦争(せんそう)とかかわるもの
   ・防空壕(ぼうくうごう)
   ・慰霊の塔
   ・南海の塔(納骨堂)
   ・嵐 山(山)
   ・うちの家や屋敷(玉城さん)はアメリカ軍に占領されていた。
   ・回りの家はアメリカ軍に焼かれた。
   ・おじいちゃんの弟四名全員戦争でなくなった(慰霊塔に刻銘)。
   ・アメリカの基地
  
②戦争(せんそう)のとき、あなたのおじいさんやおばあさんはどこに?
  ・南洋諸島(おじい)/防空壕(おばあ)
  ・兵隊につかまった(他のおじい、おばあ)
  ・フィリピン(長田のおじいちゃん)
  ・満州(喜屋武のおじいちゃん)
  ・呉我(現在の名護市)(おばあちゃん)
  ・大 阪
  ・防空壕の中
  ・伊江島(おじいちゃん)
  ・家を守っていた(おばあちゃん)
  ・おばあちゃん(福岡県)戦後結婚
  ・名護市仲尾に避難(嵐山)
  ・渡喜仁(今帰仁村)
  ・伊豆味(本部町)、おばあさんの母・兄・姉(五人)が爆撃でなくなる。
    (おばあさんは、戦争のことは思い出したくないようで、多くは語りません)
  ・おじいさんは海軍で長崎県
  ・湧川にいて嵐山に避難した。
  ・山の中を逃げ回っていた。
  ・防空壕や山の中
  ・台湾(兵隊として)

 湧川小学校のみんなから受け取ったアンケートです(30世帯中回収19名)。明日は、それを踏まえて「戦争と平和」を自分のものとして考える時間にしたいと思います。戦争を語ることは、いつも胸が痛い。平和につないでいく指針でもあるので、参加者も私も我慢の勉強会だな。
 どんな話にしようか、これからまとめです。

2003.6.18(水)過去メモ

 小学生に向けての「平和学習」。湧川小学校は44名の在籍で小さな学校である。4月から中学が統合されたためそこへ。各学年数名づつであるが5年生が14名もいる。何故だろうといっても、自然の成り行きとは思うのだが聞いてみたくなる。
 前半は、
  ①湧川内で戦争(せんそう)とかかわるものを見つけよう!
  ②戦争(せんそう)のとき、あなたのおじいさんやおばあさんは、どこにいまし
    たか?
の二つのテーマで。後半は戦後10年の復興期のカラースライドを使って「平和」と「自然環境」とを合わせて「平和とは?」と考えてもらった。ハーモーモー(歯抜け)の目立つ1年生から6年生までの一斉だから、話す側としては一番苦手な場面。

  アンケートを出したのは、親子で戦争や平和について考える時間を持つということ、今日の「戦争と平和」の話を聞いたうえで6月23日の慰霊塔の前に立つ意義を見出してくれるでしょう。身近にある戦争と関わる慰霊塔や防空壕、そして南海の塔を通して、考える機会になればと思っている。

 慰霊の塔と南海の塔を訪ねたのであるが、やはり現場を確認して置きたくて出勤途中足を運んだ。南海の塔の三つの仏像と大和姓の方々の刻銘(軍人でしょうか)、名前のわからない方々、慰霊塔は湧川出身の名前がづらり。どこどこのとわかる関係である。校長先生のコメントに「慰霊塔に塗り固められたセメントは、各家庭の香炉の灰を混ぜたものだということに、改めて考えさせられます」との言葉があった。

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▲湧川の慰霊塔           ▲慰霊塔に刻銘され戦没者名(一部)


2022年5月13日(金)

 庭の草木の手入れをしていた妻がハチに刺されたと告げられる。早朝から住居の庭のハチの退治。地上1mの高さにある。先日、「寡黙庵」でもスズメ蜂の巣の撤去をする。両方の巣は、低い場所にあり、今年は台風が多い年なのかな?


▲サクラランとスズメハチの巣  ▲スズメ蜂の巣          ▲巣の内部の幼虫     

【国頭村辺戸の安須森(アスムイ)】(2004年7月25日)メモ(下の画像は2004年当時)

 安須森はよく知られた御嶽(ウタキ)の一つである。安須森は『中山世鑑』に「国頭に辺戸の安須森、次に今鬼神のカナヒヤブ、次に知念森、斎場嶽、藪薩の浦原、次に玉城アマツヅ、次に久高コバウ嶽、次に首里森、真玉森、次に島々国々の嶽々、森々を造った」とする森の一つである。国頭村辺戸にあり、沖縄本島最北端の辺戸にある森(御嶽)である。この御嶽は辺戸の村(ムラ)の御嶽とは性格を異にしている。琉球国(クニ)レベルの御嶽に村(ムラ)レベルの祭祀が被さった御嶽である。辺戸には集落と関わる御嶽が別にある。ただし『琉球国由来記』(1713年)頃にはレベルの異なる御嶽が混合した形で祭祀が行われている。

 『琉球国由来記』(1713年)で辺戸村に、三つの御嶽がある三カ所とも辺戸ノロの管轄である。
   ・シチャラ嶽  神名:スデル御イベ
   ・アフリ嶽    神名:カンナカナノ御イベ
   ・宜野久瀬嶽 神名:カネツ御イベ

 アフリ嶽と宜野久瀬嶽は祭祀の内容から国(クニ)レベルの御嶽で、シチャラ嶽は辺戸村の御嶽であるが大川との関わりでクニレベルの祭祀が被さった形となっている。クニとムラレベルの祭祀の重なりは今帰仁間切の今帰仁グスクやクボウヌ御嶽でも見られる。まだ、明快な史料を手にしていないが、三十三君の一人である今帰仁阿応理屋恵と深く関わっているのではないか。
 
 それは今帰仁阿応理屋恵は北山監守(今帰仁按司)一族の女官であり、山原全体の祭祀を司っていたのではないか。それが監守の首里への引き揚げ(1665年)で今帰仁阿応理屋恵も首里に住むことになる。そのためクニの祭祀を地元のノロが司るようになる。今帰仁阿応理屋恵が首里に居住の時期にまとめられたのが『琉球国由来記』(1713年)である。クニレベルの祭祀を村のノロがとり行っていることが『琉球国由来記』の記載に反映しているにちがいない(詳細は略)。

 アフリ嶽は君真物の出現やウランサン(冷傘)や新神(キミテズリ)の出現などがあり、飛脚をだして首里王府に伝え、迎え入れる王宮(首里城)の庭が会場となる。クニの行事として行われた。

 宜野久瀬嶽は毎年正月に首里から役人がきて、
    「首里天加那志美御前、百ガホウノ御為、御子、御スデモノノ御為、
    又島国の作物ノ為、唐・大和・島々浦々之、船往還、百ガホウノアル
    ヤニ、御守メシヨワレ。デヽ御崇仕也」

の祈りを行っている。王に百果報、産まれてくる子のご加護や島や国の五穀豊穣、船の航海安全などの祈願である。『琉球国由来記』の頃には辺戸ノロの祭祀場となっているが村レベルの御嶽とは性格を異にする御嶽としてとらえる必要がある。

 首里王府が辺戸の安須森(アフリ嶽・宜野久瀬嶽)を国の御嶽にしたのは、琉球国開闢にまつわる伝説にあるのであろう。
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    ▲辺戸岬から見た安須森                       ▲辺戸の集落から見た安須森


【辺戸のシチャラ嶽】

 『琉球国由来記』(1713年)ある辺戸村のシチャラ嶽は他の二つの御嶽が国レベルの御嶽に対して村(ムラ)の御嶽である。近くの大川が聞得大君御殿への水を汲む川である。シチャラ御嶽を通って大川にゆく。その近くにイビヌメーと見られる石燈籠や奉寄進の香炉がいくつかあり、五月と十二月の大川の水汲みのとき供えものを捧げて祭祀を行っている。辺戸ノロの崇所で村御嶽の性格と王府の祭祀が重なって行われている。

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  ▲辺戸村の御嶽(シチャラ嶽)遠望                 ▲御嶽のイビヌメーだとみられる

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   ▲御嶽の頂上部にあるイベ            ▲辺戸の集落の後方に御嶽がある 


2022年5月12日(木)

 シニグなど祭祀調査をすすめていた頃(2003年)がある。その調査の成果を企画展を開催している。シニグが海神祭やウプユミなどの祭祀に組み込まれていることに気づかされた。それが『琉球国由来記』(1713年)で国頭村奥や安田などではシニグと海神祭が隔年ごとに行われていることへの疑問。本部町具志堅のシニグ調査をしている過程でシニグと呼ばれているが、日を改めて五つの所作があり、具志堅ではシルガミ(男神人)が鼓を打ちながらウタキから集落内を通り海岸までゆく行事(トントコトン・流れ)がある。他の地域では国頭村与那・辺戸・奥・安田・大宜味村のウンガミなど)で行われている。ウタキ(山手)から神道を通り、集落内から海岸まで。不浄なもの、病などを海岸で流す、浄める、その所作がシニグ(凌ぐ)ではないかと気づかされる。その後、ウタキから集落内を通り海岸までの祭祀の流れで見ていくと、祭祀の名称が「流れ」、シニグに結びつく。もちろん、祭祀全体には様々な場面がある。(五穀豊穣・ムラの繁栄・豊漁など)

2003.6.26(木)記録

 夏至が過ぎた頃から南風がバーバー吹いている。カーシフェーやカーシカジー(夏至風)というようだ。また低気圧でも発生したのかな?と思っていると、「今頃、よく吹くカーシフェーだよ」と、先輩方はさりげなく言う。
   
〔シニグ・ウンジャミ・ウプユミの分布〕
(企画展メモ)
 シニグ・ウンジャミの分布は非常に興味深い。シニグ・ウンジャミ・ウプユミがが本部半島から奄美にかけて分布する。それが何を意味しているのか。その意味解きが、すでになされているにちがいないが、「北山文化圏」(仮説)との関わりで、みていくことができるのではないかと考えている。三つの祭祀の重なりも、そう単純なものではなさそうだ。

 例えば、今泊(今帰仁村と親泊村の合併で今帰仁ノロ管轄)では旧暦の7月の盆明けに行われる祭祀がある。
   ・ウーニフジ(旧盆明けの戌の日)
   ・ウプユミ(ウンジャミ・城ウイミともいう)(旧盆明けの亥の日)
   ・シマウイミ(ムラウガミともいう)(旧盆明けの子の日)
このようにウプユミ(大折目・ウイミ)とウンジャミなどの呼び方がある。日ごとに祭祀の中身が異なっているのかもしれない。一日、一日の祭祀は内容が異なり、呼称も異にしていたのが、呼び方を一つにした地域、今泊のようにウーニフジ・ウプユミ(ウンジャミ)と名称をとどめている地域、国頭村安田や安波などのようにシヌグとウンガミが隔年行っている地域、今帰仁村中部地域(玉城ノロと中城ノロ管轄村)ではウプユミと呼ばれている。今帰仁村古宇利島や大宜味村塩屋あたりではではウンジャミ(ウンガミ)の呼び方で残っている。

 シニグ・ウンジャミ・ウプユミ(奄美のウフンメ)の分布を押さえていく作業は、祭祀の中身を見ていく作業でもある。すでに、いくつか結論(仮説)が出されているが、「北山文化」圏の視点での仮説が導き出せるかもしれない(詳細調査の分布図作成予定)。

 
     小野重朗著作集『南島の祭り』135頁参照

2003.6.19(木)

〔具志堅のウプユミ〕
(旧暦7月21日に行われる)メモ

 具志堅のウプユミを時間と場所の流れで見ていく。そのために祭祀が行われる場所を近日中に確認しておきたい。ウプユミは旧7月21日に行われる。1922年に「本部町具志堅のシニグ」調査は比較研究ができる貴重な資料である(『沖縄祭祀の研究』所収)。本調査及び予備調査にあたって活用させていただきたいと思う。

  ウーニフジ(御船漕ぎ)     (旧暦7月19日)
  ウプユミ(大弓)          (旧暦7月21日)
  トン・トト・トン(シルガミ)   (旧暦7月23日)流れ
  ヰナグヌユバイ(女の夕食)  (旧暦7月24日)
  ハートンチミチ(早朝の神酒)
     シニグ・タムトゥノーイ     (旧暦7月25日) 

ウプユミ(大弓) 
・公民館
    公民館でミチとバイムッチーがつくられる。
・アサトウフヤー
    神人(ノロ・ヌルクメーイが神ハサーギに向う途中、あさとうふやーへ行く。
    (位牌と香炉を拝む) 
・神ハサーギ
   
・お   宮
   
・グシクモー
   
・神ハサーギ
   
・ウフガー
   
・お    宮


2022年5月11日(水)

 本部町立博物館主催の「ムラ・シマ講座」をスタートをさせる。その打合せで本部町立博物館へ。どのような中身にするか、その様子を大宜味村での事例で。27年間続けてきた講座であった。本部町立博物館が開催するというので、その企画と案内役。本部町史で活用された「饒平名家」資料の一部を提供いただくため。それは「嘉津宇村」の故地(現在本部町伊豆味の古嘉津宇原)の地積の確認。そこの土地の譲証の確認(最終のは明治38年)。そこでの測量が土地整理での地籍で手続きでなされているかの確認。

 以下の講座は24期の一回目の資料である。本部町での資料作成をスタートさせるが、打合せ中、職員たちは「ちむどんどん」している様子。(以下は大宜味村謝名城の例) 画像は当時の様子。

24期 第1回 山原のムラ・シマ講座
    ―大宜味村根謝銘(ウイ)グスク―

第1回目の「山原のムラ・シマ講座」のテーマは「根謝銘(ウイ)グスクと周辺のムラ」です。場所は大宜味村謝名城・田嘉里です。現在の謝名城に根謝銘(ウイ)グスクがあり、国頭地方(後の国頭間切域)の要となったグスク跡があります。このグスクは周辺の村(ムラ)の祭祀とが密接に関わっています。根謝銘(ウイ)グスク内に二つのウタき(イビ)があり、村の人々の祭祀場となっています。それはムラとウタキ(イビ)とはどんな関わりがあるのか。また根謝銘グスクもそうですが、山原の間切規模のグスク内に神アサギがあるのも特徴となっています。

 国頭地方の根謝銘(ウイ)グスクを手掛かりにグスク(あるいはウタキ)と村(ムラ)と首里王府との関わりを示す痕跡を直に拾っていきます。今帰仁グスクと周辺のムラとの歴史的な変遷と共通した部分がいくつもあり、また今帰仁グスクでは見えなった村(ムラ)とグスクとの関わりも、新たな視点でみることができます。

 現場でグスクやウタキや山原のムラ・シマの見方を学んでいきます。お楽しみに!

      出席の確認/レジュメの説明
   ↓  9:40 大宜味村根謝銘(ウイ)グスクへ出発(マイクロバス)
   ↓  10:40 城と根謝銘の集落を見ながら城ヌルドゥンチ跡
   ↓  11:00 ウドゥンガー/トゥンチニーズ・ウドゥンニーズなど
   ↓  11:30 ウイグスク内の神アサギ・二つのウタキ(イベ)
         地頭火神の祠・グスク内のカー・堀切など
         グスクからみた屋嘉比港(国頭間切番所があった浜集落)
   ↓  12:20 屋嘉比港からみた根謝銘(ウイ)グスク
   ↓  13:10 歴史文化センター着(予定)
        (時間があれば報告会をします)

   今回はグスクやウタキと村の祭祀、間切分割などをテーマに見て行く。
   (今帰仁グスクを見て行く上で、重要なヒントを与えてくれるグスクや村(ムラ)である) 

          (廻る順序は変更する場合があります)

       (※岩場や草むらを歩きますので、運動靴で参加ください)

1.根謝銘(ウイ)グスクと村々
  ①屋嘉比川の河口(そこから根謝銘(ウイ)グスクと田嘉里の集落をみる)
  ②田嘉里のガンヤー
  ③美里・親田・屋嘉比の村墓
  ④旧道(宿道?)を通り城集落へ
  ⑤城の集落(案内板)
  ⑥城ノロドゥンチ(火神・位牌・御通しの香炉)
  ⑦屋嘉比川(港)と浜集落、伊是名・伊平屋島が望める
  ⑧ウドゥンニーズとトゥンチニーズの跡地と祠(今帰仁のクボウヌウタキが見える)
  ⑨グスクへの道筋(中庭・ビジュル・馬浴川など)
  ⑩グスク内の神アサギ
  ⑪大城嶽(イベか)(田嘉里のウタキのイベ)
  ⑫中城嶽(イベか)(謝名城・喜如嘉・大宜味のウタキのイベ)
  ⑬地頭火神の祠
  ⑭ウイグスクガー
  ⑮グスクの最高部
  ⑯堀 切
  ⑰ウドゥンガーなど

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      ▲国頭村浜の屋嘉比港                      ▲浜にあるガンヤー

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         ▲国頭村浜のムラ墓                      ▲浜の門中墓

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  ▲根謝銘グスク周辺の説明                   ▲城ノロドゥンチの前で

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▲グスク内のカー                       ▲リュウキュウヤマガメ

2.根謝銘(ウイ)グスクと村々(国頭地方)

大宜味村謝名城にある根謝銘グスク(ウイグスク)を訪れる。根謝銘(ウイ)グスクと周辺のムラ・シマを踏査しながら、ムラ・シマとウタキ(グスク)との関わりの痕跡を辿ってみる。「グスクと周辺の集落と村」との関わりを確認していく。根謝銘グスク(ウイグスク)は『海東諸国紀』(1471年)で「国頭城」に相当するグスクを見られる。このグスクのある字謝名城は大宜味村(ソン)であるが、1673年以前は国頭間切の内である。また根謝銘(ウイ)グスクを見ていく場合、国頭地方(後の間切)を統括していた時代、国頭按司(一族)が首里に集居させられた後などを踏まえて見ていく必要がある。

イ.国頭間切の国頭(クンジャン)は同村根謝銘(インジャミ)?
 国頭は根謝銘から来ているのではないか! これまで間切の名称が同村名から来ているのが多い。国頭間切に同村名の国頭村がない。1673年に大宜味間切が創設される以前の国頭地方(間切)の拠点は根謝銘グスク(別名ウイグスク)とみられる。すると国頭間切の同村は根謝銘となる。根謝銘はインジャミと呼んでいる。国頭はクンジャンである。間切名と同村との関係からすると、インジャミに国頭(上)の漢字を充てたのではないか。『海東諸国紀』(1471年)には根謝銘グスクの位置に「国頭城」を充ててあることもあり、インジャミに国頭をあてたともとれる。山原では国頭間切(クンジャン)の同村が根謝銘村(インジャミ)であれば、間切名と同村名が一致しないのは羽地間切のみである。

 宮城栄昌は『国頭村史』(5頁)で「国頭はくにかみ・くにがみ・くんがみ・くんじゃみ・くんじゃん・くんちゃんと転化した形で呼称される」とあるが、逆にクンジャンやクンジャミやインジャミに「国頭」や「国上」の字を充てたのではないかと見ている。
  ・国頭間切(クンジャン・クンジャミ)→根謝銘村?(インジャミ)?
          (番所は?→浜村→奥間村へ)
  ・今帰仁間切→今帰仁村
  ・金武間切→金武村
  ・名護間切→名護村
  ・久志間切→久志村(番所は瀬嵩村ヘ)
  ・恩納間切→恩納村
  ・田港間切→田港村(後に大宜味間切→大宜味村・塩屋村へ)
  ・伊野波間切伊野波村(後に本部間切)
  ・羽地間切田井等村(親川村の創設で番所は親川村)

 現在の謝名城は明治36年まで根謝銘・一名代・城の三つの村が合併した。それとグスクの北側に位置する田嘉里も明治36年まで親田・屋嘉比・見里の三つの村の合併である。国頭地方の要となったとみられる根謝銘グスク(ウイグスク)と周辺の集落との関わりを見ていこうとするものである。間切規模のグスクと集落との関わりを知るモデルとなるとケースである。

ロ.根謝銘(ウイ)グスクと集落と村(ムラ)

 根謝銘グスクは大宜味村謝名城にあるグスクである。別名ウイグスクという。ウイグスクの呼称は城(グスク)があるので、区別するための名称であろう。ここで使っている集落は、古琉球の時代のマキ・マキヨ規模の家々の集まりとして捉えている。100軒余の場合もあれば、30軒そこそこの場合もある。それらの集落が、後に行政村(ムラ)として線引きされたと見ている。ウイグスク内に大城嶽と中城嶽があるが、『琉球国由来記』(1713年)にはウイグスクと祭祀(グスクノロ)と密接に関わる根謝銘村と城村は大宜味間切に属している。城村の小城嶽はウイグスクの中城嶽にあたるか(確認必要)。

ハ.大宜味間切
  ・城村の小城嶽(神名:大ツカサナヌシ)
  ・城村に城巫火神(按司・惣地頭が関わる)
  ・根謝銘村のガナハナ嶽(神名:シチャラノワカツカサ御イベ)

 ただし、同じくウイグスクでの祭祀(屋嘉比ノロ)と関わる御嶽が記されている。屋嘉比ノロ火神は『琉球国由来記』(1713年)当時、国頭間切に属した見里村にある。ウイグスク内の中城嶽は見里村の中城之嶽を指しているのか、ウイグスクの大城嶽を指していると見られる。

 【国頭間切】(1719年に大宜味間切へ)
  ・親田村のガナノハナ嶽(神名:シチャラノワカツカサ)
  ・屋嘉比村のトドロキノ嶽(神名:イベナノツカサ)
  ・見里村の中城之嶽(神名:大ツカサ)
  ・濱村のヨリアゲ森(神名:カナミユアトヤノ御イベ)

  (浜村は屋嘉比村近くから加名良原へ移転、さらに現在地へ)

 これらの村が明治13年にどのくらいの規模であったのか示してみる。世帯数で20世帯余、多い所で40世帯足らずである。近世、あるいは古琉球の時代になると、もっと小規模(マク・マキヨ)であろう。
  ・根謝銘村………世帯37戸、人口183人(男92人・女91人)
  ・一名代村………世帯21戸、人口114人(男64人、女50人)
  ・城  村 ………世帯21戸、人口118人(男52人、女66人)
  ・親田村…………世帯25戸、人口136人(男65人、女71人)
  ・屋嘉比村………世帯28戸、人口161人(男82人、女79人)
  ・見里村…………世帯27戸、人口166人(男85人、女81人)

 合併した謝名城は城ノロの管轄、そして田嘉里は屋嘉比ノロの管轄である。城ノロ管轄のムラは根謝銘グスク(ウイグスク)の中城(ナカグスク)御嶽(そこはイビだとイビ考えている)に左縄を巡らし、屋嘉比ノロ管轄のムラは同じく根謝銘グスク(ウイグスク)の大城(ウフグスク)御嶽(イビ)に左縄を張り、イビに向かって拝んでいる。本来ウイグスク全体が御嶽であり、それに寄り添うようにあった集落の御嶽であり、大城御嶽や中城御嶽と呼ばれているところはイベに相当する。そう見ていくと、御嶽その中のイベ、そして集落との関係が見えてくる。さらにグスクと集落や村との関わりも(集落移動など含めてのことは別稿で)。『琉球国由来記』(1713年)の頃、親田村・屋嘉比村・見里村は国頭間切である。三つの村が大宜味間切に組みかえされたのは康煕58年(1719)である。
 グスクの上り口にウドゥンニーズ(御殿根所)とトゥンチニーズ(殿内根所)がある。宮城真治の『宮城真治民俗調査ノート』に御殿と殿地の場所(屋敷地)が記されているが、昭和2年には御殿敷地に火神が祭られている。

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グスクと周辺の集落と村(ムラ)            城にあった印部石「ゑ くすく原」

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  麓にある一名代の集落 根謝銘の集落      城の集落とウイグスク

 2.根謝銘(ウイ)グスクと関わる出来事】(歴史)
 ・大宜味村謝名城にある。
 ・根謝銘グスクはウイグスクと呼ばれる。
 ・標高100mの所に位置する。
 ・14~15世紀頃の筑城で大型のグスク
 ・丘陵頂上部に本部石灰岩で石塁をめぐらしてある。
 ・ウイグスク内に大グスク(イベか)と中グスク(イベ?)がある。
 ・出土遺物(土器・カムィ焼・青磁・鉄釘・獣骨などが出土
 ・貝塚も確認されている。
 ・1471年の『海東諸国紀』の「琉球国之図」に根謝銘(ウイ)グスクに「国頭城」とある。
   (国頭按司の居城か。「国頭城」は北山滅亡後の「監守」制度を示しているものか)
   (国頭間切の拠点は根謝銘(ウイ)グスクとみられる。国頭按司はまだウイグスクに居城か)
 ・1522年(弘治11) 真珠湊碑文に「まかねたるくにかミの大ほやくもい」(国頭の大やくもい)とあり首里居住か。
 ・1624年(天啓4) 「本覚山碑文」に「国かみまさふろ」とあり、首里居住か。
 ・1597年(万暦25) 浦添城前の碑に「くにかミの大やくもいま五良」とあり、その当時の国頭             大くもいは首里に居住か。
 ・根謝銘(ウイ)グスクは1500年代まで(各地の按司を首里へ集居)は国頭按司の居城地か。
   (1673年まで国頭間切は大宜味間切を含む地域である。大宜味按司はまだなし)
 ・国頭間切の安田里主所安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分割以前
    (その頃国頭按司は首里に住む)。
 ・国頭間切の安田よんたもさ掟知行安堵辞令書(1587年)の「くにかみまきり」は大宜味間切分
    割以前(その頃国頭按司は首里に住む)。
 ・神アサギ/ウドゥンニーズ・トゥンチニーズ/地頭火神/カー/堀切/アザナあり
 ・旧暦7月に海神祭が行われる。
 ・按司墓あり
 ・屋嘉比川の河口に屋嘉比港あり(オモロ)
 ・『絵図郷村帳』(1648年頃)に「国頭間切 ねざめ村・城村・はま村・屋かひ村」とある。
 ・『琉球国高究帳』に「国頭間切 城村・屋嘉比村」とある。
 ・屋嘉比川の下流右岸に国頭番所(浜村)が置かれた。後に奥間村へ。
 ・1673年に国頭間切を分割して国頭間切と田港(大宜味)間切が創設される。
   田港間切の番所は田港村へ、後に大宜味村(旧記の頃)、さらに塩屋村、さらに大宜味へ施設。
 ・1673年に屋嘉比村から見里村が分離したという。
 ・1673年後に屋嘉比村から親田村が分離したという。
 ・根路銘(ウイ)グスク内の地頭火神は国頭按司と国頭惣地頭火神と大宜味按司と大宜見親方の火神が重なっても問題なし。
(国頭按司地頭クラスの石燈籠は国頭村比地・辺戸・奥にあるので、間切分割後の国頭按司は国頭間切内へ)
 ・1695年 屋嘉比村・親田村・見里村が国頭間切に移される。
 ・1713年『琉球国由来記』に、「大宜味間切 城村・根謝銘村」、「国頭間切 濱村・親田村・屋嘉比村・
見里村」がある。
 ・1719年国頭間切の村であった見里村・親田村・田嘉里村が大宜味間切へ。
    (1736~95年の絵図には番所は塩屋村にあった:大宜味役場蔵?)
 ・1732年(雍正10) 国頭番所は浜村から奥間村へ移設。
 ・明治36年に根謝銘村と城村と一名代村が合併し謝名城村となる。
 ・明治36年に親田村と屋嘉比村と見里村が合併して田嘉里村となる。
 ・明治41年に国頭間切は国頭村(ソン)、大宜味間切は大宜味村となる。これまでの村(ムラ)は字(アザ)となる。
 ・1911年塩屋にあった役場を大宜味へ移転。

 ※根謝銘グスク内の御嶽(イビ?)の名称は『琉球国由来記』(1713年)とでは混乱しているようである。
  ・中城之嶽(神名:大ツカサ)(見里村・屋嘉比ノロ管轄)…大城の嶽(田嘉里:屋嘉比ノロ)
(当時国頭間切)
 ・小城嶽(神名:大ツカサナヌシ)(城村・城ノロ管轄)…中城の嶽(謝名城:城ノロ)(当時大宜味間切)

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屋嘉比港からみたウイグスク  ウイグスクから見た屋嘉比港   グスク内にある神アサギ

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グスク内にあるウフグスク嶽(イビ) グスク内にあるナカグスク嶽(イビ)地頭火神の祠

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  国頭按司(大宜味按司?)の墓         ヌルガー          トゥンチニーズとウドゥンニーズ

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     今帰仁グスクが遠望できる              国頭按司寄進の石燈籠か(奥)

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          城ノロドゥンチの建物               ノロドゥンチの側にある石の香炉 

3.大宜味村謝名城のウンガミ(ノロ管轄を含めた村を考えるべき)

 島袋源七氏の『山原の土俗』(大正14年)から大宜味村謝名城のウンガミの流れを詳細に記録されているので参照することに。今では簡略化されているので、ウンガミの全体の流れを押さえる必要あり。根謝銘グスク周辺の謝名城と田嘉里だけでなく、喜如嘉も含めてみるべきである。
  ・毎年旧七月廿日後の亥の日に行われる。
  ・参加者 田嘉里・謝名城・喜如嘉・饒波・大宜味(神人数10人参加)


 [1日目](ウタカビ、又はウングマイ)
  ・大祝女および若祝女はピラモト神を連れて喜如嘉の根神の家へ(白装束で垂神で祈願)
    ハンサガ(神人になる人の就任式:一夜を過ごす)
  ・他の神人は朝グスクの神アシアゲに集まり祈願(朝ヌブイ) 遊びピラモト神(山の神)は

   神踊りの練習。

 [2日目](儀式の当日)  
  ・朝はグスク及び根謝銘の神人は籠を用意して喜如嘉のウングマイの神人を迎えに行く。
  ・神人は駕籠に乗りグスクの祝女殿内へ。むかしは馬や駕籠で。(当時は徒歩で)
  ・祝女殿内に集まった神人はすべて白衣、マンサギ(鉢巻)を頭に結び六尺の弓と矢を持
ち、片手に赤い団扇を持って、太鼓を打ちながら行列して神アシャギに向う。(昔は駕籠に乗ったらしい)
 ・途中火の神を祭った祠あり(ウドゥンニーズとトゥンチニーズか) 二ヶ所で祈願をして神アシャゲへ。
 ・神アシャギに到着すると神人は各自定められた場所に着席する。
  (祝女を上座に若祝女・年神・ウチ神・ビラモトゥ・遊ビラモトゥなどの神人が(24人)が順に並ぶ。他の神人は庭に坐る)
  ・氏子は各字交じってアシャゲ前のクバが茂った拝所の左右に着席し、各自酒肴を供しして氏神をまつる。
  ・アシャギに向って左端に冬瓜で作った猪を据え、右端に槍と弓を立てておく。
  ・祝女は時刻をみはからって祈願を始める。祈願が終わると全部庭に出て定められた場所に着坐する。
  ・喜如嘉でウングマイした神人を上座に迎え、城及び根謝銘の遊びビラモトゥ神は神人の真
中に出て神踊りをする。
  ・1回目の神踊りは遊びビラモトゥ8名が円陣を作り両手を広げ左回りをしながら両手をあ
げたり下げたりする。「ウンークイ、ウンークイ」を唱えながら三回ほど繰り返す。
  ・2回目はその場に円陣を作り一人は太鼓を打ち七名は弓を持って用意をする。
   太鼓がなると同時に七名は弓を持って用意をする。太鼓がなると同時に右上に弓を捧げ右
に一歩進み、左に捧げて一歩左に寄り、繰り返す。三回まわって終わる。
  ・3回目 その場で衣装をかえる。赤地の神衣装、白衣装、黄色の衣装を来て各自頭にハーブ
イ(クロツグ)を被る。右手に弓、左手に矢を持ち、ウムイを唄うと同時に右に回り両手を上下させて舞う。遊びビラモトゥ神の一人が音頭をとり太鼓を鳴らしてそれに和する。三回回りながら踊って終わる。
  ・4回目 縄遊びを行う。その場所で行うが、まず左方に一間程離して棒を立て両方の棒に縄の両端を結び舟の形をつくる。三回目と同じ装束で、その中に楕円をつくり、右端に太鼓を打ち三名オモイの音頭取り一人立ち、太鼓の鳴るのと同時にオモイを唄い、それに和して扇を振りながら踊る。
  ・踊りが終わると見物中の神女の一人が蜜柑を踊り手の真ん中に撒く。それが終わると猪を取る真似をして飾ってある冬瓜を槍で突きころがす。
   (神アシャギ庭での行事は以上。縄遊びがすむと他の神人は氏子と帰宅)
   氏子は尾花に石を込めて結んだサンを二つづつ神に捧げ、これを持参して家に帰り火神の前に捧げる。健康と繁昌を祈る。他人に跨がしたら効き目がないので各自大事に持ち帰る。
  ・祝女・若祝女・海の神はアシビビラモトゥ神と同道し、途中ウムイを唱え扇を振りながら帰り、途中火の神の祠でも同じ歌を唄いながら祝女殿内に帰る。
  ・祝女殿内で歌を唄い踊りをして、再び神アシアゲで祈願をする。
  ・5回目 神アシアゲに帰り祈願をして猪神、酒樽、鼠とをお供にかつがせ、アソビビラモトゥ・祝女・若祝女は海の神をお供して(駕籠に乗る)喜如嘉に行き、そこの根屋に集まって再びオモイを唱えて踊る。
・歌を済ませると行列して喜如嘉の浜へ。途中にアミガーがあり、そこでも同様なことをする。
 ・6回目 ナガレ。喜如嘉の浜へ行列をつづける。お供に持参させた猪・鼠を捧げ、神酒を供して海を拝し、また山を拝し踊りに使ったハーブイと共に海に流す。これを「流れ」という。
 ・海辺での行事が終わると喜如嘉の根屋に帰って祈願ををし神人は一夜を明かす。当日の儀式の終わりを告げる。
 ・別れ 祭りの翌日に行う。喜如嘉の神アシアゲに遊びビラムトゥと喜如嘉の神人が集まって神酒を捧げて祭りの終わりを告げる。オモイを歌って城から来た神人は駕籠で城神アシアゲに帰る。
 ・神人の行事はこれで終わるが、各字の氏子は各々定めの遊び、臼太鼓踊り・村芝居・エイサーなどをする。
 祭祀がグスク(ウタキ)を維持し続けてきている(首里城は政治と祭祀の両面ある)。沖縄のグスクが世界遺産に登録されていく過程で、精神文化を条件の一つとされたのは、そのためである。今帰仁グスクにおける今帰仁ノロ管轄の村(ムラ)や集落(人々)と今帰仁グスク(城内のウタキ:イベ)での祭祀(ムラレベルの祭祀)を丁寧にみていく必要がある。同時に北山監守を務めた今帰仁按司一族の祭祀(クニレベルの祭祀:今帰仁阿応理屋恵)もである。クニとムラレベルの祭祀を整理して議論がなされるべきである(もちろん、重なっている部分


2022年5月10日(火)

 20年前、神アサギやシニグに関心をもっていた頃である。神アサギやシニグで「北山文化圏」を打ち建てたことがある。東海岸の与那城町(現うるま市)の島々に分布する神アサギやシニグ。どう結論づけたのか記憶にありません。勝連半島に勝連グスクを要に文化があるのでは?と投げかけたことがある。(直後、山原船と津口にテーマが移ったような)

2004.2.24(火)記録

 具志堅の原稿整理にはいる。シニグの分布をみていると先日訪ねた伊計島や宮城島、平安座島、そして浜比嘉島にシニグが行われており、また神アサギ(『琉球国由来記』1713年では殿)がある。祭祀が山原に近い印象を持っている。それが、何を意味しているのか。

 シニグについて調べていたら「ノロクモイ社禄台帳」(勝連村誌)が目についた。山原ではノロはほとんどが複数のムラを管轄するが、勝連間切では一ムラ一ノロである。そこには社禄の最終支給年月日が昭和13年である。山原でも昭和10年代の史料が何点か確認できる(大宜味村田港ノロ、今帰仁村岸本ノロ、旧羽地村仲尾、真喜屋など)。山原のシニグ(具志堅)と勝連間切や与那城間切のシニグについて比較してみると興味深いことがわかるかもしれない。神アサギについても。


2004.2.22()記録

 久し振りの雨(昨晩から午前中まで)。乾いた土や草木に潤いをあたえています。新芽が一気に芽吹くでしょう。新緑の季節、到来でしょうか。

 先日、与那城町(現うるま市)の伊計島と宮城島と平安座島、そして勝連町(現うるま市)の浜比嘉島を訪ねてみた。これまでニ、三度訪ねている。まあ、「島に行ってみようか」とドライブ気分であるが、今回はパナリ(離れ)と呼ばれる島々の近海に山原船を浮かべてみること。そして山原船が行き交う島々の港と当時の人々生活を直に感じとりたいとの思いがあった。それは3月21日に「山原の津口(港)」をテーマで与那城町で話しをするので、その現場確認もあった。

 伊計島は屋慶名港から船で渡った記憶がかすかにある。それは昭和30年代中頃である。屋慶名港から船で、どのくらいの時間かかったか定かでないが、当時の資料をみると1時間半かかっている。はりっきて乗船したのに、船酔いしかかった頃、島に到着した。船酔い気分がおさまる前に、港から坂道を学校まで駆け登っていった。その後、島でなにをしたのか全く記憶にない。40年近い歳月が経っているが、そのかすかな記憶は、今回の伊計島行きに役立っている。

 伊計島の集落の上の方にあるヌルドゥンチ公園近くに車をおき、集落を通りブラリブラリ海岸まで歩いてみた。数多くの石積みの屋敷や石垣に挟まった福木や豚小屋跡や井戸などをみながら海岸まで下ってみた。途中、総合的学習をしている小学生達と先生の姿があった。声をかけることはできなかったが、きっと島の宝物探しをしているのでしょう。

 まだ、海岸の岩場に橋が架かる前の船着場の跡が残っていた。岩場に剥がれたコンクリートが、辛うじて船着場の痕跡を遺している。側の岩場には竜宮の神を祭った碑が立っている。伊計島と船が行き交う様子を彷彿させる記事を拾ってみた。

   ・1781年 七月の盆を導入する(前仲村親雲上が位牌を各戸に分与)。
   ・1804年 伊計島民が久志間切の安部村の帆船を救助する。
   ・ 同    久志間切の嘉陽船も救助する。
   ・ ?    与那原の馬艦船(マーランセン)を救助する。
         伊計島の男は山原船で国頭、奄美、先島との取引をしていた。
   ・大正のはじめころ、追い込み漁業始まる。
   ・昭和の初期に、かつお製造所ができる。
   ・伊計島は半農半漁(戦前、稲作は全くなく、麦・甘蔗・粟・とうもろこしが
    主に栽培される)

   ・正月15日は初ウマチーで伊計グスクに麦の穂を供える。供え物は
    魚のサシミと五穀。伊計グスクへは白装束で、舟で渡る。

   (画像略)
   ▲伊計島のかつての船着場          ▲伊計島の石囲いの豚小屋


2022年5月9日(月)

 新型コロナと小雨で自粛生活。先日収穫したバナナが一気にまっ黄色。朝食でバナナがしばらく続く。ミニトマト(赤・黄)が熟し、食している。さて、今日は何から手をつけようか?

 

土地ノ種類百姓地

1 百姓地
  百姓地ニ関シテハ前来詳述セシガ故ニ茲ニハ簡叙スベシ、田畠ニシテ耕地ノ大部ヲ占ムルモノニシテ、  前述ノ如ク三四年乃至二三十年ヲ期シテ地割シ分配ヲナシ、売買譲渡、抵当質入ヲ許サヾルモノナリ。  慶長後検地ニヨリ一団ナル百姓即村共有トシテ授ケラレ、共産村落トシテ強固ナル基礎ヲ与ヘ以テ、貢  納ノ財源ヲ公平ナラシメタルナリ。百姓地ノ売買譲渡ヲ禁ズルハ私有ヲ認メザル所以ナリ、又地割ヲ行   フハ村落百姓ノ自由ニシテ内法其ノ他ノ団体慣行ニヨリ公認ヲ経ズシテ単ニ屈出ヲ以テセリ、百姓地ヲ  地割シ甲ハ乙地ヲ、乙ハ丙地ヲ割宛テラルヽ等地割方法ニ関シテハ総ベテ地人タル百姓ノ自由ナリキ。  百姓地ノ主体ハ個人ニ非ズシテ村ノ共有タリシハ明ラカナリ。「御授の地」トアレバ個人ニ対スル非ズシ  テ村ニ対シテ共有タラシメシガ故ニ、之ヲ以テ藩有ト言フベカラズ。

2 浮掛(ウキカケ)地
  旧藩ノ頃ハ各村ニ於テ百姓地ノ耕耘シキレザル場合ニ於テ主ニ村内居住民ニ貸与シ小作料ヲ徴シテ   小作セシメタル地ナルモ、爾来其ノ村ニ於テ耕耘シキレザル場合ト否トヲ問ハズ村ノ随意ニテ之ヲナサ   シメタリ而シテ之ニ有年期ノモノアリ、無証書ノモノナリ、一般百姓地ノ地割替ヲナストキト雖本地ハ引揚  ゲズ、本地ハ他ヘ小作セシムルヲ得ズト雖村ノ許諾ヲ得タルモノハ此ノ限ニ非ズ、然モ当時ノ状況ハ内  部ニ於テ窃ニ小作セシメ居ルモノナキニアラザリキ。

3 叶掛(カナイガケ)地
  百姓地ノ地割ヲ受ケシモノヨリ其ノ土地ヲ他人ニ貸与シ小作セシムルモノヲイフ、百姓地之割替ノ時ハ之  ヲ引上グ其ノ他年期貸借ノ手続小作料怠納二関スル規程総ベテ浮掛地ト異ナル事ナシ、叶掛ハ小作ノ  意ナリ。

4 地頭(ヂトウ)地
  元百姓地ノ中ヨリ旧按司、地頭、惣地頭、副地頭ノ役俸地トシテ藩ヨリ附与シタルモノニシテ、置県ノ際   地頭撤廢セラレ其ノ役封等ハ金祿トシテ附与セラルヽニ至リタルニヨリ地頭地今ニ百姓地以外トシテ旧  名ヲ存スルアリ。地頭地ハ売買、譲与、質入、抵当トナスヲ得ズ。

5 地頭自作地
  地頭地ハ本来当該ノ村ヲシテ之ヲ耕耘セシメ以テ村ヨリ地頭ノ役俸ヲ收納スルヲ常例トセルモ其ノ地味  膏腴ニシテ增收ノ見込アル地ハ地頭自ラ耕耘(現夫ハ仕役スルモ)スルモノ少ナカラズ、本地ハ即チ之ニ  該当スルモノナリ。

6 地頭拾掛(ヒロイガケ)地
  地頭地ヲ主トシテ親族故旧ニ叶掛トシテ小作セシメタルモノニシテ有年期ナリ。本地ニ対スル貢租ハ拾   掛人ニ於テ負担シ、村ニ於テ百姓地同様之ヲ取締メ藩庫ヘ納付シ他ヘ叶掛ヲ許サズ。然レドモ内々窃  ニ之ヲナシ居レリ。

7 地頭質入地
  旧藩ノ頃ハ地頭地ノ質入ヲナスヲ許サヾリシモ、窃ニ之ヲナセシモノアリ、即チ地頭ニ於テ臨時金穀ノ必  要アル時其ノ所属村ニ対シ之ガ借金穀ノ抵当トシテ質入ナセシモノニシテ、置県後ニ到リ始メテ之ヲ公   然ニ認ムルコトヽナリ、当時質受人ニ所属シ耕耘セラレアルモノナリ。地割替ヲ為サズ其ノ他貢租並ビ   ニ叶掛ニ関スル事項ハ拾掛地同様ナリ。

8 地頭村持地
  之レ本来ノ地頭地トシテ旧藩ヨリ旧地頭ヘ其ノ役俸トシテ授ケラレタルモノニシテ、本地所属ノ村ニ於テ   百姓地同様各自地割耕作シ之ヨリ貢租並ビニ地頭役俸ヲ上納ス。

9 オエカ地
  明治十四年迄旧間切吏員ノ役俸地トシテ、旧藩ニ於テ百姓地ヨリ該当吏員在職者ニ交付セシモノニシ   テ、明治十五年ヨリ各吏員給料ハ国庫ヨリ支給セラルヽコトヽナリタルト同時ニ、総ベテ百姓地ニ編入セ  ラレシモノニシテ当時其ノ手続ヲ了ラザリシ地ナリ。旧吏員ニ於テ自作シ若シクハ他ニ叶掛セシメ又ハ   所属村ニ於テ百姓地同様ノ方法手続ニヨリテ地割耕作ヲナシ若シクハ所属村ヨリ他ヘ叶掛セシメヲルモ  ノアリ。

10 根神地
 前章ニ述ベタルガ如ク村ノ創健者ノ大屋根所ノ私有世襲セシモノニシテ、開墾ニヨリタルト村ノ寄進ニヨリタルトアリ。而シテ百姓地ノトナリタル以前ヨリ存シ原始的基礎ヲ有スル古来ノ私有世襲ニシテ、慶長検地後一般共有地ニ編入セラレタルモノ多キモ、尚旧来ノ私有ハ持続セラレ私有地トシテ割替ヲナザス、根神地ノ多クハ旧門中ノ居所ノ近傍ニアリテ共有百姓地中ニアルモノ殆ドナシ、今日一般ニノロ地ト混合シテ観念セラレ来レルモ其ノ性質全クノロ地ト異ナレリ。

11 ノロクモイ地
 旧藩ニ於テノロクモイノ役俸地トシテ百姓地ヨリ交付セシモノナルモ明治十四年十二月沖繩県甲第百三十號ヲ以テノロクモイノ役俸ハ官給トナリシニヨリ従来ノノロクモイ地ハ之ヲ引上グル旨ヲ達シ当時既ニ百姓地ニ編入セラレシモノヽ處分其ノ手続ノ了ラザリシ地ナリ、ノロクモイハ自作シ地割替ヲナサザルモ売買・譲与・質入・抵当ヲ許サズ、本地ニ対スル貢租ハノロクモイ之ヲ負担シ該当村ニ於テ取締メ上納ス。

12 仕明地
  寛文年間藩ノ許可ヲ受ケ埋立開墾ヲナセシ地ナリ、本地ノ所持者ニハ請地状ヲ交付ス、但旧藩ノ頃間切居住者ノ請地状ハ之ヲ「手形」ト称セシモ置県後ハ請地状トシテ之ヲ交付セリ。

   仕明地ハ原則トシテ私有地ノ性質ヲ有シ共有百姓地ト異ナレリ、仕明地ニ個人有アリ団体有ナルアリ。団体有ハ仕明模合持ト称シ細別スレバ間切又ハ村組合数人共同ニテ開墾埋立ヲナセシモノハ間切モアイ、百姓モアイ、間切共有、村共有、村百姓者仕明地等ノ名称ヲ付セリ。仕明地ニ仕明知行地トイフアリ、旧地頭・脇地頭は藩ノ許可ヲ受ケ其ノ所轄内ニ於テ夫役ヲ使用シ、開墾埋立ヲナセシ地ニシテ其ノ所持者ニハ請地状ヲ交付ス。

13 請地
 村方疲弊シ百姓地ヲ開墾シ得ザルヨリ之ヲ藩ニ返納シタル場合ニ於テ藩ヨリ更ニ士族ヘ拂下ゲタル土地ニシテ、其ノ拂受人ノ所持ニ係リ請地状ヲ交付シ売買・譲与・質入・抵当トナスヲ得ベキモノナリ。

14 拂請地
 村方の疲弊ノ為メ百姓地耕耘シ能ハザル時藩ヨリ御手入處分トシテ、之ヲ引キ上ゲ売却シ其ノ代価ヲ当該村ニ交付セシモノニシテ其ノ買受人ノ所持ニ係ルモノニシテ其ノ他ハ請地ト同様ナリ。

15 屋敷地
 何レノ共済村落ニアリテモ宅地ノ私有アリ、蓋シ其ノ地域未ダ定マラザル氏族ノ組織ニアリテハ土地ハ自由ニ之ヲ占有シタリ、此ノ占有ノ状態ハ永続セラレ居所ハ最モ早ク排他的私有観念廃達シタリ、耕地ハ未ダ私有ノ必要ナク、新ラシキ地ヲ求メテ毎年耕地ヲ捨テヽ顧ミズ全ク私有若シクハ共有ノ観念ナカリキ、耕地ノ生産物貢納ヲ強制スル必要ハ藩政ニアリテハ特ニ重要視セラレ、耕作力ト地積ト貢納石高ヲ平等ナラシムル為メ耕地ノ割当ヲ行フト共ニ宅地モ亦耕地同様割当テ土地均分ノ原則ヲ実行シタルモノナリ、宅地ノ廃達シタル後代ニ起リ得ベキ事実ニシテ琉球ニ於ケル宅地均分ノ制ハ他ノ共産村落ニ比シ頗ル特有ノ事項タリトス。而シテ均分セラレタル宅地ノ外ニ自ラ開墾シテ宅地ヲ求メシモノハ仕明地ト等シク私有セルハ土地ニ対スル勞力ニ基礎ヲ有スルガ故ナリ。而シテ旧藩ニ於ケル那覇首里ニアリテハ両両民ニ屋敷地トシテ交付シ若シクハ爾後両両民ニ於テ新タニ埋立ヲナシ屋敷地トナシタルモノ及ビ、各両両民以外ノ地方ニアリテハ旧藩ノ頃定メラレタル各村ノ戸数ト一戸平均敷地八十坪ニ相当スル地トシテ請地状差出ト称スルモノヲ交付シ(首里、那覇両両ニ限ル)首里那覇両地ノ分ニ限リ売買・譲与・質入・抵当トスルコトヲ許シタリ。那覇首里以外ノ各地方ニ於テハ前項記載ノ戸数ト敷地坪以外ニ於テ新タニ百姓地山野等ヲ屋敷地ニ変ズルモノアルヲ以テ屋敷地トナサズ、本来ノ土地ト同質ノモノト看做シ其ノ地数一戸八十坪ニ限リ貢租ノ義務アルモノハ村方ニ於テ其ノ義務ヲ負ヒ、其ノ他ハ仕明地同様当該所持人ニ於テ之ガ義務ヲ負フモノトス。旧地頭屋敷地ハ往古地頭ノ各間切住所ニ住家ヲ構ヘシ跡ニシテ各間切ニ散在シ旧地頭職タリシモノ家ノ所職ニ係リ当時叶掛ニ直シ居ルモノ多シ。宅地均分ノ制ニシテ最モ好例ヲ示セルハ国頭郡汀間ノ部落ニシテ共有百姓地同様方形割地ヲ行ヒタリ。

16 墳墓地
 旧藩ノ頃ハ土地所属地ノ村役目ノ承諾及ビ地頭代ノ奧書ヲ経テ山奉行ノ許可ヲ得、置県後ハ同様ノ手続ニヨリ郡長ノ認可ヲ得テ一般人民ノ墳墓用ニ供シ、多クハ山野ノ中ヲ以テ之ニ充テ其ノ願出人ノ所持ニ属シ売買・譲与・質入・抵当ヲナスヲ得ベキモノナリ旧藩来士族ハ一墳墓ニツキテ十二間角平民ハ同上六間角ノ制限アリシモ、実際旧藩ノ頃墳墓所在者ニ交付シアル朱引(墳墓地域図面)ニヨレバ其ノ地坪右制限範囲ヲ超越セルモノ少ナカラズ、朱引地域内墳墓以外ノ余地ハ耕耘ノ用ニ供シ居ルモノ少ナカラズ、旧藩ノ頃ハ墳墓地ニハ概ネ朱引(差出)ヲ交付セシモ置県後ハ之ヲ交付セズ墳墓設置願ニ対スル認可書ヲ以テ其ノ所有ヲ証スルモノトセリ。

17 浮得地
 旧藩ヨリ那覇首里ノ両ニ限リ交付シタルモノニシテ、現ニ両者ノ所持ニ係リ其ノ地種ニハ耕地、山野、屋敷ノ別アリ、首里ニテハ俗ニ本地ヲ村持地ト云フ、在来ノ法規若シクハ習慣ニヨリ伐木開墾等制限セラレタルモノヽ外ハ自由ニ使用収益スルコトヲ得タリ、無年期ニシテ売買・譲与・抵当・質入スルヲ得ザラシメ、賃貸ヲ徴シ貸与スルコトヲ得タリ。而シテ全両ノ所持ニ係ルモノアリ、又ハ一部ノ所持ニ係ルモノアリ、但首里ハ置県後悉ク両内ニ帰シ、官ニ於テ必要アルトキハ何時ニテモ引キ上グルコトヲ得タリ。

18 山野
 山野ニハ左ニ掲グル各種ノ別アリテ多少其ノ性質ヲ異ニス。

イ、百姓地山野
 旧藩時代開墾若シクハ秣場用等ノ為メ百姓地ノ附属地トシテ各村ヘ授ケタル山野ノ地ニシテ 保管使用、地割及ビ其ノ年期間百姓地同様ノモノナリ、中ニハ百姓地地割ノ際其ノ分賦ノ公 平ヲ保タシメンガ為メ同地ノ補填トシテ本地ヲ割付スルモノアリ、處ニヨリテハ地割ヲナサ ヾルモノアリ。本地ニ仕立テシ樹木ハ多クハ地割ノ際一尺囲以上ノモノハ之ヲ伐木シ以下ノ モノハ後ノ地割ヲ受ケシモノヨリ相当代価ヲ徴シ之ヲ譲渡スルコトヽセリ、而シテ處ニヨリ テハ然ラズシテ其ノ儘引継グモノアリキ。

ロ、請地山野(仕明山野)
私有タル性質ヲ有シ其ノ本元地タル請地仕明地ニ所属セシ山野ニシテ其ノ保管使用収益等本元地ノ所有者ニ属シ其ノ方法亦本元地同様ナリ。

ハ、間切山野村山野
 間切山野ハ間切ニ、村山野ハ村ノ共有ニシテ各々共同現夫ヲ使役シテ之ヲ仕立保管スルモノニシテ村民各自ニ割賦ヲナサズ、売買・譲与・質入・抵当ヲモ許サズ、又貸与ハ旧藩ニ於テハ之ヲ許サヾリシモ内々之ヲ行フアリテ默許ノ姿ナリキ。

  ニ、喰実山野(クヒミサンヤ)
 喰実畑、キナワ畑、山野畑、アキカヘ畑ト云フモノハ異名同質ノモノニシテ元来藩ノ許可ヲ得杣山ノ一部ヲ開墾セシモノニシテ間切若シクハ村ノ共有ニ属シタリ、中頭、国頭両郡ニアリテハ村民随意ニ開墾耕作スルコトヲ得タリ。村民各自ニ地割ヲナスモノアリ、又ハ然ラザルモノアリ、右ノ外概ネ百姓地ト同ジ。

ホ、浜山野
海辺ニアル山野ニシテ村ノ共有ニ係ルモノヲ云フ、而シテ本名称ノ土地ハ国頭郡ニオテノミ存ス。

  ヘ、私用山野
 宮古、八重山ノ両島及ビ久米島ニ於テ防風水源ニ支障ナキ限リ旧藩ヨリ検査ノ上一個人ニ其ノ仕立使用収益ヲ許シタル山野ナリ。

ト、山林
    山林ニハ左ニ掲グル各種ノ別アリテ多少其ノ性質ヲ異ニス。
    一、杣山
     島尻以外ノ各郡ニアリ藩ヨリ間切ヘ保管セシメタルモノニシテ樹木ハ仕立木ノ外薪炭用ニ供スルモ     ノハ間切人民ガ間切役場ヘ屈出デ家財ハ地人ニ限リ山方筆者ノ許可ヲ経テ、般材若シクハ公舎      用ニ供スルモノハ郡長ノ許可ヲ受ケテ無代価ニテ之ヲ伐木スルコトヲ得タルモ仕立木ハ仕立人ニ      於テ随意伐採若シクハ収益スルコトヲ得タリ。

     旧藩時代藩用トシテ木材ノ必要アル時ハ手形ヲ入レ、本地ノ樹木ヲ徴收シ運搬ハ間切ニ現夫ヲ課シテ之ニ当タラシメ、廃蕃後ハ官用ノ必要アル時ハ何時ニテモ之ヲ徴收シ得ルトセリ。樹木ノ仕立ハ間切ノ之ニ従事スルモノアリ、各村ニテ分担セルモノアリ若シ各村ニ於テ其ノ仕立方分担等ニツキ争論アルトキハ間切ハ村ヨリ之ヲ引キ上ゲ間切ニ於テ直接之ヲ仕立ツルコトアリ、其ノ他仕立ハ地人居住人一般之ニ当タルコトアリ。

    二、藪山
  矮惡曲木アル荒地ヲ云フ、而シテ間切ハ此ノ樹木ヲ薪炭トシテ売却シ其ノ代価ヲ間切ノ收入トス  。仕立木ハ旧藩以来松ニ限レリ。而シテ仕立ノ成リタル上ハ性質杣山ト変ズ此ノ山仕立ノ為メニ  ハ旧藩以来藩廳ヨリ多少補助ヲ与ヘシ例アリ、置県後国頭、中頭両郡ヘハ年々国庫ヨリ右仕立  補助トシテ六百円宛ヲ支給シタリ。

 三、仕立敷
  有用ノ木材(多クハ藩用ニ供スル必要木ニシテ一般ニ禁止木ト云フ)ヲ仕立若シクハ仕  立テツ  ヽアル地ニシテ旧藩時代ハ其ノ地敷一定シアリシモ其ノ後ハ各間切ニ於テ自由ニ之ヲ仕立タリ、  俗ニ本地ヲ耕地雑木仕立山、植付仕立山トイフ、何レモ異名同質ナリ、本地樹木ハ旧藩ノ頃ト   廃藩後トヲ問ハズ官用ノ必要アルトキハ何時ニテモ之ヲ徴收スルコトヲ得、間切ニ於テ公用ノ為  メ本地ノ樹木ヲ使用セントスル時ハ無代価ニテ其ノ拂下ゲヲ受クルコトヲ得タリ。

四、御物松山
  松樹ノミノ仕立山ニシテ其ノ取締及ビ管理方並ビニ官用木材ノ徴收及ビ仕立ニ関スルコト等ハ総ベテ杣山ト異ナルコトナシ。

    五、唐竹山
中頭郡国頭郡ニアリ、元砂糖樽帯竹用ノ竹ヲ仕立テタル山ニシテ其ノ取締管理等其ノ他総ベテ御物山ト同ジ。

    六、間切保護山(村保護山)
 間切村ノ風潮防護用ノ山林ニシテ此ノ中ニ御風水山、御嶽山アルコトアリ、間切保護山ハ間切ニ、村保護ハ村ノ所属ニ係ルモ売買・譲与・書入・質入等ヲナスコトヲ得ザリキ。

    七、仲山
 国頭郡大宜味間切ノミニアル地ニシテ居住人ノ耕作地ヲ保護スル為メ山野ヨリ仕立テタルモノナリ。杣山同様ノ性質ヲ有シ、其ノ保管並ビニ其ノ他杣山ト同ジ。外ニ村山里山ノ称アルモ村ニアル山林ヲ仲山トイフモノニシテ種類ニ於テ別段異ナルモノナキガ如シ。

19 塩田
   海浜ニアル製塩地ニシテ地方ニヨリテ其ノ成立保管方法等多少相違アリ即チ左ノ如シ。
   那覇両ニハ潟原ト称スル地ニアリテ泊全両ノ所有ニ属セルモノナリ、仕明地同様人民ノ所有ニ係レル   モノ若シクハ旧藩ヨリ海浜主管ナルモノヘ授与セラレタルモノアリ、泊両所有ノモノハ使用料(叶金)ヲ徴   シ他ニ使用セシメ、其ノ使用料ヲ以テ両ノ收入トセリ。海浜主管ヘ授与セラレタル塩田ハ売買譲与等ヲ   ナシ得ザルモ其ノ他ハ然ラズ、共ニ有税地ナリ、島尻郡ニハ佐敷間切久米島仲里間切中頭郡ニハ美   里間切中泡瀬、国頭郡ニハ大宜味間切ニアリテ間切・村・個人所有ノ別アリ、何レモ売買譲与スルコト   ヲ得タリ。宮古郡ニハ塩田ノ地アルモ旧藩時代ハ斯カル地ナシ、蓋シ置県後人民自由ニ之ヲ設ケタル   モノニシテ無税地ナリ。

20 小堀
 所言溜池ニシテ林野耕地ノ中多クハ人工ヲ以テ築造セラレタルモ、中ニハ天然ノモノモアリ。間切村有ノモノアルモ多クハ数村共有ニシテ売買譲与、抵当、質入等ヲ許サズシテ使用料ヲ徴シ他ヘ使用セシムルコトヲ得タリ。
 人工ヲ以テ築造セラレタル小堀ハ多クハ百姓地若シクハ百姓地山野ニシテ那覇、首里両両ニアリテハ浮掛地ノ地籍ニ属シ、杣山内ノ小堀ハ総ベテ杣山ノ地籍ニ属シタリ。其ノ百姓地ニ属スルモノヽ外ハ無税地ナルモ伊平屋島ノ中田耕作地ヨリ成リタル跡アルハ有税地ナリ。

21 浜屋敷地
 那覇両字西ニノミアル地ニシテ同字元ト海岸塵芥投棄場ヲ個人ノ開墾セシモノニ係リ字有ノ地ナリ、同地ハ字西ヨリ個人ヘ使用料(叶金)ヲ徴シ貸与シ、借用人ハ転々々シテ他ヘ使用ヲ許シ居レリ、同地ニハ官ヨリ請地状ヲ交付セズシテ売買譲与ヲ許シタリ。

22 浜余地
 間切村若シクハ一個人ニテ寄洲若シクハ浜河辺ニ窃カニ埋立ヲナシタル地ニシテ家屋ヲ建設シ耕作ヲナシ樹木ヲ植付ケセシモノアリ。埋立ヲナシタルモノヨリ転々々シテ他人ノ手ニ属セルモアリ、又ハ小作料(叶金)ヲ徴シ小作セシメタルモノアリ、琉球ノ旧慣ニハ村ノ地先ハ当該ノ村ニ属スルコトアルモ本地ノ所属ハ明確ナラザリキ。

23 爬龍船(ハリュウセン)置場
 元ト爬龍船ト称スル儀式用競争船ノ置場ニシテ那覇両内各字ニアリテ其ノ所属ニ係ル地ナリ、字ニヨリテハ浮得地ヨリ成リタルッモノアリ、埋立地ヨリ成リタルモノアリ、多クハ耕作地ニ変ジ小作料(叶金)ヲ徴シ他ハ小作セシメタリ、従前ハ売買譲与スルヲ許サヾリキ。

24 合龍(ガン)置場
村民共有ノ棺置場ニシテ多クハ山野ノ一部ニ設置シ売買譲与ハ自由ナリキ。

25 試地
 慶良間島ニノミアル地ニシテ其ノ性質保管維持所属其ノ他共ニ国頭郡ノ喰実畑ト同性質ノモノタリ。

26 竿迦地
 口碑ニヨレバ粟国島ニ於テ旧検者下知後ノ許可ヲ得村民自費ニテ山野ヲ開拓セシ地ノ名称ナリト云フ。

27 社寺地
 拝所又ハ堂社トイフ。共ニ社寺地ニ属スルモノナルガ故ニ、別段拝所ノ所堂社ト称スベキ種類ノ土地アルニアラズ、唯俗称アルニ任セ、其ノ異名同質ナルコトヲ表示スルノミ、社寺地中宮社寺ノ敷地ハ官有ニシテ公寺ノ分ハ間切有私寺ノ分ハ私有ニ属セリ。

28 馬場
 間切又ハ村ニ所属シ間切村民ノ自由ニ乗馬競馬等ノ用ニ供スル地ナリ、従来馬場用ニ供スル目的ヲ以テ官ノ許可ヲ得タルモノハ直チニ馬場地トナレルモ、私カニ馬場用ニ供スルモノヽ如キハ馬場地トナラズ、従来往々本地ノ開墾ヲ出願シ許可ヲ与ヘタルモノアリ、売買譲与等ヲナサズ。

29 城蹟(グシクアト)
 城ハ前章ニ述ベタルガ如ク古代氏族ノ定住地ニシテ氏族共産体ノ門中ノ共用若シクハ其ノ世襲門中ノ私有タル性質ヲ有シタリ、今日之ガ遺跡トシテ一門ノ私有ノ姿ナキニ非ザルモ乾隆二年評定所ヨリ御支配所奉行ノ申渡ノ條ニヨレバ城蹟ハ所中ヘ渡スコトニ定メラレタルヨリ其ノ城支配下人民ノ共有ナリ。共有者ヨリ之ガ開墾ノ願出ヲナセシモノアリタリ。

30 白仁石所
 那覇両泊西ニ在ル浮得地以外ノ地ニシテ旧藩ノ頃ハ藩ノ御用地トシテ白粟ヲ採取シ一般ニハ許サザリシ地ナリシモ、置県後ニ於テハ各自自由ニ之ヲ採收スルヲ得タリ。官民有ノ所属明確ナラザルモ官有ノ姿アル地トイフヲ得ベシ。

31 波上兼久
那覇両字若狭町波上宮近辺ニアル寄洲ニシテ官有ノモノアリ字有ノモノ若シクハ民有ノモノモアリ。

32 灰燒地
 灰燒地ハ那覇両字若狭町ニアル浮得地ニシテ、其ノ由来明ラカナラズ灰燒所ハ波上兼久近辺ニ在ルモノニシテ素ト首里城修築ノ時藩用トシテ石灰ヲ燒キシ地ニシテ官有ニ属スル地ナリキ。

33 番所敷地
 旧藩所敷地ニシテ間切共有ニ属ス其ノ百姓地ヲ以テ之ニ充テタルモノハ有税ナルモ其ノ他ハ一般ニ無税ナリ、売賈、譲与、抵当、質入ヲナスコトヲ得ズ。

34 検者下知役詰所敷地
 旧検者下知役出張詰所添敷地ニシテ間切有ノモノアリ村有ノモノアリキ。

35 村屋敷
 旧村屋敷ト称シテ村ノ所有ニ属ス。

36 庫敷地
 旧間切番所村屋等附属並ビニ庫ノ敷地ニシテ間切若シクハ村ニ所属シタリ。

37 山工屋取地
 島尻郡大里間切与那原村ニ在リ、旧藩ノ頃国領郡金武、久志両間切ヨリ運搬セル御用木材ノ揚場ニシテ藩ヨリ与那原村ノ地ニ引上ゲテ両間切ニ附与セシモノニシテ両間切ニ於テ管理シタリ。


2022年5月8日(

 本部町の調査記録を総ざらい中。瀬底や備瀬や浜元、渡久地など、まとめた記憶はあるがデータが出てこない。ボツボツ捜してみるか。2008年頃、中南部のグスク・ウタキのグスクやウタキの調査をしている(風景が変貌)。

【本部町辺名地】(平成24128配布説明資料)

 フィールドの「山原のムラ・シマ講座」は本部町辺名地です。辺名地は1666年まで今帰仁間切の村の一つでした。辺名地の仲村家には古琉球jの時代(1609年以前)の辞令書(県指定の文化財)が三枚のこっています。それには「みやきせんまきり」とあり、今の本部町まで今帰仁間切の内(辺名地・具志川(後の浜元)・謝花)だったことがわかります。

 辺名地の神アサギは公民館の近くにあります。アサギの側に「神社改修記念碑」と「拝殿改築記念碑」(昭和12年)があります。二つの碑は昭和12年の神社と拝所の改築です。辺名地は神アサギを拝殿にし、神殿をつくり合祀をする形。しかし、これまでの御嶽などの祭祀場はこれまで通り踏襲しています。

 ウタキはタキサン(嶽山)とも呼ばれ、入口の鳥居の台に「昭和六年建設」と「奉納」とあるので、昭和6年に建設され、その後の昭和12年に神アサギを神社の形の神殿と拝殿として改築jしたものとみられます。それとウタキ(嶽山)の入口に鳥居を建立し、御嶽を神社化しています。そこイベの前に「奉寄進」された香炉が置かれています。

 神殿の内部に三基の香炉があり、その一基に「奉納寄進 咸豊九年巳未九月旦日 本部按司内 松田仁屋」とあります。またウタキのイビにある香炉も同年とみられます。同様な香炉は並里にもあります。『中山世譜』(附巻)に本部按司が上国したことに連動します。

 辺名地の集落は台地上にありますが、昭和22年海岸沿いの大浜は辺名地から分区しています。正月の豊漁祈願や祭祀は辺名地と一緒に行います。

 『琉球国由来記』(1713年)では、辺名知(地)村の祭祀は瀬底ノロの管轄で、由来記に「根神火神」とあり、根神が祭祀の要になっていたようです。

  仲村家の辞令書など
  石垣のある旧家
  辺名地の公民館/根神屋
  神ハサギ/神社/拝所など
  ウタキ(昭和6年建立の鳥居)/ウタキのイベ(香炉)
  辺名地の集落(昭和19年の宿営配置)
  「奉寄進 本部按司内松田仁屋 咸豊九年」の香炉のある墓
  ウティラグンジン/崖中腹の墓

 咸豊9年(1859)は向氏本部按司朝章が順聖院様が薨逝されたので特使として薩州に派遣されています。その時の寄進とみられ、松田仁屋と渡久地仁屋は按司家に奉公していた辺名地村と並里村出身の屋嘉(ヤカー)とみられます。

 神アサギの屋根裏に桶があり、祭祀の時にお神酒をつくる容器です。内にはタモト木があります。

 辺名地の公民館あたりの集落は昭和19年「独立重砲兵第百大隊」(平山隊)の「宿営」となっています。いくらか確認できるでしょうか。 

 
本部町辺名地の神アサギ           
   ▲仲村家所蔵の「くしかわのろくもひ」の辞令


2022年5月7日(

 本部町の「ムラ・シマ講座」(本部町立博物館主催)を開催の予定。詳細の打合せは24日。神アサギのあるムラ・シマの確認から。神アサギのある字(ムラ・シマ)が17件、神アサギのない字が12である。それが本部町の特徴であるかもしれない。本部町でシニグが行われている字があり、神アサギのある字と一体となっているか調査をしてみたい。

【神アサギのある字】×はなし、▲は?
 ①具志堅 ②嘉津宇 ③北里× ④謝花 ⑤古島× ⑥新里× ⑦備瀬 ⑧石川× ⑨豊原×
 ⑩山川× ⑪浦崎 ⑫浜元 ⑭野原× ⑮大堂× ⑯山里▲ ⑰伊野波 ⑱並里 ⑲大嘉陽×
 ⑳伊豆味 ㉑東▲ ㉒渡久地 ㉓谷茶× ㉔辺名地 ㉕大浜 ㉖健堅 ㉗瀬底 ㉘石嘉波
 ㉙崎本部(二軒) 

【シニグを行っている字】
  具志堅 備瀬 謝花? 浜元 渡久地 伊野波 満名 辺名地 瀬底 石嘉波 堅健 崎本部

 明日は本部町の各字を回ってみるか。神アサギのない字が12もあり、公民館の確認が必要。


2022年5月6日(

 昨日は小雨で過去の記録を取り出してみる。やんばるの自然遺産の底流にある歴史・文化についての講演・講座のデジメの一部である。首里王府が奄美まで統治の手段としたのがノロ制度である。古琉球時代は奄美まで視野に入れて見る必要があり、1609年以前の琉球の制度や文化の名残を確認中。「恵良部あふりやえ」「恵良部さすかさ」「古琉球の辞令書」「おもろ」など、琉球側から視点で歴史を読み取っていく。





2022年5月5日(

 嘉味田家の墓調査を行ったころがある(平成12年11月12日)。墓地は那覇市大名墓地に(大名馬場付近)にある。墓の概況は典型的な亀甲墓(昭和41年頃、大道から現在地大名に移葬される)。墓内は棚が三段となっていて、イケは設けられていない。墓堂は一部横堀りしてあるが、墓石で堂内を石で巻いてある。シルヒラシ所は比較的狭く、火葬になったため必要としなくなったためであろうか。詳細は「嘉味田家の墓調査」参照。

 二世向恭安(越来按司)(萬暦十一年没)に副葬品として銅製の丸銅鏡二枚(中国製?直径8.1㎝)、ハサミ(種子鋏)、和鋏、銅製のキセル、毛抜き?、木製の櫛片がはいていた。

 三世向成名(喜屋武按司)(順治十年没)の石棺に副葬品として手鏡(直径12㎝、把手9㎝)と磁器・銅製のキセル・円形の金具(鋏の一部か)がはいていた。

 嘉味田家墓調査で、祭応瑞(大田親雲上)風水見(地理師)の存在が気がかりであった。その頃の墓移葬や改修、系図座への家譜の申請と関わっていると見ている。今帰仁間切の大北墓(按司墓)の城麓のウツリタマイから運天へ移葬も関わっているかは(まだ未確認)。

2015年6月2日(火)メモ

 我が家(実家::寡黙庵)にシーサーを置いた。設置していると魔よけか、火事よけか、災難よけかなど、いろいろ質問が飛んでくる。設置した本人は、上のような意味での設置ではなかった。そう聞かれても上記のような答えはもっていない。

 ここ10年近く頭にあったのは祭応瑞(大田親雲上)なる人物である。10年前に嘉味田家(向氏家譜)の墓を調査したことがある。向氏家譜に同家の東風平間切富盛にあった墓の風水をみた(1687年)人物が祭応瑞(唐栄地理官:風水見)である。同家譜の「墓誌」によると、東風平間切富盛にあった同家の墓は唐栄地理師阮超陞の風水の見立てで「安里村の東大堂松尾」へ乾隆辛未(1751年)秋に工事をはじめ翌年三月吉日に移葬したようである。それと東風平間切富盛の大石獅子を造らせた(1689年)のも彼である。

 蔡応瑞は伊平屋諸島の風水見(1685年)、1688年の伊是名玉陵の改修、修復、1686年に護佐丸の墓の見聞などをしている。最近伊是名島の伊是名玉陵や内間御殿、東風平間切(現八重瀬町)の大石獅子などのことがあったので、シーサーを設置したのであろう。そのようなことが脳裏にあり、1700年前後の墓の改修や移動は風水師蔡応瑞の影響が大きかったのではないか。

1685年 蔡応瑞が王命により伊平屋諸島の風水を見聞する。
1686年 蔡応瑞が護佐丸の墓の風水を見聞する。
1687年 伊是名玉陵が改修される。
1688年 伊是名玉陵が修復される。風水にかなった景観であると判断された。
1688年 喜屋武按司向殿柱が東風平間切富盛に風水にかなった墓地をみつける。
1689年 蔡応瑞が風水判断で東風平間切富盛に石造獅子を建て、火災を防がせる。
1689年 内間東殿が瓦葺きになる。
1689年 蔡応瑞が風水判断で東風平富盛に石造獅子を建て、火災を防がせる。
1751年 地理師阮超陛の風水判断で7世喜屋武按司向棟、東風平間切富盛の墓地を安里に移動する。

嘉味田家の墓調査報告
参照

 シーサーを画家氏から買い求めたのは、嘉味田家の墓の移葬と旧東風平町富盛の大獅子の設置の風水見を見立てたのが蔡応瑞である。そのことをまとめていた直後、「寡黙庵」にシ-サーを置いた。シーサーを見るたびに、18世紀に建立や墓の改修などの碑文のことが思いされる。

  


2022年5月4日(

 「寡黙庵」に往き、植えた草花に水かけをし、山に目をむけボーとする時間が多い。小・中の頃は、上を向いて小鳥を目で追いかけていた。上をずっと見ていると、父から「体を動かせ!」と激怒の声がよくかかった。復帰50年やメーデー、憲法記念日がやってくると、その頃の記憶がよみがえる。

  

 故父が畑地や山の様子を見に行く。そのほとんどを貸してある。寡黙庵の屋敷と近くの放置してあった畑地に草花を植え健康のためと草刈り機を動かしている。「何を植えているのですか?」と聞かれる。恥ずかしくて「雑草を刈り取っています」と。父の時代は畑地に草一本、はやさない時代である。草花を植えていますとは言えない世代である。私にもその精神は受け継がれているような。

  
   ▲放置してあった畑地を草花を植えて三年              ▲山の右手に山を持つ

 歴史を見ていく場合、農耕暦と旧暦で行われる祭祀は体感として持っておく必要があると考えている。そうではないが、村々の祭祀調査をしてきた。それが、年中祭祀は今の公休日(首里王府が認めた休息日・神遊び)、それと祭祀を執り行うノロをはじめ神人は王府が認めた公務員だと主張してきた。神人の祈りは、首里王府に納める米・麦などの作物の豊作、人々の健康を繁栄である。そこから気づかされた祭祀のシニグである。シニグの祭祀の本質は「凌ぐ」(シ二グ)、浄めるに通じる。足が地についた議論をしたいというのは、そこにある。ただ、IT時代は「ニライ・カナイの神や国」に願いや夢をもとめざる時代になっているような気がする。

 先日、明治34年の「兼次の苧麻」について聞き取りを行った。その時は、「苧麻の糸はテグスにしたよ、丈夫だったよ」と、二度目の聞き取りで、「・・・屋―のだれそれがやっていたでしょう」、ヤギが美味そうにに食べるマーウーベーとは違うはずなどと。

兼次の苧麻(明治34年6月27日)琉球新報 県史16

 今帰仁間切の特有産物は苧麻にして苧麻は親泊今帰仁の二村を第一とし兼次、之につき志慶真、之に次ぐその作付反別は七反余歩一ケ年収穫高二千斤に及ぶという、今調査の要領をあげれば左の如し。

・苧麻の由来
 之が由来は未だ明ならざるも北谷間切は当地より伝え当地は本部間切満名村カーマタ桃原より伝来せりといえりと今を去る凡そ七、八十年前には盛に栽培せしものの如きも爾来価格の下落につれ漸次衰え近年に至りては漸く盛に趣くに至り従って栽培製造の上にも改良を加えつつあるものの如し

・種 類
 種類は白苧と赤苧との二ありて白苧□□□ろしくその質亦宜しと唱うれども二者の区別は容易に判明せず白苧と称するものも之を移して土質悪く栽培その当を得されば直に悪化すという依て当地に於ては明にこの二種の区別をなす能はずと。

・土 質
 土質は粘質に過ぎず砂礫余り多からざる壌土(俗に真土)を最適とす。砂地は色沢よろしきも収穫少く粘質地は成長悪く収穫品質ともに劣等なり湿気に過くれば根の蔓延を妨げ色を悪くし乾燥に過ぐれば生育よろしからず依てその中庸を得たるを最もよしとすと雖も壌土及び砂地なれば降雨や灌水の稍多をよしとするものの如く最も忌むは風なりを以って敷地は成るべく東南向にして四囲墻壁を以って囲める砂質壌土を以って第一等となす。

・挿秧
 ・挿秧は四時其忌むにあらざるも最適は七月とすこれ七月に植えしものはその翌春旧茎を刈り捨て施肥をなすときはその年第一期とり殆ど普通圃と仝様の収穫あるも七月後に植えしものはその翌年迄の収穫宜しからず、又七月前に植えものと雖もその翌年を待たされば収穫する能はざるを以ってそのまえに植えるの必要なし。

 苗は旧圃又は普通圃より根茎ともに鍬にて切り取これを整地せる圃に畦巾株間共に七八寸より一尺二寸を隔てて五寸位の深さに茎三四本づつを植え後時々除草中耕をなすべし。茎は梢々密接するをよしとす薄ければ分蘗大なるも収穫少なければなり。而して之を密接せしめんとせば一度の収穫を捨て一回の施肥を見合すべし。

・肥 料
 堆肥を最もよしとす。其の量は可成多きをよし通常二坪に一荷乃ち一反歩百五十荷の割合なり。時期は収穫後三日以内にして可成丈即時をよしとす。施したる肥料は可成薄く土にて被ふよしとするも二年以内の圃は然せさるも余りの不結果を見ず。

・収 穫
 収穫の時期は其の茎の三分の一褐色を帯びるに至るを最適期とす。之より過ぎるときは短時日の間にも繊維硬化し品質甚だ劣等となるべし。今一年中の収穫期をあげれば左の如し。

 第一期 三月  第二期 五月 第三期 七月 
 第四期 十月  第五期 一月
  但し五期は刈捨とて収穫の中に算せさることあり。之収穫至て少なく品質極めて劣等なればならい。

 本作物の収穫は時期により各期間の日数は異なるも仝期間の日数は毎年殆ど仝じ。依て其の日数を各期に別ちあぐれば次の如し。

 第一期 日数六十日(日を延さす)
 第二期 仝 六十日(日を延さす)
 第三期 仝 六十日(少し日を延すも可なり)
 第四期 仝 九十日(成長を見計りてなす)
 第五期 第四期収穫後より春分迄)
 収穫高を普通作につき各期に分けて左の如し。

第一期 五坪より一斤(品質上等)
 第二期 五坪より一斤(品質□等)
 第三期 十坪より一斤(品質中等)
 第四期 廿坪より一斤(品質上等)
 第五期 収穫極めて少なく(品質劣悪なり)

 右は普通作にして上作に至れは第一第二期は四坪より一斤取れるもとあり。その高さは普通五六尺にして稀に七尺以上に達するものあり。

・製 造
 製造は茎を刈り葉を去りたる為に手数を要すものにしてその順序は初に皮を脱き(一旦
 水に浸すもよし)丈管を以ってすること芭蕉苧の製造に殆ど同一なり。然し製造は尤も
 熟練を要すことにして老練家は一人一日六斤を製するもあるも未熟練のものは一斤も尚
 困難するあり。製造したるもの派」必ず水にて洗う之汚物を去るの法にしてその水は清水
 をよしとす。

・製 造
 製造あいたるものは日光に干すをよしとす。之乾燥を計るのみならず。光沢を出すに便
 なり。昔は陰干せしという。これ光沢なき色青味を帯びその当時の人の賞美せしを以っ
 てなり。

・病虫害
 本作物は性質甚だ強健にして未だ病害を受けしことなく、また虫が害にかかりしこと
 なきも湿地に植えるときは殆ど病状を来し根の枯朽甚だしく又衰弱すること早し。

・福 産
 苧麻はその繊維を産するのみならず収穫のときの葉茎の廃物は凡て直に肥料としてよろ
 しく堆積肥中に混ぜて良好の肥料となるみのなり。


・附 言
 苧麻は温帯の産尤もよろしく本県の如きその最適地なり故に目下その産地なる
 今帰仁の収穫地に比せば二倍以上の収あり。一回収穫の北陸地方に比せば殆ど三倍
 の収穫なり。本県に於いて考うるも之を昨年の価格壱円五十銭と計算せば正に一坪
 七十五銭の収穫あり。本年の価格壱円と見積もるも五十銭を下らざるなり。これに
 よりて之を見るときは本県農作物中面積に対し最も収穫高の多き作物たること明な
 り故にこれに適当なる土地は漸次拡張するをよしとす。特に本県の如き面積に比し
 人口の多きところに於いては百年の後に必ず斯る園芸的農業に傾かさるべからざれ
 ばなり。然りと雖もその需用に至りては未だ十分ならざるを以って之が拡張を計る
 も亦と必要なる事なり、而して之が拡張には或いは内地に輸出の道を開くが如く種
 々の方法あるべしと雖も漸次産額の多に至らは苧麻紡績会社及上布製造会社の如き
 ものを組織し一方には苧麻の需用の拡むると共に一方には本県上布の改良発達を計
 る又必要の事にあらずや。


2022年5月3日()

 ここで奄美の古琉球の辞令書を引っ張り出したのは、辞令書の琉球の、奄美のムラ(マク・まきよ)の形があるのではないか。・・・村と記されないマクやマキヨの形があるのではないか。それとおんな(うんな)の語義を紐解く鍵がそこにあるのではないか。おもろに「おんな」が登場している。1500年代にすでに「うんな」がでてくる。集落を徒歩であるいていると、グスク時代まで行かないが「おんな」と出てくる1500年代には「大きな地、りっぱな地」となり、二つのマクが統合し大きなマクとなり、それがウンナとなり、1673年の恩納間切の創設で恩納に番所が置かれる。・・・。さらに、結びついたのは恩納ぬらの神アサギ(村の大きさを神アサギの大きさで誇るウタがある)、徳之島の伊仙町(恩納(ウンナ)→面縄→伊仙町など。

二枚の辞令書(国頭村安田) 2002.8.18(日)

 国頭村安田にあった二枚の辞令書は以前から気になっている。2001年と2002年と安田のシニグとシニググヮーの調査をしたこともあり、祭祀と国(琉球国)について述べる。そのため、この二枚の辞令書を使って首里王府と国頭間切、そしてムラとについての支配関係をできるだけ明確にしておきたいと思う。国都首里から遠く離れた国頭間切の一つのムラをどのように支配していたのか。

 ムラを支配するため、末端まで支配権力を徹底させるためにどのような方法をとっていたのか。さらに祭祀を政治にうまく取り込んでいる姿が見え隠れしている。祭祀を祈りや神が何かという議論も大事であるが、支配する、支配される関係。言葉を変えれば税をとる側と採られる側という視点で、祭祀を捉えてみようと考えている。

 三山が統一された後、また第二尚氏王統になってからの辞令書であるが、ここに掲げ国の地域支配について考えてみたいと思う。難解な文面なのですぐにとはいかないがゆっくり考えてみる。とりあえず、二つの辞令書を前文掲載しておこう。『沖縄県国頭郡志』(大正8年)に掲載されたものを『辞令書等古文書調査報告書』(沖縄県教育委員会)(昭和53年度)に形を整えて掲げられている(「沖縄諸島逸在辞令書」)ので、それをここで利用する。二枚とも古琉球の辞令書である。

〔国頭間切の安田里主所安堵辞令書〕(1587年)
  しよりの御み事
    くにかみまきりの
    あたのさとぬし〔ところ〕
    この内に四十八つか〔た〕は
    みかないのくち
  御ゆるしめされ候
    一人あたの大や〔こ〕に
    たまわり申〔候〕
  しよりよりあたの大や〔こ〕か方へまいる
  万暦十五年二月十二日

〔国頭間切の安田よんたものさ掟知行安堵辞令書〕(1587年)
   しよりの御み事
     くにかみまきりの
     あたのしろいまち
     この内に十四つか〔た〕は
     みかないのくち
    御ゆるしめされ候
      〔脱けた部分あり〕
    このふんのおやみかない〔ハ〕
      〔脱けた部分あり〕
    のろさとぬしおきてかないとも〔ニ〕
    御ゆるしめされ候
    此ちもどは三かりやたにて候へども
    万暦十四年に二かりやたなり申〔候〕
    □□□にいろいろのみかないの三分一は
    おゆるしめされ候
    一人よんたもさおきてに
    たまわり申〔候〕
   しよりよりよんたもさおきての方へまいる
   万暦十五年二月十二日

 安田のシニグ、シニググヮー(ウンガミ)で国と間切、そしてムラについて紐解くのでここに掲載のみ。

・琉球(首里)からの奄美へのノロ辞令書

 「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書」がある。萬暦28年の発給で徳之島は首里王府の統治下にあったことを示す史料である。奄美にはこの辞令書だけでなく瀬戸内西間切、喜界島の志戸桶間切など20数点が確認されている。いずれも1609年以前の古琉球の時代に首里王府から発給された辞令書である(1529~1609年)。確認されている最後の辞令書は「名瀬間切の西の里主職補任辞令書」(萬暦37年2月11日)である。それは島津軍が攻め入った一ヶ月前の発給である。

 辞令書はノロだけでなく、大屋子・目差・掟など、首里王府の任命の役人などが知れる。首里王府の16世紀の奄美は辞令(首里王府:ノロや役人の任命)を介して統治している。そしてまきり(間切)の行政区分がなされ、役人やノロに任命されると知行が給与される。役人は租税(貢:みかない)を集め首里王府に納める役目であったと見られる。

20111031日(月)調査メモ

 2011年10月27日から徳之島。徳之島町の資料館へ。そこには「手々ノロの辞令書」と漆の櫃が展示(徳之島町指定)されている。琉球のノロ関係資料を見るには、奄美のノロ辞令書も視野に入れる必要があるからである。それと手々ノロを出した手々までいく。手々ノロの遺品は徳之島の亀津の資料館(徳之島生涯学習センター内)に置かれている。今回はノロ辞令書を目にするだけで十分。

 手々村は徳之島の北端に位置し、辞令書が発給された頃(万暦28年:1600)「とくのにしめまきり」(徳之西銘間切)の内である。近世の手々村は岡前噯(現天城町内)で、手々が現在の天城町域、あるいは徳之島町内になったり、間切(方切)の変更があり、深見家文書の辞令書の外にノロに関わる近世資料からノロの祭祀や継承についてみていく必要がある。

 首里王府と徳之島手々村との交流(首里王府の奄美の統治)。1500年代首里王府は辞令書を発給し、奄美の島々(徳之島)をどう統治していたのか。薩摩の琉球侵攻以後、与論島以北が薩摩化されていくが、このノロ制度、ノロ家の遺品が今に伝えられ遺されている。琉球的な多くのものが消されていく過程で、このノロ制度が生かされてきたのは?(明治以降の琉球・沖縄におけるノロ制度の廃止に向けての流れと道は一つのような・・・) 

・徳之西銘間切の手々のろ職補任辞令書(万暦281600年)(徳之島)

 
 しよりの御ミ事
     とくのにしめまきりの
     てゝのろハ
       もとののろのくわ
   
一人まなへたるに
    たまわり申し候
  しよりよりまなへたるか方へまいる
  万暦二十八年正月廿四日

 
  「徳の西銘間切手々のろ職補任辞令書(1600年)(徳之島町立郷土資料舘)

 
  掟大八の屋敷の説明板         掟大八の力石(徳之島町手々)

・琉球の痕跡としての地名や役職や入墨や墓など

 徳之島の村名をみると沖縄本島と共通する村名(地名)がいくつもある。その共通性は何だろうか?マギリ(間切)やグスク(城)やアジ(按司)やノロは琉球側から入り込んだ語彙なのか?地名などの語彙の共通性をどう理解すればいいのか。いくつも仮説が立てることができそうである。

 伊仙町に面縄がある。面縄にあるウンノーグスクに恩納城が充てられている。沖縄本島の恩納村の恩納と同義だろうか。恩納村の恩納(ウンナー)は「大きな広場」と解しているが、ウンノーは「大きなイノー」のことか。あるいはノーとナーは地域空間をあらわす義でウンノーもオンナも「大きな広場」なのだろうか。

地 名
       【徳之島】                      【沖縄本島】
   ・久志村(徳之島町)            ←→久志村(久志間切・現在名護市・クシ)
   ・母間村(徳之島町・ブマ)       ←→部間村(久志間切・現在名護市・ブマ)
    ・宮城村(徳之島町花徳・ミヤグスク) ←→宮城(ミヤグスク・ミヤギ)
    ・手々村(徳之島町手々・ティティ)   ←→手々(今帰仁村湧川・テテ)
    ・兼久村(天城町・カネク)       ←→兼久村(名護市・カネク)
   ・平土野(天城町・ヘトノ)        ←→辺土名(国頭村・ヘントナ)?
   ・瀬滝村(天城町・セタキ)       ←→瀬嵩(名護市:セタケ)
   ・与名間村(天城町・ユナマ)     ←→与那嶺(今帰仁村・ユナミ)?
   ・面縄村(伊仙町・ウンノー・恩納)  ←→恩納(恩納村・ウンナ)?
   ・糸木名村(伊仙町・イチキナ)    ←→イ(ヒ)チョシナ(今帰仁村兼次・平敷)
   ・大城跡(天城町松原・ウフグスク)   ←→大城(ウフグスク)
   ・喜念(伊仙町・キネン)         ←→知念(現在南城市・チネン)? 
   ・グスク                  ←→グスク
   ・間切(まきり)              ←→間切(マギリ)
   ・八重竿村(伊仙町・竿・ソー)     ←→川竿・長竿(今帰仁村湧川・・・ソー)
   ・掟袋・里袋(・・・ブク)          ←→田袋(ターブク)
   ・河地(カワチ)              ←→幸地
   ・按司(アジ)                ←→按司(アジ) 
   ・玉城(タマグスク)           ←→玉城(タマグスク・タモーシ)

2022年5月2日(月

 恩納村瀬良垣と恩納を往く。「恩納村史編さん室作成」のわかりやすい資料参照(感謝!)。野外では二本の眼鏡でも、文字や図が読めないので頭にあるのをしゃべるのみ。村史作成の資料で自分のものにしてください。(参加者は村史の職員と村史専門委員の方々)お疲れ様でした。

恩納村瀬良垣

 瀬良垣に赤瓦ふきの神アサギあり。隣に根神や―の拝所、さらに鳥居をつくり、神社化した神ヤーあり。神アサギの棟木に建て替え時の年号を記した「柴微鸞駕」があり。瀬良垣に古島の地名(基地内)があり、移動集落と見られる。古島川の碑が公民館の側の物置きにあり、古島川に建てたのを運んできたものであろう。公民館の側を流れる沢をたどるとワータンジャー(渡川)があり、その沢に渡り場があったことがわかる。
 これまで呼ばれていた公民館は「瀬良垣区交流施設」とあり、国の補助金での建設でるが、どの予算で建設したのか、その記録が必要であろう。

 瀬良垣は「移動集落」(移動村ではなく)である。瀬良垣区交流施設の側から集落内を通る道筋は、福木が道路沿いにあり、かつての「宿道」(すくみち)と見られる(いくぶんずれているようだが)。交流施設の向こう側に杜があり、ウガンと呼ばれている。その杜の一部にイベがある。そこに三基の香炉があり、「當山にや」?とあり、寄進されたものであろう。瀬良垣はノロはでないが根神はいるようだ。恩納ノロ管轄の村である。

  

恩納村恩納

 恩納は1673年に金武間切と読谷山間切から村の一部を分割して創設した間切で、恩納間切番所が恩納村に置かれ、恩納間切の行政の中心となった村である。恩納間切に恩納掟と久留原掟が置かれ、恩納村は規模の大きかった村だと言えます。恩納の神アサギは他の村のアサギより規模が大きく、それだけ上納を集積する大きな神アサギが必要とした見られる。現在の恩納集落は二つの集団(マク・マキヨ)から成り立ったものと見られる。1609年には二つのマクが一つになった見られる。「おもろ」で「おんなより上のおもろ」と謡われているので、1609年以前の古琉球の頃には「おんな」となり、さらに慶長検地で「金武間切恩納村」となり、1673年に恩納間切恩納村となり、恩納間切番所が置かれる。集落内を踏査していると、二つの集団の統合、あるいは古琉球からの道筋が遺っている。

 恩納(おんな・うんな)は、二つの集団の合併から来た地名(大きな地:大きなムラ・りっぱな地)か。それから現在の恩納集落はカンジャガーと番所跡後方のカマラガ―中心とした集団が近世の恩納村を形成したとみられる。メンダカリとクシンダカリの集落区分がなされていたのは、二つのマク(マキヨ)の名残りかもしれない。

  
▲恩納ノロ殿内跡        ▲ノロ殿内の一角に拝所があったが番所跡へ移動

   
▲恩納の神アサギ      ▲カマラガー       ▲ハンジャガー


▲赤平の杜に拝所

2022年5月1日(

 五月となりました。早々、恩納村の瀬良垣と恩納へ。昨日、何を話題にしようかと、引き出しから取り出してみたが、5月のページを新しく開いると、頭の中が空っぽ。急遽、昨日のページをアップして備えます。

 草花と寡黙に一方的につき合う。さて、出発時間だ・・・

  
▲日々草                ▲テッポウユリ            ▲大倫のハイピスカス
   
▲バナナの収穫    ▲未収穫のバナナ        ▲手入れせずに実るバナナ


 恩納村恩納での「ムラ・シマ講座」を行ったのは平成23年10月に行っている。明日(5月1日)に恩納村恩納と瀬良垣を往くので、少し頭の整理。どんなことを話題にしたかの確認。(明日の準備でもするか)明日の参加者は「恩納村史」の職員と委員の方々:数人、勉強会です)

 「ムラ・シマ講座」は恩納村恩納です。恩納間切(今の村)は1763年に金武間切の西海岸と読谷山間切の北部の村を分割して創設された間切です。北部(北山)と中部(中山)の村を統合した恩納間切、そして創設された間切の番所は恩納村に置かれます。

 また、ペリー一行が恩納間切の番所を訪れスケッチをしています。当時の恩納間切番所の様子が伺えます。また、以下の場所に立ち止り、恩納間切の中心となった恩納村(ムラ)で歴史・文化に触れることにします。恩納間切の恩納村(ムラ)、そこでどんな歴史が展開されたのか。恩納(ウンナ)の意味は?

 ・恩納村の位置図

 ・恩納村のムラ・シマ(金武間切から)

 ・恩納村のムラ・シマ(読谷山間切から)

 ・海からみた恩納のムラ・シマ

 ・恩納村恩納(同村)

 ・恩納の集落移動

 ・金武間切の頃の恩納のろ

 ・現集落と二人の掟

 ・神アサギと殿(トゥン)を持つ地域

 ・恩納ムラ内の旧宿道と新宿道

 ・徐葆光と王文治の扁額

 ・尚敬王・蔡温の北山巡行

 ・恩納ナビーの琉歌(恩納岳) (恩納ナビ―の歌碑移転)

 ・ペリー一行が遺した恩納間切番所(公舘)

 ・昭和9年の恩納での献穀田御田植式

 ・恩納間切番所付近の様子

 ・恩納ノロドゥンチ (移転している)

 ・恩納の神アサギ(茅葺き)

 ・カンジャガー

 ・恩納ナビーの歌碑(昭和4年建立)
  
▲瀬良垣の津(港)          ▲瀬良垣の神アサギとカミヤー   ▲恩納村恩納の神アサギ