本部町具志堅の上間家と諸志の赤墓
沖縄の地域調査研究(もくじ)
【本部村具志堅の上間家】
口碑文に寄れば、昔尚円王未だ位に登らざる時、伊平屋島首見村(今の伊是名島の東北諸見)にあり、年二十にして父母を失い、自ら一家を維持して家族を扶養せしが、ある年大旱のため凶歉あり、水田皆涸るるに独り金丸の田のみ水満々たりしかば愚民これ夜中他人の田より水を盗み入るゝならんとの邪念を起こし、遂にこれを迫害して産を奪うに至れり。金丸身の危きを知り一家何方へか隠遁せんとす時に我祖由緒あり。若し海中万一の事あらんか。祖先の祀を絶つやも計り難し、さればニ舟に分かれて渡海し、以って身の安全を期すべしと、即ち夜陰に乗じて各々東西に棹せり。而して金丸の舟は国頭間切宜名真海岸に到着し、弟上間子の舟は今帰仁間切上間村に(今の本部町具志堅)着せり。是よりその浜を「つく方浜」と称すべしが、今は反対に「出で方浜」と呼ぶに至れり。之より上間子は此地に住居して農業に従事しつつ祖国を遥拝しいたりという。同家所蔵の由来記左の如し(孟氏家譜に拠る)(沖縄県国頭郡志)
上間家の「先祖之由来遺書」と関わる場所を訪ねてみた。これまで何回か紹介してきたが、まとめておく必要あり。
▲上間家の離れの拝所の内部 ▲「元祖上間大親亨翁」とある位牌
▲上間家の位牌(明治以降) ▲拝領墓の上間家の墓(赤墓)
本部町具志堅の上間家の「先祖之由来遺書」(大清道光癸未八月吉日)(上間筑登上)である。真境名安興氏が大正6年に「沖縄毎日新聞」で「尚円と上間大親」として、以下の文書を紹介されている(真境名安興全集第三巻に所収)。下の上間上文書では「大親嫡流西平家系図」では一世から七世まで略されている。真境名安興氏の紹介文では一世から八世まで掲載されている。上間家文書の系統図は具志堅村八世西平親方から以降の人物が記されている。
今帰仁の赤墓は光緒元年十一月八日に開け、見分したことが書き記してある。上間家の文書、真境名安興氏の紹介文、そして上間家にある位牌と照らし合わせてみることに。
大清道光癸未八月吉日
先祖之由来遺書
上間筑登之
先祖上間大親亨翁者、本(元)伊平屋島葉壁首見と申所の人に而候処
壮年の頃今帰仁ニ遷居、老を楽しみ被罷在候砌
尚真様此方御巡見船より
今帰仁江被遊行幸成時 湊口近付候而大風吹出
兎も角も被為成様無御座至而被及危難候処上間大親嫡男次男
召烈小舟に乗り、於狂波之中身命を不顧段々相働終に御舟を湊内に
引入破損之危を奉救候に付
尚真様御歓不斜則
御前江被為召候 右上間は
尚円様御直弟にて
君上とは骨肉之分於間柄者御叔父に相当り依之家譜之本来委曲
上聞候処 骨肉之親 就中被忠情為御褒美今帰仁間切惣地頭職
被仰付候得共性質順厚之人に而身を卑く下りて惣地頭職を御断
今具志堅村と申す所 並比与喜屋之地所を被下度奉願候処仰付候
左候而嫡男次男者御召列首里江罷登□又難有御近習職等仰候付
夫与首里江居住いたし候次男中城親雲上者今牧志筑親雲上先祖三男
上間子ハ本部間切具志堅村江致居住居候今にして其家跡を見候得者
右之頂戴仕候 地方ハ葉壁山ニ向候二付而者いか様本居る所を難
忘常に對見する之志にて候□又□ 先祖伝来之墓者親泊有之赤
墓と名ヶ申候是者拝領之墓二而今以後裔ニ伝へ候依て相考候得者
亨翁忠孝之情一端々験者や
月 日
上間家所蔵の由来記(孟氏家譜に拠る) 『国頭郡志』所収されている(376頁)
「本部村字具志堅屋号上間口碑に依れば昔尚円未だ位に登らざる時伊平屋島首見村(今の
伊是名島の東北字諸見)にあり年二十にして父母を失い自ら一家を維持して家族を扶養せしが
或年大旱魃の為め凶歉あり、水田皆涸るゝ
光緒元年丙子十一月八日赤御墓御開御見分ニ付御六男西平里之子親雲上御女性衆御弐人〆御三人
被成御下彼ノ御墓開御見分仕候処□ぎやを御弐□具上ニ板弐枚内壱枚ハ字面相見得不申
壱枚ハ字面相見得候処板痛ミ相付字面不正字面相見得候分左之通書積置申候
奉
推正
七
五撰
浩 □
西平親
今帰仁親
付奉行
高ハ九寸禮口差渡し三寸程
廻弐尺二寸三寸計
御□美きやを
高□三寸程口差渡し
三寸五分計
廻弐尺計
字面御書之□美きやをし上ニ□□□面へニ而おしまへ座申候
板一枚長差□□ヒ六寸巾三寸
字面なし右同
板一枚長七寸也三寸巾右同
御墓門長弐間御門与後迄三間
右同時御見分ニ付寸法付仕置申候□美
きやを之儀之儀を唐調等ニ而御□候父三良上間
七十四歳男子牛上間にや三十八歳ニ而御開
仕置申候
大親嫡流西平家系図
尚真様叔父に当り、父上間大親亨翁宗親
一世 大里親方宗森
二世 今帰仁親方宗?
三世 本部親雲上宗則
隆慶二年戊辰二月二十三日奉進貢使命到?赴京辞朝回?到建寧府崇安県
不孝而罹病卒亨年四十 号覚宝
四世 今帰仁親方宗春
嘉靖二十八年己酉生、万暦三十八庚戌八月九日卒寿六十二 号梅江
五世 今帰仁親方宗能
万暦八年庚辰正月二十日生、順治十二年丙申三月二十六日 卒寿七十七 号有燐
六世 佐辺親雲上
万暦四十四年丙辰三月十日、順治十二年乙未十一月六日 卒享年四十 号浩然梅渓
七世 佐辺親方宗茂
崇禎十六年癸未四月十日生、康煕三十八年己卯八月二日卒 亨年五十五 号浩然
八世 西平親方康沢
康煕八年巳酉九月十日生、乾隆十年乙丑十二月二日卒寿七十七 号興道
一、乾隆五十五年庚戌六月六日死去父親
一、同五十九年甲寅正月廿一日死去母親
一、道光二十五年已已十月十八日 金城筑登上 妻
一、咸豊五年巳卯十二月七日金城筑登上
一、道光十八年亥十二月十日 同上間女子
奈へ
一、同二十一年寅五月廿日 同人
妻
一、同二十八年戌申五月十九日満名親雲上
一、咸豊十二年酉三月廿一日 満名親雲上二男
三良上間にや
但明治廿年乙寅十二月廿八日 右三良上間にや嫡子まつ上間宅御移置申候
一、同治二年 癸亥正月廿五日加那上間 三良上間嫡子
一、光緒三年丁丑十二月廿五日 三良上間 加那上間父
一、明治三十八年乙巳三月五日 上間権兵衛
七男 勘次郎ハ清国盛京省奉天者興隆田北方高地に於テ戦死陸軍歩兵上等兵
一 同五十九年甲寅正月廿一日死去母親
一 道光二十五年巳巳十月十八日金城筑登之妻
一 咸豊五年巳卯十二月七日金城筑登之
一 道光十八年亥十二月十日三良上間女子なへ
一 同二十一年寅五月廿日 同人 妻
一 同二十八年戌申五月十九日満名親雲上
一 咸豊十二年丙三月廿一日三人上間にや 満名親雲上二男
但 明治廿年乙亥十二月廿八日右三良上間にや嫡子まつ上間宅へ
御移置申候
上間嫡子
一 同治二年癸亥正月廿五日加那上間
加那上間父
一 光緒三年丁丑十二月廿五日三良上間
一 明治三十八年乙
□三月五日上間権兵衛
七男勘次郎ハ清国盛京省□天省
興隆□北方高地に於テ戦死陸軍
歩兵上等兵
今以後裔に伝へ候 依而相考得者
亨翁忠孝之情 一端于今験者也
【上間家にあった辞令書】(写)メモ
この辞令書は戦前具志堅の上間家にあったものを宮城真治がノートに写しとったものである(ノートは名護市史所蔵)。「具志堅上間家の古文書」とある。名護市史の崎原さんに捜してもらい、ファックスで送ってもらった資料である。感謝。
この辞令書は嘉靖42年7月(1563)発給で、古琉球の時代のものである。首里王府から「あかるいのおきて」(東掟)に発給された辞令書である。現在の具志堅が今帰仁間切内(1665年以前)のムラであった時代である。
現在の具志堅の小字(原名)と辞令書に出てくる原名を比較してみた。三つの原名は想定できそうだ。但、近世でも原域の組み換えがなされているの、確定はなかなか困難である。小地名まで合わせみると、いくつか合致するでしょう。
・たけのみはる→嵩原?
・まへたはる→前田原(現在ナシ)
・とみちやはる→富謝原
・きのけなはら
・あら(な?)はなはる→穴花原
・たこせなはる
・あふうちはる
・ふなさとはる
・まふはる→真部原
・あまみせはら
貢租に関わる「ミかない」いくつもあり、季節ごとに「ミかない」(租税)収めていたのかもしれない。
・なつほこりミかない
・せちミかない
・なつわかミかない
・おれつむミかない
・正月ミかない
・きみかみのおやのミかない
・けふりのミかない
のろ(ノロ)・さとぬし(里主)・おきて(掟)のみかないは免除され「あかるいのおきて」(東掟)一人に給わった内容である。
古琉球にノロ・里主・掟・東掟の役職があったことが、この「辞令書」から読取ることができる。
【辞令書の全文】(一部不明あり)
志よりの御ミ事
みやきせんまきりの
くしけんのせさかち
この内にひやうすく みかないのくち 御ゆるしめされ
五 おミかないのところ
二 かりやたに 十三まし
たけのみはる 又まへたはるともに
又 二百三十ぬきち はたけ七おほそ
とみちやはる 又きのけなはら 又あらはなはる
又 たこせなはる 又あふうちはる 又ふなさとはる
又 まふはるともニ
この分のミかない与
四かためおけの なつほこりミかない
又 くひきゆら ミしやもち
又 四かためおけの なつわかミかない
又 一かためおけの なつわミかない
又 一かためおけの おれつむミかない
又 一かためおけ 又なから正月ミかない
又 一lくひき みしやもち
又 五かためおけの きみかみのおやのミかない
又 一くひ みしやもち
又 一かためおけの けふりミかない共
この分のみかないは
上申・・・・・・
ふみそい申しち
もとは中おしちの内より
一 ミやうすくたに ニまし
まへたはる一
この分のおやみかない
又 のろさとぬし
おきてかないともニ
御ゆるしめされ候
一人あかるいのおきてに給う
志よりよりあかるいのおきての方へまいる
嘉靖四十二年七月十七日